陽明文庫蔵近衛基熙筆源氏物語
陽明文庫蔵近衛基熙筆源氏物語(ようめいぶんこぞうこのえもとひろひつげんじものがたり)は、源氏物語の写本。現在陽明文庫に所蔵されている近衛基熙による書写本であることからこのように呼ばれる[1]。
概要
[編集]近衛基熙による全帖一筆の書写本であり、54帖の揃い本として現在陽明文庫に所蔵されている。元禄13年9月27日(1700年11月7日)に若菜上から書写を開始し、宝永元年5月25日(1704年6月26日)に夢浮橋巻をもって書写を終了。同日桐壷から校合を開始、宝永2年9月16日(1705年11月2日)に夢浮橋巻までの一通り校合を終えている。その後も正徳3年5月10日(1713年6月2日)までさまざまな形で校合を繰り返している。近衛基煕の日記『基煕公記』享保2年12月18日(1718年1月19日)条に、「「光源氏物語一函」及び「御抄一函」[注釈 1]を文庫(陽明文庫)に納める。」との記述があり、この記事の「光源氏物語一函」が本写本であると考えられる[2]。
書写祖本・書写に要した時間・紙数・書写の順序
[編集]本写本には、「源氏物語書写校合日数目録」と「源氏紙重」とを合冊した近衛基熙自筆の付属文書があり、これによって本写本の書写に要した時間・紙数・書写を行った巻の順序などが判明する。その他に本写本のいくつかの巻の巻末に書かれている書写奥書、本写本と同じく陽明文庫に残された近衛基熙の日記『基煕公記』、同じく陽明文庫に残された近衛基熙の消息文などによって成立までの詳細な経緯を明らかにすることができる貴重な存在である[3]。
奥書
[編集]本写本のいくつかの巻の巻末には書写奥書が記されている。本写本の書写奥書には近衛基熙によってこの写本を書写する際に書き加えられたもののほかにもともとの祖本にあった書写奥書を近衛基熙がそのまま転写したものも含まれる。これらの奥書によって本写本がいつ誰によってどのような写本をもとに書写されたのかが明らかになる[1]。
- 空蝉巻末奥書
- 大永五年八月七日終日書之
- 花宴巻末奥書
- 本逍遙院筆
- 本肖柏筆
- 以京極黄門定家卿自筆校合畢
- 花散里巻末奥書
- 本ニ花散里 表紙浅黄唐紙外題紫色帋筆逍遙院殿
- 篝火巻末奥書
- 享禄三八廿八書了九月十四日校了
- 手習巻末奥書
- ①右申出 新院御本宸筆也令一校、相違之所以青墨直付、仮名遣真名仮名之相違同直付、行数亦書之、重而可
- 新写者也
- 寛文四年五月三日 平判
- ②抑此物語以青表紙本為証拠、雖然、累年求之難得、而幸有前平中納言入道嘯月所書本子細見奥書*:、常為奥翫、自元禄十三年九月廿七日書之、至昨年五月廿五日終功、即日企独校合、至今日周備之了、歓喜々々、是聊存導志子孫於和歌勿懈怠矣
- 宝永二年九月十九日 悠見子 花押
- たのまれぬ身とはしりつヽわたりきて今日まては見つゆめのうき橋
- 夢浮橋巻末奥書
- ①本云享禄四年正月廿二日終書写之功者也
- 槐陰逍遙叟堯空
- 読合直付了
- ②以三条西家証本令謄写了
- 慶長十九稔仲春中澣
- 従神武百餘代孫太上天皇
- 御判
- ③本云以証本書写之、老後之手習無其益、慚愧々々
- 享禄辛卯正月廿日
- 逍遙叟七十七歳
- 読合直付了
- 手習巻末奥書②は近衛基煕により宝永2年9月19日(1705年11月5日)に書かれたものである。
- 手習巻末奥書①は平松時量により寛文4年5月3日(1664年5月28日)に書かれたものである。
- 夢浮橋巻末奥書②は後陽成天皇により慶長十九稔仲春中(慶長19年=1614年2月中旬)に書かれたものである。
- 夢浮橋巻末奥書①は三条西実隆により享禄4年1月22日(1531年2月9日)に書かれたものである。
- 夢浮橋巻末奥書③は三条西実隆により享禄4年1月20日(1531年2月7日)に書かれたものである。
- 篝火巻末奥書は享禄3年8月28日(1530年9月19日)に書写を終わり享禄3年9月14日(1530年10月5日)に校合を終えた旨の三条西実隆のものである。
- 空蝉巻末奥書は三条西実隆により大永5年8月7日(1525年8月25日)に書かれたものである。
これらの奥書から、本写本は
- 三条西実隆により享禄・大永年間に書写された現在日本大学所蔵の三条西家本
- 後陽成天皇により慶長年間に書写された現在宮内庁書陵部所蔵の後陽成天皇本
- 後西天皇により書写された「新院御本」
- 平松時量により寛文年間に書写された平松時量本
という順序で転写されていったことが明らかになる。
源氏物語書写校合日数目録
[編集]本書には、写本そのものとともに「源氏物語書写校合日数目録」と題された文書が伝来している。この源氏物語書写校合日数目録は、源氏物語の各巻名を記した上で、それぞれの巻名の右下に墨書で書写開始日と終了日を、左下に朱書で校合開始日と終了日を記したものである。わずかながら一部の巻にはそれ以外の記述も見られる。巻序について、全体的な巻序は概ね現在一般的にみられる巻序の通りであるものの、藤袴・真木柱・梅枝・藤裏葉・若菜上とあるべきところが藤袴・梅枝・藤裏葉・真木柱・若菜上となっており、この前後の書写及び校合の順序もそのとおりになっている。
- 桐壷 元禄十六正五書始十四功終
宝永元五廿五独校合始廿七終 - 帚木 元禄十六正十五始廿六終功
宝永元五廿八始六二終 - (中略)
- 蓬生 元禄十六七廿二始廿七終
宝永元九十九始廿終
此巻一冊字違スノ三転也 - (中略)
- 梅枝 (以下略)
- 藤裏葉 (以下略)
- 槇柱 (以下略)
- 若菜上 元禄十三九廿七始十廿七終
宝永元十二七始二二廿八終 - 若菜下 元禄十三十廿八始同十四正州終
宝永二二廿八始五二終 - 柏木 元禄十五十二九始廿七終
宝永二五三始十八終 - (中略)
- 夕霧 (中略)宝永二五廿四六□
- (中略)
- 東屋 元禄十五十十一始六終(以下略)
- (中略)
- 夢浮橋 宝永元五十八始廿五一部終功
宝永二九十五始十六終独校了
平松時量筆本
[編集]本写本の直接の書写祖本は平松時量の書写本である[4]。平松時量(寛永4年2月15日(1627年4月1日) - 宝永元年8月12日(1704年9月10日))は、江戸時代前期の公家。平松家の第二代当主であり、初代当主平松時庸の子西洞院時慶の孫にあたる。平松家は近衛家とは家礼・門葉という関係にあり、近衛基煕の娘近衛煕子(のち天英院)が甲府徳川家の徳川綱豊(のち六代将軍徳川家宣)と縁組した際には、形式的に煕子を養女に迎えている。平松時量は正四位下少納言侍従という地位にあって、後水尾天皇のもとで「御本預輩」という書籍の収集・整理・複本の作成を担う立場にあり、後水尾天皇の子である後西天皇のもとでも同様の立場にあったとみられる[5]。
この平松時量による源氏物語の書写本は、直接には「新院御本」を書写したものである。「新院」とは、近衛基煕の幼少時の庇護者であり、古今伝授を与えた学問の師でもあった後西天皇のことであり、「新院御本」とは後西天皇による書写本を意味する。近衛基煕は、この平松時量書写本を「青表紙本」の「字違ズノ本」と高く評価しており、また三条西家本の祖本から見て3回目の転写本であることから「三転本」と呼んでいる。この平松時量本は、近衛基煕が書写・校合を終えた後も長く近衛基煕の手許にあったらしく、『基煕公記』享保2年12月17日(1718年1月18日)条に、「平中納言入道所書源氏之本、数年借之、近日可被返」とあることから享保2年12月23日(1718年1月24日)に行われた近衛基煕から孫の近衛家久へ伊勢源氏切紙伝授が行われた[2]頃まで近衛基煕のもとにあったと考えられる[6]。
書写した巻の順序
[編集]本写本の書写を行った巻の順序は一般的な源氏物語の巻序のとおりではない。最初に書写に取り掛かったのは若菜上巻であり、その後も厳密ではないものの、概ね分量の多い巻から書写が行われている。分量の多い巻の書写を一通り終えた後、元禄16年正月元日(1703年2月16日)に宮中等において毎年正月に講釈を行う伝統のあった初音巻の書写にとりかかっている。その後首巻である桐壷巻の書写にとりかかり、それ以後はそれまでに書写済の巻を除いて概ね一般的な巻序の通りに書写が進められている。なお、近衛基煕は本写本の書写が一般的な巻序の通りに進められるようになったのとほぼ同時期の元禄16年1月14日(1703年3月1日)に関白を辞任し、いわゆる隠居状態になっており、そのこととの関連が考えられている。
書写に要した時間・紙数・書写の順序
[編集]本写本の付属文書として陽明文庫に伝来している「源氏物語書写校合日数目録」と「源氏紙重」による書写と校合の経緯は以下のとおりである[7]。なお、巻序1は現在一般的に使われている巻序、巻序2は源氏物語書写校合日数目録の巻序である。
巻序1 | 巻序2 | 巻名 | 本文紙数 | 書写開始年月日 | 書写終了年月日 | 校合開始年月日 | 校合終了年月日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
第01帖 | 第01帖 | 桐壺 | 23 | (1703年2月20日) |
元禄16年正月5日(1703年3月1日) |
元禄16年正月14日(1704年6月26日) |
宝永元年5月25日(1704年6月28日) | 宝永元年5月27日
第02帖 | 第02帖 | 帚木 | 59 | (1703年3月2日) |
元禄16年正月15日(1703年3月13日) |
元禄16年正月26日(1704年6月29日) |
宝永元年5月28日(1704年7月3日) | 宝永元年6月2日
第03帖 | 第03帖 | 空蝉 | 14 | (1703年3月13日) |
元禄16年正月26日(1703年3月15日) |
元禄16年正月28日(1704年7月3日) |
宝永元年6月2日(1704年7月5日) | 宝永元年6月4日
第04帖 | 第04帖 | 夕顔 | 61 | (1703年3月15日) |
元禄16年正月29日(1703年3月29日) |
元禄16年2月13日(1704年7月5日) |
宝永元年6月4日(1704年7月11日) | 宝永元年6月10日
第05帖 | 第05帖 | 若紫 | 64 | (1703年3月30日) |
元禄16年2月14日(1703年4月17日) |
元禄16年3月2日(1704年7月12日) |
宝永元年6月11日(1704年7月31日) | 宝永元年6月30日
第06帖 | 第06帖 | 末摘花 | 42 | (1703年4月17日) |
元禄16年3月2日(1703年4月25日) |
元禄16年3月10日(1704年8月1日) |
宝永元年7月1日(1704年8月18日) | 宝永元年7月18日
第07帖 | 第07帖 | 紅葉賀 | 34 | (1703年4月25日) |
元禄16年3月10日(1703年4月25日) |
元禄16年3月10日(1704年7月8日) |
宝永元年6月7日(1704年9月13日) | 宝永元年8月15日
第08帖 | 第08帖 | 花宴 | 17 | (1703年5月5日) |
元禄16年3月20日(1703年5月7日) |
元禄16年3月22日(1704年9月13日) |
宝永元年8月15日(1704年9月13日) | 宝永元年8月15日
第09帖 | 第09帖 | 葵 | 62 | (1703年5月8日) |
元禄16年3月23日(1703年5月15日) |
元禄16年3月30日(1704年9月14日) |
宝永元年8月16日(1704年9月16日) | 宝永元年8月18日
第10帖 | 第10帖 | 賢木 | 71 | (1703年5月15日) |
元禄16年3月30日(1703年5月23日) |
元禄16年4月8日(1704年9月17日) |
宝永元年8月19日(1704年9月27日) | 宝永元年8月29日
第11帖 | 第11帖 | 花散里 | 6 | (1703年5月24日) |
元禄16年4月9日(1703年5月24日) |
元禄16年4月9日(1704年9月27日) |
宝永元年8月29日(1704年9月27日) | 宝永元年8月29日
第12帖 | 第12帖 | 須磨 | 61 | (1703年5月24日) |
元禄16年4月9日(1703年6月1日) |
元禄16年4月17日(1704年9月30日) |
宝永元年9月2日(1704年10月3日) | 宝永元年9月5日
第13帖 | 第13帖 | 明石 | 56 | (1703年6月2日) |
元禄16年4月18日(1703年8月22日) |
元禄16年7月10日(1704年10月3日) |
宝永元年9月5日(1704年10月10日) | 宝永元年9月12日
第14帖 | 第14帖 | 澪標 | 47 | (1703年8月23日) |
元禄16年7月11日(1703年9月2日) |
元禄16年7月21日(1704年10月11日) |
宝永元年9月13日(1704年10月17日) | 宝永元年9月19日
第15帖 | 第15帖 | 蓬生 | 31 | (1703年9月3日) |
元禄16年7月22日(1703年9月8日) |
元禄16年7月27日(1704年10月17日) |
宝永元年9月19日(1704年10月18日) | 宝永元年9月20日
第16帖 | 第16帖 | 関屋 | 7 | (1703年9月8日) |
元禄16年7月27日(1703年9月8日) |
元禄16年7月27日(1704年10月18日) |
宝永元年9月20日(1704年10月18日) | 宝永元年9月20日
第17帖 | 第17帖 | 絵合 | 24 | (1703年9月10日) |
元禄16年7月29日(1703年9月15日) |
元禄16年8月5日(1704年10月19日) |
宝永元年9月21日(1704年10月21日) | 宝永元年9月23日
第18帖 | 第18帖 | 松風 | 28 | (1703年9月16日) |
元禄16年8月6日(1703年9月24日) |
元禄16年8月14日(1704年10月23日) |
宝永元年9月25日(1704年10月25日) | 宝永元年9月27日
第19帖 | 第19帖 | 薄雲 | 41 | (1703年9月26日) |
元禄16年8月16日(1703年10月3日) |
元禄16年8月23日(1704年10月30日) |
宝永元年10月2日(1704年11月17日) | 宝永元年10月20日
第20帖 | 第20帖 | 朝顔 | 27 | (1703年10月7日) |
元禄16年8月27日(1703年10月15日) |
元禄16年9月5日(1704年11月20日) |
宝永元年10月23日(1704年11月20日) | 宝永元年10月23日
第21帖 | 第21帖 | 少女 | 70 | (1703年10月15日) |
元禄16年9月5日(1703年11月20日) |
元禄16年10月12日(1704年11月20日) |
宝永元年10月23日(1704年11月26日) | 宝永元年10月29日
第22帖 | 第22帖 | 玉鬘 | 54 | (1703年11月21日) |
元禄16年10月13日(1703年12月20日) |
元禄16年11月12日(1704年12月2日) |
宝永元年11月6日(1704年12月8日) | 宝永元年11月12日
第23帖 | 第23帖 | 初音 | 20 | (1703年2月16日) |
元禄16年正月1日(1703年2月20日) |
元禄16年正月5日(1704年12月10日) |
宝永元年11月14日(1704年12月11日) | 宝永元年11月15日
第24帖 | 第24帖 | 胡蝶 | 27 | (1703年12月21日) |
元禄16年11月13日(1703年12月29日) |
元禄16年11月21日(1704年12月10日) |
宝永元年11月14日(1704年12月14日) | 宝永元年11月18日
第25帖 | 第25帖 | 蛍 | 27 | (1703年12月30日) |
元禄16年11月22日(1704年1月19日) |
元禄16年12月13日(1704年12月10日) |
宝永元年11月14日(1704年12月14日) | 宝永元年11月18日
第26帖 | 第26帖 | 常夏 | 29 | (1704年1月20日) |
元禄16年12月14日(1704年2月7日) |
元禄17年正月3日(1704年12月14日) |
宝永元年11月18日(1704年12月14日) | 宝永元年11月18日
第27帖 | 第27帖 | 篝火 | 5 | (1704年2月9日) |
元禄17年正月5日(1704年2月9日) |
元禄17年正月5日(1704年12月14日) |
宝永元年11月18日(1704年12月14日) | 宝永元年11月18日
第28帖 | 第28帖 | 野分 | 25 | (1704年2月9日) |
元禄17年正月5日(1704年2月17日) |
元禄17年正月13日(1704年12月14日) |
宝永元年11月18日(1704年12月15日) | 宝永元年11月19日
第29帖 | 第29帖 | 行幸 | 38 | (1704年2月21日) |
元禄17年正月17日(1704年2月27日) |
元禄17年正月23日(1704年12月17日) |
宝永元年11月21日(1704年12月20日) | 宝永元年11月24日
第30帖 | 第30帖 | 藤袴 | 20 | (1704年5月31日) |
宝永元年4月28日(1704年6月3日) |
宝永元年5月2日(1704年12月20日) |
宝永元年11月24日(1704年12月21日) | 宝永元年11月25日
第31帖 | 第33帖 | 真木柱 | 50 | (1704年5月23日) |
宝永元年4月20日(1704年5月30日) |
宝永元年4月27日(1704年12月21日) |
宝永元年11月25日(1704年12月25日) | 宝永元年11月29日
第32帖 | 第31帖 | 梅枝 | 26 | (1704年6月12日) |
宝永元年5月11日(1704年6月19日) |
宝永元年5月18日(1704年12月26日) |
宝永元年11月30日(1704年12月26日) | 宝永元年11月30日
第33帖 | 第32帖 | 藤裏葉 | 32 | (1704年5月15日) |
宝永元年4月13日(1704年5月23日) |
宝永元年4月20日(1704年12月30日) |
宝永元年12月4日(1705年1月2日) | 宝永元年12月7日
第34帖 | 第34帖 | 若菜上 | 126 | (1700年11月7日) |
元禄13年9月27日(1700年12月8日) |
元禄13年10月28日(1705年1月2日) |
宝永元年12月7日(1705年3月24日) | 宝永2年2月28日
第35帖 | 第35帖 | 若菜下 | 124 | (1700年12月8日) |
元禄13年10月28日(1701年3月9日) |
元禄14年正月30日(1705年3月24日) |
宝永2年2月28日(1705年6月22日) | 宝永2年5月2日
第36帖 | 第36帖 | 柏木 | 51 | (1703年1月25日) |
元禄15年12月9日1703年2月14日) |
元禄15年12月29日((1705年6月23日) |
宝永2年5月3日1705年7月8日) | 宝永2年5月18日
第37帖 | 第37帖 | 横笛 | 24 | (1704年5月31日) |
宝永元年4月28日1704年6月8日) |
宝永元年5月7日((1705年7月8日) |
宝永2年5月18日1705年7月12日) | 宝永2年5月22日(
第38帖 | 第38帖 | 鈴虫 | 19 | 1704年6月9日) |
宝永元年5月8日((1704年6月12日) |
宝永元年5月11日(1705年7月13日) |
宝永2年5月23日(1705年7月14日) | 宝永2年5月24日
第39帖 | 第39帖 | 夕霧 | 88 | (1702年9月2日) |
元禄15年8月11日(1702年11月28日) |
元禄15年10月10日(1705年7月14日) |
宝永2年5月24日(1705年7月24日) | 宝永2年6月4日
第40帖 | 第40帖 | 御法 | 27 | (1704年3月6日) |
元禄17年2月1日(1704年3月10日) |
元禄17年2月5日(1705年7月31日) |
宝永2年6月11日(1705年9月19日) | 宝永2年8月2日
第41帖 | 第41帖 | 幻 | 30 | (1704年2月27日) |
元禄17年正月23日(1704年3月4日) |
元禄17年正月29日(1705年9月19日) |
宝永2年8月2日(1705年9月19日) | 宝永2年8月2日
第42帖 | 第42帖 | 匂宮 | 19 | (1704年3月3日) |
元禄17年正月28日(1704年3月6日) |
元禄17年2月1日(1705年9月21日) |
宝永2年8月4日(1705年9月21日) | 宝永2年8月4日
第43帖 | 第43帖 | 紅梅 | 18 | (1704年3月11日) |
元禄17年2月6日(1704年3月14日) |
元禄17年2月9日(1705年9月21日) |
宝永2年8月4日(1705年9月21日) | 宝永2年8月4日
第44帖 | 第44帖 | 竹河 | 53 | (1704年3月14日) |
元禄17年2月9日(1704年3月25日) |
元禄17年2月20日(1705年9月21日) |
宝永2年8月4日(1705年9月23日) | 宝永2年8月6日
第45帖 | 第45帖 | 橋姫 | 51 | (1704年3月25日) |
元禄17年2月20日(1704年4月4日) |
元禄17年3月1日(1705年9月25日) |
宝永2年8月8日(1705年9月25日) | 宝永2年8月8日
第46帖 | 第46帖 | 椎本 | 50 | (1704年4月14日) |
元禄17年3月11日(1704年4月26日) |
元禄17年3月23日(1705年9月25日) |
宝永2年8月8日(1705年10月1日) | 宝永2年8月14日
第47帖 | 第47帖 | 総角 | 118 | (1701年3月9日) |
元禄14年正月30日(1701年12月13日) |
元禄14年11月14日(1705年10月1日) |
宝永2年8月14日(1705年10月6日) | 宝永2年8月19日
第48帖 | 第48帖 | 早蕨 | 25 | (1704年4月5日) |
元禄17年3月2日(1704年4月12日) |
元禄17年3月9日(1705年10月6日) |
宝永2年8月19日(1705年10月7日) | 宝永2年8月20日
第49帖 | 第49帖 | 宿木 | 121 | (1701年12月14日) |
元禄14年11月15日(1702年7月2日) |
元禄15年6月8日(1705年10月8日) |
宝永2年8月21日(1705年10月22日) | 宝永2年9月5日
第50帖 | 第50帖 | 東屋 | 88 | (1702年11月29日) |
元禄15年10月11日(1702年12月24日) |
元禄15年11月6日(1705年10月23日) |
宝永2年9月6日(1705年10月25日) | 宝永2年9月8日
第51帖 | 第51帖 | 浮舟 | 92 | (1702年7月4日) |
元禄15年6月10日(1702年8月29日) |
元禄15年8月7日(1705年10月26日) |
宝永2年9月9日(1705年10月29日) | 宝永2年9月12日
第52帖 | 第52帖 | 蜻蛉 | 76 | (1704年4月27日) |
宝永元年3月24日(1704年5月13日) |
宝永元年4月10日(1705年10月29日) |
宝永2年9月12日(1705年10月31日) | 宝永2年9月14日
第53帖 | 第53帖 | 手習 | 91 | (1702年12月25日) |
元禄15年11月7日(1703年1月25日) |
元禄15年12月9日(1705年10月31日) |
宝永2年9月14日(1705年11月1日) | 宝永2年9月15日
第54帖 | 第54帖 | 夢浮橋 | 23 | (1704年6月19日) |
宝永元年5月18日(1704年6月26日) |
宝永元年5月25日(1705年11月1日) |
宝永2年9月15日(1705年11月2日) | 宝永2年9月16日
なお、陽明文庫に残された近衛基煕の消息文には、上記の「源氏物語書写校合日数目録」の記述を裏付けるいくつかの記述が存在する[8]
- 元禄16年正月14日(1703年3月1日)付けの消息文では、「源氏物語二冊」の書写を終えたとして次の一冊をもとめている[注釈 2]。
- 元禄16年7月10日(1703年8月22日)付けの消息文では、「源氏物語あかし 新古」を文庫に納め、代わりに「源氏物語みおつくし」を持ってくるように指示している[注釈 3]。
- 元禄16年7月21日(1703年9月2日)付けの消息文では、蓬生巻と関屋巻を持ってくるように指示している[注釈 4]。
- 元禄17年3月1日(1704年4月4日)付けの消息文では、近衛家久に対して翌日に予定されていた伊勢物語の講釈の際に次の巻を持参するようにとのみ指示しており[注釈 5]、それがどの巻であるのかは文中には記されていないが、上記の「源氏物語書写校合日数目録」の記述と照らし合わせることによって、このとき書写が終了したのが橋姫巻であり、「次の巻」が早蕨であることがわかる。
- 宝永元年5月25日(1704年6月26日)付けの消息文では、すべての巻の書写を終えたとして、校合を始めるため桐壷以下三冊と最初に書写した若菜上巻を求めている[注釈 6]。
- 宝永2年9月16日(1705年11月2日)付けの消息文では、すべての巻の校合を終えた旨の記述[注釈 7]
また、同じく陽明文庫に残された近衛基煕の日記『基煕公記』にも、上記の「源氏物語書写校合日数目録」の記述を裏付けるいくつかの記述が存在する
- 『基煕公記』宝永元年5月25日(1704年6月26日)条では、「源氏物語五十四帖、去元禄十三年九月下旬相付所写志、今日終功」
- 『基煕公記』宝永2年9月16日(1705年11月2日)条では、「元禄十三年九月以後書源氏、去年五月一部終功了」
これらの記述によると、近衛基煕はこの時期堀川の別邸に居住しており、一部例外はあるものの、本邸の文庫に保管されていた平松時量書写本のそのときに書写する巻だけをこのころ本邸に居住していた孫の近衛家久に持ってこさせ、書写が完了した巻の平松時量書写本と新たに完成した自身の写本をその都度本邸の文庫に納めていたとみられる。また校合の際も新旧の校合を行おうとする巻だけを本邸の文庫から持ち出させており、作業が終わるごとに新旧の写本を本邸の文庫も戻していたとみられる。
そのほかの校合
[編集]近衛基煕の日記『基煕公記』には、「源氏物語書写校合日数目録」に記されている以外にも校合を行っている記録がみられる。「源氏物語書写校合日数目録」によれば、以下のように、まだ書写が行われている途中の日付で「源氏校合」といった源氏物語を校合しているとみられる記述がある[9][10]。
- 元禄16年8月9日(1703年9月19日)「講百人一首今日始之、又源氏物語清濁少々令読聞之」
- 元禄16年8月13日(1703年9月23日)「読源氏物語」
- 元禄16年8月15日(1703年9月25日)「令講百人一首、又源氏校合、帚木空蝉読了」
- 元禄16年8月29日(1703年10月9日)「講百人一首、令校合源氏」
- 元禄16年9月17日(1703年10月27日)「令校合源氏物語」
- 元禄16年11月9日(1703年12月17日)「講百人一首、読源氏物語、去九月中旬以降中絶、今日再興了」
- 元禄16年11月11日(1703年12月19日)「読源氏物語」
- 元禄16年11月14日(1703年12月22日)「講百人一首、又読源氏」
- 元禄16年11月17日(1703年12月25日)「講百人一首、読源氏」
- 元禄17年4月25日(1704年5月28日)「校合源氏物語了」
- 元禄17年5月3日(1704年6月4日)「校合源氏」
また源氏物語書写校合日数目録」によると、校合が完了しているはずの宝永2年9月16日(1705年11月2日)以後の日付にも以下のように源氏物語を校合しているとみられる記述がある。
- 宝永4年2月28日(1707年4月1日)「令校合源氏」
- 宝永5年閏1月25日(1708年3月17日)「校合源氏物語」
- 宝永5年5月26日(1708年7月13日)「有校合」
- 宝永5年5月28日(1708年7月15日)「有校合」
- 宝永5年6月7日(1708年7月24日)「有校合」
- 宝永5年6月26日(1708年8月12日)「有源氏校合」
- 宝永5年7月23日(1708年9月7日)「有源氏校合」
- 宝永5年9月28日(1708年11月10日)「有校合」
- 正徳元年9月18日(1711年10月27日)付けの消息文では、江戸滞在中の近衛基煕から残っている宇治巻の校合を再開したいとする記述がある[注釈 8]
- 正徳2年8月14日「今日、始源氏物語校合、是、先年所書之本也、校合至若菜届半、彼是延引、先、廿余枚読了」
- 正徳3年5月10日(1713年6月2日)「今日、源氏物語校合終功了」
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 近衛基煕が著わした源氏物語の注釈書一簣抄のこと。
- ^ 「元禄16年正月14日(1703年3月1日)付近衛基煕消息文」(陽明文庫管理番号 19477)
- ^ 「元禄16年7月10日(1703年8月22日)付近衛基煕消息文」(陽明文庫管理番号 35722)
- ^ 「元禄16年7月21日(1703年9月2日)付近衛基煕消息文」(陽明文庫管理番号 35730)
- ^ 「元禄17年3月1日(1704年4月4日)付近衛基煕消息文」(陽明文庫管理番号 35858)
- ^ 「宝永元年5月25日(1704年6月26日)付近衛基煕消息文」(陽明文庫管理番号 19385)
- ^ 「宝永2年9月16日(1705年11月2日)付近衛基煕消息文」(陽明文庫管理番号 35777)
- ^ 「正徳元年9月18日(1711年10月27日)付近衛基煕消息文」(陽明文庫管理番号 35889)
出典
[編集]- ^ a b 池田利夫 1988, pp. 65–68, 「陽明文庫蔵近衛基煕筆本」.
- ^ a b 川崎佐知子 2006, pp. 11–13, 「源氏切紙伝授」.
- ^ 川崎佐知子 2009, p. 355, 「はじめに」.
- ^ 川崎佐知子 2009, pp. 358–360, 「平松時量本」.
- ^ 平林盛得「後西天皇収書の周辺」岩倉規夫・大久保利謙編『近代文書学への展開』柏書房、1982年(昭和57年)6月、pp. 345-359。
- ^ 川崎佐知子 2009, pp. 378–379, 「おわりに」.
- ^ 川崎佐知子 2009, pp. 360–365, 「書写に要した時間・紙数・書写の順序」.
- ^ 川崎佐知子 2009, pp. 365–371, 「関連資料としての消息群」.
- ^ 川崎佐知子 2009, pp. 371–374, 「くり返された校合」.
- ^ 川崎佐知子 2009, pp. 374–378, 「歌道教育としての校合」.
参考文献
[編集]- 池田利夫「近衛家の源氏書写と所蔵諸本」『源氏物語の文献学的研究序説』笠間書院、1988年12月10日、47-72頁。(初出は「源氏物語青表紙本の書写伝来の一形態:室町以来の寄合書と一筆書」『国文学研究資料館文献資料部研究年報』第6号、1988年3月。)
- 川崎佐知子「『一簣抄』の周縁」『国語国文』第75号、中央図書出版社、2006年11月、1-15頁。
- 川崎佐知子「近衞基熈の『源氏物語』書写」『皇統迭立と文学形成』大阪大学古代中世文学研究会編、和泉書院〈研究叢書391〉、2009年7月、355-379頁。ISBN 978-4-7576-0513-8。
- 高橋貞一・長澤規矩也『陽明文庫蔵書解題 : 国書善本・貴重漢籍』汲古書院