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'''宇和島藩'''(うわじまはん)は、[[伊予国]]宇和島(現在の[[愛媛県]][[宇和島市]])周辺を治めた[[藩]]。[[藩庁]]は[[宇和島城]]。 |
'''宇和島藩'''(うわじまはん)は、[[伊予国|伊予]]宇和島(現在の[[愛媛県]][[宇和島市]])周辺を治めた[[藩]]。[[藩庁]]は[[宇和島城]]。 |
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[[画像:Uwajima Castle the keep.jpg|right|thumbnail|200px|宇和島城天守]][[File:Japanese crest Uwajima Sasa.svg|thumb|right|200px|竹輪笹に向かい雀の宇和島紋]] |
[[画像:Uwajima Castle the keep.jpg|right|thumbnail|200px|宇和島城天守]][[File:Japanese crest Uwajima Sasa.svg|thumb|right|200px|竹輪笹に[[阿吽]]の向かい雀の宇和島紋]] |
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== 藩になるまでの宇和島の歴史 == |
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[[File:Fujiwara no Sumitomo.jpg|thumb|right|海賊の藤原純友]] |
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[[平安時代]]、[[宇和島湾]]の西方約28キロの沖合に[[日振島]]と呼ばれる島があるが、当時は[[海賊]]の巣窟であり、[[藤原純友]]の乱では純友配下の海賊が根拠地としていた<ref name="宇和島藩11">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P11</ref>。もともと純友は[[京都]]で権勢を振るっていた[[藤原氏]]の北家の出身で<ref name="宇和島藩11"/>、[[藤原冬嗣]]の[[曾孫]][[藤原良範|良範]]の子とされる(別説では伊予の在地豪族[[高橋氏]]出身とも)<ref name="宇和島藩12">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P12</ref>。純友は中央で権勢を握れず、伊予の国司として赴任し、最初は海賊追討と鎮撫で一定の功績を立てて都に戻ることを許されたが、海賊行為が再燃したため[[紀淑人]]と共に海賊鎮撫のために伊予に赴いた<ref name="宇和島藩12"/>。ところが[[天慶]]2年([[939年]])秋、純友は自ら海賊活動を開始した<ref name="宇和島藩12"/>。純友は[[備前国|備前介]][[藤原子高]]の鼻を削ぎ、妻を奪い、子を殺すなど横暴を極めた<ref name="宇和島藩13">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P13</ref>。純友は京都で出世コースから外れた自分と同じ境遇に置かれた中級官人層を味方に引き入れて西国に一大勢力を形成した<ref name="宇和島藩13"/>。 |
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当時、[[関東]]では[[平将門]]が反乱を起こしていたが、将門と純友は共同謀議をしており、将門と共に京都を制圧した時には[[関白]]になる計画を描いていたという<ref name="宇和島藩13"/><ref group="注釈">『[[大鏡]]』</ref>。これは異説も多いが、当時東国の反乱鎮圧にも追われていた朝廷は純友懐柔策を行ない<ref name="宇和島藩13">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P13</ref>、純友は従五位下に叙せられた<ref name="宇和島藩14">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P14</ref>。だが純友は[[備中国|備中]]や[[淡路国|淡路]]で海賊行為を行ない武器などを強奪した<ref name="宇和島藩14"/>。しかし将門が[[平貞盛]]と[[藤原秀郷]]により討たれたため<ref name="宇和島藩14"/>、朝廷は西国に軍勢を向ける事が可能になり、次第に純友は追い詰められていく<ref name="宇和島藩15">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P15</ref>。[[天慶]]4年([[941年]])5月、純友は[[大宰府]]を攻めて占領したが、[[小野好古]]率いる朝廷軍の追討を受けて撃破され、純友は伊予に逃亡したが6月に[[橘遠保]]に捕縛されて息子の[[藤原重太丸|重太丸]]と共に斬殺され、純友の乱は平定された<ref name="宇和島藩15"/>。 |
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[[源平合戦]]時には[[平氏]]追討で活躍した[[源義経]]が、その戦功により義経は朝廷より伊予守に任命されている<ref name="宇和島藩16">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P16</ref>。 |
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[[室町時代]]になると[[室町幕府]]より[[宇和郡]]は藤原北家傍流の[[伊予西園寺氏]]の[[西園寺公経|公経]]が知行国守となる<ref name="宇和島藩17">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P17</ref>。 |
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戦国時代になると伊予は[[大内義隆]]、[[毛利元就]]、[[大友宗麟]]、[[土佐一条氏]]、[[長宗我部氏]]など周辺諸大名により宇和島地方は侵略を受け、西園寺氏はこれらの勢力と敵対と同盟を繰り返して存続した<ref name="宇和島藩17"/>。[[長宗我部元親]]の四国制覇の際、[[西園寺公広]]は宇和島で抵抗したが敗れて降伏する。その直後、[[豊臣秀吉]]の[[四国攻め]]により元親は降伏して[[土佐国|土佐]]一国を安堵され、伊予は四国平定で功績があった[[小早川隆景]]の領土となり、南伊予支配は隆景の養子で異母弟の[[小早川秀包|秀包]]に任され、家臣の[[持田右京]]が実際の支配を担当した<ref name="宇和島藩20">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P20</ref>。隆景は[[九州征伐]]でも戦功を立て、そのために[[筑前国|筑前]]・[[筑後国|筑後]]に新たな領土を与えられて移封となり、同じく九州征伐で戦功を立てた秀吉の家臣[[戸田勝隆]]が伊予[[大洲市|大洲]]10万石(実際は7万石)の領主となった<ref name="宇和島藩20"/>。ところが戸田は隆景と違い苛酷な統治を行ない、元領主の西園寺公広や土居・観修寺・法華津ら西園寺旧臣を悉く追放、後に公広を謀殺した<ref name="宇和島藩21">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P21</ref>。戸田は合戦には強いが、殺人を平気で行なう狂人だったとされ<ref name="宇和島藩21"/>、彼の統治では一揆がたびたび起きているが、戸田はこれを鎮圧すると反徒の大量虐殺を行なったり、板島(宇和島)城下で殺人・強奪・強姦を行なったりしたという(ただし『[[清良記]]』による脚色説も根強い。また戸田暴君説を唱えているのは[[司馬遼太郎]]である)<ref name="宇和島藩21"/>。ただし異説もあり、日振島の年寄に対して年貢を免除し、一揆鎮圧後に旧城主に懐柔策をしていること、荒地の開発や紅花の栽培奨励とその買上を行なったりと、戸田なりに民政の安定と殖産振興に尽力していたらしい<ref name="宇和島藩23">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P23</ref>。戸田は秀吉の[[朝鮮出兵]]が始まると、[[福島正則]]の副将格として出兵したが、この際に宇和島地方の社寺の銘木・霊木まで伐採して船材としたという事から、暴君として非難されている<ref name="宇和島藩24">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P24</ref>。[[文禄の役]]では講和交渉を務め、帰国中に[[巨済島]]で発病して文禄3年([[1595年]])10月に狂死し、嗣子が無く戸田家は断絶した<ref name="宇和島藩24"/>。 |
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[[File:Toudou Takatora.jpg|thumb|right|宇和の領主となった藤堂高虎]] |
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戸田家が断絶した後、宇和郡7万石の領主として秀吉の家臣[[藤堂高虎]]が入った<ref name="宇和島藩25">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P25</ref>。高虎は6年を費やして板島(宇和島)城築城工事を行なっている<ref name="宇和島藩25"/>。[[慶長]]5年([[1600年]])9月の[[関ヶ原の戦い]]で高虎は東軍(徳川方)として参戦し、その功績により戦後、[[徳川家康]]より伊予[[今治藩]]20万石に加増移封され、板島(宇和島)には高虎の従弟[[藤堂良勝]]が城代として置かれた<ref name="宇和島藩26">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P26</ref>。ところで関ヶ原の直前、宇和郡松葉(現在の[[西予市]][[宇和町]])の土豪[[三瀬六兵衛]]が[[毛利輝元]]と通じて[[松葉騒動]]という反乱を起こしたが、高虎は鎮圧して支配体制を固めた<ref name="宇和島藩26"/>。高虎は家康の下で順調に出世を遂げ、慶長13年([[1608年]])に[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]22万石の藩主として加増移封された<ref name="宇和島藩26"/>。 |
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== 藩史 == |
== 藩史 == |
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=== 富田信高の時代 === |
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宇和島市は[[第二次世界大戦]]の[[空襲]]が愛媛県内最多の計9回と市内の大半を焼失する被害を受けたにも拘らず、藩士の「由緒書」など膨大な史料が残っており、宇和島市などが分析、整理に当たっており、まだ終了していない模様である。 |
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[[ファイル:Tomita Nobutaka and his wife.jpg|thumb|富田信高を救う妻([[月岡芳年]]画)]] |
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慶長13年(1608年)[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]、伊勢津藩5万石の藩主だった[[富田信高]]は[[徳川秀忠]]から宇和郡10万1900石を与えられて板島丸串城主として入った事により<ref name="宇和島藩27">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P27</ref>、宇和島藩が立藩する(ただし藩祖は信高ではなく[[伊達秀宗]]とする説もある)<ref name="宇和島藩1">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P1</ref>。 |
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富田信高の[[正室]]は[[宇喜多忠家]]の娘([[宇喜多直家|直家]]の姪・[[宇喜多秀家|秀家]]の従妹)である<ref name="宇和島藩31">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P31</ref>。この正室は関ヶ原合戦で[[毛利秀元]]軍相手に奮戦し敵兵数名を自ら突き伏せたと伝わる女武者で有名である<ref name="宇和島藩29">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P29</ref>。ところがこの正室の兄とも弟とも伝わる[[坂崎直盛]]が甥の[[宇喜多左門]]と対立して事件を起こした<ref name="宇和島藩31"/>。発端は、直盛には寵愛していた美童がいたがこの美童が左門と密通したため直盛が激怒して家臣に美童を斬らせたのだが、左門がこの家臣を斬って逐電し、叔母にあたる信高正室を頼って当時は津藩主であった信高に庇護された事に始まる<ref name="宇和島藩31"/>。これを聞いた直盛は信高に左門を差し出すように求めたが、信高がとぼけたために直盛は激怒して武力衝突寸前にまで至った<ref name="宇和島藩31"/>。幸い家臣の諫言があって止まるが<ref name="宇和島藩31"/>、直盛は[[大御所]]家康と将軍秀忠に訴えて左門の引渡しを求める始末だった<ref name="宇和島藩32">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P32</ref>。左門は信高の下を辞去して[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主の[[加藤清正]]、[[日向国|日向]][[延岡藩]]主[[高橋元種]]の下に身を寄せた<ref name="宇和島藩32"/>。この際に信高正室は延岡にいる左門に300石の米を送ったが<ref name="宇和島藩32"/>、左門の家臣で行動を共にしていた篠原某が裏切り、信高正室が左門に宛てた書状を盗んで直盛に帰参を願い、直盛はこの書状を証拠にして再度、家康と秀忠に訴え出た<ref name="宇和島藩33">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P33</ref>。 |
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===初期=== |
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板島丸串城(現・[[宇和島城]])はもともと高串村の土豪・家藤監物の居城であったが、[[天正]]3年([[1575年]])に[[西園寺宣久]]、[[天正]]13年([[1585年]])に[[小早川隆景]]、[[天正]]15年([[1587年]])に[[戸田勝隆]]と替わっていった。 |
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慶長18年([[1613年]])[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]、家康・秀忠同席の前で直盛と信高・元種は対決し、直盛は勝訴した<ref name="宇和島藩33"/>。左門隠匿が勝訴の原因になったとされる<ref name="宇和島藩47">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P47</ref>。信高・元種は[[改易]]となり、信高は奥羽[[磐城平藩]]主[[鳥居忠政]]預かりとされ、伊予に帰国する事も無く配所に向かわされた<ref name="宇和島藩33"/>。騒動の原因となった左門は獄死したとも斬殺されたともいわれる<ref name="宇和島藩33"/>。 |
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その後、[[文禄]]4年([[1595年]])[[豊臣氏|豊臣]]時代、[[藤堂高虎]]が7万石で入封。[[慶長]]5年([[1600年]])高虎は[[関ヶ原の戦い]]で東軍方に与したため、加増を受け国府(愛媛県[[今治市]])に転封。 |
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富田家の改易に関しては[[大久保長安事件]]による連座<ref name="宇和島藩35">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P35</ref>、宇和島の郷土史料では富田家の塩成掘切工事による不正によるものとする説があるが<ref name="宇和島藩34">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P34</ref>、前者はともかく後者はかなり疑わしい説とされている<ref name="宇和島藩34"/>。 |
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慶長13年([[1608年]])[[富田信高]]が[[伊勢国]][[津藩|安濃津藩]]より10万石で入封。5年後の慶長18年([[1613年]])[[坂崎直盛]]と争い[[改易]]となった。富田氏の子は、長男・[[富田知幸|知幸]]が[[水戸藩]]士として、二男・[[富田知儀|知儀]]が七千石の[[旗本]]として存続した。 |
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富田家改易により宇和島は幕府直轄領となり、幕府代官として藤堂良勝が入った<ref name="宇和島藩35"/>。富田家中では宇和島を退去する際に年貢未徴収のために困っていたが、蔵米3000俵を良勝が貸し与えて残らず退去させた<ref name="宇和島藩35"/>。信高は[[寛永]]10年([[1633年]])に小名浜(現在の[[福島県]][[いわき市]])において死去した<ref name="宇和島藩35"/>。信高の長男[[富田知幸|知幸]]が[[水戸藩]]士として、次男[[富田知儀|知儀]]が7000石の幕府[[旗本]]として存続した。 |
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===伊達氏時代=== |
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慶長19年([[1614年]])[[伊達政宗]]の庶長子、[[伊達秀宗|秀宗]]が10万石で入封し、それ以降は伊達氏が[[廃藩置県]]まで治めた。[[仙台藩]]の[[支藩]]ではなく新規に[[国主]]格大名として取り立てられ、秀宗入府のときの家臣団は[[米沢城|米沢]]時代の「伊達五十七騎」の中から選ばれたものだったため、[[仙台藩]]とは直接関係がない成立だったが、仙台藩は[[支藩]]と主張し、特に[[伊達秀宗|秀宗]]の時代は揉め事が絶えなかった。 |
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宇和島市内における富田家ゆかりのものとして[[佐伯町]]と[[佐伯橋]]があり、これは富田家家老の[[佐伯権之助]]の屋敷があった事からこの町名と橋の名がつけられ、また信高正室の肖像画が宇和島市[[大宮町]](旧北町)の[[真宗]][[大谷派]]最勝山[[立正寺]](瓦寺)に所蔵されている<ref name="宇和島藩36">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P36</ref>。なお、この立正寺は南予最初の瓦葺きの寺院であったと伝わる<ref name="宇和島藩36"/>。 |
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『仙台市史 通史5 近世3』によるとその後は緊密化したが3代藩主[[伊達宗贇]]が仙台藩主家から直接でなく[[陪臣]]石川家を経ての養子縁組だったり、次代[[伊達村年]]が仙台藩に伺いを立てながら藩政を遂行したので、かえって仙台藩から低く見られるようになったため、[[寛延]]元年に[[伊達村候|村候]]が『同苗別家』を主張する本末争いが起こり、[[堀田正亮]]の仲裁で仙台藩以外で『家本』、『家分れ』という関係を公称することが許可されることで決着したが、仙台藩では相変わらず末家扱い<ref>但し、この二重基準は仙台・宇和島の両伊達氏固有のものではなく、薩摩藩・佐土原藩間にも存在した</ref>の上、仙台藩公式記録「治家記録」に『陽に親しく交わり給うといへども、陰には互いに睦まじからず』と記すレベルに関係は冷却化した。 |
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=== 伊達家の時代 === |
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==== 秀宗の入部 ==== |
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慶長19年([[1614年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年([[1615年]])3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城した事から、宇和島藩が正式に成立した<ref name="宇和島藩1">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P1</ref>。秀宗は戦国の世に『独眼龍』と称された仙台藩主[[伊達政宗]]の庶長子である<ref name="宇和島藩42">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P42</ref>。秀宗ははじめ政宗の世子であったが、天下の覇権が[[豊臣氏|豊臣家]]から[[徳川氏|徳川家]]に移り、また政宗と正室[[愛姫]]との間に[[伊達忠宗|忠宗]]が生まれた事もあって、秀宗はその立場が問題になった。このため、政宗は徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願し、[[大坂冬の陣]]で政宗と秀宗が共に徳川方として従軍すると幕府は政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えられたのである<ref name="宇和島藩49">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P49</ref>。宇和島藩伊達家は[[仙台藩]]の[[支藩]]ではなく新規に[[国主]]格大名として取り立てられ、秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられた<ref name="宇和島藩49"/>。ただし、幕府の有力[[外様大名]]統制政策のひとつで伊達家を東西に分断し、また豊臣家に近い秀宗を僻遠の四国に遠ざける必要があったため、ともされている<ref name="宇和島藩50">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P50</ref>。秀宗入府のときの家臣団は[[米沢城|米沢]]時代の「伊達57騎」の中から選ばれたものだったため、[[仙台藩]]とは直接関係がない成立だったが、仙台藩は[[支藩]]と主張し、特に秀宗の時代は揉め事が絶えなかった。なお、この57騎は政宗が選抜したといわれる<ref name="宇和島藩50"/>。 |
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==== 和霊騒動と改易の危機 ==== |
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宇和島藩は秀宗が入部するまで短期間で領主・藩主の交替が続いたために疲弊しており、[[桜田元親]]を[[侍大将]]、[[山家公頼]]を惣[[奉行]]として始まった藩政は前途多難だった<ref name="宇和島藩54">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P54</ref>。元和3年([[1617年]])頃に板島丸串城は宇和島城、板島も宇和島と改名された<ref name="宇和島藩54"/>。しかし藩財政は非常に苦しく、秀宗は宇和島入部にあたって父の政宗から創業資金として黄金3万両(6万両説あり)を借用しており、それがこの頃に返済をめぐって藩論が紛糾する事になった<ref name="宇和島藩54">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P54</ref>。山家は仙台藩と政宗の関係を重視し、政宗隠居料の名目で毎年3万石を返済に当てる事にし<ref name="宇和島藩54"/>、元和4年([[1618年]])には宇和島城下の北口に仙台藩の役所が置かれて[[寛永]]12年([[1635年]])まで18年間、3万石を返済に充てた<ref name="宇和島藩55">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P55</ref>。ただし政宗は寛永13年([[1636年]])の死去まで隠居していないため、これは事実上宇和島藩領を仙台藩に分知したようなものであり、また宇和島藩士の多くが[[減俸]]を余儀なくされる事になり、この献策を行なった山家は桜田元親らに大いに恨まれた<ref name="宇和島藩55"/><ref name="宇和島藩58">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P58</ref>。また秀宗も借金返済問題をめぐり山家と対立するようになった<ref name="宇和島藩58"/>。 |
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元和6年([[1620年]])1月、幕命により大坂城石垣工事を担当する事になり、山家と桜田は奉行として大坂に赴いた<ref name="宇和島藩58">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P58</ref>。しかし工事の進捗状況の報告に関して山家と桜田の間に齟齬があり、桜田の讒言で山家は宇和島に帰国し謹慎する事になった<ref name="宇和島藩59">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P59</ref>。そして[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]<ref name="宇和島藩55">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P55</ref>、秀宗の命令を受けた桜田一派により山家とその息子ら一族は殺害された<ref name="宇和島藩59">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P59</ref>。事件を知った政宗は激怒して秀宗を勘当し、さらに幕府に対して「秀宗は大虚けで到底10万石を治める器にあらず。召し上げてほしい」<ref name="宇和島藩61">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P61</ref>と幕府に願い出るほどだった<ref name="宇和島藩62">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P62</ref>。これに対しては秀宗正室の兄である[[井伊直孝]]と[[土井利勝]]による政治工作により収拾されている<ref name="宇和島藩62"/>。 |
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==== 秀宗の治世と支藩伊予吉田藩の誕生 ==== |
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宇和島藩の藩政は秀宗期にほぼ確立した。ただし肝心の秀宗は寛永14年([[1637年]])に中風に倒れ、実際の藩政は次男継嗣の[[伊達宗時|宗時]]が担当した<ref name="宇和島藩72">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P72</ref>。なおこのため、宗時は宇和島藩の第2代藩主と見なされる事もある<ref name="宇和島藩72"/>。宗時は寺社造営、植樹、領内検地を実施し、この検地を基にして[[定免法]]を採用し、さらに家臣の知行を従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米現物支給)に移行した<ref name="宇和島藩73">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P73</ref>。しかし[[承応]]2年([[1653年]])に宗時は早世し、弟の[[伊達宗利|宗利]]が継嗣となる<ref name="宇和島藩74">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P74</ref>。 |
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宗時の死後、秀宗の5男で宗時と宗利の異母弟にあたる[[伊達宗純|宗純]]が秀宗による3万石のお墨付き(分知状)を持ち出し、宇和島藩では和霊騒動以来の騒動が起こった<ref name="宇和島藩79">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P79</ref>。これには秀宗の縁戚で幕府の宿老である井伊直孝、仙台藩の実力者[[伊達宗勝]]を巻き込み、さらに宗純や配下の家臣らによる陰謀などもあったとされる<ref name="宇和島藩80">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P80</ref>。結局、直孝の説得により宗利が折れざるを得なくなり、宗純に3万石を分知して[[伊予吉田藩]]を創設した<ref name="宇和島藩81">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P81</ref>。だが、吉田藩領の主要部分は肥沃な穀倉地帯の上、飛び地を有していたために宇和島藩との境界線が複雑になり領地の帰属をめぐっての争いが絶えなかった<ref name="宇和島藩81"/>。このため、宗利は吉田藩創設にあたり、高禄の家臣を宗純に押し付けるという報復に出たため、両藩の反目は長く続く事になる<ref name="宇和島藩82">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P82</ref>。 |
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[[明暦]]3年([[1657年]])7月に秀宗は隠居し、宗利が正式に第2代藩主に、8月に宗純が正式に伊予吉田藩3万石の初代藩主となった<ref name="宇和島藩82"/>。 |
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==== 秀宗以降の時代 ==== |
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宗利の時代は36年間に及び、秀宗・宗時時代の統治を踏襲して諸制度の整備充実を図った<ref name="宇和島藩83">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P83</ref>。この時代は後世の模範になったとされているが<ref name="宇和島藩83"/>、一方で日照り、落雷、洪水、大火、土佐藩や吉田藩との境界線争いなどが相次ぎ<ref name="宇和島藩83"/>、[[貞享]]4年([[1687年]])頃には藩財政が逼迫して衣服や食事を粗末にし、[[元禄]]元年([[1688年]])には5ヵ年計画を立てるに至った<ref name="宇和島藩84">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P84</ref>。元禄6年([[1693年]])11月、宗利は[[伊達宗贇|宗贇]]に家督を譲って隠居した<ref name="宇和島藩84"/>。 |
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第3代藩主宗贇は仙台藩の第3代藩主[[伊達綱宗]]の3男で、宗利の[[婿養子]]である<ref name="宇和島藩104">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104</ref>。元禄9年([[1696年]])7月、吉田藩分知で7万石になっていた宇和島藩は高直しが行なわれて再度10万石となった<ref name="宇和島藩104"/><ref name="宇和島藩106">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P106</ref>。ただしこれは藩や商人で進めていた新田開発や収穫の無い荒田まで加えて無理矢理10万石にしたようなものであり、しかも幕府の普請役では10万石格を負担しなければならなくなり、[[湯島聖堂]]の造営等により藩財政はますます逼迫した<ref name="宇和島藩106"/>。 |
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正徳元年([[1711年]])に宗贇は死去し、3男の[[伊達村年|村年]]が第4代藩主となる<ref name="宇和島藩105">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105</ref><ref name="宇和島藩109">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P109</ref>。この時代には旱魃・飢饉・風水害が続き、[[藩札]]の発行と被災者の救済、植林・植樹から<ref name="宇和島藩109"/>、難民の緊急雇用対策のための土木事業、倹約令、人材登用など様々な[[藩政改革]]が試みられたが、肝心の村年が[[享保]]20年([[1735年]])5月に31歳で急死した<ref name="宇和島藩110">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P110</ref>。 |
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第5代藩主[[伊達村候|村候]]は村年の子で、在任60年間の長期にわたった中興の祖である<ref name="宇和島藩119">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P119</ref>。[[寛保]]3年([[1743年]])に倹約令を発し、藩政改革に乗り出した。学問・武芸を奨励し、[[寛延]]元年([[1748年]])に藩士と庶民共学の藩校「内徳館(のちの[[明倫館 (曖昧さ回避)|明倫館]])」を開いた。また、[[木蝋]]を藩の重要産品とし、[[紙]]を専売とした。さらに農政改革をはじめ<ref name="宇和島藩120">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P120</ref>、博打や好色の禁止、役職勤務の見直し、風俗矯正や奢侈の禁止から租税改革など大規模な藩政改革を行なった<ref name="宇和島藩121">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P121</ref>。これらの改革は成功したが、[[天明の飢饉]]により藩は深刻を極め、疲弊した藩では[[百姓一揆]]や[[村方騒動]]が相次ぎ、その最中の[[寛政]]6年([[1794年]])9月に村候は死去した<ref name="宇和島藩120"/><ref name="宇和島藩123">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P123</ref>。なお、村候死去の前年に吉田藩で紙の専売をめぐって[[武左衛門一揆]]が起こり、一揆の解決に宇和島藩が当たっている<ref name="宇和島藩130">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P130</ref>。 |
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第6代藩主には村候の子[[伊達村寿|村寿]]が就任し、有能な藩士の登用、倹約令と歳出抑制、商品作物栽培や養蚕等による歳入拡大、被災民救済などを中心とした藩政改革を行なった<ref name="宇和島藩133">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P133</ref>。だがこの時代にも風水害が8回、旱魃が1回と天災が相次いだ<ref name="宇和島藩134">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P134</ref>。また文化9年([[1812年]])には[[萩森騒動]]と呼ばれる財政再建をめぐる重臣の意見の対立から刃傷事件が発生している<ref name="宇和島藩136">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P136</ref>。さらに文化5年([[1808年]])夏に[[伊能忠敬]]が宇和島に入って測量を行なっているが<ref name="宇和島藩139">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P139</ref>、この伊能一行の接待は幕命によりかなり大仰に行なわれ、宇和島にかなりの負担をかけ藩も領民も不時の出費に大いに苦しんだといわれている<ref name="宇和島藩140">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P140</ref>。 |
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==== 幕末 ==== |
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[[File:Date Munenari.jpg|thumb|right|宇和島藩第8代伊達宗城]] |
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村寿は文化14年([[1817年]])から病気により継嗣の[[伊達宗紀|宗紀]]に藩政を代行させ、[[文政]]7年([[1824年]])に隠居して第7代藩主には宗紀が就任した<ref name="宇和島藩135">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P135</ref>。宗紀も5ヵ年にわたる倹約をはじめ、奢侈の禁止や文学の奨励、産業の振興と統制、人材の育成などを中心とした藩政改革を行なった。だが宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣が無かったため、旗本山口家の出身で祖父[[山口直清]]が村候の次男だったことから養子に迎えられる事になったのが[[伊達宗城|宗城]]である<ref name="宇和島藩149">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P149</ref>。 |
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宗城は前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、更に西欧化を推し進めて富国強兵政策をとった。[[高野長英]]・村田蔵六(後の[[大村益次郎]])を採用している。また、幕政にも関与し[[福井藩]]主[[松平春嶽]]、[[土佐藩]]主[[山内容堂]]、[[薩摩藩]]主[[島津斉彬]]と並び[[幕末の四賢侯]]と称された。斉彬を除く他の賢侯同様、[[井伊直弼]]による[[安政の大獄]]では[[将軍継嗣問題]]で[[一橋派]]に与したために隠居謹慎を余儀なくされ、第9代藩主には宗紀の3男で宗城の養子[[伊達宗徳|宗徳]]が就任した<ref name="宇和島藩149"/>。ただし宇和島藩政の実権は宗城が大半を掌握し、宗紀がそれを補佐し、宗徳は飾りに近い立場であった<ref name="宇和島藩149"/>。また宗紀・宗城・宗徳3代の藩主妻子に家臣と奥女中が付いたため、藩財政はさらに逼迫する事になった<ref name="宇和島藩149"/>。 |
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[[桜田門外の変]]で井伊が[[暗殺]]されると宗城は表舞台に復帰。[[孝明天皇]]に拝謁し国事に奔走した。以後、宗城は幕府と朝廷の間を渡り歩きながら幕末を駆け抜け、[[戊辰戦争]]では新政府の[[議定]](新政府軍参謀兼務)に任命されたが、[[徳川慶喜]]が朝敵になると[[薩長]]の陰謀であるとして[[山内容堂]]と共に議定を辞任した<ref name="宇和島藩200">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P200</ref>。以後、宗城は非戦中立の立場をとった<ref name="宇和島藩201">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P201</ref>。これは藩財政が枯渇し、町人や農民から献金を募らねばならないほどであり、また支藩の吉田藩主[[伊達宗孝]](宗城の実弟)が佐幕派として行動したため宗城はその説得に当たらざるを得なくなっていたためであった<ref name="宇和島藩201"/>。だが仙台藩13代藩主[[伊達慶邦]]が[[奥羽越列藩同盟]]の盟主となったために逆賊になると<ref name="宇和島藩201"/>、縁戚にあたる(慶邦の養子は宗城の次男[[伊達宗敦|宗敦]])宗城は仙台藩存続に奔走し、使者を送って降伏を勧めるなどした<ref name="宇和島藩202">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P202</ref>。 |
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明治時代になると宗城は海外事情に通じていた事から新政府の外国掛・外国事務総督・外国官知事となった<ref name="宇和島藩202"/>。明治4年([[1871年]])4月、宗城は全権大使として[[日清修好条規]]の締結に当たった<ref name="宇和島藩203">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P203</ref>。7月14日、[[廃藩置県]]により宇和島藩は[[宇和島県]]となった<ref name="宇和島藩203"/>。 |
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なお、藩主家は明治17年([[1884年]])、[[華族]]に列せられたが、宗城の功績を評価され、[[奥羽越列藩同盟]]に連座し減封を受けた結果[[伯爵]]止まりとされた仙台本家を上回る[[侯爵]]となった<ref name="宇和島藩203"/>。 |
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宇和島藩は幕末においては宗紀・宗城ら藩主の存在が大きいが、その一方で宇和島藩が明治政府で有力な藩閥を持てなかったのは宇和島藩が幕末において流血沙汰がほとんど無かったためとされている<ref name="宇和島藩203"/>。薩摩・長州・土佐いずれも藩内抗争や幕府戦争で多くの藩士を失っているが、宇和島のみは宗城の強力な指導力の下で藩論が統制されて脱藩者も数名ほど、対外戦争でも常に中立を保つなど平穏を保ったため、とされている<ref name="宇和島藩202">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P202</ref>。 |
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宇和島市は[[第二次世界大戦]]の[[空襲]]が愛媛県内最多の計9回と市内の大半を焼失する被害を受けたにも拘らず、藩士の「由緒書」など膨大な史料が残っており、宇和島市などが分析、整理に当たっており、まだ終了していない模様である。 |
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== 外交 == |
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秀宗は遺言により五男・[[伊達宗純|宗純]]に3万石を分知したが、それによって宇和島藩は実質的に7万石となり、'''準国主大名'''から城主大名に転落してしまうため、この分知の正統性をめぐって長期に渡って係争が続いた<ref>この争いのため[[寛文印知]]の石高表に、全大名中[[宇和島藩]]と[[伊予吉田藩]]だけ記されない異例の事態になっている</ref>。 |
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=== 宇和島藩と伊予吉田藩・仙台藩との関係 === |
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『仙台市史 通史5 近世3』によるとその後は緊密化したが3代藩主[[伊達宗贇]]が仙台藩主家から直接でなく[[陪臣]]石川家を経ての養子縁組だったり、次代[[伊達村年]]が仙台藩に伺いを立てながら藩政を遂行したので、かえって仙台藩から低く見られるようになったため、[[寛延]]元年に[[伊達村候|村候]]が『同苗別家』を主張する本末争いが起こり、[[堀田正亮]]の仲裁で仙台藩以外で『家本』、『家分れ』という関係を公称することが許可されることで決着したが、仙台藩では相変わらず末家扱い<ref>但し、この二重基準は仙台・宇和島の両伊達氏固有のものではなく、薩摩藩・佐土原藩間にも存在した</ref>の上、仙台藩公式記録「治家記録」に『陽に親しく交わり給うといへども、陰には互いに睦まじからず』と記すレベルに関係は冷却化した。秀宗は遺言により五男・[[伊達宗純|宗純]]に3万石を分知したが、それによって宇和島藩は実質的に7万石となり、'''準国主大名'''から城主大名に転落してしまうため、この分知の正統性をめぐって長期に渡って係争が続いた<ref>この争いのため[[寛文印知]]の石高表に、全大名中[[宇和島藩]]と[[伊予吉田藩]]だけ記されない異例の事態になっている</ref>。 |
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最終的に、宇和島藩は元禄9年([[1696年]] |
最終的に、宇和島藩は元禄9年([[1696年]])、3代藩主伊達宗贇の時に新田開発を理由に7万石から10万石への領地石高修正を幕府によって認められ、そのかわりに[[伊予吉田藩]]の正式独立が認められ、決着した。10万石への石高修正は認められたものの宇和島藩の実質高は7万石であったため、さらに新田開発や産業振興に努めたものの、宇和島藩は疲弊した。 一方、[[伊予吉田藩]]もこの独立を機に宇和島藩と友好関係を結び、実質上宇和島支藩的な存在に変わって行く。 |
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== 経済 == |
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10万石への石高修正は認められたものの宇和島藩の実質高は7万石であったため、さらに新田開発や産業振興に努めたものの、宇和島藩は疲弊した。 一方、[[伊予吉田藩]]もこの独立を機に宇和島藩と友好関係を結び、実質上宇和島支藩的な存在に変わって行く。 |
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宇和島藩は成立当初から財政が苦しかった。豊臣時代に戸田・藤堂と替わり、さらに徳川時代に富田・幕領と目まぐるしく交代したためであり、そのため領地は著しく疲弊していた<ref name="宇和島藩54"/>。このため仙台藩から3万両とも6万両ともいわれる借財をしたがその返済<ref name="宇和島藩54"/>、さらに吉田分知による3万石の喪失とその後の高直しによる10万石の復帰とそれによる幕府普請の負担増大などがあり、宇和島藩の財政は火の車であり、歴代藩主による藩政改革も打ち続く天災などで効果が見込めず、幕末になると宗紀・宗城・宗徳3代のトロイカ体制のためにさらに財政支出は増大し、幕末には藩財政は領民からの献金で遣り繰りする始末であった。 |
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宗城は財政難打開のため、[[安政]]3年([[1856年]])に宇和島に物産方役所を設置し、特産品の開発製造販売に取り組み、[[朝鮮人参]]の栽培、[[寒天]]の製造、藩内の産物研究に取り組んだ<ref name="宇和島藩163">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P163</ref>。蒸気船に興味を示す宗城はこれからは[[石炭]]が重要になる事も見据え、[[福岡藩]]から技師を招いて石炭の埋蔵調査も行なっている<ref name="宇和島藩163"/>。物産方は蝋・茶・銅・肥料・海藻など多くの品目を扱ったが、いずれも藩を潤すほどの実は上げられなかった<ref name="宇和島藩164">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P164</ref>。 |
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5代・[[伊達村候|村候]]は中興の祖といわれる。[[寛保]]3年([[1743年]])倹約令を発し、藩政改革に乗り出した。学問・武芸を奨励し[[寛延]]元年([[1748年]])藩士と庶民共学の藩校「内徳館(のちの[[明倫館 (曖昧さ回避)|明倫館]])」を開いた。また、[[木蝋]]を藩の重要産品とし、[[紙]]を専売とした。 |
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== 社会 == |
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8代・[[伊達宗城|宗城]]は最も有名な藩主である。旗本山口家に生まれたが、祖父[[山口直清]]が村候の次男だったことから養子に迎えられ、前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、更に西欧化を推し進めて富国強兵政策をとった。[[高野長英]]・村田蔵六(後の[[大村益次郎]])を採用している。また、幕政にも関与し[[福井藩]]主・[[松平春嶽]]、[[土佐藩]]主・[[山内容堂]]、[[薩摩藩]]主・[[島津斉彬]]と並び[[幕末の四賢侯]]と称された。他の賢侯同様、[[安政の大獄]]では隠居を余儀なくされたが[[明治維新]]まで藩政に影響を持ち続け、明治政府の高官となっている。 |
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=== 軍隊 === |
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宇和島藩には砲術に6つの流派があったが、宗城は最新の砲術を導入し、これを威遠流として一元化した<ref name="宇和島藩158">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P158</ref>。また宗城は古来より軽率の武器であった[[鉄砲]]を下級・上級を問わずに習熟するように命じ、弓組を鉄砲組に改編した<ref name="宇和島藩158"/>。宗城は何度も軍事訓練を繰り返し、大砲の試射を自らも行なうほど熱心だった<ref name="宇和島藩158"/>。また軍隊を洋式化し、銃隊を[[イギリス]]式、砲隊をオランダ式にした<ref name="宇和島藩159">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P159</ref>。また宗城は造船技術にも熱心に興味を示し、嘉蔵という細工師を用いて長崎に留学させるなどしている<ref name="宇和島藩159"/>。 |
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=== 武士 === |
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[[明治]]4年([[1871年]])廃藩置県により[[宇和島県]]となった。 |
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宇和島藩では安政2年([[1855年]])と明治4年(1871年)の2回にわたり無礼討ちが起こっている<ref name="宇和島藩98">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P98</ref>。前者は藩命による直々の無礼討ちであるが<ref name="宇和島藩98"/>、後者は日本最後の無礼討ちと伝わっている<ref name="宇和島藩99">宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P99</ref>。 |
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前者は宍戸甲太郎という武士が差料を奪われそうになり何とか守ったが鞘を奪われたために面目を失い、藩の助けを得て元助・幸兵衛という犯人を討ったが、宍戸の腕はかなり未熟で何度も斬りつけてようやく討ち果たしたといわれ、「見事と申すほどにはこれなく」とある<ref name="宇和島藩98"/>。後者は宗紀の側近[[須藤頼明]]が百姓丑松を斬ったとされるもので、佐伯橋で須藤と丑松が出くわした際、酔っていた丑松が須藤の通路をふさぐ悪戯をした。このため須藤は注意したが、丑松は相手が若侍と面罵したため、野次馬が集まる前で丑松を一刀の下に斬り捨てた<ref name="宇和島藩99"/>。ちなみに[[無礼討ち禁止令]]は明治4年(1871年)8月17日に出されているため、日本最後の無礼討ちとも伝わっている<ref name="宇和島藩99"/>。 |
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藩主家は明治17年([[1884年]])[[華族]]に列せられたが、宗城の功績を評価され、[[奥羽越列藩同盟]]に連座し減封を受けた結果[[伯爵]]止まりとされた仙台本家を上回る[[侯爵]]となった。 |
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== 歴代藩主 == |
== 歴代藩主 == |
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===富田家=== |
=== 富田家 === |
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[[外様大名|外様]] 12万石 (1608年 - 1613年) |
[[外様大名|外様]] 12万石 (1608年 - 1613年) |
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#[[富田信高|信高]](のぶたか)〔従四位下・信濃守〕 |
#[[富田信高|信高]](のぶたか)〔従四位下・信濃守〕 |
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40行目: | 104行目: | ||
(1613年 - 1614年) |
(1613年 - 1614年) |
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===伊達家=== |
=== 伊達家 === |
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外様 大広間 国主格 10万石→7万石 (1614年 - 1871年) |
外様 大広間 国主格 10万石→7万石 (1614年 - 1871年) |
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#[[伊達秀宗|秀宗]](ひでむね)〔従四位下・遠江守、侍従〕 10万石→分知により7万石 |
#[[伊達秀宗|秀宗]](ひでむね)〔従四位下・遠江守、侍従〕 10万石→分知により7万石 |
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== 支藩 == |
== 支藩 == |
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===伊予吉田藩=== |
=== 伊予吉田藩 === |
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'''伊予吉田藩'''(いよよしだはん)は、[[明暦]]3年([[1657年]])7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・[[伊達宗純|宗純]]が宗藩より3万石を分知されて立藩した。[[三河国]]の[[三河吉田藩|吉田藩]]と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁は愛媛県[[宇和島市]]吉田町立間尻御殿内(旧[[北宇和郡]][[吉田町 (愛媛県)|吉田町]])に[[伊予吉田陣屋]]がおかれた。 |
'''伊予吉田藩'''(いよよしだはん)は、[[明暦]]3年([[1657年]])7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・[[伊達宗純|宗純]]が宗藩より3万石を分知されて立藩した。[[三河国]]の[[三河吉田藩|吉田藩]]と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁は愛媛県[[宇和島市]]吉田町立間尻御殿内(旧[[北宇和郡]][[吉田町 (愛媛県)|吉田町]])に[[伊予吉田陣屋]]がおかれた。 |
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[[明治4年]]([[1871年]])[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]、廃藩置県の断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする'''吉田県'''を設置(草高3万石、現石1万4730石。三河国吉田藩の方は混同を避け豊橋藩に改称した後、豊橋県となった)。同年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]、第1次府県統合、いわゆる3府72県制の実施により、吉田県を廃止。と同時に旧宇和島県、旧[[大洲藩|大洲県]]、旧[[大洲藩|新谷県]]と合併し、新たなる[[神山県 (日本)|宇和島県]]を設置(本庁・宇和島、支庁・大洲)。その後、[[神山県_(日本)|神山県]]を経て愛媛県に編入された。 |
[[明治4年]]([[1871年]])[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]、廃藩置県の断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする'''吉田県'''を設置(草高3万石、現石1万4730石。三河国吉田藩の方は混同を避け豊橋藩に改称した後、豊橋県となった)。同年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]、第1次府県統合、いわゆる3府72県制の実施により、吉田県を廃止。と同時に旧宇和島県、旧[[大洲藩|大洲県]]、旧[[大洲藩|新谷県]]と合併し、新たなる[[神山県 (日本)|宇和島県]]を設置(本庁・宇和島、支庁・大洲)。その後、[[神山県_(日本)|神山県]]を経て愛媛県に編入された。 |
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====吉田藩領==== |
==== 吉田藩領 ==== |
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*現在の宇和島市吉田町のうち'''奥浦、知永を除く全域''' |
*現在の宇和島市吉田町のうち'''奥浦、知永を除く全域''' |
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*現在の宇和島市'''三間町全部''' |
*現在の宇和島市'''三間町全部''' |
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* 伊予国 |
* 伊予国 |
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** 宇和郡のうち - 87村 |
** 宇和郡のうち - 87村 |
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== 宇和島藩出身の著名人 == |
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* [[児島惟謙]] |
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* [[土居通夫]] |
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* [[末広鉄腸]] |
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* [[穂積陳重]] |
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* [[大和田建樹]] |
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* [[油屋熊八]] |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{commons|Category:Uwajima Domain}} |
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*[[恵比寿 (渋谷区)]] |
* [[恵比寿 (渋谷区)]] |
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*[[宇和島市立伊達博物館]] |
* [[宇和島市立伊達博物館]] |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references /> |
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<references group="注釈"/> |
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=== 引用元 === |
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==参考文献== |
== 参考文献 == |
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*『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]] [[1977年]] |
*『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]] [[1977年]] |
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*『別冊歴史読本 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年 |
*『別冊歴史読本 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年 |
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*『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 [[文春新書]] [[2003年]] |
*『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 [[文春新書]] [[2003年]] |
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*『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[八幡和郎]]/著 [[光文社新書]] [[2004年]] |
*『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[八幡和郎]]/著 [[光文社新書]] [[2004年]] |
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* [[宇神幸男]]『シリーズ藩物語、宇和島藩』([[現代書館]], [[2011年]][[7月]]) |
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[[Category:愛媛県の歴史]] |
[[Category:愛媛県の歴史]] |
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[[Category:宇和島市の歴史]] |
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[[en:Uwajima Domain]] |
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[[fr:Domaine d'Uwajima]] |
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[[zh:宇和島藩]] |
2013年3月9日 (土) 22:34時点における版
宇和島藩(うわじまはん)は、伊予宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。藩庁は宇和島城。
藩になるまでの宇和島の歴史
平安時代、宇和島湾の西方約28キロの沖合に日振島と呼ばれる島があるが、当時は海賊の巣窟であり、藤原純友の乱では純友配下の海賊が根拠地としていた[1]。もともと純友は京都で権勢を振るっていた藤原氏の北家の出身で[1]、藤原冬嗣の曾孫良範の子とされる(別説では伊予の在地豪族高橋氏出身とも)[2]。純友は中央で権勢を握れず、伊予の国司として赴任し、最初は海賊追討と鎮撫で一定の功績を立てて都に戻ることを許されたが、海賊行為が再燃したため紀淑人と共に海賊鎮撫のために伊予に赴いた[2]。ところが天慶2年(939年)秋、純友は自ら海賊活動を開始した[2]。純友は備前介藤原子高の鼻を削ぎ、妻を奪い、子を殺すなど横暴を極めた[3]。純友は京都で出世コースから外れた自分と同じ境遇に置かれた中級官人層を味方に引き入れて西国に一大勢力を形成した[3]。
当時、関東では平将門が反乱を起こしていたが、将門と純友は共同謀議をしており、将門と共に京都を制圧した時には関白になる計画を描いていたという[3][注釈 1]。これは異説も多いが、当時東国の反乱鎮圧にも追われていた朝廷は純友懐柔策を行ない[3]、純友は従五位下に叙せられた[4]。だが純友は備中や淡路で海賊行為を行ない武器などを強奪した[4]。しかし将門が平貞盛と藤原秀郷により討たれたため[4]、朝廷は西国に軍勢を向ける事が可能になり、次第に純友は追い詰められていく[5]。天慶4年(941年)5月、純友は大宰府を攻めて占領したが、小野好古率いる朝廷軍の追討を受けて撃破され、純友は伊予に逃亡したが6月に橘遠保に捕縛されて息子の重太丸と共に斬殺され、純友の乱は平定された[5]。
源平合戦時には平氏追討で活躍した源義経が、その戦功により義経は朝廷より伊予守に任命されている[6]。
室町時代になると室町幕府より宇和郡は藤原北家傍流の伊予西園寺氏の公経が知行国守となる[7]。
戦国時代になると伊予は大内義隆、毛利元就、大友宗麟、土佐一条氏、長宗我部氏など周辺諸大名により宇和島地方は侵略を受け、西園寺氏はこれらの勢力と敵対と同盟を繰り返して存続した[7]。長宗我部元親の四国制覇の際、西園寺公広は宇和島で抵抗したが敗れて降伏する。その直後、豊臣秀吉の四国攻めにより元親は降伏して土佐一国を安堵され、伊予は四国平定で功績があった小早川隆景の領土となり、南伊予支配は隆景の養子で異母弟の秀包に任され、家臣の持田右京が実際の支配を担当した[8]。隆景は九州征伐でも戦功を立て、そのために筑前・筑後に新たな領土を与えられて移封となり、同じく九州征伐で戦功を立てた秀吉の家臣戸田勝隆が伊予大洲10万石(実際は7万石)の領主となった[8]。ところが戸田は隆景と違い苛酷な統治を行ない、元領主の西園寺公広や土居・観修寺・法華津ら西園寺旧臣を悉く追放、後に公広を謀殺した[9]。戸田は合戦には強いが、殺人を平気で行なう狂人だったとされ[9]、彼の統治では一揆がたびたび起きているが、戸田はこれを鎮圧すると反徒の大量虐殺を行なったり、板島(宇和島)城下で殺人・強奪・強姦を行なったりしたという(ただし『清良記』による脚色説も根強い。また戸田暴君説を唱えているのは司馬遼太郎である)[9]。ただし異説もあり、日振島の年寄に対して年貢を免除し、一揆鎮圧後に旧城主に懐柔策をしていること、荒地の開発や紅花の栽培奨励とその買上を行なったりと、戸田なりに民政の安定と殖産振興に尽力していたらしい[10]。戸田は秀吉の朝鮮出兵が始まると、福島正則の副将格として出兵したが、この際に宇和島地方の社寺の銘木・霊木まで伐採して船材としたという事から、暴君として非難されている[11]。文禄の役では講和交渉を務め、帰国中に巨済島で発病して文禄3年(1595年)10月に狂死し、嗣子が無く戸田家は断絶した[11]。
戸田家が断絶した後、宇和郡7万石の領主として秀吉の家臣藤堂高虎が入った[12]。高虎は6年を費やして板島(宇和島)城築城工事を行なっている[12]。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで高虎は東軍(徳川方)として参戦し、その功績により戦後、徳川家康より伊予今治藩20万石に加増移封され、板島(宇和島)には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた[13]。ところで関ヶ原の直前、宇和郡松葉(現在の西予市宇和町)の土豪三瀬六兵衛が毛利輝元と通じて松葉騒動という反乱を起こしたが、高虎は鎮圧して支配体制を固めた[13]。高虎は家康の下で順調に出世を遂げ、慶長13年(1608年)に伊勢津藩22万石の藩主として加増移封された[13]。
藩史
富田信高の時代
慶長13年(1608年)9月15日、伊勢津藩5万石の藩主だった富田信高は徳川秀忠から宇和郡10万1900石を与えられて板島丸串城主として入った事により[14]、宇和島藩が立藩する(ただし藩祖は信高ではなく伊達秀宗とする説もある)[15]。
富田信高の正室は宇喜多忠家の娘(直家の姪・秀家の従妹)である[16]。この正室は関ヶ原合戦で毛利秀元軍相手に奮戦し敵兵数名を自ら突き伏せたと伝わる女武者で有名である[17]。ところがこの正室の兄とも弟とも伝わる坂崎直盛が甥の宇喜多左門と対立して事件を起こした[16]。発端は、直盛には寵愛していた美童がいたがこの美童が左門と密通したため直盛が激怒して家臣に美童を斬らせたのだが、左門がこの家臣を斬って逐電し、叔母にあたる信高正室を頼って当時は津藩主であった信高に庇護された事に始まる[16]。これを聞いた直盛は信高に左門を差し出すように求めたが、信高がとぼけたために直盛は激怒して武力衝突寸前にまで至った[16]。幸い家臣の諫言があって止まるが[16]、直盛は大御所家康と将軍秀忠に訴えて左門の引渡しを求める始末だった[18]。左門は信高の下を辞去して肥後熊本藩主の加藤清正、日向延岡藩主高橋元種の下に身を寄せた[18]。この際に信高正室は延岡にいる左門に300石の米を送ったが[18]、左門の家臣で行動を共にしていた篠原某が裏切り、信高正室が左門に宛てた書状を盗んで直盛に帰参を願い、直盛はこの書状を証拠にして再度、家康と秀忠に訴え出た[19]。
慶長18年(1613年)10月8日、家康・秀忠同席の前で直盛と信高・元種は対決し、直盛は勝訴した[19]。左門隠匿が勝訴の原因になったとされる[20]。信高・元種は改易となり、信高は奥羽磐城平藩主鳥居忠政預かりとされ、伊予に帰国する事も無く配所に向かわされた[19]。騒動の原因となった左門は獄死したとも斬殺されたともいわれる[19]。
富田家の改易に関しては大久保長安事件による連座[21]、宇和島の郷土史料では富田家の塩成掘切工事による不正によるものとする説があるが[22]、前者はともかく後者はかなり疑わしい説とされている[22]。
富田家改易により宇和島は幕府直轄領となり、幕府代官として藤堂良勝が入った[21]。富田家中では宇和島を退去する際に年貢未徴収のために困っていたが、蔵米3000俵を良勝が貸し与えて残らず退去させた[21]。信高は寛永10年(1633年)に小名浜(現在の福島県いわき市)において死去した[21]。信高の長男知幸が水戸藩士として、次男知儀が7000石の幕府旗本として存続した。
宇和島市内における富田家ゆかりのものとして佐伯町と佐伯橋があり、これは富田家家老の佐伯権之助の屋敷があった事からこの町名と橋の名がつけられ、また信高正室の肖像画が宇和島市大宮町(旧北町)の真宗大谷派最勝山立正寺(瓦寺)に所蔵されている[23]。なお、この立正寺は南予最初の瓦葺きの寺院であったと伝わる[23]。
伊達家の時代
秀宗の入部
慶長19年(1614年)12月28日、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城した事から、宇和島藩が正式に成立した[15]。秀宗は戦国の世に『独眼龍』と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子である[24]。秀宗ははじめ政宗の世子であったが、天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り、また政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれた事もあって、秀宗はその立場が問題になった。このため、政宗は徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願し、大坂冬の陣で政宗と秀宗が共に徳川方として従軍すると幕府は政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えられたのである[25]。宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく新規に国主格大名として取り立てられ、秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられた[25]。ただし、幕府の有力外様大名統制政策のひとつで伊達家を東西に分断し、また豊臣家に近い秀宗を僻遠の四国に遠ざける必要があったため、ともされている[26]。秀宗入府のときの家臣団は米沢時代の「伊達57騎」の中から選ばれたものだったため、仙台藩とは直接関係がない成立だったが、仙台藩は支藩と主張し、特に秀宗の時代は揉め事が絶えなかった。なお、この57騎は政宗が選抜したといわれる[26]。
和霊騒動と改易の危機
宇和島藩は秀宗が入部するまで短期間で領主・藩主の交替が続いたために疲弊しており、桜田元親を侍大将、山家公頼を惣奉行として始まった藩政は前途多難だった[27]。元和3年(1617年)頃に板島丸串城は宇和島城、板島も宇和島と改名された[27]。しかし藩財政は非常に苦しく、秀宗は宇和島入部にあたって父の政宗から創業資金として黄金3万両(6万両説あり)を借用しており、それがこの頃に返済をめぐって藩論が紛糾する事になった[27]。山家は仙台藩と政宗の関係を重視し、政宗隠居料の名目で毎年3万石を返済に当てる事にし[27]、元和4年(1618年)には宇和島城下の北口に仙台藩の役所が置かれて寛永12年(1635年)まで18年間、3万石を返済に充てた[28]。ただし政宗は寛永13年(1636年)の死去まで隠居していないため、これは事実上宇和島藩領を仙台藩に分知したようなものであり、また宇和島藩士の多くが減俸を余儀なくされる事になり、この献策を行なった山家は桜田元親らに大いに恨まれた[28][29]。また秀宗も借金返済問題をめぐり山家と対立するようになった[29]。
元和6年(1620年)1月、幕命により大坂城石垣工事を担当する事になり、山家と桜田は奉行として大坂に赴いた[29]。しかし工事の進捗状況の報告に関して山家と桜田の間に齟齬があり、桜田の讒言で山家は宇和島に帰国し謹慎する事になった[30]。そして6月29日[28]、秀宗の命令を受けた桜田一派により山家とその息子ら一族は殺害された[30]。事件を知った政宗は激怒して秀宗を勘当し、さらに幕府に対して「秀宗は大虚けで到底10万石を治める器にあらず。召し上げてほしい」[31]と幕府に願い出るほどだった[32]。これに対しては秀宗正室の兄である井伊直孝と土井利勝による政治工作により収拾されている[32]。
秀宗の治世と支藩伊予吉田藩の誕生
宇和島藩の藩政は秀宗期にほぼ確立した。ただし肝心の秀宗は寛永14年(1637年)に中風に倒れ、実際の藩政は次男継嗣の宗時が担当した[33]。なおこのため、宗時は宇和島藩の第2代藩主と見なされる事もある[33]。宗時は寺社造営、植樹、領内検地を実施し、この検地を基にして定免法を採用し、さらに家臣の知行を従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米現物支給)に移行した[34]。しかし承応2年(1653年)に宗時は早世し、弟の宗利が継嗣となる[35]。
宗時の死後、秀宗の5男で宗時と宗利の異母弟にあたる宗純が秀宗による3万石のお墨付き(分知状)を持ち出し、宇和島藩では和霊騒動以来の騒動が起こった[36]。これには秀宗の縁戚で幕府の宿老である井伊直孝、仙台藩の実力者伊達宗勝を巻き込み、さらに宗純や配下の家臣らによる陰謀などもあったとされる[37]。結局、直孝の説得により宗利が折れざるを得なくなり、宗純に3万石を分知して伊予吉田藩を創設した[38]。だが、吉田藩領の主要部分は肥沃な穀倉地帯の上、飛び地を有していたために宇和島藩との境界線が複雑になり領地の帰属をめぐっての争いが絶えなかった[38]。このため、宗利は吉田藩創設にあたり、高禄の家臣を宗純に押し付けるという報復に出たため、両藩の反目は長く続く事になる[39]。
明暦3年(1657年)7月に秀宗は隠居し、宗利が正式に第2代藩主に、8月に宗純が正式に伊予吉田藩3万石の初代藩主となった[39]。
秀宗以降の時代
宗利の時代は36年間に及び、秀宗・宗時時代の統治を踏襲して諸制度の整備充実を図った[40]。この時代は後世の模範になったとされているが[40]、一方で日照り、落雷、洪水、大火、土佐藩や吉田藩との境界線争いなどが相次ぎ[40]、貞享4年(1687年)頃には藩財政が逼迫して衣服や食事を粗末にし、元禄元年(1688年)には5ヵ年計画を立てるに至った[41]。元禄6年(1693年)11月、宗利は宗贇に家督を譲って隠居した[41]。
第3代藩主宗贇は仙台藩の第3代藩主伊達綱宗の3男で、宗利の婿養子である[42]。元禄9年(1696年)7月、吉田藩分知で7万石になっていた宇和島藩は高直しが行なわれて再度10万石となった[42][43]。ただしこれは藩や商人で進めていた新田開発や収穫の無い荒田まで加えて無理矢理10万石にしたようなものであり、しかも幕府の普請役では10万石格を負担しなければならなくなり、湯島聖堂の造営等により藩財政はますます逼迫した[43]。
正徳元年(1711年)に宗贇は死去し、3男の村年が第4代藩主となる[44][45]。この時代には旱魃・飢饉・風水害が続き、藩札の発行と被災者の救済、植林・植樹から[45]、難民の緊急雇用対策のための土木事業、倹約令、人材登用など様々な藩政改革が試みられたが、肝心の村年が享保20年(1735年)5月に31歳で急死した[46]。
第5代藩主村候は村年の子で、在任60年間の長期にわたった中興の祖である[47]。寛保3年(1743年)に倹約令を発し、藩政改革に乗り出した。学問・武芸を奨励し、寛延元年(1748年)に藩士と庶民共学の藩校「内徳館(のちの明倫館)」を開いた。また、木蝋を藩の重要産品とし、紙を専売とした。さらに農政改革をはじめ[48]、博打や好色の禁止、役職勤務の見直し、風俗矯正や奢侈の禁止から租税改革など大規模な藩政改革を行なった[49]。これらの改革は成功したが、天明の飢饉により藩は深刻を極め、疲弊した藩では百姓一揆や村方騒動が相次ぎ、その最中の寛政6年(1794年)9月に村候は死去した[48][50]。なお、村候死去の前年に吉田藩で紙の専売をめぐって武左衛門一揆が起こり、一揆の解決に宇和島藩が当たっている[51]。
第6代藩主には村候の子村寿が就任し、有能な藩士の登用、倹約令と歳出抑制、商品作物栽培や養蚕等による歳入拡大、被災民救済などを中心とした藩政改革を行なった[52]。だがこの時代にも風水害が8回、旱魃が1回と天災が相次いだ[53]。また文化9年(1812年)には萩森騒動と呼ばれる財政再建をめぐる重臣の意見の対立から刃傷事件が発生している[54]。さらに文化5年(1808年)夏に伊能忠敬が宇和島に入って測量を行なっているが[55]、この伊能一行の接待は幕命によりかなり大仰に行なわれ、宇和島にかなりの負担をかけ藩も領民も不時の出費に大いに苦しんだといわれている[56]。
幕末
村寿は文化14年(1817年)から病気により継嗣の宗紀に藩政を代行させ、文政7年(1824年)に隠居して第7代藩主には宗紀が就任した[57]。宗紀も5ヵ年にわたる倹約をはじめ、奢侈の禁止や文学の奨励、産業の振興と統制、人材の育成などを中心とした藩政改革を行なった。だが宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣が無かったため、旗本山口家の出身で祖父山口直清が村候の次男だったことから養子に迎えられる事になったのが宗城である[58]。
宗城は前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、更に西欧化を推し進めて富国強兵政策をとった。高野長英・村田蔵六(後の大村益次郎)を採用している。また、幕政にも関与し福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津斉彬と並び幕末の四賢侯と称された。斉彬を除く他の賢侯同様、井伊直弼による安政の大獄では将軍継嗣問題で一橋派に与したために隠居謹慎を余儀なくされ、第9代藩主には宗紀の3男で宗城の養子宗徳が就任した[58]。ただし宇和島藩政の実権は宗城が大半を掌握し、宗紀がそれを補佐し、宗徳は飾りに近い立場であった[58]。また宗紀・宗城・宗徳3代の藩主妻子に家臣と奥女中が付いたため、藩財政はさらに逼迫する事になった[58]。
桜田門外の変で井伊が暗殺されると宗城は表舞台に復帰。孝明天皇に拝謁し国事に奔走した。以後、宗城は幕府と朝廷の間を渡り歩きながら幕末を駆け抜け、戊辰戦争では新政府の議定(新政府軍参謀兼務)に任命されたが、徳川慶喜が朝敵になると薩長の陰謀であるとして山内容堂と共に議定を辞任した[59]。以後、宗城は非戦中立の立場をとった[60]。これは藩財政が枯渇し、町人や農民から献金を募らねばならないほどであり、また支藩の吉田藩主伊達宗孝(宗城の実弟)が佐幕派として行動したため宗城はその説得に当たらざるを得なくなっていたためであった[60]。だが仙台藩13代藩主伊達慶邦が奥羽越列藩同盟の盟主となったために逆賊になると[60]、縁戚にあたる(慶邦の養子は宗城の次男宗敦)宗城は仙台藩存続に奔走し、使者を送って降伏を勧めるなどした[61]。
明治時代になると宗城は海外事情に通じていた事から新政府の外国掛・外国事務総督・外国官知事となった[61]。明治4年(1871年)4月、宗城は全権大使として日清修好条規の締結に当たった[62]。7月14日、廃藩置県により宇和島藩は宇和島県となった[62]。
なお、藩主家は明治17年(1884年)、華族に列せられたが、宗城の功績を評価され、奥羽越列藩同盟に連座し減封を受けた結果伯爵止まりとされた仙台本家を上回る侯爵となった[62]。
宇和島藩は幕末においては宗紀・宗城ら藩主の存在が大きいが、その一方で宇和島藩が明治政府で有力な藩閥を持てなかったのは宇和島藩が幕末において流血沙汰がほとんど無かったためとされている[62]。薩摩・長州・土佐いずれも藩内抗争や幕府戦争で多くの藩士を失っているが、宇和島のみは宗城の強力な指導力の下で藩論が統制されて脱藩者も数名ほど、対外戦争でも常に中立を保つなど平穏を保ったため、とされている[61]。
宇和島市は第二次世界大戦の空襲が愛媛県内最多の計9回と市内の大半を焼失する被害を受けたにも拘らず、藩士の「由緒書」など膨大な史料が残っており、宇和島市などが分析、整理に当たっており、まだ終了していない模様である。
外交
宇和島藩と伊予吉田藩・仙台藩との関係
『仙台市史 通史5 近世3』によるとその後は緊密化したが3代藩主伊達宗贇が仙台藩主家から直接でなく陪臣石川家を経ての養子縁組だったり、次代伊達村年が仙台藩に伺いを立てながら藩政を遂行したので、かえって仙台藩から低く見られるようになったため、寛延元年に村候が『同苗別家』を主張する本末争いが起こり、堀田正亮の仲裁で仙台藩以外で『家本』、『家分れ』という関係を公称することが許可されることで決着したが、仙台藩では相変わらず末家扱い[63]の上、仙台藩公式記録「治家記録」に『陽に親しく交わり給うといへども、陰には互いに睦まじからず』と記すレベルに関係は冷却化した。秀宗は遺言により五男・宗純に3万石を分知したが、それによって宇和島藩は実質的に7万石となり、準国主大名から城主大名に転落してしまうため、この分知の正統性をめぐって長期に渡って係争が続いた[64]。
最終的に、宇和島藩は元禄9年(1696年)、3代藩主伊達宗贇の時に新田開発を理由に7万石から10万石への領地石高修正を幕府によって認められ、そのかわりに伊予吉田藩の正式独立が認められ、決着した。10万石への石高修正は認められたものの宇和島藩の実質高は7万石であったため、さらに新田開発や産業振興に努めたものの、宇和島藩は疲弊した。 一方、伊予吉田藩もこの独立を機に宇和島藩と友好関係を結び、実質上宇和島支藩的な存在に変わって行く。
経済
宇和島藩は成立当初から財政が苦しかった。豊臣時代に戸田・藤堂と替わり、さらに徳川時代に富田・幕領と目まぐるしく交代したためであり、そのため領地は著しく疲弊していた[27]。このため仙台藩から3万両とも6万両ともいわれる借財をしたがその返済[27]、さらに吉田分知による3万石の喪失とその後の高直しによる10万石の復帰とそれによる幕府普請の負担増大などがあり、宇和島藩の財政は火の車であり、歴代藩主による藩政改革も打ち続く天災などで効果が見込めず、幕末になると宗紀・宗城・宗徳3代のトロイカ体制のためにさらに財政支出は増大し、幕末には藩財政は領民からの献金で遣り繰りする始末であった。
宗城は財政難打開のため、安政3年(1856年)に宇和島に物産方役所を設置し、特産品の開発製造販売に取り組み、朝鮮人参の栽培、寒天の製造、藩内の産物研究に取り組んだ[65]。蒸気船に興味を示す宗城はこれからは石炭が重要になる事も見据え、福岡藩から技師を招いて石炭の埋蔵調査も行なっている[65]。物産方は蝋・茶・銅・肥料・海藻など多くの品目を扱ったが、いずれも藩を潤すほどの実は上げられなかった[66]。
社会
軍隊
宇和島藩には砲術に6つの流派があったが、宗城は最新の砲術を導入し、これを威遠流として一元化した[67]。また宗城は古来より軽率の武器であった鉄砲を下級・上級を問わずに習熟するように命じ、弓組を鉄砲組に改編した[67]。宗城は何度も軍事訓練を繰り返し、大砲の試射を自らも行なうほど熱心だった[67]。また軍隊を洋式化し、銃隊をイギリス式、砲隊をオランダ式にした[68]。また宗城は造船技術にも熱心に興味を示し、嘉蔵という細工師を用いて長崎に留学させるなどしている[68]。
武士
宇和島藩では安政2年(1855年)と明治4年(1871年)の2回にわたり無礼討ちが起こっている[69]。前者は藩命による直々の無礼討ちであるが[69]、後者は日本最後の無礼討ちと伝わっている[70]。
前者は宍戸甲太郎という武士が差料を奪われそうになり何とか守ったが鞘を奪われたために面目を失い、藩の助けを得て元助・幸兵衛という犯人を討ったが、宍戸の腕はかなり未熟で何度も斬りつけてようやく討ち果たしたといわれ、「見事と申すほどにはこれなく」とある[69]。後者は宗紀の側近須藤頼明が百姓丑松を斬ったとされるもので、佐伯橋で須藤と丑松が出くわした際、酔っていた丑松が須藤の通路をふさぐ悪戯をした。このため須藤は注意したが、丑松は相手が若侍と面罵したため、野次馬が集まる前で丑松を一刀の下に斬り捨てた[70]。ちなみに無礼討ち禁止令は明治4年(1871年)8月17日に出されているため、日本最後の無礼討ちとも伝わっている[70]。
歴代藩主
富田家
外様 12万石 (1608年 - 1613年)
- 信高(のぶたか)〔従四位下・信濃守〕
天領
(1613年 - 1614年)
伊達家
外様 大広間 国主格 10万石→7万石 (1614年 - 1871年)
- 秀宗(ひでむね)〔従四位下・遠江守、侍従〕 10万石→分知により7万石
- 宗利(むねとし)〔従四位下・大膳大夫、侍従〕
- 宗贇(むねよし)〔従四位下・遠江守、侍従〕7万石→新田分を高直しして10万石格
- 村年(むらとし)〔従四位下・遠江守〕
- 村候(むらとき)〔従四位下・遠江守、左近衛権少将〕
- 村寿(むらなが)〔従四位下・遠江守、右近衛権少将〕
- 宗紀(むねただ)〔従四位下・遠江守、左近衛権少将〕
- 宗城(むねなり)〔従四位下・遠江守、侍従〕
- 宗徳(むねえ)〔従四位下・遠江守〕
宇和島藩領
- 宇和島城下
丸之内 追手通 堀端通 広小路 中ノ町 鎌原通 大榎通 賀古町 大石町 笹町 桜町 富沢町 御徒町 佐伯町 薬研堀 神田川原通 元結掛 舟大工町 恵美須町 向新町 横新町 袋町 本町 樽屋町 大工町 愛宕町 裏町 鋸町 一宮下町 竜華前通 北町 竜光院前通
- 宇和島藩支配十組
- 御城下組
祝森村 稗田村 寄松村 宮下村 川内村 毛山村(丸穂村) 下村 須賀浦 中間村 柿原村 光満村 高串村 九島浦 東三浦 西三浦 上波浦 戸島浦 日振浦 大浦 奥浦(吉田町)高山浦(明浜町)
- 山奥組
魚成村 長谷村 今田村 田野々村 男河内村 下相村 土居村 古市村 伏越村 中津川村 川津南村 窪野村 嘉喜尾村 遊子谷村 野井川村(城川)惣川村 横林村 坂石村(野村)
- 保内組
日土村(八幡浜市) 須川村 喜木村 宮内村 両家村 枇杷谷村 鼓尾村 磯崎浦 川石浦(保内) 伊方浦 九町浦 二見浦(伊方) 三机浦(瀬戸町) 三崎浦(三崎町)
- 矢野組
八幡浜浦 矢野町 栗野浦 大平村 向灘村 津羽井村 高野地村 今長谷村 南茅村 北茅村 松尾村 上郷村 下郷村 河内村 古薮村 田波村 八代村 五反田村 大峠村 河舞村 国木村 牛名村 若山村 谷村 中津川村 釜倉村 布喜川村 舌間浦 合田浦 馬目網代(真網代)(八幡浜)野田村 平地村(大洲市) 影平村 蔵貫村 加室(下泊)浦(三瓶町)
- 多田組
伊延村 岡山村 河内村 東多田村 大江村 加茂村 田苗真土村 杢所村 馬木村 清沢村 下松葉村 上松葉村 坂戸村 多野中村 伊崎村 平野村 窪村 常定寺村 新城村 明石村あけいし 伊南坊村(宇和町)
- 山田組
明間村 下川村 皆田村 伊賀上村 松葉町(のち、卯之町と改称) 鬼窪村 久枝村 神領村 野田村 小野田村 永長村 山田村 郷内村 上岩木村 下岩木村 小原村(宇和町)津布理村(三瓶町)
- 野村組
栗木村 西村 鎌田村 蔵良村 中通川村 釜川村 前石村 阿下村 野村 片川村 次ヶ川村 平野村 高瀬村 伊与地川村 蔵村 白髭村 戸鹿野村 林乗村 広田村 長谷村 四郎谷村 河西村
- 川原淵組
牛之川村 北川村 奈良村 中之川村 芝村 永野市村 近永村 下大野村 中尾坂村 大宿村 松森村 清水村 畔屋村 西野々村 小西野々村 広見村(広見町) 次郎丸村 中之河村 松丸村 岩熊村 樫谷村 上家地村 延野々村(松野町)
- 津島組
高田村 岩松村 芳原村 下畑地村 上槙村 上畑地村 槙川村 御内村 山財村 颪部村 御代川村 大道村 秀松村 岩淵村 芋路谷村 野井村 近家村 下灘浦
- 御荘組
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支藩
伊予吉田藩
伊予吉田藩(いよよしだはん)は、明暦3年(1657年)7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が宗藩より3万石を分知されて立藩した。三河国の吉田藩と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁は愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に伊予吉田陣屋がおかれた。
この3万石分知の経緯については諸説ある。秀宗は宗純を寵愛しており、父・政宗が死去するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知した、と一般に言われている。一方で、2人の兄が相次いで早逝するなかで世継ぎとなった三男・宗利を妬んだ宗純が、仙台藩の伊達宗勝(政宗の10男で秀宗の異母弟)と共謀し、秀宗の遺言書を偽造した、とも言われている。当時の秀宗の病状は悪く、筆を取るのもままならない状態であったとして、宗利は不審の念を呈する書簡を仙台藩第2代藩主・伊達忠宗に送っている。なお、宗勝は後の伊達騒動の首謀者として断罪されていることも一考に価するだろう。結局、彦根藩主・井伊直孝の仲裁により3万石分知は果たされたが、吉田伊達家と宇和島宗家は領地の帰属を巡って激しく対立した。
両藩の確執は、元土佐藩浪人の身から吉田藩の家臣となり、専横を奮った山田仲左衛門を巡る一件(山田騒動)に仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入するまで続いた。以後、吉田藩に対する宇和島藩の発言権は大きくなった。第7代藩主・宗翰は宇和島藩主・村寿の子、第8代藩主・宗孝も宇和島藩主・宗城の実弟で、いずれも養子として藩主となっていることから、この事件を機に宇和島藩に従属し、支藩的扱いを受けていたと考えてよい。
享保の大飢饉では大被害を受け、2万7000石の損失があった。さらに幕府の公役負担などにより財政は苦しくなる。このため、吉田藩は重税を強いて、さらに製紙を専売化するなどしたが、このために寛政5年(1793年)2月に吉田藩最大の一揆である武左衛門一揆が起こり、藩は百姓の要求を受け入れて製紙の専売を取りやめた。寛政6年(1794年)11月13日には藩校・時観堂を創設し、森退堂を登用した。
幕末期は第8代藩主・宗孝が、実兄・宗城と不仲のために佐幕派として行動し、兄の仲介で新政府より許されている。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県の断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする吉田県を設置(草高3万石、現石1万4730石。三河国吉田藩の方は混同を避け豊橋藩に改称した後、豊橋県となった)。同年11月15日、第1次府県統合、いわゆる3府72県制の実施により、吉田県を廃止。と同時に旧宇和島県、旧大洲県、旧新谷県と合併し、新たなる宇和島県を設置(本庁・宇和島、支庁・大洲)。その後、神山県を経て愛媛県に編入された。
吉田藩領
- 現在の宇和島市吉田町のうち奥浦、知永を除く全域
- 現在の宇和島市三間町全部
- 則村 大藤村 黒井地村 成家村 曽根村 是房村 戸雁村 能寿寺村 『成妙村』
- 宮野下村 末森村(北増穂) 元宗村 石原村(増田) 土居中村 小沢川村 川之内村 迫目村 務田村 『三間村』
- 中野中村 波岡村 田川村 金銅村 土居垣内村 古藤田村 大内村 兼近村 告森村(音地、三間中間、黒川、広見町成藤)
- 中間村(三間仲間) 黒川村 音地村 『二名村』
- 現在の宇和島市のうち蒋渕 下波
- 現在の宇和島市津島町のうち北灘
- 現在の鬼北町のうち旧日吉村全部
- 上大野村 下鍵山村 上鍵山村 日向谷村 父野川村
- 西予市城川町のうち高野子
- 西予市三瓶町のうち朝立 安土 有網代 有太刀 蔵貫浦 皆江 垣生 二及 長早 周木
- 西予市明浜町のうち 狩浜 渡江 俵津
- 八幡浜市保内町のうち喜木津 広早 川名津 上泊
- 現在の鬼北町、旧広見町のうち
- 吉波 東仲 西仲 内深田 沢松 清延 成藤 国遠(以上、旧好藤村) 久保 小松 延川 川上 (以上旧三島村) 岩屋 興野々 出目 小倉 上川(以上、旧泉村)
- 現在の松野町のうち
- 吉野 蕨生 奥野川(以上、旧吉野生村) 目黒(旧松丸町)
寛文2年(1664年)に宇和島領の「北灘、蒋渕、下波、南君、上泊、川名津、喜木津、広早」と吉田領の「次郎丸のうち中之川、延野々、永野市、近永、影平(朝立浦の枝)」が交換された。
歴代藩主
- 伊達家 外様 柳間 陣屋 3万石
- 宗純(むねずみ)〔従五位下・宮内少輔〕
- 宗保(むねやす)〔従五位下・能登守〕
- 村豊(むらとよ)〔従五位下・左京亮〕
- 村信(むらのぶ)〔従五位下・紀伊守〕
- 村賢(むらやす)〔従五位下・和泉守〕
- 村芳(むらよし)〔従五位下・若狭守〕
- 宗翰(むねもと)〔従五位下・紀伊守〕
- 宗孝(むねみち)〔従五位下・若狭守〕
- 宗敬(むねたか)〔従四位下・若狭守〕
幕末の領地
宇和島藩
伊予吉田藩
- 伊予国
- 宇和郡のうち - 87村
宇和島藩出身の著名人
関連項目
脚注
注釈
引用元
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P11
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P12
- ^ a b c d 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P13
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P14
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P15
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P16
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P17
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P20
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P21
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P23
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P24
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P25
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P26
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P27
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P1
- ^ a b c d e 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P31
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P29
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P32
- ^ a b c d 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P33
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P47
- ^ a b c d 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P35
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P34
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P36
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P42
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P49
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P50
- ^ a b c d e f 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P54
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P55
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- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P61
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- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P84
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P106
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P109
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P110
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P119
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P120
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P121
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P123
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P130
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P133
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P134
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P136
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P139
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P140
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P135
- ^ a b c d 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P149
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P200
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P201
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P202
- ^ a b c d 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P203
- ^ 但し、この二重基準は仙台・宇和島の両伊達氏固有のものではなく、薩摩藩・佐土原藩間にも存在した
- ^ この争いのため寛文印知の石高表に、全大名中宇和島藩と伊予吉田藩だけ記されない異例の事態になっている
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P163
- ^ 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P164
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P158
- ^ a b 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P159
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P98
- ^ a b c 宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P99
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社 1977年
- 『別冊歴史読本 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書 2003年
- 『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎/著 光文社新書 2004年
- 宇神幸男『シリーズ藩物語、宇和島藩』(現代書館, 2011年7月)
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