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ジョージ・マーティン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Sir Big George Martinから転送)
Sir
ジョージ・マーティン
CBE
『ザ・ビートルズ LOVE』のバックステージで。
基本情報
出生名 ジョージ・ヘンリー・マーティン
生誕 (1926-01-03) 1926年1月3日
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
死没 (2016-03-08) 2016年3月8日(90歳没)
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1950年 - 2016年
レーベル
著名な家族
ビートルズとジョージ・マーティン(1966年)

ジョージ・ヘンリー・マーティン英語: Sir George Henry MartinCBE1926年1月3日 - 2016年3月8日)は、イギリスの音楽プロデューサー。息子は現在ビートルズの音楽総指揮を受け継いだ、音楽プロデューサーのジャイルズ・マーティン

ビートルズのほぼ全作品のプロデューサーを務め「5人目のビートルズ」と称される人物[2]。1996年に音楽界への貢献でイングランド国王よりナイトの勲位を授与され、サー(Sir)の称号が与えられた[2]

1965年にアソシエイテッド・インディペンデント・レコーディング(AIR)を設立。後に取締役会長を務めた。

人物

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1926年1月3日、マーティンはロンドンのハイベリーで誕生する。6歳で音楽に興味を持ち、8歳からピアノ指導を受ける。しかし母親とピアノ講師と折り合いが悪く、その後は独学でピアノを学んだ。第二次世界大戦が始まると、家族と共にウェリン・ガーデン・シティに避難し、現地のグラマースクールで演劇やダンスを学んだ。1943年にイギリス海軍へ入隊し、航空隊に配属される。一度も戦闘に参加しないまま1947年に除隊すると、退役軍人補償金を得てギルドホール音楽演劇学校へ入学した。ギルドホール音楽演劇学校ではクラシック音楽の基礎を学びながら、オーボエとピアノを専攻。同校在学中の1948年に最初の妻シーナ・チザムと結婚している(2人の子を授かるもその後離婚。1966年に再婚し2番目の妻との間にも2子をもうける)。オーボエ奏者として活動した後、BBC音楽部門勤務を経て、1950年に就職したEMIアビー・ロード・スタジオで多くの録音に携わる[3]

1955年にEMIパーロフォンのマネージャーとなり、コメディ俳優のピーター・セラーズらの作品などコメディ色の強いレコードの制作を多く担当して実績を積んだり『戦場にかける橋』のパロディ作品を作った際、収録曲「クワイ河のマーチ」が上層部から苦情を受け、既に録音し終えていた曲中の「クワイ(Kwai)」というフレーズから「K」の部分だけ削除して「ワイ河のマーチ」に作り直したという逸話がある。

1962年にデッカ・レコードに不合格となったビートルズを採用し、共同作業者として大成功を収め、1965年にはEMIを退職した(ビートルズのプロデュースは継続する)。その後もジェフ・ベックアメリカチープ・トリックポール・マッカートニーなどのプロデュースを手がける。1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、マーティンにとってはイギリスにおける30曲目のチャート1位作品となった。

1998年、ビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズと共にプロデュースし、自分の名義で発表。ジェフ・ベック、セリーヌ・ディオンヴァネッサ・メイBONNIE PINKフィル・コリンズらが参加した。

1999年、聴力の衰えを理由にプロデューサー・エンジニアを引退。その後は講演会でのパネル活動を主軸にする。

生前最後のプロデュースは2006年発売の息子のジャイルズと共同で行われたビートルズのアルバム「LOVE」であった。

2016年3月8日、コールズヒルの自宅にて死去。90歳没[4][2]

ビートルズ関連事項

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ビートルズは1962年にデッカ・レコードのオーディションに不合格となったものの、その後にマネージャーのブライアン・エプスタインがジョージ・マーティンへの売り込みに成功。彼のビートルズのデモテープに対する第一印象は「ひどかった」というものであったが、マーティンはビートルズのメンバーと直接面会していないにもかかわらず、ビートルズにレコーディングを要請した。同年6月6日、ビートルズをEMIスタジオに呼び、多くの曲を演奏させてビートルズの演奏技術を確かめた後、その場でデビュー曲のレコーディングを行った。その後「実際に対面した途端に恋をしてしまった」と語った彼はビートルズと契約した[3]。それは長きにわたる関係の始まりであった。ちなみに、そのとき緊張していた彼らにマーティンは「何か気に入らないことがあるか?」と尋ねたが、ジョージ・ハリスンの回答は「あなたのネクタイが気に入らないね!」であった。

マーティンは、最初のレコーディング時のドラマー、ピート・ベストの演奏が気に入らず、レコーディングには使えないことを指摘し、マーティンのこの指摘が直接的な引き金となってピート・ベストが解雇され、あらたにリンゴを加入させるというメンバー再編となったと報道されていたが、後に発表されたジョージ・マーティンの自伝『耳こそすべて(All You Need Is Ears)』によれば、マーティンはベストの脱退に関してはまったく関与していないと語っている。現在ではピートの脱退はマーティンの示唆によるもの、という説はほぼ否定されている。[要出典]

マーティンの音楽的専門知識は、ビートルズの天賦の才能と達成しようと考えていたサウンドとのギャップを満たすことを助けた。ビートルズの楽曲におけるクラシック的アプローチやオーケストレーション、複雑なサウンド・エフェクトの多くは、マーティンとの共同作業によるものであった。代表的な例として「ペニー・レイン」におけるピッコロ・トランペットのソロがある。ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」ではテンポもキーも違った二つの曲を一つの曲にする離れ業を行うなど、メンバーからの困難なリクエストに応え、その音楽的な成功に大きく貢献した(実際はジェフ・エメリックの手腕によるところも大きい)。[要出典]自身は「曲のアレンジについて、ポールは音楽的に解り易く説明してくれたので、それに基づいて譜面を書けばよかったけど、ジョンは曲のイメージを抽象的に説明することが多く、彼のアイディアを実現するのには少々苦労した」と振り返っている。[要出典]

プロデュースした代表的なアーティスト

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i Eder, Bruce. George Martin | Biography & History - オールミュージック. 2020年6月30日閲覧。
  2. ^ a b c 「『5人目のビートルズ』死去――ジョージ・マーティンさん90歳」(朝日新聞、2016年3月10日号・39面)
  3. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1998年7月号より。
  4. ^ 「5人目のビートルズ」ジョージ・マーティンさん死去 90歳”. スポニチアネックス (2016年3月9日). 2016年3月9日閲覧。

外部リンク

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