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アイネスフウジン

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アイネスフウジン[1]
現役期間 1989年 - 1990年
欧字表記 Ines Fujin[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1987年4月10日[1]
死没 2004年4月5日(17歳没)[2]
シーホーク[1]
テスコパール[1]
母の父 テスコボーイ[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 中村幸蔵[1]
馬主 小林正明[1]
調教師 加藤修甫美浦[1]
厩務員 佐川邦夫[3]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀3歳牡馬(1989年)[1]
JRA賞最優秀4歳牡馬(1990年)[1]
生涯成績 8戦4勝[1]
獲得賞金 2億4440万9200円[1]
勝ち鞍
GI 東京優駿 1990年
GI 朝日杯3歳ステークス 1989年
GIII 共同通信杯4歳ステークス 1990年
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アイネスフウジン(欧字名:Ines Fujin1987年4月10日 - 2004年4月5日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1990年の東京優駿(日本ダービー、第57回東京優駿)の優勝馬。1990年のJRA賞最優秀4歳牡馬、1989年のJRA賞最優秀3歳牡馬である[1]

生涯

誕生までの経緯

北海道浦河町にて家族経営で競走馬生産をしていた中村吉兵衛は、借金を抱えないという経営方針を掲げており、年老いて種付け料の安い種牡馬を用いて生産を行って調教師から怒られるほどであった[4]。1968年の菊花賞優勝、年度代表馬となったアサカオーを最後に重賞から遠ざかるなど、生産馬が活躍することなく、一時倒産間際の状態に陥ったこともあった[5]

吉兵衛が1965年に生産したムツミパール[注釈 1]は、26戦4勝で競走馬を引退[6]。吉兵衛の下で繁殖牝馬となり、1971年から連続して産駒を残していた[7]。知人に「ノースマン(Norseman)の4×3」により「奇跡の血量」が成立するシーホークの配合を勧められたが、それまでシーホークの活躍馬がいなかったことから採用されることはなかった[8]。吉兵衛は、1976年誕生予定の配合相手にランドプリンステスコガビーなど活躍馬を多く出していたテスコボーイ[注釈 2]を希望した[5]。テスコボーイは、日高軽種馬農業協同組合(農協)が日本に導入した種牡馬であり、農協が所有しているために種付け料は安く設定された[5]。そのうえ、活躍馬が多く評価の高いテスコボーイの産駒は高値で取引されていた[5]。しかし、農協は種付け相手の繁殖牝馬を抽選方式で選出していた[5]。テスコボーイを希望する生産農家は多くあり高い倍率となったが、吉兵衛が当選したのであった[5]

1976年4月22日、ムツミパールの6番仔である牝馬[注釈 3]が誕生、テスコパールと命名された。直後に関係の深い2つの厩舎から入厩のオファーを受けるなど[9]、吉兵衛の高い期待を背負い競走馬として育成され[5]美浦トレーニングセンター所属の加藤修甫厩舎に入厩する予定であった[5]。しかし、2歳の春に激しい下痢に襲われて診療所に入所し、治療が施されるも良化することはなかった[9]。次第に体は痩せ、顔周辺にたかるハエの大群を追い払えず、肛門を閉じる力もないほど衰弱していった[9]

助かる見込みがないという獣医師の診断を聞いた吉兵衛は、獣医師の反対を他所に牧場に連れて帰ることを決意した[5]。吉兵衛の息子で共に牧場を営む中村幸蔵は、治療に尽力した獣医師との対面を嫌い診療所へ行くことを拒んだ[9]。ところが吉兵衛は代わりに近所の者を誘い、診療所から元々いた馬房に帰還させた[9]。「どうせダメなもんなら、うまいものを食わせて死なせてやりたい[9]」と希望した吉兵衛は、診療所で制限された水やえさを好きなだけ与えた[5]。するとテスコパールの体調があっという間に良化していき、3歳秋には下痢も解消[9]、他の馬と変わりない生活が可能となった[5]。競走馬としてのデビューを諦めたものの繁殖牝馬となり、1981年3月18日に初仔となる父ゼダーンの牝馬を出産[10]。以降、毎年のように生産を続けた[5]。1986年の種付けでは、高齢となったために1987年4月10日、中村吉兵衛の跡を継いだ幸蔵の下[注釈 4]、7番仔である黒鹿毛の牡馬(後のアイネスフウジン)が誕生した[1]。 

幼駒時代

テスコパールの7番仔は両親の名前を組み合わせた「テスコホーク」という幼名が付けられた[12]。幸蔵夫婦が多忙のため90歳となった吉兵衛と夫人で87歳のハナに見守られた[12]。当歳から馬体が充実しており、小林正明から馬主業のすべてを任せられた加藤修甫が注目し、小林による購入および所有と加藤厩舎へ入厩することが決定した[5][13]。小林の高校生の娘2人により、冠名の「アイネス」に風神に由来する「フウジン」を組み合わせた「アイネスフウジン」と命名された[13]

競走馬時代

3歳(1989年)

1989年9月10日中山競馬場新馬戦(芝1600メートル)に中野栄治が騎乗してデビュー、2番人気に支持されて2着。同じ条件で2戦目の新馬戦では、1.3倍の1番人気に推されたが2着に敗れた。続いて中野は、格上挑戦で特別競走への出走を要請するほど自信があったが、3戦目の10月22日、東京競馬場の未勝利戦(芝1600メートル)へ進んだ[14]。1.5倍の1番人気に支持されて出走し、逃げて1馬身4分の3馬身の差をつけて初勝利を挙げた[15]。その後腰の疲労により、連戦することができなかった[16]

続いて12月3日の条件戦である葉牡丹賞[注釈 5]へ出走する予定だったが、中野が12月17日の朝日杯3歳ステークスGI)へ出走を提案した[16]。加藤は距離の長いレースを希望して12月24日のホープフルステークス(OP)も検討していたが、最終的に中野の提案が受け入れられた[16]。加藤はこの選択を「力試し」と考えていた[16]

映像外部リンク
1989年 朝日杯3歳ステークス
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

朝日杯3歳ステークスでは、4戦2勝ですべて3着以内のカムイフジ、京成杯3歳ステークスGII)など3連勝中の牝馬サクラサエズリが1,2番人気となり、11.5倍の5番人気に推された[17]。発走前に中野は、牡馬ではなく牝馬のサクラサエズリのただ1頭を警戒していた。スタートすると、サクラサエズリに騎乗する木藤隆行が手綱を大きく動かして促し、後方との差を広げにかかっていた[18]。しかしアイネスフウジンは、中野が促さずともサクラサエズリの真横に陣取り、2頭となった[18]。先頭の2頭は、第3コーナー付近で後続に5馬身のリードを作ることとなり、前半の1000メートルを56.9秒で通過する「超ハイペース[注釈 6]」(橋本邦治)となった[16]。2頭が並んだまま最終コーナーに差し掛かると、木藤は単独先頭に持ちこもうと大きく追っていた。一方中野は、追わずに後ろ振り向き、後方馬の位置を確認[18]。後続の追い上げがないまま、直線では並走した2頭の争いとなった。残り150メートルでサクラサエズリが失速、アイネスフウジンに中野がムチを一発与えただけで単独先頭となり、サクラサエズリに2馬身半差をつけて先頭で入線した[16][19]。走破タイムは1分34秒4で、これは1976年の朝日杯3歳ステークスでマルゼンスキーが記録し、「不滅」とも称された3歳レコードに並ぶものであった[20]GI初勝利となった中野は「楽勝」と振り返り[16]、10月以来の勝利はその年の9勝目であった[21][22]。中村牧場はアサカオー以来の重賞勝利であった[16]

この勝利に大川慶次郎は「相当の大器」「関東牡馬の注目度ナンバーワン」と評した[23]。年末のJRA賞選考では、満票172のうち112票[注釈 7]を集めてJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞した[24][注釈 8]。月刊誌『優駿』が発表する「フリーハンデ」では、「55」が与えられて3歳馬関東部門で単独首位となった[25]。一方関西部門では、デイリー杯3歳ステークスGII)を制して3戦3勝、骨折により阪神3歳ステークスに参戦できなかったヤマニングローバルが単独首位[25]。東西首位は同じ「55」という評価であった[25]

4歳(1990年)

1990年となり4歳となり、2月11日の共同通信杯4歳ステークスで始動。雨が降る中8頭立てとなり、単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された[8]。スタートから先頭に立ち、独走するとそのまま後方に3馬身離して勝利した[8]。中野は、当初控えるレースを経験させたかった[8]。しかし、他の馬より速かったため逃げに出ることになってしまった[8]

続く弥生賞GII)では単枠指定の対象となり、1.9倍の1番人気の支持された[26]。不良馬場に馬場の内側が悪化している状態であった。アイネスフウジンの走法には合わない馬場状態であったため、ここで万一馬自身が走る気を失い、今後その能力を発揮できなくなることを恐れた中野は、無理をさせず状態の良い馬場の外側でレースを進めていた[27]。逃げた先頭集団から最後の直線に入ったが差をつけることができず、残り200メートルで内からメジロライアンにかわされ、その他ツルマルミマタオーホワイトストーンにもかわされた4着に敗れた[28]

4月15日の皐月賞は、4.1倍の1番人気に推された。弥生賞で敗れたメジロライアンが5.0倍の2番人気、きさらぎ賞など5連勝中のハクタイセイが5.6倍と続き「混戦」とはやされ[29]、3頭は「三強」といわれた[30]。1枠2番と逃げに有利な内枠を得て、中野は「スピードが他馬とは違う。おもいきって逃げる[29]」と宣言していた[29]。しかし、発走直後に隣の3番ホワイトストーンが内に斜行、もう片方の1番ワイルドファイアーとホワイトストーンに挟まれてぶつかる不利を受けて、十分にスタートダッシュをすることができなかった[27]。その間にフタバアサカゼが「捨て身の逃げ[29]」となり、次ぐ2番手となった[27]。フタバアサカゼは1000メートルを1分0秒2で通過するペースを刻み、最終コーナーではさらに遅いペースを演出していた[27]。アイネスフウジンには合わない遅いペースとなってしまい、我慢することができず残り600メートルで先頭となってしまった[27]。直線で粘るも伸びることなく、中団からアイネスフウジンを目標にしていたハクタイセイにクビ差し切られて2着に敗れた[29][27]。石井誠はスタート直後の不利も含んで「敗れてなお強し」と評した[31]

レース後、中野を降板させる声も上がったが、加藤は中野に「ダービーは勝とうな」と声をかけ、コンビ続投となった[32]。加藤は、レース後のレントゲン検査により消耗が大きいことが判明、2週間の休養を与えた[33]

東京優駿

映像外部リンク
1990年 日本ダービー
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

5月27日、東京優駿(日本ダービー)に出走。当日の東京競馬場には競馬場のある東京都府中市の総人口に匹敵する19万6517人が来場し、世界レコードの観客数であった[32]。皐月賞の上位3頭が再び揃ったが、アイネスフウジンは連敗により評価を下げた[27]。メジロライアンとハクタイセイが単勝オッズ3倍台の1,2番人気に対し、5.3倍の3番人気に支持された[27]。中野は逃げることに執着していなかったが、最後の直線手前までに早めに抜け出すというレース展開を考えていた。12番枠からスタートすると、内枠の馬らを制してハナを奪い、最初のコーナーに差し掛かった。そのまま逃げて1000メートルを59.8秒で通過するペースを刻んだ。向こう正面では状態の悪い馬場の内側を避けて逃げ、後方に4馬身以上の差を広げた。馬場の内側からハクタイセイが追い上げてきたため、休むことなく先頭を保って直線コースに入った。徐々に加速し、まず内からハクタイセイが並びかけようとしたがかわすには至らず。残り100メートルで中野はムチを入れ、外から追い上げたメジロライアンを1馬身4分の退けて先頭で入線した[33]。走破タイム2分25秒3は、1988年のサクラチヨノオーが記録した東京優駿のレコードタイムを1秒更新する勝利、1975年優勝のカブラヤオー以来となる逃げ切り勝利であった[33]

ダク
キャンター
【左】駈歩(キャンター)【右】速歩(ダフ)

アイネスフウジンは入線直後に躓くなど余力が尽き、キャンター(駈歩)することができずダク(速歩)でゆっくり戻ることとなった[34]。他の馬が向こう正面から馬場を去ったが同じようにできず、スタンド前からの退去を目指した[35][36][注釈 9]。観客はレースが終わり数分経過したが、その場から立ち去ることなく、退場するアイネスフウジンを見守っていた[37]。スタンドに近づくにつれて手拍子に合わせて自然発生的に「ナ・カ・ノ・ナ・カ・ノ」と歓声が若者から上がった[38][39]。そのコールに老若男女問わずが応じて拡大していった[38]。競馬場にいる19万人全体の合唱に変わったこの行為は、後に「ナカノ・コール」と呼ばれた[35]。音量はスタンドを越えて正門付近で聞こえるほどであった[32]。これ以降、勝利した馬や騎手をコールで称える文化が生まれ、主催する日本中央競馬会(JRA)も大レースでの入場制限や警備、救護などを強化するきっかけとなった[40]。またレース前日から競馬場門に並ぶ「徹夜組」や発走前のファンファーレに合わせた手拍子をする文化も生まれた[40]。表彰式を終えて馬房に戻ると、左前脚が腫れていた[37]。(レースおよび「ナカノ・コール」に関する詳細は、第57回東京優駿を参照。)

夏以降は温泉療養などで復帰を目指したが、脚部不安が残ることから現役を引退した。引退式をJRAから薦められたが、「脚部不安で引退するのに、フウジンを馬場には出せない」との意向で行われなかった。

種牡馬時代

種牡馬入り後は産駒に恵まれず一度は種牡馬引退が検討されたが、2000年ファストフレンド帝王賞東京大賞典を勝ち、種牡馬生活を続行することになった。

2004年4月5日宮城県鳴子町の斉藤牧場にて腸捻転のため死亡した[2]。17歳であった。この年の日本ダービーで、1999年アドマイヤベガがタイレコードを記録しつつ並んでいたレースレコードが[41]キングカメハメハによって更新された[42]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[43]およびJBISサーチ[44]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離
(馬場)



オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬
(2着馬)
馬体重
[kg]
1989. 09. 10 中山 3歳新馬 芝1600m(良) 11 7 8 04.5 (2人) 02着 1:36.1(37.5) -0.8 0中野栄治 53 フジミワイメア 504
09. 23 中山 3歳新馬 芝1600m(重) 8 4 4 01.3 (1人) 02着 1:35.5(36.9) -0.0 0中野栄治 53 カネショウナイト 504
10. 22 東京 3歳未勝利 芝1600m(良) 8 1 1 01.5 (1人) 01着 1:36.0(48.6) -0.3 0中野栄治 55 (タイフウオーザ) 510
12. 17 中山 朝日杯3歳S GI 芝1600m(良) 15 5 8 11.5 (5人) 01着 1:34.4(37.4) -0.4 0中野栄治 54 サクラサエズリ 518
1990. 02. 11 東京 共同通信杯4歳S GIII 芝1800m(良) 8 1 1 01.7 (1人) 01着 1:49.5(48.4) -0.5 0中野栄治 56 (ワイルドファイアー) 518
03. 04 中山 弥生賞 GII 芝2000m(不) 14 5 8 01.9 (1人) 04着 2:05.8(39.7) -0.4 0中野栄治 55 メジロライアン 516
04. 15 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 1 2 04.1 (1人) 02着 2:02.2(37.6) -0.0 0中野栄治 57 ハクタイセイ 512
05. 27 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 22 5 12 05.3 (3人) 01着 2:25.3(36.6) -0.2 0中野栄治 57 (メジロライアン) 514
  • 枠番および馬番の太字強調単枠指定を示す

種牡馬成績

主な産駒

エピソード

19年目のクラシック制覇

騎手の中野栄治と、調教師の加藤修甫は、共にデビュー、開業19年目であった。中野は、減量が難しくレースに騎乗する機会が減り、引退も視野に入れていた[32][51]。加藤は、1988年のミュゲロワイヤル、1989年のアイネスボンバーと2年連続で故障により東京優駿(日本ダービー)出走を断念していた[8]。中野が小倉競馬場滞在中に交通事故を起こし、前日に飲んだ酒が残っていたことから酒気帯び運転をとられた。さらに「助手席に女性を座らせていた」とマスコミにでっち上げられた[52]。その記事を真に受けた妻が激怒して美浦トレーニングセンターに「強制送還」されていたところ[52]、加藤からアイネスフウジンの騎乗依頼を受けることとなった[52]

小林正明

自動車用品を扱う会社で財を成した馬主の小林正明は中央競馬の馬主登録をした1988年12月、同年初めて所有した馬[注釈 10]かつ馬主登録2年でダービーオーナーとなった[13][注釈 11]。後に小林はこう語った。

いままで生きてきて、事業をやってきてもあまり怖いなあ~っ、と感じたことはなかった。それがこんなに早くダービーをとって、いま、とっても怖いなあと感じているところです。こんな幸運があっていいのだろうか、という気持ちで、有頂天にならずにしっかりと気を引き締めていかないといけない、と心から思っています。でも、この幸運を大事にしたい、というのも本当の気持ちで、ことしの3歳馬たち[注釈 12]にももちろん走って欲しいですよ。来年もダービーを、とは言いませんけれどもね(笑) — 小林正明[53]

しかし、本業の経営の悪化を苦に1998年、同じように経営難にあえいでいた他社の社長2人とともに集団自殺した[54]

中村牧場

1989年12月17日の朝日杯3歳ステークスを勝つはずないと考えていた中村幸蔵は、競馬場に向わなかった[16]。92歳の父吉兵衛が病気で入院したことから、親子で病院のテレビで観戦[5]。優勝を見届けると「口がポカンと開いたまま」であった[55]。アサカオー以来となるクラシック挑戦に期待していたが、12月30日、吉兵衛が死去[16]。幸蔵は「いい冥土のみやげ〔ママ〕」と答えている[16]

シーホーク

1980年代後半、20代後半であるシーホークは、老年からシンジケートを解散されていた。老後を見届ける意味合いで16人が集まって結成された「シーホーク愛好会」の中で小規模に種牡馬として活動していた[56]。会員以外からの配合希望がなく、需要がなかったことから、種牡馬引退も考えられていた[56]。しかし、アイネスフウジンの他、1989年の東京優駿を制したウィナーズサークルや1990年の目黒記念GII)を制したマルタカタイソンなど、同時期に突然活躍馬が続出。シーホークとの配合を希望する生産者が突然増加した[56]。ところが、愛好会は多くの繁殖牝馬を相手にして健康を害するリスクを恐れ、全ての配合希望を却下した[56]。中村牧場の幸蔵もアイネスフウジンの全兄弟を望んだが、叶わなかった[56]

全てを却下してもシーホークを求める声が多かったことから、1990年3月12日、1年限りの種付け権利「余勢株」をスタリオン・ノミネーションセールに出品され、505万円で落札された[56]。シーホークのそれまでの種付け料は、100万円をピークにおおよそ40 - 50万円に設定されていたが、28歳にしてそれらを上回る「信じられないこと」(吉沢譲治)であった[56]

東京優駿

5枠12番

アイネスフウジンの枠順は、5枠12番であった。これは中野の結婚記念日「5月12日」と同じ数字で、代理で枠順抽選に臨んだ高市圭二が指摘した[57]。加えて、アイネスフウジン以前の中村親子の重賞優勝馬であるアサカオーの誕生日も「5月12日」であった[12]。さらに、生産した中村幸蔵が応援に行くために搭乗した羽田空港着の飛行機の座席番号「12[12]、幸蔵の東京競馬場の指定席番号も同様に「12」であった[12]発馬機は、通常12頭が標準に設計されており、東京優駿では22頭の出走では2台を連結して用いられた[58]。そのため12番枠と13番枠の間が、他よりも広く空いていた。発馬直後にアイネスフウジンが右によれる動きを見せたが、隣との接触には至らず先頭で進むことができた[58]

予行演習

出走前日の5月26日、中野は同じ東京競馬場芝2400メートルのメイン競走であるメイステークス(OP)でローゼンリッターに騎乗した[59]

アイネスフウジンは性格から、発走前に体力消耗させないように待避所からスタートまで歩いて移動していた[60][注釈 13]。メイステークスでは試しに待避所を発走8分前に立ち去ったところ、まだ早く集合時間にはゲートを過ぎてしまうことに気付いた[60]。そのため、当日には発走7分前に待避所を立ち去り、キャンターで向かうほかの馬と同時にゲートに到着した[60]。また馬場状態を確認しながらメイステークスに騎乗し、状態の悪い馬場の内側を避けて走ることを決意した[60]。本番では避けた馬場の内側を避け、その内側を走った武豊騎乗のハクタイセイなどが伸びを欠いていた[60]

特徴

中野はアイネスフウジンの能力を確信したレースに4着に敗れた弥生賞を挙げた[27]。内からメジロライアンにかわされた際に、並の馬なら諦めるところ、負けじと抜き返そうとする動きを感じていた。この動きから皐月賞勝利を確信した[27]

新馬戦では504キログラムで出走する大きな馬体を持っていた[27]。後駆(トモ)が充実していたが、前駆が貧しく、中野は「前のタイヤがパンクした自転車に乗ってる感じ」と表現した[27]。後脚の踏み込みにより、調教に騎乗していた高市圭二が馬を止める際に、何度も転倒していた[14]。前脚の踏み込みが弱く、ハミに頼る「ハミにぶら下がる」という走法だったため、手綱を引くとたちまち均衡を失い、騎手との連携が取れなくなる危険があった[27]。また中野は「追って味のない馬」と表現するなど控えて進む競馬は向いておらず、逃げの戦法に至った[14][27]

中野は、デビュー当初前脚の貧弱なアイネスフウジンに無理をさせず、後脚に遅れて成長するのを待っていた[27]。新馬戦では勝利することができなかったが、理想の競馬であったことから悲観するものではなかった[14]

血統表

アイネスフウジン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 エルバジェ系ダークロナルド系
[§ 2]

*シーホーク
Sea Hawk
1963 芦毛 アイルランド
父の父
Herbager
1956 鹿毛
Vandale Plassy
Vanille
Flagette Escamillo
Fidgette
父の母
Sea Nymph
1957 芦毛
Free Man Norseman
Fantine
Sea Spray Ocean Swell
Pontoon

テスコパール
1976 栗毛
*テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
母の母
ムツミパール
1965 鹿毛
*モンタヴァル
Montaval
Norseman
Ballynash
マサリュウ トサミドリ
ユキツキ F-No.4-d
母系(F-No.) 4号族(FN:4-d) [§ 3]
5代内の近親交配 Norseman4×4、Nasrullah4×5、Firdaussi5×5、Blue Peter5×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ アイネスフウジン 5代血統表2017年8月28日閲覧。
  • 半弟の中に双子がいる[61]。テスコパールは、アイネスフウジンが日本ダービーを制した1990年にゲイメセンを種付けされ、翌1991年に双子を出産[61]。リアルポルクス、リアルカストールと名付けられて競走馬としてデビューしたが、両馬とも2戦0勝に終わった[62][63]

脚注

注釈

  1. ^ 後のアイネスフウジンの祖母、母の母。
  2. ^ 後に、トウショウボーイなど多数輩出。(詳細はテスコボーイ#おもな産駒を参照)
  3. ^ 後のアイネスフウジンの母。
  4. ^ 幸蔵の兄が盲腸により26歳で亡くなったため、都会での生活を強く希望した幸蔵は牧場を継がざるを得なかった[11]
  5. ^ 1989年の葉牡丹賞(500万円以下)は、中山競馬場芝2000メートルで行われた。メジロライアンなど11頭が出走し、プリミエールが勝利した。
  6. ^ ハイペースは一般的に、逃げ、先行する馬が不利とされる。
  7. ^ ヤマニングローバルに43票、コガネタイフウに9票、ツルマルミマタオーに1票、プリミエールに1票、該当馬なし6票。[24]
  8. ^ 朝日杯3歳ステークスで先頭を争ったサクラサエズリはJRA賞最優秀3歳牝馬を受賞した[24]
  9. ^ 当時はまだウイニングランをする文化が定着しておらず、スタンド前からの退出は一般的ではなかった。
  10. ^ 後に所有し、アイネスフウジンよりも先にデビューした馬が複数頭存在する。1歳上のアイネスボンバーはアイネスフウジンの前年の皐月賞に出走した[13]
  11. ^ 南関東公営競馬ではすでに馬主をしており、大井競馬場所属のマルタカリボーは、1988年の春に中央競馬に移籍し、条件戦2連勝を記録している[13]
  12. ^ アイネスフウジンの1年後輩
  13. ^ キャンター(駈歩(かけあし)で移動する場合が多い。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t アイネスフウジン”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧。
  2. ^ a b ダービー馬アイネスフウジン死亡”. netkeiba. Net Dreamers Co., Ltd.. 2019年7月24日閲覧。
  3. ^ 【ダービーの栄光】(2)1990年アイネスフウジン”. サンスポ ズバッと!競馬. サンケイスポーツ. 2019年7月23日閲覧。
  4. ^ 『優駿』1990年2月号 25頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『優駿』2009年6月号 155頁
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  7. ^ 繁殖牝馬情報:牝系情報|ムツミパール|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月24日閲覧。
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  63. ^ リアルカストール”. JBISサーチ. 2019年7月24日閲覧。

参考文献

  • 優駿
    • 1990年2月号
      • 吉川良「【GI勝ち馬の故郷紀行】アイネスフウジンの故郷 中村幸蔵牧場」
      • 「1989年度JRA賞 年度代表馬、各部門最優秀馬決定!!」
      • 「1989年度フリーハンデ決定」
      • 大川慶次郎「げっかん評論(東)」
      • 橋本邦治「【今月の記録室】第41回朝日杯3歳ステークス(GI)」
    • 1990年4月号
      • 浅田啓資(共同通信社)「【今月の記録室】第24回共同通信杯4歳ステークス(トキノミノル記念)(GIII)」
    • 1990年5月号
      • 古宮正弘(報知新聞社)「【今月の記録室】第27回報知杯弥生賞(GII)」
    • 1990年6月号
      • 吉沢譲治「【第57回日本ダービー・スペシャル】ダービー有力馬とその父たちの評価」
      • 石井誠(報知新聞社)「【今月の記録室】第50回皐月賞(GI)」
    • 1990年7月号
      • 高橋源一郎「【第57回日本ダービー観戦記】ぼくの予言」
      • 「【オーナー愛馬を語る 46】アイネスフウジンの小林正明さん」
      • 木村幸治「【ジョッキー・トピックス】ぼくは泣かなかった」
      • 桜井裕夫(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第57回日本ダービー(GI)」
    • 1990年8月号
      • 吉川良「【GI勝ち馬の故郷紀行】第57回ダービー馬 アイネスフウジンの故郷 中村幸蔵牧場」
    • 2009年6月号
      • 河村清明「【サラブレッド・ヒーロー列伝】GOING MY WAY アイネスフウジン」
    • 2010年6月号
      • 広見直樹「【YUSHUN NONFICTION】あの日一番熱かったダービー」

外部リンク