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「京阪神快速」の版間の差分

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JR京都線2010年7月4日 (日) 00:23の版から一部転記(引き続き編集中、しばらくお待ちください。)
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==== 快速の歴史 ====
ルーツは[[関西急電]]と呼ばれる京阪神間の急行電車。1937年(昭和12年)の京都駅 - 吹田駅間の電化により大阪駅 - 神戸駅間の急行電車が京都へ延長されたのが始まりである。戦時中は運転を休止したが、[[1949年]]に復活。当時は大阪駅 - 京都駅間無停車であった。

* [[1956年]](昭和31年):米原駅 - 京都駅間電化に伴い、京都駅以東への乗り入れを開始。
* [[1957年]](昭和32年):高槻駅の構内改良(高槻電車区開設)に伴い、高槻駅停車。
* [[1961年]](昭和36年):二等車(のちのグリーン車)を連結。
* [[1964年]](昭和39年)10月:新幹線開業に伴う新大阪駅開業により、新大阪駅停車。
* [[1965年]](昭和40年)2月:113系配置により80系電車の置き換えを開始。基本7両、付属4両。
* [[1966年]](昭和41年)10月:サロ110配置により二等車連結列車を113系に置き換え。サロ連結の基本編成を高槻電車区・宮原電車区は8両編成とし、サロ不連結の明石電車区車は基本7両編成となる。各電車区とも4両の付属編成を持ち、7両 - 12両で運転される。
* [[1970年]](昭和45年)3月:万博開催に伴い、開催期間中は茨木駅臨時停車。停車継続運動が起こり、開催終了後も常時停車となる。
* [[1974年]](昭和49年)7月:湖西線開業。一部列車が湖西線に直通。
* [[1980年]](昭和55年)10月:[[グリーン車]]連結を中止。10月改正で正式に廃止となるが、それに先立ち8月末から時刻表上でグリーン車マークが消え、連結されていた車は普通車開放となった。編成から抜かれたグリーン車は東京地区へ転出。基本編成を7両に統一。
* [[1981年]](昭和56年)10月:高槻電車区の編成にサハ111を連結、基本編成を8両となる。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:昼間時間帯の快速は高槻駅以東で各駅停車とする、いわゆるT電が登場した。この時間帯における普通(各駅停車)の同区間乗り入れが[[1997年]]8月31日まで一旦無くなる。JR移行後、高槻駅以東で各駅に停車する快速は増えており、今では始発から朝ラッシュにかけて運転される一部を除き高槻駅以東で各駅に停車する。そのため、駅や車掌の案内も高槻駅以東は普通と表示・放送されている。
* [[1989年]](平成元年)[[3月11日]]:221系の投入を開始。
* [[1995年]](平成7年)
** [[6月12日]]:全区間快速運行時間帯の一部の快速が神足駅(現在の長岡京駅)に停車。
** 9月1日:平日の快速が長岡京駅に全列車停車。
* [[1996年]](平成8年)3月16日:すべての快速が長岡京駅に停車。
* [[2004年]](平成16年)10月16日:113系の定期運用廃止。
* [[2009年]](平成21年)3月14日:深夜時間帯の快速を新快速および、高槻駅以東で各駅停車に変更。これにより全区間での快速運転は朝のみになった。


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2010年7月6日 (火) 11:31時点における版

JR京都線を走行する快速
JR神戸線を走行する新快速

京阪神快速(けいはんしんかいそく)では、西日本旅客鉄道(JR西日本)の京阪神地区アーバンネットワークのうち、主に東海道山陽本線快速新快速について歴史に重点を置いて記述する。

なお本項では、北陸本線米原駅 - 長浜駅間と東海道本線米原駅 - 京都駅間については琵琶湖線、東海道本線京都駅 - 大阪駅間をJR京都線、東海道本線大阪駅 - 神戸駅間と山陽本線神戸駅 - 姫路駅間についてはJR神戸線で記述する。

概要

京都大阪神戸の3大都市を結ぶ東海道・山陽本線は、古くから電車が運行され、また各駅停車のほかに速達列車として急行(後の快速)が運転されてきた。その後、電化区間の拡大により京都駅以東や西明石駅以西にも電車運転が行われるようになると、それらの区間の中距離普通電車は、京都駅 - 西明石駅間の京阪神緩行線に対する快速と一体化する形になった。

やがて快速の停車駅の増加に伴い、京阪神の連絡の面ではサービスが低下し、また上記の区間外では各駅停車のために時間を要した。そのため上記区間ではより停車駅を少なく、その区間外でも快速運転を行う新快速が誕生した[1]

日本国有鉄道(国鉄)時代は、高い運賃(特に1976年11月の運賃値上げ以降)、均等でない運転間隔の利用しにくいダイヤなどのため私鉄に対して常時劣勢な立場で、特に距離の長い京阪間では、阪急電鉄(阪急)・京阪電気鉄道(京阪)が転換クロスシートを持つ特急料金不要の特急専用車を京阪間を無停車で頻発運転させており、「関西は私鉄王国」といわれる所以でもあった。

新快速の登場は平行する私鉄との乗客獲得競争によるもので、特にJR西日本発足後は新型車両の積極的な投入や、運転区間の拡大などを行い、並行する私鉄は一転して防戦に追われるようになった。並行私鉄だけに限らず、滋賀県 - 京都・大阪間の輸送で競合する名神ハイウェイバスにも、滋賀県内の停留所が大幅縮小に追い込まれるなどの影響が出た。

2010年3月13日現在、東海道・山陽本線系統の快速列車は、西は上郡駅播州赤穂駅まで、東は米原駅を越えて、最長東海旅客鉄道(JR東海)の大垣駅まで、北は快速が長浜駅、新快速が福井県に乗り入れて敦賀駅まで運転されている。

「京阪神快速」の名称は、ほかの運行系統と記述を区別するときに用いられることがある[2]が、実際の旅客案内に用いられることはない。

路線環境

左側2線が電車線、右側2線が列車線の線路別複々線区間

東海道・山陽本線の京阪神地区では、草津駅 - 西明石駅間が複々線となっている。このうち、草津駅 - 兵庫駅間は方向別複々線とし、線路の外側を外側線(列車線)と呼び、内側は内側線(電車線)と呼ばれている。

草津駅 - 京都駅間では内外ともに最高速度130km/hであるが、これに対し、京都駅 - 西明石駅間は外側線が130km/h、内側線が120km/hになっている[3]

兵庫駅 - 新長田駅 間で内側線が下り外側線を乗り越え、兵庫駅 - 西明石駅間は線路別複々線となっている。電車線(南側)は快速・普通が使用し、列車線(北側)は原則的に特急列車貨物列車新快速が使用しているが、朝夕ラッシュ時には、須磨駅垂水駅舞子駅を通過する快速も走行している。

新快速は原則外側線を走るが、草津駅 - 京都駅間では多くが内側線を走り、新大阪駅 - 大阪駅間は原則内側線を走る。これは新大阪駅で快速や普通と同一ホームを利用するためである[3]

外側線・列車線と内側線・電車線の使い分けは歴史的にも変化し、現在は効率的な運行のためにかなり複雑なものとなっている。

運行形態

快速の運転区間は、東側は京都駅を越え琵琶湖線や一部は湖西線へ直通し、明石駅以西では各駅に停車する「普通」として運転されており、最長は網干駅播州赤穂駅上郡駅まで運転されている。

JR京都線の全区間を快速運転(長岡京駅高槻駅茨木駅新大阪駅のみに停車)する列車と神戸線で列車・外側線(舞子駅・垂水駅・須磨駅は通過)を走行する快速は始発から朝ラッシュ時に運転されており、朝ラッシュ時は8分間隔で大阪駅に向けて運転されている。日中からは高槻駅以西のみ快速運転、高槻駅以東は各駅に停車する「普通」として運転しており、野洲駅 - 加古川駅間は毎時4本、米原駅までと姫路駅・網干駅までは毎時2本が運行されている。このため、高槻駅では同駅折り返しの普通と相互接続を行う。夕方は加古川駅折り返しがなくなり、すべて姫路方面の列車となる。この時間帯には須磨駅・垂水駅・舞子駅を通過する列車が2本設定されている。

緩急接続も設定されており、高槻駅・大阪駅・芦屋駅・須磨駅で普通と、加古川駅で新快速と接続する。野洲駅では同駅止まりの新快速と接続し、朝晩には近江八幡駅・能登川駅でも緩急接続がある。

新快速は、敦賀駅 - 網干駅・播州赤穂駅・上郡駅間で、北陸本線・琵琶湖線経由または湖西線経由で運転されている。

快速・新快速ともに網干総合車両所所属の223系1000番台・ 2000番台が、快速はさらに221系および6000番台電車も使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている。朝ラッシュ時は223系で統一され、130km/h運転を行っている。

新快速は、2000年3月11日から最高速度が130km/h化されている。

停車駅

凡例
●:停車 -:通過 …:この区間は各駅に停車
北陸本線・琵琶湖線・JR京都線
停車駅 敦賀駅   長浜駅   米原駅 彦根駅   能登川駅   近江八幡駅   野洲駅 守山駅   草津駅   石山駅   大津駅 山科駅 京都駅   長岡京駅   高槻駅   茨木駅   新大阪駅 大阪駅
新快速 - - - - - - - - - - - -
快速 (M)         - - - -
快速 (T)     - -
  • 快速 (M):朝ラッシュ時まで運転、快速 (T):日中以降に運転
北陸本線・湖西線
停車駅 敦賀駅   近江舞子駅   堅田駅   比叡山坂本駅   大津京駅   山科駅 京都駅
新快速 - - - -
JR神戸線
停車駅 大阪駅   尼崎駅   西宮駅   芦屋駅   住吉駅 六甲道駅   三ノ宮駅 元町駅 神戸駅 兵庫駅   須磨駅   垂水駅 舞子駅   明石駅 西明石駅   加古川駅   姫路駅  
新快速 - - - - - - - - - - - - - - - - - -
快速(1) - - - - - - - - - - -
快速(2) - - - - - - - -
  • 快速 (1):ラッシュ時のみ運転、快速 (2):ラッシュ時を除く時間帯に運転

並行私鉄との競争

国鉄時代末期の京阪間では、117系の登場と前後して、阪急・京阪ともに特急車の置き換えが行われており、さらには京阪本線の出町柳駅への延長(鴨東線開業)を機会に新型車を登場させ、後にダブルデッカーを組み込むまでにエスカレートしている。さらに2008年京阪中之島線が開業した時にも同線直通(快速急行)用の車両としてグレードの高い車両を導入している。また、阪神電気鉄道(阪神)や山陽電気鉄道(山陽)にも転換クロスシート車両が登場し、1998年2月より阪神梅田駅 - 山陽姫路駅間の直通特急「姫路ライナー」・「大阪ライナー」を運転するなどの対抗策を打ち出した。また2009年3月20日阪神なんば線が開通し 神戸方面から大阪南部・奈良・和歌山方面への利便性が格段に向上した。阪神なんば線開通後は大阪ミナミへ乗り換えなしで行けることを積極的にPRしている。

それでも、かつての国家プロジェクトの賜物である線形の良さと複々線の容量を存分に生かして成長するJRの新快速に対し、速度・所要時間では対抗できず、苦戦を強いられている。新快速の高槻停車直前に阪急が特急の高槻市駅停車を始めたものの、JRから利用客を取り戻す材料にはならなかった。さらにはJRが複々線を生かした緩急接続で普通しか停車しない小駅に対しても時間短縮の効果を上げ、私鉄との所要時間差は決定的なものになった。そのため、各私鉄は京阪間・阪神間の直通輸送を重視する施策から、最速達列車を中間の拠点駅(中核駅)に停車させ、中間各駅からターミナル駅への利便性向上を重視する施策へと次々と転換していった。

新快速躍進の功罪

JR発足後は221系の登場で、従来の速さに加え、大きな窓と明るい車内で新生JRの格好のPR材料となり、「昼間特割きっぷ」の周知とも相まって、徐々に私鉄からの乗客の転移が見られるようになった。主要駅周辺の金券ショップで本来は12枚綴りの回数券である「昼間特割きっぷ」のばら売りがされるようになったことは主婦層を中心とした利用拡大に寄与した。

さらに大きな転機となったのが、1995年1月阪神・淡路大震災である。この震災で各鉄道が大きな被害を受け、長期運休を余儀なくされた。その中から、阪神間でもっとも早く開通したのがJRであった。貨物輸送も担う幹線であり、復旧が急がれ、またJR各社の応援を得られたことも大きかった。

復旧後のJR神戸線は、複々線の大きな線路容量を生かして、未だ不通区間のあった他私鉄からの転移客も吸収した。特に混雑の激しい新快速は予備車を使ったり、先代の117系も総動員して増発し、その後223系1000番台を急遽追加投入して輸送力確保に努めた。その結果、高速運転や頻発運転、さらには通勤定期代の安さなども認知され、他私鉄が開通後もそのままJRを利用する転移客が目立った。また被害の激しかった阪神間や神戸市内での沿線人口が減り、明石市加古川市姫路市方面への転居者が多かったこともJRに有利に働いた。

また、京阪間においても最速27分という高速運転や、奈良線嵯峨野線の増発による京都経由の新たなルートの確立(京阪宇治線近鉄京都線 - 京阪本線嵐電 - 阪急京都線の流動がそれぞれJR側に動いた)、さらには京都駅ビル自身の集客力強化などといった施策が功を奏し、並行私鉄から乗客を集めることに成功した。また、京都を越えて直通運転する琵琶湖線沿線、特に草津市守山市を中心とする(大都市へ直接アクセスする)並行私鉄のない地域では、新快速による時間短縮効果が大阪・京都への通勤客を中心とする人口増を呼ぶとともに、京都市内からの大学の新キャンパス設置や滋賀県内への企業誘致など、新たな需要の拡大を生んでいる。さらに、新快速の増発・スピードアップと車内の快適性によって、滋賀県内 - 京都・大阪間の移動において名神ハイウェイバスから転移する客も増え、名神ハイウェイバスの急行便と、滋賀県内の多くの停留所(名神彦根栗東など)が廃止に追い込まれたほどである。

他社からの利用者流入など、JR化後の各種施策の成果により、新快速の乗客は徐々に増えてきた。221系投入後は2扉の117系が客扱いで遅延を起こすようになり、早々に撤退を余儀なくされ、また221系の新快速ものちに8両編成主体に変わっていった。ちなみに221系の初回投入時は新快速用が6両、快速用は4両同士連結の8両の編成であった。

震災後に乗客が急増した神戸線の増発用として急遽製作された223系1000番台は、扉間の座席を1列減らしてドア周囲を広く取ると同時に、その空間を利用した補助席を新たに設け、ラッシュ時の混雑緩和と日中時間帯の着席サービスの確保を計った。朝夕時間帯の新快速の増発は、さらに利用客の新快速への集中を招くことになったため、223系の増備が進むにつれて、朝ラッシュ時の快速も223系使用で揃えられ、新快速への集中を抑えるため、神戸駅 → 大阪駅間で快速が先着になるなど、ダイヤにも手が加えられている。また223系の大量増備で各列車の足並みが揃えられ、所要時間の短縮に大きく貢献している。

JR西日本の独り勝ち状態と言われた矢先の2005年4月25日JR福知山線脱線事故が発生、私鉄との競争を意識しすぎた余裕のないダイヤが一因であるとの批判を浴びた。そのため翌2006年3月18日のダイヤ改正では余裕時間の見直しが行われ、主要駅での停車時間の延長、余裕を持った折り返し運用などが実施され、京都駅 - 大阪駅間が28分に、大阪駅 - 三ノ宮駅間では20分にと、それぞれ改正前より1分の所要時間増となった。所要時間が増えたのは新快速運転開始以来初めてのことである。福知山線事故、そしてこの所要時間増と逆風のもとで、JRを利用していた客の私鉄への再転移も報じられたが、結果的にはJR京都・JR神戸両線への大きな影響はなかった。

また、主要駅に設置されていた新快速の宣伝看板も、事故を機に撤去されるようになった。

このように利用客を確実に伸ばしていった反面、混雑が激しい列車が多くなっている。大阪駅起点で、現行の昼間のダイヤでは下り三ノ宮・姫路方面は明石駅以西で、上り京都・米原方面では京都駅以東の最先着列車となる。土休日の12両編成列車の増発や、救済となる臨時列車を運転する等の対策を行っているが、平日夕方ラッシュ時に8両編成で運転される列車も残るなど、充分に対応しきれていない状況も見られる。ただし、2011年春のダイヤ改正では、全列車を12両編成にするとの新聞報道もされており、これが実現すると混雑はかなり緩和されるとみられる。

歴史

京阪神地区は、JRと複数の私鉄が並行していることから、歴史的に激しいサービス競争が繰り広げられている。

関西急電

初期に関西急電用に使われた42系のクモハ42形
関西急電専用に製造され、活躍した52系のクモハ52形。

関西地方で最初に開業した鉄道は旧・日本国有鉄道(国鉄・官営鉄道)の路線で、1874年に大阪駅 - 神戸駅間、1877年に京都駅 - 大阪駅間の路線をそれぞれ開業させた。当時、輸送の多くは国有鉄道の独占であった。

しかし、1905年4月に阪神が大阪出入橋駅 - 神戸三宮駅間(現在の阪神本線)、1910年4月に京阪が京都五条 - 大阪天満橋間の路線(現在の京阪本線)を開業させて以来、大阪 - 神戸間の阪急神戸線梅田駅 - 三宮駅)、京都 - 大阪間で新京阪鉄道 - 京阪新京阪線 - 阪急京都線西院駅 - 天神橋駅)、兵庫駅 - 姫路駅間においては山陽本線(兵庫駅 - 山陽姫路駅)と、競合する並行私鉄が複数誕生し、市街地への近さ、短い駅間隔、短編成ながら頻繁な運転を売り物とし、国有鉄道から客の多くを奪うことに成功する。

私鉄に対抗すべく国有鉄道は、1930年に阪神間・京阪間などで蒸気機関車牽引の快速列車を設定した。1934年7月20日には吹田駅 - 須磨駅で電気運転が開始され、普通電車のほかに、大阪駅 - 神戸駅間に三ノ宮駅のみ停車で28分運転(普通は当時38分)を行う「急行電車」(いわゆる関西急電と呼ばれる、料金不要の優等列車)を設定した。車両は普通電車とともに42系を新製して投入した。編成は4両、(大阪方)モハ43/42-クハ58-サロハ46-モハ43/42(神戸方)が所定であり、30分間隔で29往復が設定され、2編成が2分折り返しで交互に走った[4]。なお普通電車の追い越しは、上り下りとも西ノ宮駅 - 芦屋駅間で、外側線を走っている普通を内側線の急行が追い抜いていた[5]。1936年3月18日に阪神が元町延長したことにより、4月1日から急行が元町駅にも停車することとなった[6]

1936年5月13日には、急行用の車両として当時としては斬新な流線形の車体デザインを採用した52系を登場させ[7]、これにより42系は急行の予備と普通として使用されるようになった[8]。戦後の急行電車に用いられた80系や、後に新快速用車両として登場した117系で採用された茶色&クリーム色の塗装、223系1000・2000番台の側面窓周辺の茶色は、急行時代の52系の塗装を意識したものであり、大阪鉄道管理局やJR西日本が関西急電を誇りとし、新快速がこの流れを受け継いでいることを明示する役割も果たしている。

その後1937年10月に京都駅までの電気運転が開始されると運転区間を京都駅 - 神戸駅間に拡大した。当時の急行の京都駅 - 神戸駅間の中間停車駅は、大阪・三ノ宮・元町の3駅だけであった。

その後、1942年11月13日限りで、太平洋戦争による戦時体制強化に伴い急行の運転を休止した[9]

戦後になって、1949年4月に京都駅 - 大阪駅間、6月に大阪駅 - 神戸駅間で急行が運転再開された。

1950年には、52系で運転されていた急行の置き換え用に80系がクハ・モハ各14両(2M2Tで7編成)投入された。塗色は上記の通り茶色とクリーム色である。1952年8月からは付随車を増結して5連 (2M3T) で運転された[10]

東海道全線電化と快速への変更

1956年11月に米原駅 - 京都駅間が電化され、東海道本線の全線電化が完成、草津・米原方面からの電車が京都駅以西の従来の急行電車の延長の形で走ることとなり、現在に至る京阪神の速達列車と中距離電車の一体化がこのときに始まった。ただし客車普通列車が大阪駅・三ノ宮駅・神戸駅と停車するのに対し、電車は元町駅にも停車した。

1957年9月25日、茨木駅 - 大阪駅間の旅客用複々線が完成した。10月1日から80系電車による準急列車名古屋駅 - 大阪駅間に設定されることになったが、これにより料金が必要な準急と無料の急行電車が混在するのはいかがなものかという理由から、9月25日に「急行電車」を「快速電車」に名称を変更した[11]。また同時に快速が高槻駅にも停車するようになるとともに、阪神間では内側線を走る一般の快速は芦屋駅、外側線を走る一部の快速は西ノ宮駅(現在の西宮駅)に停車させることとなった。また80系が東海道線を通して走るようになったことにより、塗色統一の話が持ち上がり、湘南色に統一することとなって、9月11日に最初の塗色変更車が出場した[11]。なお、1957年~1958年に準急新設用及び姫路電化用として登場した80系電車(300番台車)は、最初から湘南色の塗装で新製されている。

その後、1958年に姫路駅までの電化が完成したことによって、一部の快速が神戸駅以西に進出して姫路駅まで乗り入れ、兵庫駅・須磨駅・明石駅以西の各駅の順に停車するようになって、西側でも中距離電車との一体化が始まった。

1964年には、宮原区に113系が51両新製配置され、9月から7連(TcMM'T'cMM'T'c)で一部の80系を置き換えて快速として運転が開始された[12]

1968年昭和43年)10月1日の改正で快速の運転間隔を20分から15分に変更し、神戸駅発着系統は廃止、西側は姫路方面と西明石駅発着の交互になった。

新快速の設定以降

快速

  • 1972年(昭和47年)
  • 1980年(昭和55年)10月1日:グリーン車の連結を廃止。
  • 1985年(昭和60年)3月14日:日中は高槻駅以東で各駅に停車するようになり、この時間帯の普通は高槻駅発着になる。
  • 1988年(昭和63年)3月13日:外側線を走行する快速が六甲道駅に停車。
  • 1989年平成元年)3月11日:221系が投入。
  • 1990年(平成2年)3月10日:停車駅に住吉駅が追加される。
  • 1991年(平成3年)3月16日:西側の列車の半数が加古川駅発着になる。
  • 1992年(平成4年)3月14日:夜間時間帯に増発。
  • 1995年(平成7年)
    • 4月20日:朝ラッシュ時の神戸方面の一部列車が尼崎駅に停車。
    • 6月12日:神足駅(現在の長岡京駅)に一部の快速が停車。
    • 9月1日:長岡京駅に平日のすべての快速が停車。快速の尼崎駅停車列車が追加。
  • 1996年(平成8年)3月16日:長岡京駅にすべての快速が停車し、15分間隔の運転時間帯を21時台まで拡大。
  • 1997年(平成9年)
    • 3月8日:尼崎駅にすべての快速が停車し、日中は221系に統一[13]
    • 9月1日:高槻駅以東を普通として運転する快速が増加。
  • 1998年(平成10年)3月14日:舞子駅に電車線を走行する快速、西ノ宮駅にすべての外側線の快速が停車駅に追加[14]
  • 2000年(平成12年)3月11日:芦屋駅 - 東灘信号場間で日中は外側線運転になった。
  • 2001年(平成13年)3月3日:朝ラッシュ時の快速の停車駅に西ノ宮駅を追加。
  • 2002年(平成14年)
    • 3月23日:西ノ宮駅に停車する快速が平日の朝晩に拡大[15]
    • 10月5日:全区間で内側線の運転に戻す。緩急接続パターンを両方向で統一。
  • 2003年(平成15年)12月1日:JR神戸線の朝の外側線を走行する快速を223系に統一し、130km/h運転を開始。同時に西ノ宮駅にすべての快速が停車[16]。22時台の列車も高槻駅以東を普通として運転する快速を設定。
  • 2004年(平成16年)10月16日:JR京都線でも朝の大阪方面の快速を223系に統一し、等間隔運転と130km/h運転を開始。113系が快速運用から離脱する。
  • 2005年(平成17年)3月1日:加古川駅で上下ともに緩急接続を開始。
  • 2006年(平成18年)3月18日:JR京都線の夕ラッシュ時の外側線を走行する快速を廃止。
  • 2009年(平成21年)3月14日:深夜の一部の快速が廃止され、新快速に変更。また、京都方面行きの2本は高槻駅から普通に変更。

新快速

新快速の運転開始
ファイル:1131000.jpg
113系 横須賀色
153系
117系
117系100番台

新快速は「快速」の更なる速達化として、1970年10月の日本万国博覧会(大阪万博)の終了直後に初めて設定された。当初の運転区間は京都駅 - 西明石駅間で、新幹線停車駅である新大阪駅を通過し、途中停車駅は大阪駅・三ノ宮駅・明石駅のみとした。運転本数は日中の毎時1本の6往復のみであった。

1971年4月26日:運転区間が草津駅へと延長。草津駅までの停車駅は、大津駅石山駅であった。この当時は横須賀色(スカ色)の113系を使用していた。そもそも横須賀色の113系は万博輸送のために横須賀線から転入した車両で、関西では見慣れない色だったため識別には都合が良かったが、のちに湘南色に変更された車が多く、113系末期は混色での運転が多かった。

1972年3月:山陽新幹線の岡山延伸開業により余剰となった急行形電車153系(いわゆる「東海形」)を投入[17]し、日中京都駅 - 大阪駅 - 明石駅間で毎時4本運転で増発。この時新快速に転用された153系は「新快速色」と呼ばれる白地に青帯の塗装[18]に変更し、「ブルーライナー」の車両愛称を付与した。

「新快速」は15分間隔のパターンダイヤで設定され、大阪駅 - 京都駅間を29分で運転し、両駅で1分停車するため、大阪駅と京都駅の出発時刻が揃えられており、宣伝では、時刻表不要の高頻度と時刻のわかりやすさが強調された。京都駅および大阪駅の駅舎壁面上部に時計を形どり「29分間」を強調した広告がこの頃存在した。ただし、当時の幹線では保守間合いと呼ばれる列車の運転休止時間帯があり、日によっては運転間隔は一定でなかった。当時は草津駅 - 西明石駅間運転の列車と、京都駅 - 姫路駅間運転の列車があり、姫路駅発着の列車は西明石駅を通過していた。

当時の特急「雷鳥」は、大阪駅を毎時0分に新快速と同時発車していた。しかし「雷鳥」は新快速よりも大阪駅 - 京都駅間の余裕時分を多く取っていた[19]。そのため、共に新大阪駅を通過した後に新快速が「雷鳥」を抜き去って行く光景が、北陸方面に向かう「雷鳥」が走る度に繰り広げられた。「雷鳥」が走る列車線・外側線のダイヤを作成・管理していた国鉄本社は、これではあまりにみっともないという事で、新快速のダイヤを管理する大阪鉄道管理局に、新快速のダイヤをずらすように指示したものの、大阪管理局はパターンダイヤを変更する事は利用者にとって不便になるという理由を付けて拒否した。本音は、(東京)本社への対抗心だった事は容易に推察され、当時の国鉄OBもそれを認める発言をしている[20]。やむを得ず本社側が折れ、「雷鳥」のダイヤを5分ずらす事にした。また市販の時刻表では、「雷鳥」と新快速を意識的に併記しないようにしていた。

新快速の発展

1973年に姫路駅発着列車が毎時2本に増発され、1974年7月には湖西線が開業し、毎時1本の列車が堅田駅(観光シーズンは近江今津駅)まで乗り入れるようになった。1978年10月2日のダイヤ改正では神戸駅が停車駅に追加されている。

1980年1月22日には117系が営業運転を開始した[21]。この当時は国鉄の度重なる値上げで、私鉄との並行が数多くある京都駅 - 三ノ宮駅間は利用客の激減が進み、「冬の時代」になっていた(いわゆる「国鉄離れ」)。153系の新快速はボックス型の固定シートであったのに対し、京阪間で並行する阪急は6300系、京阪は3000系という転換クロスシートを持った特急専用車を運転していた。これらに対抗するため、料金不要車両ながら転換クロスシートを持ち、シートに枕カバーが付く、極端なまでの「標準化」を推進する当時の国鉄としては破格の車両が誕生した。これが117系であり、導入にあたって「シティライナー」の車両愛称を付与され、ヘッドマークの公募も行われた。この117系は戦前の関西急電の生まれ変わりとも言えるクリーム色と茶色をまとって登場し、この茶色はのちの新快速車両にも受け継がれることになる。当時の新快速は私鉄に比べてまだ劣勢ではあったが、117系の評判は良く、同年7月の時点で、6両編成×21本が出揃い、153系の置き換えが急ピッチで行われていった。

この時期、国鉄の普通列車において表定速度が70km/h以上の列車は44本あり、その全てが新快速であった。その中で、京都発大阪行きの新快速「3681M」は京都駅→大阪駅間を30分で走行し、ほかの新快速が29分で走っていたことを考えればやや遅い列車であったものの、表定速度は1980年当時の普通列車の中では最速となる85.6km/hであった。これは、当時の国鉄在来線の全列車の中でも2番目に速いもので、当時最も速い特急であった「加越」5号(表定速度86.1km/h)以外の全ての特急よりも速かった[22]

1985年3月14日から、朝夕に各駅停車ながら彦根駅発着列車の運行を開始し、日中の草津駅発着列車が毎時2本に増発された。同時に新大阪駅が停車駅に追加されている。高槻駅以西の最高速度が100km/hから110km/hに引き上げられた効果で、新大阪駅に追加停車しても、京都駅 - 大阪駅間を29分で運転できるようになった。これまで新幹線が停車する新大阪駅の通過は、新幹線利用の遠方客を中心に誤乗を招いていたが、パターンダイヤを維持するための新大阪駅通過が解消されることとなった。またそれまで普通・快速と同じ内側線を走っていた新快速のうち、朝夕1往復ずつが外側線を走るようになった[23]

1986年11月1日の国鉄最後のダイヤ改正からは山科駅に新たに停車し、西明石駅にも全列車が停車するようになり、西側は全列車が姫路駅発着となり、東側も彦根駅と近江舞子駅(湖西線内は各駅停車に変更)まで毎時1本ずつ延長されるとともに、草津駅以東各駅停車であった新快速の停車駅が削減され、現在の停車パターンによる速達運転が開始された。また国鉄分割民営化を控えて、従来国鉄本社直轄だった外側線と列車線が大阪鉄道管理局に開放され、草津駅 - 西明石駅間の複々線区間で新快速はそれまでの内側線・電車線から外側線・列車線走行に変更となり、大阪駅 - 京都駅間、大阪駅 - 神戸駅間などでそれぞれ3 - 5分程の時間短縮が図られた。のちに新大阪駅 - 大阪駅間と京都駅以東は平日朝ラッシュ時以外内側線を走行するようになった。またそれまで大阪駅で快速が新快速を待避していたが、これにあわせて快速・新快速と普通の緩急接続に変更された[23]。マイナーチェンジ版の117系100番台が6両×3編成増備される。この時点においても朝夕ラッシュ時には新快速の設定はなく(姫路駅発着は少ないながらも設定されていた)、外側線を走行する快速がラッシュ時の最速列車であった。また国鉄の鉄道管理局の境界が彦根駅 - 米原駅間であり、新快速の東端は彦根駅発着であった。

民営化後
221系
223系1000番台
223系2000番台
  • 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)が発足。発足時は国鉄最後のダイヤ改正(1986年11月1日)時のダイヤをそのまま継承。
  • 1988年(昭和63年)3月13日:夕方ラッシュ時に10往復あまりが増発された。同時間帯に米原駅直通が設定された。
  • 1989年(平成元年)3月11日:初めて朝ラッシュ時に新快速を運転し、また最終列車を神戸・京都方面ともに大阪駅23時発に繰り下げて、現在の終日に渡って新快速を運転するダイヤの基礎が確立。琵琶湖線の運転区間を全列車彦根駅から米原駅まで延長。221系が新製投入されはじめ、新快速の一部列車でも運用を開始。
  • 1990年(平成2年)3月10日:日中の新快速が高槻駅と芦屋駅に停車。最高速度を110km/hから115km/hに引き上げ、京都駅 - 大阪駅間を高槻駅に追加停車しながらもダイヤ改正前と同じ29分で運転した。同時に京都駅以東で内側運転に戻される。
  • 1991年(平成3年)
    • 3月16日:使用車両を朝ラッシュ時・深夜の一部を除き221系に統一。日中の新快速の120km/h運転を開始。
    • 9月14日:北陸本線田村駅 - 長浜駅間が直流化され、米原駅発着の半数が長浜駅へ延長。またこの改正から日中も徐々に8両編成化される。
  • 1993年(平成5年)
    • 新快速の全列車を8両以上とする。
    • 3月18日:休日朝時間帯の新快速が高槻駅・芦屋駅に停車するようになる。
  • 1995年(平成7年)
    • 4月1日:同年1月17日に発生した阪神・淡路大震災によって発生した不通区間が復旧する。私鉄他線が未復旧のため、JR神戸線内で新快速を臨時に朝ラッシュ時の大阪方面に4本、夕ラッシュ時の姫路方面に3本増発。この臨時列車の運転開始時は113系・117系を使用する列車もあった。
    • 8月12日:223系1000番台48両が導入(223系新快速の登場)し、私鉄他社復旧後も臨時列車の運転は継続。
    • 9月1日:平日の朝晩を除いて、高槻駅・芦屋駅が全列車が停車。夕方の大阪駅始発の姫路方面下りの新快速(定期・臨時をあわせる)が19時前後に集められ、18時30分 - 19時15分の間は7.5分間隔での運転となる。
  • 1996年(平成8年)3月16日:湖西線の運転区間が近江舞子駅から近江今津駅または永原駅にまで延長されるとともに、線内の快速運転が復活。大半の米原駅での折り返し列車が長浜駅まで延長され、日中に長浜駅まで運転する列車は新快速のみになる。朝夕ラッシュ時の臨時列車が定期列車に格上げされる。21時台も15分間隔で運行されるようになる。
  • 1997年(平成9年)
    • 3月8日:尼崎駅と高槻駅に全列車が停車し、日中の223系新快速を30分間隔で運転[13]。この時点の使用車両は223系と221系で、前者は主に運転区間の短い野洲駅・草津駅発着と湖西線直通列車に、後者は長浜駅発着列車に充当。またラッシュ時には221系と223系の混結もあった。
    • 9月1日:早朝・深夜に上下各1本の新快速を増発[24]
  • 1999年(平成11年)5月10日:朝ラッシュ時の新快速を223系に統一。これにより、草津駅 - 西明石駅間で通勤電車としては国内初の130km/h運転を開始。この改正に合わせ223系2000番台が登場し、その後も投入が続くことになる。最後まで残っていた117系新快速の1往復が221系に置き換えられ、117系による新快速を終了。
  • 2000年(平成12年)3月11日:新快速を全列車223系に統一し、米原駅 - 姫路駅間で130km/h運転を開始[25]
    • 大阪駅 - 京都駅間で27分、大阪駅 - 三ノ宮駅間は18分の運転となり、このときの運転時分が新快速の最速記録である。そのため1972年以来の京都駅基準の00・15・30・45分発が崩れることになった。なお、新快速の最高速度の引き上げに合わせて同区間を走行する特急の最高速度が引き上げられ、特急と新快速はほぼ平行ダイヤ[26]となり、京都駅 - 姫路駅間では各線へ直通する特急が新快速の等間隔間に割って入る形になった。
  • 2003年(平成15年)12月1日:芦屋駅にすべての新快速が停車[16]。このため、大阪駅 - 三ノ宮駅間の所要時間は19分に延びた。また、夕方ラッシュ時の外側線を運転する快速(大阪駅 → 姫路方面)1本を新快速に変更。
  • 2004年(平成16年)10月16日:朝のラッシュ時に増発し、京都方面から大阪駅へ向かう新快速が8分等間隔で運転。また夕ラッシュ時のピーク時に、大阪駅始発京都方面行の新快速を増発し、7.5分間隔で運転。この改正で、朝に運転していた米原発快速西明石行を新快速に変更したため18年ぶりに新快速西明石行が復活。
  • 2005年(平成17年)
    • 3月1日:日中にも赤穂線播州赤穂駅まで毎時1本が直通運転されるようになった。この時間帯の上郡岡山方面発着の普通は相生駅発着になり、播州赤穂駅発着の新快速に接続できるよう考慮されている。
      • 長浜市が新快速の乗り入れにより観光客の誘致に成功し、赤穂市でも同様の目的で新快速の日中乗り入れを働きかけた。同時に加古川駅の高架工事の完成に伴って同駅で両方向とも緩急接続するようになった(以前は姫路方面のみ緩急接続をし、大阪方面は東加古川駅で新快速を待避していた)。
    • 10月1日:同年4月に発生したJR福知山線脱線事故を受け、若干の余裕時分が作られた。震災後の私鉄からの転移、芦屋駅の追加停車などで乗客数が増加傾向にあり、かつ普通との接続などで遅延が多発していたためである。
  • 2006年(平成18年)
    • 3月18日:再度余裕時分の見直しが行われ、新快速も所要時間が伸び、再び京都駅基準では00・15・30・45分発となった。また、日中の播州赤穂駅への直通列車は利用好評で、姫路駅以西で以前の4両から8両で直通するようになった。これにより従来8両固定編成を主に充当していた近江今津駅・長浜駅発着の系統を敦賀駅への乗り入れに備えて4+4両編成に変更している[27]
    • 10月21日:北陸本線長浜駅 - 敦賀駅間と湖西線永原駅 - 近江塩津駅間が直流電化に切り替えられ、日中の新快速が湖西線または米原駅経由ともに近江塩津駅・敦賀駅まで直通運転を開始。これによって最長列車で総距離275.5km、所要時間3時間59分の敦賀発米原経由播州赤穂行きが登場した(この最長記録は2009年3月14日改正時点でも破られておらず、登場以来総距離トップの座を守り続けている)。この改正で223系2000番台の6両編成同士連結の新快速運用がなくなり、これまでの米原駅・京都駅・姫路駅・網干駅に加え近江今津駅では増解結も行われるようになる[28]
  • 2008年(平成20年)3月15日:土曜・休日ダイヤの一部列車が編成増強。敦賀発米原経由播州赤穂行き列車は、列車としてはつながっているものの、敦賀発は最長網干駅までとなり、全区間を直通する車両運用はなくなった(ただし近江塩津発米原経由播州赤穂行きには1本だけ全区間通しての車両運用が設定されている)。
  • 2009年(平成21年)3月14日:快速からの格上げする形で新快速を増発し、0時台まで運転時間帯を拡大。増発された西明石行は兵庫駅 → 西明石駅間で電車線での運転となった[29]。この改正で再び6両編成同士の12両の新快速運用が復活。

脚注

  1. ^ 鉄道ジャーナル 2000年7月号』 鉄道ジャーナル社、39頁
  2. ^ 『鉄道ジャーナル 2008年9月号』 鉄道ジャーナル社、24 - 26頁 「京阪神快速電車の主力 223」など。
  3. ^ a b 『鉄道ジャーナル』 No.496 77-79頁。
  4. ^ 『鉄道ファン 2003年5月号』 交友社 「42系姉妹の一代記 1」100頁。『鉄道ファン 2009年10月号』 交友社 「新快速ものがたり 1」101頁。ただし普通と同じ2両編成(クロハ59-モハ43)の急行の走行写真も同104頁にある。沢柳健一 『旧型国電50年I』95頁も参照。
  5. ^ 『鉄道ファン 2003年5月号』 交友社 「42系姉妹の一代記 1」98頁。
  6. ^ 『鉄道ファン 2009年10月号』 交友社 「新快速ものがたり 1」102頁。
  7. ^ 沢柳健一 『旧型国電50年I』 JTBパプリッシング、101頁。
  8. ^ 鉄道ピクトリアル 1984年10月号』 電気車研究会、No.437、42頁)
  9. ^ 『鉄道ファン 2003年5月号』 交友社「42系姉妹の一代記 1」101頁。
  10. ^ 浅原信彦 『ガイドブック最盛期の国鉄車輌2 戦後型旧性能電車』133頁。
  11. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』No.803 53頁。
  12. ^ 浅原信彦 『ガイドブック最盛期の国鉄車輌3 新性能直流電車 上』 ネコ・パブリッシング、2007年、78頁
  13. ^ a b 平成9年3月アーバンネットワークのダイヤ改正について (Internet Achive) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1996年12月16日
  14. ^ 平成10年春ダイヤ改正について アーバンネットワーク(琵琶湖線、JR京都・神戸線) (Internet Achive) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年12月19日
  15. ^ -平成13年3月 ダイヤ改正について- (Internet Achive) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2000年12月8日
  16. ^ a b アーバンネットワーク平成15年12月ダイヤ改正 (Internet Achive) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年9月16日
  17. ^ 所定に対しクハ153形が1両不足したため、165系のクハ165形で代用されている。
  18. ^ 局内での呼称は「BW塗装」。
  19. ^ 当時の「雷鳥」の大阪駅 - 京都駅間の所要時間は30分 - 33分で、新快速よりも長く、当時の新快速の最高速度が110km/h(昭和47年3月以降、ただし高槻駅以西は100km/h)であるにもかかわらず、最高速度がそれより10km/h速いはずの特急が追い抜かれたというエピソードが残っている点や、所要時間の差から見ても、特急が大阪駅 - 京都駅間ではいかにゆっくり走っていたかがうかがいしれる。なお、JR発足後に「雷鳥」も所要時間29分、2000年には27分へと短縮されている。
  20. ^ 内側線・電車線は大阪鉄道管理局の管理下で、ダイヤ改正のたびに、急行と各駅停車の運転時分の差(追い越そうにも外側線を使えない)や線路容量の逼迫(外側線には余裕があった)に悩まされており、私鉄との競争と、地元の事情を解せず融通の効かない本社との板ばさみの状態が長年にわたって続いていた。後に117系の性能要件を本社に提出する際も、「内側線だけしか使わせていただけないならば、超高性能車が必要。」とばかりに、実現不可能な要求を突きつけている。
  21. ^ 『鉄道ピクトリアル』電気車研究会 No.375 86頁。
  22. ^ 『コロタン文庫 鉄道No.1全百科』 小学館、1981年、82頁
  23. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』 No.736 18頁。
  24. ^ アーバンネットワーク秋のダイヤ改正について (Internet Archive)- 西日本旅客鉄道 1997年7月18日
  25. ^ 平成12年春 ダイヤ改正について (Internet Archive) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年12月17日
  26. ^ その後、現在まで新快速が特急に抜かれる場面は近江今津駅・姫路駅での分割併合に伴う長時間停車や京都駅以東の複々線区間(待避に伴う長時間停車はない)でのみ見ることができる。
  27. ^ ただし、4両+4両の場合、8両固定編成より座席定員が減少する(補助席を除く総座席数は8両固定編成の場合、1000番台は428席、2000番台は424席であるのに対し、4両+4両編成は1000番台×2の408席、2000番台×2の400席、1000番台+2000番台の404席に)のみならず立客スペースも狭まるうえに車内の通り抜けもできない
  28. ^ もともと、近江中庄駅マキノ駅・永原駅では8両編成は停車できるが、近江塩津駅・新疋田駅・敦賀駅はホーム高さの関係で4両編成までしか停車できないため。
  29. ^ 平成21年春ダイヤ改正について(詳細) (PDF) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2008年12月19日

参考文献

  • 浅原信彦 『ガイドブック最盛期の国鉄車輌 2 戦後型旧性能電車』 ネコ・パブリッシング、2005年。
  • 浅原信彦 『ガイドブック最盛期の国鉄車輌 3 新性能直流電車 上』 ネコ・パブリッシング、2007年。
  • 沢柳健一 『旧型国電50年 I』 JTBパブリッシング、2002年。
  • 鉄道ピクトリアル』 電気車研究会
    • 1984年10月号 No.437 特集「国電80年II」
    • 2003年9月号 No.736 特集「大都市圏JR線区の快速運転」
    • 2008年5月号 No.803 特集「111・113系電車」
  • 鉄道ファン』 交友社
    • 浦原利穂「42系姉妹の一代記 1」2003年5月号 No.505 96-104頁
    • 寺本光照「新快速ものがたり 1」2009年10月号 No.582 98-105頁
  • 鉄道ジャーナル』 鉄道ジャーナル社
    • 2000年7月号 No.405 特集「京阪神都市圏の鉄道2000」
    • 2002年9月号 No.431 特集「京阪神都市圏の鉄道2002」
    • 2008年9月号 No.503 特集「京阪神都市快速サービス」

関連項目

快速の歴史

ルーツは関西急電と呼ばれる京阪神間の急行電車。1937年(昭和12年)の京都駅 - 吹田駅間の電化により大阪駅 - 神戸駅間の急行電車が京都へ延長されたのが始まりである。戦時中は運転を休止したが、1949年に復活。当時は大阪駅 - 京都駅間無停車であった。

  • 1956年(昭和31年):米原駅 - 京都駅間電化に伴い、京都駅以東への乗り入れを開始。
  • 1957年(昭和32年):高槻駅の構内改良(高槻電車区開設)に伴い、高槻駅停車。
  • 1961年(昭和36年):二等車(のちのグリーン車)を連結。
  • 1964年(昭和39年)10月:新幹線開業に伴う新大阪駅開業により、新大阪駅停車。
  • 1965年(昭和40年)2月:113系配置により80系電車の置き換えを開始。基本7両、付属4両。
  • 1966年(昭和41年)10月:サロ110配置により二等車連結列車を113系に置き換え。サロ連結の基本編成を高槻電車区・宮原電車区は8両編成とし、サロ不連結の明石電車区車は基本7両編成となる。各電車区とも4両の付属編成を持ち、7両 - 12両で運転される。
  • 1970年(昭和45年)3月:万博開催に伴い、開催期間中は茨木駅臨時停車。停車継続運動が起こり、開催終了後も常時停車となる。
  • 1974年(昭和49年)7月:湖西線開業。一部列車が湖西線に直通。
  • 1980年(昭和55年)10月:グリーン車連結を中止。10月改正で正式に廃止となるが、それに先立ち8月末から時刻表上でグリーン車マークが消え、連結されていた車は普通車開放となった。編成から抜かれたグリーン車は東京地区へ転出。基本編成を7両に統一。
  • 1981年(昭和56年)10月:高槻電車区の編成にサハ111を連結、基本編成を8両となる。
  • 1985年(昭和60年)3月14日:昼間時間帯の快速は高槻駅以東で各駅停車とする、いわゆるT電が登場した。この時間帯における普通(各駅停車)の同区間乗り入れが1997年8月31日まで一旦無くなる。JR移行後、高槻駅以東で各駅に停車する快速は増えており、今では始発から朝ラッシュにかけて運転される一部を除き高槻駅以東で各駅に停車する。そのため、駅や車掌の案内も高槻駅以東は普通と表示・放送されている。
  • 1989年(平成元年)3月11日:221系の投入を開始。
  • 1995年(平成7年)
    • 6月12日:全区間快速運行時間帯の一部の快速が神足駅(現在の長岡京駅)に停車。
    • 9月1日:平日の快速が長岡京駅に全列車停車。
  • 1996年(平成8年)3月16日:すべての快速が長岡京駅に停車。
  • 2004年(平成16年)10月16日:113系の定期運用廃止。
  • 2009年(平成21年)3月14日:深夜時間帯の快速を新快速および、高槻駅以東で各駅停車に変更。これにより全区間での快速運転は朝のみになった。