Portal:日本の都道府県/山梨県/特集/アーカイブ
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身延線
[編集]身延線(みのぶせん)は 静岡県富士市の富士駅と山梨県甲府市の甲府駅を結ぶ東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(地方交通線)である。
駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線である。全線にわたり富士川の左岸(東側)を通り、本流を渡ることはない。北側は甲府盆地内の鰍沢口駅、南側は西富士宮駅付近まで地形が開けており、沿線人口が多い両端部での区間運転も多い。また中京地方以西と山梨県を行き来するには最も利用しやすい鉄道ルートで、静岡駅で東海道新幹線と接続する特急「ふじかわ」が運転され長距離輸送も担う。
富士駅 - 西富士宮駅間はIC乗車カード「TOICA」の利用エリアに含まれている。
2027年開業予定の中央新幹線と交わる地点に接続駅を設ける計画があった。2011年6月に発表された位置案では山梨県内国中地方峡中地域に設置されることが明確となり、中央市にある小井川駅、東花輪駅および昭和町にある常永駅が範囲となっている。 しかし、2013年9月に発表された中間駅の位置は甲府市大津町となり、身延線や中央本線とは接続せずにバスで連絡することとなった。
ゆるキャン
[編集]『ゆるキャン△』は、あfろによる日本の漫画作品。『まんがタイムきららフォワード』(芳文社)にて、2015年7月号より連載中。2018年にはテレビアニメ化されている。
山梨県周辺を舞台に、キャンプ場でのリクリエーションや野外調理などといったアウトドア趣味の魅力と、それを身の丈に合った範囲で満喫する女子高校生たちのゆるやかな日常を描く。表題に含まれる白三角記号「△」は、漫画のタイトルロゴではテントを表しており、表題を音読する場合は発音されない。
漫画の流れとしては、女子高校生たちがキャンプを計画するところからエピソードが始まり、道具や食材を準備して目的地まで旅した後、見晴らしの良い現地からの展望を満喫しながら、用意していた食材を現地で野外調理する、あるいは食堂でご当地グルメに舌鼓を打つ、温泉を満喫するなどを経て、テントで1泊して翌朝を迎える、という展開の繰り返しで進行する。本作では一人での気ままなキャンプと大人数での賑やかなキャンプの魅力が対等のものとして描かれており、主要登場人物同士はいつでも行動を共にしているわけではなく一人旅のエピソードも多いが、旅行先からSNSで互いの近況を報告し合う形でストーリーに関わっていく。
著者のあfろは、元々ツーリングを趣味としていたことが本作の着想に繋がったといい、著者自身のアウトドア経験が作品に盛り込まれている。執筆に当たっては実在のキャンプ場や観光地の下見、本番の取材、後から気になった箇所の再取材と、1箇所につき2回から3回の取材を行っているといい。ただしカバー袖の作者コメントは巻を追うごとに荒唐無稽な内容になっていき、江の島岩屋の伝説を絡めた内容になっていくなど、真偽の定かではない体裁になっている。}}、漫画には取材先の風景がそのまま描かれている。見開きのページで精緻に描かれるキャンプ場からの展望や、それを眺める登場人物の表情などが、臨場感や、舞台となる実在の観光名所に対する興味を煽る見せ場となっている。アウトドア趣味に向き合う少女たちのまっすぐな魅力や、日常の合間に披露される、火起こしのノウハウや寝具の種類といったアウトドア知識の描写、美味そうに描かれる食べ物、実在するキャンプ道具の描写、旅先で出会うさまざまな犬にまつわる話題なども、作品の持ち味になっている。
本作のテレビアニメ化が発表された際には、掲載誌『まんがタイムきららフォワード』2017年3月号(第21話掲載)にて初めて表紙を飾った。
ドワンゴが運営する画像投稿・電子書籍配信サイト『ニコニコ静画』内の芳文社公式コーナー『きららベース』にて、本編の幕間の出来事を描いた各話2ページの書き下ろし番外編が『へやキャン△』のタイトルで2016年4月9日より連載されている。
山梨県立図書館
[編集]山梨県立図書館(やまなしけんりつとしょかん)は、山梨県甲府市にある山梨県立の図書館である。
甲府市立図書館とともに第二次世界大戦前から存在する公共図書館で、1900年(明治33年)に山梨県教育会付属図書館として開館した。1930年(昭和5年)に根津嘉一郎の寄付により県庁舎構内に新館が建てられ、1931年(昭和6年)に山梨県立管轄となり、現在の名称に改められた。戦中には甲府空襲よる戦災を免れたものの、1945年(昭和20年)にはGHQ傘下の山梨軍政部により建物が接収され、蔵書は県会議事堂地下や甲府工業学校武道場へ移された。山梨軍政部の主導で弘前大学図書館長であった三谷栄一が新館長に迎えられ、1950年(昭和25年)には接収解除により返還された。
1970年(昭和45年)に山梨県庁舎構内より平和通りを挟んだ二丁目へ移転(それまでの建物は山梨県庁舎第一南別館として2010年まで使用され、現在は改築され防災新館となっている)。当時先進的図書館建築のパイオニアとして知られていた鬼頭梓の設計により新しい県立図書館が建設されたが、2000年代になると老朽化や蔵書数増加による収蔵スペースの確保が懸案事項となり、2012年6月10日の業務を最後に閉館され、その後建物は解体された。なお、跡地は甲府信用金庫に土地交換という形で売却され、2015年9月より同信金の本店が移転営業を開始した。
その後2012年6月11日から11月10日までの長期間にわたり移転作業のため休館し、11月11日に現在の場所へ開館、地上3階建(一部4階建)、地下1階建で延床面積は10,452m2と、旧図書館(4,249m2)の2倍以上になった。施設は蔵書・閲覧コーナーのほかに多目的展覧会場やカフェ、多目的ホールが設置されている。移転後の新館長には作家の阿刀田高が就任した。
富士急ハイランド
[編集]富士急ハイランド(ふじきゅうハイランド、Fujikyu Highland, Fuji-Q Highland, Fuji-Q)は、山梨県富士吉田市新西原五丁目と同南都留郡富士河口湖町船津にまたがる富士急行系列の遊園地。国道139号バイパスより富士山側にあるコニファーフォレスト部分は富士吉田市松山。
富士急ハイランドの前身は、1961年に開園した富士五湖国際スケートセンター。同年に設置された富士急行河口湖線・ハイランド駅(現富士急ハイランド駅)に合わせて1964年に「富士急ハイランド」へ改称。主な附帯施設にボウリング場「Q-BOWL」(2012年リニューアル開業)、宿泊施設「ハイランドリゾートホテル&スパ」(1986年開業、旧称ホテル・ハイランドリゾート)、富士山を題材にした美術品を専門に集めた美術館「フジヤマミュージアム」(2003年開館)、温浴施設「ふじやま温泉」(2006年開業)などがある。
キング・オブ・コースターFUJIYAMA・ドドンパ・ええじゃないか・高飛車の4大コースターを筆頭に、多くの絶叫マシンがある事で有名だが、2000年頃からは「トーマスランド」や「ハムハムどきどき!おうこく」などのファミリー層をターゲットとした施設も登場している。また、冬期は首都圏では最も開業が早いというアイススケートリンクも営業する。
大村智
[編集]大村 智(おおむら さとし、1935年7月12日 - )は、日本の化学者(天然物化学)。学位は薬学博士(東京大学・1968年)、理学博士(東京理科大学・1970年)。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。
微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない450種を超える新規化合物を発見、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。
また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱、実現し、基礎から応用までの幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。
研究以外では、北里研究所の経営再建、女子美術大学への支援や私費による韮崎大村美術館の建設、学校法人開智学園の運営などの貢献業績がある。
中央新幹線
[編集]中央新幹線(ちゅうおうしんかんせん)とは、東京都から大阪市に至る新幹線の整備計画路線である。
2011年5月26日に整備計画が決定され、営業主体および建設主体に指名されていた東海旅客鉄道(JR東海)が建設すべきことが同年5月27日に定められた。2014年度中の着工を予定している。
高速輸送を目的としているため、直線的なルートで、最高設計速度505km/hの高速走行が可能な超電導磁気浮上式リニアモーターカー「超電導リニア」により建設される。首都圏 - 中京圏間の2027年の先行開業を目指しており、東京 - 名古屋間を最速で40分で結ぶ予定。東京都 - 大阪市の全線開業は2045年の予定で、東京 - 大阪間を最速67分で結ぶと試算されている。
花子とアン
[編集]『花子とアン』(はなことアン)は、2014年(平成26年度)上半期に、NHKの総合テレビジョンとBSプレミアムで放送される連続テレビ小説・第90シリーズの作品である。
『赤毛のアン』に代表されるモンゴメリーなどの英米児童文学の日本語訳版を著し、明治から昭和の混乱期に翻訳家として活躍した村岡花子の半生を描いた伝記作品である。
村岡恵理(花子の孫)『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を原案に、中園ミホの書き下ろし脚本にて制作。本作では主人公・花子(はな)と『赤毛のアン』の主人公アンを重ね合わせ、随所に『赤毛のアン』を彷彿とさせる場面を散りばめるといった脚色がなされており、本編後の「ベストフレンズ」のコーナーにて「このドラマはフィクションです」と表記されている。
富士山
[編集]富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3,776 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風貌は日本国内のみならず日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ、芸術面でも大きな影響を与えた。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来より霊峰とされ、特に浅間大神が鎮座するとされた山頂部は神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の側面が築かれ、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。
信玄公旗掛松事件
[編集]信玄公旗掛松事件(しんげんこうはたかけまつじけん)とは、国鉄(現JR東日本)中央本線日野春駅(山梨県北杜市長坂町富岡)駅構内に隣接した線路脇に、かつて生育していた、武田信玄が軍旗を立て掛けたという伝承・由来のある「信玄公旗掛松」と呼ばれる老松が、蒸気機関車の煤煙、蒸気、振動などにより枯死してしまったとして、老松の所有者(地権者)であった清水倫茂(しみずりんも)が、一個人として国(鉄道院)を相手取り訴訟を起こした損害賠償請求事件である。
国家賠償法成立以前の、大正年間(1910年代 - 1920年代)に起きた当訴訟事件は、鉄道事業という公共性の高いものであっても、「他人の権利を侵略・侵害することは法の認許するところではない、松樹を枯死させたことは、権利の内容を超えた権利の行為である。」、すなわち「権利の濫用」に当たると司法によって判断され、第一審甲府地方裁判所、第二審東京控訴院(今日の東京高裁に該当)それぞれの判決において、原告である清水倫茂は勝訴し、最高機関である大審院(今日の最高裁に該当)第二民事部の判決(大判大正8年3月3日民録25輯356頁)でも、「国側(鉄道院)に過失があった」と認められ、原告側が勝訴した歴史的裁判であった。
大小切騒動
[編集]大小切騒動(だいしょうぎりそうどう)は、1872年(明治5年)に山梨県で起こった一揆。山梨県農民一揆とも。
江戸時代の享保年間に甲斐国一円は幕府直轄領化されており、甲府盆地の山梨郡、八代郡、巨摩郡の国中三郡では近世以前の金納税制である大小切税法(甲州三法のひとつ)という特殊な年貢徴収法が甲州枡、甲州金とともに独自の制度として適用されていた。米納を基本とする江戸時代において、国中三郡では原則米納は9分の4で、納税米額の9分の3は小切と呼ばれる米4石1斗4升を金1両で換算でした代金納で9月に納められ、9分の2は大切と呼ばれ、1724年(享保9年)以降は浅草蔵前冬張紙値段(100石=35両前後)で換算した代金納で納められた。このため、国中三郡では米麦芝居のほか、現金収入を得るため養蚕や織物、煙草栽培など商品作物栽培や山間地での林業などを組み合わせる形態の生業が確立し、貨幣経済が浸透していた。大小切税法は実質年貢負担の軽減でもあったため武田氏統治時代の遺産(実際には起源は不肖)と位置づけられ、領主側では年貢増収のため廃止を試みるもの頑強に抵抗し、明治まで存続した。
米満達弘
[編集]米満 達弘(よねみつ たつひろ、1986年8月5日 - )は、日本のレスリング選手。陸上自衛隊朝霞駐屯地・自衛隊体育学校所属に所属する自衛官である。階級は三等陸尉。
山梨県富士吉田市出身。山梨県立韮崎工業高等学校、拓殖大学政経学部卒。
2008年全日本学生選手権フリースタイル66kg級で優勝して文部科学大臣杯を獲得し、天皇杯全日本選手権でも優勝。
2009年はヤシャ・ドク国際大会優勝、世界選手権にも出場し、銅メダルを獲得。
2010年世界選手権は23位と振るわなかったが、アジア競技大会ではフリースタイルとしては1994年広島大会62kg級の和田貴広以来16年ぶりとなる金メダルを獲得。翌、2011年9月にイスタンブールで開催された世界選手権でも和田以来16年ぶりの銀メダルを獲得し、ロンドンオリンピックの日本の出場枠を獲得した。12月に開催された全日本選手権でも優勝してロンドンオリンピック代表に決定した。
恵林寺
[編集]恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷(旧塩山市)にある寺院。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院である。庭園は国の名勝に指定されている(昭和19年(1944年)6月26日指定)。
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。永禄7年(1564年)には武田晴信(信玄)が寺領を寄進し、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた。
天正10年(1582年)4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したといわれ、後代には快川の遺喝として廣く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。一方で、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発した言葉で同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物において快川の遺喝として紹介されており、佐藤八郎は快川の遺喝でなく後世の脚色である可能性を指摘している。
甲府鳥もつ煮
[編集]甲府鳥もつ煮(こうふとりもつに)は、山梨県で食べられている、ニワトリのモツを砂糖と醤油で煮込んだ郷土料理。一般的なもつ煮のような煮込み料理のイメージとは異なり、完成品は水分が少なく、照り焼きに似た状態となる。
同県内では一般に「鳥もつ煮」と呼ばれているが、発祥の店がある同県甲府市の名を採って「甲府鳥もつ煮」と呼ばれる。また、同県内で広く食されることから、同県と同じ範囲にあった令制国・甲斐国の通称を採って「甲州鳥もつ煮」とも呼ばれる。
鳥もつと総称される部位のうち、主に砂肝、ハツ、レバー、キンカンを使用した料理である。牛や豚の内臓肉を使用したもつ煮込み(関東風煮込みや九州のもつ鍋)とは異なり、発祥の店「奥藤(おくとう)」のレシピでは砂糖と醤油だけを使って小鍋で素早く照り煮する。飴状のタレが絡まっていて汁気はない。このタレ自体は焼き鳥で使用されるタレに酷似している。
山梨県内では、蕎麦屋、ほうとう屋などの定番メニューとして認知されており「鳥もつ」といえばこれの事を指す。甲府市役所が発行する甲府市観光ガイドには、ほうとう、煮貝と並んで紹介されている。また県内スーパーにおいても、定番のお惣菜としてよく見かけられたが近年ではお惣菜の種類が増えたこともあり店頭に並べられることは少なくなった。一方、奥藤本店には「元祖鳥もつ」の看板が掲げられており奥藤暖簾会に属する店では、現在でも「甲州名物 奥藤鳥もつ煮」と書かれた幟が立っており、その味を受け継いでいる。
エフエム富士
[編集]株式会社エフエム富士(エフエムふじ)は、山梨県を放送対象地域とするFMラジオ局。独立局である。愛称はFM-FUJI。
1988年7月頃より試験電波を発信。同年8月8日8時8分にJFN加盟局としてFMでは全国26番目に開局した(開局日時は漢数字の「八」が富士山の形状に似ていることから)。山梨県のラジオ局だが、県東部の三ツ峠中継局の電波が東京都区部を中心とした関東地方南部の広範囲(神奈川、千葉、埼玉、茨城等)にスピルオーバーで届くため、在京FM局との差別化を意識した編成となっている。開局はテレビ山梨主導で開設された。東京放送出身でテレビ山梨(UTY)の専務をしていた辰繁存(たつしげすすむ)が初代社長に就任。金丸信の長男でUTY社長の金丸康信がエフエム富士の取締役を務めている。
当初は一日あたり21~23時間放送で6:00~24:00は自社制作中心(一部JFNのネット番組)、早朝深夜はJFNのネット番組を中心に編成された。前述の通り三ツ峠からの電波が関東地方南部で良好に受信できることや別のJFN加盟局の電波が山梨県内の大部分に届いていることから自社制作志向が強まってゆき、1992年から独立放送局に移行した。
甲府盆地
[編集]甲府盆地(こうふぼんち)は、山梨県中央部に位置する盆地。やや東西に長い逆三角形の盆地形状で、面積は275km²。長野県の松本盆地や諏訪盆地と続く構造盆地。中心部に県庁所在地甲府市が位置するほか、甲州市や山梨市など、多くの市域を含む。
平均標高は比較的高い300mに位置し、四季が明瞭で寒暖の差が大きい盆地特有の内陸性気候であり、特に夏は日本でも1,2を争う高温になる。年間降水量は少なく1200ミリ程度であるが山地部への降雪が水資源の供給になっており、夏から秋には集中豪雨が発生しやすい。盆地域には北東から流れる笛吹川と北西から流れる釜無川が盆地南西部で合流して富士川となり、静岡方面へ向かう。盆地西部には御勅使川や早川などが東流する。河川の堆積作用により700m以上の砂礫層がありし、周縁には御勅使川扇状地、釜無川扇状地、金川扇状地など多くの複合扇状地が形成され、果樹栽培や養蚕に適した地形となっている。中南部の低地はかつて両河川の氾濫原であり、水田地帯として利用されてきた。
久遠寺
[編集]久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の祖山(総本山)。山号は身延山。
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「妙法華院身延山久遠寺」と名付けられたという。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため久遠寺を下山し、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)に滞在して六人の弟子を決め「六老僧」同地で死去(弘安五年十月十三日)し、日蓮の遺言(いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候)に従い遺骨は身延山に祀られた。あしかけ九ヵ年の生活であった。
日蓮の身延山での生活は「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるようにこのような人数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊鷲山を移した山であると示し信仰の山として位置づけている。身延山での生活で遺文の三分の二が執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。身延山は日蓮宗における唯一の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により日蓮の御遺言通り今日まで護られている。
中田英寿
[編集]中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - 山梨県甲府市出身)は、日本の元サッカー選手。元日本代表。愛称はヒデ。FIFA親善大使。株式会社東ハト執行役員。一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事。
日本代表のFIFAワールドカップ(以下「W杯」)3大会連続出場に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府より爵位(カバリエーレ)受章。バロンドール候補に3回選出、FIFA最優秀選手賞候補に4回選出されたのは、アジア人選手で最多。U-17世界選手権、(現在のU-17W杯)、ワールドユース、(現在のU-20W杯)、オリンピック、コンフェデレーションズカップ、W杯、以上のナショナルチーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一のアジア人選手である。
吉田のうどん
[編集]吉田のうどん(よしだのうどん)は山梨県富士吉田市及び同市を包含する山梨県郡内地方で食べられているうどんである。2007年農林水産省が各地に伝わるふるさとの味の中から選定した「農山漁村の郷土料理百選」のひとつである。
山梨県の伝統的な粉食料理体系における日常食としては、幅広の麺を豊富な野菜とともに味噌味の汁で煮込んだほうとうが一般的であり、富士吉田市及び郡内地域でも広く食されている。伝統的な食のほうとうは麺よりも野菜の量が多いケの食事であり、小麦粉を多量に消費するうどんは外食またはハレの食として明確に区別されている。
当地は富士北麓は冷涼な気候と溶岩台地の地理的条件から稲作が困難であったが、山麓地域では水掛麦による麦作が行われ伝統的に粉食料理が食べられていた。
昇仙峡
[編集]昇仙峡(しょうせんきょう)は、山梨県甲府市、甲府盆地北側、富士川の支流、荒川上流に位置する渓谷である。正式名称は御岳昇仙峡(みたけしょうせんきょう)。秩父多摩甲斐国立公園に属し、同公園を代表する景勝地として知られる。全長5kmに亘る渓谷は花崗岩を深く侵食して形成された奇岩が至る所に見られる。平成の名水百選に選定されている。
名所として羅漢寺山北側の覚円峰を始め、仙娥滝、登竜岩、人面岩、猫岩、らくだ岩などがあり、豊かな自然に恵まれ、国内にいる鳥類の殆どが棲息しているともいわれる。観光地として注目されたのは甲州街道を通じて江戸から多くの文人が往来した江戸時代にまで遡り、長田円右衛門が御岳新道を開設したことで開けた。
1964年(昭和39)年11月1日仙娥滝から奥に昇仙峡ロープウェイが営業開始、1972年には御岳昇仙峡有料道路(現在無料)が開通し、武田氏関係の史跡と並び甲府市や山梨県の主要な観光地となして整備された。
桔梗信玄餅
[編集]桔梗信玄餅(ききょうしんげんもち)は、山梨県の製菓メーカー桔梗屋が製造・販売する、山梨の代表的な土産菓子である。
山梨ではお盆になると、仏前に安倍川餅を供えるという習慣があり、桔梗信玄餅はこれにヒントを得て作られたといわれる。昭和43年(1968年)発売開始。4個入りから25個入りまで数種類用意されているが、8個入りのものは布袋に入れて売られている。なお県内の北杜市白州町にある製菓メーカー金精軒では、ずばり「信玄餅」(登録商標)という同様のものを製造販売しており、発売時期も桔梗信玄餅よりも先で、桔梗屋は後発なのだが、宣伝や企業規模の差から信玄餅 = 桔梗信玄餅というイメージになってしまった。信玄は戦国期の甲斐国主で、戦後に観光業が山梨県の主要産業となるなかで郷土の象徴的人物と位置付けられて喧伝されている武田信玄にちなむ。
富士講
[編集]富士講(ふじこう)は、富士山とそこに住まう神への信仰を行うための集団である。浅間講ともよばれる。広義には富士信仰に基づく講集団一般を指し、狭義には江戸を中心とした関東で流行したある富士信仰の一派によるものを言う。
狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏(天文10年(1541)-正保3年(1646)。後世、長谷川角行・藤原武邦とも)という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。享保期以降、村上光清や食行身禄(寛文11年(1671)-享保18年(1733))によって発展した。身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は富士山の神への信仰であるが、それ自体は既存の宗教勢力に属さず、従って食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力である。
甲州財閥
[編集]甲州財閥(こうしゅうざいばつ)とは、山梨県出身者の実業家集団のことである。
郷土意識で緩やかな資本連合を持っていた山梨出身の実業家を意味する総称で、明治中期から昭和初期にかけて鉄道会社や電力会社・証券金融会社を設立または買収し、各方面へ幅広く展開した。
「財閥」とは、本来は三井財閥や住友財閥など異種の業種が同族的支配関係により組織された独占資本を意味するが、ジャーナリズムにおいては実業家集団の結団を指すことがあり、同様の総称には江州財閥(近江商人)がある。
なお、関西を中心に活動し阪急東宝グループの創始者の一人である小林一三は含まれない。
河口湖
[編集]河口湖(かわぐちこ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町(旧河口湖町、勝山村、足和田村)にある、富士五湖の一つである。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖と並び3番目の深さ。
湖の中央に鵜の島と呼ばれる小さな島がある。
富士五湖の中で最も北に位置し、全体が南都留郡富士河口湖町に属する。
河口湖には天然の流出口がないため古来より大雨により増水し、湖岸の村々に洪水被害を出した。一方で、山を挟んだ東の富士吉田市域の新倉村では透水性の溶岩台地が広がり水利に乏しく、湖水を新倉方面へ通水させる用水路の開発が求められていた。新倉掘抜は江戸時代初期から工事が行われ、曲折を経て江戸後期の元治2年(1865年)に完成し、新倉村は河口湖の水利権を保持している。1911年(明治44年)には新たなトンネルが掘削され、現在は利用されていない。
武田信玄
[編集]武田晴信/武田信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん、大永元年11月3日〔1521年12月1日〕 - 元亀4年4月12日〔1573年5月13日〕)は、戦国時代の武将・大名。甲斐の守護大名・戦国大名。
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家の当主。「信玄」とは法名で、諱は晴信。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれ、隣国の信濃に侵攻、上杉謙信と川中島の戦いを行ないつつ勢力を広げて信濃をほぼ平定。甲斐、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領するが、上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。越後の上杉謙信と5度にわたって川中島の戦いで干戈を交えたことでも有名。
風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(一説では甲斐の龍とも)と呼ばれ、率いた武田軍は戦国最強と評される。大正期には従三位を贈られ、今もなお広く人気を集めている戦国武将の一人。
山梨県立美術館
[編集]山梨県立美術館(やまなしけんりつびじゅつかん)は、山梨県甲府市貢川の「芸術の森公園」内にある美術館である。同公園は同市中西部の甲斐市寄りに位置し、前を国道52号(美術館通り)が通る。また、同公園内には山梨県立文学館もある。
「文化不毛の地」と評されていた山梨において、戦後は博物館構想など文化事業振興の気運が存在し、1975年(昭和50年)に3期目の当選を果たした田辺国男知事は、山梨県立県民文化ホールとともにかねてより懸案であった同美術館の設置事業に着手。翌1976年には美術資料取得基金を設立し、山梨県農事試験場跡地に美術館の建設を着工。田辺知事と初代館長千澤テイ治によりコレクションの中心はバルビゾン派の画家を中心とする方針が定められ、置県100周年記念事業として19世紀のフランス画家ミレーの代表作『種をまく人』の購入が議会でも承認され、県企業局が通産省から電気事業固定資産内の事業外固定資産として絵画購入が許可される。1977年4月には飯田画廊の仲介でニューヨークのオークションにおいて『種まく人』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を落札し、山梨放送社長野口英史の資金援助や山梨中央銀行からの資金寄付を受け、飯田画廊からミレー3作品を購入。1978年(昭和53年)11月3日に開館した。 もっと読む
雁坂トンネル有料道路
[編集]雁坂トンネル有料道路(かりさかとんねるゆうりょうどうろ)は、埼玉県秩父市(旧秩父郡大滝村)から雁坂峠(標高2082m)の地下を潜り、山梨県山梨市(旧東山梨郡三富村)に至るトンネル、有料道路である。1998年4月23日開通。
埼玉県秩父地方と山梨県甲府市のアクセス道路としての機能を持っている。 雁坂トンネルが開通するまで国道140号は埼玉県秩父市、山梨県山梨市間が自動車通行不能状態にあり、トンネル開通まで「開かずの国道」と呼ばれていた。
甲斐銚子塚古墳
[編集]甲斐銚子塚古墳(かい ちょうしづか こふん)は、山梨県甲府市下曽根町(旧東八代郡中道町下曾根字山本)にある古墳。県内最古期にあたる4世紀後半の前方後円墳で、国指定史跡「銚子塚古墳附丸山塚古墳」。
大型古墳の集中する甲府盆地南東縁、笛吹川左岸の曽根丘陵北端に位置。盛土と推定される標高340mの東山北斜面に展開し、下曽根・上向井地区にかけて大丸山古墳、丸子塚古墳、かんかん塚古墳とともに東山古墳群を構成する。
2001年(平成13年)には史跡整備に伴う第2次調査が行われる。後円部北側からは敷石による半円形の突出部や木柱跡が確認され、古墳におけるマツリの場であると考えられている。円盤形木製品や蕨手形木製品などの木製品が出土し、これらは葬送儀礼の道具と考えられ注目されている。
猿橋
[編集]猿橋(さるはし・えんきょう)は、山梨県大月市にある桂川に架かる橋である。江戸時代には日本三奇橋の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。現在では現存する唯一の刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線と国道20号で同名の新猿橋がある。長さ30.9m、幅3.3m。水面からの高さ31m。
猿橋は桂川の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。幅が狭ければ橋脚を河原に下ろさずに済み、それが高所にあれば水位が高くなっても川の水に接しない。この様な地点に架橋出来れば、大水の影響を受けずに済む。しかし、その為には橋脚無しで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代の日本にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
山梨交通電車線
[編集]山梨交通電車線(やまなしこうつうでんしゃせん)は、山梨県の甲府駅前(甲府市)~甲斐青柳(増穂町)間を結んでいた山梨交通の鉄道路線である。地元では親しみを込めて「ボロ電」とも呼ばれていた。
明治から大正にかけて、山梨県には甲府を中心に石和、鰍沢を結ぶ馬車鉄道があったが、鉄道の発達と共に客を失っていった。そこで峡西・峡南地域と甲府とを結ぶ電車線が計画され、身延線との競合を避けるために西寄りにルートをとった。1932年に全通し、わずか30年後の1962年に全線が廃止された。終戦時を除いて山梨交通鉄道線の経営は常に厳しく、戦後はモータリゼーションによって体力を失い、台風によって命運を絶たれた。
歌川 広重
[編集]歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、日本の浮世絵師。安藤広重とも呼ばれる。
『甲州日記』は、天保12年(1841年)に広重が甲府の商人らに招かれ江戸から旅した際、道中や滞在中の写生や日記を書き付けたものである。現在の八王子市の高尾山、甲府市内から見た富士山や市内の甲斐善光寺、身延町の富士川などが太さの異なる筆、墨で描かれている。
原本は関東大震災で焼失。写生帳は和紙19枚を綴じたもので、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が1894年に(明治27年)死去した直後の海外に流出したとされ、1925年にイギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。2005年にロンドンのオークションでアメリカ人が落札、那珂川町馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。約80年ぶりに発見されたのである。
山本 勘助
[編集]山本 勘助(菅助)(やまもと かんすけ、明応2年(1493年)? - 永禄4年9月10日(1561年10月18日)?)は、戦国時代の武将。諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。武田信玄の伝説的軍師として講談などで有名であるが、近年の研究によると実際は武田軍の伝令将校とされている。生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年~1561年という。生年は1500年説、1501年説もある。
永禄4年(1561年)謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案することを命じる。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。
ヴァンフォーレ甲府
[編集]ヴァンフォーレ甲府(ヴァンフォーレこうふ、Ventforet Kofu)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
1999年Jリーグ加盟。ホームスタジアムは山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場。練習は同公園の球技場、補助競技場、緑が丘スポーツ公園陸上競技場などを使用する。チーム名はフランス語の「Vent(風)」と「Forêt(林)」を合わせた造語で、現在の甲府市内に本拠を置いていた戦国時代の甲斐国主で、郷土の象徴的人物でもある武田信玄の旗指物「風林火山」にちなんでいる。また多くのJリーグクラブは、親会社である有名企業に頼っている(例:横浜F・マリノス=日産自動車、名古屋グランパスエイト=トヨタ自動車、ガンバ大阪=松下電器産業など)が、ヴァンフォーレ甲府は、有名企業に頼らず地元山梨の会社など200社の小口スポンサーの支援を受けてチームを運営している。