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沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む8万人以上が疎開した。内訳は、沖縄本島周辺からは九州へ約6万人と台湾へ2千人、[[宮古列島]]と[[八重山列島]]から台湾へ2万人以上となっている<ref name="rikugun616" />。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「[[対馬丸]]」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが<ref name="rikugun616" />、6隻(約3000人死亡)とする見解もある<ref>[[惠隆之介]] [http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/okinawa.htm 「虚構の『軍命令・強制説』の復活を許さない国民決起集会」(2007年11月13日)における証言]</ref>。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを[[戦争マラリア]]と呼んでいる。県内疎開の正確な犠牲者は不明である。 |
沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む8万人以上が疎開した。内訳は、沖縄本島周辺からは九州へ約6万人と台湾へ2千人、[[宮古列島]]と[[八重山列島]]から台湾へ2万人以上となっている<ref name="rikugun616" />。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「[[対馬丸]]」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが<ref name="rikugun616" />、6隻(約3000人死亡)とする見解もある<ref>[[惠隆之介]] [http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/okinawa.htm 「虚構の『軍命令・強制説』の復活を許さない国民決起集会」(2007年11月13日)における証言]</ref>。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを[[戦争マラリア]]と呼んでいる。県内疎開の正確な犠牲者は不明である。 |
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==== 本島北部への避難(島内避難) ==== |
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5月22日牛島司令官が喜屋武半島方面への撤退を決断したことで、知念半島方面は第32軍の作戦区域外となり「事実上の非戦闘地域」となった。しかし、軍から県庁に「知念方面が非戦闘地域である」と通知されたのは、司令部撤退がほぼ完了した5月29日になってからであった。この頃すでにアメリカ軍は、東海岸を打通し知念半島に進出しており、知念方面へ向かう道はどこもアメリカ軍に制圧されていたため、もはや知念に行くことは困難であった。 |
5月22日牛島司令官が喜屋武半島方面への撤退を決断したことで、知念半島方面は第32軍の作戦区域外となり「事実上の非戦闘地域」となった。しかし、軍から県庁に「知念方面が非戦闘地域である」と通知されたのは、司令部撤退がほぼ完了した5月29日になってからであった。この頃すでにアメリカ軍は、東海岸を打通し知念半島に進出しており、知念方面へ向かう道はどこもアメリカ軍に制圧されていたため、もはや知念に行くことは困難であった。 |
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29日に突如、第24師団の壕に呼ばれて知らされた島田知事は「なぜにもっと早くに知らせてくれなかったのか」と憤慨したという<ref>吉田俊雄(著)「最後の決戦 沖縄」光人社NF文庫 303頁</ref>。 |
29日に突如、第24師団の壕に呼ばれて知らされた島田知事は「なぜにもっと早くに知らせてくれなかったのか」と憤慨したという<ref>吉田俊雄(著)「最後の決戦 沖縄」光人社NF文庫 303頁</ref>。 |
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=== 集団自決 === |
=== 集団自決 === |
2015年6月15日 (月) 11:13時点における版
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沖縄戦(沖縄の戦い) | |
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5月18日、大名高地でM1短機関銃を射撃中の第1海兵師団第2大隊 (第1海兵師団)のアメリカ海兵隊員。 | |
戦争:太平洋戦争/大東亜戦争 | |
年月日:1945年3月26日 - 6月20日 | |
場所:沖縄本島および周辺島嶼、海域 | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 イギリス |
指導者・指揮官 | |
牛島満 † 長勇 † 大田実 † |
サイモン・B・バックナー † ロイ・ガイガー ジョセフ・スティルウェル ペドロ・デル・バレ チェスター・ニミッツ レイモンド・スプルーアンス バーナード・ローリングス ブルース・フレーザー フィリップ・ヴィアン |
戦力 | |
116,400人 | 548,000人(うち上陸部隊183,000人) |
損害 | |
死者・行方不明者 94,136人 民間人死者 94,000人 |
死者・行方不明者 12,520人 戦傷者 72,012人 |
沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusaともいう[1]。
太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となった。
概要
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日ないし6月23日に終了した。アメリカ軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し[2]、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦[注 1]に向けた時間稼ぎの「捨石作戦[3]」(持久戦)を意図するという不統一な状況であった[2]。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊と連合軍艦隊の間で海戦が行われたほか、飛行場制圧のため陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド部隊「義烈空挺隊」も投入した反撃が試みられた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に連合軍は首里を占領し、日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた。
陸海空において日米の大兵力が投入され、アメリカ軍最高指揮官が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦いや硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[4]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風(英: Typhoon of Steel)」などと呼ぶ[注 2]。残された不発弾の処理は、陸上自衛隊第101不発弾処理隊と海上自衛隊沖縄基地隊の手により、現在も継続中である。
沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[5]。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。このほか、朝鮮半島出身の土木作業員や慰安婦など1万人以上が統計から漏れているとの見方もある[5]。なお、地上戦域外での病死者や餓死者、県外疎開中の死者等を加算した沖縄県出身の死者数は15万人以上と推定されている[5](住民被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)。
なお、沖縄戦について戦後長らく「国内唯一の地上戦」と称されていたが、当時は日本委任統治地域南洋諸島として日本の委任統治下にあった地域があり、その南洋庁地域における「サイパンの戦い」「テニアンの戦い」「アンガウルの戦い」なども発生していることから、正確な表現ではない。かつ、現在は日本領でないが当時は日本領で日本本国(当時の表現での「内地」)であった北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」があるため、日本本国(「内地」)での戦闘も唯一ではない。さらに、現在も日本領の地域である東京都硫黄島村(現・小笠原村)の硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるため、「(沖縄戦は)現在の日本の領土内では唯一の地上戦」という認識も誤りである。これらの事情から2010年、日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、唯一の地上戦という認識が「必ずしも正確ではない」と閣議決定している[6]。
背景
日本軍の戦略
1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲などアメリカ軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した[7]。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった[7]。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。
日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月に絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手[8]、本土や台湾への民間人疎開も開始した。沖縄本島に3個師団・1個旅団を置いたほか、宮古島などにも1個師団・4個旅団が展開した[8]。軍首脳部の人事も一新して新司令官には牛島満中将を任命、砲兵を統括する第5砲兵司令部も置かれ、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられた。第32軍は敵上陸時に主力を機動させての決戦を目論見[9]、砲兵部隊に援護された精鋭3個師団で水際からアメリカ軍を追い落とせると自信を深めた[8]。ただ、増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船「富山丸」がアメリカ潜水艦に撃沈され、4000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きた。
1944年10月にレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。11月13日、大本営および第10方面軍司令部は、レイテに転用された台湾駐留部隊の穴埋めのため、第32軍の反対を押し切って沖縄から1個師団を抽出することを決めた。その結果、第32軍で最も練度の高い第9師団が1944年12月中旬から翌1945年1月中旬にかけて台湾へ移動し、第32軍は兵力の三分の一近くを失った[10]。当時の状況からは台湾を経由しての中国南部上陸も予想されており、台湾の喪失はひいては南方との考えうる唯一の補給線にも影響するため、台湾の防衛も重要だった。
さらに、大本営では、1944年12月、新たに就任した大本営参謀本部長の宮崎周一中将が、捷一号作戦の失敗を確認して、「島嶼攻防戦を放棄し、本土決戦の準備に全力を注ぐ」と、戦略変更を行った。以後、兵力も物資も本土決戦の準備に集中させることとなる。また、大本営は、1945年1月に『帝国陸海軍作戦計画大綱』を策定し、「沖縄戦闘は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である」と戦略を明示した。
前任の真田作戦部長の指示で進めていた第9師団に代わる第84師団の補充派遣を1945年1月22日に内示し第32軍に電報したが、宮崎周一作戦部長の判断で翌日には撤回された。こうした経緯から第32軍は大本営に不信感を抱き、その後の作戦に支障をきたした[11]。服部作戦課長らの努力で、2個師団分の軍需品の補給だけは宮崎部長の許可を得た。
第9師団の抽出を受けて、第32軍は1944年11月に作戦方針を大転換し、機動決戦を断念して本島南部での持久戦を行うことにした。本島中部に配置されていた第24師団を南部に移動し、北部・中部の飛行場は小部隊による遅滞防御と砲撃による利用妨害程度にとどめることを決めた[9]。1945年1月下旬には南部にさらに戦力を集中させている。一方、大本営は天一号作戦を定めて、沖縄へ来攻するアメリカ軍を航空戦力主体で迎撃して大打撃を与え、終戦に持ち込もうとする全く異なった戦略を考えていた[2]。そのため、大本営は飛行場確保を重視して第32軍に作戦変更を要求したが、第32軍は応じないままアメリカ軍を迎えることになった[2]。
なお、南部での持久戦構想を固めた第32軍は、1945年に入って沖縄上陸が必至の情勢となった時点で、島内に残っている老幼婦女子を非戦闘地域と予定した北部山岳地帯へ半強制的に疎開させようとした。その目的は、非戦闘員が戦闘の支障にならないようにすることと、民間人を巻き込んだ「玉砕」を防ぐことにあった。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地となるであろう中南部には数十万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。これは、台湾沖航空戦における「大勝利」の誤報による影響が大きいとされる。[要出典](疎開の詳細は#住民犠牲についてで後述)
日本軍の戦力状況
沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人である。内訳は、陸軍が86,400人と海軍が1万人弱のほか、「防衛隊」と俗称される現地編成の補助兵力が2万人強である。陸海軍の戦闘員には、兵力不足から現地で召集された予備役・補充兵役などが多く含まれる。旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊なども組織された。
本島守備隊のうち最精鋭と目された第24師団は、関東軍からの転用部隊で装備や訓練は十分であったが、実戦経験がやや少なかった。もうひとつの本島所在師団である第62師団は、師団砲兵を欠いた本来は警備用の編制であったが、日中戦争での対ゲリラ戦経験が豊富だった。独立混成第44旅団は輸送船の撃沈で大損害を受けた部隊で、補充のため空輸された独立混成第15連隊を受け取っていた。機甲部隊は30両に満たない戦車第27連隊があるだけだった。兵站部隊や船舶部隊も地上戦闘用に使うため6個の特設連隊として再編されている。海軍部隊は飛行場の基地要員などを海軍陸戦隊として再編成したもので、武器も訓練も不足していた。
その反面、第32軍の砲兵戦力は当時の日本軍としては極めて充実していた。第5砲兵司令部指揮下だけで400門以上の火砲を擁すほか、師団砲兵1個と独立混成旅団砲兵隊および戦車第27連隊の機動砲兵、また歩兵部隊中の歩兵砲があった。生産力や補給力に劣る太平洋戦争時の日本軍において、このような大量の火砲が投入されたのは第1砲兵隊が投入された緒戦の一連の南方作戦(香港の戦い・シンガポールの戦い・フィリピンの戦い(コレヒドール島砲撃戦)等)や、硫黄島の戦い等に限られる。
連合軍の戦略
連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた[12]。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた[12]。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。
1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた[13]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[14]。
ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた[15]。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した[15]。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し[15]、検討の結果、10月5日に沖縄攻略作戦の実施が決定された[14]。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった[16]。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[17]。
さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。10月10日、アメリカ軍機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった[18]。ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還と言う大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた[19]。
1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[20]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団で、強力な航空部隊と艦隊が支援にあてられている[21]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[22]。
戦闘経過
事前攻撃
アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、航空母艦16隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月14日にウルシー環礁を出撃、3月18日から九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した[23]。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。
3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2000機を出撃させた。24日には沖縄への増援部隊を乗せたカナ304船団を全滅させている。また、24日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い[24]、上陸予定地点の掃海作業も始まった[25]。このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、B-29爆撃機による関門海峡などへの機雷投下も行われた(飢餓作戦)。艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々と出発し、沖縄洋上に集結した。
一方日本軍では、硫黄島上陸作戦以降のアメリカ軍の次期侵攻の方面と時期について、連合軍の船舶の動き、航空基地の整備状況、通信諜報等で分析努力を行っていたが、確定させるには至らなかった。更に、陸海軍で判断が別れており、海軍は小笠原諸島と考え、陸軍は台湾と判断していた[26]。
慶良間諸島の戦い
3月23日に、沖縄本島に延べ355機の艦載機による空襲があり、その他先島・大東島地区・奄美地区にも艦載機の空襲があった[27]。その後、日本軍の索敵機が、午前10時30分に沖縄本島南東90kmに機動部隊を発見、さらに夕刻沖縄本島東方100kmに艦艇群(艦種不詳)も発見している[28]。
これに対する日本側の情勢判断は、3月19日時点では、大本営陸軍部は次のアメリカ軍の侵攻地を台湾方面の公算大と判断しており[29]、第32軍も23日時点では大本営の判断もあって、沖縄への本格的な侵攻であるかの判断ができなかった。しかし、翌24日に沖縄本島南部へ戦艦以下30隻のアメリカ軍艦船が現れ艦砲射撃を開始、また延べ600機にも上る艦載機による激しい空爆が行われた為、第32軍司令部はアメリカ軍の上陸が沖縄に行われると判断し[30]、甲号戦備[注 3]移行を命じた。
連合艦隊司令長官も、近く沖縄へアメリカ軍が来攻するものと判断し、回天特攻「多々良隊」の潜水艦4隻にも出撃準備を命じた。また同日に天一号作戦の予令を発令、第3航空艦隊と第10航空艦隊に移動準備を指示している[31]。
空襲翌日の3月24日には早くも日本側の反撃が開始され、天山艦攻による雷撃、翌25日未明には陸攻銀河による爆撃でアメリカ艦隊を攻撃し、駆逐艦2隻、その他2隻を損傷させている[32]。
また、沖縄の海軍根拠地隊司令官の大田実少将が、運天港の特殊潜航艇部隊である第2蚊龍隊に出撃を命じている。蚊龍隊は駆逐艦「ハリガン」を撃沈するという戦果を挙げた可能性が高いが壊滅した[注 4]。
3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島への上陸に先立ち泊地や水上機基地などを設置するため、第77歩兵師団を慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸させた[34]。日本軍は慶良間諸島は地形が険しい狭い島で航空基地の適地もなく、沖縄本島に先立っての侵攻を想定していなかったため[35]、地上部隊をほとんど配備していなかった。展開していたのは、本島防衛任務の特攻艇マルレ部隊である陸軍海上挺進戦隊3個とその支援部隊程度であった。第32軍司令部は、出撃困難と判断して機密保持のためマルレの処分を命じた。すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊は、命令に従って島の奥へ後退した。慶留間島所在のマルレのうち4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。アメリカ軍は、29日までに慶良間諸島全島を占領した。アメリカ軍第77歩兵師団の記録によると、31日までに日本兵530人が戦死・121人が捕虜となり、アメリカ兵31人が戦死・81人が負傷した[36]。
アメリカ軍の慶良間諸島上陸と同じ3月26日に、日本側では陸軍第10方面軍と海軍連合艦隊司令長官が、天一号作戦を発令した[37]。同日中には早速、陸海軍の通常攻撃機46機が薄暮にアメリカ機動部隊を攻撃、また第8飛行師団誠第17飛行隊の軍偵6機とその他8機合計14機の特攻機が慶良間沖のアメリカ艦隊を攻撃した。奇しくも誠飛行隊の隊長伊舎堂用久大尉は、同隊が出撃した石垣島の出身で、かねてより故郷を護るために真っ先に出撃する覚悟を決めており[38]、父母の眼前で特攻出撃することとなった[39]。本特攻隊は少数ながらも戦果は大きく、駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている[40]。翌27日には沖縄本島の中飛行場より出撃した第8飛行師団誠第32飛行隊と海軍神風特攻隊の銀河や彗星合計26機が嘉手納沖のアメリカ艦隊を攻撃、戦艦「ネバダ」の第三砲塔に1機が命中、14インチ砲を破壊し59名の死傷者を出させるなど、16隻の艦船に損害を与えている[41]。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日にはレイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊の旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、本艦を大破させ航行不能にさせた[41][注 5]。しかし、陸海軍ともに本土や台湾からの本格的な航空攻撃は4月に入ってからとなり、沖縄本島上陸前の時点では日本側の航空攻撃は未だ散発的であった。また、29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈している。
3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸した。そのうち神山島に第420野砲群(仮訳:420th Field Artillery Group)の155mmカノン砲24門を布陣させ、沖縄本島の日本側陣地の奥深くまでを射程圏内に収めた。日本軍は4月1日未明から「250mm砲」による砲撃を神山島へ仕掛けてきたが、アメリカ側に被害は無かった[42]。
先島諸島の戦い
ヨーロッパでドイツ海軍が壊滅したことから、大英帝国首相ウィンストン・チャーチルは太平洋の権益確保の意味合いもあり、かねてより太平洋戦域へのイギリス艦隊派遣を希望していた。
ダグラス・マッカーサーら米軍の指揮官の一部は、イギリス軍の今までの太平洋戦域での貢献度の低さもあり「我々が収めた成功報酬の分け前にあずかろうとして、この地域への出動を提案したのだ」と指摘し、太平洋への英艦隊派遣申し出を警戒していたが、太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将ら米海軍は、戦力増強を現実的判断で歓迎し、イギリスは英太平洋艦隊として戦艦2隻 空母4隻 巡洋艦5隻 駆逐艦15隻の強力な機動部隊を沖縄戦に派遣している[43]。このイギリス艦隊は、先島諸島方面を担当することになった。
3月23日にウルシー環礁を出撃した英太平洋艦隊は、4月1日に日本軍が先島諸島に建設した航空中継基地に宮古島沖で発見され、特攻機で攻撃を受けた。零戦1機が空母「インディファティガブル」に命中、本艦は、戦死21名・負傷27名の人的損害を受けたが、英空母は日米空母とは違い、航空甲板は戦艦並みの装甲板であり致命的な損傷を受けなかった。それでも艦橋構造物に大きな損傷を受けレーダーや無線装備も全て破壊された為、英本土に後退している[44]。
その後も英太平洋艦隊は、宮古島沖で台湾方面から飛来する特攻機の迎撃や地上支援任務を行っていたが、その後増援された空母も含めて4隻の空母(インディファティガブルを含めると5隻)全てが特攻機により損傷を受けている。
沖縄本島への米軍の上陸
4月1日朝、アメリカ軍は、守備の薄い本島中西部で、陸軍の第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した[45]。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44825発・ロケット弾33000発・迫撃砲弾22500発が撃ち込まれた[46]。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった[47]。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。4月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾(アメリカ軍呼称:バックナー湾)へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された[48]。4月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。日本軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった[49]。
第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた[50]。米軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導[注 6]で攻勢移転が一時決定されたが[52]、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された[53]。この港川方面への「上陸部隊」は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸しなかった。
4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇40隻が撃沈破されるという大損害を被ったが、日本軍機も200機以上が失われ、「大和」も空襲で撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も第10方面軍の指導で再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した[53]。同時期には第5航空軍から派遣された独立飛行第18中隊分遣隊の一〇〇式司令部偵察機III型甲が、沖縄本島の米軍制圧下飛行場および機動部隊に対する強行偵察に成功し、鮮明な航空写真を第6航空軍にもたらしたものの、これを攻撃するに十分な航空兵力や艦艇はなかった[54]。
沖縄本島北部の戦い
日本軍第32軍の作戦計画では本島南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。
この戦闘での第6海兵師団の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった[55]。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定8万人[56]の住民が県内疎開してきており、アメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった[57]。
4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場と海上防空用のレーダーサイトを設置するため上陸した[58]。伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていた。島民は人口8000人のうち5000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となった[59]。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害を受けた[59]。アメリカ軍の戦死者には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。生き残った住民は、渡嘉敷島へ移された[60]。
日本軍が伊江島に保有していた陸軍飛行場は、3月のうちに徹底的に破壊のうえ放棄されていた。アメリカ軍は復旧作業を進め、5月10日までに最初の戦闘機隊を伊江島飛行場へ進出させた[60]。滑走路・誘導路・レーダーサイトが完成したのは5月中旬で、その後も工事は続き、6月14日までに3個の戦闘機隊と1個の夜間戦闘機隊が展開している[60]。
沖縄本島南部の戦い
第32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して國頭群山岳地区に転位して戦略持久を策する」[61]との首里城に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。
沖縄本島南部の戦い初期 嘉数高地陥落まで
南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。
海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と報告し、ニミッツから窘められている[62]。
その中で独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)は孤軍奮闘、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜4日まで野嵩及び新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止し、十分に役割を果たし撤収している[63]。
アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中には守備軍が丘陵地形と陣地で待ち構えていた。そして、4月5日にはその前哨基地であるピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)に達したが、同高地を防衛する独立歩兵第147大隊第一中隊(長谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、圧倒的な米軍を相手に構築した地下陣地を活用し7〜8回米軍の攻撃を撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、長谷川中隊の生存者はわずか30名となった為撤退し、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた(ピナクルの戦い)[64]。
アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第七師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を砲撃と機銃掃射で後退させ戦車を孤立させて、戦車を肉弾攻撃し撃退している[65]。この歩兵と戦車を分離させる戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用されることとなった[66]。
沖縄戦のアメリカ軍には、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられた。陣地は網の目の様な地下坑道で連結され、地下可動性が高く補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできた。また、出入り口は巧妙に擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[67]。
日本軍の陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は珊瑚隆起の固い地面も多く、その強度はコンクリート並みであった為に、その固い地層を活用して地下陣地が構築され、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[68]。
アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「常軌を逸して防衛された陣地」と評している[69]。また、海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した[70]。
そして、今までの日本軍と大きく異なる点は、火砲の充実ぶりであり、どんな古参兵でも日本軍のかような大量の火砲と、その火砲の効果的な運用ぶりを誰も見たことが無かった[71]。
その沖縄の日本軍の陣地の中で、第96師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となり、第96師団を初めとしてアメリカ軍は多大な出血を強いられる事になった(嘉数の戦い)。その強固な陣地を最大限活用し、賀谷支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団が激しい抵抗をしている。特に4月8日〜12日に嘉数高地を攻撃した米陸軍第96師団と、同時に和宇慶高地を攻撃した同第7師団は日本軍の巧みな防衛を前に合計2,880名の死傷者を出したが、日本軍の防衛線はビクともしなかった[72][注 7]。
ここまで大本営陸軍部は、第32軍の意図する「出血持久作戦」をよく理解していたはずであった。しかし、4月3日、戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え[73]、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した[74]。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも北、中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されており[75]、これらの督促を受けて、参謀長長勇中将は攻勢を主張、八原博通高級参謀は反対するも、牛島満軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に夜襲が行われたが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[76]。
夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった[77]。
日本軍の夜襲後も、アメリカ軍は激しい攻撃を繰り返した。特に4月19日に第96・第7・第27師団の3個師団で行われた総攻撃は、日本軍の激しい抵抗により第27師団の、30両のM4中戦車内22両を撃破され、第24軍団全体でも720名の死傷者を出す大損害を被って撃退されている[78][79]。
その後膠着状態が続き、アメリカ軍の攻撃は完全に行き詰った様に見えたが、アメリカ軍は日本軍に艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ[注 8]、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続した。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」での陣地攻撃により、陣地に籠る日本兵の死傷者も激増していた。これは日本軍が「馬乗り戦法」と名付け恐れた戦術であり、まずは日本軍陣地の出入り口を見つけると、戦車の支援と激しい集中射撃で日本軍を陣地の中に追い込み、歩兵が通気口を見つけそこからガソリンやナパームジェルを流し込み、火災で日本兵を殲滅し、最後に大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすといった、圧倒的物量を誇る米軍ならではの戦法であった[81]。善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っており、第32軍は4月23日に戦線整理として、一部の部隊に撤収と陣地変換を命じている。19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っていた[82]。これによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は予備兵力の第24師団と独立混成第44旅団主力も投入し、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。
嘉数高地で陸軍が苦戦している間、アメリカ海軍の将兵は日本軍の激しい特攻に曝されており、4月1日〜4月23日の間に60隻の艦船が撃沈破されて、人的損失も1,100名戦死、2,000名以上負傷に達していた。
太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている[83]。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている[84]。
この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった[85]。
しかし、バックナーは補給の問題[注 9] と、「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」という懸念より、その提案を取り上げなかった。後にヴァンデグリフトは「バックナーは(上陸作戦に)あまり関心を示さなかった」とこの時のやり取りを振り返っている[87]。
バックナーは、父親も南北戦争で南軍の将軍として従事した軍人家系の家に生まれたが、その厳格な性格はウェストポイント陸軍士官学校校長時代から定評があり、圧倒的物量により正面突破する戦術を好んだ[88]。
1943年には司令官として、アリューシャン列島攻略作戦を正攻法で成功させた為、沖縄戦についても、正攻法を貫き通す意向であった。ニミッツらの提案以外でも、同じ陸軍の第77師団アンドリュー・D・ブルース少将からも、自らのレイテ島オルモックでの成功体験より同様な提案あっていたが、きっぱりと撥ね除けている[87]。バックナーは様々な作戦の提案を取り上げることなく、日本軍防衛線正面からの正攻法を採り、結局ニミッツも陸海軍の対立を懸念し、バックナーの正攻法を受け入れた[85]。しかし、この判断は後に米軍に多大な出血を強いることとなり、マスコミを初めとした強いバッシングを受け[85]、バックナー自身の運命をも左右させる事となった。
日本軍は海上においても、4月9日船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、フレッチャー級駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」を大破させた[89]。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、駆逐艦「ハッチンス」を擱座させ(後に廃艦)、数隻の歩兵揚陸艦や哨戒艇を撃沈している。
沖縄本島南部の戦い中期 日本軍総攻撃の失敗 首里防衛線崩壊まで
(日本軍総攻撃)
第32軍は夜襲失敗以降は、八原博通高級参謀の持久戦術により、米軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。
4月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した[90]。
八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」こと、「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢な米軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」と強く主張し反対したが[91]、他の参謀らは長を熱烈に支持した。牛島満第32軍司令官も、かねてよりの中央からの督戦も気に病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。5月1日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、よろしく気分一新し、全軍の気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例の叱責を行っている[92]。
作戦会議決定により5月4日・5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。日本軍は一晩に5,000発のかつてない規模での砲撃を加え、船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26-29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。また第32軍の要請により、大本営は空からの援護として菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施した。
日本軍の猛烈な砲撃にアメリカ軍は一時混乱に陥ったが、あらゆる火砲や火器を集中して総攻撃してきた日本軍を攻撃し、日本兵は得意の白兵戦に持ち込む事もできずバタバタと斃された[93]。また日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録している[94]。また、日本の戦車第27連隊は95式軽戦車の殆どが撃破され[95]、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅するなど、日本軍の総攻撃は大失敗に終わった。日本軍の遺棄死体は6,237名にも及び、殆ど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となった[96]。アメリカ軍の損害は、日本軍の攻勢正面で死傷者714人を生じている。この損害は、日本軍の攻勢正面から外れた地域で侵攻中だった第1海兵師団が5月4日だけで352人の死傷者を出したのと比べると相対的に軽い[97]。
この結果よりアメリカ陸軍は、この総攻撃の提案者の長に対し、「5月4日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き、不適切に実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳しい評価をしている[98]。総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと分析されているが、この失敗に懲りた牛島は、八原に目に涙を浮かべながら謝罪し、今後は八原の助言を重んじると告げている[99]。
一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応の戦果を挙げており、駆逐艦「モリソン」「ルース」、中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194が撃沈され、護衛空母「サンガモン」、軽巡洋艦「バーミンガム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者を出した[100]。この内「バーミンガム」への特攻の瞬間は、地上で戦っていた海兵第一師団 からも目撃できたという[101]。
第32軍の総攻撃失敗から数日後の5月8日にナチスドイツが無条件降伏したが、沖縄のアメリカ兵たちは誰も大して関心を払わなかった。ナチスドイツが降伏しようが、総攻撃失敗で大損害を被ろうが日本軍は今までの様に沖縄でも全滅するまで戦うだろうと確信しており、元海兵隊員で戦後に生物学者となったユージーン・スレッジは当時「ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えたと回想している[102]。海兵隊員らの予想通り、この後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、米軍の損害が増大していった。
(シュガーローフの死闘)
バックナー中将は、日本軍が予備隊を使い果たした状況であるのを踏まえ、5月中が首里へ向けて総攻撃を行う好機と判断した[103]。第6海兵師団を中心とする第3水陸両用軍団は、島北部の掃討任務を第27歩兵師団と交代して5月11日までに南へ転進した。これによりアメリカ軍は、西から順に第6海兵・第1海兵・第77・第96師団を並べ、第7師団を予備隊に控えた態勢で総攻撃を開始した[104]。
バックナーは日本軍は精鋭部隊の殆どを総攻撃失敗で失ってしまった、という前提の上で「今度の攻勢では、特に変わった戦闘はない。新鋭師団も十分だから、1個師団は常に休養が取れる」と考え、幕僚らも「新鋭の海兵師団をもってすれば、迅速に日本軍陣地を突破できる」と楽観的な見通しを持っていた[105]。
しかし、日本軍は牛島中将が、総攻撃の失敗の教訓として「首里を包含し、両翼を東西海岸に委託する現陣地に拠り、米軍の出血を強要しつつ、あくまでも持久し」[106]と徹底した持久作戦を指示、八原高級参謀も「我々はひたすら陣地内に潜み、可能な限り沢山の米兵を殺すべし」[107]と徹底しており、バックナーらの見通し通りとはならず、戦いはこれまでを遙かに上回る激戦となった。
バックナーの作戦は、首里防衛線の右翼を第3水陸両用軍団の 第1海兵師団 と第6海兵師団、左翼を第24軍団の陸軍第96師団と第77師団が突破し、中央の首里城にある第32軍の司令部を包囲しようというものであった[108]。中でも、前半戦は北部戦線にいた第6海兵師団は他師団と比較すると損害は少なく、また精鋭師団との自負もあり、師団長のレミュエル・C・シェファード少将は第三水陸両用軍団司令官のロイ・ガイガー中将に対し「海岸沿いを迅速に進撃し、首里城を回り込んで、沖縄の南端まで達してみせる」と豪語し、第一海兵師団と一体化して進撃するという作戦を変更させている[109]。
5月11日に第6海兵師団は日本軍の激しい抵抗を受けながらも安謝川を渡河し、首里西方の安里付近に進出したが、そこの三つの高地(シュガーローフ、ハーフムーン、ホースショア)の日本軍陣地に進撃を止められた。この三つの丘はシュガーローフを頂点、他の二つが底辺とする三角形を構成し侵攻軍に矛先を向け、三つの丘は相互に相補って強固な防衛線を構築していた[110]。12日にシュガーローフを最初に攻撃した第22海兵連隊のG中隊は7名の将校と236名の兵士で構成され、戦車11両を先頭に進撃してきたが、集中砲撃を浴びたちまち戦車3両が炎上、退却中に日本軍の猛攻により、夜までには総兵力は75名となり壊滅した[111]。
この後も、シュガーローフは一帯は海兵隊史上最大の激戦となり、反斜面陣地を軸とした強固な陣地を守る日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。反斜面陣地とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった[112]。巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった[113]。
特にアメリカ軍に多大な出血を強いたのは、日本軍の多数の火砲であった。シュガーローフを防衛していた独立混成第44旅団は8門の10cm野砲と4門の山砲を装備し、他にも多数の迫撃砲や擲弾筒などの火砲も併せて、進撃してくるアメリカ軍に激しい砲撃を加えている。砲撃は正確であり、海兵隊員は「やつら(日本軍)は牛乳瓶の中にでも弾を撃ち込むことができた」とその正確性に驚愕し、後に編纂された海兵第6師団の戦史では「日本軍の砲撃はこれまで出会った事が無いほど、優れた統制と正確さの下で実施された」と纏められている[114]。ある時には観測地点で敵情観察中の海兵隊将校らのど真ん中に砲撃を命中させ、大隊長と戦車隊将校ら5名を戦死させ、中隊長3名に重傷を負わせている[115]。
5月12日以降も断続的にシュガーローフへの攻撃は続けられていたが、いずれも日本軍に撃退された。16日、第6海兵師団は、2個連隊をつぎ込んでシュガーローフに対する最大規模の攻撃を仕掛けた[116]。第29海兵連隊がハーフムーンを攻略して、シュガーローフへの側面からの砲撃を遮断し、その後に第22海兵連隊がシュガーローフを攻略するという作戦であった[117]。しかし激しい砲撃や射撃の中で、海兵隊はシュガーローフやハーフムーンに中々近づく事ができず、支援の戦車も次々に撃破された。シュガーローフの戦いでは主に対戦車地雷と一式機動四十七粍速射砲によって多数のM4中戦車が撃破された。日本軍は速射砲を巧みに擬装して米軍戦車を一旦やりすごした後に装甲の薄い後方から攻撃し、貫通した砲弾と装甲板が車内を跳ね回り乗員を殺傷した。アメリカ軍はその対策として、最後尾の戦車は砲塔を後ろ向きにして警戒していた[118]。
日本軍からの激しい攻撃の中で、海兵隊1個中隊がシュガーローフの山頂に達したが、反斜面陣地の日本軍が迫撃砲を浴びせ手榴弾を投擲してきた[119]。また、他の部隊は殆ど前進できていなかった為に孤立状態となり、周囲の日本軍から激しい射撃や砲撃を浴び、山頂をそのまま確保することが困難となり退却を余儀なくされた。多数の負傷兵が出たため、戦車とLVTで搬出しようとしたが、戦車とLVTも次々と撃破されていった。この日は深夜まで日本軍の砲撃は止まず、第22海兵連隊は戦力が40%まで落ち込み、海兵第6師団の戦史では、この日が「師団史上もっとも打ちのめされた日」と表現している[120]。しかし日本軍の損害も多大で、この日は海軍の山口大隊が、大隊長以下殆どが戦死し生存者がわずか22名と言う状況になった[121]。翌17日は戦艦や巡洋艦の艦砲を含む集中砲撃と、1,000ポンド爆弾による徹底した爆撃後に海兵第29連隊が進撃したが、またもや日本軍の猛攻撃の前に進撃停止、それでも1個中隊が頂上に達したが、日本軍との白兵戦での山頂の奪い合いになり、3回目奪取した後に、戦力消耗により確保が困難となり、160名の死傷者を出した上に退却を余儀なくされた[122]。
この頃に台湾の第10方面軍より、傍受したアメリカのラジオ・ニュースの内容が知らされたが「天久台での海兵隊の損害は甚大で、250名の中隊が炊事兵まで繰り出して戦い、ついには8名になった」と言うもので、第32軍は予想以上にアメリカ軍を苦戦させていることが判り狂喜した。しかし八原は「あのバカげた総攻撃さえなければ、今こそ米軍に甚大な損害を与え撃退できたのに」と悔やんだ[123]。
海兵隊の損害も甚大であったが、日本軍の損害も大きく、日に日に日本軍の抵抗は弱まっていき、ついに5月19日の11回目の攻撃で陥落した。しかしアメリカ軍の払った代償は大きく、死傷者は2,622名にも及び、他1,289名の神経症患者も出すこととなった[124]。特に将校の死傷率が高く3名の大隊長が戦死、11名の中隊長が死傷するなど死傷率は70%にも及んだ[125]。圧倒的なアメリカ軍を相手に、シュガーローフで10日間も足止めした日本軍の戦術は、戦後に米海兵第6師団の教本で「教科書通りの陣地防御戦術」と称賛された[126]。
(首里防衛線の崩壊)
海兵第4師団の隣を進撃していた海兵第1師団も進撃の行く手には、安羽茶地区、沢岻高地、沢岻村、大名高地、大名村があったが、これらは全て堅く陣地化され、互いに支援しあえる様に緻密に設計された縦深防御の精巧な防衛システムが構築されていた[127]。第一海兵師団は5月6日に安羽茶地区のナン高地(日本軍呼称:50米閉鎖曲線高地)に達したが、日本軍は陣地に立て籠もり抵抗、一式機動四十七粍速射砲により3両の戦車が撃破されるなどで2回撃退されたが、9日にはアメリカ軍は得意の「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で陣地ごと爆破し、ナン高地を制圧した[128]。
次いで沢岻高地、沢岻村も、攻撃してきた米海兵第七連隊に対して、日本軍2個大隊が激しく抵抗したが12日にアメリカ軍が占領した[129]。
14日に海兵第1師団は大名高地に達した。大名高地とそれに隣接する高地は首里直前に位置し、首里防衛線の中核を成しており、その堅牢さはそれまでとは比較にならなかった[130]。12両の戦車を先頭に第5海兵連隊が攻撃したが、日本軍の速射砲の攻撃で戦車2両が撃破され、迫撃砲の集中射撃で多数の死傷者が出たため、第7海兵連隊は戦艦「コロラド」の艦砲射撃の支援を要請し、40.6cm砲の砲撃で日本軍の速射砲陣地を撃破し、漸く前進できた[131]。
大名高地付近に進出できた第1海兵師団は、17日より大名高地に対して攻撃を開始した。アメリカ軍は艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中し大名高地の日本軍陣地を攻撃したが、日本軍よりの応射も凄まじかった。第1海兵師団はペリリューの戦いの激戦も潜り抜けてきたが、大名の戦いはペリリューとは別次元の激しさだったと海兵隊員らは感じたという[132]。
20日は第一海兵師団は2個大隊により二手から大名高地を攻撃、その内の第三大隊は一つ一つ陣地を「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で撃破しながら進撃、ナパームで高地を焼き払い、日本兵を炙り出して掃討しつつ一日でようやく60m進んだが、その後丘陵部を25m前進すると、日本軍の猛烈な反撃でまた元の陣地に押し換えされた[133]。
21日深夜、一部奪われた大名高地を奪還すべく、日本軍独立歩兵第22大隊が反対側の険しい崖をロープや十字鍬でよじ登り夜襲をかけたが、迫撃砲の集中射撃と大量の手榴弾投擲により140名の戦死者を出して撃退された[134]。
その後6月21日より、沖縄には10日間に渡って雨が降った。地面はぬかるみ、アメリカ軍の車両の運用が困難となった為に、大名高地を含みアメリカ軍の攻撃は一時停滞した[135]。
縦深防御システムは陸軍各師団の進撃路にも構築されており、陸軍も海兵隊と同様にもがき苦しんだ。第77師団は首里へ続く曲がりくねった道を前進したが、数メートルおきに日本軍の陣地があり、同師団の第305歩兵連隊は損害に構わず押し進んだ結果、5月11日〜15日の間に戦力が1/4まで落ち込んでしまった[136]。
米軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている[137]。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた[138]。
石嶺丘陵の内でもっとも頑強な陣地は、その形状から、皿にもったチョコレートドロップに見える事から、アメリカ兵にチョコ・ドロップという名付けられた小山(日本軍呼称:西部130高地)であったが、チョコ・ドロップを攻撃してきたアメリカ軍第77師団の第306歩兵連隊は、速射砲第二大隊[注 10]の一式機動四十七粍速射砲により次々と戦車を撃破され[139]、激しい砲火で歩兵の死傷も増大し、死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになった[140]。
チョコ・ドロップの日本軍はこの後もアメリカ軍を何度も撃退したが、最後は洞窟を封鎖されて「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で制圧された。
最初に首里戦線の突破口を開いたのは一番端を進んでいた陸軍第96師団であった。第24軍団長ジョン・リード・ホッジ少将は、首里により近い高地を攻撃し、一気に首里に近づく作戦を主張していたが、第96師団師団長ブラッドリー少将が地形を偵察の上で、より高いコニカルヒル(運玉森)の攻略が優先させた方がよいという意見であった[141]。
5月10日に第96師団の第383歩兵連隊がコニカルヒルに対して攻撃を開始した。その前にはアメリカ海軍は念入りに膨大な量の艦砲射撃を加えた為、兵士たちはこの山を「100万ドルの山」と呼んだが[142]、第24師団の金山大佐率いる歩兵第89連隊が主力として布陣した日本軍の陣地は、他の戦場と同様に砲爆撃では破壊できなかった。第383歩兵連隊が前進すると日本軍から激しい砲撃を浴び、容易に前進できなかった。しかし大きな損害を被りながらも、同連隊は13日までにはコニカルヒルの頂上を望める点まで進撃してきた。その報告を受けたホッジは「これが成功したら首里の鍵を握ることができる」と喜び、総司令官バックナーも自ら連隊長の元を訪れ激励している[143]。
第383歩兵連隊は同じ第96師団の第381・第382歩兵連隊と共同で、最高地点の犬歯山(形状が犬歯のようにギザギザしていることよりアメリカ軍が呼称)を目指して、日本軍の激しい抵抗を排除しながらようやく21日に山頂に到達、最後は日本軍との手榴弾の投げ合いと白兵戦を制し、ついに制圧した。この際に犬歯山頂上で日本軍と白兵戦を行った第三大隊だけで1,100個の手榴弾を一日で使用し、大隊保有の手榴弾を全て使い果たしている[144]。
以上の通り、首里防衛線全線でアメリカ軍は日本軍の防衛線を突破したが損害は甚大であった。首里戦線の二か月弱の戦闘で、第24軍団と第三水陸両用軍団の死傷者は合計で26,044名であったが、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も海兵隊6,315名、陸軍7,762名の膨大な数に及んだ[145]。戦車も陸軍だけで(海兵隊のデーターなし)221両が撃破されたが、これは沖縄戦に投入されたアメリカ陸軍戦車の57%にも上り、またその内には貴重で補充ができなかった火炎放射戦車も12両含まれていた[146]。
バックナーがとった首里防衛線への正面からの両翼包囲作戦は、そのあまりの損害の大きさにマスコミから「大失敗」とか「パールハーバー以上の軍事上の無能な作戦の悪例」と酷評される事になった[147]。
沖縄本島南部の戦い後期 首里陥落 第32軍撤退まで
首里防衛線は圧倒的なアメリカ軍相手に善戦しながらも崩壊しつつあった5月21日に、八原博通高級参謀が軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した[148]。
- 首里陣地に籠り最後の決戦を行う 軍の構想は平素よりこの案が元であり、各陣地もこの案で整備されている。しかし生存の将兵は未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫された首里陣地内に配置すれば米軍の砲爆撃の好餌となってしまう。
- 知念半島撤退案 知念半島は四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力を収容するのが困難であり、既集積物資も少ない。
- 喜屋武半島撤退案 海正面は30〜40mの断崖で防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力の収容も可能で、第24師団の軍需品が集積されている。
第62師団長などは首里決戦案を主張したが、各兵団長の意見を聞いた上で、翌22日に牛島満軍司令官は喜屋武半島撤退案を決心し、軍主力の後退は29日と予定、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うよう指示した[149]。
アメリカ軍の進撃は、5月末より降り出した豪雨で一時停滞していたが、23日には、第96師団が制圧したコニカルヒルより、第7師団の第184連隊と第32連隊が首里を包囲するため前進した。遭遇した日本軍は敗残部隊が多く、両連隊に幾度となく攻撃をしかけたが、撃退され両連隊の進撃を阻止できなかった[150]。しかし第32連隊が、首里と沖縄南部を結ぶ幹線道路と接する重要な高台地に達すると、日本軍は残存砲兵戦力の総力を挙げての激しい砲撃と、第24師団第89連隊の敢闘により、多数の損害を出させて撃退している[151]。24日には第六海兵師団の偵察部隊が那覇に進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日にアメリカ軍の手に落ちた。
コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報告を聞いたサイモン・B・バックナー・ジュニア中将は、日本軍の意図を察して、各軍団に「日本軍は側面を脅かすわが軍に対し反撃を加えつつ、新たな陣地に撤退している兆候が見られる。このような敵の行動に対し速やかに全力で圧力を加え、日本軍を不安定な状態にし、敵の意図を妨害すべし。形ばかりの攻撃では再び敵の新たな陣地構築を許すことになる。」と厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、全く撤退を予測しておらず追撃ができなかったこと、5月末より降り出した雨が激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退を阻止することはできず、30,000名が南部で新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里を包囲しつつあった第24軍と第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害は大きかったが奇跡的な陣地移動であった[152]。
軍司令も30日には、新しい司令部となる摩文仁に向け出発した。予定では29日に出発予定であったが、自動車の到着が遅れ30日の未明に自動車2台で首里を出発した司令部は、闇夜の中無灯火で砲弾が四周に弾着する中を走行、危うい場面が何度かあったが無事に到着した[153]。
しかし、この第32軍の南部撤退は、南部に戦火を逃れてきた多くの沖縄島民を戦争の惨禍に巻き込むことになってしまい、未だに強い批判が向けられる。八原は、当時としては作戦的には最良と判断したが、結果的に作戦優先で住民避難を考慮できず夥しい犠牲を生じさせた事を終生悔やみ「沖縄の人たちにすまない、あわせる顔が無い」と二度と沖縄の土を踏むことが無かった[154]。
わずかばかりの守備隊が残った首里城はアメリカ軍の手に落ちたが、難攻不落の要塞だった首里城も、アメリカ軍の艦砲射撃などでいたる所が破壊されており、日本兵の遺体が散乱していた。その光景を見たバックナーは「これからは掃討戦に移ることになる。これは激しい戦闘が起こらないわけではないが、既に日本軍は再び強固な防衛線を築く余力は残っていない」と部下将兵に宣言したが、またもこの見通しは大きく外れ、アメリカ軍は日本軍の組織的な抵抗を完全に制圧するためにあと3週間もの期間を要することとなった[155]。
南部への撤退に際しては、混乱もあっている。大田実少将率いる海軍部隊は、26日に真榮平に移動したが、第32軍よりの、軍主力の移動の援護をした後に6月2日以降撤退せよという命令を、命令書の表現が曖昧であった為誤解していた事が判明し、大田少将は28日夜に小祿の旧陣地に復帰したが[156]4日には進撃速度を上げたアメリカ軍が海軍部隊の守る小祿飛行場陣地まで進撃してきた。
海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、航空機用機銃を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備隊と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦しており、接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」と掃海艦とタンカーを海岸砲で砲撃して沈めるなどの戦果を挙げていたが[157]、26日の撤退の際に残存の重火器を破却しており、残存の戦闘力は低かった。それでも大田少将は死守を決意し、5日には第32軍司令部に対し「海軍は包囲せられ撤退不能のため、小祿地区にて最後まで戦う」と打電している[158]。牛島中将は大田少将に南部への後退命令を再度発し、自ら懇切な親書を認めたが太田少将の決意は固く翻意は無理であった[159]。
大田少将は6月6日に各所に訣別の打電をしているが、中でも海軍次官宛の『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という打電は今日でも有名である。小祿を防衛する海軍部隊はわずか2,000名足らずであったが、航空機より外した機銃などの兵器を活用し、進撃してきた米海兵第六師団に痛撃を与えた。アメリカ軍は小祿での海軍部隊の抵抗を「(装備・訓練が足りず勝利の見込みもないが)アメリカ軍に高い犠牲を払わせるために自陣を死守するという強い意志を持っていた敵軍の物語」と抒情的に表現している[160]。
海軍部隊の抵抗は激しく、第六海兵師団は大きな損害を被ったが、11日には二個連隊により海軍部隊の陣地を包囲した。大田中将は11日に牛島司令官宛てに「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり、根拠地隊は今11日2330玉砕す、従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」と打電した後に13日に部下参謀5名と共に自決した[161]。小祿の防衛戦は10日間も続き、アメリカ軍の死傷者は2,608名にも上った。また、小祿では12日と13日に沖縄戦で初めて159名の日本兵がまとまった集団として投降し捕虜となっている[162]。
(沖縄戦での特別攻撃隊)
アメリカ海軍は4月23日に太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将が第10軍の司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将に特攻対策の為の進撃督戦した以降も、日本軍の特攻に苦しめられていた。
沖縄攻略作戦の艦隊指揮官であった第5艦隊司令のレイモンド・スプルーアンス中将は、配下の艦隊のあまりの特攻被害に、「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 という、海軍上層部への切実な戦況報告と意見具申を行っている[163]。
スプルーアンスの上官ニミッツもこの頃ワシントンの海軍上層部に「もう持ち堪えられない」という弱気な報告を打電している[164]。
前線での苦戦の報告を受けたアメリカ合衆国海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えたが、この会見にはバックナーへの非難の意味もこめられていたと言われている[165]。
この後、バックナーは首里防衛線を攻撃する各軍団長へ、苛立ちをもって進撃スピードの加速を指示しているが、このバックナーを見て第10軍の海兵隊副参謀長のオリバー・P・スミス大将は「バックナーには、沖縄近海に展開している海軍が、甚大な損害に耐えている間に進撃を加速させろという大きなプレッシャーが加えられていた。」と語っている[166]。
首里戦線の第32軍の危機に、大本営は菊水六号作戦(5月11日〜5月14日)菊水七号作戦(5月23日24日)を発動した。11日には第58任務部隊の旗艦バンカーヒルが2機の特攻を受け大破、396名の戦死者と264名の負傷者を出すという甚大な損傷を受け、戦線離脱を余儀なくされた。バンカーヒルは後にアメリカ本土のピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けたが、同海軍工廠史上、最悪の損傷レベルであった[167]。
翌日には、第53任務部隊の旗艦はエンタープライズに変更されたが、エンタープライズにも富安中尉搭乗の特攻機が命中し大破、2日続けてアメリカ艦隊の旗艦が特攻で大破するという事態に陥った。
菊水七号作戦時には、制空権確保のために陸軍のコマンド部隊「義烈空挺隊」を米軍制圧下の飛行場に強行着陸させ破壊活動を行わせる義号作戦も発動。熊本より12機の九七式重爆撃機改造輸送機が出撃し、うち1機が北飛行場(読谷飛行場)に着陸成功、搭乗していた隊員と乗員は戦闘を行い合計33機の戦闘機・爆撃機・輸送機が完全撃破されるか被害を受け、アメリカ兵20名が死傷し、ドラム缶600本70,000ガロン航空燃料も爆破焼失するなど飛行場機能に打撃を与え2日間に渡って飛行場を使用不能としたが[168]、戦況を動かすことはできなかった。
特攻はこの後、本土決戦準備による戦力温存策もあり減衰していったが、アメリカ海軍が沖縄戦で、特攻により受けた損害は甚大であり、アメリカ歴史学者の中でも最高の権威者と言われている サミュエル・モリソンは著書で「艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」と沖縄戦がアメリカ海軍戦史上最大の損害であったと述懐し[169]、アメリカ軍も、公式報告書で「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している[170]。
日米両軍司令官の戦死と自決
5月26日、陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念し、以後は航空作戦を縮小することとした。
しかし、第32軍の抗戦意欲は未だ衰えておらず、サイモン・B・バックナー・ジュニア中将は「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」とか、「もう戦いは終わった、後は掃討戦だ(中略)敵は二度と戦線を確立することはできない」とか、またもや楽観的な意見を述べ、参謀らも日本軍に秩序だった撤退はできないと思っていたが、これは全く根拠がない事が、日本軍が損害を被りながら見事に首里を撤退し、南部に新たな戦線を構築したことで明らかになった[171]。
6月5日にアメリカ軍第24軍団が、日本軍南部防衛線全線に渡って攻撃してきた。それを迎え撃つ日本軍は数は30,000名以上いたものの、正規の歩兵戦力はその内の11,000名に過ぎず、残りは火砲を失った砲兵や通信・整備・設営隊等の支援部隊や沖縄現地召集の防衛隊などであった[172]。
日本軍は戦力不足ながら、防衛線各所で善戦し、アメリカ軍を何度も撃退した。八重瀬岳を守備する独立混成第44旅団は、6月12日までアメリカ軍2個師団を三日足止めし、13日に総攻撃を受け主力は壊滅したが、周囲の洞穴には多数の残存兵がおり、掃討戦が続けられた。
西側の戦線の国吉戦線では、歩兵第32連隊(北郷格郎大佐)以下1,500名前後の守備隊が、隣接する眞榮里高地を守備する歩兵第22連隊(吉田勝大佐)と共に、海兵師団相手に17日まで同丘陵地域を死守している。丘陵よりの激しい射撃により、海兵隊に死傷者が続出13日には140名が死傷し撃退されている。丘の上では戦車の支援なしには立つこともできないぐらいの激しい日本軍の攻撃だったが、その戦車も速射砲で攻撃され、5日間で21両もの戦車が撃破された。それでも、アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積み前線に送りこむ一方で、帰路に死傷者を積んで帰ってくるという強行で攻め続け[173]、17日には「馬乗り攻撃」で眞榮里高地の歩兵第22連隊の司令部陣地を爆破、吉田連隊長が戦死、第32連隊第2大隊も残存兵力26名で大隊長以下突撃し全滅、5日間に渡る激戦の末に丘陵は制圧された。この間にアメリカ軍の死傷者は1,050名、その中には、日本軍の狙撃で戦死した海兵第22連隊長のハロルド・ロバーツ大佐も含まれていた[174]。
バックナーはこの頃に、牛島に対し同じ士官学校の校長経験という経歴も踏まえ降伏勧告を行っている。「閣下の率いる軍隊は、勇敢に闘い、善戦しました。歩兵の戦略は、閣下の敵であるアメリカ軍から、ひとしく尊敬されるところであります。閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験を積まれた立派な歩兵の将軍であります。従って、本官が察するところ閣下もすでにご存じのことと思いますが、全日本軍がこの島で壊滅することは、いまや既に時間の問題であります。」同時にアメリカ軍は日本兵や住民に投降を促すビラを800万枚日本軍勢力圏下にばらまいている。牛島は17日にバックナーの親書を受け取ったが、一笑に付し降伏勧告を撥ね除けている[175]。
その翌日の6月18日、バックナーは、牛島からの回答を確かめることもなく、喜屋武半島の最前線視察中に日本陸軍の野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲の砲撃を受け戦死した[注 11]。これは2014年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した唯一の事例である。日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化はなかった。
沖縄戦中から戦後にかけて、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の連載がきっかけとなり、沖縄戦でのバックナーの采配に対する議論が白熱し、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーも論戦に加わり「バックナーは、日本軍が撤退後に南部を攻撃する必要はなかった。牛島中将の残存部隊を沖縄の一部に閉じ込めておいても、沖縄は日本侵攻の基地として十分使用でき、バックナーのゴリ押し戦略よりも損害は少なくて済んだ」とバックナーを非難していたが、バックナーは死によって采配に対する議論から解放される事となった[179]。
アメリカ第10軍の指揮は、急遽ロイ・ガイガー少将が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・スティルウェル大将が後任司令官となった。また、翌日には第96師団副師団長クラウディウス・M・イーズリー准将も日本軍の狙撃により戦死している[180]。
日本軍の戦線崩壊は次第に進み、喜屋武地区を守備していた、軍主力の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。この頃になると、日本軍では飢餓や病気により一日4,000名の兵士が亡くなっていた。組織崩壊も始まり、今まで殆ど見られなかった集団投降も増えてきた。6月20日に摩文仁岳東端を占領したアメリカ軍第32歩兵連隊は977名もの大量の日本兵を捕虜にした[181]。
6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官の第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決した。二人は缶詰のパイナップルで最後の食事をし、スコッチウィスキーで訣別の酒杯を部下幕僚と交わした[182]。長勇中将は自決の前に八原大佐に「八原、後学のため予の最後を見よ」と言った。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼し全滅。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。
その後の戦闘
しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの[注 12]であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかったためとされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、並びに同連隊指揮下の2個大隊などが終戦まで生存している。北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである。第32連隊は同月22日にアメリカ軍の軍使と接触しており、翌23日に軍旗を奉焼している。最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営報告の命令で本土に脱出して生き残っている[注 13]。一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死している。轟の壕では、内務省沖縄特高課長佐藤喜一により、避難民に投降が勧告され多くの住民が米軍に収容されている。
主に海軍により、特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられた。7月28日には九三式中間練習機の体当りで駆逐艦「キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった[183]。8月12日には戦艦「ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃で損傷させた[184]。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している[185]。
終戦後の状況
戦後、沖縄守備軍の守備範囲であった沖縄県などはアメリカ軍の占領下に入り、1950年12月まで軍政が続いた。その後も米国の琉球列島米国民政府と、下部機関である琉球政府による統治が行われ、全てが日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。最後の激戦地となった南部地域の村は、いくつもの集落で住民が全滅、多くの沖縄の住民は外国(特に南米)に移住、人口の減少により、自治体としての規模維持のため合併を余儀なくされた(三和村)。
住民犠牲について
犠牲者数
沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。
- 沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
- A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
- B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人
- C:戦闘参加者(戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数[注 14]) 5万5246人
- D:一般住民 3万8754人(推定)
うちDが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年(昭和20年)と1946年(昭和21年)の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとしたためである。終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また、1946年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。
沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めた数値である[5]。なお、沖縄県平和祈念公園に設置された石碑の「平和の礎」には、1931年(昭和6年)の満州事変以降・南西諸島の日本軍の降伏調印1年程度経過の1946年(昭和21年)9月7日頃までに発生した戦争が主因の沖縄県出身者の死者と、1944年(昭和19年)3月22日の第32軍創設から1946年(昭和21年)9月7日頃までのアメリカ軍将兵などを含む県外出身の死者の名が記載されており、2006年(平成18年)6月23日時点で24万383人(うち沖縄県出身者14万9035人)となっている[188]。この「平和の礎」の数値を根拠に、沖縄戦の戦没者数を24万人と主張する者もある[189]。
米軍上陸前の住民の動き(避難)
県外疎開
大本営陸軍部が沖縄の住民疎開について検討を始めたのは、サイパン島にアメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された[190]。軍も、住民保護目的ではなく、「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の目的からも県民の疎開を希望していた。また、沖縄県では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているため、海上交通が途絶えた場合には守備隊増強で膨れ上がった人口を養うのは困難という事情もあった。
その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。対象者は、60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、警察署長の渡航証明書を受けることとされた。根こそぎ動員により、「鉄血勤皇隊」の14歳からときには70歳の者までが防衛召集・動員されており[191]、彼らは疎開することを禁止された。また、食料生産などのために動員された婦女も、許可されなかった。
輸送は陸海軍艦船などを投入して全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた[190]。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった[192]。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。
しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には増援部隊を乗せた輸送船「富山丸」が潜水艦に撃沈され、将兵約3,700人が犠牲になる大惨事が発生していた。軍はこの事件を「軍極秘」として箝口令を敷いていたが、県民の間に口伝で広まり、1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)とともに疎開に対する不安を煽る結果となった[192]。さらには、第32軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言も、県民に、日本軍が勝つという希望的観測を生じさせていた。なお、沖縄県知事の泉守紀も北部への県内疎開には食糧供給が困難として消極的な立場で、疎開の促進を求める軍としばしば対立した。
荒井退造警察部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めた[193])ものの、その後8月10日に出航した第4次の約9000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあった。
皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった[194]。その後、1945年1月に新たな県知事として赴任した島田叡の下で、最後の努力が行われた[195]。
沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む8万人以上が疎開した。内訳は、沖縄本島周辺からは九州へ約6万人と台湾へ2千人、宮古列島と八重山列島から台湾へ2万人以上となっている[194]。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが[194]、6隻(約3000人死亡)とする見解もある[196]。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを戦争マラリアと呼んでいる。県内疎開の正確な犠牲者は不明である。
なお、九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。
本島北部への避難(島内避難)
1944年12月になると、第32軍は、県に対し沖縄本島北部へ10万人の住民避難を要請した。北部避難の対象者は、県外疎開と同様であったが、加えてアメリカ軍上陸直前には食料生産などに動員していた婦女も北部避難させるという計画であった(避難命令は出ないままアメリカ軍上陸となった)。なお、北部にも日本軍の施設や兵員が配置されており、非戦闘地域になっていたわけではなく、住民が戦闘に巻き込まれた。
軍も県当局も北部避難の準備は何もなかった。食料も住居も自弁自給を基本とされた。軍の協力は、避難民の輸送でも避難準備の物資運搬でも得られなかったばかりか、車両は荷馬車まで供出となっていた。そのため老幼の避難民は、持てるだけの食料を背負い徒歩で100Km以上ある泥にぬかるんだ道を避難した。県は、配給米の備蓄に努力したが、2か月分が精一杯であった。北部は山岳地帯で耕作地も限られた。さらにはマラリア発症地帯であって、餓死やマラリアで多くの死者を出すことになった。
いったん避難しても食料を取りに戻る者もあり、北部には食料も何もないという口コミが広がった。艦砲射撃が始まったことで避難する者が増えたものの、北部避難者は約8万人と推定されている[197]。
米軍上陸後の住民の動き(避難)
第32軍司令部は、戦況の切迫を理由に沖縄本島へのアメリカ軍上陸直前の3月31日に北部への避難民の移動を禁止している[198]。その後アメリカ軍が本当に上陸すると、すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部山岳地帯への避難は不可能になった。
北部への避難ができなかった住民は、集団自決をした避難壕もあれば、アメリカ軍に集団投降した壕もあった。5月上旬までに13万人の住民(北部避難者等を含む)がアメリカ軍に収容された[199]。
本島南部(島尻地域)へは、戦線の南下に従い追い詰められるようにして、最終的に推計10万人以上もの避難民が集まることになった。南部地域でも、第32軍が首里司令部の放棄で撤退した喜屋武半島方面では戦闘に巻き込まれて多くの避難民が犠牲となった一方で、日本軍の流入がなくほとんど戦闘が行われずに「事実上の非戦闘地域」となった知念半島方面では多くの避難民が生き延びている。
本島南部への避難
アメリカ軍上陸から約1か月経過した4月27日に、沖縄県島田叡知事は住民保護のため、南部地区の市町村長と警察署長を繁田川の地下壕内に移転していた県庁内に召集して会議を開いている。その場で避難民の受け入れ態勢の整備や食糧確策等が話合われたが[200]第32軍も4月29日には島田叡沖縄県知事に、住民を本島南部に避難させるよう指示し、多くの住民が南部に避難していた。
しかし、その後に戦況が悪化すると第32軍は南部への転進を決定、決定後の5月22日に島田叡知事に知らされ、軍より首里近辺の非戦闘員の南部島尻地区への撤収が指示された[201]。知事は軍の転進に強く反対するも決定は覆らなかった。
島田知事は25日に女子挺身隊に高嶺村與座方面への移動と住民保護を指示し、県庁も兼城の秋吉に移動した[202]。 その後、南部地区は後退してくる軍と避難民が各所で溢れ混雑を呈した。 島田知事は5日に伊敷の轟の壕に移動し、9日にはもはや組織として体をなしていなかった県庁と警察の解散を命じている[203]。
この後、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上り、沖縄戦における住民の戦没者全体の6割が、第32軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっている[204]。
なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には、「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した[205]。
最後まで住民保護に腐心した島田知事も、18日に行動を共にしてきた仲宗根官房主事らを壕から脱出させた後、荒井退造警察部長と壕内で殉職している[206]。
知念半島の非戦闘地域化
5月22日牛島司令官が喜屋武半島方面への撤退を決断したことで、知念半島方面は第32軍の作戦区域外となり「事実上の非戦闘地域」となった。しかし、軍から県庁に「知念方面が非戦闘地域である」と通知されたのは、司令部撤退がほぼ完了した5月29日になってからであった。この頃すでにアメリカ軍は、東海岸を打通し知念半島に進出しており、知念方面へ向かう道はどこもアメリカ軍に制圧されていたため、もはや知念に行くことは困難であった。 29日に突如、第24師団の壕に呼ばれて知らされた島田知事は「なぜにもっと早くに知らせてくれなかったのか」と憤慨したという[207]。
集団自決
サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人[208])などが知られ、集団自決者の総数は1000人以上とする研究者もいる[209]。
これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で、「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する[210]。
集団投降
日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。アメリカ軍が上陸後すぐに進攻した中城村では日本軍が4月2日には撤退してしまい住民だけが残されたが、島袋地区では4月3日に1500人が集団投降して地区住民のほとんどが生き延びた。日本軍の主陣地が構築された宜野湾村では、村南部のように日本軍とともに「軍民雑居」となった地域では、住民は投降を許されず、日本軍の指示で本島南部に逃げることとなり多くの犠牲者を出している。嘉数地区や佐間下地区などにいた住民の犠牲者率は48%に上る。一方で早々に日本軍が撤退した村中北部は、フトゥキーアブ壕で4月4日に500人など集団投降した例が多く、新城地区や喜友名地区などの住民の犠牲者率は13%と低めである[211]。なお、集団投降した避難壕では、移民帰りの人がいるなどして「鬼畜米帝」との洗脳にとらわれていなかった例も多い。「鬼畜米帝」を信じてアメリカ軍の投降勧告に応じなかった壕では、容赦のない攻撃を受け全滅したりしている。上述のフトゥキーアブ壕でも、数人の少女が「米軍に捕まったら、何をされるかわからない」と壕から出ることを拒否して、手榴弾を投げ込まれ犠牲になっている。(その後の難民収容所では、米兵による強姦被害が多発しており、「鬼畜米帝」が誤謬であるとも言い切れない)
日本軍による住民殺害
アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があった。具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害[212]などが挙げられる。日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1000人と推定する見解を採り[213]、元沖縄県知事(元社民党参議院議員)の大田昌秀は、スパイ容疑での直接殺害だけで数百人から1000人以上と推定している[214]。援護法との関係で戦闘参加者と認定された民間人のうち、14人は日本軍による射殺が理由となっているが、大田はこれも実数は数倍に上ると見ている[187]。
住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある[215]。このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、軍民一体化と防諜のため、沖縄語の使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある[216]。また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている[217]。
こういった事例が強調されていることに対し、沖縄戦に参加した日本軍兵士からの反論もある。嘉数の戦いに参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」[218]と述べている。
また、《泣き声で米軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語る》[219]
連合軍による住民の扱い
連合軍による住民殺害
既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
長周新聞によると、「沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。」[220]
住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という[221]。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された[222]。
民間人収容所
アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。アメリカ軍は占領段階に応じたA-Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった[223]。
多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察 (CP) といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた[223]。
アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している[224]。
なお、前述の日本兵による住民殺害事件にも、渡野喜屋事件のように米軍管理下の民間人が殺傷された例がある。
連合軍兵士による性的暴行などの虐待
収容所および米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている[220]。戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[225]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[226]。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある[227]。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという[228]。
沖縄戦時中に米兵が沖縄の住民女性を強姦し、軍法会議で有罪となりながら、戦後米海軍省で判決が破棄されていた。軍法会議で禁錮9年、不名誉除隊の判決が出たが、海軍法務総監が10月に有罪判決を破棄するよう勧告。11月に海軍長官が判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。勧告文では、レイプ犯罪を「女性が能力の限りを尽くして抵抗したとみられるものでなければならない」と定義。「すごくおびえて叫ぶことができなかった」と証言した被害女性に対し、最大限の抵抗をしなかった、叫び声を上げなかった-などを理由に被告を無罪とした[229]。
沖縄戦についてのアメリカ軍による評価
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これについて八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地と野戦重砲兵の支援砲撃を前提として挑んだ『寝技戦法』とも呼ばれた。この作戦は、強力なボクサーを相手に柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチを防いで得意の接近戦で敵の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍の大部隊を、展開が困難でかつ航空支援や援護砲撃が不可能な日本軍陣地の100-200m程度の直前まで誘導する。そして日本軍は重機関銃、軽機関銃、小銃、擲弾筒で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。急速前進を余儀なくされた敵戦車は対戦車砲(速射砲)、山砲、野砲、地雷、歩兵の肉弾戦によって撃破する。そして駆けつけてきた敵の増援部隊を、精密測量した地域に釘付けにして重榴弾砲、加農といった味方野戦重砲・重砲の砲撃により叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は満州から転出してきた野戦重砲という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。
また、八原戦術を理解し、その実行を委ねた牛島満中将は、自身の出生地である薩摩に伝承される捨て奸を意識していたといわれる。
米陸軍省戦史局編集の公式報告書「OKINAWA: THE LAST BATTLE」での総括は「沖縄で支払った代償は高価なものであった。米軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」「作戦は予想していたより遙かに長引いた」など、苦しい戦いであった事を指摘した上で「だが、米軍は、希望するどんな土地も最後には日本軍から奪うことができることを沖縄で示した」と激戦を勝ち抜いた自信も示している[230]。
またアメリカ海兵隊の公式活動報告書でも「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」とか「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」等、その能力を高く評価している[231]。
前線のアメリカ軍兵士も、当初は人種差別と憎しみから「日本兵は、がに股で飛び跳ねながら猿のように金切り声を上げたり、豚のように鳴いたりする奴らと思っていた」という偏見を持つ兵士も多かったが、シュガーローフなどの激戦を経て「日本兵は極めて統率のとれた集団だ」とか「日本兵は実際に見ると落ち着き払っており、米軍海兵隊員と同じ顔つきだった」という印象に変わっていき、更に日本兵への畏敬の念が行き過ぎて「日本兵を大したことがない、なんて抜かす奴がいたら俺が撃ち殺してやる」と新兵を怒鳴り散らす小隊長もいたという[232]。
米海軍は特別攻撃隊に沖縄戦中終始苦しめられ、米海軍史上最悪の損害を被ることになったが、太平洋艦隊司令のニミッツ大将は、「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。約13,000名の米兵が戦死したが、その内3,400名が海兵隊で4,000名が海軍だった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」と回顧している[233]。
沖縄戦が終わると、大英帝国首相ウィンストン・チャーチルはハリー・S・トルーマン米大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている[234]。
ピューリッツアー賞も受賞した、アメリカの軍事評論家の第一人者、ハンソン・W・ボールドウィンは沖縄戦を振り返って「その規模、その広がり、その苛烈さにおいて バトル・オブ・ブリテンすら影の薄いものとした。飛行機と飛行機、水上部隊と航空部隊の間で、これほど凄惨な、独特の死闘が行われた事は、後にも先にもない」と著書に書いている[235]。
史跡
特に戦闘が激しかった本島南部は「沖縄戦跡国定公園」に指定されている。日本国内の国立公園や国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのは現地だけである。海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されており、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されている。一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園となっている区域の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている。塔の手前の展望台の下に壕があり、内部は立ち入り禁止だが、入口までは階段で降りることができる。平和祈念公園内には県立平和祈念資料館や平和の礎(へいわのいしじ)がある。
ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館がある。また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森(こがねもり、方言名「クガニムイ」)公園となっており、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されている他、2007(平成19)年6月から第20号壕が南風原町によって一部復元され、一般公開されている。
読谷村と北谷町には「米軍上陸の地」碑がある。また、最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔がある他、トーチカの跡が残っている。
米軍司令官が戦死した真栄里の高台には「サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将戦死の碑」が建てられている。周辺はその後アメリカ軍による報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域である。また、戦死者も多いことから「白梅の塔」など多くの慰霊塔が建てられている。
これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として慰霊塔や慰霊碑が島内全域に多数現存している。
嘉手納基地内には、旧日本軍の滑走路の近く、昭和20年9月7日の沖縄戦の降伏文書調印式が行われた場所に平和公園 peace parkが作られた。屋外であるが、約1メートルの碑に各種の文書がみられる。米軍と日本人の共同で作ったとある。
参加兵力
日本軍
陸軍
以下は主要部隊のみで、ほかにも多数の兵站部隊、航空関係の地上部隊などがある。より網羅的なインターネット上の資料として沖縄振興局『沖縄戦関係資料閲覧室』の「第32軍部隊一覧」も参照。
- 第32軍司令部(司令官:牛島満中将)
- 第24師団(師団長:雨宮巽中将) - 歩兵第22連隊・第32連隊・第89連隊基幹
- 第62師団(師団長:藤岡武雄中将) - 歩兵第63・第64旅団基幹
- 賀谷支隊(支隊長:賀谷與吉中佐) - 歩兵第63旅団の1個大隊基幹
- 独立混成第44旅団(旅団長:鈴木繁二少将) - 第2歩兵隊・砲兵隊(九一式十糎榴弾砲)・独立混成第15連隊[注 15]基幹
- 第5砲兵司令部(司令官:和田孝助中将) ‐ 野砲兵第42連隊、独混44旅団砲兵隊、各歩兵連隊・歩兵大隊の連隊砲・大隊砲、師団および独混の速射砲を除く全砲兵部隊を軍砲兵として指揮下に置いた。
- 野戦重砲兵第1連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×12
- 野戦重砲第23連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×24
- 重砲兵第7連隊 - 加式十二糎速射加農×2 三八式野砲×12
- 重砲兵第8連隊
- 独立重砲兵第100大隊 - 八九式十五糎加農×8
- 独立臼砲第1連隊 - 九八式臼砲×24 九七式軽迫撃砲×6
- 迫撃第42大隊
- 独立迫撃砲第1・第2大隊 - 九七式曲射歩兵砲×96
- 独立速射砲第3・第5・第7・第22大隊、独立速射砲第23・第32中隊 - 一式機動四十七粍砲×54
- 第21野戦高射砲隊司令部
- 野戦高射砲第79・第80・第81大隊、独立高射砲第27大隊 - 八八式七糎野戦高射砲×72
- 機関砲第103・第104・第105大隊 - 九八式高射機関砲×54
- 特設第47・第48・第49機関砲隊 - 九六式二十五粍機銃
- 戦車第27連隊[注 16] ‐ 九七式中戦車(新砲塔)×14 九五式軽戦車×12
- 砲兵中隊 - 機動九〇式野砲×4
- 電信第36連隊
- 第11船舶団司令部
- 船舶工兵第23・第26連隊
- 海上挺進第1・第2・第3・第26・第27・第28戦隊
- 第5海上挺進基地隊本部、海上挺進基地第1・第2・第3・第26・第27・第28・第29大隊
このほか、先島集団(宮古島に第28師団及び独立混成第59・第60旅団。石垣島に独立混成第45旅団)、大東島守備隊(第28師団の一部)、奄美守備隊(独立混成第64旅団)といった部隊がアメリカ軍による上陸を想定して配置された。しかし、アメリカ軍が上陸しなかったため、地上戦闘はおこなわれなかった。第32軍司令部の壊滅後、先島集団は台湾の第10方面軍の直轄下に入り、奄美守備隊は九州の第16方面軍隷下となった。
海軍
航空部隊
- 第6航空軍 - 在九州・陸軍航空部隊(司令官:菅原道大中将)
- 第8飛行師団 - 在台湾・陸軍航空部隊(師団長:山本健児中将)
- 独立飛行第18中隊分遣隊
- 第5航空艦隊 - 在九州・海軍航空部隊(司令長官:宇垣纏中将)
- 第1航空艦隊- 在台湾・海軍航空部隊(司令長官:大西瀧治郎中将)
連合軍
特に注意書きの無い場合、アメリカ軍の部隊を指す。出典は原則としてアメリカ陸軍公刊戦史“OKINAWA: The Last Battle”による[21]。
陸上部隊
各歩兵師団は歩兵3個連隊を基幹とし、砲兵4個大隊などを持つ。各海兵師団は3個海兵連隊を基幹とし、砲兵連隊と戦車大隊などを持つ。
- 第10軍司令部(司令官:サイモン・B・バックナー・ジュニア中将)
- 第24軍団
- 第27歩兵師団 - 軍直轄。
- 第193戦車大隊ほか配属。
- 第81歩兵師団 - 戦闘には不参加。
- 沿岸砲兵隊
- 第53沿岸高射砲兵旅団
- 第144沿岸砲兵群 - 155mm砲装備。
- 第3水陸両用軍団 - アメリカ海兵隊所属。
航空部隊
戦術支援用の航空部隊として、以下の部隊があった。
- 第301戦闘航空団 - アメリカ陸軍航空軍所属。
- 第7爆撃コマンド - アメリカ陸軍航空軍所属。
- 第2海兵航空団 - アメリカ海兵隊所属。
沖縄戦で失われた国宝
建造物
- 沖縄神社拝殿(首里城正殿)(大正14年4月14日指定)
- 首里城守礼門、歓会門、瑞泉門、白銀門(昭和8年1月23日指定)
- 園比屋武御獄石門 (昭和8年1月23日指定)
- 崇元寺尚家霊廟(昭和8年1月23日指定)
- 円覚寺尚家霊廟(昭和8年1月23日指定)
- 冕獄石門(昭和8年1月26日指定)
- 末吉宮本殿(昭和11年9月18日指定)
- 沖宮本堂(昭和13年7月4日指定)
沖縄戦全体を描いた映像作品
- 映画
- 『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝。岡本喜八監督作品)
- テレビドラマ
- テレビアニメ
- ドキュメンタリー
脚注
注釈
- ^ 本土決戦は1945年1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に1945年後半を想定して決戦準備がなされていた。
- ^ 日本語の呼称「鉄の暴風」は、1950年に刊行された沖縄タイムス社編『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
- ^ 甲号戦備とは敵の上陸攻撃あれば、直ちに戦闘ができる体制のこと。
- ^ 米軍公式記録では機雷による沈没となっているが、戦後暫く経ってからの調査で甲標的丙型の雷撃による撃沈の可能性も高い事が判明した[33]
- ^ インディアナポリスはこの修理の為にアメリカ本土に曳航され、修理完了後前線に復帰する際、原爆輸送の極秘任務をこなし、原爆を揚陸後に日本海軍の潜水艦伊58に撃沈された。
- ^ 幕僚会議を主催したのは長参謀長であるが、長個人としては内心反対であり、牛島司令官の攻勢意図や上級司令部に対する体面を察して職責上やむなく方針を変えたとする見方もある[51]。
- ^ この激戦は歩兵第22連隊第1大隊長小城正大尉の記した著書『天王山』に詳しい。
- ^ 日本軍推計では4月21日までに艦砲13万発、敵機来襲延べ14,000機に及ぶ[80]。
- ^ 特攻により2隻の弾薬輸送船が撃沈されたことにより、野砲の砲弾が一時的に不足していた[86]。
- ^ 軍の方針で対戦車戦闘を主任務とすることとなっていた。
- ^ バックナーを倒した日本軍の攻撃について、アメリカ軍の公式記録では九六式十五糎榴弾砲の砲撃となっている[176]。日本側でも、2002年に野戦重砲兵第1連隊の元・中隊長が長年の沈黙を破り、自分の指揮による砲撃だったと証言している[177]。他方、日本側には東京都出身の「小野一等兵」が小銃で狙撃したという証言もあるが、厚生省によると該当する兵士の存在は確認されていない[178]。
- ^ 『…爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』 文を実質作成したのは長野作戦参謀であり、最後の文を付け加えたのは牛島では無く、長勇参謀長である。
- ^ 八原博通は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも再び来島することはなかった。
- ^ 戦闘参加者として48509人が認定されていた段階では、軍部隊への地下壕明渡しが11483人を占めた。その他、輸送や食糧提供などが理由に挙げられる[187]。
- ^ 旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。
- ^ 戦車第2師団の師団捜索隊を改編し、1944年7月に第32軍編入。1個中隊は宮古島。
出典
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- ^ 『臨時増刊 沖縄戦と「集団自決」―― 何が起きたか、何を伝えるか』 世界764号、岩波書店、2008年。
- ^ 宮城初枝著「沖縄敗戦秘録ー悲劇の座間味島」[要ページ番号]、勝岡寛次著「沖縄戦集団自決―架空の軍命令」明成社[要ページ番号]ほか
- ^ 林博史『「集団自決」の再検討― 沖縄戦の中のもうひとつの住民像』 歴史科学協議会編『歴史評論』1992年2月号
- ^ 『秘録・沖縄戦』
- ^ 安仁屋政昭 『裁かれた沖縄戦』 晩聲社、1989年。
- ^ 大田(1982年)、215頁。
- ^ 大田(1982年)、206頁。
- ^ 沖縄戦に関する私見,山梨学院大学 我部政男,平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について,資料(14) 「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ、沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜トミナシ処分ス」(球軍会報)
- ^ 大田(1982年)、180-181頁。
- ^ sapio2013年09月号
- ^ 産経新聞 2007年10月16日
- ^ a b 「沖縄戦と占領への新鮮な怒りを」『長周新聞』2004年8月28日
- ^ 「米兵の民間人殺害克明に―保坂琉大教授が米で記録発見」『琉球新報』2005年11月18日
- ^ 大田(1982年)、210頁。
- ^ a b 読谷村史編集委員会(上巻)、安仁屋政昭「捕虜と難民 ―収容所の開設」
- ^ 藤原(2001年)、100頁。
- ^ 金城正篤ほか 『沖縄県の百年』 山川出版社、2005年、237頁。
- ^ 安里英子 「米軍政下にみる子どもと女性の人権―凌辱される生命」『ピープルズ・プラン研究』3巻4号、ピープルズ・プラン研究所、2000年9月。
- ^ “In Okinawa, US troops are estimated to have raped 10,000 Japanese women during World War II” [1]
- ^ ”3 Dead Marines and a Secret of Wartime Okinawa”, New York Times, 2000-06-01;“But by one academic's estimate, as many as 10,000 Okinawan women may have been raped and rape was so prevalent that most Okinawans over age 65 either know or have heard of a woman who was raped in the aftermath of the war.”
- ^ [2]
- ^ アメリカ陸軍省戦史局(編)喜納建男(訳)『沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い』P489
- ^ ジェームズ・H・ハラス(著)猿渡青児(訳)『沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間』P249
- ^ ジェームズ・H・ハラス(著)猿渡青児(訳)『沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間』P244
- ^ チェスター・ニミッツ『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲訳 445頁
- ^ サミュエル・E・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫訳 438頁
- ^ ウィリアム・マンチェスター(著) 鈴木主税(訳) 「ダグラス・マッカーサー」 80頁
- ^ NHKスペシャル|昔 父は日本人を殺した 〜ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦〜
関連文献(著者名順)
以下の文献は、本項目の執筆に使用した参考文献および発展的な関連文献を含む。
総説
- 大田昌秀『これが沖縄戦だ 写真記録』琉球新報社、1979年。ISBN 4930706009。 改訂版: 1985年/改訂版: 那覇出版社、2002年
- 大田昌秀(編著)『総史沖縄戦 写真記録』岩波書店、1982年。ISBN 4000012223。 増刷版: 1994年
- 沖縄タイムス社(編)『鉄の暴風 沖縄戦記』(第10版)沖縄タイムス社、1993年。 『鉄の暴風 現地人による沖縄戦記』 朝日新聞社、1950年8月を改題
- 西部邁「オキナワ 恥の捨て所なのか」『保守の辞典』幻戯書房、2013年、209-215頁。ISBN 978-4-86488-022-0。
- ジョージ・ファイファー(著)・小城正(訳)『天王山―沖縄戦と原子爆弾』 上下、早川書房、1995年。ISBN 978-4152079206。
- 防衛研修所戦史室(編)『沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年。
- 防衛研修所戦史室(編)『沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年。
- 読谷村史編集委員会(編)『読谷村史 第5巻 資料編4―戦時記録』 上巻・下巻、読谷村、2002年。
- Roy E. Appleman, James M. Burns, Russell A. Gugeler, John Stevens (1947). OKINAWA: The Last Battle. United States Army in World War II: The War in the Pacific. Washington DC: United States Army Center of Military History
テーマ史・研究書
- 安仁屋政昭『沖縄戦学習のために』平和文化、1997年、ISBN 4938585723
- 安仁屋政昭、徳武敏夫(共著)『沖縄戦と教科書』草の根出版会、2000年、ISBN 4876481539
- 石原昌家ほか『争点・沖縄戦の記憶』社会評論社、2002年、ISBN 4784514201
- 上原正稔『沖縄戦トップシークレット』沖縄タイムス社、1995年
- 大江健三郎『沖縄ノート』岩波書店〈岩波新書 青版 762〉、1970年、ISBN 4004150280
- 大城将保『沖縄戦 民衆の眼でとらえる〈戦争〉』(改訂版)、高文研、1988年、ISBN 487498097X
- 大田昌秀『血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』那覇出版社、2000年、ISBN 4890951296
- 大田昌秀『有事法制は、怖い 沖縄戦が語るその実態』琉球新報社、2002年、ISBN 4897420482
- 大田昌秀『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店、2004年、ISBN 400022381X
- 影山昇『男たちの「ひめゆりの塔」 沖縄戦―知られざる悲劇の学徒たち』大空社出版部、1997年、ISBN 4756804373
- 曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』ワック、2006年、ISBN 4898315453 - 『ある神話の背景』(文藝春秋、1973年)の改訂版
- 田村洋三『沖縄の島守―内務官僚かく戦えり』 中央公論新社、2003年、ISBN 4120033902/中公文庫、2006年、ISBN 4122047145
- 戸部良一ほか『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』中央公論新社〈中公文庫〉、1991年。ISBN 4-12-201833-1。
- 野里洋『汚名―第二十六代沖縄県知事泉守紀』講談社、1993年、ISBN 4062067153
- 野村正起『船工26の沖縄戦』亜細亜書房、1998年、ISBN 4947727098
- 野村正起『沖縄戦遺族の声』叢文社、2002年、ISBN 4794704151
- 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年、ISBN 4272520679
- ジェームス・H・ハラス(著)猿渡青児(訳)『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』光人社、2007年、ISBN 4769813457
- 藤原彰(編著)『沖縄戦 国土が戦場になったとき』青木書店、2001年。ISBN 4250201392。
- 宮良作『日本軍と戦争マラリア―沖縄戦の記録』新日本出版社、2004年、ISBN 4406030417
- 吉田健正『沖縄戦米兵は何を見たか 50年後の証言』彩流社、1996年、ISBN 4882024071
体験記
- 安里要江、大城将保(共著)『沖縄戦ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった…』高文研、1995年、ISBN 4874981550
- 親里千津子『ちーちゃんの沖縄戦』ニライ社、1994年、ISBN 4931314104
- 小橋川千鶴子『黒砂糖のかけら チーコの沖縄戦日記』耕文社、2002年、ISBN 4906456286
- 神直道『沖縄かくて潰滅す』原書房、1967年
- 創価学会青年平和会議編『命(ぬち)どぅ宝 沖縄戦・痛恨の記憶』第三文明社〈レグルス文庫〉、2003年、ISBN 4476012442
- 武田英子『いくさ世(ゆー)にいのち支えて 沖縄戦を生きた助産婦の記録』ドメス出版、1992年、ISBN 4810703436
- 富村順一『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』柘植書房、1995年、ISBN 4806803588
- 仲田精昌『島の風景 少年の心に記録されたもうひとつの〈沖縄戦〉』晩声社、1999年、ISBN 4891882891
- 船越義彰『狂った季節 戦場彷徨、そして――。』ニライ社、1998年、ISBN 4931314287
- 真鍋和子『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ』講談社、2004年、ISBN 4062123584
- 宮城晴美『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』高文研、2000年、ISBN 4874982492
- 宮城巳知子『ずいせん学徒の沖縄戦 最前線へ送られた女学生の手記』ニライ社、2002年、ISBN 4931314538
- 八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』読売新聞社、1972年
- 松木謙治郎『阪神タイガース 松木一等兵の沖縄捕虜記』恒文社、1974年
- 山城高常『戦場のトンボ 少年がみた沖縄戦』ニライ社、1995年、ISBN 4931314163
- 吉田久一『八重山戦日記』ニライ社、1999年、ISBN 4931314325
- 歴史を拓く女の会(編)『オキナワいくさ世のうないたち いたみの共有』ドメス出版、2004年、ISBN 4810706273
- ユージーン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年8月、ISBN 978-4-06-159885-0
その他
- 大田昌秀(監修)『沖縄戦 写真集』那覇出版社、1990年 [3]
- ひめゆり平和祈念資料館『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』(新版)、2004年
- 成沢未来『沖縄哀歌』里文出版、2007年
- Cressman, Robert (1999). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. Annapolis MD: Naval Institute Press
- 山田もと『首里の町がきえる日』金の星社、1977年 ISBN 9784323005645
関連項目
外部リンク
- 沖縄戦関係資料閲覧室 - 内閣府沖縄振興局
- 写真が語る沖縄 - 米国政府占領初期写真資料(住民) - 沖縄県公文書館
- 沖縄県平和祈念資料館
- 沖縄平和学習アーカイブ
- 沖縄戦史
- 沖縄気象台の沿革と沖縄戦 - 沖縄気象台元職員個人サイト。戦時中の気象データなど
- 沖縄戦の記憶・本館・沖縄戦の記憶・分館
- Battle of Okinawa Battle of Okinawa - グローバルセキュリティー(サイト第三者による和訳として「沖縄戦の経過について」)
- WW2DB: 沖縄戦
- Okinawa: The American Years, 1945-1972 - アメリカの外交史専門家Nicholas Evan Sarantakesが収集・公開している米軍の沖縄上陸から沖縄の日本復帰までの史料
- 沖縄戦の悲劇