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{{by|2004年}}、オールスター終了後ダイエー時代の球団代表だった[[瀬戸山隆三]]の要請で<ref name="スポーツニッポン、高橋慶彦の我が道、2015年11月28日"> スポーツニッポン、高橋慶彦の我が道、2015年11月28日</ref>[[千葉ロッテマリーンズ]]の一・二軍巡回コーチに就任した。{{by|2005年}}より正式に一軍走塁コーチとなり、自身と同じスイッチヒッターの遊撃手である[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]<ref name="週刊ベースボール2016年3月7日号" />を一人前に育てるなど、チームの日本一に貢献した。[[トム・ロブソン]]の指導で打撃が低迷していた[[李承燁 (野球)|李承燁]]を指導し、巨人移籍後李からの要請で指導したこともある<ref name="スポーツニッポン、高橋慶彦の我が道、2015年11月28日" />。{{by|2008年}}からは一軍打撃コーチを務めたが、{{by|2009年}}はチーム打率がリーグ最下位と低迷した<ref>[http://bis.npb.or.jp/2009/stats/tmb_p.html 2009年度 パシフィック・リーグ チーム打撃成績] 2009年</ref>。2009年の6月6日の[[中日ドラゴンズ]]戦終了後にはここ3試合33イニングでわずか3得点に終わり当時監督だった[[ボビーバレンタイン]]から「打撃コーチを一時的に交代させるとか、そんな事を含めて、これから打開策を考えないといけない」と批判された<ref>ボビー途中解任も 今度は閣内批判、2009年6月6日、[[スポーツ報知]]</ref>。{{by|2010年}}より[[二軍監督]]を務め、同年に[[イースタン・リーグ]]優勝(4年ぶり8度目)及びファーム選手権優勝(二軍日本一)に導く。{{by|2012年}}は一軍ヘッドコーチを務めたが、10月15日付で球団から退団を通知される<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/10269.html コーチ契約に関するお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月15日</ref>。 |
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{{by|2013年}}1月7日から3月7日まで[[東京スポーツ]]紙上で『赤ヘル機動力野球の申し子 高橋慶彦 赤い疾風伝説』(月曜日 - 木曜日発売分)を連載していた。 |
{{by|2013年}}1月7日から3月7日まで[[東京スポーツ]]紙上で『赤ヘル機動力野球の申し子 高橋慶彦 赤い疾風伝説』(月曜日 - 木曜日発売分)を連載していた。 |
2020年6月16日 (火) 22:30時点における版
千葉ロッテマリーンズコーチ時代 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道芦別市 |
生年月日 | 1957年3月13日(67歳) |
身長 体重 |
176 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 遊撃手、外野手 |
プロ入り | 1974年 ドラフト3位 |
初出場 | 1976年4月7日 |
最終出場 | 1992年5月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
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髙橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者・解説者・評論家である。現在のマネジメント契約は日本電波制作社。
経歴
プロ入り前
1957年、北海道芦別市にあった旧三井鉱山の炭坑街で生まれた。父・慶喜は宮城県鳴子町出身で、実業団のクロスカントリースキー選手であった[1]。現役時代は全日本スキー選手権大会で入賞歴もある[1]。慶喜の芝浦工業大学スキー部監督就任に伴い、4歳の時に、東京都清瀬市に移り住んだ。
1974年、城西高等学校のエース・4番として、3年時の第56回全国高等学校野球選手権大会に東東京代表として出場した。この際に披露した走塁が、広島東洋カープのスカウト・木庭教の目に留まることとなった。同年のプロ野球ドラフト会議で広島から3位指名を受け、入団。
プロ入り後
入団後間もなく打者に転向、監督の古葉竹識の指令でスイッチヒッターとなるべく打撃コーチの山本一義と共に猛特訓を開始。決して恵まれた体格ではなかったが、並外れた練習量とウエイトトレーニングで実力をつけ、1978年からレギュラーに定着した。
1970年代後半から1980年代の赤ヘル黄金時代に、1番打者として活躍した。ルーツの後を継いだ古葉竹識の下、「赤ヘル機動力野球の申し子」として3度の盗塁王を獲得。1979年には33試合連続安打の日本記録を打ち立てると、同年の日本シリーズでは全7試合で安打し、打率.444を記録、MVPに輝いた[2]。全盛期は福本豊の後継者とまで謳われ、その打撃・走塁スタイルは、山崎隆造や正田耕三ら後の広島を支えることになる後輩達にも強い影響を与えた。
山崎が頭角を現してからは主に1番高橋・2番山崎として、更に正田が台頭してからは自身の長打力も開花(後述参照)し、1番正田・2番山崎・3番高橋と俊足のスイッチヒッタートリオで上位打線を形成した。
1983年に更なる高みを目指し、広島に臨時コーチで来た山内一弘のレベルスイングを取り入れ本塁打を20本台へと増加させるが、一方で打率が下降し三振も増加した。これに関してはフォーム改造・本塁打増との因果関係も囁かれ(高橋本人は否定)、チームメイトの衣笠祥雄は安打だけを狙っていたら3000本安打を達成していたかもしれないと後年語っている。1984年はリーグ最多の97得点を記録し、同年のリーグ優勝に貢献。阪急との日本シリーズでは第3戦の4回に宮本四郎から2ラン、第7戦は5打数4安打1打点、30打数15安打打率.500、3打点を記録し、日本一に貢献。1987年には開幕2日前に催された激励会を「時期が悪い」とボイコットして球団との関係が悪化し、開幕から2週間の出場停止を言い渡される[3]。そのため、続けていた連続試合出場も途絶えるが、同年は謹慎中の12試合以外は全試合に出場した。1989年8月14日の中日ドラゴンズ戦では杉本正からサヨナラ本塁打を打っている。
また、1989年に入団した同ポジションの野村謙二郎の台頭もあって、同年オフ、高沢秀昭・水上善雄との大型トレードで、白武佳久・杉本征使と共にロッテ・オリオンズへ移籍した。応援歌は、歌詞を広島時代の「行くぞ狙いは盗塁王」で始まるものから「飛ばせロッテの核弾頭」で始まる内容に変更しただけでほぼそのまま流用された。前奏も広島時代より『暴れん坊将軍のテーマ』が使用された[4][5]。ロッテではマイク・ディアズらと中軸を組んでいた。
ロッテでは監督の金田正一の下、遊撃手より外野手として期待されていたが、既に全盛を過ぎており思うような成績を挙げることができなかった。1990年オフに遠山奬志とのトレードで阪神タイガースへ移籍。
1991年は開幕から左翼手で起用されたが調子が上がらず、シーズン最終盤の9月末からの7試合は本職の遊撃手で起用された。打撃成績は前年よりも悪化し、打率.206、本塁打0、打点2に終わった。
1992年は遊撃一本で挑みシーズン序盤の4月に6試合遊撃手で先発出場した以外は新人の久慈照嘉の台頭により出場機会が余り得られないまま、この年限りで現役引退した。
引退後
引退後はテレビ東京・テレビ大阪・アール・エフ・ラジオ日本プロ野球解説者、1993年は大阪、1994年は東京を拠点に解説者を務めた[6]。1995年から1996年まで福岡ダイエーホークスの一軍打撃・走塁コーチ、1997年は二軍守備・走塁兼打撃コーチを務めた。選手の起用法を巡ってバッテリーコーチの達川光男と対立、広島時代から折り合いがよくなかったが選手が目を丸くするほどの揉み合いも起こし、達川は体調不良を理由に1年で退任した[7]。達川は「打撃、守備コーチの高橋慶彦との関係うんぬんされることもあったけど、辞任とは一切関係ない。確かに開幕前にケンカしたけど、原因は100%私にあった。そもそもカープで一緒にプレーした頃から言い争いした仲。王さんに「兄弟けんかは終わったか?」と気を使ってもらってね。慶彦も「たっちん、みんなが変なこと言う方仲良くしましょうね」と言ってくれてすぐ握手した」[8]と回顧している。村松有人[9]や浜名千広[9]ら後のホークスを支える若手を育成した。
ダイエー退団後は、1998年は浪人を経て、1999年から2001年までは九州朝日放送(KBC)[10]・2002年から2003年頃まではCS系テレビ[11]の野球解説者を務める傍ら、2000年から2003年までスポーツニッポン(福岡)野球評論家を務めた。その一方、フジテレビの番組『奇跡体験!アンビリバボー』にて、ガーナでの野球の普及活動に力を注いだ。
2004年、オールスター終了後ダイエー時代の球団代表だった瀬戸山隆三の要請で[12]千葉ロッテマリーンズの一・二軍巡回コーチに就任した。2005年より正式に一軍走塁コーチとなり、自身と同じスイッチヒッターの遊撃手である西岡剛[9]を一人前に育てるなど、チームの日本一に貢献した。トム・ロブソンの指導で打撃が低迷していた李承燁を指導し、巨人移籍後李からの要請で指導したこともある[12]。2008年からは一軍打撃コーチを務めたが、2009年はチーム打率がリーグ最下位と低迷した[13]。2009年の6月6日の中日ドラゴンズ戦終了後にはここ3試合33イニングでわずか3得点に終わり当時監督だったボビーバレンタインから「打撃コーチを一時的に交代させるとか、そんな事を含めて、これから打開策を考えないといけない」と批判された[14]。2010年より二軍監督を務め、同年にイースタン・リーグ優勝(4年ぶり8度目)及びファーム選手権優勝(二軍日本一)に導く。2012年は一軍ヘッドコーチを務めたが、10月15日付で球団から退団を通知される[15]。
2013年1月7日から3月7日まで東京スポーツ紙上で『赤ヘル機動力野球の申し子 高橋慶彦 赤い疾風伝説』(月曜日 - 木曜日発売分)を連載していた。
2013年には映画『ダイヤモンド(製作:オールインエンタテインメント、監督:本間利幸)に主演した[16]。同年9月22日に日本テレビで放送された番組『有吉反省会』に出演した際「映画の主役に抜擢されたが、その演技がひどすぎる」と反省した[17]。
2012年、福島県郡山市の宅建業者、ウェルズホームに入社し、広報部長を務める[18]。
また、2014年からテレビ新広島(TSS)・中国放送(RCC)などで野球解説者としての活動を再開したが(本数契約)、社業などのスケジュールの都合からTSSでの初回出演予定は金石昭人に変更となった。また、その他では広島ホームテレビ(HOME)等在広局の番組にも時々出演していた。
2015年10月15日に2016年からオリックス・バファローズの一軍打撃コーチに就任することが発表された[19]。チーム打率、得点がリーグ最下位に終わり、10月2日付で退団が発表された[20]。
60歳の誕生日を控える2017年3月3日、自身の公式YouTubeチャンネル「カープよしひこチャンネル」を開設した。過去のテレビ番組出演や試合の様子が投稿されたり、カラオケを歌っている動画などが新たに撮影されて投稿されている。
プレースタイル
高橋は、スイッチヒッターとして打率3割を5度、20本塁打以上を4度記録し、33試合連続安打という日本記録まで樹立した。この成功により、一躍日本球界にスイッチヒッターの有効性が知れ渡ることとなり、後進に計り知れない影響を及ぼした。スイッチヒッター転向時、山本一義打撃コーチと行った猛特訓では、朝から晩までバットを振り続け、食事時や寝る時もバットを手離さず、これで体を壊さないのが不思議なほどだと言われていた。その結果、まだ器具を使った筋力トレーニングが取り入れられていない時代に、野球の練習だけでボディビルダーさながらの強靭な肉体を作り上げることに成功した。
1984年の日本シリーズでは1番打者として、打率.500(通算30打数15安打)、1本塁打、3打点、3盗塁(3試合連続盗塁のシリーズ記録)、8得点と自身がMVPを受賞した1979年の日本シリーズ以上の成績を残し、チームの日本一に貢献したが、長嶋清幸が打率.333、3本塁打、10打点という活躍を見せたため、惜しくも高橋はMVPには選ばれなかった(優秀選手賞に選出されている)。
通算477盗塁は歴代5位の記録だが、盗塁死も多く、通算206盗塁死は福本豊の299に次いで歴代2位であり、広島・阪神時代に記録した通算202盗塁死はセ・リーグ記録である。また、1983年には70盗塁を記録するものの、28盗塁死を喫しており、これがシーズン盗塁死のセ・リーグ記録となっている。また、この年は読売ジャイアンツの松本匡史が76盗塁を記録して盗塁王を獲得しており(この松本の76盗塁はセ・リーグ記録)、70盗塁は盗塁王を逃した記録としては、現在に至るまで最多記録である。
人物
広島においては数少ない、全国区の知名度を持った選手であった。小説家・村上龍が高橋をモデルに書いた『走れ!タカハシ』はベストセラーとなり[21]、また自身の発売した『君の声がきこえる』『うわさのセクシークイーン』などのレコードは、5万枚の売り上げ記録している。
人なつっこく明るい性格で、交友範囲が広かった。秋野暢子が高橋を弟のように可愛がっていた(ただし秋野と高橋は同学年)。またビートたけしや浜田省吾など、仕事で広島に訪れる有名人を「今日飲みましょう」と誘い、広島の歓楽街・流川で飲み歩く姿が度々目撃されていた。ビートたけしと島田洋七が漫才ブームで儲けて、憧れの"銀座で飲む!"と初めて銀座に繰り出したが、どこの店に入ったらいいか分からないので、高橋に紹介してもらった店に行ったという(『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』島田洋七、徳間書店、2007年9月)。
昼も夜も飲み屋のママに買ってもらったと噂された真っ赤なポルシェ・911を乗り回し[22]、遊び人としても有名で、叶和貴子など芸能人との噂も多かった。そのため「夜も盗塁王」などと揶揄されたこともある。交際していたひとりの無名女優は後に「高橋慶子」の芸名でアダルトビデオに出演したこともあった。当時広島の独身寮「三篠寮」は、門限が10時半で1分でも遅刻したら罰金だったが[22]、既に一流スターだった高橋と北別府学の二人は門限なしの、日々の寮生活でも自由が与えられていた[22]。寮では基本的には酒を飲めなかったが、高橋と北別府の部屋では飲んでもOKだったため、川口和久らはよく高橋の部屋で飲んだという[22]。高橋と北別府は仲が悪く、高橋のポルシェに対抗するため、北別府はリンカーン・コンチネンタルを乗っていた[22]。また大の電話魔で、常に10円玉を大量に携帯し(まだテレホンカードもなかった時代のため)、そのためポケットにしょっちゅう穴が空いていたという。板東英二の著書では、広島で1年間ヘッドコーチをしたドン・ブレイザーの娘に電話攻勢をかけたり、ハワイ・キャンプの間に電話代を200万円使ったこともあると記されているが、これは間違いである。まず広島がハワイでキャンプをしていないことを挙げ、200万の件も否定。ハワイではなくフロリダ(当時の教育リーグにて)から、シンディではなく日本人の女の子に電話したとのことである。当時広島の「三篠寮」では、新人は3分以上電話してはならないというルールがあり[23]、高橋の前に川口が長電話すると激怒し、川口ら新人を玄関に集合させて正座させ「お前らどういう教育しとるんじじゃ!連帯責任じゃ!」と怒鳴り付け、ポリバケツのフタで全員の頭を殴った[23]。
その一方で、上記のスイッチヒッター転向のエピソードにもうかがえるように「練習の虫」と名づけられるほどの努力家でもあった。足を故障したときも、バッターボックスに椅子を置き、それに座ってフリーバッティングをしていた、付き合っている女性のマンションにバットを持ち込んで夜中に素振りを繰り返していた[24]、など、枚挙に暇がない。
同年代に活躍し現役晩年に阪神で同僚となった田尾安志と同様、一言居士な気質で、若手の頃から首脳陣や先輩にも臆することしなく堂々と意見をぶつけるほどの硬骨漢としても知られる。後年現役時代を振り返り、「自分は減らず口ばかり叩いてきたから、ベテランになれば出されるのは覚悟していた」と語っている。また、当時の大下剛史守備走塁コーチから一方的な誤解による鉄拳制裁を受けて(1983年ごろ)大下との関係が悪化し、それが1989年オフのロッテ移籍の要因のひとつになったとも言われている(高橋本人は否定)。また、北別府学や達川光男とは現役時代関係が険悪だったという[25]。この影響かどうかは不明だが、KBC解説者時代も、テレビ朝日系列全国中継や広島ホームテレビの県域ローカル中継への出向出演はなかった(当時キー局・テレビ朝日と広島ホームテレビの解説者をその当事者である大下と北別府が兼ねていた。ただし、タレントとしてはテレビ朝日・広島ホームテレビ制作番組への出演はあった)[26]。ただし、北別府は、高橋について、2019年にJA広島のイベントで久々に共演し(他に安仁屋宗八・長嶋清幸と)、その後自身のオフィシャルブログ(2019年6月15日)で「但し、野手側と投手側の見解の相違から生じた建設的な言い合いでしたからリスペクトの気持ちはずっと持ち続けておりました」と述べている。
江夏から若い時の自分に性格が似ていると言われたことがあり「生意気で目上の人にも臆さずものを言うから(トレードに)出されたけど、なんでもハイハイ言うてる性格ならお互いプロでここまで活躍できてないのじゃないか」と言われたときはなるほどと納得したという。
阪神在籍時代の1991年3月28日、藤井寺球場の近鉄バファローズとのオープン戦で、始球式で山田雅人にボールをぶつけられてしまう。また同年5月に発表された前年の高額納税者リスト(長者番付)のプロ野球選手部門で上位にランク入りしたが、これは、広島で所有していた不動産をロッテ移籍によって売却して得られた収入の納税によるものが多かったためである(時あたかもバブル期であった)。
1995年9月16日の対日本ハム戦で死球に激怒し捕手の坊西浩嗣に殴りかかったロブ・デューシーへ向かって飛び蹴りをしたことがある(しかし、狙いが外れ藤本博史に直撃した)。また2007年7月17日のロッテ対オリックス戦でオリックスのタフィ・ローズが里崎智也に暴行を加え乱闘になった際、オリックス打撃コーチのジョン・ディーバスと激しくやり合い、退場処分を受けている。
従兄弟として、俳優で歌手の高橋良明と歌手・高橋知秀の兄弟がいる。しかしながら、高橋良明はバイク事故のために16歳で死亡、また高橋知秀も後年の交通事故によって芸能活動から退いている。また、娘の高橋雛子も声優・モデルとして芸能活動を行っている[27]。
引退後のカープとの関係
広島での現役時代には様々な問題を抱えていたが、決して広島が嫌いなわけではなく、トレードが確定的になった時期も、知人に「出来れば広島に骨を埋めたい」と洩らしていたといわれる。
コーチ就任後は、広島市民球場でのセ・パ交流戦試合終了後に、バスがホテルに向かう直前までバスの窓から広島ファンにひたすらサインを続けていた。
解説者・タレント時代は在広放送局の番組(特にRCC・tss)への出演もあったほか、ホークス戦の解説でも「広島式の練習方法をホークスも取り入れてみてはどうか」と提案することもあった。本人は「広島に(コーチとして)復帰したい気持ちがあるが(松田元)オーナーと喧嘩をしたので無理でしょう」と語っている。2006年12月8日、二宮清純が主宰するシンポジウム「東京カープ会」にゲストとして参加。古葉監督時代の広島の様子や、遊撃手として居合わせた「江夏の21球」の裏話などを披露した。
2008年12月6日、同年度で閉鎖となる広島市民球場で行われた「カープOBオールスターゲーム」では久々に広島のユニフォーム[28]に袖を通し、1番・遊撃手で先発出場して3安打1盗塁で最優秀選手に選ばれた。その際「僕は引退試合をしていない。ファンのみなさんのおかげで、今日は僕にとっての引退試合になった」とコメントした。スタンドから現役当時同様に「ヨシヒコ」コールを浴び、「帰って来い!」という声があちこちから聞こえた。打席では捕手の達川と談笑する場面もあった。
その他
後楽園球場の電光掲示板では、選手名が「高橋ょ」と表示されていた。これは、当時の後楽園球場の掲示板はドットが粗く、画数の多い「慶」の字が表示できなかったための窮余の策であった(のちに「高橋慶」の表示が可能となった)。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976 | 広島 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1977 | 58 | 141 | 130 | 23 | 38 | 6 | 2 | 0 | 48 | 6 | 14 | 2 | 2 | 0 | 7 | 0 | 2 | 33 | 3 | .292 | .338 | .369 | .707 | |
1978 | 110 | 472 | 427 | 72 | 129 | 19 | 10 | 7 | 189 | 47 | 15 | 20 | 1 | 1 | 32 | 0 | 11 | 46 | 3 | .302 | .365 | .443 | .808 | |
1979 | 120 | 535 | 490 | 86 | 149 | 22 | 7 | 5 | 200 | 33 | 55 | 16 | 1 | 1 | 32 | 3 | 11 | 56 | 3 | .304 | .360 | .408 | .768 | |
1980 | 130 | 590 | 550 | 68 | 169 | 24 | 11 | 5 | 230 | 33 | 38 | 20 | 3 | 1 | 28 | 1 | 8 | 51 | 3 | .307 | .349 | .418 | .767 | |
1981 | 111 | 490 | 460 | 72 | 133 | 23 | 4 | 5 | 179 | 31 | 14 | 11 | 3 | 2 | 19 | 0 | 6 | 38 | 3 | .289 | .324 | .389 | .714 | |
1982 | 130 | 589 | 546 | 75 | 147 | 20 | 5 | 6 | 195 | 27 | 43 | 24 | 7 | 0 | 29 | 1 | 7 | 66 | 3 | .269 | .314 | .357 | .672 | |
1983 | 124 | 531 | 465 | 91 | 142 | 23 | 3 | 24 | 243 | 58 | 70 | 28 | 5 | 3 | 54 | 1 | 3 | 64 | 1 | .305 | .379 | .523 | .902 | |
1984 | 126 | 556 | 495 | 97 | 150 | 23 | 4 | 23 | 250 | 71 | 30 | 9 | 10 | 4 | 44 | 2 | 3 | 79 | 5 | .303 | .361 | .505 | .866 | |
1985 | 130 | 601 | 533 | 96 | 147 | 10 | 2 | 24 | 233 | 68 | 73 | 18 | 7 | 4 | 54 | 0 | 3 | 89 | 4 | .276 | .343 | .437 | .781 | |
1986 | 130 | 583 | 552 | 88 | 157 | 33 | 2 | 21 | 257 | 55 | 39 | 15 | 4 | 1 | 20 | 0 | 4 | 91 | 8 | .284 | .314 | .466 | .779 | |
1987 | 118 | 521 | 462 | 65 | 130 | 21 | 2 | 11 | 188 | 53 | 28 | 8 | 9 | 5 | 40 | 2 | 2 | 61 | 4 | .281 | .338 | .407 | .745 | |
1988 | 127 | 546 | 499 | 58 | 119 | 24 | 3 | 11 | 182 | 43 | 32 | 13 | 9 | 4 | 33 | 2 | 1 | 54 | 5 | .238 | .285 | .365 | .650 | |
1989 | 127 | 540 | 491 | 63 | 131 | 21 | 0 | 12 | 188 | 47 | 13 | 15 | 5 | 2 | 37 | 0 | 3 | 59 | 12 | .267 | .321 | .383 | .704 | |
1990 | ロッテ | 100 | 294 | 261 | 33 | 54 | 6 | 2 | 9 | 91 | 28 | 7 | 4 | 7 | 2 | 23 | 0 | 0 | 41 | 1 | .207 | .269 | .349 | .618 |
1991 | 阪神 | 57 | 139 | 126 | 14 | 26 | 4 | 0 | 0 | 30 | 2 | 6 | 2 | 3 | 0 | 10 | 0 | 0 | 17 | 2 | .206 | .265 | .238 | .503 |
1992 | 19 | 27 | 23 | 2 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 1 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | .217 | .296 | .261 | .557 | |
通算:17年 | 1722 | 7155 | 6510 | 1003 | 1826 | 280 | 57 | 163 | 2709 | 604 | 477 | 206 | 76 | 31 | 465 | 12 | 64 | 849 | 60 | .280 | .333 | .416 | .749 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- ベストナイン:5回 (1978年 - 1980年、1983年、1986年)
- 月間MVP:1回 (1979年7月)
- 日本シリーズMVP:1回 (1979年)
- 日本シリーズ打撃賞:1回 (1979年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1984年)
記録
- 初記録
- 初出場:1976年4月7日、対ヤクルトスワローズ1回戦(広島市民球場)、2回裏に佐野嘉幸の代走として出場
- 初先発出場:1977年4月10日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、1番・遊撃手として先発出場
- 初盗塁:同上、1回表に二盗(投手:江本孟紀、捕手:田淵幸一)
- 初安打:1977年4月21日、対中日ドラゴンズ3回戦(広島市民球場)、5回裏に星野仙一から
- 初打点:1977年6月5日、対大洋ホエールズ9回戦(札幌市円山球場)、7回表に高橋重行から
- 初本塁打:1978年6月27日、対横浜大洋ホエールズ12回戦(広島市民球場)、7回裏に斉藤明雄からソロ
- 節目の記録
- 1000安打:1984年8月7日、対読売ジャイアンツ15回戦(後楽園球場)、1回表に西本聖から右前安打 ※史上133人目
- 300盗塁:1985年7月6日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、8回表に二盗(投手:池田親興、捕手:木戸克彦) ※史上16人目
- 1000試合出場:1985年8月20日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、2番・遊撃手として先発出場 ※史上257人目
- 350盗塁:1985年10月21日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(広島市民球場)、8回裏に二盗(投手:斉藤明夫、捕手:小山昭晴) ※史上11人目
- 100本塁打:1986年4月8日、対読売ジャイアンツ1回戦(後楽園球場)、1回表に西本聖から先頭打者本塁打
- 400盗塁:1987年6月25日、対中日ドラゴンズ14回戦(広島市民球場)、5回裏に二盗(投手:小松辰雄、捕手:中村武志) ※史上6人目
- 1500安打:1988年4月23日、対阪神タイガース5回戦(阪神甲子園球場)、7回表に中田良弘から中前安打 ※史上55人目(1304試合での達成は当時歴代6位の速度:現在は歴代9位)
- 450盗塁:1988年10月18日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、5回表に本盗(投手:中本茂樹、捕手:秦真司)
- 150本塁打:1989年7月18日、対ヤクルトスワローズ13回戦(明治神宮野球場)、9回表に矢野和哉から左越逆転決勝2ラン ※史上88人目
- 1500試合出場:1989年8月8日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、7回表に大野豊の代打として出場 ※史上94人目
- 1000得点:1991年10月8日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、6回表にトーマス・オマリーの犠飛で生還し達成 ※史上23人目
- その他の記録
- 日本シリーズ3試合連続盗塁(1984年) ※シリーズ記録
- 33試合連続安打(1979年6月6日 - 7月31日) ※日本記録
- 11試合連続得点(1982年6月8日 - 6月22日)
- 8試合連続盗塁(1983年5月26日 - 6月4日)
- 6試合連続盗塁:2回 (1979年6月17日 - 6月23日、1986年10月5日 - 10月12日)
- 1試合4盗塁:2回 (1982年5月30日、1983年4月30日)
- 通算初回先頭打者本塁打34本(表13本、裏21本) ※歴代3位
- セ・リーグ通算初回先頭打者本塁打32本(表12本、裏20本) ※歴代2位
- 2試合連続初回先頭打者本塁打(1989年6月4日 - 6月6日)
- 開幕戦初回先頭打者本塁打:1回 (1989年4月8日)
- 左右打席本塁打:1983年4月26日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、1回表に井本隆から(左打席)・4回表に梶間健一から(右打席)
- シーズン20本塁打以上・70盗塁以上:2回 (1983年、1985年) ※2回達成者は史上唯一
- 初回先頭から3者連続本塁打:1989年6月4日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(秋田市営八橋球場)、1回裏に1番・高橋、2番・正田耕三、3番・ウェイド・ロードンで木田勇から
- オールスターゲーム出場:6回 (1979年、1980年、1983年 - 1986年)
背番号
- 40 (1975年 - 1977年)
- 2 (1978年 - 1989年、1991年 - 1992年)
- 5 (1990年)
- 85 (1995年 - 1996年)
- 72 (1997年)
- 87 (2004年 - 2012年)
- 88 (2016年)
関連情報
著書
- 赤い疾風 背番号2 - 熱球悲願(1983年、恒文社) ISBN 978-4770405203
- 赤き哲学(2014年2月15日、ベストセラーズ) ISBN 978-4584135488
ディスコグラフィ
- ソロEPシングル
全作品ミノルフォンレコードからの発売。
- 君の声が聞こえる/青春の1ページ(1980年発売、KA-1194)
- うわさのセクシークイーン/ハッピーナイスデイ(1981年発売、KA-2003)
- 鏡の中のメモリー/想い出は風のように(1982年発売、KA-2033)
- 僕の世界へ/君の声がきこえる(1982年発売、KA-2070)
- ソロLPアルバム
- YOSHIHIKO 高橋慶彦ベストアルバム(1982年発売、ミノルフォンレコード、KC-9529) 特別付録 大型ポスター 4頁グラフつき。
- 参加EPシングル
- ビクトリー(1984年4月1日発売、コロンビア、AH-443) メインボーカルは細川たかし、高橋慶彦は原辰徳・岡田彰布・宇野勝・遠藤一彦・荒木大輔と共にコーラス参加。
- 今が青春パートII(1985年発売) 為五郎と赤ヘル青春仲間
- 関連EPレコード
- ショート・ストップ・エンジェル「高橋慶彦のテーマ」 / 行け!!スーパー・ヒーロー「山本浩二のテーマ」(キングレコード、GK-344) 歌:深水無門
映画
- アゲイン 28年目の甲子園(2015年1月17日、東映)
- ダイヤモンド(オールインエンタテインメント、2013年8月3日公開) - 西田 役[29](主演)
過去の出演番組
- 東芝GOODDAY GOODMUSIC(RCCラジオ)
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本)
- 象印クイズ ヒントでピント(テレビ朝日)
- なるほど!ザ・ワールド (フジテレビ) - 1986年プロ野球シーズンオフに秋野暢子と組んでパネラーで出演。解答する際に司会の愛川欽也からなぜか「広島くん!」と呼ばれていた。
- ベースボールLive(テレビ東京。出演していた野球中継の現行タイトル)
- ナマ虎スタジアム(テレビ大阪。出演していた野球中継の現行タイトル)
- ゴールデンナイター・プロ野球中継(KBCテレビ)
- KBCジャンボナイター・KBCダイナミックホークス実況中継(KBCラジオ)
- 夢空間スポーツ(FBS福岡放送)
- 高橋慶彦のスポーツ一番(KBCラジオ)
- スーパーワイド(TBSテレビ)
- 夢がMORI MORI(フジテレビ) - 引退後。広島の後輩である佐々岡真司や町田公二郎(共に同時在籍経験なし)と一緒にキックベースに挑戦し、見事番組レギュラー陣に勝利している。
- 奇跡体験!アンビリバボー(フジテレビ)
- 週刊パパたいむ(RCCテレビ)
- 報道ステーション(テレビ朝日系列)
- HOME Jステーション(広島ホームテレビ)- ロッテコーチ時代、2008年8月25日に放送された特集「赤ヘル黄金時代を支えた高橋慶彦さんの旧球場の思い」にVTR出演。
- 森田一義アワー 笑っていいとも!(フジテレビ)1983年、テレフォンショッキングに出演。
- 有吉反省会(2013年9月22日 日本テレビ)自らが出演した映画『ダイヤモンド』での演技を反省。
- イマなま3チャンネル(RCCテレビ)- 野球中継のゲスト解説と自著『赤き哲学』の宣伝も兼ねて出演。
- 知りため!プラス(テレビ新広島)- 自著『赤き哲学』の宣伝も兼ねて出演。
- 鯉のはなシアター(広島ホームテレビ)- VTRを交え現役時代を回顧。
- 村上信五とスポーツの神様たち「元祖カープ神・高橋慶彦」(2015年4月22日 フジテレビ)- スタジオゲスト出演。30年前のカープ黄金期の話などを語った。
- 全力応援! TSSプロ野球中継(テレビ新広島。現行タイトル) - 達川光男の中日コーチ就任に伴い、本数契約で解説者として出演予定が発表されたが、初回は金石昭人に変更。その後は出演実績なし。
- RCCカープナイター/カープデーゲーム中継(RCCテレビ) - 本数契約でゲスト解説者として出演。
脚注
- ^ a b 『月刊カープファン』1980年5月号
- ^ 『昭和55年 写真生活』p30-31(2017年、ダイアプレス)
- ^ 【4月8日】1987年(昭62) 開幕2日前 広島“内乱”オーナー代行激怒「出なくていい」
- ^ 高橋の阪神移籍後は平井光親のテーマに流用された。また、前奏を含めた応援歌自体も阪神移籍後に広島応援団へ返還され、緒方孝市のテーマとして流用された。
- ^ 選手の応援歌が移籍先でも流用される事例は当時は極めて珍しいものであり、2010年代に入った現在でもこの事例は少ない。ただし、引退後に同じ球団の別の選手に流用される事例は多々ある。
- ^ スポーツニッポン、高橋慶彦の我が道2015年11月27日
- ^ 安枝新俉、人間・王貞治―89野球魂 (学研新書)、学習研究社、2009年、P30
- ^ スポーツニッポン、達川光男の我が道㉗、2019年11月28日、11版
- ^ a b c 週刊ベースボール2016年3月7日号、P103
- ^ KBC野球解説者の在任時期については次の資料を参照。
- 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(『ホームラン』2000年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)…P217掲載のプロフィールに2年目との記述あり。
- 過去のKBCラジオプロ野球中継公式サイト(インターネットアーカイブより)
- 1999年(日本シリーズ開幕前)当時(1999年10月5日付保存キャッシュ)
- 2001年9月当時(同月の日程が掲載)(2002年3月23日付保存キャッシュ)
- ^ 次の資料を参照。
- 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』(『ホームラン』2002年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)…P239より、「フリーCS系」としてプロフィールが掲載。
- 『12球団全選手カラー百科名鑑2003』(同2003年3月号増刊。同発行)…P238より、「フリー・CS系」としてプロフィールが掲載。
- ^ a b スポーツニッポン、高橋慶彦の我が道、2015年11月28日
- ^ 2009年度 パシフィック・リーグ チーム打撃成績 2009年
- ^ ボビー途中解任も 今度は閣内批判、2009年6月6日、スポーツ報知
- ^ コーチ契約に関するお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月15日
- ^ 主演は高橋慶彦! 元プロ野球選手9人出演の任侠映画が完成 スポーツニッポン 2013年7月16日閲覧
- ^ 八幡が今度は大吉に告白、有吉衝撃の結末に お笑いナタリー 2013年9月22日閲覧
- ^ 高橋慶彦さん広報部長に就任 - ウェルズホーム社長日記、2012年11月20日。
- ^ オリ来季コーチ陣 1軍は準総取っ替え デイリースポーツ 2015年10月15日閲覧
- ^ コーチの退団について 2016年10月2日、球団公式サイト
- ^ 後年、大森一樹監督によって映画化されたときにはすでに高橋が現役を引退していたため、人物をイチローに変更し『走れ!イチロー』として制作された。
- ^ a b c d e 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈11〉』2008年4月24日3頁。
- ^ a b 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈12〉』2008年4月25日3頁。
- ^ お笑いワイドショー マルコポロリ 昭和イケメンプロ野球選手大集合! 超モテ&赤面エピソード
- ^ 赤坂英一の野球丸『明るい広島キャンプ』 - 赤坂英一。ウェッジ、2017年2月14日。
- ^ 過去にKBCで解説者を務めた河村英文(現役末期に広島在籍経験あり)は広島ホームテレビにも時折出演していた他、後任の西村龍次はテレビ朝日にも球種解説で出演していた。
- ^ 高橋 雛子 [@h_nakonako] (2018年9月1日). "ボール、喜んで頂けて父も幸せだと思います(*´-`*)!". X(旧Twitter)より2019年6月30日閲覧。
- ^ 入団時に着用していた紺色ロゴのデザインだが、背番号は当時の「40」ではなく、赤色ロゴに変更されてからの「2」だった。なお、これ以前も評論家時代には、OBオールスター戦への出場やテレビ番組への出演時に広島のユニフォームを時々着用している。
- ^ “劇場公開作品|オールイン エンタテインメント”. オールイン エンタテインメント 2017年5月9日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 高橋慶彦 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 高橋慶彦 所属事務所 テレビ・ラジオ・取材・トークイベントに関する問い合わせ先 日本電波制作社
- 株式会社ウインドイン プロフィール、テレビ・イベント出演等の問い合わせページ
- 高橋慶彦 (@yoshihiko_2) - X(旧Twitter)
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