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2023年1月7日 (土) 06:09時点における版

大木 喬任
おおき たかとう
生年月日 1832年4月23日
天保3年3月23日
出生地 日本の旗 日本肥前国赤松町
(現:佐賀県佐賀市水ヶ江三丁目)
没年月日 (1899-09-26) 1899年9月26日(67歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府東京市
出身校 弘道館
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
子女 大木遠吉(長男)
岡崎えん(娘)
親族 大木知喬(父)
大木喜福(養孫)

在任期間 1892年8月8日 - 1893年3月1日

日本の旗 第4代 文部大臣
内閣 第1次松方内閣
在任期間 1891年6月1日 - 1892年8月8日

日本の旗 第2代 枢密院議長
在任期間 1889年12月24日 - 1891年6月1日

在任期間 1885年12月22日 - 1889年12月24日

日本の旗 第7代 文部卿
在任期間 1883年12月12日 - 1885年12月22日

その他の職歴
日本の旗 第4代 司法卿
1881年10月21日 - 1883年12月12日)
日本の旗 第2代 元老院議長
1880年2月28日 - 1881年10月21日)
日本の旗 第2代 司法卿
1873年10月25日 - 1880年2月28日)
日本の旗 第2代 教部卿
1871年11月25日(明治5年10月25日) - 1873年4月19日
日本の旗 初代 文部卿
1871年9月12日(明治4年7月28日) - 1873年4月19日)
日本の旗 第3代 民部卿
1871年8月29日(明治4年7月14日) - 1871年9月11日(明治4年7月27日))
東京都の旗 第2代 東京府知事
1869年1月16日(明治元年12月4日) - 1869年8月22日(明治2年7月15日))
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大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日天保3年3月23日) - 1899年明治32年)9月26日)は、明治期の日本官僚政治家[1]通称幡六[要説明]民平[要説明]

栄典正二位勲一等伯爵

経歴

出自

肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。

幕末

藩校の弘道館で学び、1850年嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽義祭同盟結成に参加。後に江藤新平大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。

明治新政府

1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸東京とすること(東京奠都)に尽力した。1871年(明治4年)に民部卿文部卿として学制を制定。1872年(明治5年)に教部卿を兼任。1873年(明治6年)、参議司法卿1876年(明治9年)の神風連の乱萩の乱の事後処理に当たった。

戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長、参議などの要職を歴任した。

1884年(明治17年)、華族令施行によって伯爵に叙せられた。12月14日学習院講堂で開かれた大日本教育会の常集会で森有礼とともに演説を行った[2]1888年(明治21年)に枢密顧問官1892年(明治25年)に枢密院議長再任。

大木喬任の墓

1899年(明治32年)に死去、享年67。

評価

教育制度や法典編纂の確立にも尽力したことから、明治の六大教育家の1人に数えられている。

系譜

大木氏筑後国蒲池氏の一族で、筑後宇都宮氏宇都宮懐久の次男の資綱の嫡子大木政長を祖とし、資綱の兄の蒲池久憲の後裔の蒲池鎮漣の重臣で、のちに鍋島直茂に仕えた大木統光の子孫にあたる。

  • 妻:朋子[3]
  • 長男:大木逸太郎(1866年 - 1889年)[4]
  • 次男:大木遠吉…原・高橋内閣の司法大臣、加藤内閣の鉄道大臣を歴任。
  • 娘:栃木の農家に嫁ぐ[5]
  • 娘:岡崎えん…喬任と芸妓の子。銀座の小料理屋の女将となり[6]、没後、吉屋信子により『岡崎えん女の一生』が執筆された)

資産

沼津磯部温泉に別荘を所有した。

栄典・授章・授賞

位階
勲章等

脚注

  1. ^ 朝日日本歴史人物事典「大木喬任」
  2. ^ 『澤柳柳太郎と帝国教育会-成城大学』
  3. ^ [1]
  4. ^ 国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.281
  5. ^ 大木喬任夫人『明治大臣の夫人』岩崎徂堂 (大学館, 1903)
  6. ^ 岡崎えん日本人名大辞典
  7. ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。
  8. ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
  9. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
  10. ^ 『官報』第307号、「叙任及辞令」1884年07月08日。
  11. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧

関連文献

  • 大木遠吉編 『紀念』 1904年5月序
  • 『明治大学刑事博物館目録 第2号』 明治大学刑事博物館委員会、1952年8月
    • 『明治大学刑事博物館目録 第4号』 明治大学刑事博物館委員会、1953年8月
  • 田中艸太郎、常安弘通著 『大木喬任 辰野金吾』 佐賀県青少年育成県民会議〈郷土史に輝く人びと〉、1971年3月
  • 島内嘉市著 『年譜考 大木喬任』 アビアランス工房、2002年7月、ISBN 490128410X
  • 西川誠 「大木喬任」(伊藤隆季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年7月、ISBN 4642013415
  • 重松優 「大木喬任伝記史料「談話筆記」について」(『ソシオサイエンス』第12号、早稲田大学大学院社会科学研究科、2006年3月、NAID 120000792718
  • 佐々木隆 「「大木喬任関係文書」所収司法・検察関係者書翰翻刻」(『参考書誌研究』第66号、国立国会図書館、2007年3月NAID 40015326636
  • 重松優 「『大木喬任伯意見雑記』をめぐって」(『社学研論集』第10号、早稲田大学大学院社会科学研究科、2007年9月、NAID 120002928913
  • 星原大輔 「幕末明治期の大木喬任日記」(『財団法人鍋島報效会研究助成研究報告書』第4号、財団法人鍋島報效会、2009年10月)
  • 重松優著 『大木喬任』 佐賀県立佐賀城本丸歴史館、2012年2月、ISBN 9784905172055
  • 大木喬任」(国立公文書館所蔵 「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一」) - アジア歴史資料センター Ref. A06051166700

外部リンク

公職
先代
伊藤博文
伊藤博文
日本の旗 枢密院議長
第4代:1892年8月8日 - 1893年3月11日
第2代:1889年12月24日 - 1891年6月1日
次代
山県有朋
伊藤博文
先代
芳川顕正
日本の旗 文部大臣
第4代:1891年6月1日 - 1892年8月8日
次代
河野敏鎌
先代
佐野常民
有栖川宮熾仁
日本の旗 元老院議長
第5代:1885年12月22日 - 1888年4月30日
第2代:1880年2月28日 - 1881年10月21日
次代
柳原前光
寺島宗則
先代
福岡孝弟
松平慶永(大学別当)
日本の旗 文部卿
第7代:1883年4月7日 - 1885年12月12日
初代:1871年9月12日 - 1873年4月19日
次代
森有礼(文部大臣)
木戸孝允
先代
嵯峨実愛
日本の旗 教部卿
第2代:1872年 - 1873年
次代
(欠員→廃止)
先代
伊達宗城(→欠員)
日本の旗 民部卿
第3代:1871年
次代
(廃止)
先代
大隈重信
日本の旗 民部大輔
1870年 - 1871年
次代
井上馨
先代
烏丸光徳
東京都の旗 東京府知事
第2代:1868年1月16日 - 1869年8月22日
次代
壬生基脩
先代
(新設)
日本の旗 議政官下局議長
1868年
(坂田莠と共同)
次代
坂田莠
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
大木(喬任)家初代
1884年 - 1899年
次代
大木遠吉