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'''大石 大二郎'''(おおいし だいじろう、 [[1958年]][[10月20日]] - )は、[[静岡県]][[静岡市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[プロ野球監督]]、野球指導者、[[野球解説者]]、[[野球評論家]]。{{by|1987年}}から{{by|1990年}}までの[[登録名]]は'''大石 第二朗'''(読み同じ)。現役時代は「'''さわやか大ちゃん'''」として親しまれた
'''大石 大二郎'''(おおいし だいじろう、 [[1958年]][[10月20日]] - )は、[[静岡県]][[静岡市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[プロ野球監督]]、野球指導者、[[野球解説者]]、[[野球評論家]]。{{by|1987年}}から{{by|1990年}}までの[[登録名]]は'''大石 第二朗'''(読み同じ)。


現在は[[福岡ソフトバンクホークス]]のヘッドコーチを務める。
{{by|2010年}}からは[[福岡ソフトバンクホークス]]のヘッドコーチを務める。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== アマュア時代 ===
[[静岡県立静岡商業高等学校|静岡商業高校]]時代は、[[第56回全国高等学校野球選手権大会|1974年夏]]と[[第47回選抜高等学校野球大会|1975年春]]に甲子園出場。[[久保寺雄二]](のち[[福岡ソフトバンクホークス|南海]])は同級生。
[[静岡県]][[静岡市]](現在の同市[[駿河区]])で、鮮魚の小売・仕出し業を営む家庭に生まれた<ref name="asahi_19980614">朝日新聞、1998年06月14日付朝刊、静岡地方面</ref>。中学校では2学年上の兄が野球部主将を務めており、同じ部となる事を嫌がられたため当初は[[柔道|柔道部]]に入ったが、1年生の6月に野球部に移り本格的な野球を始めている<ref name="asahi_19980614" />。


高校も兄と同じ[[静岡県立静岡商業高等学校|静岡商業高校]]に進み、部員50人を超す大所帯で1年生の夏からベンチ入りして[[第56回全国高等学校野球選手権大会|1974年夏の選手権]]に出場。さらに翌年は1番打者として[[第47回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に出場し、ベスト8進出に貢献している。3年生時には同級生で後にプロとなる[[久保寺雄二]]が[[遊撃手]]を務め、自身は3番・[[三塁手]]となりチームは県予選で本命視されていた。しかし一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、チームは夏の県大会に出場できなかった<ref name="asahi_19980614" />。
高校卒業後は[[亜細亜大学]]に進学。東都大学リーグ通算91試合出場、344打数99安打、打率.288、4本塁打、25打点、44盗塁。ベストナイン2回。{{by|1979年}}春季のリーグでは17盗塁をマークし当時のリーグ新記録を樹立(1987年春季のリーグで[[野村謙二郎]]が18盗塁を記録してリーグ記録を更新する)。


高校卒業後は[[競輪選手]]になる事を考えていたが、父親の勧めで[[亜細亜大学]]に進学<ref name="base_19971201_115">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.115</ref>。{{by|1979年}}の3年次の春季リーグ戦では17[[盗塁]]をマークし、当時の[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ]]新記録を樹立した<ref>1987年の春季リーグ戦で[[野村謙二郎]]が18盗塁し、記録を更新している</ref>。大学4年間では通算91試合出場、344打数99安打、[[打率]].288、4[[本塁打]]、25[[打点]]、44盗塁を記録している。また、ベストナインには2回選出されている。大学卒業後は今度こそ競輪選手になるつもりだった<ref name="base_19880110_36">週刊ベースボール、1988年1月10日号、P.36</ref>が、[[1980年度新人選手選択会議_(日本プロ野球)|1980年のドラフト会議]]で[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]に2位で指名され、野球部監督の[[矢野祐弘]]の進めもあり近鉄に入団した。
=== 選手時代 ===
{{by|1980年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]2位で[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]に入団。1年目の{{by|1981年}}は[[代走]]や[[守備固め]]の出場が多く、77試合の出場で打数はわずか19であった。翌{{by|1982年}}に打率.274、12本塁打、47盗塁の成績で[[最優秀新人 (野球)|新人王]]を獲得。{{by|1983年}}には60盗塁で[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]のタイトルを獲得し、[[福本豊]]の連続盗塁王記録を13年で止めた。通算では盗塁王のタイトルを4度獲得。34歳で開幕迎えた{{by|1993年}}に盗塁王を獲得し、1982年の福本の[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]史上最年長記録、[[柴田勲]](1978年)と並び[[日本プロ野球]]最年長記録に並んだ。[[大阪ドーム]]元年の{{by|1997年}}限りで[[現役引退]]。


=== プロ野球選手時代 ===
身長166cmと体格には恵まれなかったが、優れた守備走塁の技術と、{{by|1984年}}には29本塁打を記録などの長打も期待できる打撃で近鉄の1番打者として長く活躍した。その活躍ぶりから、ファンからは「近鉄史上最高の1番打者」「近鉄史上最高の二塁手」と称えられている。
1年目の{{by|1981年}}は[[代走]]や[[守備固め]]の出場が多く、77試合の出場で[[打数]]はわずか19だった。同年は[[西本幸雄]]の監督最終年で、無我夢中のまま厳しい練習で鍛えられた<ref name="base_19971201_115" />。翌{{by|1982年}}は[[オープン戦]]で負傷した[[二塁手]]の[[ビクター・ハリス]]が[[外野手]]にコンバートされると、オープン戦で3割以上の高打率を記録して二塁手のレギュラーとなる<ref name="base_19971201_115" />。同年はレギュラーシーズンで打率.274、12本塁打、47盗塁の成績を残し、[[最優秀新人 (野球)|新人王]]と[[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]を獲得した。


[[1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1984年のオールスターゲーム]]第3戦でそれまで8連続奪三振を続けていた[[江川卓 (野球)|江川卓]]と対戦しセカンドゴロを打って9連続奪三振の記録を阻止した。
3年目の{{by|1983年}}は60盗塁で[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]のタイトルを獲得し、[[福本豊]]の連続盗塁王記録を13年で止めた。同年から1番・二塁手に定着し、2年連続のダイヤモンドグラブ賞に加えて[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]にも選出されている。翌{{by|1983年}}も盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞、ベストナインを2年連続で獲得し、[[パシフィックリーグ|パ・リーグ]]を代表する二塁手となっていった。[[1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1984年のオールスターゲーム]]第3戦でそれまで8連続奪三振を続けていた[[江川卓 (野球)|江川卓]]と対戦しセカンドゴロを打ち、[[江夏豊]]に並ぶ9連続奪三振の記録を阻止した。


{{by|1987年}}には3回目の盗塁王を獲得したが、この頃から右肩痛が続いた。このため{{by|1988年}}は[[10.19]]の後の11月に[[大阪厚生年金病院]]で右肩の手術を行い、12月8日には[[シェラトン都ホテル大阪|都ホテル大阪]]で[[結婚式]]を挙げている<ref name="base_19890501_53">週刊ベースボール、1989年5月1日号、P.53</ref>。{{by|1989年}}は年明けから夫人も帯同して[[ハワイ]]や[[サイパン]]で[[リハビリテーション|リハビリ]]に取り組み、その後もチームのキャンプには参加せず[[石川県]][[小松市]]の温泉で単独トレーニングを行った。同年は出場が109試合に減少したものの、打率.277などトップバッターとしてまずますの働き<ref name="base_19900226_185">週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.185</ref>でチームの優勝に貢献した。現役時代の出来事では、この優勝と前年の10.19が最も思い出に残っているという<ref name="base_19971201_116">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.116</ref>。なお、[[1989年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]初戦では、[[斎藤雅樹]]からシリーズ史上唯一の第1戦初回先頭打者ホームランを放っている。
[[1989年の日本シリーズ]]で当時の本拠地・[[藤井寺球場]]にて同年の[[沢村栄治賞|沢村賞]]投手[[斎藤雅樹]]から同シリーズ史上唯一度の第1戦初回先頭打者ホームラン(同試合は大石の亜大の後輩で同僚の[[阿波野秀幸]]が3失点完投勝利、3連勝したが4連敗)。


{{by|1990年}}には肩が完全に回復してキャンプから順調な調整を見せ、6月26日の対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦では[[伊良部秀輝]]からサヨナラ満塁ホームランを放っている<ref name="base_19971201_116" />。同年はリーグ2位となる打率.314、20本塁打という好成績を収めた。{{by|1992年}}で[[新井宏昌]]が引退すると、[[山本和範]]が加入する{{by|1996年}}までの間、チームの最年長選手となっている。35歳となる{{by|1993年}}には6年ぶりとなる盗塁王を獲得し、同タイトルの最年長記録に並んだ<ref>それまでの記録は1982年の福本豊</ref>。{{by|1994年}}頃からは準レギュラーとなり、「40歳までの現役と2000本安打の達成」を目標として掲げていた<ref name="base_19971201_114">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.114</ref>。しかし39歳となる{{by|1997年}}は、夏からは[[佐々木恭介]]に起用される機会が急減し、9月には球団からも引退を勧められる雰囲気となった<ref name="base_19971201_114" />。このような球団の姿勢をあっさり受けいれ、同年限りで現役を引退している。
=== コー・監督時代 ===
引退後は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、[[日刊スポーツ]]の野球解説者を経て、{{by|2003年}}から近鉄の守備走塁コーチ。


=== 解説者・コーチ時代 ===
{{by|2005年}}、[[オリックス・バファローズ (ファーム)|サーパス]]([[オリックス・バファローズ]]二軍)の総合チーフコーチに就任。[[加藤英司]]監督が腰痛のため休養した間には監督代行。{{by|2006年}}、サーパス監督に就任。例年下位に沈んでいたチームを上位争いに食い込ませた。{{by|2007年}}からは一軍のヘッドコーチ(2008年からは内野守備走塁コーチも兼任)に就任。{{by|2008年}}5月にはシーズン途中での[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]監督辞任により、一軍監督代行に就任した。
引退後は近鉄から二軍守備・走塁コーチへの就任を打診されたが、外から野球を見るため[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の野球解説者となった<ref name="base_19971201_117">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.117</ref>。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]や[[日刊スポーツ]]でも解説を務め、{{by|2003年}}から近鉄の守備走塁コーチに就任。キャンプではスライディング練習にビデオを導入して選手とともにプレーを確認し、個々人の塁間走タイムやセーフティーリードの幅を計測して走塁の具体的なイメージを明確にさせた<ref name="base_20030603_22">週刊ベースボール、2003年6月3日号、P.22</ref>。3月28日の[[開幕戦]]の初回から[[タフィ・ローズ]]がノーサインで[[盗塁]]を成功させるなど、同年はチームの盗塁が大きく増えている。


{{by|2005年}}に近鉄が球団統合されると、二軍の[[オリックス・バファローズ (ファーム)|サーパス]]の総合チーフコーチに就任した。さらに監督の[[加藤英司]]が腰痛のため休養すると監督代行となり、翌{{by|2006年}}にはサーパス監督に就任している。一軍監督の[[中村勝広]]とはキャンプ中から2日に1度は電話するなど密に連絡を取り合い、キャンプでは自身やスカウトも[[打撃投手]]を務めるなど精力的な指導を行った<ref name="base_20060327_88">週刊ベースボール、2006年3月27日号、P.88</ref>。球場では常に全力でプレーし、考えて練習に取り組むことを二軍の選手に求め<ref name="base_20060327_88" />、前年最下位だったチームを上位争いに食い込ませた。
そして就任後にオリックスが息を吹き返し、[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]争いに加わったことから8月2日には監督に昇格し、それと共に{{by|2009年}}も続けて指揮を執ることが発表された。これにより大石は近鉄OBとして初めてオリックス・バファローズの監督となった。そしてチームは大石が監督就任する直前の7月後半に自力1位は消滅しながらも調子を上げ、9月上旬に2位へ浮上するとそのままクライマックスシリーズ進出を決めたが、クライマックスシリーズは日本ハムに連敗して敗退した。初戦に先発が予想されていた[[小松聖]]を2戦目に先発させるなどの奇策を取ったがエラーなども重ねて敗退した。2008年秋のキャンプでは[[野茂英雄]]を臨時投手コーチとして招聘し、選手の間でも好評だった。特に[[加藤大輔]]は「今までの3年(の練習)を、ものの5分で超えてしまった」と発言して野茂の指導に感謝していた。


{{by|2007年}}からは一軍のヘッドコーチとなり、{{by|2008年}}からは内野守備走塁コーチも兼任している。同年5月21日にシーズン途中で[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]が監督を辞任すると、一軍監督代行に就任した。コリンズの辞任を球団から聞いたのはその2日前だったという<ref name="Number_20081127_82">Number、2008年11月27日号、P.82</ref>。
2009年は前年投手コーチを務めている[[清川栄治]]、[[赤堀元之]]に加え、大石が現役時代長年の付き合いがある[[佐々木修 (野球)|佐々木修]]を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制としたが、投手陣不振のため佐々木は6月8日で二軍投手コーチに降格清川が投手チーフコーチに昇格たがチーム防御率は最下位(12球団ワーストでもある)に低迷した。6月は4勝14敗と大きく負け越した。また4人の外国人選手全員[[タフィ・ローズ|ローズ]][[アレックス・カブレラ|カブレラ]]、[[グレッグ・ラロッカ|ラロッカ]]、[[ホセ・フェルナンデス|フェルナンデス]])が死球やファールボールで全員骨折長期離脱た。結局、シーズン終了まで再浮上のきっかけをつかむことはできず2年ぶりの最下位に逆戻りとなり、その責任を取らされる形で解任となった。


=== オリックス監督時代 ===
2010年のシーズンから[[福岡ソフトバンクホークス]]のヘッドコーチに就任している<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4639.html 大石大二郎ヘッドコーチ入団のお知らせ]</ref>。
監督代行に就くとそれまでのチーム方針を一変し、先発投手の1試合100球制限の撤廃、休日や早出の練習推奨などを打ち出し、また前監督が行わなかった二軍視察も積極的に行った<ref name="Number_20081127_82" />。二軍からは[[小瀬浩之]]や[[森山周]]らを昇格させ[[梶本達哉]]を支配下登録するなど、積極的に若手を発掘するとともに細かな指導をしている<ref name="Number_20081127_82" />。一方でタフィ・ローズと[[アレックス・カブレラ]]の両ベテランには実績を尊重して自主的な調整を認め、両者も合わせて76本塁打、222打点の活躍で待遇に応えた。また同年限りで引退した[[清原和博]]についても、大差の場面では出さないなど起用方法には気を配っていた<ref name="Number_20081127_83"/>。


就任時に借金7で5位だったチームは7月下旬に自力1位が消滅したものの、復調して上位争いに加わったことから8月2日には監督に昇格した。これにより旧・大阪近鉄バファローズOBとして初のオリックス・バファローズ監督となり、あわせて翌{{by|2009年}}も続けて指揮を執ることが発表された<ref>2010年から指揮を執っている[[岡田彰布]]も旧ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。</ref>。チームは9月上旬に2位に浮上したままレギュラーシーズンを終え、最終的に貯金7で[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出を決めた。同シリーズは第1ステージで[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]と対戦し、同年15勝を挙げた[[小松聖]]を初戦ではなく2戦目に先発させる奇策を取ったが、エラーや不運な打球もあって敗退した。第1戦に[[近藤一樹]]を先発させた事に悔いはないが投手交替をもう少し早くすべきだった、と述べている<ref name="Number_20081127_83">Number、2008年11月27日号、P.83</ref>。
== 人物・家族 ==
性格は折り目正しく礼儀を重んじる。打席に立った際には「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、[[鉄腕アトム]]が原曲の応援歌が流されるなど、ファンに親しまれた選手だった。


2008の秋季キャンプではかつて同僚だった[[野茂英雄]]を臨時投手コーチとして招聘し、選手の間で好評得た。また2009年は前年からの[[清川栄治]]、[[赤堀元之]]に加え、現役時代から長年の付き合いがある[[佐々木修 (野球)|佐々木修]]を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制としている。しかし同年のチーム防御率は12球団ワーストに低迷し4人の外国人選手(ローズ、カブレラ、[[グレッグ・ラロッカ|ラロッカ]]、[[ホセ・フェルナンデス|フェルナンデス]])が死球などで全員[[骨折]]・長期離脱するなど長打力も不振だった。結局、6月に4勝14敗と大きく負け越すなどシーズン終了まで再浮上のきっかけをつかず2年ぶりの最下位に終わり、責任を取る形で中村球団本部長(9月30日限り)とともに解任された。
大石は息子が2人おり、長男が競輪選手を目指している[[週刊ベースボール]]「2009年プロ野球選手名鑑」より)

=== ソフトバンクコーチ以降 ===
翌{{by|2010年}}から[[福岡ソフトバンクホークス]]のヘッドコーチに就任している<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4639.html 大石大二郎ヘッドコーチ入団のお知らせ]</ref>。

== プレースタイルなど ==
身長166cmと体格には恵まれなかったが、優れた守備走塁の技術と長打も期待できる打撃で近鉄の1番打者として長く活躍した。その活躍ぶりから、ファンからは「近鉄史上最高の1番打者」「近鉄史上最高の二塁手」と称えられている。

なお、大石は[[福本豊]]を史上最高のプロ野球選手に挙げており、走攻守の総合的な能力では[[王貞治]]や[[長嶋茂雄]]にも勝るとしている<ref name="base_19900618_116">週刊ベースボール、1996年6月18日号、P.116</ref><ref name="base_20000612_20" />。現役時代は福本に近づくことを目標とし、走塁に関してだけは7合目ぐらいまで到達できたと述懐している<ref name="base_19900618_116" />。

=== 打撃 ===
[[いてまえ打線]]のトップバッターとして、ホームランを意識して打席に臨んでいた<ref name="base_19971201_116" />。{{by|1984年}}には29本塁打を記録している。20代の頃は1,120グラムもある[[すり鉢|すりこぎ]]型の[[バット (野球)|バット]]を使っていたが、右肩のケガを機に1,060グラムのものに変更した<ref name="base_19900618_114">週刊ベースボール、1990年6月18日号、P.114</ref>。バッティングに関しては特に教えられた記憶がないといい<ref name="base_19971201_116" />、グリップを上げて叩きつける打法を持ち味としていた<ref name="base_19900618_114" />。

トップバッターは.330から.350程度の[[出塁率]]を目指すべきと語っており、一般的に長打を警戒した[[四球]]が少ない分、クリーンアップより出塁率が上がりにくいと分析している<ref name="base_20000612_20">週刊ベースボール、2000年6月12日号、P.20</ref>。また、初回をはじめとして試合展開の中で得点のチャンスがほしい場面で確実に出塁することを重視していた<ref name="base_20000612_20" />。

=== 走塁 ===
プロ入りを初めて意識したのは大学3年の春に[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ]]新記録の17[[盗塁]]を記録した時だといい、近鉄入団時にも特に足を評価されていた<ref name="base_19971201_116" />。プロでは盗塁王のタイトルを通算4度獲得し、福本豊の連続盗塁王の記録を止める存在となった。また盗塁だけでなく、走力によって単打を[[長打]]にする事にもこだわった<ref name="base_19971201_115" />。三塁にいる場面では外野フライが飛んだ瞬間に[[タッグアップ|タッチアップ]]の判断ができたという<ref name="base_20000612_20" />。

なお「足にスランプはない」という見解については否定的で、投手の癖が分からなかったり体調不良の時には積極的な走塁が難しかったと述べている<ref name="base_20000612_20" />。特に、右肩痛に苦しんだ時期は痛みが走塁にも悪影響を及ぼしていた<ref name="base_19900226_185">週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.185</ref>。

=== 守備 ===
同時期にパ・リーグで同じ[[二塁手]]として活躍した[[辻発彦]]や[[白井一幸]]には、俊足を活かした守備範囲の広さを高く評価されていた<ref name="base_19900226_183">週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.183</ref>。{{by|1982年}}からは3年連続で[[ゴールデングラブ賞]]を受賞している。守備に際しては打者ごとの打球の傾向を把握し、さらに試合の状況も考慮に入れて守備位置を決めていた<ref name="base_20010528_20">週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.20</ref>。打ち分けのうまい打者の場合は予測がしにくいので、[[捕手]]のサインを見て投球モーションに入ってから動いていたという<ref name="base_20010528_20" />。打球に予測には長年の経験が非常に重要で、さらにその打球を処理する良いイメージを持つことを大切にしていた<ref name="base_20010528_23">週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.23</ref>。

試合中に細かく変わる守備位置については、他の[[内野手]]にその都度知らせて互いの守備や送球を円滑にする事を心がけていた<ref name="base_20010528_20" />。また、二塁走者がリードしている時はスタートの癖を観察し、二塁への[[牽制球|牽制]]を一回で決めるために役立てていた<ref name="base_20010528_22" />。スタートを遅らせたい場面では、牽制もしくはそのサインを繰り返していたという<ref name="base_20010528_22" />。なお、二塁手は常に起こりうる全ての状況を想定しておく事が特に重要だと考えており、非常に頻度の低い例として走者一塁でバントが小フライとなった場合、ノーバウンドで[[ダブルプレー]]を取るのが難しければワンバウンドで一塁に送球されるので、二塁手は一塁を踏む前に走者にタッチする事をあらかじめ頭に入れておくする必要がある、と語っている<ref name="base_20010528_22">週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.22</ref>。

== その他 ==
現役時代、打席に立つと「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、[[鉄腕アトム]]が原曲の応援歌が流された。息子が2人おり、[[1990年]]生まれの長男が競輪選手を目指している<ref>[[週刊ベースボール「2009年プロ野球選手名鑑」</ref>


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}
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|'''130'''||598||528||'''97'''||149||22||5||29||268||65||'''46'''||'''19'''||10||0||58||5||2||58||5||.282||.355||.508||.863
|'''130'''||598||528||'''97'''||149||22||5||29||268||65||'''46'''||'''19'''||10||0||58||5||2||58||5||.282||.355||.508||.863
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=== 監督成績 ===
=== 監督成績 ===
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!colspan="3"|通算:2年
!colspan="3"|通算:2年
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# 2008年は5月23日から[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]に代わり指揮を執る。
# 2008年は5月23日から[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]に代わり指揮を執る。
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* [[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]:4回 (1983年、1984年、1987年、1993年)
* [[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]:4回 (1983年、1984年、1987年、1993年)
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1983年、1984年、1990年)
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1983年、1984年、1990年)
* [[ゴールデングラブ賞]]:3回 (1982年 - 1984年)
* [[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]:3回 (1982年 - 1984年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年1987年、1989年1990年、1992年1993年)


=== 個人記録 ===
=== 個人記録 ===
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* 初打点:1982年4月12日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]戦(日本生命球場)、2回に[[奥江英幸]]から適時打
* 初打点:1982年4月12日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]戦(日本生命球場)、2回に[[奥江英幸]]から適時打
* 初本塁打:1982年5月5日、対西武ライオンズ戦(西武球場)、9回に[[永射保]]からソロ
* 初本塁打:1982年5月5日、対西武ライオンズ戦(西武球場)、9回に[[永射保]]からソロ
* 通算1000試合出場:1989年7月16日(287人目)
* 通算1000試合出場:1989年7月16日(史上287人目)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年 - 1987年、1989年 - 1990年、1992年 - 1993年)


== 解説者としての出演番組 ==
== 解説者としての出演番組 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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<references />


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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2010年9月25日 (土) 07:59時点における版

大石 大二郎
福岡ソフトバンクホークス コーチ #80
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県静岡市
生年月日 (1958-10-20) 1958年10月20日(65歳)
身長
体重
166 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1980年 ドラフト2位
初出場 1981年4月8日
最終出場 1997年9月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球監督、野球指導者、野球解説者野球評論家1987年から1990年までの登録名大石 第二朗(読みは同じ)。

2010年からは福岡ソフトバンクホークスのヘッドコーチを務める。

経歴

アマチュア時代

静岡県静岡市(現在の同市駿河区)で、鮮魚の小売・仕出し業を営む家庭に生まれた[1]。中学校では2学年上の兄が野球部主将を務めており、同じ部となる事を嫌がられたため当初は柔道部に入ったが、1年生の6月に野球部に移り本格的な野球を始めている[1]

高校も兄と同じ静岡商業高校に進み、部員50人を超す大所帯で1年生の夏からベンチ入りして1974年夏の選手権に出場。さらに翌年は1番打者として春の選抜に出場し、ベスト8進出に貢献している。3年生時には同級生で後にプロとなる久保寺雄二遊撃手を務め、自身は3番・三塁手となりチームは県予選で本命視されていた。しかし一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、チームは夏の県大会に出場できなかった[1]

高校卒業後は競輪選手になる事を考えていたが、父親の勧めで亜細亜大学に進学[2]1979年の3年次の春季リーグ戦では17盗塁をマークし、当時の東都大学リーグ新記録を樹立した[3]。大学4年間では通算91試合出場、344打数99安打、打率.288、4本塁打、25打点、44盗塁を記録している。また、ベストナインには2回選出されている。大学卒業後は今度こそ競輪選手になるつもりだった[4]が、1980年のドラフト会議近鉄バファローズに2位で指名され、野球部監督の矢野祐弘の進めもあり近鉄に入団した。

プロ野球選手時代

1年目の1981年代走守備固めの出場が多く、77試合の出場で打数はわずか19だった。同年は西本幸雄の監督最終年で、無我夢中のまま厳しい練習で鍛えられた[2]。翌1982年オープン戦で負傷した二塁手ビクター・ハリス外野手にコンバートされると、オープン戦で3割以上の高打率を記録して二塁手のレギュラーとなる[2]。同年はレギュラーシーズンで打率.274、12本塁打、47盗塁の成績を残し、新人王ダイヤモンドグラブ賞を獲得した。

3年目の1983年は60盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、福本豊の連続盗塁王記録を13年で止めた。同年から1番・二塁手に定着し、2年連続のダイヤモンドグラブ賞に加えてベストナインにも選出されている。翌1983年も盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞、ベストナインを2年連続で獲得し、パ・リーグを代表する二塁手となっていった。1984年のオールスターゲーム第3戦ではそれまで8連続奪三振を続けていた江川卓と対戦してセカンドゴロを打ち、江夏豊に並ぶ9連続奪三振の記録を阻止した。

1987年には3回目の盗塁王を獲得したが、この頃から右肩痛が続いた。このため1988年10.19の後の11月に大阪厚生年金病院で右肩の手術を行い、12月8日には都ホテル大阪結婚式を挙げている[5]1989年は年明けから夫人も帯同してハワイサイパンリハビリに取り組み、その後もチームのキャンプには参加せず石川県小松市の温泉で単独トレーニングを行った。同年は出場が109試合に減少したものの、打率.277などトップバッターとしてまずますの働き[6]でチームの優勝に貢献した。現役時代の出来事では、この優勝と前年の10.19が最も思い出に残っているという[7]。なお、同年の日本シリーズ初戦では、斎藤雅樹からシリーズ史上唯一の第1戦初回先頭打者ホームランを放っている。

1990年には肩が完全に回復してキャンプから順調な調整を見せ、6月26日の対ロッテ戦では伊良部秀輝からサヨナラ満塁ホームランを放っている[7]。同年はリーグ2位となる打率.314、20本塁打という好成績を収めた。1992年新井宏昌が引退すると、山本和範が加入する1996年までの間、チームの最年長選手となっている。35歳となる1993年には6年ぶりとなる盗塁王を獲得し、同タイトルの最年長記録に並んだ[8]1994年頃からは準レギュラーとなり、「40歳までの現役と2000本安打の達成」を目標として掲げていた[9]。しかし39歳となる1997年は、夏からは佐々木恭介に起用される機会が急減し、9月には球団からも引退を勧められる雰囲気となった[9]。このような球団の姿勢をあっさり受けいれ、同年限りで現役を引退している。

解説者・コーチ時代

引退後は近鉄から二軍守備・走塁コーチへの就任を打診されたが、外から野球を見るため関西テレビの野球解説者となった[10]フジテレビ日刊スポーツでも解説を務め、2003年から近鉄の守備走塁コーチに就任。キャンプではスライディング練習にビデオを導入して選手とともにプレーを確認し、個々人の塁間走タイムやセーフティーリードの幅を計測して走塁の具体的なイメージを明確にさせた[11]。3月28日の開幕戦の初回からタフィ・ローズがノーサインで盗塁を成功させるなど、同年はチームの盗塁が大きく増えている。

2005年に近鉄が球団統合されると、二軍のサーパスの総合チーフコーチに就任した。さらに監督の加藤英司が腰痛のため休養すると監督代行となり、翌2006年にはサーパス監督に就任している。一軍監督の中村勝広とはキャンプ中から2日に1度は電話するなど密に連絡を取り合い、キャンプでは自身やスカウトも打撃投手を務めるなど精力的な指導を行った[12]。球場では常に全力でプレーし、考えて練習に取り組むことを二軍の選手に求め[12]、前年最下位だったチームを上位争いに食い込ませた。

2007年からは一軍のヘッドコーチとなり、2008年からは内野守備走塁コーチも兼任している。同年5月21日にシーズン途中でテリー・コリンズが監督を辞任すると、一軍監督代行に就任した。コリンズの辞任を球団から聞いたのはその2日前だったという[13]

オリックス監督時代

監督代行に就くとそれまでのチーム方針を一変し、先発投手の1試合100球制限の撤廃、休日や早出の練習推奨などを打ち出し、また前監督が行わなかった二軍視察も積極的に行った[13]。二軍からは小瀬浩之森山周らを昇格させ梶本達哉を支配下登録するなど、積極的に若手を発掘するとともに細かな指導をしている[13]。一方でタフィ・ローズとアレックス・カブレラの両ベテランには実績を尊重して自主的な調整を認め、両者も合わせて76本塁打、222打点の活躍で待遇に応えた。また同年限りで引退した清原和博についても、大差の場面では出さないなど起用方法には気を配っていた[14]

就任時に借金7で5位だったチームは7月下旬に自力1位が消滅したものの、復調して上位争いに加わったことから8月2日には監督に昇格した。これにより旧・大阪近鉄バファローズOBとして初のオリックス・バファローズ監督となり、あわせて翌2009年も続けて指揮を執ることが発表された[15]。チームは9月上旬に2位に浮上したままレギュラーシーズンを終え、最終的に貯金7でクライマックスシリーズ進出を決めた。同シリーズは第1ステージで日本ハムと対戦し、同年15勝を挙げた小松聖を初戦ではなく2戦目に先発させる奇策を取ったが、エラーや不運な打球もあって敗退した。第1戦に近藤一樹を先発させた事に悔いはないが投手交替をもう少し早くすべきだった、と述べている[14]

2008年の秋季キャンプではかつて同僚だった野茂英雄を臨時投手コーチとして招聘し、選手の間で好評を得た。また2009年は前年からの清川栄治赤堀元之に加え、現役時代から長年の付き合いがある佐々木修を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制としている。しかし同年のチーム防御率は12球団ワーストに低迷し、4人の外国人選手(ローズ、カブレラ、ラロッカフェルナンデス)が死球などで全員骨折・長期離脱するなど長打力も不振だった。結局、6月に4勝14敗と大きく負け越すなどシーズン終了まで再浮上のきっかけをつかめず2年ぶりの最下位に終わり、責任を取る形で中村球団本部長(9月30日限り)とともに解任された。

ソフトバンクコーチ以降

2010年から福岡ソフトバンクホークスのヘッドコーチに就任している[16]

プレースタイルなど

身長166cmと体格には恵まれなかったが、優れた守備・走塁の技術と長打も期待できる打撃で近鉄の1番打者として長く活躍した。その活躍ぶりから、ファンからは「近鉄史上最高の1番打者」「近鉄史上最高の二塁手」と称えられている。

なお、大石は福本豊を史上最高のプロ野球選手に挙げており、走攻守の総合的な能力では王貞治長嶋茂雄にも勝るとしている[17][18]。現役時代は福本に近づくことを目標とし、走塁に関してだけは7合目ぐらいまで到達できたと述懐している[17]

打撃

いてまえ打線のトップバッターとして、ホームランを意識して打席に臨んでいた[7]1984年には29本塁打を記録している。20代の頃は1,120グラムもあるすりこぎ型のバットを使っていたが、右肩のケガを機に1,060グラムのものに変更した[19]。バッティングに関しては特に教えられた記憶がないといい[7]、グリップを上げて叩きつける打法を持ち味としていた[19]

トップバッターは.330から.350程度の出塁率を目指すべきと語っており、一般的に長打を警戒した四球が少ない分、クリーンアップより出塁率が上がりにくいと分析している[18]。また、初回をはじめとして試合展開の中で得点のチャンスがほしい場面で確実に出塁することを重視していた[18]

走塁

プロ入りを初めて意識したのは大学3年の春に東都大学リーグ新記録の17盗塁を記録した時だといい、近鉄入団時にも特に足を評価されていた[7]。プロでは盗塁王のタイトルを通算4度獲得し、福本豊の連続盗塁王の記録を止める存在となった。また盗塁だけでなく、走力によって単打を長打にする事にもこだわった[2]。三塁にいる場面では外野フライが飛んだ瞬間にタッチアップの判断ができたという[18]

なお「足にスランプはない」という見解については否定的で、投手の癖が分からなかったり体調不良の時には積極的な走塁が難しかったと述べている[18]。特に、右肩痛に苦しんだ時期は痛みが走塁にも悪影響を及ぼしていた[6]

守備

同時期にパ・リーグで同じ二塁手として活躍した辻発彦白井一幸には、俊足を活かした守備範囲の広さを高く評価されていた[20]1982年からは3年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。守備に際しては打者ごとの打球の傾向を把握し、さらに試合の状況も考慮に入れて守備位置を決めていた[21]。打ち分けのうまい打者の場合は予測がしにくいので、捕手のサインを見て投球モーションに入ってから動いていたという[21]。打球に予測には長年の経験が非常に重要で、さらにその打球を処理する良いイメージを持つことを大切にしていた[22]

試合中に細かく変わる守備位置については、他の内野手にその都度知らせて互いの守備や送球を円滑にする事を心がけていた[21]。また、二塁走者がリードしている時はスタートの癖を観察し、二塁への牽制を一回で決めるために役立てていた[23]。スタートを遅らせたい場面では、牽制もしくはそのサインを繰り返していたという[23]。なお、二塁手は常に起こりうる全ての状況を想定しておく事が特に重要だと考えており、非常に頻度の低い例として走者一塁でバントが小フライとなった場合、ノーバウンドでダブルプレーを取るのが難しければワンバウンドで一塁に送球されるので、二塁手は一塁を踏む前に走者にタッチする事をあらかじめ頭に入れておくする必要がある、と語っている[23]

その他

現役時代、打席に立つと「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、鉄腕アトムが原曲の応援歌が流された。息子が2人おり、1990年生まれの長男が競輪選手を目指している[24]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1981 近鉄 77 20 19 14 6 0 0 0 6 0 11 5 0 0 0 0 1 4 0 .316 .350 .316 .666
1982 129 573 492 86 135 16 1 12 189 41 47 12 23 2 55 1 1 42 7 .274 .347 .384 .731
1983 130 592 506 90 145 23 6 10 210 46 60 14 14 2 62 1 8 64 4 .287 .372 .415 .787
1984 130 598 528 97 149 22 5 29 268 65 46 19 10 0 58 5 2 58 5 .282 .355 .508 .863
1985 83 375 321 62 99 21 4 11 161 45 19 4 12 2 35 1 5 32 3 .308 .383 .502 .884
1986 130 595 538 95 156 16 12 16 244 55 24 14 12 6 33 3 6 47 5 .290 .334 .454 .788
1987 130 586 532 75 141 26 4 5 190 42 41 9 10 3 39 1 2 58 6 .265 .316 .357 .673
1988 128 558 488 65 123 13 9 5 169 34 16 9 18 1 51 0 0 55 4 .252 .322 .346 .669
1989 109 471 401 70 111 22 1 8 159 33 14 4 21 0 48 1 1 46 4 .277 .356 .397 .752
1990 125 541 471 93 148 25 6 20 245 69 20 4 15 4 49 0 2 51 8 .314 .378 .520 .898
1991 125 548 459 77 123 22 3 6 169 42 12 7 18 4 62 0 5 65 7 .268 .358 .368 .727
1992 130 576 487 76 131 24 6 6 185 47 39 13 23 1 62 1 3 56 4 .269 .354 .380 .734
1993 127 547 470 69 121 10 2 10 165 49 31 7 23 0 51 0 3 65 6 .257 .334 .351 .685
1994 84 320 274 44 74 15 0 2 95 33 11 1 12 1 31 0 2 37 7 .270 .347 .347 .694
1995 102 354 303 43 73 13 1 4 100 21 11 6 9 2 38 2 2 52 5 .241 .328 .330 .658
1996 80 271 224 36 49 7 3 2 68 19 11 1 10 5 29 1 3 44 4 .219 .310 .304 .614
1997 73 183 151 24 40 6 0 2 52 13 2 2 6 3 22 1 1 22 2 .265 .356 .344 .700
通算:17年 1892 7708 6664 1116 1824 281 63 148 2675 654 415 131 236 36 725 18 47 798 81 .274 .347 .401 .749
  • 各年度の太字はリーグ最高

監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2008年 オリックス 2位 95 54 40 1 .574 2.5 152 .262 3.93 50歳
2009年 6位 144 56 82 2 .394 26.0 118 .274 4.58 51歳
通算:2年 239 110 126 3 .466 Aクラス1回、Bクラス1回
  1. 2008年は5月23日からテリー・コリンズに代わり指揮を執る。
  2. 表中の斜体字はシーズン通年での成績

背番号

  • 43 (1981年 - 1982年)
  • 4 (1983年 - 1997年)
  • 81 (2003年 - 2009年)
  • 80 (2010年 - )

タイトル・表彰

個人記録

解説者としての出演番組

脚注

  1. ^ a b c 朝日新聞、1998年06月14日付朝刊、静岡地方面
  2. ^ a b c d 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.115
  3. ^ 1987年の春季リーグ戦で野村謙二郎が18盗塁し、記録を更新している
  4. ^ 週刊ベースボール、1988年1月10日号、P.36
  5. ^ 週刊ベースボール、1989年5月1日号、P.53
  6. ^ a b 週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.185
  7. ^ a b c d e 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.116
  8. ^ それまでの記録は1982年の福本豊
  9. ^ a b 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.114
  10. ^ 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.117
  11. ^ 週刊ベースボール、2003年6月3日号、P.22
  12. ^ a b 週刊ベースボール、2006年3月27日号、P.88
  13. ^ a b c Number、2008年11月27日号、P.82
  14. ^ a b Number、2008年11月27日号、P.83
  15. ^ 2010年から指揮を執っている岡田彰布も旧ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。
  16. ^ 大石大二郎ヘッドコーチ入団のお知らせ
  17. ^ a b 週刊ベースボール、1996年6月18日号、P.116
  18. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2000年6月12日号、P.20
  19. ^ a b 週刊ベースボール、1990年6月18日号、P.114
  20. ^ 週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.183
  21. ^ a b c 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.20
  22. ^ 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.23
  23. ^ a b c 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.22
  24. ^ [[週刊ベースボール、「2009年プロ野球選手名鑑」

関連項目