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「毛利熈頼」の版間の差分

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[[天保]]6年([[1835年]])父の死去により家督相続する。天保10年([[1839年]])、藩主[[毛利敬親|慶親]]の江戸城登城の伴をして将軍家慶と世子[[徳川家定|家定]]に拝謁する。[[安政]]2年([[1855年]])、相州浦賀警護総奉行。安政3年([[1856年]])、加判役、当職、江戸当役となる。
[[天保]]6年([[1835年]])父の死去により家督相続する。天保10年([[1839年]])、藩主[[毛利敬親|慶親]]の江戸城登城の伴をして将軍家慶と世子[[徳川家定|家定]]に拝謁する。[[安政]]2年([[1855年]])、相州浦賀警護総奉行。安政3年([[1856年]])、加判役、当職、江戸当役となる。


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[[元治]]元年([[1864年]])、[[禁門の変]]により長州藩が幕府の征討を受け、藩主の命で、広島の征討総督[[徳川慶勝]]の元で停戦交渉を行い、禁門の変の責任者の[[国司親相]]、[[益田親施]]、[[福原元僴]]の3人を切腹させ、その首級を慶勝の元に持参して恭順する。[[慶応]]2年([[1866年]])幕府による第二次[[長州征討]]を受け、[[周防国]][[大島郡 (山口県)|大島郡]]で幕軍と抗戦する。


[[明治維新]]後の明治4年(1871年)5月12日没。享年69。
[[明治維新]]後の明治4年(1871年)5月12日没。享年69。

2020年7月5日 (日) 05:23時点における版

毛利 熈頼(もうり ひろより、享和3年(1803年) - 明治4年5月12日1871年6月29日))は、長州藩一門家老である大野毛利家の8代当主。

父は毛利親頼。母は綾小路俊資の娘。正室は堅田就正の孫娘。子は清光寺威神院室、毛利親倫室、毛利親詮毛利元純室。幼名は熊太郎。通称は隠岐。は鶴翁。は熙頼、煕頼とも表記する。

生涯

享和3年(1803年)、一門家老毛利親頼の長男として生まれる。文政7年(1824年)、親頼の添役として江戸に下向し、新藩主毛利斉元の御国入の許可の御礼の使者として将軍徳川家斉と世子家慶に拝謁する(この間に元服をし、当時藩主であった毛利斉熙(斉熈)より偏諱を受けて熙頼(熈頼)と名乗っている)。

天保6年(1835年)父の死去により家督相続する。天保10年(1839年)、藩主慶親の江戸城登城の伴をして将軍家慶と世子家定に拝謁する。安政2年(1855年)、相州浦賀警護総奉行。安政3年(1856年)、加判役、当職、江戸当役となる。

元治元年(1864年)、禁門の変により長州藩が幕府の征討を受け、藩主の命で、広島の征討総督徳川慶勝の元で停戦交渉を行い、禁門の変の責任者の国司親相益田親施福原元僴の3人を切腹させ、その首級を慶勝の元に持参して恭順する。慶応2年(1866年)幕府による第二次長州征討を受け、周防国大島郡で幕軍と抗戦する。

明治維新後の明治4年(1871年)5月12日没。享年69。

右田毛利家吉敷毛利家ら一門が、明治に男爵に叙されているのに対して、大野毛利家が爵位を受けられなかったのは、当主の熈頼が、維新期に藩内で保守派に属していたことも一因と指摘されている[1]

参考文献

  • 「吉見・浦・両村上略系譜」(東京大学史料編纂所
  • 「吉見系図」(東京大学史料編纂所)
  • 木村礎「明治維新と下級武士」

脚注

  1. ^ 明治維新と下級武士