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嵯峨天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
弘仁帝皇から転送)
嵯峨天皇
嵯峨天皇像(御物

即位礼 809年5月30日(大同4年4月13日
大嘗祭 810年12月19日(弘仁元年11月19日
元号 大同
弘仁
時代 平安時代
先代 平城天皇
次代 淳和天皇

誕生 786年10月3日延暦5年9月7日
崩御 842年8月24日承和9年7月15日
嵯峨院
大喪儀 842年8月26日(承和9年7月17日
陵所 嵯峨山上陵
追号 嵯峨天皇
神野
元服 799年3月17日(延暦18年2月7日
父親 桓武天皇
母親 藤原乙牟漏
皇后 橘嘉智子
子女 仁明天皇
源信
源常
源弘
源定
源融
正子内親王
有智子内親王
源潔姫 他多数(#后妃・皇子女
皇居 大内裏
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嵯峨天皇(さがてんのう、786年10月3日延暦5年9月7日〉- 842年8月24日承和9年7月15日〉)は、日本の第52代天皇(在位:809年5月18日大同4年4月1日〉- 823年5月29日弘仁14年4月16日〉)。 神野(賀美能・かみの)。嵯峨源氏の祖に当たる。

桓武天皇の第五皇子(諸説あり)。母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后橘嘉智子(檀林皇后)。

嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り

略歴

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延暦9年(790年)閏3月に、数え年5歳で、生母の藤原乙牟漏を亡くす[1][2]

延暦11年(791年)、嵯峨天皇の諱が乳母である賀美能宿禰の出身地の神野郡より賀美能(神野)親王と名付けられる[3]

延暦18年(799年)2月に元服。聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父の桓武天皇からも愛された[4][5]

延暦22年(803年)に三品中務卿となる。

延暦25年(806年大同元年)5月9日に弾正尹となったが、同月19日に兄の平城天皇即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父の桓武天皇の意向が働いたとも云われている[6]

ところが、『扶桑略記』によれば、大同元年11月頃[注釈 1]に平城天皇が神野親王の皇太弟廃位を画策し、これを知った東宮傅の藤原冬嗣が親王に告げ、それを知った親王が父が眠る柏原山陵を遙拝したところ、平安京中を烟気が覆って昼なお暗い状態になった。これに驚いた天皇が占いを命じたところ、柏原山陵の祟りという結果が出たために、これを恐れた天皇が企てを断念したという。この話は『水鏡』・『愚管抄』・『東宝記』にも掲載されている。この逸話について、西本昌弘は平城天皇が桓武天皇の遺命(神野親王の皇太弟擁立)に不満を抱き、実際に皇太弟の廃位と自らの皇子の立太子を画策していたのではないかとしている(なお、西本は同年10月に桓武天皇陵が改葬されたとする説があるのと関連して、実際の計画は改葬の直前であったのではないかとしている)[7]。一方、春名宏昭は桓武天皇の遺命の存在を否定して平城天皇自身が自らの皇子の幼さから皇統安定のために皇太弟を立てたとする見解から、この話を創作ではないかとしている[8]

大同4年(809年)4月1日、平城天皇の譲位を受け、即位[9]。平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子とした[4]

弘仁元年(810年)に平城上皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、今度は異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟に立てた[9]。これが承和の変の遠因となる。なお、平城上皇はこれ以後も太上天皇の尊号と礼遇を受けている[4][6]

以後、約40年間にわたり平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んな時期を過ごす。

同年(810年)に、蔵人所を設置し、巨勢野足藤原冬嗣蔵人頭に任命[10]。弘仁3年(812年)に右大臣となった藤原園人を中心とする官僚に政務を任せ、詩宴を精力的に開催するなど、文治的事業に専念する[11]。弘仁9年(818年)には、平安京の十二門を唐風の名に改め[12]、宮中の儀式も唐制に改めた[9]

弘仁5年(814年)5月、の3人の皇子を含めた母親の身位の低い子供たちが源朝臣姓を賜与されて臣籍降下している[13]。弘仁6年(815年)7月以前にに立てられていた異母妹高津内親王を廃して(時期は不明)、同月に橘嘉智子を皇后に立てている。

弘仁6年(815年)4月、近江国志賀郡への行幸中に梵釈寺で輿を停めた際、唐から帰国した僧である永忠が自ら点てた茶を飲んだとされる[9][14]

弘仁9年(818年)、弘仁格を発布。この頃、農業生産が極度の不振[注釈 2]にあり、財政難は深刻であった。その対策として、墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田勅旨田の設置などが行われた。

弘仁14年(823年)には、空海東寺を賜り、その前年には、最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認めている。

弘仁14年(823年)、大伴親王(淳和天皇)に譲位太上天皇となり、実子の正良親王(後の仁明天皇)を皇太子とした。この時、律令体制維持のための財政緊縮を主張してきた藤原氏[6]の一員であり、嵯峨天皇の腹心であった右大臣の藤原冬嗣は、凶作が続く中で、平城上皇の他さらにもう一人上皇を持つのは財政負担が大きいとして、反対した[4][6]。それでも譲位を実行したのは、天皇の長子が原則として皇位継承していくという習慣[15]に逆らって、桓武天皇の次男であった自分の子供に皇位継承させるためだった可能性が指摘されている[6]

譲位後は冷然院に住んだ。淳和天皇による国政への関与の例は少ないが、弘仁15年(824年)の平城上皇の崩御の翌月、薬子の変に連坐した流人を召喚する処置をとったのは、嵯峨上皇によるものだった[4][6][16]

天長10年(833年)、淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位する。この時、淳和上皇らの反対を押し切って[要出典]自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を仁明天皇の皇太子とした。

同年10月、在位中に設営された洛外の離宮嵯峨院(後の大覚寺)に御所を新造し[17]、太皇太后嘉智子と共に移り住んだ[6]。その庭には中国の洞庭湖を模した人工池である大沢池が造られている。

実子である仁明天皇の国政へは、より頻繁に関与し、自らの遊猟に奉仕した者に叙位を行ったり、小野篁を流罪にする[18]などしている[6][19]

承和9年(842年)、崩御。宝算57。その後間もなく承和の変が起こっている。

自ら国葬を拒んだ天皇としても知られている。皇子皇女が多数おり[注釈 3]、財政圧迫を回避すべく皇族の整理を行い、多数にを賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。

嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。源氏物語光源氏でも知られる河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子。

漢詩をよくし、空海橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。書作品としては延暦寺蔵の「光定戒牒」が知られる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている[注釈 4]

系譜

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嵯峨天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第38代 天智天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 施基親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 道伊羅都売
 
 
 
 
 
 
 
4. 第49代 光仁天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 紀諸人
 
 
 
 
 
 
 
9. 紀橡姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 道氏
 
 
 
 
 
 
 
2. 第50代 桓武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10. 和乙継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 高野新笠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11. 土師真妹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 第52代 嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原不比等
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原宇合
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 蘇我娼子?
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原良継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 石上麻呂
 
 
 
 
 
 
 
13. 石上麻呂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 藤原乙牟漏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14. 阿倍粳蟲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 阿倍古美奈
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

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50 桓武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
51 平城天皇
 
伊予親王
 
万多親王
 
52 嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
53 淳和天皇
 
葛原親王
 
 
 
 
 
良岑安世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高岳親王
 
阿保親王
 
54 仁明天皇
 
有智子内親王
 
源信
嵯峨源氏
 
源融
嵯峨源氏
 
源潔姫
 
恒貞親王
 
平高棟
 
高見王
 
遍昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
在原行平
 
在原業平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平高望
桓武平氏
 
素性

后妃・皇子女

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弘仁元年(810年)11月23日に橘嘉智子・多治比高子・藤原緒夏とともに叙位を受けている、広長女王、藤野女王、継子女王、藤原松子、坂上御井子(坂上田村麻呂の娘か)、藤原葛子、橘安万子(橘清友の娘)、三善弟姉、三国真主も嵯峨天皇の后妃と考えられる[22]

諡号・追号・異名

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譲位後、洛西の嵯峨院に住み、また嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号された。

在位中の元号

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陵・霊廟

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(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町にある嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

嵯峨天皇は承和9年(842年)7月17日に葬られ、遺詔によって国忌荷前は置かれず「延喜諸陵式」に登載されなかった。嘉祥3年に中納言安倍安仁、宮内大輔房世王が嘉瑞を奉告し、12月30日、また2人が遣わされ立太子の由を奉告、元暦元年、即位の奉幣使が発遣された。のち陵の所在が失われ、近世、諸陵探査のとき「諸陵周垣成就記」には「山城国葛野郡嵯峨山の北に葬。葬所は不相知候得共、嵯峨二尊院寺内の山に有る。同所清涼寺五大堂前両寺に陵有之候、両寺共に御朱印地」という。「雍州府志」も「扶桑京華志」も八角堂(のち蓮華峯寺陵に治定)と清涼寺の石塔とを並記、「山城志」が初めて現在の地を推し、蒲生君平によると陵には7個の自然石の巨岩があったという(「山陵志」)。

幕末の修陵のときこの説が採られると修治が加えられ、竣工にさいして慶応元年5月5日、山陵修輔竣工巡検使柳原中納言が遣わされて奉幣した。陵号は嵯峨山陵、嵯峨山上陵が通じて用いられたがその後、嵯峨山上陵に定められた。

場所は大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂に位置する。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

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日本霊異記』には嵯峨天皇の前世について「伊予国石鎚山上仙という名僧がいた。天平宝字2年(758年)、上仙が亡くなるときに「これから28年後、国王の御子に生まれ変わり神野と名乗る」と言い遺した。その28年後の延暦5年(786年)、桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名附けられた。すなわち、嵯峨天皇は上仙の生まれ変わりである」という逸話が掲載されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『扶桑略記』は「同比(この頃)」と記述しており、11月の出来事と断定しているわけではない。
  2. ^ 日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている。
  3. ^ 系図などによれば49名の皇子皇女がいたと言われている。
  4. ^ 大沢池の花を生け花にしたのが始まりとされるが、実際には古くから家元大覚寺に伝わっており、開祖というのは信じがたい。

出典

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  1. ^ 『続紀』
  2. ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), p. 11
  3. ^ 六国史
  4. ^ a b c d e 日本紀略
  5. ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), p. 12
  6. ^ a b c d e f g h 目崎徳衛「政治史上の嵯峨上皇」『貴族社会と古典』(吉川弘文館、1995年), pp. 2-22
  7. ^ 西本昌弘「桓武改葬と神野親王廃太子計画」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 145-156:初出:『続日本紀研究』359号(2005年)
  8. ^ 春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館、2009年), pp. 65-113
  9. ^ a b c d 『日本後紀』
  10. ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 25-26
  11. ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 27-29
  12. ^ 川勝政太郎「平安宮十二門に関する問題」『史跡と美術』162
  13. ^ 新撰姓氏録
  14. ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 39, 305-306
  15. ^ 井上光貞「古代の皇太子」『日本古代国家の研究』
  16. ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), p. 54
  17. ^ 続日本後紀
  18. ^ 『続日本紀略』
  19. ^ 井上辰雄『嵯峨天皇と文人官僚』(塙書房、2011年), pp. 54-55
  20. ^ 尊卑分脈
  21. ^ 『諸系譜』第一冊,笠朝臣(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年による)
  22. ^ 瀧浪[2017: 90]

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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