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* 宗教面に関しては「悪魔(=神道・仏教)とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が宣教師たちを宿泊させている(宣教師に高山重友を説得させるためではあったが)。 |
* 宗教面に関しては「悪魔(=神道・仏教)とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が宣教師たちを宿泊させている(宣教師に高山重友を説得させるためではあったが)。 |
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* 西近江で[[一向一揆]]と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を[[西教寺]]に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。 |
* 西近江で[[一向一揆]]と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を[[西教寺]]に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。 |
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*光秀は大力の持ち主だった。馬上で太刀打ちとなったとき、光秀は相手の馬の鞍橋を引いて切って捨てた。また、家臣が敵に組みしかれているのを見た光秀は、敵の兜の下部をつかんで引き倒したという。<ref>『歴史群像シリーズ 俊英 明智光秀』 p.74 学研 2002年</ref> |
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* フロイスは本能寺の変のあと、[[摂津国]]に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている{{Efn|「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」<ref>完訳フロイス日本史3・第58章(第2部43章)</ref>}}。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる{{sfn|高柳|1958|pp=251-252}}。光秀は、近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断である。そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである<ref>鈴木眞哉、藤本正行『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』 洋泉社新書y 2006年</ref>。しかし、4日から8日まで5日間も安土にとどまり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である<ref name="owadaakechi" />。 |
* フロイスは本能寺の変のあと、[[摂津国]]に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている{{Efn|「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」<ref>完訳フロイス日本史3・第58章(第2部43章)</ref>}}。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる{{sfn|高柳|1958|pp=251-252}}。光秀は、近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断である。そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである<ref>鈴木眞哉、藤本正行『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』 洋泉社新書y 2006年</ref>。しかし、4日から8日まで5日間も安土にとどまり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である<ref name="owadaakechi" />。 |
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* 光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったためなりふりかまわぬ行動をしている。特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状「覚」が「細川家記」収載「明智光秀公家譜覚書」にある{{sfn|高柳|1958|pp=243-244}}。しかしながら、この「覚」について、書状に付足部分があり、光秀の花押が分類不能であることから立花京子は不審文書と結論づけている<ref>『明智光秀 資料で読む戦国史』藤田達生、福島克彦編 p.189 八木書店 2015年</ref>。また、この書状は「覚」の文書形式に則っておらず、対外的文書に光秀が文書形式を逸脱した書状を出すのか疑問とされ、この書状の信憑性を疑う意見もある<ref>『明智光秀の正体』咲村庵 p.59 ブイツーソリューション 2017年</ref>。 |
* 光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったためなりふりかまわぬ行動をしている。特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状「覚」が「細川家記」収載「明智光秀公家譜覚書」にある{{sfn|高柳|1958|pp=243-244}}。しかしながら、この「覚」について、書状に付足部分があり、光秀の花押が分類不能であることから立花京子は不審文書と結論づけている<ref>『明智光秀 資料で読む戦国史』藤田達生、福島克彦編 p.189 八木書店 2015年</ref>。また、この書状は「覚」の文書形式に則っておらず、対外的文書に光秀が文書形式を逸脱した書状を出すのか疑問とされ、この書状の信憑性を疑う意見もある<ref>『明智光秀の正体』咲村庵 p.59 ブイツーソリューション 2017年</ref>。 |
2018年1月31日 (水) 01:52時点における版
明智光秀像(本徳寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 享禄元年(1528年)[異説あり] [注釈 1][注釈 2]又は天文9年(1540年)[3][注釈 3][4] |
死没 | 天正10年6月13日(1582年7月2日) |
改名 | 幼名:彦太郎[5]、明智光秀→惟任光秀 |
別名 |
通称:十兵衛、惟任日向守 号:咲庵 渾名:キンカ頭[6][注釈 4]、キンク天顋[7][注釈 5][8]、三日天下様[2] |
戒名 |
秀岳院宗光禅定門 前日洲条鉄光秀居士[9] 長存寺殿明窓玄智大禅定門[10] |
墓所 |
谷性寺(京都府亀岡市) 西教寺(滋賀県大津市) 高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町) |
官位 | 従五位下日向守 |
主君 |
斎藤道三→朝倉義景→足利義昭→織田信長 もしくは足利義輝→足利義昭→織田信長 |
氏族 | 源姓土岐氏流明智氏(惟任賜姓) |
父母 |
父:明智光綱[異説は系譜を参照] 母:お牧の方 養父:明智光安又は明智頼明 |
兄弟 | 光秀、信教[異説あり] 、進士貞連(作左衛門)[異説あり] 、康秀[異説は系譜を参照]、定明、定衡 |
妻 | 正室:煕子(妻木範煕女)[注釈 6] |
子 | 光慶、珠(細川忠興正室)、自然 ほか系譜を参照 |
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも[11]致命傷を受けて自害したともされる[12]。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。
光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう[注釈 7]。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。
領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。
生涯
織田家仕官以前
清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれ、父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明などに分かれるが、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている[13]。土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め数十家の支族を輩出した[14]。生年は『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされるが[注釈 1]、他には『細川家記』の大永6年(1526年)生まれ説、『当代記』の付記による永正13年(1516年)生まれ説、天文9年(1540年)生まれ説[15]がある。場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる[注釈 8]。 青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃の守護・土岐氏の一族[注釈 9] [注釈 10]で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされるが、明智家は天文21年(1552年)に美濃守護の土岐頼芸が追放された際の争乱で滅亡したという説もある[17]。その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えた[注釈 9]と書かれた文献もあるが、米田文書によると、永禄の変直後の時期に、光秀は浅井家の侵攻を受けていたと考えられる高島田中城で籠城していたことが判明し、光秀が朝倉家に仕えていたとする説に疑問が出ている[18]。
永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺されると、その弟・義昭が姉婿である若狭国守護・武田義統のもとに逃れた。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが美濃平定前であり、義昭側は永禄9年(1566年)4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破る形で8月29日に出兵したことで流れた[注釈 11]。義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし義昭が上洛を期待しても義景は動かず、そこで義昭は永禄11年(1568年)6月23日(『細川家記』)再度斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した[注釈 12]。 光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている[21]。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される[22]。
小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする[21]。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる[注釈 13][14]。 なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことである[24]。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四識家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている[14]。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある[25]。これとともに、当時の光秀の交友関係から信長に仕える前の明智光秀は室町幕府奉公衆だったと小林正信は主張している[26]。
本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があるなか共に信長との交渉に動いたので、当時には何らかの上下関係があったと見てよい[14]。信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬(うまのり)の身分であり[20]、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している[27][注釈 14]。
両属から織田家直臣へ
その後、義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年(1568年)9月26日の義昭の上洛に加わる。永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲するが、防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。同年4月頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田氏支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う[29]。同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。続いて3月1日、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる[30]。
元亀元年(1570年)4月28日、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000を主力に、秀吉と共に殿を務め防戦に成功する[注釈 15]。4月30日には丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(東寺百合文書)。同年9月の志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した[32]。
元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍し摂津国に出陣した。同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)[33]武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、まもなく坂本城の築城にとりかかる。柴辻俊六は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる[34]。同年12月頃に義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる[33]。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍するが、まだ義昭方とする史料がある[注釈 16]。
元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する[36]。同年7月にまたも義昭が槇島城で挙兵し光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えたものも多い。同年、坂本城が完成し居城とした。天正元年(1573年)7月に村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している[37][38]。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで秀吉と滝川一益と共に越前の占領行政を担当し[39]、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ[40]。 天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官し、惟任日向守となる。
丹波攻略と畿内方面軍の成立
城主となった光秀は、天正3年(1575年)の高屋城の戦い・長篠の戦い[41]・越前一向一揆殲滅戦に参加する。そして丹波国攻略を任される。丹波国は山続きでその間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であり、同国人は親義昭派で以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた[42]。まず黒井城を包囲するが、八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。
天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、5月5日に逆襲を受け司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ危ういところを信長が来援し助かる。だが23日に過労で重病となり生死をさまようが7月には回復する。しかし11月7日には、正室の煕子が坂本城で病死する[43]。
天正5年(1577年)、雑賀攻めに従軍する。同年10月、信貴山城の戦いに参加し城を落とす。同月に丹波攻めを再開するが長期戦となる。まず亀山城を落とし拠点とする。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。
天正6年(1578年)4月29日には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、6月に神吉城攻めに加わる。10月下旬、信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。
天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入り、2月には包囲を続けていた八上城が落城。8月9日、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した[44]。信長は感状を出し褒め称え、この功績で、天正8年(1580年)に丹波一国(約29万石)を加増され計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる[45]。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して、福智山城に改名した。黒井城の増築をして家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。
また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する[46]。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」」[2]と名付けている。
天正9年(1581年)には、京都御馬揃えの運営を任された。同年6月2日、織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)[注釈 17]、信長を崇敬している様子がある[48]。
天正10年(1582年)3月5日、武田氏との最終戦である甲州征伐では信長に従軍する。先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で今回は見届けるものであり、4月21日に帰還する。
本能寺の変
天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役だった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日(6月21日)早朝に出陣するが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという[49]。『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠を、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちと共に討ち取った。また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担との疑いで大坂で神戸信孝らに討たれた。
山崎の戦い
光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆[注釈 18]が瀬田橋と居城を焼いて甲賀郡に退転したため仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り6月4日までに近江をほぼ平定し、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えたりした。6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持をまかせている。京都市内が騒動し混乱を憂いての事と思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と謀反としている[50]。光秀はこの後、6月8日に安土を発って9日に昇殿して朝廷に銀500枚や、五山や大徳寺に銀各100枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った[21][51]。
だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた[52]。また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に抑えられた事が大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の6月13日(7月2日)、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。
決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千(池田恒興4,000、中川清秀2,500、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000。但し4万の説もあり)に対し明智軍1万7千(1万6千から1万8千の説もあり、さらに1万余りの説もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。
当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている[53]。また他には、秀吉側3万5千に対し、各城にも兵を残したため実数1万程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある[21]。また別の見方では、本来、明智勢は小泉川の後方に陣取り、天王山と淀川の隘路を進撃する細くなった秀吉軍を包み込んで包囲殲滅できるはずが、淀川沿いに指向して決戦を挑む秀吉軍の勢いを止めることができず、光秀は敗北したとされる[54]。
同日深夜、坂本城を目指して落ち延びる途中[注釈 19]、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負った光秀は自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという[12][注釈 20]。 光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた(兼見卿記)[11]。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀が十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されて最期と悟った光秀は首を守護を表す毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという[27]。
安土城で留守を守っていた明智秀満は、14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが多くが逃亡し籠城戦も無理だと判断して、光秀と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した。
また、光秀の首は丹波亀山の谷性寺まで持ち帰られたともいわれ、谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に供された首級は3つあったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという[信頼性要検証]。
人物・評価
- 従来の説では光秀は『天台座主記』[55]に「光秀縷々諌を上りて云う」とあるように、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密だったとされてきた。だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、石山戦争などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦無く没収(門跡領も含めて)しているため、宗教に対して必ずしも保守的ではなかったとする見方[56]があった。これを補強して従来の諌止説を覆したのが、叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの雄琴の土豪・和田秀純宛の光秀書状で、比叡山に一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実かつ中心的な実行者だと判明した[21]。
- 高柳光寿は、光秀は従来から言われるような保守主義者ではなく合理主義者であり、だからこそ信長に重用されて信任されたとしている[57]。
- 主君・織田信長を討った行為については、近代に入るまでは“逆賊”としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君・徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。
- 本能寺の変後、光秀と関係の深い長宗我部元親・斎藤利堯・姉小路頼綱・一色義定・武田元明・京極高次等が呼応する形で勢力を拡大している(他に後北条氏・上杉氏・紀伊や伊賀の国人衆等)。
- 『フロイス日本史』中には、
- 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
- 「裏切りや密会を好む」
- 「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
- 織田家一番筆頭宿老・後見役である林秀貞や織田軍団筆頭家老佐久間信盛、子の佐久間信栄父子も同時に急な追放処分となった。光秀の讒言であったとの説がある[58]。
- 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
- 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
- 「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
- 「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」
- 等の光秀評がある。鈴木眞哉・藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、『フロイス日本史』での信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。
- 宗教面に関しては「悪魔(=神道・仏教)とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が宣教師たちを宿泊させている(宣教師に高山重友を説得させるためではあったが)。
- 西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。
- 光秀は大力の持ち主だった。馬上で太刀打ちとなったとき、光秀は相手の馬の鞍橋を引いて切って捨てた。また、家臣が敵に組みしかれているのを見た光秀は、敵の兜の下部をつかんで引き倒したという。[59]
- フロイスは本能寺の変のあと、摂津国に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている[注釈 21]。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる[61]。光秀は、近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断である。そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである[62]。しかし、4日から8日まで5日間も安土にとどまり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である[21]。
- 光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったためなりふりかまわぬ行動をしている。特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状「覚」が「細川家記」収載「明智光秀公家譜覚書」にある[63]。しかしながら、この「覚」について、書状に付足部分があり、光秀の花押が分類不能であることから立花京子は不審文書と結論づけている[64]。また、この書状は「覚」の文書形式に則っておらず、対外的文書に光秀が文書形式を逸脱した書状を出すのか疑問とされ、この書状の信憑性を疑う意見もある[65]。
- 諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人であった。
- 光秀の連歌会参加の初見は永禄11年(1568年)だが詠んだ句は6句と少なくまだ未熟だった。しかし勉強したのか2年後の元亀元年(1570年)には8句を詠み、その後の天正2年(1574年)には連句会を初主催して発句と脇句を詠み、それを含め計9回も主催した。他の催した連歌会の参加は11回にも及ぶ。また当時の連歌の第一人者・里村紹巴とその門派たちと交流し、天正9年(1581年)には細川藤孝親子の招きで紹巴たちと9月8日に出発して天橋立に遊び、12日に連歌会を行っている[66]。
- 信長は「許し茶湯」を家臣管理に使用し茶道具を下付された家臣に茶会主催を許可し『信長公記』では天正6年(1578年)正月に始められ許可者12名が総覧されたが、光秀は選ばれている[67]。この時、八角釜を拝領し、津田宗及に師事し、12回も茶会を催している[68]。初回は慣れないのか、主催の亭主の行い事をすべて津田宗及が代役している[69]。
- 内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
- 稲葉一鉄のもとから、斎藤利三を高禄をもって引き抜いた。さらに那波直治も引き抜こうとして、訴訟沙汰まで起こしていた。光秀の人材登用にかける思い入れの深さと姿勢が見られ、光秀の経営の真骨頂と評価される[73]。
江戸期の編纂書・軍記や伝承不明の説話
- 光秀は享禄元年(1528年)に父は明智光隆、母は武田義統の妹の間に美濃多羅城で生まれたと言われている(『明智系図』[注釈 23])。
- 20歳位の頃、芥川で光秀は大黒天の像を拾った。それを見た家臣が「大黒を拾えば1,000人の頭になれるそうです」と述べて喜んだが、光秀は「ならばこれは必要ない」と捨ててしまった。驚いた家臣が尋ねると、「わしは1,000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる」と述べて大志があることを示したという(山鹿素行『山鹿語類』)。
- 『明智軍記』によれば、弘治2年(1556年)に美濃を出て越前大野に行き、いったん上洛し妻子を寺に預けてから永禄3年(1560年)から2年間で奥州盛岡から薩摩まで日本全国を回り各地の城構えや民政を見聞したとする。ただし、その内容は吉田郡山城にいた毛利氏が安芸広島城にいたり、永禄3年(1560年)5月に桶狭間で死んだ今川義元が年末に生存していたり、伊達政宗が当時無関係の陸奥大崎にいたり、でたらめである[13]。
- 流浪時代に毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つ狼のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったという(『太閤記』上和編)。
- 永禄5年(1562年)に加賀で浪人していた光秀は一向一揆と戦う朝倉景行の軍師として参戦した。一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝した。景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めたという(小瀬甫庵『太閤記』)。
- 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
- 「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(『明智軍記』)。
- ある合戦で対陣中の光秀の下に、塩瀬三右衛門という者が陣中見舞いとして光秀の好物を持参した。光秀が喜んで食べていると敵軍の鬨の声が聞こえてきたため、光秀は慌てながら残りを急いで食べると指揮を執った。あまりの急ぎぶりに光秀の口周りは汚れたままで、これを見た家臣は「殿(光秀)ほどの御方でも心遅れされるとは無様なものよ」と呆れたが、心ある者は「名将となる者は軍のことのみを心がけており、寝食など忘れるもの。殿は食事などこだわらず、軍に心を委ねている証である」と述べたという(太閤真顕記)。
- 他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。
- 愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで三度おみくじを引いたと伝えられている。ただし、神籤を三度引いて三角に置き、銭を三枚放り投げて一枚だけ表裏異なる位置の神籤を神意として読むという擲銭法による占いは当時は一般的に行われていたものであった。
- 本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという。(豊内記)。
- 『信長公記』や秀吉の書簡、日記などの文書史料には無い、光秀を刺したという百姓の名前が江戸時代の随筆に2名(中村長兵衛[75]、小栗栖の作右衛門[76])登場するが信憑性はない。
辞世
光秀の辞世とされる偈や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものである。
- 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
- 「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」[77]
伝承史跡
- 明智藪
- 胴塚:明智藪から街道筋を坂本城の方向へ2km北上した京都市山科区勧修寺御所内町にあり光秀の胴体部分を埋葬したと伝わる。江戸時代に広まった『明智軍記』の鑓で刺され深手を負った光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、明智藪から近距離に後世に里人が作った供養塔だと評されている[78]。
- 首塚
- 三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟・三好長円が現在の大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、昭和18年(1943年)頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。
- 桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩は明治時代ゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという[80][信頼性要検証]。
- 光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。
- 本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。
光秀の謎
出自
光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する。
- 進士信周の次男(『明智一族宮城家相伝系図書』)[13]
- 美濃の明智から信長への使者御門重兵衛を気に入り明智を名乗らせ仕えさせた(『塩尻』[注釈 26])[13]
- 若狭国小浜の刀鍛冶・藤原冬広の次男(『若州観光跡録』)[13]
- 土岐元頼の息子(『稿本美濃誌』[注釈 27])
- 進士晴舎の息子[81]
愛宕百韻の真相
愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。
光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、以仁王の挙兵、承久の乱、元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。
しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただではおかないはずである)。また、愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料[82]が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。
なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。
本能寺の変の原因
本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。
- 怨恨説
- 主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。
- 信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとしている(湯浅常山『常山紀談』)[注釈 28]。
- 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
- 天正7年(1569年)6月、丹波八上城に自身の母親を人質として出して、本目の城(神尾山城か)に招いた八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われた秀治は殺害され、秀尚以下残った者は磔にされた。これに激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害してしまった。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる[83]。
しかしこれは他の史料とは一致せず創作である[注釈 29]。『信長公記』では光秀は八上城を前年より一年間包囲して責め立てて兵糧攻めで丹波兵を餓死させ、諦めて最後の出撃に出た敵を悉く討ち取ったとある。捕虜にした波多野兄弟3人は同年6月4日に安土の慈恩寺(現在の浄厳院の付近)の町外れで磔にされたが、すでに観念して神妙な最後を遂げたとある[84]。 - 天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応した。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されている。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説、信長自らがわざわざ鷹狩の途中に立寄って材料の魚鳥を吟味したが、肉が腐っていると草履で踏み散らし、光秀が新たに用意していたところ「備中へ出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしている(『常山紀談』)。
- 中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。(明智軍記)
- 甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。
- フロイスは、「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末光秀を1、2度足蹴にした」と記している(『フロイス日本史』)。これを元に桑田忠親は著書『明智光秀』で、面目を失ったためと「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
- 野望説
- 光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。
- 恐怖心説
- 長年信長に仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられる。
- もしくは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
- 理想相違説
- 信長を伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(一向宗勢力、伊賀の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた室町幕府を再興し[85]、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説[注釈 30]。
- この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。
- なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多い。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。
- 将軍指令説 / 室町幕府再興説
- 光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説[86]。光秀が義昭を奉じるのは大義名分があるが、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在しない。ただし、藤田達生は紀州の武将・土橋重治に充てた光秀直筆の書状から、光秀が本能寺の変ののちに義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことを指摘している[87][88]。上記の理想相違説に通じる部分がある。
- 朝廷説
- 「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
- 近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
- 朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。
- 一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっているが、井沢元彦は朝廷あるいは公家が光秀謀叛に大きく関与していたのではないかと推測している[89]。
- 四国説
- 比較的新しい説とされるが、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。藤田達生から光秀・元親ラインと羽柴秀吉・三好康長ラインの対立の結果だと主張されている[90]。
- イエズス会説
- 信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説[91]。この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。
- この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。キリシタン大名との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。
- 諸将黒幕説
- 織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や豊臣秀吉が主に上がる。
- 徳川家康黒幕説
- 家康の場合、信長の命により、長男・信康と正室・築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されている(松平信康#信康自刃事件についてを参照)。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。
- 豊臣秀吉黒幕説
- 秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。詳細は豊臣秀吉#本能寺の変の黒幕説を参照。
- 徳川家康共謀説
- 同じく家康との関係を原因とする説として、「信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった」という「光秀家康共謀説」があり、日本テレビ『時空警察』や、『日立 世界・ふしぎ発見!』[92]が採り上げている。「信長は、本能寺に家康を呼び寄せ殺害する、という家康潰しの計画を企て、その実行を光秀に命じたが、光秀は信長を裏切り、家康と共謀。光秀と家康は、『信長の命令による家康討ち』の計画を利用し、『信長討ち』にすり替えた」というものである。信長は光秀に全幅の信頼をよせており、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないと考えていたため、本能寺での無警戒ぶりが、合点がいくというのである。また、家康が「安土招請」「堺見物」に不思議なまでに無警戒だった理由も合点がいくという主張である。「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュというものである。
- この説の根拠には、本能寺の変に参加した武士が書き残した『本城惣右衛門覚書』、フロイス『日本史』や、アビラ・ヒロン『日本王国記』の記述がある。なお、『日立 世界・ふしぎ発見!』は、家康と光秀をつなぐ役割を担ったのは木俣守勝だとしている。
- 羽柴秀吉実行犯説
- 本能寺の変後の秀吉側の手際の良さと明智側の無策ぶり、秀吉側の変の関係者と目される者が短期間で相次いで死亡したことから、信長暗殺の実行犯は光秀ではなく秀吉であるとする仮説。井上慶雪、今木健之などが主張している[93][94]。この説は、本能寺の変が起こる前に、秀吉は毛利と密約を結んで山陽道を引き返し、暗殺部隊を京に送り信長父子を殺害し、事件を聞きつけて本能寺に急行した明智光秀を謀叛人にしたてあげ、さらに事が成った後に秀吉が秘密を知る者を葬ったという推論である。
- この説によると、本能寺の変後に連続死した人物は、 誠仁親王、丹羽長秀、蒲生賢秀、秀吉の家臣・杉原家次があげられ、なかでも家次は変後、旧明智領の福知山城主となったがその2年後に変死し、その子孫は光秀のために御霊神社(怨みを持って死んだり非業の死を遂げた者の祟りをしずめるための神社)を創建したとある。
- 石山本願寺と羽柴秀吉実行犯説
- 本能寺の変当日、織田信忠が殺害された二条御所で、公家の勧修寺晴豊は知り合いの井上という人物に会っているのだが、明智家には井上という家臣がいない。また、勧修寺晴豊は明智家の者との接触はなく、本願寺の者と頻繁に会っていることから井上という人物は本願寺の者(井上専正)と推測されている。そして、同じく二条御所で勧修寺晴豊は羽柴秀吉の家臣と見られる者(川勝秀氏)と行動を共にしていることから、本願寺兵と羽柴兵が信長父子を襲撃したとする説[95]。変に先立って、正親町天皇は本願寺に勅書を送り、村井貞勝に勅使を遣わしているが、彼らに伝えられた勅命は信長討伐であり、本願寺と小西行長父子が関わるものだったと考えられている。本能寺の変当日には、村井貞勝配下の死者は村井貞勝の弟、子と外一名のみであり、京都所司代の兵は出動しなかったと考えられる。また、兼見卿記別本では、信長父子を討った者らは大津を通って下向したと書かれているが、変の当日、光秀は大津に行っていないと見られる。
南光坊天海説
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。
異説の根拠として、
- 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋[注釈 31]が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。
- 日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある[注釈 32]。
- 徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測。
- 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。
- 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
- 童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説[注釈 33]。
- 天海が亡くなったときの布施帳(寛永寺蔵)によると、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海会津出身説によると天海にゆかりがあるといわれる龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった[98]。
- 『東叡山開山慈眼大師縁起』によると、家康と天海が初めて対面したときには、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張ったとある。
- 比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある[99]。
- 本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている[100]。
- 山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。
- 徳川家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾庄兵衛の縁者の三沢局が採用されていること。
しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。
- 日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない[注釈 34]。
- 『東叡山開山慈眼大師縁起』では天海は会津出身とされており、実家とされる船木氏[101]も桔梗紋である。だが一方、「天海の素性を弟子達が尋ねたところ「出身地も俗名も生年も忘れてしまってから久しい。私は仏門に入った人間だ。俗人であったときのことなど、お前たちが知ったところで何の意味もない」と答えられたため師の氏素性は誰も知らない」と『東叡山開山慈眼大師縁起』に書かれている。
- 天海が光秀であるとすると、(享禄元年(1528年)出生とした場合)数え116歳で没したことになる(天海側の資料でみると、天海は100歳以上の長命であったとはされるものの、比較的有力な説に、数えで108歳没というものがある)。だが、一般に光秀の生年とされるものは確たる根拠のあるものではなく、高柳光寿は光秀の生年はわからないと結論づけている[102]ので、光秀の年齢についてはこの場合障害とはならない。
- 諱については、秀忠の秀の字は結城秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものである。また、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった以心崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。
系譜
明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。
発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)とされる。
系図
『続群書類従』所収の「土岐系図」による。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。
- 『系図纂要』所収の「明智系図」では土岐頼清の系譜とされている。頼清の嫡男である頼康の子・頼兼を明智氏初代とする。その7代目の子孫が明智光継であり、その子を光綱、そしてその子が光秀とある。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では頼清の子・頼兼を明智氏初代とし、頼重は頼兼の養嗣子であったとする。また頼弘の子が頼典となっており、頼典は後に光継と改名したという。欠落した頼定と頼尚は、それぞれ頼典の弟とその長男となっており、頼明は頼尚の弟とされる。
父母兄弟
- 父親は名を光綱・光隆・光国と諸説ある。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。『明智物語』[103]では、光秀の養父は明智頼明とある。
- 母親は若狭武田氏の出身で名をお牧の方と伝わる。『総見記』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実かは不明。
- 光秀に兄弟がいたとするものは、『鈴木叢書』収録の「明智系図」によると、次弟・信教は後の筒井順慶、三弟・康秀は三宅左馬助と号し、後に左馬助を称したという。いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。『明智物語』では、光秀には定明、定衡の義兄がいたとある。
- 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では母を光綱の妹とし、実父を山岸信周(進士信周)としている。熊本県菊池市の安国寺蔵「土岐系図」でも、光秀を信周の四男としている。
- 『若州観跡録』では、若狭国の刀鍛冶・冬広の次男としている。
- 『明智光秀の乱』(著者:小林正信)では、明智光秀の前半生がわからないのは名前を改姓した事によるものだとして、明智光秀になり得る者を室町幕府の奉公衆の中にいる人物と断定し、僧体から還俗した進士知法師に注目した。進士氏は鎌倉時代より続く名門であり包丁式進士流を伝える家柄で御膳奉行を務めることでも知られている。永禄の変で死んだ足利義輝の側室で小侍従の父が進士晴舎であった。永禄の変で殉死した筈の進士晴舎の嫡子である進士藤延こそが明智光秀になった人物だと特定し、明智光秀の家臣で進士貞連は実弟で進士氏の家督を継いだとした。永禄の変で死んだ筈の妹の小侍従は明智光秀の妻である妻木氏(煕子)なり、小侍従の身籠った子供も明智光慶になったとしている。
妻室
妻は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)が有名。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある[104]。
子女
子女については俗説が非常に多い。
- 『明智軍記』では3男4女がいたとする。
- 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとする。
- 大阪府岸和田市にある本徳寺の開基とする南国梵桂は、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。
- 宣教師のルイス・フロイスは光秀の子息・子女のことを非常に美しく優雅でヨーロッパの王族を思わせるようだったと伝えている。
- 光慶は『連歌目録』から、自然は津田宗久の茶会記で実在が確認される。
縁戚
- 叔父叔母
- 『明智軍記』では光安、光久、光廉の三人の叔父と、その家族の名がある。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて叔父・光広、叔母に岸信周の室、岸信周の後室、斎藤道三の室・小見の方[注釈 42]など五女があったという。
- 従兄弟
- 子孫
- 織田昌澄 - 光秀の外孫にあたり、大坂の役で豊臣方に加わるが助命され、子孫は旗本となる
- 細川忠隆 - 細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。細川隆元・細川隆一郎・細川珠生は子孫。
- 細川忠利 - 細川忠興の三男。熊本藩初代藩主。第8代で男子なく分家より養子を迎えたために熊本藩主家における光秀の血は途切れている。
その他
- 伝承、自称または創作等、落胤説・明智氏の子孫・系統不明の子孫
- 坂本龍馬 - 坂本城に由来するという坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はなく、子孫説を広めたのは後世の作家の創作。
- 明智ハナエリカ - 明智の末裔(2011年現在)歌手。母・イタリア系メキシコ人。NHKイタリア語講座に出演。2004年アイフルのCMソング「恋の技を決めてあなたを振り向かせる」を発売。
- 明智滝朗、明智憲三郎 - 残党狩りを逃れた光秀の子・於寉丸(おづるまる)の子孫との伝承を持つ。主な著書に前者は『光秀行状記』、後者は『本能寺の変 431年目の真実』。
- クリス・ペプラーとALAN J兄弟 - 母方の先祖が土岐頼勝(土岐頼次の長男)と自称している。頼勝には、明智光秀の実子という落胤伝説がある[105]。
家臣
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祭礼・イベント
- 亀岡光秀まつり
- 光秀公正辰祭(御霊神社 (福知山市))
- 福知山ドッコイセ祭り
明智光秀を主題とした作品
- 小説
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- 『幽鬼』:1968年、井上靖著 (短編集『楼蘭』所収、新潮社文庫)
- 『国盗り物語』:1971年、司馬遼太郎著(新潮社文庫)
- 『逆軍の旗』:1976年、藤沢周平著(青樹社、文春文庫)
- 『桔梗の旗風』:1983年 南条範夫著(文藝春秋)
- 『明智光秀』:1988年、徳永真一郎著(PHP研究所、ISBN 4-569-56405-4)
- 『鬼と人と 信長と光秀』:1989年、堺屋太一著(PHP研究所)
- 『明智光秀』:1991年、早乙女貢著(文藝春秋、ISBN 4-16-723024-0)
- 『明智光秀 本能寺の変』:1991年、浜野卓也著(講談社火の鳥伝記文庫 ISBN 4-06-147578-9)
- 『反・太閤記 — 光秀覇王伝』:1991年、桐野作人著 (学習研究社)
- 『光秀の十二日』:1993年、羽山信樹著(新人物往来社 ISBN 9784404020420)
- 『明智光秀の生涯―歴史随想』:1996年、二階堂省著(近代文芸社)
- 『湖影』:1998年、中島道子著(KTC中央出版 ISBN 978-4877580797)
- 『本能寺』:2004年、池宮彰一郎著(角川書店 ISBN 978-4043687015)
- 『是非に及ばず』:2006年、山口敏太郎 著 (青林堂、ISBN 4-7926-0386-2)
- 『明智光秀物語 浅き夢見し』:2006年、高橋和島 著 (廣済堂出版 ISBN 978-4331612293)
- 『天眼 ─ 光秀風水綺譚』:2007年、戸矢学著(河出書房新社 ISBN 978-4309018348)
- 『覇王の番人』:2008年、真保裕一著 (講談社、ISBN 4-7926-0393-5)
- 『明智軍戦記』:2010年、神宮寺元著 (学研プラス)
- 『大逆本能寺』:2010年、円堂 晃著(角川書店 ISBN 978-4890632640)
- 『明智光秀転生―逆賊から江戸幕府黒幕へ』:2011年、伊牟田比呂多著 (海鳥社 ISBN 978-4874158210)
- 『光秀の定理』:2013年、垣根涼介著 (角川書店 ISBN 978-4041105221)
- 『本能寺の変 つくられた謀反人 光秀』:2014年、岡野正昭著(幻冬舎、ISBN 978-4-344-97127-1)
- 『明智大戦記』:2015年、竹中亮著(徳間書店 ISBN 978-4198939816)
- 映画
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- 『旧劇 太功記十段目 尼ヶ崎の段』(1908年、M・パテー商会)
- 『敵は本能寺にあり』(1960年、松竹、演:八代目松本幸四郎)[注釈 43]
- テレビドラマ
- 漫画
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- もとむらえり『愛しの焔 〜ゆめまぼろしのごとく〜』(2007年 - FlexComixフレア)
- 歌謡曲
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- 浜北弘二『明智光秀』
脚注
注釈
- ^ a b 『明智軍記』では没年が天正10年(1582年)6月14日の享年55、『細川家文書』では生年が享禄元年(1528年)8月17日)。これ以外の説には『細川家記』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記に記された67歳から逆算した永正13年(1516年)などもある[1]。
- ^ 生年を1528年とするのは確かな根拠があるものではなく、光秀の年齢はわからないとする説もある[2]。
- ^ 明智光秀には子年生まれの伝承があり、『明智物語』では天文18年(1549年)に光秀は元服前であったことが書かれていることから求められる。
- ^ 漢字で書けば金柑頭(「ん」は通例読まない)で、金柑のように禿げた頭をさす一般的な表現で、特に光秀をさすわけではない。
- ^ 「キンク天顋」は「金句天顋」で「おべっか使い」という意味という説がある。
- ^ 前室・側室があったとの説もあり。
- ^ 称は他に惟任日向守、明智惟任日向守、明智惟任日向守光秀など。
- ^ 他に、恵那市明智町の明知城や、山県市美山出身などの伝承もあるが、前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い。
- ^ a b 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の旅行記)に知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人だったが、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた」と記述[16]。
- ^ 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者で立入宗継の『立入左京亮入道隆左記』にも光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述[16]。
- ^ ただし、信長の出兵は義昭の要請に応えた上洛軍で、和睦を破ったのはこれを阻止した斎藤側だとする研究も存在する[19]。
- ^ 2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料に初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している[20]。
- ^ 前半に永禄6年(1563年)正月〜翌年2月ごろの奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月〜翌年10月ごろの奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある[23]。
- ^ 「一僕の身」は中世から江戸にかけての慣用句で小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である[28]。
- ^ 『武家雲箋』所収一色藤長書状による[31]。
- ^ 『年代記渉節』に公方衆として記載している[35]。
- ^ 茶室の床の間は貴人の座の象徴である[47]。
- ^ 実弟・山岡景猶が光秀の寄騎近江衆の一員だった
- ^ 場所は小栗栖あるいは本経寺付近の竹薮、または醍醐か山科と当時の各日記でも場所は分かれている
- ^ 8日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている。(『浅野家文書』)[11]
- ^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」[60]
- ^ 亀岡市は亀山城の城下町。伊勢の亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した。
- ^ この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅(現・岐阜県大垣市)が、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく信用できない[74]。
- ^ この逸話は、立花宗茂母となる宋雲院が高橋紹運に嫁ぐ際の話に酷似しており後世の創作とされる
- ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害した小栗美作の辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。
- ^ 天野信景の随筆集。元禄元年(1688年)刊。
- ^ 土岐琴川著、大正4年(1915年)刊。
- ^ 『フロイス日本史』およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している「柏崎物語」では本能寺の変の1ヶ月前の出来事としており柴田勝家が同席している描写があるのだが、当時勝家は北陸前線で釘付けの状態であり酒宴に参加できる状態ではない事などから、疑問視する声もある。(二木謙一など)
- ^ 前の話は絵本太功記などによる創作とされる。
- ^ この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。
- ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられるの唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
- ^ 天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある[96]。
- ^ 光秀の出身地である岐阜県可児市から天海の廟所がある日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府岸和田市(貝塚市)になる[97]。
- ^ そもそも桔梗紋は清和源氏の一族が使用した家紋であり、「土岐桔梗」や「大田桔梗」など種類も少なくない。また光秀の用いた桔梗紋は、水色桔梗と言い、水色に彩色された紋を用いるのが通常である。
- ^ 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は荒木村安の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。
- ^ 「愛宕百韻」でも名前が見られ、実在の人物である言われる。
- ^ 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を称し、荒深小五郎と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。
- ^ 一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされる。
- ^ 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、進士晴舎(同系図では光秀の実兄)の後身とする。
- ^ 経歴は『明智軍記』における十次郎と、明智光春のものを混同している。
- ^ 『明智軍記』における十次郎の幼名。
- ^ 濃姫、姉小路頼綱の室の生母
- ^ 池波正太郎のオリジナル脚本による映画化で、「絵本太功記」や「明智軍記」の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。
- ^ タイトルは「太閤記」になっているが、主人公は光秀。光秀と秀吉(間寛平)が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長(オール巨人)が自らの地位を脅かされる危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。
出典
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- 藤田達生『謎とき本能寺の変』、講談社(講談社現代新書#1685)、2003年、200p
- 谷口克広『信長軍の司令官―部将たちの出世競争』中央公論新社〈中公新書〉、2005年。ISBN 4-12-101782-X。
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- 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー232〉、2007年。ISBN 978-4642056328。
- 藤本正行『本能寺の変〜信長の油断・光秀の殺意〜』洋泉社〈歴史新書y 9〉、2010年。ISBN 978-4862486387。
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- 『世界人物逸話大事典』、角川書店