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=== 近鉄時代 ===
=== 近鉄時代 ===
{{by|1997年}}シーズンルーキーイヤーながら52試合に登板し、リリーフばかりの登板で100奪三振を超えるなど主にセットアップとして活躍した。
{{by|1997年}}はルーキーイヤーながら52試合に登板し、リリーフばかりの登板で100奪三振を超えるなど主にセットアップとして活躍した。


{{by|1998年}}シーズン[[赤堀元之]]に代わるクローザーとしてパ・リーグ新記録の35[[セーブ]]を挙げ、[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]に輝く。
{{by|1998年}}は[[赤堀元之]]に代わるクローザーとしてパ・リーグ新記録の35[[セーブ]]を挙げ、[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]に輝く。


{{by|1999年}}シーズンは故障でシーズンの半分を棒に振ったが、その後も不動のクローザーとして活躍。
{{by|1999年}}は故障でシーズンの半分を棒に振ったが、その後も不動のクローザーとして活躍。


{{by|2000年}}シーズン39試合に登板して1勝3敗24セーブ防御率2.38の成績を残し、最下位に沈んだチームの中で奮闘した。
{{by|2000年}}は39試合に登板して1勝3敗24セーブ防御率2.38の成績を残し、最下位に沈んだチームの中で奮闘した。


{{by|2001年}}シーズンは開幕戦からセーブを挙げるも、不安定な投球が続き、中継ぎや二軍へ降格する屈辱も味わう。しかし、シーズン後半の9月には自身2度目の月間MVPを受賞する活躍を見せた。48試合に登板して2勝5敗26セーブ防御率4.02とやや安定感は欠いたが、近鉄の12年ぶり4回目のリーグ優勝に貢献。ちなみに当時自身のニックネームを公募するという企画があり、背番号11に因んだ「鉄人11号」といった候補などがあったが意に合うものがなく企画を白紙にした。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]との[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は球団にとって最後の日本シリーズとなり、大塚は第2戦と第5戦に登板。第2戦でのセーブで日本シリーズで最後にセーブを挙げた近鉄の投手となり、この試合はチーム最後の日本シリーズ勝利となった。第5戦は7回二死から登板し、1回1/3を無失点に抑えたがチームは敗れ、球団史上初の日本一とはならなかった。近鉄は2004年シーズン終了後に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]と合併して消滅したため、大塚が近鉄の投手として日本シリーズで最後に登板した投手となった。
{{by|2001年}}は開幕戦からセーブを挙げるも、不安定な投球が続き、中継ぎや二軍へ降格する屈辱も味わう。しかし、シーズン後半の9月には自身2度目の月間MVPを受賞する活躍を見せた。48試合に登板して2勝5敗26セーブ防御率4.02とやや安定感は欠いたが、近鉄の12年ぶり4回目のリーグ優勝に貢献。ちなみに当時自身のニックネームを公募するという企画があり、背番号11に因んだ「鉄人11号」といった候補などがあったが意に合うものがなく企画を白紙にした。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]との[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は球団にとって最後の日本シリーズとなり、大塚は第2戦と第5戦に登板。第2戦でのセーブで日本シリーズで最後にセーブを挙げた近鉄の投手となり、この試合はチーム最後の日本シリーズ勝利となった。第5戦は7回二死から登板し、1回1/3を無失点に抑えたがチームは敗れ、球団史上初の日本一とはならなかった。近鉄は2004年シーズン終了後に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]と合併して消滅したため、大塚が近鉄の投手として日本シリーズで最後に登板した投手となった。


{{by|2002年}}シーズンは開幕直前に脇腹痛で出遅れたこともあり、登板数は前年を下回る41試合に留まったものの、2勝1敗22セーブ防御率1.28を記録し安定感抜群の投球内容を見せた。シーズン終了後、[[ポスティングシステム]]でのメジャーリーグ移籍を目指したがメジャーからの入札はなかった。大塚はポスティングにかけられた時点で余剰戦力になったはずであると主張し、[[自由契約]]を希望した。
{{by|2002年}}は開幕直前に脇腹痛で出遅れたこともあり、登板数は前年を下回る41試合に留まったものの、2勝1敗22セーブ防御率1.28を記録し安定感抜群の投球内容を見せた。シーズン終了後、[[ポスティングシステム]]でのメジャーリーグ移籍を目指したがメジャーからの入札はなかった。大塚はポスティングにかけられた時点で余剰戦力になったはずであると主張し、[[自由契約]]を希望した。


=== 中日時代 ===
=== 中日時代 ===
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{{by|2003年}}12月10日、[[サンディエゴ・パドレス]]が30万ドルで落札し、2年契約で同球団に入団。
{{by|2003年}}12月10日、[[サンディエゴ・パドレス]]が30万ドルで落札し、2年契約で同球団に入団。


{{by|2004年}}シーズンは、4月6日の対[[ロサンゼルス・ドジャース]]戦でメジャーデビュー。最初は敗戦処理としてのスタートだったが、4月に初勝利と初セーブを挙げると以降はセットアッパーとして定着。6月11日の対[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦では、8回と9回を投げて打者6人を完璧に抑え、[[松井秀喜]]とも対戦した。9月には[[ESPN]]の選出する「お買い得だったFA選手ベスト10」の6位にランクインした。最終的に日本人選手シーズン最多記録となる73試合に登板し<ref>{{Cite news |title=登板の通算&年間記録 |work=MLB日本人選手記録ライブラリ |url=http://mlbjapanese.web.fc2.com/records/games_played_p.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222100348/http://mlbjapanese.web.fc2.com/records/games_played_p.html |archivedate=2014-02-22 |deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、リリーフ投手中リーグ3位の防御率1.75と同5位の奪三振率10.13、2位の被打率.199を記録し、リーグ最多の34[[ホールド]]を達成した。
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{{by|2005年}}シーズンは、アウェイで0勝8敗、防御率6.92、WHIP2.08と打ち込まれ、前年のシーズンより成績を下げたがホームでは防御率1.23、WHIP0.95と好投し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献した。
{{by|2005年}}シーズンは、アウェイで0勝8敗、防御率6.92、WHIP2.08と打ち込まれ、前年のシーズンより成績を下げたがホームでは防御率1.23、WHIP0.95と好投し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献した。


=== レンジャーズ時代 ===
=== レンジャーズ時代 ===
{{by|2006年}}シーズンの1月4日に[[クリス・ヤング (投手)|クリス・ヤング]]、[[エイドリアン・ゴンザレス]]、[[ターメル・スレッジ]]とのトレードで、ビリー・キリアン、[[アダム・イートン]]と共に[[テキサス・レンジャーズ]]へ移籍。開幕前には3月に開催された[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)]]の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]に選出された。抑えとして5試合に登板し、日本代表の優勝に貢献した。特に決勝戦では8回裏一死で1点差に迫られた直後という厳しい場面からの登板となったが、わずか4球で二死を取り、1点差に追い詰められていた日本代表を救った。味方が4点を追加した後の9回を1失点で切り抜け、WBC初の[[胴上げ]]投手となった。
{{by|2006年}}1月4日に[[クリス・ヤング (投手)|クリス・ヤング]]、[[エイドリアン・ゴンザレス]]、[[ターメル・スレッジ]]とのトレードで、ビリー・キリアン、[[アダム・イートン]]と共に[[テキサス・レンジャーズ]]へ移籍。開幕前には3月に開催された[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)]]の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]に選出された。抑えとして5試合に登板し、日本代表の優勝に貢献した。特に決勝戦では8回裏一死で1点差に迫られた直後という厳しい場面からの登板となったが、わずか4球で二死を取り、1点差に追い詰められていた日本代表を救った。味方が4点を追加した後の9回を1失点で切り抜け、WBC初の[[胴上げ]]投手となった。


レギュラーシーズンではクローザーを務めていた[[フランシスコ・コーデロ]]の不調に伴い、クローザーに抜擢。メジャー屈指の投手有利の球場であった[[ペトコ・パーク]]をホームとしていた前年のシーズンと変わり、メジャー屈指の打者有利の球場である[[レンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントン]]をホームとすることとなったが、ホームでは防御率1.67、WHIP0.99と好投した。9月3日の対[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]戦では[[佐々木主浩]]以来日本人メジャーリーガー2人目となる30セーブを達成。その後は頭痛の影響により19日から登板がなくシーズンを終えたが、最終的にリリーフ投手中リーグ7位の与四球率1.66と安定した制球力を見せて2勝4敗32セーブ、リリーフ投手中リーグ8位の防御率2.11、同8位のWHIP1.07の成績を残した。
レギュラーシーズンではクローザーを務めていた[[フランシスコ・コーデロ]]の不調に伴い、クローザーに抜擢。メジャー屈指の投手有利の球場であった[[ペトコ・パーク]]をホームとしていた前年のシーズンと変わり、メジャー屈指の打者有利の球場である[[レンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントン]]をホームとすることとなったが、ホームでは防御率1.67、WHIP0.99と好投した。9月3日の対[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]戦では[[佐々木主浩]]以来日本人メジャーリーガー2人目となる30セーブを達成。その後は頭痛の影響により19日から登板がなくシーズンを終えたが、最終的にリリーフ投手中リーグ7位の与四球率1.66と安定した制球力を見せて2勝4敗32セーブ、リリーフ投手中リーグ8位の防御率2.11、同8位のWHIP1.07の成績を残した。
[[File:AkinoriOtsuka.jpg|thumb|レンジャーズ時代(2007年)]]
[[File:AkinoriOtsuka.jpg|thumb|レンジャーズ時代(2007年)]]


{{by|2007年}}シーズン[[エリック・ガニエ]]の加入により、再び[[リリーフ#中継ぎ|セットアップマン]]として起用されることになった。6月20日の対[[シカゴ・カブス]]戦では[[サミー・ソーサ]]がメジャーリーグ史上5人目となる通算600号本塁打を放ち、ブルペンで投球練習をしていた大塚がそれを捕球し、ソーサ本人に手渡した。その後も好投を続けていたが、7月9日に右肘を痛め[[故障者リスト]](DL)入り。そのままシーズンを終える。同年のシーズンオフには球団側から契約延長の申し出がなく、FAとなった。
{{by|2007年}}は[[エリック・ガニエ]]の加入により、再び[[リリーフ#中継ぎ|セットアップマン]]として起用されることになった。6月20日の対[[シカゴ・カブス]]戦では[[サミー・ソーサ]]がメジャーリーグ史上5人目となる通算600号本塁打を放ち、ブルペンで投球練習をしていた大塚がそれを捕球し、ソーサ本人に手渡した。その後も好投を続けていたが、7月9日に右肘を痛め[[故障者リスト]](DL)入り。そのままシーズンを終える。同年のシーズンオフには球団側から契約延長の申し出がなく、FAとなった。この年を最後に2014年まで実戦から遠ざかることになり、球団への所属もなく手術によるリハビリが続くことになる


=== レンジャーズ退団後 ===
=== レンジャーズ退団後 ===

2022年6月24日 (金) 15:41時点における版

大塚 晶文
中日ドラゴンズ 投手コーチ #76
信濃時代(2013年9月23日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市花見川区
生年月日 (1972-01-13) 1972年1月13日(52歳)
身長
体重
186 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 NPB / 1997年5月13日
MLB / 2004年4月6日
最終出場 NPB / 2003年
MLB / 2007年7月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導歴
  • 信濃グランセローズ (2014)
  • 中日ドラゴンズ (2015 - 2017)
  • エルパソ・チワワズ (2017 - 2021)
  • 中日ドラゴンズ (2022 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
WBC 2006年
獲得メダル
日本の旗 日本
ワールド・ベースボール・クラシック
2006 野球

大塚 晶文(おおつか あきのり、1972年1月13日 - )は、千葉県千葉市花見川区出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、コーチ

2003年から2007年までの登録名大塚 晶則(読み同じ)。

経歴

プロ入り前

幼い頃に父が借金を抱え蒸発したため、借金を抱えながら働く母によって育てられ、母と兄と姉の4人で貧しい生活を送る[1]。小学3年生の時に地元こてはし台の少年野球チームに入り野球を始める[2]

高校は横芝敬愛高等学校に進学するが、1年生の時に母が病気で他界[2]。兄と姉、後見人の支えもあり、野球を続ける[2]。高校時代、4回戦で八千代東高校と対戦し、3-2で八千代東を破った。この試合後、八千代東のエースだった恩田寿之(のち、新日鐵君津・かずさマジック)から千羽鶴を手渡された。しかし5回戦で八千代松陰高校に敗れ、甲子園出場は逃した。大塚は後年、「これが僕の高校時代の一番の思い出です」と語っている(当時の新聞記事)。

高校卒業後は首都大学野球連盟所属の強豪校・東海大学に入学。4年春にはリーグ最優秀投手に輝く。大学卒業後は社会人野球日本通運に進み、2年目から都市対抗野球大会に補強選手で出場する。
第73回都市対抗大会では本田技研の補強としてエース・入来祐作との2本柱で優勝に貢献し、胴上げ投手となる[3]

1996年度ドラフト会議にて近鉄バファローズから2位指名を受け、入団。背番号は、野茂英雄のメジャー移籍後、空き番号となっていた11を自ら希望し、継承した。

近鉄時代

1997年はルーキーイヤーながら52試合に登板し、リリーフばかりの登板で100奪三振を超えるなど主にセットアップとして活躍した。

1998年赤堀元之に代わるクローザーとしてパ・リーグ新記録の35セーブを挙げ、最優秀救援投手に輝く。

1999年は故障でシーズンの半分を棒に振ったが、その後も不動のクローザーとして活躍。

2000年は39試合に登板して1勝3敗24セーブ防御率2.38の成績を残し、最下位に沈んだチームの中で奮闘した。

2001年は開幕戦からセーブを挙げるも、不安定な投球が続き、中継ぎや二軍へ降格する屈辱も味わう。しかし、シーズン後半の9月には自身2度目の月間MVPを受賞する活躍を見せた。48試合に登板して2勝5敗26セーブ防御率4.02とやや安定感は欠いたが、近鉄の12年ぶり4回目のリーグ優勝に貢献。ちなみに当時自身のニックネームを公募するという企画があり、背番号11に因んだ「鉄人11号」といった候補などがあったが意に合うものがなく企画を白紙にした。ヤクルトスワローズとの日本シリーズは球団にとって最後の日本シリーズとなり、大塚は第2戦と第5戦に登板。第2戦でのセーブで日本シリーズで最後にセーブを挙げた近鉄の投手となり、この試合はチーム最後の日本シリーズ勝利となった。第5戦は7回二死から登板し、1回1/3を無失点に抑えたがチームは敗れ、球団史上初の日本一とはならなかった。近鉄は2004年シーズン終了後にオリックス・ブルーウェーブと合併して消滅したため、大塚が近鉄の投手として日本シリーズで最後に登板した投手となった。

2002年は開幕直前に脇腹痛で出遅れたこともあり、登板数は前年を下回る41試合に留まったものの、2勝1敗22セーブ防御率1.28を記録し安定感抜群の投球内容を見せた。シーズン終了後、ポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を目指したがメジャーからの入札はなかった。大塚はポスティングにかけられた時点で余剰戦力になったはずであると主張し、自由契約を希望した。

中日時代

2003年シーズン開幕前の3月20日に金銭トレード中日ドラゴンズへ移籍。シーズン途中で退団したエディ・ギャラードに代わりクローザーを務めて1勝3敗17セーブ防御率2.09の成績を挙げ、セ・リーグでも力を見せつけた。シーズン途中に登録名晶文から晶則に変更(登録名を変えたのは、「晶文」では「あきのり」とあまり読んでもらえなかったため)。シーズンオフに再びポスティングでの移籍を目指した。

パドレス時代

2003年12月10日、サンディエゴ・パドレスが30万ドルで落札し、2年契約で同球団に入団。

2004年4月6日の対ロサンゼルス・ドジャース戦でメジャーデビュー。最初は敗戦処理としてのスタートだったが、4月に初勝利と初セーブを挙げると以降はセットアッパーとして定着。6月11日の対ニューヨーク・ヤンキース戦では、8回と9回を投げて打者6人を完璧に抑え、松井秀喜とも対戦した。9月にはESPNの選出する「お買い得だったFA選手ベスト10」の6位にランクインした。最終的に日本人選手シーズン最多記録となる73試合に登板し[4]、リリーフ投手中リーグ3位の防御率1.75と同5位の奪三振率10.13、2位の被打率.199を記録し、リーグ最多の34ホールドを達成した。

2005年シーズンは、アウェイで0勝8敗、防御率6.92、WHIP2.08と打ち込まれ、前年のシーズンより成績を下げたがホームでは防御率1.23、WHIP0.95と好投し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献した。

レンジャーズ時代

2006年1月4日にクリス・ヤングエイドリアン・ゴンザレスターメル・スレッジとのトレードで、ビリー・キリアン、アダム・イートンと共にテキサス・レンジャーズへ移籍。開幕前には3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。抑えとして5試合に登板し、日本代表の優勝に貢献した。特に決勝戦では8回裏一死で1点差に迫られた直後という厳しい場面からの登板となったが、わずか4球で二死を取り、1点差に追い詰められていた日本代表を救った。味方が4点を追加した後の9回を1失点で切り抜け、WBC初の胴上げ投手となった。

レギュラーシーズンではクローザーを務めていたフランシスコ・コーデロの不調に伴い、クローザーに抜擢。メジャー屈指の投手有利の球場であったペトコ・パークをホームとしていた前年のシーズンと変わり、メジャー屈指の打者有利の球場であるレンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントンをホームとすることとなったが、ホームでは防御率1.67、WHIP0.99と好投した。9月3日の対クリーブランド・インディアンス戦では佐々木主浩以来日本人メジャーリーガー2人目となる30セーブを達成。その後は頭痛の影響により19日から登板がなくシーズンを終えたが、最終的にリリーフ投手中リーグ7位の与四球率1.66と安定した制球力を見せて2勝4敗32セーブ、リリーフ投手中リーグ8位の防御率2.11、同8位のWHIP1.07の成績を残した。

レンジャーズ時代(2007年)

2007年エリック・ガニエの加入により、再びセットアップマンとして起用されることになった。6月20日の対シカゴ・カブス戦ではサミー・ソーサがメジャーリーグ史上5人目となる通算600号本塁打を放ち、ブルペンで投球練習をしていた大塚がそれを捕球し、ソーサ本人に手渡した。その後も好投を続けていたが、7月9日に右肘を痛め故障者リスト(DL)入り。そのままシーズンを終える。同年のシーズンオフには球団側から契約延長の申し出がなく、FAとなった。この年を最後に2014年まで実戦から遠ざかることになり、球団への所属もなく手術によるリハビリが続くことになる。

レンジャーズ退団後

2008年1月9日にトミー・ジョン手術を受け、その後、リハビリを続けていたが2010年1月22日に3度目の肘の手術を受けた[5]。その後も現役復帰へ向けてリハビリを続けた。

2011年5月20日にペトコ・パークで始球式に出席し、トレバー・ホフマンの発案により東日本大震災のチャリティーの一環としてホフマンと共にサイン会を行った[6]。6月にはこの年サマーリーグに初参加したサムライオールジャパンで投手兼任コーチとして実戦復帰することとなったが[7]、登板機会はなかった。

2012年8月にNOMOベースボールクラブの青少年育成活動の一環として行われた中学生チームによる日米親善試合で、長谷川滋利が総監督を務めるアメリカ代表チームで投手コーチを務めた[8]

右肘の状態が上向かないため左投げにも挑戦していたが、2013年は再び右投げ一本での現役復帰を目指した[9]

独立リーグ・信濃時代

2013年5月に独立リーグであるベースボール・チャレンジ・リーグ信濃グランセローズへ入団することが決まった[10]。登録名も本名に戻すことになった。6月8日に中野市営野球場で記者会見を行い正式に入団しが、6月下旬の練習中に遠投した際に右肩を痛め、シーズン終了まで登板することなくシーズンを終えた。12月3日に同年のシーズン限りで辞任した岡本哲司にかわる信濃グランセローズの新監督に就任することが発表された[11]

2014年シーズンの7月21日の試合後に、ベンチ前で行ったミーティングで、3選手を平手打ちしたとし[12]、7月24日に7試合の出場停止処分を受ける[13]。9月15日の新潟戦(長野五輪)で実に7年2か月ぶりとなる公式戦登板を果たし[14]、打者1人を空振り三振に抑え、現役引退を表明[15]。大塚と高須の引退により、近鉄バファローズに所属した選手が全員引退した。

現役引退後

2015年シーズンには、中日ドラゴンズの二軍投手コーチに就任。背番号は「74[16]

2016年シーズンは、春季キャンプから一軍に配置転換。これは、1月に腰のヘルニアを除去する手術を受けた近藤真市一軍投手コーチの長期休養に伴う措置で、これにより前年のシーズン限りで現役を引退した編成部の朝倉健太が二軍投手コーチ兼任で配置転換された[17]。2月23日、近藤が現場復帰を果たしたため二軍に配置転換。9月26日、第1回WBSC U-23ワールドカップの日本代表コーチを務めることが発表された[18]。背番号は「40」。

2017年シーズンは、派遣コーチ兼国際渉外担当に配置転換。NPBのコーチ登録をしたまま、パドレス傘下のエルパソ・チワワズの投手コーチブルペン担当に就任。また、長年国際渉外担当として在籍していた足木敏郎の退団で手薄になっていた北米における選手調査も任される[19][20]

2018年シーズンは、NPBのコーチ登録はされなくなったが、引き継ぎアメリカに在住し、中日編成部としてスカウトやパドレス3Aのコーチを務めた。

2020年、6月に長男の虎之介(外野手、当時・22歳、サンディエゴ大3年)がMLBのドラフト指名に漏れたことが話題になった[21]

2021年10月29日、中日ドラゴンズの一軍投手コーチに就任することが発表された[22]。背番号は「76」。

プレースタイル

ボールの出どころの見えにくいフォームから最速96mph(約154.5km/h)の速球と縦のスライダーフォークボールチェンジアップを投げる[23]。特にスライダーはイチローから「球が消える」と評された他、ラモン・ヘルナンデスからは「他の球種が必要ないほどのスライダーだ」と評された[24]

人物

近鉄在籍時の背番号11であったのは、大塚の尊敬する選手が野茂英雄であり野茂と同じ背番号を希望したため[25](大塚がメジャーリーガーとしてのキャリアをスタートした際の背番号16も、野茂がロサンゼルス・ドジャースでメジャーリーガーとしてのキャリアをスタートした際の背番号である)。WBC、レンジャーズでの背番号40は「四球ゼロ」及び「試合が締まる」を意味している。

中日移籍後も近鉄時代の先輩である久保康生から譲り受けた(デサント製の)グラブを使用していた。

中日には1年しかいなかったにもかかわらず、中日の選手たちとの交流は続いている。落合英二とはメル友。日米野球で日本に凱旋した際には「対戦したい選手は仲の良い井端」と言っていた。岡本真也も大塚を師匠のように慕い、「2004年のリーグ優勝に大きく貢献できたのは大塚さんのおかげ」とも言っている。このようなこともあり、中日からポスティング移籍をする際にはメジャー移籍か中日残留かで随分と迷いがあったという。しかしその背中を押してくれたのが自分を一番必要としているはずの、当時新監督として中日に来た落合博満であり、「自分が一番後悔しないように道を選ばなくちゃいけないぞ」といわれ、メジャー移籍を決断したという。

パドレス時代には抑えたときの口癖である「ヨッシャー!」がチームメイトに流行し、その後、実況アナウンサーまでもが「ヨッシャー!」を使用するようになり、ペトコ・パークでは大塚が最後の打者を打ち取るとバックスクリーンの大型ビジョンに「YOSSHAA!」と表示された。2005年8月に開設したブログでは、通常1S、2S……と表記するセーブ数の記録を1Y、2Y……(Yは「ヨッシャー!」の略)と表している。

日本代表としてWBC第1回大会への出場が決まった際には、アメリカ国内で放送されたESPNのWBC関連のコマーシャルに日本代表として出演した(台詞は全くなし)。

当時のパドレスのクローザーだったトレバー・ホフマンとは親交が深く、パドレス時代にはシーズン中に病院や孤児院への慰問を共同で行うなどもしていた。テキサス・レンジャーズ移籍後は、登板の際に流す入場曲はホフマンのトレードマークとも言えるAC/DCの『ヘルズ・ベルズ』を使用していた(ホフマンに2006 ワールド・ベースボール・クラシックの際に連絡を入れて決勝のみの使用を当初は許可してもらったが、その後さらに話をしてレギュラーシーズン中の使用を快諾してもらったそうである)。また、決勝戦はパドレスの本拠地であるペトコパークで行われたため、観戦していたパドレスファンは曲を聴いて大いに盛り上がった。2004年にはホフマンとジェイク・ピービーと共にパドレスの球団CMに出演。ホフマンとピービーから自身の入場テーマ曲を決めてはどうかと勧められた大塚が、和服を着た女性の三味線演奏をバックにモーニング娘。の「LOVEマシーン」を歌うというコミカルな内容であった。また、サンディエゴの害虫駆除会社のCMにも出演し、この時は食事中に害虫を見つけた大塚が「なんじゃこりゃ!?」と驚いた後にバットでその害虫を叩く(勢い余ってテーブルごと破壊する)というものであった。

野球のワールドカップ(現実世界のワールド・ベースボール・クラシックに相当)などを舞台にした、NHKのテレビアニメ『メジャー』において、長谷川滋利に代わって第5シリーズの野球監修を務めていた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1997 近鉄 52 0 0 0 0 4 5 7 -- .444 333 82.2 44 2 46 5 1 127 5 1 22 19 2.07 1.09
1998 49 0 0 0 0 3 2 35 -- .600 235 55.1 43 5 25 4 3 74 5 2 19 13 2.11 1.23
1999 25 0 0 0 0 1 4 6 -- .200 125 29.2 24 1 10 2 2 32 0 0 12 9 2.73 1.15
2000 39 0 0 0 0 1 3 24 -- .250 166 41.2 31 3 13 1 0 49 4 0 11 11 2.38 1.06
2001 48 0 0 0 0 2 5 26 -- .286 228 56.0 42 7 15 2 0 82 5 1 25 25 4.02 1.02
2002 41 0 0 0 0 2 1 22 -- .667 153 42.1 22 4 3 0 0 54 1 0 7 6 1.28 0.59
2003 中日 51 0 0 0 0 1 3 17 -- .250 164 43.0 31 4 5 0 1 56 0 1 10 10 2.09 0.84
2004 SD 73 0 0 0 0 7 2 2 34 .778 312 77.1 56 6 26 6 0 87 0 0 16 15 1.75 1.06
2005 66 0 0 0 0 2 8 1 22 .200 276 62.2 55 3 34 8 2 60 1 0 28 25 3.59 1.42
2006 TEX 63 0 0 0 0 2 4 32 7 .333 232 59.2 53 3 11 0 0 47 3 0 17 14 2.11 1.07
2007 34 0 0 0 0 2 1 4 11 .667 131 32.1 26 0 9 1 0 23 0 0 10 9 2.51 1.08
NPB:7年 305 0 0 0 0 14 23 137 -- .378 1404 350.2 237 26 117 14 7 474 20 5 106 93 2.39 1.01
MLB:4年 236 0 0 0 0 13 15 39 74 .464 951 232.0 190 12 80 15 2 217 4 0 71 63 2.44 1.16
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし

年度別守備成績



投手(P)












1997 近鉄 52 1 11 0 2 1.000
1998 49 4 4 0 0 1.000
1999 25 0 3 1 0 .750
2000 39 2 2 0 0 1.000
2001 48 1 7 1 0 .889
2002 41 2 5 1 0 .875
2003 中日 51 5 5 0 1 1.000
2004 SD 73 7 11 2 1 .900
2005 66 5 7 1 1 .923
2006 TEX 63 3 10 1 2 .929
2007 34 2 2 1 0 .800
NPB 305 15 37 3 3 .945
MLB 236 17 30 5 4 .904

WBCでの投手成績










































2006 日本 5 0 0 0 1 21 5.2 2 0 0 0 2 8 1 0 1 1 1.59

独立リーグでの投手成績











































W
H
I
P
2014 信濃 1 0 0 0 0 ---- 0.1 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:1年 1 0 0 0 0 ---- 0.1 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00

タイトル

NPB

表彰

NPB
その他

記録

NPB

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 11(1997年 - 2002年、2013年 - 2014年)
  • 64(2003年)
  • 16(2004年 - 2005年)
  • 40(2006年 - 2007年)
  • 74(2015年 - 2017年)
  • 76(2022年 - )

登録名

  • 大塚 晶文(おおつか あきのり、1997年 - 2003年6月17日、2013年6月8日 - )
  • 大塚 晶則(おおつか あきのり、2003年6月18日 - 2007年)

代表歴

コーチ歴

関連情報

著書

脚注

  1. ^ 『生命保険業は究極のお節介業』 財務と経営を総合的に判断できる生命保険コンサルタントのプロフェッショナル”. story online. 2023年6月22日閲覧。
  2. ^ a b c “野球U23W杯、初代王者へ導いた大塚コーチの一道”. 日本経済新聞. (2016年11月12日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO09335780Z01C16A1000000/ 2023年6月22日閲覧。 
  3. ^ 都市対抗野球大会80年史 毎日新聞社刊
  4. ^ “登板の通算&年間記録”. MLB日本人選手記録ライブラリ. オリジナルの2014年2月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140222100348/http://mlbjapanese.web.fc2.com/records/games_played_p.html 
  5. ^ ジェイミー・モイヤーと大塚晶則。復活にかけるベテラン投手のド根性!”. Number Web (2011年1月12日). 2011年2月27日閲覧。
  6. ^ 大塚が始球式、義援金集めにも一役”. 日刊スポーツ (2011年5月21日). 2021年4月8日閲覧。
  7. ^ 大塚4年ぶり実戦に復帰へ”. 日刊スポーツ (2011年6月2日). 2021年4月8日閲覧。
  8. ^ 野茂氏 日本中学生率いて米国と親善試合「意識が違う」”. スポニチ (2012年8月23日). 2021年4月8日閲覧。
  9. ^ 『週刊ベースボール』2013年3月4日号、ベースボール・マガジン社、雑誌20441-3/4、92頁。
  10. ^ 大塚がBC信濃入団=野球独立リーグ”. 時事通信 (2013年5月23日). 2013年5月24日閲覧。[リンク切れ]
  11. ^ 大塚監督就任”. 信濃グランセローズ公式サイト (2013年12月3日). 2014年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月4日閲覧。
  12. ^ 信濃・大塚監督、選手に平手打ち…BCリーグが行為を公表”. スポーツニッポン (2014年7月24日). 2014年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月8日閲覧。
  13. ^ 信濃グランセローズ・大塚晶文監督の処分について”. BCリーグ公式サイト (2014年7月26日). 2014年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月8日閲覧。
  14. ^ 信濃大塚、最後の登板で宝刀スライダー”. 日刊スポーツ (2014年9月15日). 2021年4月8日閲覧。
  15. ^ 大塚兼任監督が現役引退 心臓移植の少女への願い込め最後の登板/BCリーグ”. サンケイスポーツ (2014年9月15日). 2014年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月8日閲覧。
  16. ^ 大塚晶文氏と投手コーチ合意のお知らせ”. 中日ドラゴンズ・公式サイト (2013年10月3日). 2013年10月3日閲覧。
  17. ^ 【中日】ヘルニアで休養の近藤コーチ、3月中の現場復帰目指す”. スポーツ報知 (2016年1月16日). 2016年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月8日閲覧。
  18. ^ 侍ジャパンU-23代表の監督・コーチが決定”. 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2016年9月26日). 2016年10月2日閲覧。
  19. ^ “友利1軍投手コーチ、編成に専念 後任は朝倉2軍コーチ 竜再建、来季への一手”. 中日スポーツ. (2017年9月5日). http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201709/CK2017090502000099.html 2018年2月10日閲覧。 
  20. ^ “【中日】メジャー51勝ディロン・ジー獲得 「北米ルート」を再構築で13年以来米国人”. スポーツ報知. (2018年1月5日). http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180105-OHT1T50036.html 2018年2月10日閲覧。 
  21. ^ 大塚虎之介MLBドラフト指名漏れ。大リーガーの父、王貞治の助言も。”. Number Web (2020年6月28日). 2021年4月9日閲覧。
  22. ^ 来季コーチングスタッフのお知らせ - 中日ドラゴンズ公式サイト
  23. ^ 友成那智村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005』廣済堂出版、2005年、404頁。ISBN 4-331-51093-X 
  24. ^ 大塚晶則の2年目『月刊スラッガー』2005年11月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、58-59頁。
  25. ^ 今だから語れる近鉄バファローズ黄金伝説!今明かされるあの日本シリーズでの「あの発言」の新事実! part2”. YouTube. 2021年4月8日閲覧。
  26. ^ 千葉市の名誉市民・市民栄誉賞・市長特別表彰”. 千葉市. 2017年12月4日閲覧。

関連項目

外部リンク