完倉泰一
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かんくら たいいち 完倉 泰一 | |
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生年月日 | 1912年4月30日 |
没年月日 | 1981年1月28日(68歳没) |
出生地 | 大日本帝国・東京都 |
死没地 | 日本 |
国籍 | 大日本帝国 → 日本 |
職業 | 撮影監督 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1942年 - 1981年 |
事務所 | 日本映画撮影監督協会 |
完倉 泰一(かんくら たいいち、1912年4月30日[1] - 1981年1月28日[1])は、日本の映画撮影監督。東京都出身。日本映画撮影監督協会、日本映画テレビ技術協会所属。
来歴
[編集]1935年にオリエンタル写真学校を卒業し、1936年にP.C.L.映画製作所に入社。1942年より撮影監督となる。1954年に東宝撮影所に復帰。1971年にフリーとなる。
主な作品
[編集]- 「翼の凱歌」(1942年10月15日)
- 「明日を創る人々」(1946年5月2日)
- 「十一人の女学生」(1946年8月22日)
- 「第二の人生」(1948年2月3日)
- 「与太郎と天使」(1950年3月27日)
- 「大岡政談 将軍は夜踊る」(1950年5月27日)
- 「軍艦すでに煙なし」(1950年10月21日)
- 「えりことともに」(1951年1月29日)
- 「港へ来た男」(1952年11月27日)
- 「花の中の娘たち」(1953年9月15日)
- 「誘蛾燈」(1953年10月7日)
- 「女心はひと筋に」(1953年12月29日)
- 「水着の花嫁」(1954年7月7日)
- 「潮騒」(1954年10月20日)
- 「天下泰平」(1955年1月29日)
- 「続天下泰平」(1955年2月20日)
- 「月に飛ぶ雁」(1955年4月19日)
- 「新鞍馬天狗 夕立の武士」(1955年6月14日)
- 「船場の娘より 忘れじの人」(1955年10月18日)
- 「ジャンケン娘」(1955年11月1日)
- 「歌え!青春 はりきり娘」(1955年12月28日)
- 「幸福はあの星の下に」(1956年2月5日)
- 「奥様は大学生」(1956年2月26日)
- 「婚約三羽烏」(1956年4月25日)
- 「大暴れチャチャ娘」(1956年5月24日)
- 「ロマンス娘」(1956年8月15日)
- 「おかしな奴」(1956年11月7日)
- 「忘却の花びら」(1957年1月3日)
- 「大番」(1957年3月5日)
- 「忘却の花びら 完結篇」(1957年7月2日)
- 「大当り三色娘」(1957年7月13日)
- 「肌色の月」(1957年10月8日)
- 「愛情の都」(1958年1月21日)
- 「太鼓たゝいて笛吹いて」(1958年5月20日)
- 「ロマンス祭」(1958年8月12日)
- 「大学の人気者」(1958年9月30日)
- 「人生劇場 青春篇」(1958年11月23日)
- 「大学のお姐ちゃん」(1959年3月3日)
- 「潜水艦イ-57降伏せず」(1959年7月5日)
- 「銀座のお姐ちゃん」(1959年7月14日)
- 「サザエさんの新婚家庭」(1959年8月23日)
- 「お姐ちゃん罷り通る」(1959年11月22日)
- 「侍とお姐ちゃん」(1960年1月9日)
- 「サラリーマン出世太閤記 花婿部長No.1」(1960年3月29日)
- 「お姐ちゃんに任しとキ!」(1960年7月31日)
- 「がめつい奴」(1960年9月18日)
- 「お姐ちゃんはツイてるぜ」(1960年11月20日)
- 「東海道駕籠抜け珍道中」(1960年12月20日)
- 「サラリーマン忠臣蔵」(1960年12月25日)
- 「続サラリーマン忠臣蔵」(1961年2月25日)
- 「七人の敵あり」(1961年3月18日)
- 「サラリーマン 弥次喜多道中」(1961年6月27日)
- 「続サラリーマン 弥次喜多道中」(1961年7月23日)
- 「猫と鰹節 ある詐話師の物語」(1961年11月22日)
- 「ガンバー課長」(1961年12月17日)
- 「銀座の若大将」(1962年2月10日)
- 「社長洋行記」(1962年4月29日)
- 「続・社長洋行記」(1962年6月1日)
- 「私と私」(1962年8月11日)
- 「社長漫遊記」(1963年1月3日)
- 「六本木の夜 愛して愛して」(1963年1月29日)
- 「続・社長漫遊記」(1963年3月1日)
- 「国際秘密警察 指令第8号」(1963年8月31日)
- 「太陽は呼んでいる」(1963年9月29日)
- 「やぶにらみニッポン」(1963年12月1日)
- 「香港クレージー作戦」(1963年12月22日)
- 「ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば」(1964年5月16日)
- 「無責任遊侠伝」(1964年7月11日)
- 「おれについてこい!」(1965年6月20日)
- 「悪の階段」(1965年10月23日)
- 「女は幾万ありとても」(1966年2月12日)
- 「バンコックの夜」(1966年4月3日)
- 「じゃじゃ馬ならし」(1966年6月22日)
- 「落語野郎 大脱線」(1966年6月30日)
- 「落語野郎 大爆笑」(1967年2月11日)
- 「怪獣総進撃」(1968年8月1日)[1]
- 「緯度0大作戦」(1969年7月26日)
- 「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣」(1970年8月1日)[1]
- 「よみがえる東塔」(1983年11月7日)
受賞歴
[編集]受賞年 | 受賞名 | ||
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1950年 | 第5回 | 日本映画技術賞 | 撮影賞 |
1983年 | 第37回 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『映像メディア作家人名事典』日外アソシエーツ、1991年。ISBN 4816911111。
- 佐藤忠男『日本の映画人―日本映画の創始者たち』日外アソシエーツ、2007年6月。ISBN 4816920358。