村上 (市原市)
村上 | |
---|---|
大字 | |
上総村上駅(2008年撮影) | |
北緯35度30分 東経140度06分 / 北緯35.5度 東経140.1度座標: 北緯35度30分 東経140度06分 / 北緯35.5度 東経140.1度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 市原市 |
地区 | 五井地区 |
人口情報(2023年(令和5年)4月1日現在[1]) | |
人口 | 1,278 人 |
世帯数 | 634 世帯 |
面積(2022年4月1日現在[2]) | |
1.97743 km² | |
人口密度 | 646.29 人/km² |
郵便番号 | 290-0031[3] |
市外局番 | 0436[4] |
ナンバープレート | 市原 |
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村上(むらかみ)は、千葉県市原市の五井地区にある大字[5]。郵便番号は290-0031[3]。
概要
[編集]市原市北西部の五井地区に位置する。
主に時代に施行された町村制以前は村上村であった範囲が大字となったものである[6]。字の北部を館山自動車道が東西に通過しており、市原インターチェンジが設置されている[7]。村上とその周辺の大字を含む市原インターチェンジの周辺一帯は、五井駅東口土地区画整理事業の事業区域となっており、物流関係の施設等が誘致される予定である[7]。
地理
[編集]養老川下流右岸の屈曲部内側に所在する。領域の中央部から東部にかけて、および西部(廿五里新田地区を含む)は自然堤防(微高地)となっており、両者の間は養老川の旧河道であった[8]。養老川対岸(西側)を中心とする廿五里の領域(廿五里新田地区)が養老川右岸側で村上の領域に嵌入し、村上に三方を包まれている。
河川
[編集]隣接町丁字
[編集]北は玉前・五井・平田・飯沼、東は惣社、東南は諏訪・西広、南は小折・柳原・玉前(飛び地)、南西は町田と接する。
歴史
[編集]地名の由来
[編集]- 盛上(もりかみ)で「高くなった所」と言う意味であったものが転訛したとされる[9]。
沿革
[編集]前近代
[編集]村上小学校校地などを含む領域の中央部の微高地(自然堤防)は上総国府の推定地の一つであり[10]、「村上遺跡群」として発掘調査が行われている[11]。
『飯香岡八幡宮由緒本記』によれば、1180年(治承6年)に源頼朝が同社に寄進した神領の一つとして「市原郡市原庄」の「村上村」がある[12]。ただし『飯香岡八幡宮由緒本記』の成立時期は不明であり[12]、江戸時代の写本として伝わるものである[13]。1180年(治承6年)の時点で「村上村」が存在したかは不確実である[12]。
戦国期の村上城
[編集]「村上」という地名が史料上で確認できるのは戦国時代である[12][14]。中世、養老川沿いの地域を「鎌倉街道」と呼ばれる幹線道路が通っており、村上と分目の間で養老川を渡っていたと見られる[15]。交通の要地であり西岸を望む立地にあった[16]当地には村上城と呼ばれる城があったとされ[12][17]、「堀ノ内」や「門前」などの小字名があった[18][注釈 1]。諏訪神社(現在は諏訪地内に所在する)の社伝によれば、同社はもともと村上村の総鎮守であったが[22]、1521年(大永元年)に領主の村上周防守義清が信濃国から上下諏訪神社を勧請した[22][23]。『上総国町村誌』(1889年)は鶴岡安宅の考証によるとして、大永年間(1521年 - 1528年)に村上大蔵大輔義芳[注釈 2]が居城としていたという[14][24][注釈 3]。
当地に在地領主として村上氏が存在したことは確かとみられる[25]。1560年(永禄3年)10月14日付の「北条家朱印状写」は、村上民部大輔[注釈 4]に8か郷の不入権を認めるとともに、椎津城の普請役が命じられている[12]。この8か郷は、泉之郷、嶋之郷(現在の島野に相当)、町田郷(町田)、津比地郷(廿五里)、引田(引田)、麻井郷(浅井小向)、梶路郷(神代)、風戸郷(風戸)であり[26]、比定地不明の泉之郷を除いて養老川対岸に当たる[12]。この村上民部大輔と村上城の関係は不明であるが[12]、8か郷との位置関係からも無関係とも思われず[12]、村上を本貫地とする一族とも考えられる[14][注釈 5]。
小田原の陣中の1590年(天正18年)5月、「上総国市原庄」[12]で軍勢による狼藉や放火を禁止する「豊臣秀吉禁制」が出されているが[12][14]、その対象の村の一つとして「村上」の名がある[12][14]。また、慶長末年には当地に三宝院(真言宗醍醐派)の末寺として観音寺が所在していた[14]。
江戸時代
[編集]江戸時代には領主権が分割され(相給)、旗本領・大名領や幕府直轄領(代官管轄地)として領主は交替した[29]。『元禄郷帳』などでは村高は609石余[29]。『旧高旧領取調帳』によれば幕府領のほか、旗本曽根氏・仙石氏・中野氏の相給となっていた[29]。
江戸時代には五井村の結びつきが強く、灌漑用水の共同利用などを行っていた[29]。
幕末期
[編集]1868年(慶応4年/明治元年)の戊辰戦争時、観音寺に旧幕府軍100人が立て籠り、新政府軍と戦ったが敗走し、この際に観音寺は新政府軍により放火された[29]。『千葉県市原郡誌』によれば5月7日、「彰義隊の敗兵」約20人が観音寺に立て籠もったとあり、観音寺の焼失は兵火にかかったものと記す[30]。『千葉県市原郡誌』によれば、村民たちは一時彰義隊の威圧を受けてこれと行動をともにし、竹槍や蓆旗を掲げて村境まで行進したが、1000人ともされる新政府軍の砲弾が飛来するに及んで、村民は狼狽して逃走したという[30]。旧幕府軍側では鈴木仁三郎・下山鉄次郎ら戦死者の名が伝えられ、観音寺近傍で戦死した鈴木は観音寺墓地に、村上・惣社の村境付近で戦死した下山は惣社の国分寺墓地に葬られた[30]。幕府軍は養老川を渡り海保方面に逃れた[30]。
近代
[編集]1873年(明治6年)に千葉県が発足するとこれに所属する[29]。1874年(明治7年)には、村上村と平田村を学区とする村上小学校が開設された[29]。村上小学校は当初は平田村に開校されたが、1876年(明治9年)に村上村の永昌寺に移転した[29]。1889年(明治22年)の町村制施行に際し、五井村が発足した。村上村はその大字「村上」となった[29][6]。1910年(明治43年)、村上青年団が発足した[31]。1927年(昭和2年)、小湊鉄道線上総村上駅が開業する。
年表
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 五井村の大字「村上」となる[6]。
- 1891年(明治24年)5月20日 - 五井村が町制を施行したため、五井町の大字となる[6]。
- 1927年(昭和2年) - 小湊鐵道小湊鉄道線の上総村上駅が開業する。
- 1959年(昭和33年)
- 1963年(昭和38年)5月1日 - 五井町などが合併して市原市を編成したため、市原市の大字となる[6]。
- 2023年(令和5年)3月18日 - 五井駅東口土地区画整理協議会が発足[9]。
世帯数と人口
[編集]現在
[編集]2023年(令和5年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁字 | 世帯数 | 人口総数 | 人口 | 世帯人員 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
若年 | 生産年齢 | 高齢 | |||||||
村上 | 634世帯 | 1,278人 | 103人 | 8.06% | 696人 | 54.46% | 479人 | 37.48% | 2.02人 |
推移
[編集]歴史的に「村上村」あるいは「村上」(現代の「村上」の範囲と一致するとは限らない)の戸数・人口として以下のような数字が挙げられている。
- 1793年(寛政5年) - 家数99(『上総国村高帳』)[29]
- 1886年(明治19年) - 戸数105、人口612(『上総国町村誌』)[33][注釈 6]
- 1891年(明治24年) - 戸数116、人口648[6]
通学区域
[編集]市立小学校・市立中学校及び県立高等学校の通学区域は以下の通りである[36]。
町丁字 | 番地 | 小学校 | 中学校 | 県立高校 |
---|---|---|---|---|
村上 | 一部 | 市原市立五井小学校 | 市原市立五井中学校 | 第9学区 |
一部 | 市原市立国府小学校 | |||
一部 | 市原市立国分寺台小学校 | 市原市立国分寺台中学校 |
施設
[編集]- 東日本高速道路株式会社市原管理事務所[39]
交通
[編集]鉄道
[編集]バス
[編集]字内を通過するバス路線は存在しないが、字内の最も近くを通過するバス路線は以下の通りである[40]。
運行会社 | 系統 | 運行区間 | 経由 | 備考 |
---|---|---|---|---|
小湊鐵道 | 五04系統 | 五井駅東口 - ちはら台 | 五井育苗センター入口、稲荷台 | |
五31系統 | 五井駅東口 - ちはら台駅 | 五井育苗インター入口、市原市役所、千葉労災病院 |
道路
[編集]区域の中央を、北東―南西に館山自動車道および千葉県道21号五井本納線、北西―南東に国道297号市原バイパスが貫く。館山自動車道の市原インターチェンジが置かれており、国道297号・県道21号と接続している。
- 館山自動車道 市原インターチェンジ
- 国道297号市原バイパス
- 千葉県道21号五井本納線
- 千葉県道140号五井山倉線 - 町域の東端を通る。
- 千葉県道141号五井町田線
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1984年に村上城跡とされる土地の発掘調査が行われているが[19]、発掘地点からは堀や土塁、中世の陶器片などが出土しているが[20]、発掘報告書では中世の城郭とは断定できず、むしろ中世寺院の特徴が出ているとしている[21]。
- ^ 八千代市立郷土博物館『八千代三万年の足跡』(2017年)は「義芳」に「よしふさ」と振り仮名を振っている[20]。
- ^ 市原市埋蔵文化財センターの発掘調査報告書『村上城跡』の執筆者は、根拠となる史料が示されていないとして、村上城主・村上義芳の存在は「不確実」としている[12]。
- ^ 辻井義輝は、浜名敏夫「中世上総の豪族村上氏」『上総市原』(市原市文化財研究会、1992年、pp.21-39)の所論をもとに、この村上民部大輔の実名を綱清とする[25]。米本城主村上綱清(民部大輔)と同一になる。
- ^ 房総地方には、下総国米本城(現在の八千代市)などの「村上氏」が散見されるが(村上綱清参照)[20][27]、本項の村上と直接結びつく史料はないという[27]。八千代市立郷土博物館の『八千代三万年の足跡』(2017年)は、村上城は「綱清が米本城に入る前の本拠地」ではなかったかと推測する[20]。辻井義輝(2022年)が浜名敏夫らの先行研究をもとに上総の村上氏について整理を試みているが、それによれば中世の上総の村上氏は「前期村上氏」「後期村上氏」に分けられる[23]。「前期村上氏」は鎌倉時代末期以後足利氏の奉公人として上総に入った系統で、応永15年(1408年)に永昌寺を建てた村上民部太夫清次や、大永元年(1521年)に諏訪神社を勧請した村上周防守義清はこの系統とされる[23]。一方「後期村上氏」は古河公方足利成氏と共に上総に入った一族で、小弓公方足利義明に従った「久留里村上氏」と、これと対抗する「市原村上氏」に分かれた[28]。村上民部大輔綱清は古河公方・北条氏に従った「市原村上氏」の人物という[23]。村上の本郷地区の旧家である君塚家は村上氏の子孫とされ、同地区の伊藤家・大塚家・黒須家といった諸家には村上家家臣の末裔という所伝がある[25]。
- ^ 『上総国町村誌』の戸数・人口は明治19年度のものとあり[34]、『千葉県市原郡誌』は「明治19年調査」のものとして引用している[35]。
出典
[編集]- ^ a b “令和5年度千葉県市町村町丁字別世帯数人口”. 千葉県 (2023年4月1日). 2023年8月16日閲覧。
- ^ “令和4年度市原市統計書データ”. 市原市 (2022年4月1日). 2023年8月16日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月7日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ “地名・郵便番号案内 | 市原市ホームページ”. 2022年12月8日閲覧。
- ^ a b c d e f “村上(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月10日閲覧。
- ^ a b “(仮称)五井駅東口地区土地区画整理事業 事業概要資料”. 市原市. 2023年8月9日閲覧。
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, pp. 1–3.
- ^ a b “市原市地名の由来”. 市原ふるさと連合. 2023年9月1日閲覧。
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, 調査に至る経緯.
- ^ “村上遺跡群”. 遺跡ファイル. 市原市. 2023年9月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 市原市埋蔵文化財センター 1986, p. 4.
- ^ “菊間之郷(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月1日閲覧。
- ^ a b c d e f “村上(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月10日閲覧。
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, pp. 4–7.
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, p. 7.
- ^ 『千葉県市原郡誌』, pp. 607, 616.
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, pp. 6–7.
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, 例言.
- ^ a b c d e f g “上総村上氏”. 八千代三万年の足跡. 八千代市立郷土博物館. 2023年9月11日閲覧。
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, p. 38.
- ^ a b 『千葉県市原郡誌』, p. 621.
- ^ a b c d 辻井義輝 2022, p. 52.
- ^ 『上総国町村誌 第一編』, 33/83コマ.
- ^ a b c 辻井義輝 2022, p. 53.
- ^ 市原市埋蔵文化財センター 1986, pp. 4, 6.
- ^ a b 市原市埋蔵文化財センター 1986, p. 8.
- ^ 辻井義輝 2022, pp. 52–53.
- ^ a b c d e f g h i j “村上村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月10日閲覧。
- ^ a b c d 『千葉県市原郡誌』, p. 618.
- ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 629.
- ^ a b “国府小学校沿革”. warp.da.ndl.go.jp. 2010年8月2日時点の[http(s)://www.ichihara-chb.ed.jp/kokufu-e/newpage6.html オリジナル]よりアーカイブ。2023年9月14日閲覧。
- ^ 『上総国町村誌 第一編』, 32-33/83コマ.
- ^ 『上総国町村誌 第一編』, 7/83コマ.
- ^ 『千葉県市原郡誌』, pp. 79–88.
- ^ “小学校・中学校の所在地及び通学区域一覧”. 市原市 (2017年6月2日). 2017年11月8日閲覧。
- ^ a b c 『千葉県市原郡誌』, p. 626.
- ^ “村上白幡神社”. 猫の足あと. 2023年9月10日閲覧。
- ^ 関東支社 詳細 - NEXCO東日本 2016年10月31日閲覧
- ^ “五井・八幡地区路線図”. 小湊鐵道. 2023年9月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 小沢治郎左衛門『上総国町村誌 第一編』1889年。NDLJP:763698。
- 千葉県市原郡教育会『千葉県市原郡誌』千葉県市原郡、1916年。NDLJP:951002。
- 市原市埋蔵文化財センター 編『村上城跡』市原市教育委員会、1986年 。
- 辻井義輝「千葉県市原市における漢文石碑・資料の翻刻(三)─柏原黒須家、今富千葉家、請西藩士政田謙蔵の碑―」『東洋学研究』第59号、2022年。doi:10.34428/00013741。