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村田武雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村田 武雄むらた たけお[1][2]1907年明治40年)[1][2][3][注釈 1]6月17日[4][3][注釈 2] - 1994年平成6年)[2]7月19日[3])は、日本の脚本家映画監督東京品川出身[4][1][5][2]

映画監督、東京発声映画製作所代表取締役社長重宗務は義兄[2]

来歴

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日本大学文学部中退[4][1][2]

1934年4月1日日活多摩川撮影所に入社[4][1]。「脚本部」に配属される[1][2]

1935年3月、義兄の重宗が「東京発声映画製作所(東京発声)」を設立し、所長となる[1][2]。村田もこの「東京発声」に移籍、重宗務、阿部豊豊田四郎助監督を務める[4][1][2]

1940年、豊田監督の『大日向村』、『奥村五百子』のB班監督として、満州ロケを行う。その他、短編映画を何本か監督。

1941年、『大地に祈る』で映画監督に昇進[4][1][5][2]

1942年、「東京発声」が東宝に吸収され、村田も東宝へ移籍[1]。戦時体制の中、助監督をしばらく務める[2]

この後、陸軍航空本部嘱託となり、南方前線で、飛行機の活躍状況の記録映画制作に従事[2]。シンガポール、パレンバン、ジャワなどを歴訪する。戦地記録映画『大空の御盾』を制作するが、遺族への試写のみで未公開に終わる[6]

1944年、帰国。『加藤隼戦闘隊』(山本嘉次郎監督)で、山本から請われ、飛行機記録映画のシーンを劇中に提供する[6]

1946年から1950年まで存在した専門学校「鎌倉アカデミア」で映画科の講師を務めていた[7]

1953年、日本初の立体映画(トービジョン)、『飛び出した日曜日』 の脚本・監督を担当する[4][5][8][2]

その後、脚本家へ転向[5]

1954年、日本初の怪獣映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督)で、香山滋の検討台本を基に、本多と2人で脚本を共作[4][8][2]。以後、初期の東宝特撮映画の脚本を手掛けた[4][2]

1961年、テレビ映画『特別機動捜査隊』(NET)で脚本を担当。以後、テレビに活動の中心を移す。

1963年円谷英二に請われ、設立したばかりの円谷特技プロダクションでテレビ特撮『WOO』の企画に参加する[6][2]

1994年、死去[2]。後年、遺族によって『村田武雄作品集』(私家版)が出版された[2]

人物・エピソード

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父親が品川にあった映画館の株主だったことで、優待券を使って映画三昧の幼少期を過ごした[6]。姉が松竹キネマ蒲田撮影所の映画監督重宗務(のち和伸と改名)と結婚したのを機に、映画界入りに憧れをもつようになり、映画館に通ってノートをとり、独学で映画台本を学んだという[6]。村田が日活へ入社したのも、重宗が引き抜かれた際に誘われたことによる[6]

作品に対しては「人間を描く」ことを重視したといい、本格的な監督デビュー作の『大地に祈る』 は従軍看護婦を題材とした映画であるが、女優たちに化粧をすべて落とすよう指示し、リアリズムを心がけている[6]。書籍『ゴジラ大百科』では、『ゴジラ』での脚本について生活感が薄かった香山滋による原作に対し、村田が人間像を掘り下げていったと評している[5]。同作品に出演した加藤茂雄は、女学生の合唱や作品全体の平和を願う雰囲気などがクリスチャンであった村田らしさが出ていたと評している[7]

東宝移籍と同時に太平洋戦争が激化し、映画フィルムが軍の配給となって、映画は自由に撮れなくなった。このため、東宝重役の森岩雄に「いずれ陽の目を見せてあげるから、気の毒だけど助監督で我慢して」と頼まれたという[6]。戦後も脚本を書いては森のもとへ通い、教えを受けた[6]。村田は義兄の重宗と並んで、森を映画界の恩人と仰いでいる[6]

飛び出した日曜日』は『私は狙われている』(田尻繁監督)と併せ、日本初の立体映画であるが、続編の企画を思案していたところ、森岩雄に「これで東宝がアメリカ製より先に日本で立体映画を上映したと映画史に残りましたから、もういいんです。ご苦労様でした」と断られ、2本限りの制作となってしまった[6]。これには撮影を担当した円谷英二ともども落胆したが、その後円谷が酒の席で語った特撮の企画は後の『ゴジラ』につながっていくものであった[6]

『ゴジラ』の制作前に他の映画会社から引き抜きの話を受けていたが、村田は香山の執筆した原作に感銘を受け、移籍を断って『ゴジラ』の執筆を引き受けた[6]。同作品については1番気に入っている作品に挙げており、批評家には称賛されなかったが、東宝の総力を挙げて多くのスタッフが尽力し、海外でも人気を博し、後年まで作品が生き続けていることから、同作品の仕事ができてありがたかったと語っている[6]。一方で、ゴジラについては「かわいそう」だと述べており、『ゴジラの逆襲』のあとに香山が「これ以上ゴジラを書ききたくない」と言っていたのを聞いたことも相まって、『逆襲』でゴジラを氷山に埋める結末を良かったと考え、その後の作品については面白い脚本もあったとしつつ複雑な胸中である旨を伺わせている[6]

主な作品

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監督作品

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脚本作品

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映画作品

テレビ作品

脚注

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注釈

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  1. ^ 資料によっては、「1908年(明治41年)」と記述している[4][5]
  2. ^ 資料によっては、「6月14日」と記述している[5]
  3. ^ 本多猪四郎と共同執筆[4]
  4. ^ 日高繁明と共同執筆[4]
  5. ^ 鈴木英夫と共同執筆。
  6. ^ 稲垣浩と共同執筆。
  7. ^ 日高繁明と共同執筆。
  8. ^ 木村武と共同執筆[4]
  9. ^ 山本嘉次郎と共同執筆[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 東宝SF特撮映画シリーズ3 1985, p. 217, 「村田武雄 長編インタビュー」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 初代ゴジラ研究読本 2014, p. 236, 「初代ゴジラスタッフ評伝」
  3. ^ a b c d e f 野村宏平、冬門稔弐「6月17日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、161頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 東宝特撮映画全史 1983, p. 541, 「特撮映画スタッフ名鑑」
  5. ^ a b c d e f g ゴジラ大百科 1990, p. 101, 「ゴジラ・スタッフ名鑑」、最新ゴジラ大百科 1991, p. 99, 「ゴジラスタッフ名鑑」
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 東宝SF特撮映画シリーズ3 1985, pp. 216–223, 「村田武雄 長編インタビュー」
  7. ^ a b 初代ゴジラ研究読本 2014, pp. 78–87, 取材・文 友井健人「俳優インタビュー 加藤茂雄」
  8. ^ a b ゴジラ大百科 1992, p. 124, 構成 早川優「ゴジラ映画を100倍楽しむ100のカタログ 12 怪獣映画の文豪たち」

参考文献

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  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 『ゴジラ / ゴジラの逆襲 / 大怪獣バラン』東宝出版事業部〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.3〉、1985年5月1日。ISBN 4-924609-07-2 
  • Gakken MOOK(Gakken
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1990年1月1日。 
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA 最新ゴジラ大百科』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1991年12月1日。 
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 新モスラ編』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1992年12月10日。 
  • 井上英之『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』朝日ソノラマ、1994年。ISBN 4257033940 
  • 『別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2014年8月24日。ISBN 978-4-8003-0452-0 

外部リンク

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