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石渡荘太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石渡莊太郎から転送)
石渡 荘太郎いしわた そうたろう
生年月日 (1891-10-09) 1891年10月9日
出生地 日本の旗 日本 東京都
没年月日 (1950-11-04) 1950年11月4日(59歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学法律学科英法
称号 正三位勲一等
親族 石渡敏一(父)

日本の旗 第12代 宮内大臣
在任期間 1945年6月4日 - 1946年1月16日

日本の旗 第39・45代 大蔵大臣
内閣 平沼内閣
東条内閣
小磯内閣
在任期間 1939年1月5日 - 1939年8月30日
1944年2月19日 - 1945年2月21日

日本の旗 第43・50代 内閣書記官長
内閣 米内内閣
小磯内閣
在任期間 1940年1月16日 - 1940年7月22日
1945年2月21日 - 1945年4月7日

内閣 小磯内閣
在任期間 1945年2月21日 - 1945年4月7日
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宮相の身分の時、石渡が発行した禁衛府衛士監の辞令

石渡 荘太郎(いしわた そうたろう、1891年明治24年〉10月9日 - 1950年昭和25年〉11月4日)は、日本の官僚政治家。位階・勲等は正三位勲一等[1]東京都出身。

人物

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旧幕臣で第一次西園寺公望内閣内閣書記官長を務めた石渡敏一の長男[2]

大蔵大臣内閣書記官長宮内大臣などを歴任。近衛文麿の学友であり、税務経済のスペシャリストとして各政権で重用された。

平沼内閣の大蔵大臣時代、外相有田八郎海相米内光政とともに日独伊三国同盟に反対を貫いた。

太平洋戦争終結後、1945年(昭和20年)11月12日から11月15日にかけて行われた昭和天皇による戦争終熄奉告では、宮内大臣として供奉。天皇とともに伊勢神宮神武天皇陵明治天皇陵を巡った[3]。 その後、公職追放中に病を得て死去。享年59。墓所は多磨霊園

略歴

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司税官、税務監督局事務官、国税課長などを経て、
賀屋興宣青木一男とともに「大蔵省の三羽烏」と謳われたが、内閣調査局に事実上の左遷となる。

栄典

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外国勲章佩用允許

著作

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  • 『国際二重課税に就いて』日本経済聯盟会〈国際商議関係書類 第36号〉、1929年12月。 NCID BN05814172 
  • 『百億予算と百億貯蓄』朝日新聞社、1939年4月。 NCID BA35171626全国書誌番号:44024537 
  • 『興亜経済の前途』今日の問題社、1939年7月。 NCID BN08701048全国書誌番号:46052636 
  • 『戦時経済と国民の覚悟』日本協会出版部、1939年12月。全国書誌番号:44020746 

文献

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  • 『石渡荘太郎』石渡荘太郎伝記編纂会編・刊、1954年
  • 『心如水 石渡さんを偲ぶ』鹿喰清一 編、同・刊行会、1982年

出典

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  1. ^ 『官報』号外 1945年6月4日
  2. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、107頁。 
  3. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、90-91頁。ISBN 978-4-10-320523-4 
  4. ^ 特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 内閣書記官長 石渡荘太郎(昭和15年1月16日)
  5. ^ 『官報』第4058号、昭和15年7月17日。
  6. ^ 『官報』第5527号、昭和20年6月18日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  8. ^ 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
  9. ^ a b 『官報』1942年2月12日 「叙任及辞令」 賞勳局
  10. ^ 長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700 

外部リンク

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公職
先代
賀屋興宣
日本の旗 大蔵次官
1937 - 1939年
次代
大野龍太