Template‐ノート:和暦/利用実態調査/1865慶応
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説明
[編集]- 事象の説明を書く。
- 記事の引用は変更してはいけない。
- 検証したら年号と月日、検証に使った資料を書く。
- 明治5年までは、記入する年号と月日は旧暦とする。なお、改元年は、参照した資料に応じて旧元号でも新元号でも可。
- 月日を特定できる場合のみ、西暦も可。その場合「(西暦)」と注記する (特にユリウス暦の場合は「(ユリウス暦)」と注記する)。
- その他の和暦または西暦の日付がわかるときは、同様に記入してよい。
- 1873年 (西暦) 以降は、記入する年号と月日は西暦 (グレゴリオ暦) とする。
- 年や日付に異説がある場合、両方を記入する (どちらかを除去することはしない)。
- 見出しの年号や月日は記事に書いてあったものなので、正しいとはかぎらない。
略記できる資料
[編集]以下の資料は略記する。ページ番号は不要。
- 新国史
- 『新・国史大年表』第6巻 一八五三〜一八九五、日置英剛編、国書刊行会、2006年、初版。
- 百姓一揆年表
- 青木虹二「百姓一揆年表」・「都市騒擾年表」・「村方騒動年表」・「増訂百姓一揆年表」『百姓一揆の年次的研究』大原新生社〈日本史学研究双書〉、1974年、4刷。
- 3刷以前は刷数とページ番号を明記 (1967年2刷の追補巻の場合はそれも明記) すること。なお4刷は追補を合本し、初刷以降の正誤表を載せている。
記載
[編集]元治2年/慶応元年
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- 1865年(慶応元年)に「観光」と再び改名。
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- 1865年(慶応元年)頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している立田革の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾(江川太郎左衛門)・下谷箕作塾(箕作家)其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。
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- 1865年(慶応元年) - 藩校句読師
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- ただし、永年の居住は表向きなお禁じられており、季節の出稼ぎが主だったようであるが、18世紀の末頃から江戸幕府が蝦夷地を上知し天領とすると、次第に拡大し、〔…〕、現八雲町)、〔…〕、現長万部町)など、後の胆振国山越郡にあたる地域に広がり、〔…〕1865年(慶応元年)に後の後志国小樽郡に相当する小樽内(おたるない、現小樽市)に達した。
2月
[編集]2月14日
[編集]4月
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- 1865年(慶応元年)4月には養生所・医学所は統合されて精得館と改称、これとともに館内に化学教室「分析窮理所」を新設し、オランダ人理化学者ハラタマを招聘した(この分析窮理所はその後、組織改革のため江戸の開成所、維新後には大阪舎密局に移転した)。
5月3日
[編集]- 慶応元年5月3日 / 新国史
5月27日
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- 1865年(慶応元年)5月27日 - 庄内藩士・辻新右衛門の4男として鶴岡に生れる。
9月14日
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- 開陽の工事は着々と進行し1865年(慶応元年)9月14日、進水式が執り行われることとなった。
10月11日
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- そこで人足として1865年(慶応元年)10月11日から12月20日までウェッテレン火薬製造所で働き、職工頭と昵懇となり製造法を習得。
慶応2年
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- 特に1866年(慶応2年)のシャルル・シャノワーヌ・アルベール・デュ・ブスケ・ジュール・ブリュネらフランスからの軍事顧問団の来日、徳川昭武のフランス訪問など、江戸幕府とフランスの関係が急速に親密化する中でフランス語の学習者・フランスへの留学者は急増した。
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- デンマーク駐在アメリカ合衆国代理大使であったウィリアム・W・アーウィンの子としてデンマークのコペンハーゲンに生まれ1866年(慶応2年)末、アメリカの郵便船舶会社パシフィック・メイル・スティームシップの横浜駐在代理人として来日し、〔…〕
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- 〔…〕1866年(慶応2年)、大暴風のため空乗寺本堂が倒壊した。
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- 1866年(慶応2年)正月14日には従五位下・安芸守に叙任されている。
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- 1866年(慶応2年) 工事完了。
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- 1866年(慶応2年) 勤番制を廃止し、城代を設置。
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- 1866年(慶応2年)、当時の幕府と外国公使団との間で、公園の整備などを盛り込んだ「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が交わされた。
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- 新垣は1866年(慶応2年)、首里崎山にあった王家別邸・御茶屋御殿で開催された冊封使節のための祝賀会で、十三歩(セイサン)、ちしゃうちん(シソウチンか)、交手(組手)などを演武しており(ウンスーを演武したとの記録もある
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- しかし1866年(慶応2年)に長州戦争の兵火にかかり境内は灰燼に帰し、〔…〕、廃寺となった。
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- 1866年(慶応2年) - 右京をはじめ公武合体派は、ことごとく監禁・謹慎に処され(「丁卯の大獄」)庄太夫は自宅に監禁される。
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- 1866年(慶応2年)には横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠。
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- しかしここで病に倒れ、翌1866年(慶応2年)夏に死去する。
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- 〔…〕1866年(慶応2年)、春温、士陽)と千種屋の奉公人の娘の子として生まれたものの、〔…〕
1月
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- 1866年(慶応2年)1月 - 長州征伐追討諸事御用、大阪・京都御陣払相勤2月帰着。
2月
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- 第2次長州征伐の際、梅鉢艦隊の指揮官大小将組頭岡田助右衛門の配下に加わり、京都ならびに大阪において諸事御用御陣払いの御用を務める1866年(慶応2年)2月金沢に帰着。
3月20日
[編集]7月27日
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- 1866年(慶応2年)7月27日、赤坂山は長州戦争(小倉戦争、豊長戦争)最大の激戦地となる。
8月
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- 1866年(慶応2年)8月 - 御内用香港候旨、仰渡
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- 1866年(慶応2年)8月 - 御算用者御軍艦方産物方兼帯、御算用場小頭並、仰付
9月27日
[編集]10月
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- 武装が完了し、海軍当局による検査もパスした開陽は、オランダ海軍大尉ディノーに引き渡され、15日間の航海試験を経て1866年(慶応2年)10月、ようやく完成した。
10月25日
[編集]11月
[編集]慶応3年
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- 雇い入れた教師にも恵まれず、ようやく1867年(慶応3年)の末に学生12名はユニヴァーシティ・カレッジに入学するも、〔…〕
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- 開塾後、〔…〕、〔…〕、文久元年冬から同三年秋までの「前期新銭座時代」、同3年秋から1867年(慶応3年)末までの「後期鉄砲州時代」、同4年1月から明治3年末までの「後期新銭座時代」とに区分される。
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- 〔…〕、〔…〕1867年(慶応3年)に焼失してその歴史を終えることになる。
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- 設立年月日=1867年(慶応3年)
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- 1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
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- 1867年(慶応3年)に最初の縦覧所が設置され、〔…〕
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- 1867年(慶応3年) - 塩漬けにされていた死体が、腰切の刑に処せられる。
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- 『祇布斯繃帯書』(ぎぶすほうたいのしょ)1867年(慶応3年)
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- その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが1867年(慶応3年)最後の阿部氏が棚倉に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。
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- 1867年(慶応3年)、ナポレオン三世のパリ万国博覧会に際して、将軍の名代として出席する徳川慶喜の弟・徳川昭武に、幕府の命により渋沢栄一らと一緒に随行し、その後徳川昭武とともにフランスに留学した。
2月
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- 1867年(慶応3年)2月、長崎グラバー商会に修繕を依頼している『発機丸』回航及び艦船購入の御内用の命を受け、『李百里丸』にて長崎に派遣され、5月英人ガラバ(グラバー)より英船ウワエハダリヤ号(後の帆船駿相丸)を洋銀1万枚にて購入、10月ニコスボーイ号(後の帆船起業丸)などの購入に携わる。
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- 1867年(慶応3年)2月 - 李百里御船御国乗廻御内用に仰付、肥前長崎に在越、10月長崎乗廻、商会にて取開
2月15日
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- 順宣は無量寿寺に戻り1867年(慶応3年)2月15日、77歳で死亡。
2月20日
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- 1867年(慶応3年)2月20日、死去。
3月
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- 結果的にではあるが、横綱勝率10割【1867年(慶応3年)3月7勝2分、同年11月7勝。
3月25日
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- オランダで造艦され1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ帰港した。
3月26日
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- 再び補給を行い、3月6日、横浜を目指して出航1867年(慶応3年)3月26日10時30分、無事入港した。
4月
[編集]4月23日
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- 〔…〕1867年(慶応3年)4月23日)従四位下→正四位下
5月
[編集]5月20日
[編集]6月28日 (旧暦)
[編集]8月13日
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- 相模国と縁の深い高野山の塔頭、高室院の文書(寒川総合図書館・寒川文書館蔵)によると、〔…〕1867年(慶応3年)8月13日までの間に鵠沼村の村人延べ337人が63回にわたって高野山金剛峯寺に参拝している。
9月
[編集]10月 (旧暦)
[編集]12月
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- 1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、官位や諱が復されると、澤宣嘉は外務卿、三条実美は太政大臣や内大臣、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就いた。