利用者‐会話:みしまるもも/過去ログ1

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一括投稿のお願い[編集]

こんにちは。みしまるももさんが同じ記事に対して節ごとに分けて連続して投稿されているようでしたので、一括投稿のお願いに参りました。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすにあるとおり、同じ記事への連続投稿は履歴の見通しが悪くなるなど、さまざまな面で支障をきたすおそれがあります。細かい節がたくさんある場合は、節ごとに細かく投稿をするのではなく、上位の節または項目全体の編集を行い、一括して投稿していただきますようにお願いいたします。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

その際に細かいところでミスを起こすのではないかと心配な場合は、「投稿する」ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンを活用されることをお勧めします(画面右側の図を参照)。投稿される前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで、

などをあらかじめチェックし、修正した上で記事を投稿することができますので、是非ともご活用ください。

また、編集競合を避けたい場合は、Template:Inuseをお使いください。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。--松茸会話2012年3月12日 (月) 11:53 (UTC)

お願い[編集]

年月日の表記はWikipedia:表記ガイド#年月日・時間に従ってください。よろしくお願いします。--60.37.181.216 2012年3月15日 (木) 23:35 (UTC)

人物記事新規作成の際には特筆性を考えに入れて下さい[編集]

三島由紀夫の親族について次々に新規記事を立ち上げておいでですが、Wikipedia:特筆性 (人物)という留意すべき事項がある事を頭に入れておいて頂きたく思います。--妹之山秀雄会話2012年5月6日 (日) 12:47 (UTC)

からっ風野郎[編集]

はじめまして、けいとんと申します。今回はご気分を害されたこと、お詫びします。つたない説明をしておりますので、私のノートを一読願います。--けいとん【鶏豚】会話2012年6月21日 (木) 06:27 (UTC)

説明に耳を傾けていただきありがとうございます。削除依頼や著作権侵害についてご理解いただけましたでしょうか?みしまるももさん個人攻撃した行為ではないことをご理解いただけましたでしょうか?「私が苦労して書いたところまで、削除されるのはとても心外です。」「間違っている部分があったので、手直ししたつもりで書いたのに、著作権侵害とは心外です。改めて私の文章で作成しますので、それまで全部削除しないでください。」「チャプター記載がなぜ著作権侵害となるのかわかりません。」と私に対し発言されましたが、誤解は解けましたでしょうか?不安に感じています、ご認識をこのページでお聞かせくだされば幸いです。--けいとん【鶏豚】会話2012年6月23日 (土) 06:15 (UTC)

けいとんさんへ いろいろ質問したことで不安を感じさせてごめんなさい。急に身に覚えのない理由であらすじが全てなくなっていたので驚いて悲しくなり、なぜか分らずいろいろと訴えてしまいました。誤解が解けたので静かに削除を待ちます。失礼しました。--みしまるもも会話2012年6月23日 (土) 06:56 (UTC)

安心しました。かつて私もみしまるももさんと同じような経験をしたことがあります。それ以来、著作権侵害やウィキペディアのルールには気を付けているつもりです。これを機にルールなどにも目を通されることをお勧めします。私は三島由紀夫に明るくなく俳優や映画の執筆が多いため、立項を考えていた「永すぎた春」「複雑な彼」「美徳のよろめき」「お嬢さん」などの立項を期待しています。--けいとん【鶏豚】会話2012年6月23日 (土) 12:28 (UTC)

けいとんさんへ いろいろアドバイスありがとうございます。これからは編集する際、気をつけていきます。けいとんさんは映画がお好きなようですが、映画化された三島の小説も追々、立項しようと思ってました。作品記事の立項についても公共性や特筆性を考えて注意したいと思います。いろいろ気を使っていただいてありがとうございました。 --みしまるもも会話2012年6月24日 (日) 01:11 (UTC)

月間感謝賞より[編集]

トマト。花言葉は「感謝」。
トマト。花言葉は「感謝」。

2012年6月の月間感謝賞において、みしまるももさんへ感謝の言葉が寄せられました。

* Pastern会話) 2ウィキ: 強化記事に選出された三島由紀夫金閣寺 (小説)新しい記事に選出された平岡なつをはじめ、三島由紀夫に関連する記事の精力的な執筆に感謝いたします。 — Wikipedia:月間感謝賞/投票/2012年6月履歴

また、みしまるももさんには、ウィキマネーが2ウィキ贈呈されています。

みしまるももさんはウィキバンクに口座をお持ちではないようですから、ウィキマネーとウィキバンクについて、簡単なご案内をいたします。ウィキマネーとは、ウィキペディアでの活動の相互扶助を促進するための仮想的な通貨です。また、ウィキバンクとは、そのウィキマネーの口座と残高を記録するシステムです。

ウィキマネーは、ログインしての活動が1か月以上かつ200回以上の編集をしていれば20ウィキ獲得できます。みしまるももさんはこれらを満たしていますので、おそらく22ウィキの残高となろうかと思います。口座開設と残高の記録は、Wikipedia:ウィキバンクに「~~~:ψ22」という形式で、残高を記入するだけになります。

これからのますますのご活躍を祈念いたします。--totti会話2012年7月1日 (日) 21:51 (UTC)

潮騒 (小説)のカテゴリについて[編集]

Category:小説を原作とするアニメ作品Category:文学を原作とするアニメ作品についてですが、ここでは「文学」は「映画」や「漫画」や「絵画」のようなジャンルと、「小説」は「戯曲」や「詩」などと区別しているに過ぎず、一方が他方に包含されていることからもわかるように「文学対小説」のような対照関係を持たせているわけではありません。それは関連カテゴリの状態を確認していただければわかるかと思います。Category:小説を原作とするアニメ作品は純文学だろうと推理小説だろうとジャンルを区別せずすべての「小説を原作とするアニメ作品」が入ります。ここでは「小説」に何らかの限定的な意味はありません。--頭痛会話) 2012年11月1日 (木) 00:07 (UTC) 「小説」とは別に親カテゴリとしてCategory:文学を原作とするアニメ作品が設定されているのは、小説以外の文芸ジャンル(詩や戯曲、民話)を原作とするものがあるのでそれらをまとめるためです。--頭痛会話2012年11月1日 (木) 00:11 (UTC)追記

頭痛さん、丁寧な説明ありがとうございます。ややこしいカテゴリーなので誤解をしてしまったようです。失礼しました。そうすると、「青春アニメ」の記事のカテも、小説を原作とするアニメ作品に変更した方がいいのでしょうか? --みしまるもも会話2012年11月1日 (木) 00:28 (UTC)

青春アニメ全集には小説ではないものがすくなくとも一つ(『怪談』)含まれているようです。ただ大部分は小説ですので「小説を原作とする~」のほうに入れる・あるいは「文学作品」「小説」の両方に入れる、という判断もありうるかもしれません。企画自体が小説に限っているものではないので、私は「文学作品を原作とする~」のほうに入れておくというほうが自然かと思います。--頭痛会話2012年11月1日 (木) 01:17 (UTC)

了解しました。--みしまるもも会話2012年11月1日 (木) 04:50 (UTC)

作品評価・解説の書き方について[編集]

以前三島由紀夫のノートでも少し触れたのですが、文学作品記事でのみしまるももさんの「作品評価・解説」部分の書き方や引用方法が少々気になっております。たとえば最近加筆された太陽の季節などを見ますと、○○(人名)は「××・・・(長文引用)」と述べている、△△は「□□・・・」と述べている、といったふうに、なんというか「長いコメントがそのまま羅列されている」という印象を受けます。評言などをなるべく正確に伝えたいというお考えもあるかとも思いますが、以前述べたようにこうした書き方ですと引用部分が地の文よりも主になってしまい、引用の要件を満たさない形になってしまいます。場合によっては著作権に関連して削除議論が起こりかねません。またこの書き方では「全体の要点がわからない」という点でも問題があると思います。こうした評価や解説などに関する他者の文章は、なるべく要点を踏まえてご自分の文章の形に直し、引用符をつけて直接引用を行うのは特に重要性のある語句や文章のみに限るように心がけていただけませんでしょうか。加えてできましたら、こうした解説の節でも羅列的に紹介するのではなく、なるべく文脈を作って「全体的にどういう観点からどういう論じ方がされたか」ということが流れとしてわかるような形にするよう試みていただけないでしょうか。

みしまるももさんの作品記事はあらすじや初出など記事の骨格がしっかりしておりますので、上のような欠点が見られることを常々残念に思っておりました。上記の点気に留めておいていただければと思います。--頭痛会話2012年11月24日 (土) 00:35 (UTC)

了解いたしました。徐々に修正編集していきたいと思います。--みしまるもも会話2012年11月24日 (土) 01:41 (UTC)

日本未来の党について[編集]

日本未来の党での貴方様の編集ですが、一旦コメントアウトしました。貴方様は既に1000回以上編集しているようですね。であればWikipedia:検証可能性を御存知ないとは思えないのですが、一応説明しておきます。Wikipediaでは事実かどうかでなく、検証できるかどうかが重視されます。NHKニュースは検証できませんし、個人がアップしたyoutube動画も言うまでもなくアウトです。編集された内容が事実であれば、検証可能な出典が存在するはずです。--JapaneseA会話2012年12月8日 (土) 13:07 (UTC)

上記に加え、「原爆投下を正当化」はあなたの解釈とも捉えられる部分があります。今の時期はWikipedia:井戸端/subj/公職選挙法とウィキペディアでもあったように、WPの宣伝目的違反や公職選挙法との絡みあるので、通常以上のご注意を願います。--Los688会話2012年12月8日 (土) 13:20 (UTC)
みしまるもも様へ。私の会話ページへの御意見に返答致します。まずNHKニュースですが、Wikipediaの閲覧者が検証しようと思った場合、NHKに問い合わせるしかありません(NHK以外の団体や個人が所有している録画媒体は編集されている恐れがありますので)。そしてNHKが録画したものを渡してくれるか、再放送でもしてくれれば検証可能ですが、その可能性は低いでしょう。個人がアップしたyoutube動画も、同様に編集した可能性があるためアウトです。昔の話ならともかく、現役の政治家の動向でWikipediaに載せるべき特記性のある内容は、必ず検証可能な出典が見つかります。見つからなければ瑣末な話という事です。Wikipedia:信頼できる情報源も御覧下さい。余談ですが、Wikipediaは辞書ではなく百科事典です(たまに私も間違えますけどね)。--JapaneseA会話2012年12月8日 (土) 13:51 (UTC)
JapaneseAさんへ。でも、現在、テレビ番組で放映されたものをソースとしている記事は沢山ありますよ。芸能人や有名人の発言のソースとして多数あります。もしも、テレビやラジオでの発言が、あなたの言う理由ですべてアウトならば、それを全部削除すべきでしょう。それからNHKが渡してくれるかどうかは可能性が低いというのは、あなた個人の判断であって、現時点で検証不可能とは言えません。だから、あなたがその恣意的な理由で、独断で削除するのは変です。それに国営放送での党首討論の生放送での発言内容が、検証不可能なわけないでしょう。現に日本全国に生放送で多数視聴していた国民がいますから、検証不可能なわけもありませんが。--以上の署名のないコメントは、みしまるもも会話投稿記録)さんが 2012年12月9日 (日) 00:42‎ (UTC) に投稿したものです。--JapaneseA会話2012年12月9日 (日) 02:21 (UTC)
「他の記事でもやっているから、自分もやっていい」とは、なりません。Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないを御覧下さい。それにWikipedia:独自研究は載せないも御覧頂いた方が良いと思います。後は既に述べた通りです。納得できないのであれば、Wikipedia:井戸端で議論を提起して下さい。なお、同様の編集を繰り返した場合は、貴方様にとって不利益な展開となる事でしょう。過去に似たような事例を見てきました。--JapaneseA会話2012年12月9日 (日) 02:37 (UTC)
不利益とは何ですか? それは脅迫でしょうか? どういう不利益か具体的にお答え下さい。なぜ私が編集してはならないのか説明して下さい。嘉田の発言事実部分だけならば記載してもよいでしょう。あなたの説明では、国営放送での党首討論の生放送の発言が検証不可能なソースだという、明確な説明にはなってませんよ。逆に理不尽な削除をあなたが繰り返す、あなたの正当性がわかりませんよ。現時点でNHKがこの発言を認めていないという事実もないし、検証不可能だという明確な根拠がありません。公で発言された公人の発言を、繰り返し削除するあなたの行為の方が変では? 国営放送の党首討論内での発言ですから、選挙法違反記事でもなんでもないでしょう。--みしまるもも会話2012年12月9日 (日) 03:03 (UTC)
それから、これは嘉田個人の発言ですから、未来の党へは書かないことでいったん譲歩しますが、あなたの削除のやり方については、こちらも納得しかねますので。これから対処を考えます。--みしまるもも会話2012年12月9日 (日) 03:18 (UTC)
ですから納得いかないようであれば、どうぞ井戸端で議論を提示して下さい。もちろん私へのコメント依頼でもブロック依頼でも構いません。いずれにしても私の行為に誤りがあれば、私はコミュニティより糾弾されるでしょう。しかしそうでなければ、貴方に良い事は何もないでしょう。--JapaneseA会話2012年12月9日 (日) 10:11 (UTC)
もちろん納得いきませんが、そんなつまんない、ごちゃごちゃとめんどくさい堂々巡りの議論に無駄な時間を費やすよりも、私は他に新記事作成の時間が大事ですので、関わるのは遠慮させていただきます。いずれ、この件は選挙後に活字媒体などで明確なソースが出ますでしょうから、そのときにバッチリと書かせていただきますよ。--みしまるもも会話2012年12月9日 (日) 12:56 (UTC)
それから他の政治家の記事などで、ニュース・ステーションで発言していたとか、ニュース23で発言していたとかいう記事が成立っていますが、ああいうのは、なぜあなたは削除なさらないのしょうか? 私の場合だけ即削除する明確な理由を聞かせて下さい。なぜソースの明記のテンプレではなくて即削除なのか、正当性のあるお答えを是非お願いいたします。--みしまるもも会話2012年12月9日 (日) 13:23 (UTC)
井戸端へ議論の場が移ったので、本件に関して引き続き御意見・御質問があれば、Wikipedia:井戸端#検証不可能なソースという定義についてで御願いします。--JapaneseA会話2012年12月9日 (日) 15:52 (UTC)

榎本武揚の評価に関して[編集]

みしまるももさんには直接関係ない話なので、聞き流していただければいいのですが、作品評価で引用されているある学者さんの記述で、安部公房が東欧旅行記を書いたことが党を除名されることと関連付けているというのは、牽強付会の議論に思えます。安部は、その旅行記を書いた後も、『アカハタ』(当時の表記)で、小説の審査員などを、何回もつとめていて、応募してきた泉大八中里喜昭の作品を評価しています。そこを引用しなくても、学者さんの「榎本武揚」という作品に対する評価を示すことはできるのではないかと思います。 --ねこぱんだ会話2013年2月22日 (金) 01:05 (UTC)

こんにちは。そこらへんの詳しい経緯については私はよくわからないのですが、その学者が、安部公房の「榎本武揚」執筆動機として、日本共産党から除名されたことを挙げていたので、それを一つの解説情報として私は載せました。旅行記を書いた後も共産党員として審査員をしていたとは思いますが、ポイントは、安部が党を除名されたことだと思いますので、そのことによって安部が、「組織と個人」や「転向」について考え、テーマを作品化していったという解説も、一つの見解としてあってもいいのではないかと思いました。あと、その学者の論文の他の部分や全体的な視点は、安部の「榎本武揚」に対して、それこそ牽強付会な批判的なものなので、旅行記執筆や除名の事実関係以外は使えなかったのです。--みしまるもも会話2013年2月22日 (金) 02:14 (UTC)

奈良小1女児殺害事件での犯人実名記載について[編集]

現在Wikipedia:削除依頼/奈良小1女児殺害事件2013221を提出しておりますので、削除されるかされないかはともかく、審議が終了するまでは記載はお控えください。無論、削除となった場合は以降の記載は(有為な出典を提示されない限り)お控えください--あな34(須魔寺横行)会話2013年3月2日 (土) 07:20 (UTC)

秋葉原は自身の名前で手記が刊行されており、オウムは個々のケースは、オウム真理教の要職についているからです。奈良小1女児殺害事件の死刑囚が名前をだして活動していたという形跡はないはずです。死刑執行でプライバシーが消えるとかどうかについてはwikipediaでも議論はされていますが、現時点では「消えてない」のままです--あな34(須魔寺横行)会話2013年3月2日 (土) 08:38 (UTC)
「テロリストと無差別殺人の明確な違いが、論証立てて認定できるのでしょうか」
出来ないと答えておきます、そこまで専門家ではありませんので。私は過去の直近の削除例に基づいて削除依頼をだしたまでですので。--あな34(須魔寺横行)会話2013年3月2日 (土) 08:43 (UTC)

箇条書きマークアップについて[編集]

みしまるももさん、私の会話ページにメッセージありがとうございます。さて、その件なのですが、私がああいった編集をしたのはHelp:箇条書きにある「定義の箇条書き」に基くものです。「*」の下に「:」を置いて説明文を書くやり方は上のヘルプでは推奨されないやり方となっているため、カテゴリの付け替えのついでに、「あまりよくない例」であるところのスタイルや、箇条書きを空行で分断しているところなどを直しています。Wikipediaのヘルプに基いた行動である以上、今後も他の方が同様に直す可能性があると思いますので、その辺はご理解願います。--Garakmiu会話2013年3月13日 (水) 14:14 (UTC)

月間感謝賞より[編集]

2013年3月の月間感謝賞において、みしまるももさんへ感謝の言葉が寄せられました:

* totti会話) 3ウィキ: 安部公房坂口安吾らの著書の記事執筆に感謝して。「堕落論」さえ記事化されていなかったとは驚きました。みしまるももさんの文学分野への貢献は計り知れないと思います。

また、かげろんさんには、ウィキマネーが6ウィキ贈呈されています。

これからのますますのご活躍を祈念いたします。--totti会話2013年4月4日 (木) 03:09 (UTC)

大沢誉志幸のアルバムの編集について[編集]

はじめまして。CONFUSION (大沢誉志幸のアルバム)の編集について、お伺いしました。しきりに「名盤である」ということを書きたいようですが、要約欄で再三申し上げている通り、作品の評価については、きちんとした出典を用いなければ書くことはできません。販売元が宣伝用に用いているキャッチフレーズや宣伝文句などの類を、作品の評価として用いてはいけません。評価を載せたいのであれば、宣伝色の無い、それなりに権威のあるような書籍・雑誌などで、評論家等が書いたレビューなどを用いて下さい。また、たとえ客観的事実であっても、それだけでWikipediaに載せることはできません。Wikipedia:検証可能性に書かれておりますので、お読みいただければと思います。--Dr.Jimmy会話2013年4月20日 (土) 04:09 (UTC)

なんでそこまで杓子定規にルールをふりかざして削除するのか意味がわかりませんが、まあそういうルールならば無理に書き込みませんよ。ただ、「名盤」ということについては宣伝的ととらえられるかもしれませんが、「CONFUSION」が大沢誉志幸の代表的アルバムで、彼の出世アルバムなのは80年代によく音楽を聴いていた人ならば、出典なんかなくても客観的事実ですし、宣伝でも何でもないんですけど。それくらいのことまで出典を要求されるというのも何か私には正直のところ感覚的に違和感があります。世間的にも認識されている「代表的作品である」ということすらも、いちいち出典明記を要求するというのも、編集記事が発展しなくなり、内容が充実していかないと思いますが。でも編集合戦になるのはいやですから、これ以上書きません。余計な編集してすいませんでした。--みしまるもも会話2013年4月20日 (土) 04:37 (UTC)

杓子定規でも何でもなく、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」だというのは、Wikipediaでは当然守らなければならない常識的なルールです。それを守らずに記事の発展も内容の充実も何もないでしょう。--Dr.Jimmy会話2013年4月20日 (土) 04:50 (UTC)

それならば、「出典の明記の要求」をつければよいだけで、何も即時削除することはないでしょう。特に突飛な見当違いなことを書いたわけでもないのに、即時削除するあなたのやり方はおかしいと思いますよ。「出典がないものは全部即時削除しなければならない」なんてルールないでしょう。出典がない編集はまず、出典明記のテンプレをつけて、正確性を問い正すのが順序としての筋だと思いますが。ルールの一面だけを独断に利用して、なんでもかんでも削除しまくるやり方はいかがなものかと感じますけど。--みしまるもも会話2013年4月20日 (土) 05:07 (UTC)

出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。--Dr.Jimmy会話2013年4月20日 (土) 05:21 (UTC)

取り除くことはできるにしても、出典がないというだけの理由で全部削除しなければならないという厳密的なルールはないでしょう。まず削除する前に出典明記のテンプレをつけるのが常識的なマナーだし、ルールに沿ったやり方です。出典がないものを削除してよいならば、「CONFUSION」の記事全部が削除してよいことになってしまいますよ。あなたの理屈でいうならば、私が「CONFUSION」の記事全部を削除しても荒らしとしてみなされないということになってしまいますが。記事全部削除でも誰も文句は言えないんですよね、何の出典も明記されてませんから。--みしまるもも会話2013年4月20日 (土) 05:57 (UTC)

なんかもう無茶苦茶ですね。自分の非を認めたくないために、方針を曲解して、「あなたの理屈でいうならば」等と言いながら私が主張したきたことと全く違うことを言いだす始末。誰も、全部消せなんて言っていませんよ。何なら実際にやってみてどうなるか、お試しになってはいかがですか。--Dr.Jimmy会話2013年4月20日 (土) 06:07 (UTC)

実際にやったら、あなたは私を荒らしとして報告するつもりでしょう。出典がないものは削除されても文句は言えないという論理ならば、あなたが全記事削除して、その正当性を証明してください。あなたが言ったことなんですから。私は出典がないものは削除されても全く文句は言えないなんてことには、反対の立場ですから、あなたがやるべきことでしょう。やってみて本当に誰からも文句が言えなくて、あなたが正当と認められるならば証明するためにやってくださいな。--みしまるもも会話2013年4月20日 (土) 06:18 (UTC)

くだらない言いがかりに過ぎませんので、これ以上はおつきあいしかねます。--Dr.Jimmy会話2013年4月20日 (土) 15:15 (UTC)
  • コメント 横からすみません。出典なき記述は除去されても文句は言えないのですが、程度問題と御理解下さい。「存命人物の○○は血液型はAB」と「存命人物の○○は世界で最も有名な人物の1人である」のどちらの記述に出典が強く要求されるかは言うまでもないでしょう。「~によれば、血液型はAB型と主張している」などとは書かないでしょう、これは事実だからです(誤りでない限り)。「録音はアルファスタジオ」と「代表的アルバム」、事実はどれでしょうか?出典がより強く求められるのはどれでしょうか?「GOGOヘブンが入っているのが代表的アルバムだ」と言う人も世の中には居るのでは?さて、貴方はなぜ、これを代表アルバムと思ったのですか?1番売れたから?1番雑誌に取り上げられたから?本人がそう言ったから?どれであろうと出典はありそうですね。出典をつけてそれを書けば、読む人が勝手に「代表的だ」と思ってくれるのではないでしょうか。ついでに言えば「大ヒット曲」という記述も主観的で良くないですね。--JapaneseA会話2013年4月20日 (土) 12:41 (UTC)

もうこの件に関して私は、Dr.Jimmyさんが削除したものを巻き戻ししてませんし、これからも戻しませんので、もうこれ以上、私は話を発展させるつもりはありません。ルールのとり方や、意見や見解の相違があるのは個人個人考え方が違いますので、JapaneseAさんの考え方にも私は同意できませんが、もう私は「代表作である」とは編集しませんから、どうぞ勝手に好きなように編集なさってください。具体的な各部分についての議論も、続きがなさりたいのであれば、申訳ありませんがここではなくて、大沢さんのファンの人や関心のある人が見る該当記事のノートでお願いします。そこでなら具体的な個別アルバムについての見解について、書き込むかもしれません。--みしまるもも会話2013年4月20日 (土) 13:06 (UTC)

書籍テンプレートについて[編集]

とりあえず原題欄についてTemplate‐ノート:基礎情報 書籍で議論提起しました。--頭痛会話2013年4月26日 (金) 10:47 (UTC)

議論提起なされようが現時点では、私は何らルール違反はしておりませんので、英題は載せさせていただきますし、あなたが消される理由にはなりませんよ。映画のタイトルもそうなってますし、なぜ急に書籍だけ、あなたが絡むのか意味不明です。--みしまるもも会話2013年4月26日 (金) 10:58 (UTC)

いや、ですから英題を除去するのはやめましたが・・・。映画のほうは関わっておりませんのでよくわかりませんが、必要ならそちらでも議論提起します。現状のorig_title欄が使い方が不自然な点は上のノートで述べました。--頭痛会話2013年4月26日 (金) 11:07 (UTC)
ついでですのでTemplate‐ノート:Infobox Filmにも同様の提起をしておきました。執筆にお忙しいところ細かいことで煩わせてしまって大変申し訳ありませんが、議論の確認だけでもしておいていただければと思います。--頭痛会話2013年4月26日 (金) 11:14 (UTC)

了解いたしました。--みしまるもも会話2013年4月26日 (金) 11:26 (UTC)

上で書き忘れましたが、この手のテンプレートというのはしばしば特に議論もなく英語版から導入されたりしているもので、特に話し合って決めたものでない限りは説明されている使用方法についても導入者が恣意的に作ったものがそのまま残っていたりするものが多く、「ルール」というほどのものではないのです。英語の訳題を入れることを想定していないというのは私の勘違いでしたが、ガイドライン以下ウィキペディアにおける決まりごとというのは上位下達のものではないので、テンプレートの使用などに際してはそれが「ルール」に沿っているかということだけでなく、その「ルール」が実体に即しているか、という点も考慮に入れていただければと思います。(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは規則主義ではありません)--頭痛会話2013年4月26日 (金) 17:22 (UTC)

まったく関係ない議題ですが、ノート:堕落論のほうに記事についての所感を書かせていただきました。Wikipedia:あらすじの書き方などもありますので、もしご存知なければご一読いただければと思います(ノートに書いたとおり記事スタイルの疑問点を書きとめたもので、この議題は特にご返答を求めるものではありません)。

最近ちょっとあちこちで意見がぶつかったりといったことが続いてしまっていますが、主として活動分野や興味の範囲が重なっていることに起因するもので他意はありませんので、どうかあまり気を悪くしないでいただければと思います。--頭痛会話2013年4月27日 (土) 11:28 (UTC)

リダイレクト削除審議のお知らせ 2013年4月[編集]

リダイレクト削除依頼からのお知らせです。みしまるももさんが作成したリダイレクト(または作成後にリダイレクト化されたページ)に対して削除依頼が提出されております。つきましては、審議への参加をお願いいたします。対象リダイレクトの審議場所:Wikipedia:リダイレクトの削除依頼/2013年4月#RFDCategory:大沢誉志幸の楽曲

ご注意:※みしまるももさん作成のリダイレクトのうち、複数が追加で依頼される場合があります。しかし当月分に関しては再び通知されることはありませんのでご注意ください。当月の審議ページを「ウォッチリストに追加」して、チェックすることを強く推奨します。※このお知らせを翌月7日までに過去ログ処置などで消去した場合、仕組み上、同じ文章が再度投稿されますのであらかじめご了承願います。※このお知らせはBotにより自動投稿されています。この下にメッセージを書き加えても、返答が付くことはありません。自動投稿に関する問い合わせは「Bot運用者の会話ページ」にお願いします。--Trvbot会話2013年4月26日 (金) 18:05 (UTC)

「桜の森の満開の下」の関連項目について[編集]

執筆お疲れさまです。以前やりとりのあった桜の森の満開の下の関連項目につきまして、いまだご対応いただけていないようです。現状では何の関連性があるのか不明確なまま櫻の樹の下にはが挙げられている状態になってしまっていますので、先述された影響関係について明記しておいていただけないでしょうか。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 13:55 (UTC)

もうちょっとなんとかなりませんか[編集]

以前#作品評価・解説の書き方についてで指摘させていただいた点についてなのですが、残念ながらその後の執筆記事を拝見する限りあまり改善されておられないようです。一例として、最近みしまるももさんが書かれた伊豆の踊り子の「作品評価・解説」の節を、他者の文章を直接引用している部分のみ強調文字にしてみました[1]。半分以上が引用になってしまっているのがわかるでしょうか。

問題は単純に引用が5割超えているかどうかといったことではなくて、これらの節では地の文が単なる引用の前置きやつなぎとしての役割しか果たしていないことです。自分の言葉・文章で説明することをはじめから半ば放棄してしまっており、率直な感想としてこの部分は「記事未満」に留まっているように思います。

発言録や引用句集は研究者等の資料としては役に立つものかもしれませんが、我々は事典の記事を作っているであって資料集を作っているのではありません。「自分の文章で書く」ということについて、もう一度見直していただけないでしょうか。--頭痛会話2013年6月2日 (日) 16:33 (UTC)

以前、あなたに注意された点を真摯に受け止めて、それを十分考慮し見直して、私はちゃんと正しい引用を活用しながら、正しい事典の記事を作って最善の努力しています。私は自分の文章でも結構纏めて書いていますし、誤解のない正しい解説記事を書くためには、発言者の引用を引いておくのは当然のことです。あなたには単なる「繋ぎ」に見えるでしょうが、厖大な論文資料の重要部分をわかりやすく抽出して、わかりやすく繋げるのにも内容をすべて読んで理解した上で私はやっているのです。引用部分をあたかも私の文章のように「」をとって全部書き直せば、それはそれで微妙にその発言者のニュアンスが変化させてしまうおそれがあり、それこそ著作権侵害になります。あなたは私がこの解説記事を纏めて編集するのに、どれだけの時間を費やして、最善の「伊豆の踊子」記事にしようと努力したのか御存知ないでしょう。以前のあなたのアドバイスは真摯に受けとれましたが、今回は私に対するあら探しや個人攻撃やいじめにしか、残念ながら思えません。あなたはいつも簡単に上から目線で、私の編集を批判・注意し、気に入らなければ削除するだけで気持いいでしょうが、ただただ「記事未満」と全否定されて貶されて傷つく方の身になって、人の心を考えたことがあるのでしょうか? 人にアドバイスするときは、少しは言葉に気をつけた方がいいですよ。--みしまるもも会話2013年6月3日 (月) 01:24 (UTC)

もとの解説文を微妙なニュアンスまですべて再現しようとすれば該当箇所をほぼ全文引き写さなければならなくなります。当たり前ですね。そしてそのような「微妙なニュアンスまですべて再現された文」とは換言すれば「著作者の文そのもの」に他ならないのではないでしょうか。実際、例えば上で上げた伊豆の踊り子の解説文のうち、奥野健男の解説に触れているところの地の文など「○○については」と「~~と解説している」というようなものしかありません。これで執筆者自身の解説になっていると言えるでしょうか。
Wikipedia:引用のガイドライン、あるいは引用の記事でもいいですが、これらを見ればわかるように、日本の法律では地の文と引用との関係が明確に「主」と「従」になることを求めています。法律上の問題を置いても、一般の文章作法としてはそうなるでしょう。上述したような部分について、あなたは引用部分が明確にあなたの文章に対して「従」になっていると思いますか。--頭痛会話2013年6月4日 (火) 11:22 (UTC)

執筆者自身の解説になったら、それは「独自研究」です。それから私が言う、「微妙なニュアンス」というのは、重要部分についてのことですから、解説文を全てを引用する必要はありませんし、やってません。私の繋ぎも単なる繋ぎではありません。長い解説文をわかりやすく、要点を抽出して正確のきすために引用文を生かしているのです。単に「」をはずして、纏めようと思えばいくらでもできますが、それこそ他人の解説をあたかも私の解釈かのようにとられて、「独自研究」と誤解されて面倒なことになりかねませんし、そこに他の人の主観的な加筆が加わっていって偏向されていくおそれもあります。評論家の論点の重要部分は少し長くなっても、ちゃんと原文を使うことが、私はマナーだと思っていますし、要旨の正確さとわかりやすさが一番重要ですから、これが最善の方法なんです。人が一生懸命に最善を尽してとりくんでいる編集を、あなたはただただ人を貶すのみで「記事未満」などと侮辱し、私の真摯な取り組みをなぜそんなに上から目線で断罪して個人攻撃するのですか? あなたは記事の中身や論点の流れや内容を見るよりも、いつも末梢の体裁ばかりのことでお話してます。肝心の近代日本文学の記事の中身の加筆編集には関わらず、いままで全く中身を充実される努力もしようとせずに放置してきたあなたに、そんなに上から断罪され傷つけられる筋合いはありません。あなたは言葉つきは丁寧ですが、十分私を傷つけました。話題の見出しの付け方からして人をバカにしてますし、私は一生懸命に最初のあなたのアドバイスを聞いて努力してやっているのに、ただただひどい言葉で傷つけました。本当に善意でアドバイスしているのなら私にも伝わります。残念ながら今回はあまりそうは思えません。--みしまるもも会話2013年6月5日 (水) 00:46 (UTC)

「執筆者自身の見解を書く」と「執筆者自身の文章で解説する」は違います。今は後者の話をしていることはおわかりですよね。Wikipediaで求められるのは「自分の文章」に「信頼できる情報源から出典をつけて典拠をしめす」ことです。その上で必要かつ常識的な範囲で直接的な引用が許容される、ということです。そのあたりの区別がついておられないのでは?
事典執筆者の個人的見解ではないことがわかるように出典をつけるわけです。それは引用でなくても同じで、出典に基づく評論家・研究者の見解の要約が正確かどうか、さらに後から別の編集者が加えた文章が出典と照らし合わせて正確かどうかは示されている出典をもとに他者が検証することができます。検証可能性とはそういう意味です。出典を見もしない者に誤解されそうだから、というようなことは、重要な解説部分は全部引用にしてしまう、ということの理由にはならないし、そのようにする必然性を示すものでもないと思います。
特徴的な語法を用いる批評家の評言などでは引用が長くなりがちなのはわからなくもないのですが、引用がもっとも正確であり偏向がない、ということで作品の評価や解説を行う節を専門家の引用が占めるようにしてしまってはやはり「解説」というより「引用集」に似たものとなってしまうでしょう。そんなふうに解説を行っている事典の項目なんて見たことがあるでしょうか。私は別にあなたの貢献を否定するつもりはないのですが、そのように執筆者のあなたが「現状がベスト」という認識を持っていては、他者がよりよい状態にしようと試みることもできなくなってしまいます。それはこの分野の発展や改善という点で大いに問題があると思います。
私は記事の適切な執筆方法とかより望ましい状態とかそういった話をしているので、私の口が悪いとか態度が悪いとかそういう低い次元に議論を落とそうとするのはやめてください。そういう話がしたいのであれば利用者のコメント依頼でどうぞ。--頭痛会話2013年6月5日 (水) 10:30 (UTC)

「原文の引用」をしてはいけないということにはなっていないので、私のやり方は別に違法でもなんでもありません。ちゃんと出典明記してますし、最初のあなたの指摘に従って、私は全てが原文の引用文にならないように改善して、ちゃんと自分で内容を把握して、読む人がより解りやすいように要旨をうまく繋ぎ合わせて、自分の文章で纏めてやっております。

それからちなみに、「」で引用文をくくらないで、執筆者の文章で載せたところで、それは「引用」には変りないはないわけで、結局は言い回しを多少変えて、評論家の主旨を「引用」していることですから、あなたのいう「執筆者自身の文章で解説する」ということにはなりませんよ。「解説」というのはあくまで、文芸評論家がやるもので、事典の執筆者がするものじゃありません。執筆者は引用を単に自分の文章で言い換えるだけのことで、どっちにしろ執筆者はあくまで「他人の作品解説を引用」しているにすぎません。あなたがいいと考えている、全然「」の原文引用をなくして、執筆者の言い回しだけでズラズラと書くやり方は、私には逆にわかりにくく全文を読む気もおこりません。何のメリハリがなくて、読みづらいです。私は、重要点は「」で原文をくくって残す方が、わかりやすい編集になると思ってやっているわけですよ。特に文学作品評論は、文芸評論家の原文を活用するのが、より的確なんです。私はちゃんと長い長い評論文から、ポイントポイントを漏らさずに正確な解りやすい解説の流れを掴んで、より的確に編集しているんです。重要な解説部を原文で「」でくくることは、一つのやり方としてちゃんと認めてられておりますし、何ら著作権侵害行為をもしていません。明確でわかりやすく読みやすい記事編集を心がけて私はやっていますし、最初にあなたが善意でアドバイスしてくださったことには感謝し、真摯に受け止めて聞き入れてより適切な執筆方法で改善努力しております。だからあなたにそこまで上から目線で頭ごなしに「記事未満」などと侮辱され、「もうちょっとなんとかなりませんか」などというバカにしきった見下したタイトルで、本当に今回は傷つきました。--みしまるもも会話2013年6月5日 (水) 13:14 (UTC)

「原文の引用をしてよいかどうか」というような大雑把な話をしているのではありません。
引用符で括らなくても引用と言いうるというのはそうかもしれませんが、引用符を取って要約するようにしても結局要約の羅列になってしまう、というのは結局のところ記事構成に問題があるからだと思います。最初に「問題は単純に引用が5割超えているかどうかといったことではなく」「地の文が単なる引用の前置きやつなぎとしての役割しか果たしていない」と言ったのはそういうことです。要は執筆者が自分で文脈を作ることができていないのですね。伊豆の踊り子の例のように少なからぬ評者の文言を引きながら、それを「作品評価・解説」というふうにひとくくりにして、はじめから評者の見解を順番に羅列していくことを想定した記事構成が行われているために「Aはこう言った、Bはこう言った、Cは・・・」となってしまう。たとえばその節が主眼とするものが「受容史の概説」なのか「主題や文体の分析」なのか「執筆や物語の背景の解説」なのかによって、評言の取捨選択や構成の仕方が異なると思います。そのあたりの「自分で構成し、自分の文で解説する」という意識が抜けているために、他の専門家の文に説明をそのまま肩代わりさせてしまうような形になってしまうのではないでしょうか。繰り返しますがもっとなんとかなりませんかと言っているのは単純に引用の量が5割超えているかどうかといった単純なこと(だけ)ではなく、そういった執筆者としての全体的な意識のことです。
もっともそれ以前に、上で示した文書などで解説されている「主従関係が明確か」「引用の必然性があるか」「(百科事典の)公正な慣行に即しているか」といったあたりにはやはり合致していないように思います。--頭痛会話2013年6月5日 (水) 14:27 (UTC)

大雑把な話をしているのは、あなたの方です。引用符をとって、あなたのいうように自分の文脈でどんなにうまく綴っていったところで、結局は「発言者の要旨を引用」していることには変りないと言っているのですよ。そうやってうまくやっているつもりで編集者は独自研究に走ったり、原文改ざんや偏向に走っていくのです。私がこれまで関わった記事でもそんな独自研究がいっぱいありました。何回も申しますが私はあなたがくださった最初の善意のアドバイスには真摯に受け取り、改善努力して自分の文脈で纏めています。その中で話者の原文を上手く活かして構成させてます。それが長くなることもありますが、基本的にはあなたのアドバイスにそってやっております。

それから、文学作品の「作品評価・解説」の項目というのは、様々な論者の作品内容に対する評価を具体的に紹介する項目ですから、それぞれの話者な名前が出て作品内容の解説をしていくような体裁の形になるのです。それに私はそれぞれの話者な論の流れがなるべく関連性をもって流れていくように構成しております。ここで纏められているのは主に作品そのもののことですから、「主題や文体の分析」などがメインになっていることは読めばおわかりなるでしょう。「作品や物語の背景」や作者の執筆経過などは、他の別項目で私は自分の文脈できちんと纏めて説明しております。「作品評価・解説」のそれぞれの論者の引用に関しても、論文の全体の流れを把握してから、重要点を整理して私の文脈の流れにそって組み込んでいます。単なる繋ぎなどではありません。あなたには前置きに見える文も、ちゃんと長い論文から要旨を要約して私の文脈で解りやすいように重要点がスムーズに読めるように、原文引用を活用して私のテクニックで書いているのです。ずいぶんと長いことウィキ編集に関わりながら、日本文学作品の記事をほとんどほっぽらかしてきて、加筆編集の努力もしてこなかった人が、なんでそこまで上から目線で偉そうに「もうちょっとなんとかなりませんか」「記事未満」などと王様気分で人を傷つけることが言えるのか、私にはあなたのその神経がよくわかりません。

何回も言いますが、私は最初にあなたからいただいた善意のアドバイスには真摯に受け留めてやっておりますし、これからも努力してやっていくつもりです。完全にあなたが気に入るようにしなければあなたは納得しない性質ですから、いろいろと不満はおありでしょうが、私は私でよりよい編集をしようとして努力してやっているんです。そんな中、「記事未満」などと傷つけられた私の気持など、あなたにはわからないでしょう。Template‐ノート:Infobox Filmなどでも、あなたは他の人のことなど何の考慮もしない大上段な態度で孤立しています。他の人の賛同が得られずあなたの意見が通らないからといって、その不満や怒りの矛先を簡単な気持で私にぶつけるのはやめてください。あなたは否定するでしょうが、今回のあなたの私に対する関わり方は私にはそう思えるのです。いくら理屈を並べてあなたが理論武装をしようとしても今回のあなたのからみ方は善意には受け取れませんでした。もうこれ以上、ここで私にからまないでください。あなたがいう改善点は考慮してやっていきますから、どうかお願いします。肝心の記事編集に費やす時間がそがれてしまいますので、ご了承ください。--みしまるもも会話2013年6月6日 (木) 01:48 (UTC)

コメント 横から失礼します。ご両人が構わなければコメント依頼を提出しますがいかがでですか?このまま話し合っていても平行線だと思いますが。--Gladneed会話2013年6月6日 (木) 06:23 (UTC)

Gladneedさん、お気遣いありがとうございます。でも、そこまで周りを巻き込んで大きな問題になさらなくても大丈夫ですよ。なんとか頭痛さんの意向にも沿いながらも、穏便にやっていきますので、ご心配なさらなくても大丈夫です。ありがとうございました。--みしまるもも会話2013年6月6日 (木) 06:51 (UTC)

Wikipedia:出典を明記するWikipedia:独自研究は載せないを考え合わせればWikipediaの編集者は「情報源に基づいた記述」しか行うことができません。であればWikipediaの編集者は常に既存の文献に書いてあることを要約しながら再構成することしかできないわけです。そのような「要約による引用」や既存の情報からの再構成をWikipedia:引用のガイドライン引用の上部で扱っている直接的な引用と同一視することはできません。どうせ要約も引用なのだから直接長文を引用するのも代わりはない、というのは詭弁だと思います。初心者向けのWikipedia:ガイドブック 著作権に注意にも(直接的な)引用は控えろとありますね。
もう一度具体例に戻りますが、例えば伊豆の踊子の現在の版には以下のような引用が行われています
  • (奥野健男は)「芸人は徳川時代、河原者などと軽蔑されてきた。しかし一方後白河法皇が、白拍子などの今様の歌や踊りに夢中になり、『梁塵秘抄』を編纂されたように、上流貴族と卑賎視された芸人とは不思議な交歓があり、彼らの芸は能、狂言、歌舞伎など次々に上流階級にとりいられていた。そういう芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情を、新しく原題に生かしたのが『伊豆の踊子』である」[4]と解説している。
  • 北野昭彦は踊子について、「<私>の踊子像はその時々で多面的に変容する。彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた<コレー像>に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である。『コレー像は未知の若い少女として登場』[11]し、『しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である』[11]とされている」[12]と解説している。
上の引用の前半は芸人の扱いについての歴史的経緯(に対する見解)を説明しているだけ、下の後半はユング心理学における「コレー像」の一般的な説明をしているだけです。これらをそれぞれの著者の言葉をまるまる引用する必然性がどこにあるのでしょうか。例えば以下のような感じに書き換えることができるのではありませんか。
  • (奥野によれば)日本の歴史において芸人は軽蔑されてきたが、一方で後白河法皇が白拍子の芸をひいきにして『梁塵秘抄』を編んだりしたように、芸人と上流階級との間にはしばしば交歓があった。奥野は「伊豆の踊子」が、そうした古来から日本人に見られる、芸人に対するひいき・憧憬の心情を現代に生かした作品だと論じている。
  • 北野は作中で語り手の抱く踊子像は多面的に変容していることを指摘し、彼女がユング心理学における<コレー像>に似ていると論じている。(北野によれば)ユングが元型的形象の一つとしたコレーは、少女・母・花嫁の三重の相を持つ「永遠の乙女」であり、しばしば「未知の若い少女」として表れ、また踊り子の姿として表れるときには「微妙なニュアンスを持つ」。
ニュアンスを尊重したので「要約」というほど短くはなっていませんが、直接の引用は最低限にし丸写しを回避することはできていると思います(私が自分で書く場合にはもっと短くしてしまうと思いますが)。私が言っているのはこの程度のことなのですが。上の例で何か「伊豆の踊子」の解説に必要な部分が致命的に失われているところがありますか。
我々はフリースペースで好きに作品を発表しているわけではないので、書いた記事に対する問題を指摘されているときに、それを記事の問題と受け止めることができないのであればWikipediaでの執筆などやめたほうがいいと思いますよ。あなたは他者が査読を行わない事典が存在するとでも思っているのですか。書いた記事を批判されて傷つくのは当たり前でしょう。傷ついた傷ついたと繰り返し言い立てないでください。いい加減見苦しい。--頭痛会話2013年6月6日 (木) 10:25 (UTC)

残念ながら、頭痛さんのその文章ではダメですよ。原文をちゃんと全文読んでいらっしゃらないから、ただ上っ面の意味だけ伝えているだけで、奥野が言いたいニュアンスが致命的に損なわれていますし、北野昭彦に関しては、全然意味が違います。この奥野の文章は、伊豆の踊子論で頻繁に原文引用されるほどの代表的な重要文ですから、他の評論家でも、奥野の原文はそのまま引用される大事なニュアンスを含んでいる部分なんです。あなたはそういう評論に関する背景のことも全然ご存知ないのでしょう。そこが抜けてしまうと、川端の踊子に対する微妙な心情というものの解説がダメになってしまうのです。あなたのような素人の文章では残念ながら、ただ意味を追っているだけで、言霊がありませんからダメなんです。だから、大学の研究者なんかも、奥野の原文のまま引用して評論している部分なんですよ。あなたは私がそういうことを吟味して原文引用していることも知らないわけです。それから、コレー像のことについても、「コレー像は未知の若い少女として登場」して、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」と説いているのは、北野昭彦ではありません。あなたは普段から文章の体裁上のことしか見ていないから、それくらいのパラグラフの内容も把握できずにそんな誤読するんですよ。

このように、よく中身も把握していない人が、「自分の文章」とやらで書き換えてしまうと、とんでもない語解釈になるという一例を見させていただきました。残念ながら、あなたは日本文学に関して口出しする資格はないでしょう。単なる体裁のために、内容の正確さを損なわないでほしいので、以後お願いですから余計なことはしないでください。まるで作品解説が歪曲されてしまっています。あなたは少なくとも、文学作品に関しての記事の執筆資格がまるでないことが判明いたしました。そんな方に枝葉末節のことで、大上段に貶されていたのかと思うと、なんだかあきれて開いた口がふさがりません。私は単なる繋ぎで引用しているわけじゃないんです。解説の内容をより正確にそこなわない必要最低限として活用しているのです。そういうことを簡単に考えて、やみくもにあなたのように「自分の文章」にすればいいとも限らないのです。あなたの改悪がいい例です。そんな誤読をして解説文を間違って記述してしまう人こそ、執筆どころか人にああだこうだと言うのはお止めになった方がいいですよ。

私はあなたのアドバイスをきちんと受入れながらも、原文を大事にきちんと文学作品の解説の大事なニュアンスを損なわないように、細心の注意を払ってやっているのです。あなたはそこのところがよく解っていないために、単に文章の体裁上のお話のレベルでしか、いつまでも記事を見られないのです。あなたのアドバイスはそれなりに意味があることですから、無駄な引用はなくすように努力してやってますが、一番大事なことまで損なってまで引用文を削ることは、私にはこれからもできません。私が現在、原文引用して部分はほとんど必要な重要ポイントだと考えてやってますので、あなたになんでもかんでも、やみくもに全否定される所以はありません。--みしまるもも会話2013年6月6日 (木) 11:28 (UTC)

情報として具体的になにが致命的に損なわれているのか、ということを説明してください。ユングについてはあなたの引用文を見る限り「北野昭彦がユングの概念の説明をしている」ようにしか見えないのですが(でなければ引用符の説明がつきません)。奥野の評がよく引用されるものであるのであれば、引用された上で他の評者がなにを論じているのか、というところまで書く必要があります。「引用の必然性」というのはそういうことです。
「言霊がありませんからダメなんです」というのは何かの冗談でしょうか。偉い人の文章だから損なわないように丸々引用しなければならない、というのであれば少なくともWikipediaでは受け入れられる態度ではないと思います。--頭痛会話2013年6月6日 (木) 12:53 (UTC)

あなたの要約では、河原者(河原乞食)という言葉が抜けてしまい、その前段からの流れである旅人川端の生い立ちと悲しい河原者であり漂流者である踊子との同調性の心情との繋がりが損なわれて、作中内で踊子が住民に乞食同然の漂流者として扱われている説明部分との関係性も損なわれているのです。研究者が奥野文を引用する理由は、奥野が、踊子をただ単に、下層階級や社会の底辺に生きる者と見る捉え方だけではなくて、日本の芸能史をふまえて、「漂流者としての芸人」をよく示唆しているためなんです。あなたはそこのところをあまり知らないために、「徳川時代」「能、狂言、歌舞伎」といったキーワードも削除してしまったために、日本の芸能史のニュアンスが消えているのです。

北野のあなたの要約文にしても、あなたは「(北野によれば)」と、以降の文があたかも北野の解釈であるように混同した記述になってしまっています。「コレー像は未知の若い少女として登場」して、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」と説いているのは、ユングです。私は脚注も原文の通りに付記しました。そのへんの注意をあなたはしていないため、原文から要約する際に、誤読をし意味が変わってしまっています。あなたの要約文では、「コレー像は未知の若い少女として登場」して、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」と説いたのが、ユングであるとは認識できませんし、「しばしば」のかかるところも間違っているために、何か変な具合になってます。「コレー像は未知の若い少女として登場」するとユングは説いているのであって、「しばしば」は、その少女たちの中でも微妙なニュアンスを持つ踊子にかかってくる言葉です。

以上にように、あなたは小さな言葉の使い方一つにしても、安易に考えて短く要約すればいいと考えているので、自然とその文章の持つ「言霊」までが損なわれているのです。私はちゃんとそこのところを踏まえた上で、要約できるところを要約していますし、原文を残した方がいいと思うところは活かしながら、繋げているのです。文学作品の作品評論というものは、話者の的確なニュアンスが、それぞれの特徴性を伴ってその評論自体に関わっていますから、どうしても、「作品評価・解説」の項目は、話者の原文を活用していきながら、明確要約して、全体としてそれぞれの話者の特徴や関連性から、その作品の様々な評価が解りやすく正確に伝わらなければなりません。ただ編集者がなんでもかんでも要約して纏めればいいという類の項目ではないのです。作品も作品評論も「言葉」に関わっているものですから、他の記事とはその点が同列にはできないものが含まれているのです。

私は何も頭痛さんの言っていることを全否定しているわけではありません。あなたのアドバイスして下さったように、無駄な引用は整理すべきだと私も思い、その方向でやっております。ウィキの方針もちゃんと読んで十分検討しながら執筆してます。だから少しは私の考えもご理解していただいて許容的に見ていただけないでしょうか。私はあなたと根本的に対立しているとは思ってませんし、あなたの完璧主義的な面は私と似ているため何かとぶつかることが多いですが、よりよい記事にしようという考えは同じだと思います。どうかご理解お願いします。--みしまるもも会話2013年6月7日 (金) 00:47 (UTC)

「河原者」というのは芸人に対する歴史的な蔑称のことです。であれば「芸人は歴史的に軽蔑されてきた」「卑賤視されてきた」といった要約で必要十分ではないでしょうか。「河原者」というのは別に作中でも解説文中でも中心的なキーワードになっているわけではないでしょう。どちらにしても、どうしても重要だとおもうのであれば「江戸時代には河原者と呼ばれたように」というようなかたちで要約に追加すればいいだけの話ではないのでしょうか。奥野の文章をまるまる引用する理由になっているようには見えません。
(北野によれば)と括弧付けにしたのはここを入れるか入れないかは随意にしてくれという意味です。入れないほうがいいのであれば入れなくてもいい。「コレー像は未知の若い少女として登場」するというような部分はユングからの引用であるということはわかっています。で、もとの文章ではあなたはそのユングの説明部分まで全部「北野昭彦は踊子について、」以下に続く引用符でくくっていますよね。であればそれは(あなたの文では)「北野がユングを引用しながら説明している」形に書かれているのであって、私の要約はなるべく元のかたちに沿うように合わせたに過ぎません。北野自身の解説とユングの解説とを分けたいのであればそのようにすればよろしいので、どちらにしても北野が書いた文章をまるまる引用する理由にはならないでしょう。
事典の解説は評論文ではなく事実の解説ですから、「批評家の文章を紹介すること」それ自体を目的とすることは間違いです。「各人がこういう論点で解説している」「こういう観点で論争が行われた」といったことをまとめるにとどめてください。要約でニュアンスがある程度損なわれるのは当たり前で、「ニュアンスを損ないたくない」と主張するだけで長文の引用が許されるのであれば「引用の要件」などは何の意味もなさなくなってしまいます。Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意が「引用を控えろ」とはっきりと言っていることの意味をもう一度よく考えてください。--頭痛会話2013年6月8日 (土) 10:44 (UTC)
私の会話ページにこのような書き込みがありました[2]
私は先日、「書いた記事に対する問題を指摘されているときに、それを記事の問題と受け止めることができないのであればWikipediaでの執筆などやめたほうがいいと思います」と書きました。この点も引用について述べていることも理解できなかったということなのでしょうか。2,3日時間を置いても構いませんので、もういちど自分の書いた記事を見ながら考えてみてもらえませんか。
なお、私が言っているのは「記事に問題があると思うからその点を認識してくれ」ということです。うまく直せないのであれば直せないで別に構わないのですが、そうであれば最低でも修正を促すテンプレートなどで他者による修正を促したいと思っています。記事内容を消去したりすることが目的ではありません。--頭痛会話2013年6月8日 (土) 11:12 (UTC)


北野のあなたの誤読に対する言い訳は見苦しいだけです。その(北野によれば)をとったところで、その文章内の「」が具体的に誰の言葉なのかも不明瞭で意味があいまいです。「しばしば」も間違ったところにかかっており、原文の意味とは違ってます。私が載せていたのは、北野の発言の原文ですから、「元のかたちに沿うように合わせた」のならば、きちんと原文を見て、それをちゃんと解釈できなかったとのは、どうみてもあなたの誤読です。

それと、何度も申し上げているように、私は何らウィキの方針やルール違反はしておりません。 Wikipedia:引用のガイドラインの中にも、「しかし時には、参考文献に掲載されている文章をそのまま抜粋し、記事中で紹介することによって、記事の主題に対する読者の理解が著しく向上することがあります。」と書かれております。作品に対するそれぞれの作家なり文芸評論家の作品評価や発言は、その作品に対する評価の「歴史的事実」でもありますし、その作品の主題説明を具体的かつ的確に示すために、それぞれの論者の原文引用を活用するのは、編集に際して有効であり、ルールにも抵触しておりません。

ただ、以前からあなたがおっしゃるように、引用部分が無駄に多いのは改善すべきことですので、見直すところもあり、現在私はそのような方向で過去の自分の記事も整理してやっております。昨日も一つ編集しました。私は私なりのペースで考えている最中に、これを2、3日中にやらなければ云々、というふうに時間制限をして押し付けないでください。ルール違反をしているわけでも、著作権侵害をしているわけでもありませんので、そこまで緊急を要して、時間指定まであなたにされる筋合いはありませんよ。そこまでするのなら、あなたは私に対し、完璧性を強要しているふうにしか見えません。{ルールの悪用」[3]にも当たりますよ。

私は現在とりかかり中の執筆もあり、いろいろと図書館の返却貸出予定もあるのです。「伊豆の踊子」を新たに見直しためには、また資料を全部読み直して一つ一つきちんと見て、もう一度ちゃんと確認してやらなけれなりません。この記事を私がどんなに苦労して作り上げて時間をかけたのか、ただ眺めているだけのあなたには解らないでしょう。やり直すにもそれなりの時間がかかるのです。編集に当てる時間もなかなか取れないときもありますので、もっと長い目でみてくれませんか? もしそんなに待てないのなら、あなたが資料を全部一から集めて熟読し、直してもかまいませんよ。その際は、あとから私が添削するかもしれません。どうせあなたがテンプレを貼ったところで、こんな手間のかかる作業をやる意欲のある人は、あなたも含めて誰もいないでしょう。いるのなら、何年も文学関連記事がこんなにさびれた廃墟のような放置状態になってなかったはずです。結局は私がやるしかありませんから、自治をふりまわさずに長い目で見ていただけませんか。--みしまるもも会話2013年6月9日 (日) 01:12 (UTC)

いや、「ニ、三日中に直してくれ」と言っているのではありません。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)
(北野によれば)はその部分をとれば普通に「ユングによる解説」の形になると思います。例では省略していますが出典をつければそのことは明瞭になるでしょう。ですがそれ以前に、上の要約はあくまでにすぎません。例えばとことさら強調したのはそういう意味で、文面に細かな点でよくないところがあるのであれば自由に直したりしてくれればいいということです。にもかかわらず、あなたは「ここもまずい、ここもまずい、ほら、やっぱりお前がやるとおかしくなる」というような形で、修正すること自体を頭から拒否しているわけです。私が今問題にしているのはその点です。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 09:31 (UTC)
「もっと長い目でみてくれませんか?」というのはむしろ私があなたに頼みたいことで、数年間誰もこの分野にちゃんと取り掛からなかったからといって、書き手があなたしかいないと考えるのは早計です。80年以上読まれ続けている古典の記事をいますぐ仕上げなければならないような理由はないと思います。10年20年かかったっていいんじゃないでしょうか? 「どうせ誰もやらない」というようなことで他者からの修正の余地を頭から否定するのはおかしいでしょう。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 09:43 (UTC)

横からすみません。頭痛さんは自分で伊豆の踊り子を書き直せばいいんじゃないでしょうか。その修正版が十分改善されていれば、みしまるももさんは、こういう風に書けばいいのだという、手本となるでしょう。それほど改善したものでなければ、他の利用者から再度修正が入ったり、あるいは差し戻しされるかもしれません。ウィキペディアは百科事典の記事を発展させるのが第一の目的です。助言やアドバイスが必要な場合もありますが、それは頭痛さんが理想と思うような執筆を、自分以外の執筆者に要求するのとは異なりますし、十分な説得力を持っていて、執筆を手掛ける人に伝わるものでなければ、逆効果になります。--Ks aka 98会話2013年6月9日 (日) 05:51 (UTC)

他に書きたい記事などもあるので伊豆の踊子だけを特に自分で修正する予定はありません。なので部分的にこのようにしたらどうかという具体例を出しているのです。私も時間をかければたぶん評者・研究者の追加をしながら全体の要約や調整などができるかもしれませんが、現状の記事で書かれている内容は現状の書き方がベストだという認識をみしまるももさんが持たれているのであれば、ここまでの議論のように「もとのニュアンスが損なわれている」「言霊が失われている」というような理由で差し戻されてしまうでしょう。違いますでしょうか。
みしまるももさんは2,3日に一記事というような早いペースで小説作品の記事を上のような形で加筆されています。気に入らないことがあるならそう思うやつが直せ、では追いつきません。批評の要約はある程度テクニックがいるので、やってみたがうまくできないということは無論あるでしょう。であれば最低でも問題を認識して他者からの修正を受け入れる態度を示して頂く必要があると思います。端的に言うと、少なくとも「作品評価・解説」の節に関してはみしまるももさんの記事は「粗製乱造」になっていると認識しています。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)
もうちょっと説明すると、各人の論点をまとめ提示するということよりも、各人の発言をニュアンスを損ねないように紹介するということをみしまるももさんが主眼としている以上、みしまるももさんが書いた「作品評価・解説」の節は他者がより百科事典的な形に修正する余地がなくなってしまうと言っているのです。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 10:05 (UTC)

可変IPからの中傷的なコメントがあったのでコメントアウトしています。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)

検証可能性や独自研究や中立的観点といったウィキペディアの方針が求めるものを満たして、「各人の論点をまとめ提示するということ」は、とても難しいことだと思いますよ。「各人の論点をまとめ提示するということ」をやろうと思うなら、主だった「各人」の論点を把握しなければ、あまりに偏ったものになります。踊り子に対する主だった批評を通読して、はじめてまとめ、提示することができるのではないですか。恐縮ながら、みしまるさんが列挙しているものでは十分ではないし、十分ではないことを承知しているならば、中途半端な段階では「各人の発言をニュアンスを損ねないように紹介する」というのが合理的な選択でもあります。「各人の発言をニュアンスを損ねないように紹介する」ということを主眼として編集してもらえれば、後から整理するのは簡単です。他の批評を探して追加したり、そこそこ増えてきたところで整理したりするのは他の人がやればいい。みしまるさんの投稿の直後でなくとも、何ヵ月後、何年後でも構わないわけです。
どうしても直さなければならない、虚偽や権利侵害や、明らかに百科事典から逸した記述を繰り返しているのなら、直ちに修正し、あるいは執筆姿勢自体を改めて頂かなければなりません。しかし、そうではないですよね。それなら、そう思うやつが直せ、ということになります。頭痛さんは、自分が気に入らないから、書いたお前が直せと強制できる立場にはありません。
頭痛さんが、みしまるさんのよりもよいと考えるまとめを部分的にでも作ったのならば、それを記事に反映させるべきは頭痛さん自身です。もとのニュアンスが失われているのなら、それは頭痛さんのまとめに、みしまるさんのものよりも劣っているというところがあるということではないですか。もとのニュアンスを損なわず、各人の論点をまとめ提示するようにブラッシュアップした対案を示せば、みしまるさんも納得するかもしれません。納得もしていないのに、みしまるさんが自分の名前を残して投稿しなければならない理由はありません。頭痛さん自身が、自らの責任で記事を編集すればよいのです。--Ks aka 98会話2013年6月9日 (日) 10:35 (UTC)
「書いたお前が直せ」と言っているのではありません。技術的に直せないなら直せないでよろしい。前述したように、要約を行えば「ニュアンス」はどうしてもある程度は失われます。そして数ヶ月後だろうが数年後だろうが、「論点をまとめること」よりも「ニュアンスを極力失わなせないために長文引用して論を紹介すること」にみしまるももさんが固執されている以上、他者がそのような「まとめる」修正を行うことはみしまるももさんの目が届いている限り不可能になるといっているのです。違いますか。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 10:46 (UTC)
「自分が気に入らないから」云々とありますが、個人の好みの次元だと思われているのはちょっと理解できませんね。--頭痛会話2013年6月9日 (日) 10:51 (UTC)

みしまるさんに確認ですが、「ニュアンスを極力失わなせないために長文引用して論を紹介すること」に固執されていますか? --Ks aka 98会話2013年6月9日 (日) 11:12 (UTC)

Ks aka 98さんへ - 私は、原文で残したい重要な文があれぐらいの長さなら許容される範囲だと判断して書いたのですが、もしそれがどうしても客観的観点(頭痛さんだけでなく)から見てダメだということならば、なんとか引用原文を回避させてニュアンスに欠かせない言葉を入れてながら直すように努力します。あるいは頭痛さんが、そのへんをクリアしてやってくださるのなら、固執はしませんが、ただ単に短く要約することに主眼をおいて、中身を損ねているものには妥協はできませんね。

頭痛さんへ - 「やってみたがうまくできないということは無論あるでしょう」と頭痛さんはおっしゃってますが、私はまだ何もしてませんよ。資料を再確認しなければなりませんし、上でも申したように図書館の貸し出し冊数は限られてますので、また手もとで見るには時間をいただかなければなりません。それがどうしても待てないのであれば、頭痛さんが先にやってくださいと私は言ったまでです。そしてその直しに対して、おかしいと思ったところがあれば、私が修正なり添削なりするのは、あなたに阻止される理由はありません。頭痛さんが、もし今回、「伊豆の踊子」に対するそれぞれの評論家なり作家なりの作品評価を、引用符を減らして書き改めてくださるのならば、その中身もそれなりにその論者の意味を踏襲していなければ、私にも直す権利があります。おかしいと思えばそれに加筆なり意味の間違えを直すことは当然でしょう。

例えば上記で頭痛さんが試みた要約文では、私は加筆を加えます。すでに上で説明させていただいたように、「河原者」という言葉が抜けてしまっては、「漂流者としての芸人」というニュアンスと、孤独な生い立ちの旅人川端の踊子への心情同調性のニュアンスが見えなくなってしますからです。あなたは「河原者」という言葉を単に、「江戸時代の蔑称」という表層的な意味しか考えない人ですから、その言葉の持つ独特の意味や、背景にある日本の風土、「河原」という言葉から連想される宗教・文化的なものなどを全く無視して削除しましたね。あの文例では、記事編集において一番大事な大本である正確さ、その作品の主題を浮き彫りにする大事な根本が損なわれてしまうのです。あれでは、日本の芸能史を踏まえて論じている奥野の評論がまるで生きてません。

それから、文芸評論家の作品評価というものは、その文学作品を語る上で重要なものです。特にその本人も作家である場合やそれなりの評論家である場合は、それが的確にその作品の微妙な要素を伝えていて、その評論そのものにも歴史的価値があり、常にその作品と共に語られるものも少なくありません。大事なところは原文沿う形にならなければ、その文学作品そのものの記事として片手落ちになってしまい、あなたが言うところの要約にもなりません。あなたは日本のノーベル賞作家の代表作である「伊豆の踊子」論がどれだけ沢山あるか御存知ないでしょう。私が挙げたものはあれでも、なるべく簡潔に少なく主要なものだけに要約されているんです。そしてより的確に要約するためにも、必要最低限の引用の活用は有効なんです。これはウィキのルールにも違反しておりませんし、著作権侵害もしてませんので、あなたの時間制限で急かされるものでもありません。よりよく改善するために長い目で見てくれませんか、と私はお願いしたのはそういう意味です。そして、その間にあなたがやりたいのなら直してもかまいませんよ、と言ったまでです。--みしまるもも会話2013年6月9日 (日) 13:21 (UTC)

著名な論者だけでもかなりの数に上るであろう「伊豆の踊子」に対する他者の言及についてですね、一人一人に3行4行に渡る長文の引用を割り当てて紹介していったら大変なことになるというのはわかりますよね。あなたがやっているように特定の利用者が「ニュアンス」に拘って文言の要約を拒んでいたら、他の編集者が他の評者の見解などを加えて「自分の文章で」より百科事典的な形にまとめるということはできなくなりますね。
「河原者」という語には独特のニュアンスがあるでしょうが、要約すればニュアンスは失われるものだということは再三述べていると思います。その上でどうしても必要なのであれば前述したように要約に「河原者」の部分を加えればいいわけで、長文をまるまる引用する理由にはなりません。で、私挙げたような要約に「河原者」の例を追加すればそれでいいのですか? すでに述べたように私の要約はにすぎないのであって、別に私の文に書き換えたいと言っているわけではないのですが。私が言っているのはやり方しだいで引用を最小限にできるはずだということです。文学論文でも他者の論評に触れるのに3行も4行もまるまる引用したりはしません。それをするのはその論評なり文章なりに新たな意見や見解を加えるときで、こういうふうに「他の評者から評価されている」とだけ付け加えることで引用の必然性が成り立つわけではありません。
北野昭彦の部分のあなたの文章をもう一度掲示します。
  • 北野昭彦は踊子について、「<私>の踊子像はその時々で多面的に変容する。彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた<コレー像>に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である。『コレー像は未知の若い少女として登場』[11]し、『しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である』[11]とされている」[12]と解説している。
引用符の中の文章を強調しています。これをみれば明らかなように、「コレーとは~とされている」という、ユングの概念の説明部にまで引用符のなかに入っています。引用符の前後の文章は「北野昭彦は踊子について」「と解説している」です。出典11はユングの文献になっています。以上を考え合わせれば、あなたの書き方は北野昭彦がユングの文献を参照しながらユングの概念を説明している以外に取れません。そのように取ることのどこが間違っているのか、きちんと論理的に説明してください。あなたはこれが私の誤読であると言ったうえで「あなたは少なくとも、文学作品に関しての記事の執筆資格がまるでないことが判明いたしました。」とまで言ったわけですから、私に文学作品の記事の執筆資格がまるでないのだということが私以外の人間にもはっきり理解できるように、この点をしっかり説明する責任があります。でなければあなたが言ったことはただの中傷であり、あなたのほうが非難されるべき理由になります。
それから何か誤解があるようですが、私はあなたに「早く直せ」というような催促をしているつもりはありません。あなたが行っている長文の引用に対する見解を聞いているだけです。--頭痛会話2013年6月10日 (月) 23:06 (UTC)
あー、それから前の私の要約で「しばしば」と入れたのは元の文章の「しばしば微妙なニュアンスを持つのが~」の部分から取ってきているわけではなく、文章の調子を整えるために自分で入れただけです。元の文章と言っていることが違うのであれば別の言葉に変えるなり除去するなりすればいいでしょう。繰り返しますが「例えば」だと言っている意味がわかりませんか。--頭痛会話2013年6月11日 (火) 00:03 (UTC)
もうひとつ言い落としていたようですが、私の要約は脚注は省略しています。ユングからの引用部分には当然ユングの出典がつくと考えてください。--頭痛会話2013年6月11日 (火) 00:35 (UTC)

どうみても見苦しい言い訳ですね(笑) あなたは私が指摘している意味すら解っていらっしゃらないようです。そもそも「しばしば」を『コレー像は未知の若い少女として登場』にかけること自体が間違っているのですから、あなたの誤読は否めませんよ。「コレー像は未知の若い少女として登場」することは規定概念ですから、その前に「しばしば」なんて付けること自体がおかしいのです。それから、あなたは、「あなたの書き方は北野昭彦がユングの文献を参照しながらユングの概念を説明している以外に取れません。」とおっしゃってますが、その通りですよ。それをあなたの要約文では、そういうふうに読めなくなってしまっていたから、注意したのです。ちゃんと理解した上で要約したのなら、「しばしば」をあそこに付けて意味を歪曲することもないはずです。それに、『しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である』というユングの脚注部分を解体してしまい、あなたは、「また踊り子の姿として表れるときには「微妙なニュアンスを持つ」。」としてしまっては、いくらそこにユングの脚注をつけたところで、余計に偏向されて混乱を招くことになってしまいます。ですから、下手に北野の原文引用を解体させてしまうよりも、短い引用ですし、あれ自体がユングを取り入れて北野が簡潔に纏めている文章ですから、本当はそのままにしておく方がいいのです。私は、北野が「踊子の多面的な形象」について論じている解説文の中から、その要点を簡潔に言い表わしている重点部分だけを載せたんです。でもあなたのように誤読してしまう人もいますから、原文自体が少し言葉足らずなところもあるかもしれませんので、説明を加え改善していきたいと思います。

それから、あなたはしきりに「引用の必然性」とおっしゃりますが、そもそも、評論文の中身を読んでないで、その論者の主旨も把握していないあなたが、私の残した引用部分のことを大上段から偉そうに「必然性」がどうのこうのなどと語れないでしょう。例えば、あなたが執筆した記事の中にも、引用を使用している部分がありますが、そこだって第三者の私から見れば、特に引用でくくる「必然性」とやらは見受けられません。それでも私はあなたのように大上段に直しを要求したりはしません。それは、私がその記事の資料内容を全部見たわけではないし、あなたなりに考えて執筆しているのだと考えているからです。だから「必然性」と一言に言っても、主観が入り込むものですし、その言葉自体があいまいな概念ですから、そんなふうに声高に独善的に言うこと自体が何か観点がずれているような気がします。私が引用の必然性があると考えていても、あなたがそれを認めないことでいままで議論になってきたのですから、今さらくどくどと蒸し返してもしょうがないことでしょう。

現段階の議論では、「私は必要と考えていますが、なるべく原文引用を減らして、うまく纏める方向にするので、直すにのもう少し時間をみて、急かさないでください」ということになっているでしょう。私がこれだけ譲歩しているのに、いつまでグダグダと文句を言い続けるのか、訳がわかりませんよ。

それから、他の執筆者が新たに別の評論家を見解を纏めて書き加えができなくなるとのことですが、そんなことはないでしょう。パラグラフは分かれてますから、書き加えたい人がいたなら、その人なりの纏め方で載せればいいだけです。私はそれに対して、独自研究や虚偽がなければ、特に何だかんだとあなたのように絡みませんし、人の執筆スタイルに自分のやり方を押し付けたりいたしません。現段階での私の引用が多いことと、他の人が新たな論者の解説加筆することは何の関係ないことです。今まで私が評論加筆した記事でも、私の後に、他の人が新たなものを載せてますし、何も問題となっておりません。それに私は、もう一度自分の執筆を見直してみる方向でやってみましょうということで、あなたに妥協をしたわけですから、つまらない言いがかりレベルや、ご自身の誤読のことで、いつまでも私に絡んで、くどくど言うのはみっともないですよ。少しは大人になったらいかがでしょうか。誤読は誰にでもあることですし、私自身もそれに気をつけての執筆に心掛けていることです。--みしまるもも会話2013年6月11日 (火) 02:19 (UTC)

とりあえず、今手持ちである資料で確認できるものは、なんとか直したものもありますので、ご報告しておきます。まだこれから直すものもあり、直したところも不完全かもしれませんが、あまり完璧性を強要せずに、長い目でみてください。奥野のはまだ手もとにないので後日、全論文を読み直した上で見直します。--みしまるもも会話2013年6月11日 (火) 13:02 (UTC)

北野と奥野の文章については自分で要約をしてみるということですので、修正されたものを確認したうえでまたコメントします。前述のように別に急かしているつもりはありませんので、時間があるときにゆっくり取り掛かってください。
さて、伊豆の踊子でさきほど修正された部分[4]を確認してみました。以下、強調は直接の引用になっている部分、アンダーラインは「要約」の対象になった部分およびその要約部分です。
  • 修正前1)「これらの静的な、また動的なデッサンによって的確に組み立てられた処女の内面は、一切読者の想像に委ねられている。川端氏はこの『処女の主題』のおかげで、氏の同時代の作家が悉く陥った浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれるのである世間ではこれを抒情というが、『伊豆の踊子』の終局に見られる『甘い快さ』がどうして抒情であろうか。これはむしろ反抒情的なものだ。まるでこの見事な若書の小説は、『甘い快さ』だけではこのような作品が成立しないことの証明として書かれたようなものだからだ
  • 修正後1)「これらの静的な、また動的なデッサンによって的確に組み立てられた処女の内面は、一切読者の想像に委ねられている」[11]と述べ、この「処女の主題」のおかげで川端は、同時代の作家が悉く陥ってしまった浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれていると解説している[11]。そして世間ではその川端の文章表現を、「抒情」などと呼ぶが、『伊豆の踊子』の終局に見られる「甘い快さ」は単に抒情といえるものではなく、むしろ反抒情的なものであると三島は述べ[11]、『伊豆の踊子』を「見事な若書の小説」と讃辞しながら、この作品は「甘い快さ」だけでは成立しないことの証明として書かれたようなものであると解説している。
  • 修正前2)「しからば処女というものはそもそも存在しうるものであろうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情というのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである。焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ
  • 修正後2)「しからば処女というものはそもそも存在しうるものであろうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情というのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである」と、川端の「抒情」を説明し、それは焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされるが、しかしそのあいまいさは正確なあいまいさであると、その表現方法を解説している[11]。
「川端氏はこの『処女の主題』のおかげで、氏の同時代の作家が悉く陥った浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれるのである」(引用)を「この「処女の主題」のおかげで川端は、同時代の作家が悉く陥ってしまった浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれていると解説している」(地の文)にしただけ、「焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ」(引用)を「それは焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされるが、しかしそのあいまいさは正確なあいまいさであると、その表現方法を解説している」(地の文)にしただけ、前後を比べれば分かると思いますが、ほとんど引用符をとって単純に「解説している」とつけただけですよね。使用されている単語、語順、語法ほぼそっくり引用前のままです。私が前にこうしてみればといって挙げた要約の仕方もちょっと例が悪かったかしれませんが、これでは実際には三島が書いた文章そのままのものを、まるであなたが作った(まとめなおした)文であるかのように書いてしまっており、単なる三島からの剽窃になってしまっています。これではむしろ前の状態のほうが引用部分が引用符によって明確になっているだけマシです。
北野と奥野の文章についても、このような形にしかできないのであれば手直しされないほうがよいのではないでしょうか。前述のように要約にはテクニックがいるので、直せないのであれば直せないで仕方ないと思います。しかしそれだけに、上のようにヒステリックとも思える態度で他者からの手直しや要約を頑なに拒否されていることには非常に問題を感じます。
ご返答の内容によってコメント依頼を行うことを考えています。この議論が私(頭痛)の執筆スタイルの押し付けであり、「つまらない言いがかり」としか感じられないということであれば、やはり問題を公知させて全体の意見を募ったほうがよいと思います。--頭痛会話2013年6月11日 (火) 18:11 (UTC)

私は他者の手直しを拒否してませんよ。頭痛さんがおやりなったらと上でも言っております。それなのに、あなたはそれをやる意欲を示しませんでした。私の直しは、「三島が述べている」と記し、出典も明らかにしているので、たとえほぼそのままを活かしていても、剽窃にはならないのではないでしょうか。変にあなたが上でやってしまったように、誤読や歪曲に陥って意味が変わってしまうよりはまだいいでしょう。出典を付けながら独自研究や歪曲あるいは意味の省略による偏向をしていることになり、より悪質なものになると思います。私はなるべく原文の意味を損なわずに努力しました。三島の川端評論は、歴史的にみても川端の「処女の主題」を鋭く論じた先駆け的な重要なものなので、これは下手に要約できませんよ。

私が直したものが気に入らないというのならば、頭痛さんが三島の論文を全部お読みになった上で、意味を損なうことなく完璧に直してください。人に完璧性を要求するのならば、まずはあなたが手本を示すべきではないでしょうか? 第三者のKs aka 98さんもおっしゃっていたように、頭痛さんが手本を示さなければ何の説得力もありませんよ。自分は何の苦労もしないで、人に完璧性を強要しているあなたの態度そのものが、「コメント依頼」の対象になるのではないでしょうか。私は私なりに、あなたの意見を聞き入れて努力をしておりますので、何らそんなところでガタガタと批判される筋合いはありません。あなたは文学関係記事を常にチェックしながらも、『伊豆の踊子』に関して、いままで何年もほとんど何の内容もないままの廃墟のような状態を放置し、何ら加筆もなさっていないのに、なぜそこまで大上段に偉そうに人に要求だけするのでしょうか。少なからず私は、『伊豆の踊子』の基本情報や背景、作品評価など小説としての記事そのものを充実させました。あなたのようにご自分では一切加筆努力もなさらずに、その上から目線で威張るだけなら誰にでもできます。そんなに人のやることなすこと気に入らないのならば、ご自分で何もかも『伊豆の踊子』を研究してご自分が執筆なさればよかったのでは? 人の直しを丹念にチェックするお暇があるのならば、新潮文庫を買ってきて三島の評論を見れば、すぐにでもとりかかれますよ。まずはあなたが手本を示してから、人に完璧を求めてください。そうでなければ、あなたのその姿勢、ご自分は一切、記事向上の努力も何もしないのにもかかわらず、人に完璧性を強要する態度そのものを、私が「コメント依頼」させていただきます。--みしまるもも会話2013年6月12日 (水) 00:55 (UTC)

Wikipedia:コメント依頼/みしまるももを提出しました。
この編集で加筆修正された部分ですが、「ユングが説いているところの~という言説を紹介している」は前後の文のつながりが変です。「ユングが説いているところの」は()でくくるとか、「言説」の前に「ユングの」を入れるなどの調整が必要ではないでしょうか。それはともかく、修正後のものもやはり引用符でくくってある部分は引用である必然性があるように思えず、またこれを見ても私が上で示した要約にさほどおかしな点があるようには思えませんでした。説明を行っているのがユングか北野かというだけの問題であるならそこの部分を書き換えるなり補うなりすればすむ話ではないのでしょうか。被依頼者のコメント欄がありますので、そのあたりもコメント依頼で説明していただければと思います。--頭痛会話2013年6月13日 (木) 18:20 (UTC)

コメント依頼が出された後の対応について[編集]

日々ご苦労様です。コメント依頼の依頼者・被依頼者の立場になられて、第三者がそれぞれコメントを述べられてる際には、あまりそのコメントに対してレスなされないほうがいいと思います。基本的に全く関係のない方々が善意でコメントされてるのですから。第三者からのコメントを募るということは、当然、自らに対する厳しい見方も優しい見方も、どちらも寄せられ得るものです。第三者同士が議論するならともかく、当事者がコメントに対してレス(反論みたいになっていませんが)するのは、なんか損をしているというか、第三者から見ると印象が悪くなるというか、第三者に委ねた以上、黙っている方が得策だと思いますよ。いろいろな意見が出てくるのは当たり前ですからね。それと別節「被依頼者の追記 「主従関係」と著作権侵害について」を最下部に追記されてますが、「被依頼者のコメント」内に「主従関係」と著作権侵害について」を移されたほうがいいかと。みしまるももさんの主張が分散してるようで、第三者にはややこしいく感じると思います。よかったらご検討してみてください。--Gladneed会話2013年6月17日 (月) 06:03 (UTC)

アドバイスありがとうございます。返事を入れないといけないのかと思ってしまいました。以後気をつけたいと思います。分散していた項目も私のコメントの方に移動しておきました。--みしまるもも会話2013年6月17日 (月) 07:08 (UTC)

こんばんは[編集]

みしまるももさん、こんばんは。Calvero と申します。Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/夜長姫と耳男 20130713 では、ぶしつけなコメント失礼いたしました。あちらでは議論が長くなっていますので、会話ページに来ました。余計なお世話かもしれませんが、ちょっと心配になったもので。コメントがあまり属人的・挑発的にならないように、なるべく穏便に話し合っていただければ…。--Calvero会話2013年7月16日 (火) 14:20 (UTC)

Calveroさん、はじめまして。助言ありがとうございます。そして、Calveroさんのコメントはぶしつけでもなんでもないので、気になさらなくていいですよ。私ももうあそこへ行くことはないでしょう。--みしまるもも会話2013年7月17日 (水) 00:07 (UTC)

こんにちは[編集]

私はスペイン語ですので、こんにちは、私は日本語を話さない。あなたに感謝し、私を助けてこれらの記事の改善に役立つことができれば、私は尋ねる: アウディトリオ・デ・テネリフェ, ペトロ・ド・ベタンクール, マリア・デ・レオン. それが再び、面倒ではありませんおかげで、期待しています。--CanaryIslands会話2013年9月23日 (月) 14:37 (UTC)

Shigeru-a24さんのコメント依頼のお知らせ[編集]

お疲れ様です。コメント依頼が必要であるとの意見が多かったためWikipedia:コメント依頼/Shigeru-a24 20131117を提出しております。よろしければコメントをよろしくお願いします。このメッセージはWikipedia:投稿ブロック依頼/Shigeru-a24 20131017に参加された方々にお送りしております。--Liberia会話2013年11月22日 (金) 12:32 (UTC)

投稿ブロックのお知らせ[編集]

あなたはブロックされました。
あなたはブロックされました。

あなたはブロックされました。しばらくウィキペディアの編集を行うことはできません。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。今後の対話ならびに異議申し立て、解除依頼はあなたの会話ページで受け付けます。会話ページも編集できないブロックの場合は、IRC#wikipedia-ja-unblock、もしくはメーリングリストで、会話ページの編集許可を求めてください。(ヘルプ投稿ブロックへの異議申し立て投稿ブロックへの異議申し立ての手引き参照)

各所の議論において過度にヒートアップされているようにお見受けしましたので、冷却期間として24時間の投稿ブロックを設定させていただきました。どうか冷静さを取り戻していただきますようお願いいたします。--MaximusM4会話2013年12月18日 (水) 13:20 (UTC)

Freetrashboxさん、ブロック解除どうもありがとうございました。--みしまるもも会話2013年12月19日 (木) 05:40 (UTC)

Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について[編集]

Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について」に、

具体的には以下の表に記述しているユーザーに資格があります。この資格要件は、投稿ブロック依頼のノートページにも適用されます。(強調部は森藍亭による)

とあるように、ノートページにも発言資格の制限があります。

「IPユーザーは、「投票」資格はありませんが、「コメント」資格はあります」と、みしまるもも氏は主張されるが、その主張する根拠を提示願いたい。なお、当該IP利用者は、当該投稿ブロック依頼において、広域ブロックに巻き込まれる利用者ではない。まさか、被依頼者だとでも主張されるのでしょうか。--森藍亭会話2013年12月19日 (木) 07:56 (UTC)

森藍亭さん、リンクを示しての丁寧な説明ありがとうございます。全くこちらの勘違いでした。失礼しました。削除依頼などで、IPさん達もコメントしていたのと混同してしまいました。巻き戻しの手間をおかけして、すみませんでした。--みしまるもも会話2013年12月19日 (木) 12:00 (UTC)

ノート:幹細胞について[編集]

こんばんわ。会話ページにすみません(ノートよりこちらの方が良いと思ったので)。みしまるもも様の意図は「生物学事典は信用できる文献なのか?」ですか?それとも「娘細胞などに出典がありません」ですか?前者であれば(提示されているのは「岩波 生物学辞典」の事だという前提で)、どのような方が著者なのか調べればよくわかります(Wikipediaには記事がある方もいらっしゃるようで、この文献を信用できないとする人はちょっと想像できません)。後者であれば、要出典タグを貼れば良いだけです、娘細胞程度であれば、このレベルでも掲載されていますが、出典があるにこした事はないでしょうから。--JapaneseA会話2014年2月25日 (火) 08:06 (UTC)

JapaneseAさん、お久しぶりです。『生物学辞典』についての流れはノート:幹細胞で追って見ていただけると分かると思いますが、私が言いたかったのは、その辞典だけを基準にして、「生物学の用語ではない」と決めつけるのはよくないのでは?という意味です。JapaneseAさんも何かこの件でコメントがおありでしたら、ノート:幹細胞で参加お願いします。--みしまるもも会話2014年2月25日 (火) 08:55 (UTC)
そのような意図なのであれば「30年前は娘細胞という用語はなかったのですか?」の質問の意味が分からないのですが。娘細胞があるか無いかが簡易かそうでないかの基準になるんでしょうか?--S.Noue会話2014年2月25日 (火) 09:08 (UTC)
S.Noueさんへのコメント依頼が出ているようです。お気の毒さま。Wikipedia:コメント依頼/akane700・Liberia・S.Noue--みしまるもも会話2014年2月25日 (火) 13:14 (UTC)

リダイレクト削除審議のお知らせ 2014年2月[編集]

リダイレクト削除依頼からのお知らせです。みしまるももさんが作成したリダイレクト(または作成後にリダイレクト化されたページ)に対して削除依頼が提出されております。つきましては、審議への参加をお願いいたします。対象リダイレクトの審議場所:Wikipedia:リダイレクトの削除依頼/2014年2月#RFD眠れる美女 (映画)

ご注意:※みしまるももさん作成のリダイレクトのうち、複数が追加で依頼される場合があります。しかし当月分に関しては再び通知されることはありませんのでご注意ください。当月の審議ページを「ウォッチリストに追加」して、チェックすることを強く推奨します。※このお知らせを翌月7日までに過去ログ処置などで消去した場合、仕組み上、同じ文章が再度投稿されますのであらかじめご了承願います。※このお知らせはBotにより自動投稿されています。この下にメッセージを書き加えても、返答が付くことはありません。自動投稿に関する問い合わせは「Bot運用者の会話ページ」にお願いします。--Trvbot会話2014年2月26日 (水) 18:04 (UTC)

コメント依頼提出のお知らせ[編集]

Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも_20140302を提出しましたのでお知らせします。--T6n8会話2014年3月2日 (日) 05:55 (UTC)

ノートページでの見出しについて[編集]

Wikipedia:ノートページのガイドラインにノートページでの見出しづけという節があって WP:TALKNEW#TPSECTION

  • 見出し名は記事に関係するものに限る: 見出しはあなたが記事のどの点について議論したいのかはっきり伝わるものにするべきです。「この記事は間違っています」といった見出しを使うのはやめましょう。
    • 見出しに決して他の利用者名を掲げない:見出しは必ず他のすべての利用者に当てたものにしてください。

ということが書かれています。もっともであると思いますので、記事のノートページに見出しをつける際にはなるべくこれに沿うようにしていただきますようお願いします。--T6n8会話2014年3月5日 (水) 15:05 (UTC)

ノート:万能細胞の目次をきちんと見ていただければ分かるように、私が付けた「見出し名」は一つもありません。それらは全部、T6n8さんや他の方々が付けたものです。その項目の中で、お返事が分かりやすいように、返答する方のお名前を「太字」にしたことはありますが、「見出し語」にしたことはなく、ましてや「この記事は間違っています」などという類の「見出し」など一つも付けてませんよ。誤解のないようにお願いします。むしろ、ノート:万能細胞#みしまるもも氏の投稿についてという「見出し語」を付けているのは、T6n8さんの方です。よくご覧になってください。何も身に覚えのない、このようなものを私が会話ページに張り付けられたということは、T6n8さんの行為自体が、WP:悪用に当り、「法律家ごっこ」「印象操作」になりますので、注意した方がいいと思います。--みしまるもも会話2014年3月6日 (木) 04:54 (UTC)

この件についてはかなりデリケートな問題になっていると思いますので、相手方のことを指摘する際は差分をしめした方がいいと思います。みしまるももさんの編集につきましては、私は細胞生物学の専門家ではないのでよく分かりませんという発言があることから、厳しい目で見られています。もっとちゃんと調べてからの編集をお願いしたいところです。--S.Noue会話2014年3月6日 (木) 11:11 (UTC)

S.Noueさん、こんばんは。「細胞生物学の専門家ではないのでよく分かりません」と謙遜して言いましたが、様々の論文に書かれている要旨を読解することはできますし、用語の意味や内容は大体把握できてます。分化能がどういうものかは今回いろいろと勉強しましたので、万能細胞について大体分かりました。--みしまるもも会話2014年3月6日 (木) 11:33 (UTC)

上記のルールは最近、その見出しを私がつけたより後に見かけました。でもって、その私がつけた見出しも不適切であったと思います。みしまるももさんが、XXさんへと書いているのが上の目次に出るセクションタイトルでないことはその通りなのですが、一般的な、文書の見出しのスタイルではありますね。見出しであってもなくてもいいのですが、特定の利用者に向けて書くのではなく、全員宛にという意識を持って書いていただくほうが、議論が円滑に進む文になっていくと期待してのものです。特にいずれかの過去の投稿を糾弾するという意図はなく、XXさんへという書き方をなるべく避けていただくほうが良いと考えているものです。XXさんが提示・主張したYYの点についてとお書きになることはできると期待しています。そういう未来へ向けての提案とご理解下さい。
WP:悪用、「法律家ごっこ」「印象操作」は悪意に取りすぎです。
間にS.Noueさんがはさまって分かりにくいですがインデント2段で書いてみました。--T6n8会話2014年3月6日 (木) 13:15 (UTC)

投稿ブロック依頼提出のおしらせ[編集]

ご存知のことと思いますが、Wikipedia:投稿ブロック依頼/みしまるももを提出しております。貴方様もコメントできますのでご確認ください。お知らせが遅くなり申し訳ありません。--S.Noue会話2014年3月17日 (月) 21:03 (UTC)

反対票も多いですし、特にコメントなどされる必要はないのではないでしょうか。--Shigeru-a24会話2014年3月18日 (火) 04:25 (UTC)

Shigeru-a24さん、お気遣いありがとうございました。同じく万能細胞の記事執筆やノートで、Shigeru-a24さんも参加されていたことからのご意見を受け止めてさせていただきます。クールダウンして、いままで通り文学分野を主にしていきたいと思います。--みしまるもも会話2014年3月19日 (水) 00:59 (UTC)

私の編集の不当性の指摘について[編集]

みしまるももさんは、こちら[5]において、私がパチンコにおいて行った編集に不当な部分があると述べられてらっしゃいます。これについて当該ページのノートで質問いたしましたので、ご回答をお願いいたします。--Nazox会話2014年4月27日 (日) 07:02 (UTC)

コメント依頼提出のお知らせ[編集]

Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140429を提出しています--新続頭痛会話2014年4月28日 (月) 20:23 (UTC)