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松方正義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松方正熊から転送)
松方 正義
まつかた まさよし
生年月日 天保6年2月25日1835年3月23日
出生地 日本の旗 日本 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村
(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目
没年月日 (1924-07-02) 1924年7月2日(89歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市芝区
(現在の東京都港区
出身校 造士館
前職 武士薩摩藩士)
所属政党 無所属
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
公爵
名誉博士オックスフォード大学
配偶者 松方満佐子
子女 松方巌(長男)
松方正作(次男)
松方幸次郎(三男)
松方正雄(四男)
松方五郎(五男)
松方虎雄(六男)
松方乙彦(七男)
松方正熊(八男)
松方義輔(九男)
森村義行(十四男)
松方三郎(十五男)
松方千代子(長女)
松方広子(次女)
松方津留子(三女)
松方光子(四女)
松方梅子(五女)
松方文子(六女)
親族 松方正恭(父)
松本松蔵(娘婿)
松形祐堯(孫)
八木沼純子(玄孫)
サイン

日本の旗 第4・6代 内閣総理大臣
内閣 第1次松方内閣
第2次松方内閣
在任期間 1891年5月6日 - 1892年8月8日
1896年9月18日 - 1898年1月12日
天皇 明治天皇

日本の旗 第5代 内大臣
在任期間 1917年5月2日 - 1922年9月18日

日本の旗 初・第3・5・8代 大蔵大臣
内閣 第1次伊藤内閣
黒田内閣
第1次山縣内閣
第1次松方内閣
第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
第2次山縣内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1892年8月8日
1895年3月17日 - 1895年8月27日
1896年9月18日 - 1898年1月12日
1898年11月8日 - 1900年10月19日

日本の旗 第5代 内務大臣
内閣 第1次松方内閣
在任期間 1892年6月8日 - 1892年7月14日

在任期間 1890年7月10日 - 1897年7月9日
1907年9月21日 - 1924年7月3日[1]

その他の職歴
日本の旗 内務大臣臨時兼任
1888年12月4日 - 1889年10月3日
日本の旗 第6代 大蔵卿
1881年10月11日 - 1885年12月22日)
日本の旗 第7代 内務卿
1880年2月28日 - 1881年10月21日
初代 日田県知事
1868年 - 1870年
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松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日1835年3月23日〉- 大正13年〈1924年7月2日)は、日本政治家財政家[2]位階勲等爵位従一位大勲位公爵幼名金次郎通称助左衛門海東[注釈 1]

明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第46代)務めるとともに、大蔵卿(第6代)、大蔵大臣(初・第3・5・8代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。第2代日本赤十字社社長。

経歴

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生い立ち

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薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目[3]松方正恭、袈裟子の四男として生まれる[4]。父・正恭は、谷山郷士松田為雅の次男で鹿児島城下士の松方左衛門に養子に入った人物で、大島と鹿児島の貿易によって財を為した[4]。しかし、松方が10歳の頃、叔父の田中清造に貸した金が返ってこなかったことで父は生活苦に陥り、幼い松方は貧困の中で育った[5]。さらに、10歳の時に母を、13歳の時に父を亡くした[6][5]

弘化4年(1847年)、藩士の子弟が通う藩校造士館」に入る[7]。この時期に朱子学水戸学などの学問を通じて尊皇思想を育んだ[8]

嘉永3年(1850年)、16歳のとき、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜された[9][10]

薩摩藩士時代

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文久元年(1861年)、27歳で御家老座御帳掛書助役となり[11]、文久2年(1862年)に藩主・島津茂久の父・島津久光の出府に際して御先定御供を命じられ、名前を正作と改める[11]。さらに同年6月に江戸藩邸において助左衛門と改名[11]

この時に久光の側近となったことが藩官僚として出世するきっかけとなった[11]。この後の久光の薩摩への帰国にも同道したが、この際に久光の行列の間に割って入って通過した英国人3人に激昂した薩摩藩士・奈良原喜左衛門が斬りかかって1名死亡、2名負傷させた生麦事件に遭遇した。騒然となって藩士たちが続々と現場にかけつけたので久光の駕籠の周りは無人となった。そのため松方が大声で供回りの者を呼び戻して警護に当たらせた。西郷隆盛は後にこの時の松方の冷静さを称賛していた[12]

文久3年(1863年)5月に御小納戸勤役となる[13]。さらに6月に議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった[13]。これ以降常に久光・茂久の側にあって藩政の枢機に参与した[13]。しかし、低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいたという[14]

京阪にあった大久保利通とは緊密に連絡を取り合った。彼は一貫して大久保を兄事していた[15]。この大久保との親密な関係が明治以降松方が政府の中で大きな役割を果たすきっかけとなる[16]

慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される[16]。慶応3年(1867年)10月、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けに当たった[17]。12月には乾行丸掛に任じられて小銃購入にもあたった[18]

この頃、長崎奉行河津祐邦は配下の振遠隊を使って薩摩藩や海援隊に圧力を加えていたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗を喫したのを知るとフランス船に公金1万7000両を積み込んで逃亡を図ろうとした。これを阻止するため松方は、土佐藩佐佐木高行と連携して長島奉行所を占領。公金を返還しない場合には断固たる処置が下されることをフランス船にいる河津に通告、怯えた河津は公金を返還した[18]。この公金を元手に長崎在留各藩藩士の合議による会議所をトップとした長崎統治体制を整え、長崎の秩序維持と人心安定に努めた[19]。また振遠隊の暴挙を防ぐため、松方は単身でその屯営に赴き、隊長に面会し、厳然たる態度で説諭して帰順させた[18]。この後、長崎裁判所の設置まで長崎の統治は事実上、松方と佐佐木の合議によって行われた[20]

明治維新後

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1903年(明治36年)に叙勲された聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス頸飾を佩用した松方

明治元年(1868年)1月に朝廷より沢宣嘉が九州鎮撫使として送られてきて、2月には長崎裁判所が設置され、沢がその総督を兼務した。松方と佐々木は鎮撫使参謀に任じられたことで新政府に出仕することとなった[21]。松方は3月に長崎裁判所参謀に就任したのを経て、日田県が設置されると大久保の推挙でその知事に就任した(1868年-1870年。慶応4年閏4月25日-明治3年閏10月3日)[21]

殖産興業に務め、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。また日田地方で横行していた堕胎捨て子の悪習を断つため、養育館を創設して育児事業に乗りだしたり、私財を出して官民の寄付を募る基金を創設したり、捨て子や堕胎をやめさせるための様々なことに対して報奨金を与えたりした[22]。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。この調査により、旧福岡藩士が犯した太政官札贋造事件の事実を明らかにした事で大久保の評価を得、その功績、推挙で明治3年(1870年)3月に民部大丞・租税権領に就任し、中央政府へ栄転した[23]

以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿である大久保の下で地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発で賄ったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。

松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス財務大臣レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)と交流し、彼の助言で、金本位制中央銀行を中心とする統一的な近代的通貨信用制度の整備の必要性を痛感した[24]。同年開催されたパリ万国博覧会において、副総裁であった松方は、紀尾井坂の変で暗殺された大久保の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。大久保の死は彼の股肱である松方にとって大きな衝撃があった。しかし同時に、松方の台頭を抑える大きな重石が無くなったことも意味した。これ以降松方は自らを財政経済政策面で大久保の遺志を継ぐものと自らを任じ、政府内外にそれをアピールするようになった[25]

その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」設立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、代わって参議兼大蔵卿に就任した[26]。翌15年に日本に中央銀行である日本銀行を創設した[27]

松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理煙草税酒造税醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった[27]

なお、現在の日本に於ける会計年度4月 - 3月制」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである[28]

総理大臣および大蔵大臣として

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明治18年(1885年)に内閣制度が確立されると、第1次伊藤内閣において初代大蔵大臣に就任。1888年4月には黒田内閣大蔵大臣、次いで12月に内務大臣を兼任[29]

明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて内閣総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。しかし、閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、明治25年(1892年8月8日に辞任に追い込まれた。同日付けで特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる[30]。その後、第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣の大命が下り第2次松方内閣(松隈内閣)を組閣し、内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任するが、明治30年(1897年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈率いる進歩党との連携が上手くいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。このとき松方は衆議院を解散した直後に内閣総辞職している。

晩年

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晩年の松方正義
青山霊園にある松方の墓

日露戦争前の明治34年(1901年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議においては、対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案通りに、山縣有朋西郷従道らとともに日英同盟締結に賛成している。元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下している。明治35年(1902年)1月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備のためにアメリカを経由して欧州7カ国へ赴き、イギリスでは戴冠前のイギリス国王エドワード7世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。ロンドンタイムズは「松方伯は伊藤侯に次ぐ大政治家であり、日本が政治・経済の面で列国と肩を並べるまでになったのは松方伯によるところが大きい」と論評している[31]

オックスフォード大学からは法学名誉博士号を授与されている。松方は「自分は横文字も読めず学問もしたことがない、人違いではないのか」と述べて初めは断ったが、オックスフォード大学は「学問は事業をする道を学ぶものなので、大事業を成し遂げた人に贈るのである」と趣旨を説明した[31]。アメリカでは鉄鋼王アンドリュー・カーネギー大統領セオドア・ルーズベルトドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世ロシアでは皇帝ニコライ2世や外相セルゲイ・ウィッテと会見している。特にウィッテとの会見は5時間に及んだ。すでにシベリア鉄道が旅順まで全通している中、ウィッテは日露両国が共同して中国に圧力をかける必要があると述べたのに対し、松方は、日本はロシアとの親交を増進すること以外に関心はなく、日露両国とも産業の発展、国富の増強を図り、武力に訴える行動をとるべきではないと述べて牽制した[32]

また、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。明治36年(1903年)から枢密顧問官大正6年(1917年)から内大臣を務めた。内大臣時代は大正天皇の病気による摂政設置などの問題に遭遇した。宮中某重大事件においては婚約見直し派であり、事件後には責任を取るとして単独で辞表を提出しているが、これは却下されている。

大正11年(1922年)の山縣有朋の死後、元老は松方と西園寺公望のみとなったが、松方は高齢であったため西園寺が主導する形となった。しかし、西園寺が病中であった6月の高橋内閣崩壊にともなう首相選定では主導的立場となり、加藤友三郎内閣を成立に導いた。大正13年(1924年)7月2日、呼吸不全により死去。享年90(満89歳没)。東京府東京市芝区三田の自邸で国葬が執り行われた。墓所東京都港区青山霊園

1934年昭和9年)7月2日午後2時に松方公十年祭が青山霊園で盛大に行われ、斎藤実首相以下、鈴木貫太郎侍従長若槻禮次郎民政党総裁牧野伸顕内大臣らが出席した[33]

松方は内閣総理大臣経験者の伊藤博文や黒田清隆、山縣有朋らより年上であり(1835年生まれ。大隈重信よりも年上である)、内閣総理大臣就任時より死去まで最年長の経験者であった。

評価

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松方は財政的な業績については評価されることが多いが、政治家としての松方の評価はおおむね低い[34]。松方を政治的無能とする評価は、第一次松方内閣における「選挙干渉」、および第二次内閣での「進歩党の意見を尊重せず」意見を変えたことが原因となっていることが多いが、松方の政党政治への貢献が少ない、あるいは冷淡だったことが背景にあると思われる[35]。また松方が大久保利通の「番頭」然としていたことが他の維新の元勲と比して一段格の低い人物というイメージを形成した原因になっていると考えられる[36]。その結果、「政治的無能にもかかわらず薩摩閥に所属していたが故に藩閥政治で重きを受けた」というようなイメージが形成されたのだ思われる。例えば尾崎咢堂の「公は重々しいところはあるが、感じの至って鈍い人で、公がもしも薩摩人でなかったら、総理大臣にはなれる人物ではなかったろうと思う」[37]、大隈重信の「松方も薩摩に生まれていなかったならば、せいぜい知事ぐらい」[38]陸奥宗光の「松方程度の人間は地方の村役場に行くと一人や二人はきっといる」[37]といったように酷評をされることが多かった。

確かに松方は政党や政党政治の積極的意義はあまり評価していなかった。また自己が重要と判断した問題以外の課題のために政治的活動を行うことにあまり熱意をもたなかった。その辺が近代的な政治家としての資質にかけると評価される所以と思われる。しかし松方は、自分が国家のために必要だと判断した課題を実現するためには政党との妥協も辞さなかったし、自己の信念に基づき大局的な方針を立て、それを着実に、万難を排して実現した松方はやはり一級の政治家であると評価すべきであろうと松方正義の伝記を著した室山義正は論じている[38]

薩摩閥の元勲たちの中では黒田清隆が酒乱で人望がなく、西郷従道大山巌は軍人然としていて政治的野心に乏しく[39]、年齢やキャリアや財政政策の明るさから薩摩閥の中核となったのは松方だった。「松方閥」と呼ばれる人脈を政府・宮中内に形成して大きな影響力を持った[27]。ただ、彼は元勲の中では維新前の勤皇志士としての功労が最も少ない人物で、実質的にはほぼ維新後の功労のみで元老・公爵にまで立身した人物だった。維新の功臣に挙げられているものの、大政奉還時に九州の一隅におり、その後九州の治平や地方官としての功績はあれど、それは大局に影響するものではなかったので、自ら軍馬の間を往来して時の政治を左右した元勲には大きく見劣りする面はあった[34]

しかし、明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅を得、財政をすすめている。金本位制導入の際には、明治天皇から「導入の是非を巡る議論は難解でよくわからぬが、これまで松方が財政に関して間違ったことをやった例はなかったから導入を裁可する」とまで言わしめた。日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤博文井上馨らに反論し、積極的に開戦を主張、蔵相に自信がないとしても自分が補佐するから財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。

日清戦争の時には松方は前首相ながら無役であったが、西南戦争の戦費を基準に予算を立てようとした当時の首脳部を戒め「このような時には前例などにとらわれず、勝つ為にいくら必要かの見込みを立てて、それを工面する方法を考えるべき」と主張した。また、伊藤と井上が「富豪から『戦勝後に国債と引き替える』として献金を募る」という提案をしたのに対し、「善意で献金した人間が『所詮国債目当て』と白い目で見られる」「政情の変化で国債に引き替えられなくなったら政府が国民を欺いたことになる」として「いっそ最初から国債を売った方がよい」と述べ、井上と論争の末「松方の案がもっともだ」と井上に言わしめた。

松方は天皇の直臣として自らの役割や進むべき道はどうあるべきかを大きな座標軸として人生を歩んだ。松方が不退転の覚悟で実行していった財政経済政策にはほとんど例外なく天皇の強い支持が与えられた。大久保の財政経済部門の「番頭」から天皇の財政経済部門の「番頭」に自らの立場を再定義した。松方が政党政治に違和感を持っていたのはそのためである[40]。一君万民の天皇中心体制を確固とした基盤に置くことが松方の主要関心事であり続けた。晩年に内大臣として皇太子の欧州歴訪と摂政就任に熱意を注いだのは皇室への最後の御奉公であった[40]

人物

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石橋和訓による肖像画(1919年)
  • 奥羽日日新聞「本邦朝野紳士の体重」(1902年(明治35年)5月8日)によると身長は172cm、体重は78kgとある。
  • 松方は女好きで、早世した2男も含めて15男11女の26子をもうけた。ある日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが、咄嗟に思い出せず「いずれ帰宅、調査の上、奉答仕りまする(後日、調査の上、報告申し上げます)」と奏上した逸話もある[41]
  • 松方と接したことのある尾崎行雄は松方を「鈍重」と評し、「(松方が)もし薩摩人でなかったら総理大臣になれなかったろう。先輩が皆没したため回り回って薩摩の代表になった」にすぎないと記している[42]
  • 歴代内閣総理大臣経験者では、一番生年月日が早く(1835年3月23日生まれ)、山縣有朋が死去した1922年(大正11年)2月1日から自身が死去する1924年大正13年)7月2日までは存命中の最古参の総理大臣経験者となっていた。また、西園寺公望に抜かれるまで歴代総理大臣の最長寿記録を保持していた(現在の記録は東久邇宮稔彦王の102歳)。

栄典

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外国勲章等佩用允許

家族・親族

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妻の松方満佐子(石橋和訓画、1919年)
次男の松方正作(上海領事官補時代、1895年)

系譜

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松方家は12世紀島津家に従って東国からやって来た家である。

松方氏はもともと、武蔵(東京都埼玉県神奈川県北東部)の豪族河越重頼の四男河越重時から始まる。鎌倉時代初期、島津忠久に従って、薩摩(鹿児島県)にやって来たというから、非常に古い譜代であり、戦国時代の猛将島津義弘に仕えた人物として、松方伊豆がいる[77]。 松方家は、12世紀に島津家に従って東国からやって来た由緒ある家柄であり、17世紀松方和泉守が15歳で主命を受けて長崎に鉄砲製造の術を研究に行って以来、鉄砲製造を監督指導して禄を食(は)んできた。松方七右衛門は30代目の当主である。しかし、そもそも当時、砲術があまり評価されていなかったうえに、松方家は下級藩士の家柄であったので、社会的地位は実質的には高くはなかった。さて、松方家には跡継ぎの息子がいなかったため、七右衛門は養子をとることを考え、正恭の人物を見込んで、彼を迎えることにした。郷士の家系に生まれ、江戸時代の身分制では最低の階層であった商業に従事していた松田正恭は、かくして武士の身分を得、七右衛門が没した1818年、松方家の家督を相続し、名を改め、以来、“松方正恭”と名乗った[78]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古在由直
 
 
古在由重
 
 
古在豊樹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清水貞幹
 
豊子
 
 
古在由正
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古在由秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熊沢善庵
 
妙子
 
 
澄江
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幣原顕
 
 
幣原廣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幣原坦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幣原幸秀
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥三郎
 
 
 
 
 
幣原新治郎
 
 
 
 
 
 
 
幣原元
 
 
和子
 
 
幣原和寿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥次郎
 
 
 
 
 
 
幣原喜重郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幣原匡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幣原道太郎
 
 
幣原隆太郎
 
幣原慎一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥太郎
 
雅子
 
 
幣原重雄
 
 
 
今西健策
 
 
幣原幸二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加藤高明
 
 
幣原平三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小野慶蔵
 
美和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加藤厚太郎
 
 
 
倶子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春路
 
 
 
 
 
 
 
幣原章二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎久弥
 
岩崎彦弥太
 
 
岩崎寛弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木内重四郎
 
 
木内良胤
 
 
木内昭胤
 
木内孝胤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木内信胤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弥姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
磯路
 
 
渋沢敬三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島津斉彬
 
 
喜勢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渋沢雅英
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島津斉興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
登喜子
 
 
須賀川誠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島津久光
 
 
島津珍彦
 
孝子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
由羅
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎忠雄
 
 
 
和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥之助
 
 
岩崎小弥太
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎俊弥
 
淑子
 
 
 
寛子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後藤象二郎
 
早苗
 
 
岩崎輝弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雅美
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
繁子
 
 
 
 
 
 
 
岩崎正男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
増子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方正作
 
 
 
 
 
 
 
 
野村正吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野村駿吉
 
 
 
 
松方亮三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方五郎
 
松方正信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村愛作
 
てる子
 
 
 
渡辺晴男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渡辺紀久男
 
 
いく子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渡辺良吉
 
 
 
 
 
 
 
 
ともの
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舘稲麻呂
 
 
紀久子
 
 
純子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舘香録
 
 
舘豊夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久楽子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漆野道也
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漆野東吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漆野佐一郎
 
 
漆野寿一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漆野孝一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やさ
 
 
 
下河辺行信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下河辺孫一
 
 
 
下河辺俊行
 
下河辺行雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下河辺建二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
牧子
 
 
下河辺隆行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敏子
 
 
 
 
 
 
 
小澤健二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まつ
 
 
小澤開作
 
 
 
小澤俊夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小澤克己
 
 
征良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さくら
 
 
 
小澤征爾
 
 
小澤征悦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下河辺三史
 
 
 
小澤幹雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
芦田均
 
 
 
 
 
 
 
下河辺元春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美世
 
 
 
下河辺史郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松田為雅
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寿美
 
 
 
 
 
 
 
下河辺晴三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方七右衛門
 
松方正恭
 
松方正義
 
 
松方巌
 
松方三郎
 
 
松方峰雄
 
 
松方岳史
 
松方錬太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方岩雄
 
 
理紗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山下亀三郎
 
山下太郎
 
 
和子
 
 
松方雪雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方幸次郎
 
松方幸輔
 
 
松方信夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方勝彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方正雄
 
松方義雄
 
 
松方清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武笠清太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
松方康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方鉄雄
 
 
松方健
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千代子
 
 
松方三雄
 
 
松方明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幾姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
川上直之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方虎雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方金熊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
谷村愛之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
男(八木沼姓)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津留子
 
樺山資英
 
 
 
 
 
 
 
純子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方乙彦
 
 
 
 
 
 
 
東洋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
米子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山本権兵衛
 
 
登美
 
 
 
 
 
 
槇文彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松本枩蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松本重治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方正熊
 
松方真
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方義輔
 
 
E・O・ライシャワー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方金次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松方十一郎
 
 
ハル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松本虎吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
堀越角次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梅子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
森村義行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野坂三枝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

関連作品

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小説

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映画

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テレビドラマ

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脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。

出典

[編集]
  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、31頁。
  2. ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “松方正義とは”. コトバンク. 2021年9月22日閲覧。
  3. ^ 松方正義誕生地 - 鹿児島市 2013年5月26日閲覧。
  4. ^ a b 室山義正 2005, p. 18.
  5. ^ a b 室山義正 2005, p. 20.
  6. ^ 松方・ライシャワー, ハル『絹と武士』広中和歌子、1987年、55頁。ISBN 4-16-341850-4OCLC 18743960https://www.worldcat.org/oclc/18743960 
  7. ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』56頁
  8. ^ 室山義正 2005, p. 22-23.
  9. ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』59頁
  10. ^ 室山義正 2005, p. 24.
  11. ^ a b c d 室山義正 2005, p. 27.
  12. ^ 室山義正 2005, p. 28.
  13. ^ a b c 室山義正 2005, p. 29.
  14. ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』77頁
  15. ^ 室山義正 2005, p. 30.
  16. ^ a b 室山義正 2005, p. 31.
  17. ^ 室山義正 2005, p. 31-32.
  18. ^ a b c 室山義正 2005, p. 34.
  19. ^ 室山義正 2005, p. 34/36.
  20. ^ 室山義正 2005, p. 36.
  21. ^ a b 室山義正 2005, p. 37.
  22. ^ 室山義正 2005, p. 51.
  23. ^ 室山義正 2005, p. 57.
  24. ^ 室山義正 2005, p. 121-122.
  25. ^ 室山義正 2005, p. 126.
  26. ^ 室山義正 2005, p. 1.
  27. ^ a b c 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版『松方正義』 - コトバンク
  28. ^ 柏崎敏義「会計年度と財政立憲主義の可能性--松方正義の決断」『法律論叢』第83巻2・3、明治大学法律研究所、2011年2月、97-133頁、ISSN 03895947NAID 40018839378 
  29. ^ 叙任及辞令』、官報。
  30. ^ 『官報』第2735号「叙任及辞令」1892年8月9日。
  31. ^ a b 室山義正 2005, p. 313.
  32. ^ 室山義正 2005, p. 315.
  33. ^ 昭和9年7月3日付『東京朝日新聞
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  35. ^ 室山義正 2005, p. 418.
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  38. ^ a b 室山義正 2005, p. 36/419.
  39. ^ 室山義正 2005, p. 424.
  40. ^ a b 室山義正 2005, p. 430-431.
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  46. ^ 『官報』第1430号「彙報」1888年4月10日。
  47. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」明治22年11月30日
  48. ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
  49. ^ 『官報』第4902号「叙任及辞令」明治32年11月1日
  50. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」明治40年1月28日
  51. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」明治40年9月23日
  52. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」大正5年12月13日
  53. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」大正5年7月15日
  54. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」大正11年9月18日
  55. ^ 『官報』第3559号「叙任及辞令」大正13年7月4日
  56. ^ 『官報』第3560号「勅令」大正13年7月5日
  57. ^ 『官報』第3562号「従一位大勲位公爵松方正義葬儀」1924年7月8日
  58. ^ 『官報』第2727号「叙任及辞令」明治25年7月30日
  59. ^ 『官報』第5778号「叙任及辞令」明治35年10月6日
  60. ^ 『官報』第5892号「叙任及辞令」明治36年2月26日
  61. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017, 「第一章 松方正義」の項
  62. ^ 松方侯爵、爵位返上を申し出る『大阪毎日新聞』昭和2年11月30日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p104 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  63. ^ 松方幸次郎 『人事興信録』データペース、第8版 [昭和3(1928)年7月]
  64. ^ 平成新修旧華族家系大成下576-579
  65. ^ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 殿堂者詳細情報 松方正雄
  66. ^ 武笠清太郎 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学
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  69. ^ 川上直之助 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学
  70. ^ 国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.140
  71. ^ 松方乙彦 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学
  72. ^ 松方正熊『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  73. ^ 松方正熊 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学
  74. ^ 西町『麻布鳥居坂警察署誌』東京都、昭和18年
  75. ^ 松方義輔 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]、名古屋大学
  76. ^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office 1907
  77. ^ 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 280-281頁
  78. ^ ハル・松方・ライシャワー著『絹と武士』 45頁
  79. ^ 最新日本政財界地図 (8) 国際文化会館人脈と白州次郎

参考文献

[編集]
  • 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社カッパブックス、1965年 158-163頁
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(松方家 十九人もの子だくさん)』 角川書店、1983年 216-219頁
  • 『日本の名家・名門 人物系譜総覧 別冊歴史読本新人物往来社、2003年 280-281頁
  • ハル・松方・ライシャワー 『絹と武士』 広中和歌子訳、文藝春秋 1987年
  • 『松方正義関係文書』(全18巻別巻1補巻1、大東文化大学東洋研究所)
  • 室山義正『松方正義:我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2005年(平成17年)。ISBN 978-4623044047 

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
大山巌
日本の旗 内大臣
1917年5月2日 - 1922年9月18日
次代
平田東助
先代
松田正久
渡辺国武
渡辺国武
(新設)
日本の旗 大蔵大臣
第8代:1898年11月8日 - 1900年10月19日
第5代:1896年9月18日 - 1898年1月12日
第3代:1895年3月17日 - 8月27日
初代:1885年12月22日 - 1892年8月8日
次代
渡辺国武
井上馨
渡辺国武
渡辺国武
先代
伊藤博文
山県有朋
日本の旗 内閣総理大臣
第6代:1896年9月18日 - 1898年1月12日
第4代:1891年5月6日 - 1892年8月8日
次代
伊藤博文
伊藤博文
先代
伊藤博文
日本の旗 法典調査会総裁
1896年 - 1898年
次代
伊藤博文
先代
副島種臣
日本の旗 内務大臣
第8代:1892年6月8日 - 7月14日
次代
河野敏鎌
先代
佐野常民
日本の旗 大蔵卿
第6代:1881年10月11日 - 1885年12月22日
次代
(廃止)
先代
伊藤博文
日本の旗 内務卿
第7代:1880年2月28日 - 1881年10月21日
次代
山田顕義
先代
井上馨(→欠員)
日本の旗 大蔵大輔
1875年 - 1880年
次代
(欠員→廃止)
先代
福原恭輔(→欠員)
日本の旗 勧業
1876年 - 1877年
次代
(廃止)
先代
陸奥宗光
日本の旗 租税頭
1874年 - 1875年
次代
(欠員→廃止)
先代
(新設)
日田県知事
官選初代:1868年 - 1870年
次代
(欠員→)野村盛秀
その他の役職
先代
佐野常民
日本赤十字社社長
第2代:1902年 - 1913年
次代
花房義質
日本の爵位
先代
陞爵
公爵
松方家初代
1922年 - 1924年
次代
松方巌
先代
陞爵
侯爵
松方家初代
1907年 - 1922年
次代
陞爵
先代
叙爵
伯爵
松方家初代
1884年 - 1907年
次代
陞爵