佐是
佐是 | |
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大字 | |
北緯35度24分11.2秒 東経140度07分35.4秒 / 北緯35.403111度 東経140.126500度座標: 北緯35度24分11.2秒 東経140度07分35.4秒 / 北緯35.403111度 東経140.126500度 | |
座標位置:光福禅寺付近 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 市原市 |
地区 | 南総地区 |
人口情報(2022年4月1日現在[1]) | |
人口 | 723 人 |
面積 | |
1.93 km² | |
人口密度 | 374.61 人/km² |
郵便番号 | 290-0229[2] |
市外局番 | 0436[3] |
ナンバープレート | 市原 |
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佐是(さぜ[4])は、千葉県市原市の南総地区にある大字。郵便番号は290-0223[2]。
地理
[編集]市原市南部、養老川中流左岸(西岸)にある大字で、地域には水田が広がっている。北に上原、妙香(一部)と隣接し、養老川を隔てて東に妙香、東南に奉免・牛久と隣接する。南は皆吉、南西に西国吉、北西は馬立と接している[5]。
歴史
[編集]前近代
[編集]当地は古い土地とみられ[6] 、佐是古墳群がある[7]。『和名抄』によれば、上総国海上郡に所在する8つの郷のうちに「佐是郷」がある[7]。なお、「佐是」の地名は写本によって「佐三」や「佐弖」と記されることがある[7]。
『地理志料』によれば、出雲国佐世郷から出雲宿禰の一族が移住したために佐是という地名になったという[8][7][注釈 1]。
『上総国町村誌』によれは、「中古」には沼田庄友田村と称したという[9]。
源頼朝が安房国から北上した際に当地の友田氏の館で休息し、手綱を清めたことから「手綱館」と呼んだという伝説がある[10]。このことから佐是と牛久の間を流れる養老川は「手綱川」の名で呼ばれたといい、手綱橋に名を残している[10]。
中世の佐是郡
[編集]律令郡制が崩壊すると、海上郡は海北郡(海保郡)や佐是郡といった中世的郡単位へと細分化された[11][12][13][14]。広域地名としての「佐瀬郷」ないし「佐是郡」は、現在の皆吉・矢田・池和田なども含んでいたようである[15]。
佐是の南部には佐是城[7](嶽城とも[10])という城がある。鎌倉時代に佐是禅師円阿が当地に館を構えたのが始まりという[16]。戦国時代の天文年間(1532年 - 1555年)に、武田信長の三男・武田国信(佐瀬三郎)によって築かれたとともされる[10]。のちに武田国信は里見氏によって滅ぼされた[17][注釈 2]。
近世
[編集]江戸時代、この村は「佐瀬村」と表記された(「佐是村」も用いられた)[19]。
明治初年の時点で牛久との間に渡船場があった[20]。
近代
[編集]慶応4年/明治元年(1868年)7月、いったんは安房上総知県事所属となるが、9月に菊間藩領となり、11月に鶴舞藩領に移管される[21]。明治4年(1871年)、廃藩置県と府県統合により、鶴舞県から木更津県所属となる[21]。
1873年(明治6年)、千葉県が発足するとその所属となる[21]。1878年(明治11年)には西国吉・岩崎・栢橋・寺谷とともに連合戸長役場を編成した[21]。
1889年(明治22年)、町村制施行に伴い明治村が発足し、「佐是」はその大字となった[22]。
1924年(大正13年)、明治村は町制を施行し牛久町になる[22]。
世帯数と人口
[編集]歴史的に「佐是(佐瀬)村」あるいは「佐是」(現代の「佐是」の範囲と一致するとは限らない)の戸数・人口として以下のような数字が挙げられている。
- 1793年(寛政5年) - 家数106(『上総国村高帳』)[19]
- 1886年(明治19年) - 戸数98、人口472(『上総国町村誌』)[9][注釈 3]
- 1891年(明治24年) - 戸数103、人口521[22]
2022年(令和4年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
佐是 | 321世帯 | 723人 |
通学区域
[編集]市立小学校・市立中学校及び県立高等学校の通学区域は以下の通りである[25]。
町丁字 | 区域 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 |
---|---|---|---|---|
佐是 | 全域 | 市原市立牛久小学校 | 市原市立南総中学校 | 第9学区 |
交通
[編集]鉄道
[編集]域内を小湊鉄道線(馬立駅―上総牛久駅間)が通過するが駅はない。
バス
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
道路
[編集]- 国道297号(大多喜街道)
施設
[編集]- 佐是運動公園
- 手綱川公園
- 市原市佐是土地改良区
- 市原市消防団南総支団 第16分団詰所
- 光福禅寺(曹洞宗)
- 八幡神社 - 字宮作に所在[9]。旧社格は郷社[9]。
- 妙見神社
- 市原市農協南部営農センター 佐是ライスセンター
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ このほか、『千葉県市原郡誌』が紹介する「上総養老庄友田郷開発之縁起」によれば、当地の荘官であった友田氏の祖先が崇峻天皇の代にこの地を開発したという[6]。この「縁起」は養老の地名伝承も伝えており、当地には神代より千年を経た「養老の松」という一本の老木があり、「養老の原」と呼んでいたが、開発が進んだことから「養老荘」と呼んだという[6]。
- ^ 佐是(佐瀬)・国吉(現在の西国吉)の地名の発祥伝承として、「佐瀬三郎国吉」なる人物がこの地域に住したため、というものがある[18]。
- ^ 『上総国町村誌』の戸数・人口は明治19年度のものとあり[23]、『千葉県市原郡誌』は「明治19年調査」のものとして引用している[24]。
出典
[編集]- ^ a b “令和4年度千葉県市町村町丁字別世帯数人口”. 千葉県. 2022年9月1日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月7日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ “地名・郵便番号案内 | 市原市ホームページ”. 2022年12月12日閲覧。
- ^ Mapionによる。
- ^ a b c 『千葉県市原郡誌』, p. 1131.
- ^ a b c d e “佐是郷(古代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月3日閲覧。
- ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 1132.
- ^ a b c d 『上総国町村誌 第一編』, 62/83コマ.
- ^ a b c d 『千葉県市原郡誌』, p. 1148.
- ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 758.
- ^ “海北郡”. 日本歴史地名大系. 2023年9月4日閲覧。
- ^ “海上郡〔中世〕”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月3日閲覧。
- ^ “海北郡(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月3日閲覧。
- ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 1141.
- ^ “佐是城(佐瀬城)”. 古城盛衰記. 2023年9月13日閲覧。
- ^ 『千葉県市原郡誌』, pp. 1141, 1148.
- ^ 『千葉県市原郡誌』, pp. 1131, 1139.
- ^ a b “佐瀬村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月3日閲覧。
- ^ 『上総国町村誌 第一編』, 63/83コマ.
- ^ a b c d 『千葉県市原郡誌』, p. 1143.
- ^ a b c “佐是(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年9月3日閲覧。
- ^ 『上総国町村誌 第一編』, 7/83コマ.
- ^ 『千葉県市原郡誌』, pp. 79–88.
- ^ 小学校・中学校の所在地及び通学区域一覧
参考文献
[編集]- 小沢治郎左衛門『上総国町村誌 第一編』1889年。NDLJP:763698。
- 千葉県市原郡教育会『千葉県市原郡誌』千葉県市原郡、1916年。NDLJP:951002。
- 『明治22年千葉県町村分合資料 七 市原郡町村分合取調』1889年 。