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[[1931年]](昭和6年)より[[河北新報社]](仙台市)の記者をしていた父親の菅原芳助(洋画家・詩人:狭間二郎)<ref group="†">[[1903年]](明治36年)[[1月29日]]、宮城県[[栗原郡]]生まれ。[[1919年]](大正8年)、[[宮城県築館高等学校|(旧制)宮城県築館中学校]]を卒業して[[早稲田大学高等学院・中学部#旧制早稲田大学早稲田高等学院|第二早稲田高等学院]]に入学。[[1930年]](昭和5年)、[[早稲田大学]]文学部英文科を卒業。[[1931年]](昭和6年)、河北新報社記者となる。[[1943年]](昭和18年)に徴兵され、[[1946年]](昭和21年)に郷里の宮城県栗原郡[[一迫町]]に復員。[[1983年]](昭和58年)[[2月21日]]、[[神奈川県]][[相模原市]]の相愛病院で死去。</ref>のもと、[[1933年]](昭和8年)[[8月16日]]に[[宮城県]][[仙台市]]に生まれた<ref>[http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10123.html 狭間二郎](東京文化財研究所)</ref>。<!--{{要出典|範囲=[[共同通信]]記者となった都合で|date=2014年12月}}、-->4歳から小学校4年までは[[東京府]](現・[[東京都]])育ち<ref name="週刊朝日197397">『[[週刊朝日]]』、1973年9月7日号、p35</ref>。
[[1931年]](昭和6年)より[[河北新報社]](仙台市)の記者をしていた父親の菅原芳助(洋画家・詩人:狭間二郎)<ref group="†">[[1903年]](明治36年)[[1月29日]]、宮城県[[栗原郡]]生まれ。[[1919年]](大正8年)、[[宮城県築館高等学校|(旧制)宮城県築館中学校]]を卒業して[[早稲田大学高等学院・中学部#旧制早稲田大学早稲田高等学院|第二早稲田高等学院]]に入学。[[1930年]](昭和5年)、[[早稲田大学]]文学部英文科を卒業。[[1931年]](昭和6年)、河北新報社記者となる。[[1943年]](昭和18年)に徴兵され、[[1946年]](昭和21年)に郷里の宮城県栗原郡[[一迫町]]に復員。[[1983年]](昭和58年)[[2月21日]]、[[神奈川県]][[相模原市]]の相愛病院で死去。</ref>のもと、[[1933年]](昭和8年)[[8月16日]]に[[宮城県]][[仙台市]]に生まれた<ref>[http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10123.html 狭間二郎](東京文化財研究所)</ref>。<!--{{要出典|範囲=[[共同通信]]記者となった都合で|date=2014年12月}}、-->4歳から小学校4年までは[[東京府]](現・[[東京都]])育ち<ref name="週刊朝日197397">『[[週刊朝日]]』、1973年9月7日号、p35</ref>。


[[1943年]](昭和18年)に父親が出征すると、父親の実家がある宮城県[[栗原郡]][[一迫町]](現・[[栗原市]])に[[疎開]]し、[[宮城県築館高等学校|(旧制)宮城県築館中学校]]卒業まで同地で過ごした<ref name="kahoku20141202Hankotsu">{{Cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13008.html |title=<文太さん逝く>評伝・反骨心貫いた生きざま |newspaper=河北新報オンラインニュース |publisher=河北新報社 |date=2014-12-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141203014646/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13008.html |archivedate=2014-12-03}}</ref><ref name="JACOM20061005">[http://www.jacom.or.jp/archive02/document/tokusyu/toku197/toku197s06100507.html 「第24回JA全国大会」記念特集 食と農を結ぶ活力あるJAづくりのために]([[農業協同組合新聞]] 2006年10月5日)</ref>。[[1949年]](昭和24年)、[[学制改革]]による新制高校の発足により、[[ナンバースクール (宮城県)|県内屈指の名門校]]である[[宮城県仙台第一高等学校]]に入学<ref name="kahoku20141202Hankotsu" /><ref name="JACOM20061005" /><ref>{{PDFlink|[http://www.sendai1.myswan.ne.jp/pdf/s-annai_2014.pdf 宮城県仙台第一高等学校 学校案内 2014]}}(宮城県仙台第一高等学校)</ref>。同校では新聞部に所属した<ref name="kahoku20141202Hankotsu" />。同校の同級生には三浦弘彰(後の[[栗駒町]]長)<ref>{{Cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13014.html |title=<文太さん逝く>被災者激励 地元に尽くす |newspaper=河北新報オンラインニュース |publisher=河北新報社 |date=2014-12-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141202033546/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13014.html |archivedate=2014-12-02}}</ref>、一学年下には[[樋口陽一]](法学者)<ref>{{Cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141201_13050.html |title=【写真特集】菅原文太さん逝く 在りし日の姿振り返る |newspaper=河北新報オンラインニュース |publisher=河北新報社 |date=2014-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141202033633/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141201_13050.html |archivedate=2014-12-02}}</ref>や同じ新聞部の井上廈(劇作家:[[井上ひさし]])<ref name="kahoku20141202Hankotsu" />がおり、同校に隣接する[[宮城県仙台二華中学校・高等学校|宮城県第二女子高等学校]]には、後に共演することとなる[[若尾文子]]がいた<ref group="†">[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1179 スクリーンに風格を添える宮城出身の映画人たち 月形龍之介に始まり、菅原文太、鈴木京香、宮藤官九郎まで](佐藤忠男(映画評論家、日本映画大学学長) 2011年1月4日)や[https://web.archive.org/web/20141222005046/http://www.gruri.jp/article/2014/12120800/ 元夫「井上ひさし」 名作の「ネタ元」だった菅原文太さん――盟友・戦友・旧友が語った素顔の「菅原文太」](2014年12月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])([[西舘代志子|西館好子]](井上ひさしの元妻) [[週刊新潮]] 2014年12月11日号)によれば、井上ひさし作で仙台が舞台の「[[青葉繁れる]]」は、菅原文太らのエピソードを元に作られ、若尾文子がヒロイン・若山ひろ子のモデルとされる。</ref>。[[早稲田大学]][[二部 (大学)|第二]][[法学部]]法学科に進学する。
[[1943年]](昭和18年)に父親が出征すると、父親の実家がある宮城県[[栗原郡]][[一迫町]](現・[[栗原市]])に[[疎開]]し、[[宮城県築館高等学校|(旧制)宮城県築館中学校]]卒業まで同地で過ごした<ref name="kahoku20141202Hankotsu">{{Cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13008.html |title=<文太さん逝く>評伝・反骨心貫いた生きざま |newspaper=河北新報オンラインニュース |publisher=河北新報社 |date=2014-12-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141203014646/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13008.html |archivedate=2014-12-03}}</ref><ref name="JACOM20061005">[http://www.jacom.or.jp/archive02/document/tokusyu/toku197/toku197s06100507.html 「第24回JA全国大会」記念特集 食と農を結ぶ活力あるJAづくりのために]([[農業協同組合新聞]] 2006年10月5日)</ref>。[[1949年]](昭和24年)、[[学制改革]]による新制高校の発足により、[[ナンバースクール (宮城県)|県内屈指の名門校]]である[[宮城県仙台第一高等学校]]に入学<ref name="kahoku20141202Hankotsu" /><ref name="JACOM20061005" /><ref>{{PDFlink|[http://www.sendai1.myswan.ne.jp/pdf/s-annai_2014.pdf 宮城県仙台第一高等学校 学校案内 2014]}}(宮城県仙台第一高等学校)</ref>。同校では新聞部に所属した<ref name="kahoku20141202Hankotsu" />。同校の同級生には三浦弘彰(後の[[栗駒町]]長)<ref>{{Cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13014.html |title=<文太さん逝く>被災者激励 地元に尽くす |newspaper=河北新報オンラインニュース |publisher=河北新報社 |date=2014-12-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141202033546/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141202_13014.html |archivedate=2014-12-02}}</ref>、一学年下には[[樋口陽一]](法学者)<ref>{{Cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141201_13050.html |title=【写真特集】菅原文太さん逝く 在りし日の姿振り返る |newspaper=河北新報オンラインニュース |publisher=河北新報社 |date=2014-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141202033633/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141201_13050.html |archivedate=2014-12-02}}</ref>や同じ新聞部の井上廈(劇作家:[[井上ひさし]])<ref name="kahoku20141202Hankotsu" />がおり、同校に隣接する[[宮城県仙台二華中学校・高等学校|宮城県第二女子高等学校]]には、後に共演することとなる[[若尾文子]]がいた<ref group="†">[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1179 スクリーンに風格を添える宮城出身の映画人たち 月形龍之介に始まり、菅原文太、鈴木京香、宮藤官九郎まで](佐藤忠男(映画評論家、日本映画大学学長) 2011年1月4日)や[https://web.archive.org/web/20141222005046/http://www.gruri.jp/article/2014/12120800/ 元夫「井上ひさし」 名作の「ネタ元」だった菅原文太さん――盟友・戦友・旧友が語った素顔の「菅原文太」](2014年12月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])([[西舘代志子|西館好子]](井上ひさしの元妻) [[週刊新潮]] 2014年12月11日号)によれば、井上ひさし作で仙台が舞台の「[[青葉繁れる]]」は、菅原文太らのエピソードを元に作られ、若尾文子がヒロイン・若山ひろ子のモデルとされる。</ref>。[[早稲田大学]][[二部 (大学)|第二]][[法学部]]法学科に進学する。


=== 芸能界へ ===
=== 芸能界へ ===
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[[2012年]](平成24年)2月初旬、2013年1月に公開予定の『[[東京家族 (映画)|東京家族]]』(監督・[[山田洋次]])主演から既に降板したことを発表。2月23日に都内で行われた「第64回[[日本消防協会]]定例表彰式」に出席した際にプレスインタビューに応じて映画を降板した理由として、クランクイン直前に[[東日本大震災]]が発生。故郷の宮城県をはじめ被災地で、公私ともに苦しい生活の続く人々が多いなか「どういうテーマであれ、今は映画を撮っている時じゃない。それは(山田洋次)監督も同じ考えだった」と語った。菅原はこの席で震災以後、劇映画の存在理由が見いだせないことを語った上で、自身が震災直前まで都内の病院に入院していたことも告白している<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/02/23/kiji/K20120223002691090.html 休業宣言?菅原文太 俳優活動控える「納得できるものあれば考える」] スポーツニッポン 2012年2月23日閲覧</ref>。
[[2012年]](平成24年)2月初旬、2013年1月に公開予定の『[[東京家族 (映画)|東京家族]]』(監督・[[山田洋次]])主演から既に降板したことを発表。2月23日に都内で行われた「第64回[[日本消防協会]]定例表彰式」に出席した際にプレスインタビューに応じて映画を降板した理由として、クランクイン直前に[[東日本大震災]]が発生。故郷の宮城県をはじめ被災地で、公私ともに苦しい生活の続く人々が多いなか「どういうテーマであれ、今は映画を撮っている時じゃない。それは(山田洋次)監督も同じ考えだった」と語った。菅原はこの席で震災以後、劇映画の存在理由が見いだせないことを語った上で、自身が震災直前まで都内の病院に入院していたことも告白している<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/02/23/kiji/K20120223002691090.html 休業宣言?菅原文太 俳優活動控える「納得できるものあれば考える」] スポーツニッポン 2012年2月23日閲覧</ref>。


[[2012年]](平成24年)11月13日、菅原が名誉顧問を務める民間非営利団体「ふるさと回帰支援センター」の設立10周年記念講演の席上で、56年に及ぶ役者生活にピリオドを打った旨を明らかにした。この時「デジタルはお断り」というコメントも発表しており、映像製作環境の変化にも言及している。12月5日には有志らとともに国民運動グループ「いのちの党」を結成し、代表として活動した<ref>{{Cite web|url=http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-64f6.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130413103920/http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-64f6.html|archivedate=2013-04-13|title=いのちの党発足|publisher=かまたみのるの八ヶ岳山麓日記([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)|date=2012-12-05|accessdate=2014-01-25}}</ref>。なお、「いのちの党」と名称が付いているが、あくまで「仲間の集まり」の意であって政界進出を意識してのものではないという。また、以前より噂されていた政界への進出は完全否定をした<ref>{{Cite news |title=菅原文太、役者引退を表明 |newspaper=デイリースポーツ online(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2012-11-14 |url=http://daily.co.jp/gossip/2012/11/14/0005525146.shtml |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121115174104/http://daily.co.jp/gossip/2012/11/14/0005525146.shtml |archivedate=2012-11-15 |accessdate=2014-01-25}}</ref>。入院直前の11月1日には、[[2014年沖縄県知事選挙|沖縄知事選]]候補の[[翁長雄志]]の応援演説に出席していた<ref>[http://www.asahi.com/and_w/life/SDI2014120216191.html 追悼 菅原文太さん 最後まで警鐘鳴らし続けた] - 朝日新聞 2014年12月2日</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20141202-1403682.html 菅原文太さん、安倍政権に反対の政治活動] - 日刊スポーツ 2014年12月2日</ref>。
[[2012年]](平成24年)11月13日、菅原が名誉顧問を務める民間非営利団体「ふるさと回帰支援センター」の設立10周年記念講演の席上で、56年に及ぶ役者生活にピリオドを打った旨を明らかにした。この時「デジタルはお断り」というコメントも発表しており、映像製作環境の変化にも言及している。12月5日には有志らとともに国民運動グループ「いのちの党」を結成し、代表として活動した<ref>{{Cite web|url=http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-64f6.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130413103920/http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-64f6.html|archivedate=2013-04-13|title=いのちの党発足|publisher=かまたみのるの八ヶ岳山麓日記([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)|date=2012-12-05|accessdate=2014-01-25}}</ref>。なお、「いのちの党」と名称が付いているが、あくまで「仲間の集まり」の意であって政界進出を意識してのものではないという。また、以前より噂されていた政界への進出は完全否定をした<ref>{{Cite news |title=菅原文太、役者引退を表明 |newspaper=デイリースポーツ online(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2012-11-14 |url=http://daily.co.jp/gossip/2012/11/14/0005525146.shtml |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121115174104/http://daily.co.jp/gossip/2012/11/14/0005525146.shtml |archivedate=2012-11-15 |accessdate=2014-01-25}}</ref>。入院直前の11月1日には、[[2014年沖縄県知事選挙|沖縄知事選]]候補の[[翁長雄志]]の応援演説に出席していた<ref>[http://www.asahi.com/and_w/life/SDI2014120216191.html 追悼 菅原文太さん 最後まで警鐘鳴らし続けた] - 朝日新聞 2014年12月2日</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20141202-1403682.html 菅原文太さん、安倍政権に反対の政治活動] - 日刊スポーツ 2014年12月2日</ref>。
また、自分の「がん完治」体験を元に、「がん克服」をテーマにした講演を入院直前まで度々行っている<ref>「肝臓にがん転移を知らずに「がん克服」講演を続けた最後の2カ月!」-週刊新潮 2014/12/11日号 </ref>。
また、自分の「がん完治」体験を元に、「がん克服」をテーマにした講演を入院直前まで度々行っている<ref>「肝臓にがん転移を知らずに「がん克服」講演を続けた最後の2カ月!」-週刊新潮 2014/12/11日号 </ref>。



2017年9月4日 (月) 14:24時点における版

すがわら ぶんた
菅原 文太
本名 菅原 文太
生年月日 (1933-08-16) 1933年8月16日
没年月日 (2014-11-28) 2014年11月28日(81歳没)
出生地 日本の旗 日本宮城県仙台市
死没地 日本の旗 日本東京都
身長 176cm
血液型 O型
職業 俳優声優ラジオパーソナリティ農家
ジャンル 映画テレビドラマCM
アニメーションラジオ
活動期間 1956年 - 2014年
配偶者 菅原文子
著名な家族 菅原加織(長男)
狭間二郎(父)
主な作品
映画
哀愁の街に霧が降る
白線秘密地帯
現代やくざシリーズ
関東テキヤ一家シリーズ
懲役三兄弟
血染の代紋
まむしの兄弟シリーズ
仁義なき戦いシリーズ
暴力街
山口組外伝 九州進攻作戦
県警対組織暴力
トラック野郎シリーズ
日本の仁義
ダイナマイトどんどん
総長の首
太陽を盗んだ男
炎のごとく
青春の門
制覇
修羅の群れ
ビルマの竪琴
鹿鳴館
映画女優
どら平太
わたしのグランパ
テレビドラマ
獅子の時代
警視庁殺人課
幸福の黄色いハンカチ
中卒・東大一直線 もう高校はいらない!
武蔵坊弁慶
武田信玄
戦艦大和
北の国から'92巣立ち
警部補 古畑任三郎
徳川慶喜
先生知らないの?
利家とまつ〜加賀百万石物語〜
高原へいらっしゃい
ハゲタカ
白旗の少女

劇場版アニメ
おおかみこどもの雨と雪
ゲド戦記
千と千尋の神隠し

ラジオ
菅原文太 日本人の底力
受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演男優賞
1980年 『太陽を盗んだ男』
第38回 会長特別賞[1]
ブルーリボン賞
主演男優賞
1975年
『県警対組織暴力』
トラック野郎・御意見無用
トラック野郎・爆走一番星
その他の賞
キネマ旬報賞
男優賞
1973年仁義なき戦い
報知映画賞
主演男優賞
1990年 『鉄拳』
日刊スポーツ映画大賞
助演男優賞
2003年 『わたしのグランパ』
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菅原 文太(すがわら ぶんた、1933年昭和8年〉8月16日 - 2014年平成26年〉11月28日[2])は、日本俳優声優ラジオパーソナリティ農業従事者である。宮城県仙台市出身。愛称は文ちゃん[3][4][5]・文太兄い。

代表作は映画仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズ。どちらも日本映画史に残る配給収入を上げた。父は洋画家、詩人の狭間二郎(元新聞記者)。妻は菅原のマネージャーを務めており、長男は菅原加織。他に娘が2人いる。

生涯

生い立ち

1931年(昭和6年)より河北新報社(仙台市)の記者をしていた父親の菅原芳助(洋画家・詩人:狭間二郎)[† 1]のもと、1933年(昭和8年)8月16日宮城県仙台市に生まれた[6]。4歳から小学校4年までは東京府(現・東京都)育ち[7]

1943年(昭和18年)に父親が出征すると、父親の実家がある宮城県栗原郡一迫町(現・栗原市)に疎開し、(旧制)宮城県築館中学校卒業まで同地で過ごした[8][9]1949年(昭和24年)、学制改革による新制高校の発足により、県内屈指の名門校である宮城県仙台第一高等学校に入学[8][9][10]。同校では新聞部に所属した[8]。同校の同級生には三浦弘彰(後の栗駒町長)[11]、一学年下には樋口陽一(法学者)[12]や同じ新聞部の井上廈(劇作家:井上ひさし[8]がおり、同校に隣接する宮城県第二女子高等学校には、後に共演することとなる若尾文子がいた[† 2]早稲田大学第二法学部法学科に進学する。

芸能界へ

大学在学中に中原淳一のモデルとなり、1954年(昭和29年)、旗揚げしたばかりの劇団四季に1期生として入団、初期の作品に端役として多数出演した。1955年(昭和30年)、早稲田大学を中退[9]1956年(昭和31年)に東宝の映画『哀愁の街に霧が降る』でデビュー。1957年(昭和32年)に岡田眞澄旗昭二池田二郎ら総勢8名で日本初の男性専門モデルクラブ、ソサエティ・オブ・スタイル[† 3]を設立し、雑誌やショーのファッション・モデルをしながら1958年(昭和33年)に喫茶店で新東宝の宣伝部員にスカウトされ[7]、映画俳優になる決心をし、新東宝に入社。同年『白線秘密地帯』で本格映画出演。

長身の新人二枚目スターの一団「ハンサムタワーズ」の一人として、吉田輝雄高宮敬二寺島達夫らと共に売り出された。主演作も多かったが、当時の新東宝は経営不振で低予算映画が主力路線だったため、世間的な知名度はそれほど高くなかった。この時代の映画としては『九十九本目の生娘』や1960年(昭和35年)の正月映画『女奴隷船』に主演して丹波哲郎とのアクション対決を演じた。

1960年に入ると、新東宝の経営が傾き、組合争議によって2回にわたり24時間ストが行われる。菅原はこの組合争議では陣頭で交渉役を任じている[13]

1961年(昭和36年)に新東宝が倒産したため、ハンサムタワーズのメンバーと共に松竹へ移籍。メロドラマホームドラマなど、女優主体の企画が多い松竹では脇役に甘んじる状態が続く中[† 4]、俳優の安藤昇に勧められ、ハンサムタワーズのメンバーと共に1967年(昭和42年)に東映へ移籍。

東映時代

東映に移籍はしたものの、ほとんどセリフの付かない役ばかりで、役を貰えないかと新東宝仲間である石川義寛監督の下宿を訪ねることもあったといい、東映京都撮影所作品『怪猫呪いの沼』(1968年)での端役も、石川監督が気の毒がって起用したものだったという[14]。翌1969年(昭和44年)の『現代やくざ 与太者の掟』が、東映での初主役作となる。この『現代やくざ』シリーズは1972年(昭和47年)まで続く作品群で、ヤクザを美化した従来の任侠映画ではなく、現実的な「ワル」を主人公にしたものであり、後の実録映画の先駆けとなった。また、同年には『関東テキヤ一家』シリーズ、1971年(昭和46年)からは『まむしの兄弟』シリーズに主演。

1973年(昭和48年)から始まった『仁義なき戦い』シリーズで、東映を代表するスターのひとりになった[15]。映画史に残る作品にもなったこのシリーズのヒットで東映は任侠路線から実録路線に転換[15]1974年(昭和49年)末からスタートした『新仁義なき戦い』シリーズや1975年(昭和50年)に始まる『トラック野郎』シリーズ(一番星・星桃次郎 役)もヒットした[16][17]

テレビドラマ・声優

新東宝時代より長らく映画に専念してきたが、1980年(昭和55年)に大河ドラマ獅子の時代』に主演。その後、大河ドラマでは『武田信玄』の板垣信方、『徳川慶喜』の徳川斉昭、『元禄繚乱』の細川越中守綱利、『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の前田利昌で出演した。1981年(昭和56年)に映画『青春の門』、『炎のごとく』に主演。その後は刑事ドラマなど、テレビドラマの主演・助演をしていた。東映時代は接点がなかった市川崑作品でも常連となっている。

1998年平成10年)から約10年間、岐阜県大野郡清見村(現在の高山市清見町)に移住[18]。農業政策等に高い関心を示し、多数の講演活動も行った。また、ナレーター・アニメーションコンピュータゲーム声優もこなすなど、幅広く活躍した。

2001年(平成13年)に俳優の長男菅原加織を鉄道の踏切事故で亡くし、周囲に「もう仕事したくない」と漏らしていたが、2003年(平成15年)放送のテレビドラマ『高原へいらっしゃい』で復帰。同年公開の映画『わたしのグランパ』で9年ぶりの最後の主演を果たした。

2007年(平成19年)に膀胱癌が判明し、筑波大学附属病院にて手術せずに放射線陽子線治療による膀胱温存療法を受けた[19][20]

俳優引退

2009年(平成21年)より山梨県韮崎市耕作放棄地を使って農業を始める。当時、俳優業は「半分引退した」と語った。

2012年(平成24年)2月初旬、2013年1月に公開予定の『東京家族』(監督・山田洋次)主演から既に降板したことを発表。2月23日に都内で行われた「第64回日本消防協会定例表彰式」に出席した際にプレスインタビューに応じて映画を降板した理由として、クランクイン直前に東日本大震災が発生。故郷の宮城県をはじめ被災地で、公私ともに苦しい生活の続く人々が多いなか「どういうテーマであれ、今は映画を撮っている時じゃない。それは(山田洋次)監督も同じ考えだった」と語った。菅原はこの席で震災以後、劇映画の存在理由が見いだせないことを語った上で、自身が震災直前まで都内の病院に入院していたことも告白している[21]

2012年(平成24年)11月13日、菅原が名誉顧問を務める民間非営利団体「ふるさと回帰支援センター」の設立10周年記念講演の席上で、56年に及ぶ役者生活にピリオドを打った旨を明らかにした。この時「デジタルはお断り」というコメントも発表しており、映像製作環境の変化にも言及している。12月5日には有志らとともに国民運動グループ「いのちの党」を結成し、代表として活動した[22]。なお、「いのちの党」と名称が付いているが、あくまで「仲間の集まり」の意であって政界進出を意識してのものではないという。また、以前より噂されていた政界への進出は完全否定をした[23]。入院直前の11月1日には、沖縄知事選候補の翁長雄志の応援演説に出席していた[24][25]。 また、自分の「がん完治」体験を元に、「がん克服」をテーマにした講演を入院直前まで度々行っている[26]

引退宣言以降もラジオでレギュラー番組『菅原文太 日本人の底力』のパーソナリティ、テレビドキュメンタリーのナレーターやCM出演などは務めており、2012年7月公開のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』にも声優として出演。結果的にこれが菅原の遺作となった[27]

死去

2014年11月13日に定期健診で病院を訪れてそのまま入院、入院中に高倉健(2014年11月10日没)の死去を知り、『健さん、東映、映画のことは時間を置いて自分で(思いを)書きます』と関係者に伝えていたという[2]。しかし11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全により東京都内の病院で死去(永眠)した[2]。満81歳没(享年82)。晩年は山梨県北杜市に住んでおり、11月30日に福岡県太宰府市太宰府天満宮祖霊殿で家族葬を行った[2]。12月1日、菅原文太の死去を発表するに際して妻が東映を通じてコメントを発表した[28]。高倉と共に東映任侠映画の二巨頭として、ブームの立役者であった菅原も高倉の後を追うかのように鬼籍に入った[17]

映画『日本暗殺秘録』、『仁義なき戦い 広島死闘篇』、『トラック野郎・度胸一番星』などで菅原と共演し、公私共に親交があった千葉真一は「(高倉)健さんに続いてなので、自分が滅入ってしまいます。もっと元気でいてほしかった。お二人とも日本の宝ですから。寂しい、その一語です」と悲しみに暮れた[3][29]。『仁義なき戦い』、『県警対組織暴力』などで共演してプライベートでもよく酒を飲み交わしていた松方弘樹は「追いつきたかった先輩だが、自分のピークの時にも脇に回ってくれ、そういう度量の大きさと裏表がない人だった。早いよ…」と天を仰ぎ[4][30]、同じく梅宮辰夫は「妻と初めてデートした時に付き合ってくれて、黙って飲んでいた。残り少ない昭和の映画スターが消えていくのは悔しいし悲しい」と肩を落とした[5][31]。映画『トラック野郎シリーズ』で共演した愛川欽也は、菅原の訃報に接して記者会見を行い、「きょとんとしちゃってるよ。ビックリしてます」と驚き、「鈴木則文監督も死んじゃったし、(トラック野郎の関係者は)だんだんいなくなるのかな…」とショックを隠しきれない様子で故人を偲んだ[32]。奇しくも愛川は菅原の後を追うかのように、2015年4月15日に死去(満80歳没)した。同じく共演したせんだみつおは「すごい知的な方で、学校の先生ような口調でお話下さいました。寂しくて寂しくてしょうがない。6年前に会ったのが最後で『頑張れよ、せんだ。トラック野郎なんだからな!』と激励されたのが最後の言葉でした」と涙ながらに語った[33][34]

東映からは岡田裕介が「(高倉に続き)また一本の矢が折れました。我が東映は、一丸となり折れない三本目の矢となる決意です」、高岩淡は「あのような俳優さんは二度と出ない。彼が京都で悪戦苦闘してくれたおかげで、東映は任侠映画から実録映画に移行することができた」、菅原主演の『まむしの兄弟シリーズ』を監督した中島貞夫は「監督と役者というより友達の間柄。今年5月に『俺たちも年をとったな』と対談企画が最後になるとは…。ショックだが今はただお疲れさんと言いたい」とそれぞれ追悼した[35]。菅原の付き人を務めていた宇梶剛士は「菅原文太という人は、いつでも弱き者の味方でした」と“芸能界の父親”をしのんだ[36]。このほかには吉永小百合泉谷しげる志村けん小林幸子はるな愛ら映画やバラエティ番組、CMなどで共演した芸能人や、スポーツ界から王貞治アントニオ猪木大久保博元らの追悼が寄せられた[35][37]

人物

父親としての一言を持ち、「げんこつおやじの会」を立ち上げた。また、若い女性の起用に偏重する近年の日本の芸能、マスメディアの風潮に批判的であり、そのために断る仕事も多かったという[† 5]

交友

三船敏郎を尊敬し「富士山のような存在」と賞賛していた。鶴田浩二とも共演が多かった。安藤昇とは、渋谷で交友を重ね、一緒に松竹入りしている。渥美清とは偶然、本屋で会っている。若山富三郎については「殴られたり散々されたけど、俺はやはりあの人が好きだった」と語っている。石原裕次郎とは同時期にデビューしたが共演経験は無い。石原慎太郎を「ボケ老人だね、アイツ。」と罵った。

井上ひさしとは同じ高校の先輩後輩で親友であり、代表作「吉里吉里人」の映画化権を預かっていて、菅原自身が自らのプロデュースで映画化すべく奔走していたが、その生前に実現することはなく幻になってしまった。また、晩年の野村秋介と交流があり『ドキュメント 風と拳銃 野村秋介の荒野』で映像証言をしている。

エピソード

仁義なき戦い

演出した深作欣二の臨終を親族と共に看取っており、葬儀では弔辞を読んだ。公開直後には自宅に少年が訪ねて来て「おやじさん、山守は絶対、俺が撃ってきますけん」と言うので「ありがとう、まあ、ラーメンでも食いに行こう」と連れ出して説得して帰ってもらった[38]。撮影中にも広島のヤクザ・不良から、道を譲ってもらったりして大変世話になったが、後に山口組の納会に出席していたのを「FOCUS」に撮られ、写真入りで報道された。原作者の飯干晃一はこの時の菅原を、「ヤクザの広告塔に利用されている」とワイドショーでコメントしている。[要出典]

2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙では広島6区(尾道市ほか)に立候補した国民新党亀井静香の応援に登場。亀井の唱える農業政策等を支持し、同じ選挙区に立候補した堀江貴文を批判、「向こう(堀江陣営)は仁義なき戦いをしているが、こちらは仁義ある戦いをしましょう」と亀井を激励した。その甲斐あってか、亀井は堀江を破って当選を果たした。この選挙戦の模様は、代表作『仁義なき戦い 広島死闘篇』になぞらえて「広島死闘篇」と呼ばれた[要出典]

2014年11月には沖縄知事選で翁長雄志陣営で応援演説を行い、「仁義なき戦い」ラストシーンのセリフを引用して、「仲井真さん、弾はまだ一発残っとるがよ」と述べた。

1989年平成元年)11月15日、『夜のヒットスタジオSUPER』に出演。翌週の11月21日には『NHK歌謡パレード』にも出演し、いずれも生放送で『港の男歌』を熱唱した。『夜ヒット』ではオープニングメドレーで米米CLUBの『sure dance』を「歌詞の朗読」という形で歌唱している。

バラエティー番組

1978年(昭和53年)12月9日放送の『8時だョ!全員集合』に出演したこともあり、1993年(平成5年)10月21日放送の『ダウンタウンDX』の第1回にもゲスト出演している。2005年(平成17年)4月7日放送の『クイズ$ミリオネア』では、田中康夫のサポーターとして出演した。2003年(平成15年)3月10日には『SMAP×SMAP』の「BISTRO SMAP」にも『わたしのグランパ』の宣伝で出演している。

その他

  • 菅田俊宇梶剛士プロレスラージョージ高野新崎人生は元付き人だった。
  • 漫画ONE PIECEに登場する海軍本部元帥(元・大将)「赤犬(本名・サカズキ)」は、「仁義なき戦い」の頃の菅原をモデルとしたキャラクターである[39][† 6]。また、2012年には菅原の妻が作者の尾田栄一郎七味唐辛子のパッケージデザインを依頼した[† 7]
  • 明石家さんまは自他ともに認める菅原の大ファン。『仁義なき戦い』第一作の土居組組長を射殺するシーンが特に好きで、「冷たい雨の中、肩をすぼめて眉間に皺を寄せ、煙草を吹かし標的を待つシーンをよく真似た」と語っている。「高校時代『夜桜銀二』と呼ばれていたんですよ」と菅原本人に見栄を張ったことも。まだ若手だった頃に空港で菅原に会い、サインを頼んだところ「俺が代わりに欲しいくらいだよ」と言われた話は、後年さんまが何度も披露している。ビートたけし曰く「その話は百回以上聞いた」との事。1997年12月28日放送の『たけし・さんまの有名人の集まる店』には菅原がゲスト出演している。
  • 2012年にアニメーション映画『おおかみこどもの雨と雪』に農家を営む韮崎役で出演しているが、苗字である「韮崎」の元ネタは菅原が山梨県韮崎市で農業を営んでいることに因んでおり、韮崎の顔も菅原を模したキャラクターデザインになっている。また、当作は菅原の遺作にもなった。
  • 自民党議員や著名人との会食中、武藤貴也が「「法律を改正し、自衛隊を送り、武力を以てしても、中国船舶を追い返し、国土(尖閣諸島)を守らなくてはいけない。これでは、日本の名誉が損なわれる」と発言したのに対して「君が行くのか。そこで一発でも銃弾が飛んだら戦争に発展し自衛官の命が失われる。それでもいいのか? 名誉など後でいくらでも取り返せるが人命はそうは行かない。君は何も分かっていないんだ。帰れ」と一喝。武藤は席を立ってそのまま戻らなかったという[40]

出演作品

テレビドラマ

映画

主演

助演

  • 哀愁の街に霧が降る(1956年、東宝) - 学生中川※映画デビュー作
  • 白線秘密地帯(1958年、新東宝) - 伍東
  • 女王蜂の怒り(1958年、新東宝) - 譲次
  • 猛吹雪の死闘(1959年、新東宝) - 菅野欣也
  • 大学の御令嬢(1959年、新東宝) - 安西満也
  • 爆弾を抱く女怪盗(1960年、新東宝) - 朝倉伸男
  • 太平洋戦争 謎の戦艦陸奥(1960年、新東宝) - 松本中尉
  • 黒い乳房(1960年、新東宝) - 谷口弘
  • 皇室と戦争とわが民族(1960年、新東宝) - 上原大尉
  • 女獣(1960年、新東宝) - 杉山正一
  • 男の世界だ(1960年、新東宝) - 菅原俊夫
  • 暴力五人娘(1960年、新東宝) - 南条和彦
  • 風流滑稽譚 仙人部落(1961年、新東宝) - 奈良山大吉
  • 湯の街姉妹(1961年、新東宝) - 会社員真二
  • 三味線とオートバイ(1961年、松竹) - 健二
  • 学生重役(1961年、松竹) - 木山茂
  • 男の歌(1962年、松竹) - 三枝
  • 京子の初恋 八十八夜の月(1962年、松竹) - 石川
  • 大笑い次郎長一家 三ン下二挺拳銃(1962年、東宝) - 伊集院蔵人
  • 学生芸者 恋と喧嘩(1962年、松竹) - 週刊誌吉田記者
  • 東京さのさ娘(1962年、松竹) - 佐藤健一
  • 空と海の結婚(1962年、松竹) - 大須賀昌三
  • 若いやつ(1963年、松竹) - 六造
  • 河内の風より あばれ太鼓(1963年、松竹) - 鉄
  • 残酷の河(1963年、松竹) - 彦市
  • 死闘の伝説(1963年、松竹) - 鷹森剛一
  • 港に消えたあいつ(1963年、松竹) - 西山雄二
  • 見上げてごらん夜の星を(1963年、松竹) - 三輪
  • 色ぼけ欲ぼけ物語(1963年、松竹) - 川田刑事
  • 駆逐艦雪風(1964年、松竹) - 山川技術少佐
  • 続・道場破り 問答無用(1964年、松竹) - 吉岡進之助
  • 香華(1964年、松竹) - 杉浦
  • 太陽を抱く女(1964年、松竹) - 細川八郎
  • 孤独(1964年、松竹) - 槙
  • さまざまの夜(1964年、松竹) - 堀田
  • にっぽんぱらだいす(1964年、松竹) - 友情出演
  • 夜の片鱗(1964年、松竹) - ヤクザ・田村
  • 明日の夢があふれてる(1964年、松竹) - 信夫
  • 母の歳月(1965年、松竹) - 刑事
  • 馬鹿っちょ出船(1965年、松竹) - 久保島安雄
  • 血と掟(1965年、松竹) - 尾形敬
  • 青雲やくざ(1965年、松竹) - 浅岡辰雄
  • 逃亡と掟(1965年、松竹) - 井上社長
  • 続青雲やくざ 怒りの男(1965年、松竹) - 子分浅岡
  • ハイウェイの王様(1965年、松竹) - 伊木達雄
  • 侠勇の花道 ドス(1966年、松竹) - 秋原実
  • 顔を貸せ(1966年、松竹) - 荒川
  • 炎と掟(1966年、松竹) - 大津
  • 男の魂(1966年、松竹) - 島崎俊也
  • 空いっぱいの涙(1966年、松竹) - 榊
  • 紀ノ川(1966年、松竹) - 教官
  • 男の顔は履歴書(1966年、松竹) - 徐延福
  • 阿片台地 地獄部隊突撃せよ(1966年、松竹) - 秋田大尉
  • 神火101 殺しの用心棒(1966年、松竹) - 超
  • シンガポールの夜は更けて(1967年、松竹) - バーテン丁
  • 宴(1967年、松竹) - 栗原中尉
  • 恋をしようよ カリブの花(1967年、松竹) - 弘松
  • 人妻椿(1967年、松竹) - 近藤
  • 網走番外地 吹雪の斗争(1967年、東映) - 蝮
  • 極道(1968年、東映) - 佐々木俊也
  • 前科者(1968年、東映) - 高山
  • 怪猫 呪いの沼(1968年、東映) - 柴山右近
  • 極悪坊主シリーズ(東映) - 了達
    • 極悪坊主(1968年)
    • 極悪坊主 人斬り数え唄(1968年)
    • 極悪坊主 念仏人斬り旅(1969年)
    • 極悪坊主 念仏三段斬り(1970年)
    • 極悪坊主 飲む打つ買う(1971年)
  • 兄弟仁義 逆縁の盃(1968年、東映) - 中井信吾
  • 兵隊極道(1968年、東映) - 庖丁
  • ごろつき(1968年、東映) - 山川一郎
  • 緋牡丹博徒シリーズ(東映)
    • 緋牡丹博徒 一宿一飯(1968年) - 白石
    • 緋牡丹博徒 お竜参上(1970年) - 青山常次郎
    • 緋牡丹博徒 仁義通します(1972年) - 北橋周平
  • 博徒列伝(1968年、東映) - 政吉
  • 不良番長シリーズ(東映)
    • 不良番長 猪の鹿お蝶(1969年) - 八代敬
    • 不良番長 練鑑ブルース(1969年) - 重光史郎
    • 不良番長 送り狼(1969年) - 西条文男
    • 不良番長 王手飛車(1970年) - 滝川雄平
    • 不良番長 一穫千金(1970年) - 桐原重男
    • 不良番長 暴走バギー団(1970年) - 五木勝
    • 不良番長 口から出まかせ(1970年) - 武田圭三
    • 不良番長 やらずぶったくり(1971年) - 伊吹信次
  • 旅に出た極道(1969年、東映) - 浅井保
  • やくざ刑罰史 私刑(1969年、東映) - 般若の常
  • 日本暴力団 組長(1969年、東映) - 風間努
  • 女親分 喧嘩渡世(1969年、東映) - 北橋修一
  • ごろつき部隊(1969年、東映) - 人見中尉
  • 日本暗殺秘録(1969年、東映) - 朝日平吾
  • 血染の代紋(1970年、東映) - 郡司健策
  • 新兄弟仁義(1970年、東映) - 新井竜太郎
  • 日本ダービー 勝負(1970年、東映) - 前川長太
  • 日本女侠伝 鉄火芸者(1970年、東映) - 小林勇吉
  • 極道兇状旅(1970年、東映) - 和泉辰也
  • 喜劇 ギャンブル必勝法(1970年、東映) - 雀士
  • 最後の特攻隊(1970年、東映) - 佐竹少尉
  • すいばれ一家 男になりたい(1971年、東映) - 風間健三
  • 女渡世人 おたの申します(1971年、東映) - 音羽清太郎
  • 喜劇 トルコ風呂王将戦(1971年、東映) - 浅井省吾
  • 関東兄弟仁義 仁侠(1971年、東映) - 高崎太一郎
  • 悪親分対代貸(1971年、東映) - 村瀬半次郎
  • 日本女侠伝 激斗ひめゆり岬(1971年、東映) - 中上鉄
  • 不良街(1972年、東映) - 杉隆三
  • 関東緋桜一家(1972年、東映) - 由次郎
  • 極道罷り通る(1972年、東映) - 石堂常男
  • 温泉スッポン芸者(1972年、東映) - 笹沢の子分
  • 博奕打ち外伝(1972年、東映) - 江川鉄次
  • やくざと抗争(1972年、東映) - 梅津
  • 緋ぢりめん博徒(1972年、東映) - 佐倉政之進
  • やくざ対Gメン 囮(1973年、東映) - 李忠信
  • 山口組三代目(1973年、東映) - 大長八郎
  • 海軍横須賀刑務所(1973年、東映) - 滝川少佐
  • 学生やくざ(1974年、東映) - 本間源吉
  • 暴力街(1974年、東映) - ギザゴロの辰
  • ルバング島の奇跡 陸軍中野学校(1974年、東映) - 滝口泰
  • 極道VSまむし(1974年、東映) - ゴロ政
  • あゝ決戦航空隊(1974年、東映) - 小園安名
  • 安藤組外伝 人斬り舎弟(1974年、東映) - 日向謙
  • 大脱獄(1975年、東映) - 国岩邦造
  • 神戸国際ギャング (1975年、東映) - 大滝健三
  • やくざ戦争 日本の首領(1977年、東映) - 石見栄三
  • 日本の首領 野望篇(1977年、東映) - 天坊信助
  • 日本の首領 完結篇(1978年、東映) - 川西明
  • 黄金の犬(1979年、松竹) - ダンプの運転手
  • 太陽を盗んだ男(1979年 キティ・フィルム・コーポレーション、東宝) - 山下満州男警部
  • 堕靡泥の星 美少女狩り(1979年、にっかつ) - 運転手
  • ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981年、東映)
  • 誘拐報道(1982年、東映) - 光宗パイロット
  • 制覇(1982年、東映) - 河上剛二
  • 修羅の群れ(1984年、東映) - 井沢輝一
  • ビルマの竪琴(1985年、東宝) - 三角山守備隊隊長
  • ザ・サムライ(1986年、東映) - 風来坊
  • 映画女優(1987年、東宝) - 溝内健二
  • 黒いドレスの女(1987年、東宝) - 庄司
  • つる -鶴-(1988年、東宝) - 鼻把の長者
  • YAWARA!(1989年、東宝) - 猪熊虎滋郎
  • マイフェニックス(1989年、東宝) - 篠村監督
  • リメインズ 美しき勇者たち(1990年、松竹) - 嘉助
  • 信号ばか(1990年、菅田事務所) - 山中有三
  • カンバック(1990年、松竹) - 評論家
  • 撃てばかげろう(1991年、東映) - 諸沢修次
  • 仁義 JINGI(1991年、東映) - 村岡医師
  • 奇跡の山 さよなら、名犬平治(1992年、東宝) - 谷口清三
  • 民暴の帝王(1993年、東映) - 灰原剛
  • 首領を殺った男(1994年、東映) - 千承会組長・駒崎
  • 斬り込み(1995年、イメージファクトリー・アイエム) - 辰巳仙吉
  • 修羅がゆく(1995年、スコルピオン) - 安藤医師
  • 南の島に雪が降る(1995年、リバース) - 1995年の首藤
  • 傷だらけの天使(1997年、松竹) - 倉井錠治
  • 日本極道史 野望の軍団(1999年、ミュージアム) - 皆川誠太郎
  • どら平太(2000年、日活) - 大河岸の灘八
  • 修羅の群れ(2002年、ミュージアム) - 九道見治
  • 新・影の軍団(2003年、シネマパラダイス)- 徳川家康
  • 猿飛佐助 闇の軍団(2004年) - 徳川家康
  • 新・影の軍団 最終章(2005年) - 徳川家康
  • 妖怪大戦争(2005年、松竹) - 稲生俊太郎
  • バッテリー(2007年、東宝) - 井岡洋三
  • 県警強行殺人班 鬼哭の戦場(2007年) - ナレーション
  • 地球でたったふたり(2008年、彩プロ) - 谷田の親父

オリジナルビデオ

  • ビッグボス(1992年 東映ビデオ) ※東映Vシネマ2周年記念作品で、息子の菅原加織と共演
  • 復讐は俺がやる(1992年 東映ビデオ) ※東映Vアメリカ作品で、総製作費5億円をかけたアクション大作
  • 斬り込み(1995年 イメージファクトリー・アイエム)
  • 実録 広島やくざ戦争(2000年)
    • 実録 広島やくざ戦争 完結篇(2000年)
  • 日本抗争烈島 牙の如く(2001年)- 津久井要蔵

舞台

テレビアニメ

劇場アニメ

ゲーム

ラジオ

バラエティ

CM

ディスコグラフィー

シングル
アルバム
  • 男の詩 旅立ち 放浪(1974年、ミノルフォンレコード) - 菅原文太1stLPアルバム
    • 男の詩 旅立ち 放浪(2015年1月28日、徳間ジャパンコミュニケーションズ TKCA-74200) - 初CD化
  • 男 / 健・文太(1974年5月、テイチクレコード) - 高倉健とのコラボLPアルバム。
  • 文太★キンキン / 歌え!!トラック野郎(東芝EMI) - キンキンとのコラボLPアルバム
  • 菅原文太 ベスト(2014年、テイチク TFC-676) - 菅原文太ベストアルバムCD

著書

写真集

脚注

注釈
  1. ^ 1903年(明治36年)1月29日、宮城県栗原郡生まれ。1919年(大正8年)、(旧制)宮城県築館中学校を卒業して第二早稲田高等学院に入学。1930年(昭和5年)、早稲田大学文学部英文科を卒業。1931年(昭和6年)、河北新報社記者となる。1943年(昭和18年)に徴兵され、1946年(昭和21年)に郷里の宮城県栗原郡一迫町に復員。1983年(昭和58年)2月21日神奈川県相模原市の相愛病院で死去。
  2. ^ スクリーンに風格を添える宮城出身の映画人たち 月形龍之介に始まり、菅原文太、鈴木京香、宮藤官九郎まで(佐藤忠男(映画評論家、日本映画大学学長) 2011年1月4日)や元夫「井上ひさし」 名作の「ネタ元」だった菅原文太さん――盟友・戦友・旧友が語った素顔の「菅原文太」(2014年12月22日時点のアーカイブ)(西館好子(井上ひさしの元妻) 週刊新潮 2014年12月11日号)によれば、井上ひさし作で仙台が舞台の「青葉繁れる」は、菅原文太らのエピソードを元に作られ、若尾文子がヒロイン・若山ひろ子のモデルとされる。
  3. ^ 略称SOS。2012年平成24年)現在は女性も所属。
  4. ^ 松竹時代、悪役を演じて注目された『死闘の伝説』、『香華』などの監督作品に菅原を起用した木下惠介が没した際、葬儀には参列している。
  5. ^ 「しかし、(女の子が多少悪いことをしても)大人たちはどうして黙認しているのだろうかね。なぜ、注意しないのか。むしろ、世の中全体が女の子たちを持ち上げているような影さえ感じるのだけれども。最近、俺は映画やテレビから仕事の話が来ても、興味を持てずに、断るのが多かった。大概若い女の子が主人公で、男の姿が一つもないからなんだ。テレビも雑誌も若い女性が中心で、同じようなストーリー。戦争を伝えるにも過剰に着飾った女子アナや女のナレーション。中には感じの良い女性もいるけど、つまらない女性たちがたくさんのさばっている。そんな女社会が俺は嫌いでね(1994年8月号『新潮45』での本人のコメントの一節)。
  6. ^ 誕生日もモデルと同じ8月16日
  7. ^ 週刊少年ジャンプNo.21・22(5月7・14日)合併号(2012年4月23日発売)、巻末コメント「菅原文太さんの奥様より七味唐辛子のパッケージイラストの依頼。嬉しい仕事でした。」
出典
  1. ^ 第38回日本アカデミー賞最優秀賞発表!、日本アカデミー賞公式サイト、2015年1月18日閲覧。
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外部リンク