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[[1956年]]、[[日本放送協会|NHK]]ドラマ『[[この瞳]]』で[[冨士眞奈美]]とともにデビュー{{R|週刊文春|昭和声優列伝}}。冨士とは、4年半ほど同居していた{{R|週刊文春|昭和声優列伝}}。同養成所卒業後の1957年、[[劇団朋友|劇団新人会]]に入団し、女優としての活動を始める{{R|sanspo20040320}}。所属事務所はその後、東京プロ<ref name="meibo">{{Cite book|和書|author=|title=出演者名簿(1962年版)|page=82|publisher=著作権資料協会|isbn=|date=1962}}</ref>、劇団でく{{R|meibo}}、[[青二プロダクション]]<ref>{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(1977年版)|page=216|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=|date=1977}}</ref>に所属していた。
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その後、そのうちに、「あなたの声は少年の役に向いている」と独特のハスキーボイスを買われて、声優としての活動を始める{{R|sanspo20040320|seigura1}}。声優業は1957年『[[名犬ラッシー]]』の吹き替えでデビュー<ref name="naruniwa">山本健翔『声優になるには』ぺりかん社、2007年、143頁。</ref><ref name="tvasahi">[https://www.tv-asahi.co.jp/hai/contents/100/034/ はい!テレビ朝日です]</ref>、1965年『[[ハッスルパンチ]]』にて初主演。その後、人形劇『[[ブーフーウー]]』のブー役を演じたのがきっかけになり、次第に声の仕事が増えてくるようになった{{R|seigura1}}。声優としては、アニメ黎明期より活躍<ref name="声優事典">{{Cite book |和書 |author=小川びい |title=こだわり声優事典'97 |publisher=[[徳間書店]] |series=ロマンアルバム |page= 30|date=1997-03-10 |isbn=4-19-720012-9}}</ref>。のちに代表作となる『ドラえもん』以前では、『[[ハリスの旋風]]』の石田国松役や『[[無敵超人ザンボット3]]』の神勝平役のようにハスキー声でやんちゃな喋り方をする演技が特徴的で、後者ではおもにアドリブで「べらんめえ調」の喋りも多用した。また1970年から1971年にかけ、アニメ『[[のらくろ]]』の主人公であるのらくろ役を担当。ここまでがドラえもん以前のハスキー声で喉が痛くなるようなやんちゃな喋り方での活躍期である。その後、『ドラえもん』のドラえもん役は本人により丁寧な発声・演技が心掛けられ、以前のような荒々しい部分は影を潜め、長年の放送期間を経て徐々に低音でゆったりと喋る演技に変化していった。『ドラえもん』降板後は声質の変化もあり、『ダンガンロンパ』シリーズのモノクマ役や『ゼウシくん』でのみの太役など『ドラえもん』時代の演技に比べハイテンションで高く張りのある声が特徴的だった。
その後、そのうちに、「あなたの声は少年の役に向いている」と独特のハスキーボイスを買われて、声優としての活動を始める{{R|sanspo20040320|seigura1}}。声優業は1957年『[[名犬ラッシー|名犬プラッシー]]』の吹き替えでデビュー<ref name="naruniwa">山本健翔『声優になるには』ぺりかん社、2007年、143頁。</ref><ref name="tvasahi">[https://www.tv-asahi.co.jp/hai/contents/100/034/ はい!テレビ朝日です]</ref>、1965年『[[ハッスルパンチ]]』にて初主演。その後、人形劇『[[ブーフーウー]]』のブー役を演じたのがきっかけになり、次第に声の仕事が増えてくるようになった{{R|seigura1}}。声優としては、アニメ黎明期より活躍<ref name="声優事典">{{Cite book |和書 |author=小川びい |title=こだわり声優事典'97 |publisher=[[徳間書店]] |series=ロマンアルバム |page= 30|date=1997-03-10 |isbn=4-19-720012-9}}</ref>。のちに代表作となる『ドラえもん』以前では、『カネボウ[[ハリスの旋風]]』の石田国松役や『[[無敵超人ザンボット3]]』の神勝平役のようにハスキー声でやんちゃな喋り方をする演技が特徴的で、後者ではおもにアドリブで「べらんめえ調」の喋りも多用した。また1970年から1971年にかけ、アニメ『[[のらくろ]]』の主人公であるのらくろ役を担当。ここまでがドラえもん以前のハスキー声で喉が痛くなるようなやんちゃな喋り方での活躍期である。その後、『ドラえもん』のドラえもん役は本人により丁寧な発声・演技が心掛けられ、以前のような荒々しい部分は影を潜め、長年の放送期間を経て徐々に低音でゆったりと喋る演技に変化していった。『ドラえもん』降板後は声質の変化もあり、『ダンガンロンパ』シリーズのモノクマ役や『ゼウシくん』でのみの太役など『ドラえもん』時代の演技に比べハイテンションで高く張りのある声が特徴的だった。


=== ドラえもん ===
=== ドラえもん ===

2023年11月23日 (木) 12:38時点における版

おおやま のぶよ
大山 のぶ代
プロフィール
本名 山下 羨代(旧姓:大山)
(やました のぶよ)[1][2]
愛称 ペコ[3]
性別 女性
出身地 日本の旗 日本東京府東京市渋谷区伊達町
(現:東京都渋谷区恵比寿三丁目)[4][5]
生年月日 (1933-10-16) 1933年10月16日(91歳)
血液型 O型[6][7]
職業 女優声優歌手エッセイストタレント
事務所 アクターズ・セブン
配偶者 砂川啓介[3][8](2017年死別)
公称サイズ(時期不明)[9]
身長 / 体重 162 cm / 60 kg
声優活動
活動期間 1957年[2] - 2016年
ジャンル アニメ吹き替えラジオ
デビュー作名犬ラッシー[10][11]
女優活動
活動期間 1956年[12] - 2016年
ジャンル テレビドラマテレビCM
デビュー作 『この瞳』[4][7]
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

大山 のぶ代(おおやま のぶよ、1933年昭和8年〉10月16日[注 4][6][8] - )は、日本女優声優歌手脚本家エッセイストタレント。夫はタレントで『おかあさんといっしょ』初代体操のお兄さんの砂川啓介[3][8]。アクターズ・セブン所属。テレビ朝日版『ドラえもん』にて、ドラえもんの声を26年担当したことで有名[12][17][18][19]。2016年に後述する病気により、芸能活動を事実上終了した。

東京府東京市渋谷区伊達町(現在の東京都渋谷区恵比寿三丁目)出身[4][5][注 5]

来歴

生い立ち

13人家族の13番目として生まれる[5][19]

曾祖父母は江戸時代生まれ[5][18]、母は宮城県古川市(現:大崎市)の造り酒屋の娘、10歳年上の兄は海軍技術研究所に勤めていた[4]

渋谷区立臨川小学校[3]渋谷区立広尾小学校[3]渋谷区立広尾中学校[3]東京都立三田高等学校卒業[1][2][7]

子供の頃から個性的な声を持ち、大山自身では全然気が付かなかった[5]。しかし「男みたいな声」と言われ、教師は出席を取っていた時、大山が「はい!」と答えていたところ、変な顔をされていた[5]。そのことがたびたびあり、だんだん「私の声っておかしいんだ」と思うようになった[5]。中学進学後、「嫌だなあ」と思う気持ちが続き、しまいに口をきくのが嫌になり、黙っているような子供になってしまった[5]。中学時代に同級生に「お前の声はおかしい」と指摘されて、初めて声の特徴に気付いたという[7]

子供のころに特徴的な声が原因でいじめを受けて、引っ込み思案になっていたところに母が「黙ってばかりでは弱くなるからどんどん声を出して聞き取りやすい声の出し方や話し方を覚えるように」と言われる[20]。中学で応援部に入ろうとするも女性を理由に断られ、放送研究部に入ってアナウンスをやったり[20] ラジオドラマを作って流したりしていた[21]。周囲や担任教師にやめるように言われたが1か月経つと何も言われなくなり、演劇部[20] に誘われて初舞台でシンデレラの継母役を演じた[21]。高等学校2年生の時に、母親が子宮癌により42歳で死去[22]。高校では演劇部と水泳部に入部するも母の入院ですぐに退部し、母の死後は独身で子供もいない中、手に職をつけるために演劇の道に進む[20][23]

女優・声優志望

俳優座養成所に第7期生として入所するが、演技の道に進むことに反対していた父から「役者になるなら出て行け!」と言われ、家出し、下宿で一人暮らしを始める[8][24]。その時、持って出たのは母が作っていたぬか床だけだったという[8]。応援してくれた兄からの仕送りだけでは生活できないために、様々なアルバイトをした[24]。俳優座養成所での同期に、冨士眞奈美水野久美露口茂井川比佐志山本學藤岡重慶田中邦衛がいる。

1956年NHKドラマ『この瞳』で冨士眞奈美とともにデビュー[4][8]。冨士とは、4年半ほど同居していた[4][8]。同養成所卒業後の1957年、劇団新人会に入団し、女優としての活動を始める[2]。所属事務所はその後、東京プロ[14]、劇団でく[14]青二プロダクション[25]に所属していた。

その後、そのうちに、「あなたの声は少年の役に向いている」と独特のハスキーボイスを買われて、声優としての活動を始める[2][24]。声優業は1957年『名犬プラッシー』の吹き替えでデビュー[10][11]、1965年『ハッスルパンチ』にて初主演。その後、人形劇『ブーフーウー』のブー役を演じたのがきっかけになり、次第に声の仕事が増えてくるようになった[24]。声優としては、アニメ黎明期より活躍[26]。のちに代表作となる『ドラえもん』以前では、『カネボウハリスの旋風』の石田国松役や『無敵超人ザンボット3』の神勝平役のようにハスキー声でやんちゃな喋り方をする演技が特徴的で、後者ではおもにアドリブで「べらんめえ調」の喋りも多用した。また1970年から1971年にかけ、アニメ『のらくろ』の主人公であるのらくろ役を担当。ここまでがドラえもん以前のハスキー声で喉が痛くなるようなやんちゃな喋り方での活躍期である。その後、『ドラえもん』のドラえもん役は本人により丁寧な発声・演技が心掛けられ、以前のような荒々しい部分は影を潜め、長年の放送期間を経て徐々に低音でゆったりと喋る演技に変化していった。『ドラえもん』降板後は声質の変化もあり、『ダンガンロンパ』シリーズのモノクマ役や『ゼウシくん』でのみの太役など『ドラえもん』時代の演技に比べハイテンションで高く張りのある声が特徴的だった。

ドラえもん

代表作である『ドラえもん』のドラえもんの声は1979年4月3日から2005年3月25日まで26年間担当した。大山がドラえもんを演じた作品はアニメ版2作目で、第1作にて富田耕生を継いだ野沢雅子の後任にあたる。番組リニューアルにより、2005年3月18日放送分の『ドラえもん オールキャラクター夢の大集合スペシャル!!』、2005年3月25日放送の映画『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』(CM前のお別れコメント)をもってドラえもん役を引退。

大山が声優の仕事を休業していた時に、『ドラえもん』の出演オファーを受け、コミックスを読んで表面的には子供向けの漫画になっているが、大人でも読んでも面白いSFだと感じ、一晩で15冊読み終えて引き受けることにしたという[27]

2001年直腸癌が疑われ、手術で切除した際に悪性であることが判明した。その際に長期入院が必要となり、すべての取材と出演の仕事をセーブした。しかし、子供たちに夢をどうしても与えたいという強い思いからドラえもんのアフレコの仕事のみ一切休まなかった。体調の様子を見ながら、退院までの間アフレコに必要な機材を病院内に持ち込んだ上で、スタッフに見守られながら病室で収録に挑み、普段どおりのドラえもんの声を演じきった[22][28]。また、この入院を期に大山はドラえもんの声優の降板を申し入れたが、長年支えてきたスタッフの慰留やドラえもんというブランドの多大なる影響もあって2001年度すぐの降板はならず、長期的に話し合いを行った結果、最終的には2005年3月に他のキャストらと共に降板となった[28][29]

ドラえもん引退後

2005年3月放送ウーマン賞を受賞[30]2006年11月の第11回アニメーション神戸では、その功績が称えられ、オリジナルレギュラー陣(テレビ朝日版)(小原乃梨子野村道子たてかべ和也肝付兼太の4人)と共に特別賞を受賞。そして翌2007年3月にも、東京国際アニメフェア2007より、第3回功労賞を(4人と共に)受賞。同年4月には音響芸術専門学校東京都港区西新橋)の校長に就任し、直接学生の指導に当たった。

アニメ歌手としても活躍。1980年には、EP『ドラえもん音頭』など大山が歌ったドラえもん関連のレコード売り上げが100万枚を突破し、日本コロムビアのゴールドディスクを受賞した[31]

料理研究家としても活動し、著書に『大山のぶ代のおもしろ酒肴』(主婦の友社1981年)、『おかずのアイディア180』(小学館1995年)、『大山のぶ代の毎日のおかず』(グラフ社2000年)などがある。中でも『大山のぶ代のおもしろ酒肴』は136万部のミリオンセラーを記録した[31]

2000年代後半以降は、講演やタレントとしてのテレビ・ラジオ出演を中心に活動。『元祖!でぶや』などのナレーション活動にて、声優としての活動も続けた。

2006年5月に、26年間のドラえもん声優時代を記した自伝エッセイ『ぼく、ドラえもんでした。涙と笑いの26年うちあけ話』(小学館)を上梓した。

2008年4月24日に、音響芸術専門学校の校長室で授業準備中に、心筋梗塞脳梗塞を併発して緊急入院したが、投薬治療を行い、同年8月17日に退院。自宅療養とリハビリにより、日常生活の不安はないまでに回復し、活動を再開した[32]

しかし、その後も引き続き各種テレビやラジオ番組のゲスト出演、講演活動、雑誌・ネット・新聞各社取材・そして音芸での指導と活躍。多忙・激務が続いたことによる体調不良を理由に、2010年頃より徐々にではあるが仕事をセーブし、2013年に音響芸術専門学校の校長を退任した[33]

2010年PSP用ゲームソフト『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』のモノクマ役で『ドラえもん』降板以来 5年ぶりに声優復帰。さらに2012年発売の『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』にもモノクマ役で引き続き出演、2013年ではテレビアニメ化『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』にも出演。テレビアニメへの出演は『ドラえもん』降板以来であると同時に、深夜テレビアニメ作品もこれがデビュー作となった。

2022年2月、フジテレビ系で放送されたバラエティ番組『これが定番!世代別ベストアニメ エンタメジェネレーション』では、世代別で「好きな声優」がアンケート集計され、大山が「昭和世代(46歳以上)」の部で1位となった。

認知症との闘病

2012年秋にアルツハイマー型認知症との診断を受ける[34]。このことはしばらく内密にされたが、2015年5月13日TBSラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド」にゲスト出演した夫の砂川啓介により、認知症を発症し、闘病中であることが明らかにされた[35][36]

また、アニメ声優を担当した作品としては2014年から2015年にかけて第1・2シーズン合わせて計17話、全農によって制作されたWebアニメ「おにくだいすき! ゼウシくん」が公式に認知症を公表した時点では最後である。以後、新しい作品は担当していないが、そのゼウシの時点ではすでに認知症を発症していたにもかかわらず、初期のドラえもんにおけるサブタイトル画面の声(ドラえもん)を彷彿とさせるサブタイトルの声(みの太)を披露している(ただし、第1シーズン最終話と第3シーズンを除く)。その他、2015年6月12日に砂川が『徹子の部屋』に出演した際には、黒柳徹子に向けての大山のボイスメッセージが流れた[37]

認知症発症当初は砂川夫妻のマネージャーの小林明子、家政婦らによる在宅介護を受けていたが、砂川の尿管癌治療に伴い、2016年4月より老人ホームに入所している[38][39]。『ダンガンロンパ』のモノクマ役も降板し、舞台版からTARAKOに受け継がれた。

砂川は2017年5月に入院。退院4日後の6月13日、脳梗塞で意識を失い救急搬送され再入院。2017年7月11日早朝、容体が急変し午前4時30分に死去した[40]。大山は小林マネージャーに連れられ入院中の砂川を何度か見舞っていたが、大山・小林マネージャーともに砂川の臨終には立ち会えなかった。大山は数日後、葬儀所で棺の中の砂川と対面。大山が喪主となったが、通夜と葬儀には出席しなかった[41][42]。砂川は入院後、小林マネージャーに後事を託しており、大山は引き続き老人ホームで過ごす事となったが、主を失った自宅の管理は東京都内の税理士が行っている[43][44]

その後、老人ホームには小林マネージャーが通って大山の面倒を見ている。小林マネージャーは『文藝春秋2017年9月号に夫妻の闘病や介護に関する手記「大山のぶ代は夫の棺に涙ぐんだ」を寄稿した[45]。大山の認知症は進行しているが健康状態は良く、体調も回復。合唱などの活動に取り組み他の入所者との交流を楽しんでいる[46]

人物像

声種アルト[47]。「ウヒヒ」とも「ウフフ」ともつかない独特の節回しの笑い声が印象的[26]

座右の銘は「私はパイプになりたい」[7]

プライベート

  • 夫の砂川啓介とは1963年(昭和38年)8月に舞台『孫悟空』での共演で知り合い、翌年2月に結婚した(結婚式は赤坂プリンスホテルで実施)[48]。知り合った当時、2022年現在のNHK『おかあさんといっしょ』内で放送されているコーナーにそれぞれレギュラー出演していた(大山は人形劇の『ブーフーウー』、砂川は歌と体操コーナー『うたのえほん』のたいそうのおにいさん)が、当時2人が出演していたコーナーはそれぞれ別番組としての放送であり、互いに面識はなかったため、楽屋に挨拶に来た砂川を出前のそば屋だと勘違いしたというエピソードがある。その後一緒にドライブに行った際、不良に絡まれている中学を卒業したぐらいの少年を見かけ、お互い相談もしていないにもかかわらず、とっさに田舎から出てきた夫婦を演じ、その不良に道を尋ねるふりをして、その隙に少年を逃がしてあげたという。それから結婚を考えるようになった。夫の回想記『カミさんはドラえもん』(双葉社2001年)に詳しい。
  • 32歳の時に第1子(男児)を妊娠したが妊娠7か月の時に死産[49]、38歳の時生まれた第2子(女児)も妊娠7か月の未熟児で生まれ、先天性の心臓と肺の疾患のため生後3か月で死去しており[50]、それ以降は子をもうけていない。近年の自伝などでは「子供に自分のガラガラ声が遺伝していじめられたらかわいそうだ」という葛藤があったこと、夫の砂川啓介の著書では「(大山が)2度の不幸から、『また同じことが繰り返されるのではないか』という葛藤やトラウマに囚われ、恐怖症によるセックスレスとなってしまった」ということが明かされた[51]

趣味・嗜好

アルカノイド

大山が所有していた筐体
  • ブロックくずしゲームの『アルカノイド』(タイトー)が大のお気に入りで、自身の別荘にアルカノイドの筐体を置いていたほどである。自己記録の「およそ120万点」は、公式 2位の記録に匹敵する。1988年、空港や駅の待ち時間で暇潰しとして始めたのがきっかけで、それ以降、仕事で地方へ行くとゲームセンターを巡り回った[52]。その腕前は『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)のコーナー「ムダベストテン」や『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(フジテレビ系)[52]、『ゲームセンターCX』の「たまに行くならこんなゲームセンター」などのバラエティ番組でも紹介し披露された。
  • 2005年新宿にあるセガのアミューズメント施設で一日店長を務めた際には、イベントとして多くの来客の前でアルカノイドの実力を披露し[53]、2007年には『アルカノイドDS』発売記念イベントに招かれ、マスコミ達を前にその腕前を披露した。しかし本人によると、実はアルカノイド以外のゲームは一切出来ないとのことである。
  • 別荘を売却したタイミングでアルカノイドの筐体も手放され、ゲーセンミカドが譲り受けた[54]。一般の利用客もプレイできるよう、2022年現在も稼働・メンテナンスされている。

その他の趣味など

  • 芸能界の中でも無類の麻雀好きとしても知られ、美空ひばりとも麻雀友達だった。きっかけは、子を失って苦しんでいることを気遣った仲間たちが毎日執拗に麻雀に誘っていたことである。親交が深く実弟のように可愛がっていた水谷豊おりも政夫とは毎日のように麻雀をしていたと大山本人がTV番組で語った。
  • 声優界の中でも著書が多く、自伝『ぼく、ドラえもんでした』(小学館)以外は、ほぼ全てが料理・栄養といった食関連の本で、夫らとの共著も入れると20数冊ある。料理の腕前もプロ級であり、かつては主婦向けのテレビ番組で、料理コーナーを持っていた。母親から受け継いだ糠床を今でも大切にしていると語っている。
  • 優れた味覚・嗅覚を持っており、水を一口飲めばそれがどこの水かを言い当てることが出来るという。そのため、水の研究家としても名の通った存在であり、旧厚生省「おいしい水研究会」、旧国土庁「水を語る女性の会」の委員も務めている。健康・カルチャー番組にもよく出演している。特に『ためしてガッテン』での出演頻度は高く、1クールに1度は出演していた。
  • 食べ物や健康には人一倍気を使っていたが、元々愛煙家で一日2箱を吸うほどであった。しかし、脳梗塞で倒れた後は、認知症の前兆もあってか、タバコに関心を示さなくなった[55]
  • ゴルフも趣味として挙げている[13]

仕事への姿勢や他人への評価

  • 役者としての勉強や演技の実績が無いタレントの「ただ有名だから」といった話題作り目的の声優出演には否定的だった。現場でゲスト声優のタレントがNGを連発する度に「ちゃんと台本を読んでるの?」と当人たちやスタッフに苦言を呈することも少なくなかったといわれる。本職の声優として参加している『ドラえもん』の共演者たちも「(声の仕事・役者一筋で食べてきた)自分たちの総意を代弁してくれている」と認識しており、誰も大山を止めなかったとのこと[56]
  • 『ドラえもん』で26年もの長年に渡り共演したのび太役の小原やしずか役の野村、スネ夫役の肝付兼太とジャイアンこと剛田武役のたてかべ和也とは親交が深かった。特に同性の小原と野村とは3人で国内旅行や海外旅行も度々行っていた[57]

その他のエピソード

  • 『おかあさんといっしょ』の人形劇では『ブーフーウー』から『とんでけブッチー』まで4作連続で声優を務め、後に『ミューミューニャーニャー』でも声優を担当。
  • 俳優座養成所時代に脚本家に話を書かせて欲しいと頼み、実際に執筆したものが面白かったため『太陽にほえろ!』の脚本に採用され、5本共同執筆した[58]
  • サザエさん』で初代・磯野カツオ役を演じたが、番組開始後2か月半ほどで自主降板。『サザエさん』の制作会社エイケン鷺巣政安によれば、大山の妊娠のために降板したと発言しているが[59]、大山は2004年3月放送のラジオ番組TOKYO FM恵俊彰のディア・フレンズ』に出演した際、自ら降板を申し出た事を証言。放送開始時より使用されている『サザエさん』のエンディングテーマ『サザエさん一家』のフルバージョンの音源には、大山がカツオとして演じたセリフが収録されている。
  • 一部週刊誌では、アフレコ時のマイクの位置が離れていたために小原との不仲説も報じられたが、廣田トモユキが当の小原に確認したところによると、大山は愛煙家のためにドア側のマイクを、小原は嫌煙家のために一番奥のマイクを好んで使っていたためだという。
  • 野沢雅子とはどちらもドラえもんを演じていたという共通点があり、大山の演じる『ドラえもん』の映画にも何度か出演している。またTBSの『うたばん』に日髙のり子と共に3人での出演もある。
  • 大山自身も顔が知られてたこともあり、何度かバラエティ番組にドラえもんの着ぐるみと共に出演し、大山自身とドラえもんの掛け合いを演じ分けたことがある。

大山とドラえもん

大山はドラえもんを演ずるに当たって、ロボットという感覚ではなく、ドジでおっちょこちょいだが憎めないイメージできちんとした喋り口にしようと考えていた。結果、大山の演技は視聴者に広く受け入れられた[60]

ドラえもんの特徴的な声はほぼ地声であるが、若い頃は自分の声に対してかなり思い悩んでいたといい、結果的にはその声がドラえもん役に繋がることになった。また原作者の藤子・F・不二雄に初めて対面したとき、「ドラえもんの声、いかがでしょうか?」とおそるおそる聞いてみると「第1話を見ましたが、ドラえもんはああいう声をしてたんですね」と言われたという[27]。この声のコンプレックスを克服したエピソードは小学校の道徳教育の資料にも取り上げられた。

一時期、アニメの粗製乱造により自分の好みではない作品が増えたことで声優業から遠ざかっていたが大山が主演を務めた『ハリスの旋風』で録音監督だった浦上靖夫から、ドラえもんの声をやらないかと誘われ、見せられたパイロット版は絵が綺麗で細かく主人公を「こいつ、かわいいな」と思ったことで引き受け、当時16巻まで出ていた単行本を買って一晩で読んだ[23][11]。「こんにちは、ぼくドラえもんです」の自己紹介や『ドラえもんのうた』のサビ突入直前のセリフ「はい!タケコプター」 「それ、突撃」「フフフフフ、どこでもドア」、のび太が道具でいたずらし過ぎて返り討ちになった際に言う「ぼく知〜らない」などの台詞、次回予告の際の「楽しみに待っててね〜」は大山のアドリブである[要出典]。原作初期のドラえもんはかなりガサツでぶっきらぼうな口調が多いが、大山は「子供が見るものだから、悪い言葉は使わないようにしよう」という配慮をしていた[61]。またドラえもんの一人称が「おれ」だった場合も少なからずあり、「ドラえもんはいつでものび太を見守っているお母さんのような存在だし、未来から来た子守り用ねこ型ロボットなんだから乱暴な言葉は最初からインプットされていないはず」と思ったため、一人称を「ぼく」にするとともに、助動詞を「です」に、それぞれ統一した[61]

ドラえもんを演じていた頃、ファンの子供がスタジオに遊びに来た際は忙しい時間を割いて、写真を撮ったり、サインをするなどの気配りをしていたが、度々「ドラえもんいますか?」と電話がかかってきて困った時期もあった[62]

自宅には家中に「ドラえもんボックス」という箱に入れてドラえもんグッズがそろっており、1999年に『徹子の部屋』に出演した際は、毎朝自分の声のドラえもん目覚まし時計で起床していると語っていた。お腹の部分に時計が付いたドラえもんの金のブローチをつけていたこともある。ただし目覚まし時計は、降板後に「ドラえもんの卒業」を理由にオークションに出している。

アニメ化される以前にピー・プロダクションにより実写版『ドラえもん』が企画されており、結局製作されなかったが、その際に同プロダクションが大山が主演のアニメーション『ハリスの旋風』を製作していたため、その流れでドラえもん役の候補に挙がっていた。

『ドラえもん』降板の際のインタビューに対し、「ドラえもんはいつも私の中にいます。勿論、新しいドラえもんも観ますよ」と笑顔で語っていた。

何らかの形で毎年のようにテレビ番組・ラジオ番組でドラえもんの声を披露することが恒例だったものの、先述の闘病もあり、「ドラえもん」自体への公な関与としては2015年2月神保町シアタービルで開催された、「ドラえもん映画祭2015」においての手紙での形が現時点では最後となっている[63]

後任

大山の降板後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

後任 役名 概要作品 後任の初担当作品
高橋和枝 磯野カツオ サザエさん 1969年12月28日放送分[注 6]
坂本千夏 神勝平 無敵超人ザンボット3 スーパーロボット大戦IMPACT
TARAKO モノクマ ダンガンロンパシリーズ ダンガンロンパTHE STAGE 〜希望の学園と絶望の高校生〜2016

出演(女優・顔出し)

テレビドラマ

邦画

テレビ番組

NHK

日本テレビ系

TBS系

フジテレビ系

テレビ朝日系

テレビ東京系

その他

CM

出演(声優)

太字はメインキャラクター。

テレビアニメ

1960年代
1970年代
1990年代
2010年代

OVA

劇場アニメ

1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代

Webアニメ

ゲーム

1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
  • ドラえもん どこでもウォーカー(ドラえもん
2003年
2010年
2012年
2013年
  • ダンガンロンパ1・2 Reload(モノクマ
2014年

吹き替え

映画

ドラマ

テレビ番組

アニメ

ラジオ

ほか多数

人形劇

ラジオドラマ

CM

ドラえもんの声で出演、※は2005年4月にドラえもん降板時点によるもの。

ドラえもん以外

その他コンテンツ

ドラえもんの声で出演
その他

音楽

大山のぶ代名義

ドラえもんとして

脚本

  • 太陽にほえろ!
    • 第129話「今日も街に陽が昇る」(1975年、小川英田波靖男との共作)
    • 第154話「自首」(1975年、小川英との共作)
    • 第189話「人形の部屋」(1976年、小川英・四十物光男との共作)
    • 第289話「殿下と少年」(1978年、小川英との共作)
    • 第319話「年上の女」(1978年、小川英との共作)

著書

エッセイ

料理本

  • 大山のぶ代のおもしろ酒肴 アッとおどろく美味珍味(主婦の友社、1981年7月 ISBN 9784079123402
  • 大山のぶ代のなんと2分間クッキング おもしろ酒肴アットホーム編(主婦の友社、1983年1月、ISBN 9784079193412
  • 大山のぶ代の新おもしろ酒肴塾(廣済堂出版、1984年7月、ISBN 9784331003312
    • 『大山のぶ代の新おもしろ酒肴塾』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1986年7月10日。ISBN 9784331650097NDLJP:12102169 
  • 大山のぶ代の今夜の酒肴この一品 最新オリジナル酒肴 決定版130選(廣済堂出版、1984年9月、ISBN 9784331003428
  • 夕食ばんざい(リビングマガジン、1982年1月、ISBN 9784947609014
  • 大山のぶ代の料理朝一番(グラフ社、1985年5月、ISBN 9784766200874
  • はじめての料理ヒント あなたも今日からお料理自慢 (監修、イラスト:宇佐見セツ夫、1986年4月、ISBN 9784766201246
  • 啓介・のぶ代のおもしろ惣菜170 不意の来客、家計のピンチに安くてうまいスピード料理(共著:砂川啓介、グラフ社、1988年4月 ISBN 9784079256728
  • 啓介・のぶ代のおもしろ酒肴 5〜25分お待たせタイムつき(共著:砂川啓介、グラフ社、1991年8月、ISBN 9784079377416
  • 嫁と姑の面白クッキング(グラフ社、1991年5月、ISBN 9784766202304
  • 大山のぶ代のうちの味うちのおかず 嫁と姑の面白クッキング(グラフ社、1992年3月、ISBN 9784766202359
  • 魚を食べる健康法 おいしく簡単! すぐれた効用とらくらくメニュー(共著:延原和彦、ブックマン社、1992年10月、ISBN 9784893081865
  • おさかな博士の新・魚を食べる健康法 すぐれた効能、らくらくメニュー(共著:成瀬宇平、ブックマン社、2002年10月、ISBN 9784893084996
  • おかずのアイディア180(小学館、1995年5月、ISBN 9784093976619
  • おいしい店めぐり 味よし値段よし 日本全国穴場案内(共著:高木美千子、グラフ社、1996年2月、ISBN 9784766203448
  • 大山のぶ代の毎日のおかず 安い!簡単!おいしい!そして体によい!(グラフ社、2000年9月、ISBN 9784766205848
  • パッとできるおもしろ料理ブック イラストが楽しい!(グラフ社、2002年04月、ISBN 9784766206746

その他

  • 大山のぶ代の水なんだ!?(共著:グループH2O、グラフ社、1984年10月、ISBN 9784766200768

演じた人物

脚注

注釈

  1. ^ 所属事務所のプロフィール ではそのまま表記されている。
  2. ^ 一時は1934年10月16日生まれ[14]と公表していた時期もある。
  3. ^ 1936年生まれと称していたのは、結婚した1964年当時は姉さん女房に抵抗のあった時代であり、砂川の両親に対する大山の心遣いとのことである。これに関して、大山本人の言及はない。
  4. ^ 長らく1936年10月16日生まれ[2][13]としていたが[注 1][注 2]、2015年5月15日(金曜日)、東京都内で記者会見した砂川によると、大山は1933年(昭和8年)10月16日生まれで、認知症公表の時点で81歳だった[注 3][15][16]
  5. ^ 戦時中は福島県にいる父方の叔父宅に疎開していた[4]。その頃、曾祖父母と祖母を相次いで亡くしている[4]
  6. ^ 高橋の体調不良に伴う降板後は冨永みーなに引き継がれた。
  7. ^ 本作品では声優としてだけでなく、劇中に登場するロボットのメカデザインも手掛けている。

出典

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  4. ^ a b c d e f g h 「新 家の履歴書(92)大山のぶ代(女優・声優) 東京・恵比寿の生家は大家族。江戸明治大正の生き字引に囲まれて育った。」『週刊文春』2008年5月15日号、文芸春秋、2008年5月、92-95頁。 
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    さらにサプライズ! 大山のぶ代からの手紙にドラ泣き!? - 映画・映像|東宝WEB SITE
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外部リンク

※以下資料で生年月日について言及しているもののうち、1936年生まれのまま掲載しているものは2021年12月時点現在で、半分ほど。