コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「大下弘」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Botによる: 保護テンプレートの除去(仮運用)
Boob1977 (会話 | 投稿記録)
38行目: 38行目:
父は3歳の時に亡くなり、小料理店を営む母が女手一つで育て上げた。{{by|1935年}}には母と共に[[台湾]]・[[高雄市]]へ移住し、高雄商業学校へ入学。高雄商では野球部で投手としてプレーしながら、[[陸上競技]]・[[柔道]]・[[相撲]]などを掛け持ち。更には文芸部の部員も務め、学業も首席で卒業するほどの秀才であった。
父は3歳の時に亡くなり、小料理店を営む母が女手一つで育て上げた。{{by|1935年}}には母と共に[[台湾]]・[[高雄市]]へ移住し、高雄商業学校へ入学。高雄商では野球部で投手としてプレーしながら、[[陸上競技]]・[[柔道]]・[[相撲]]などを掛け持ち。更には文芸部の部員も務め、学業も首席で卒業するほどの秀才であった。


卒業後は[[明治大学]]予科に進学し、予科卒業後は商学部に進学。{{by|1943年}}には戦局の悪化でリーグ戦が中止となり、同年[[5月23日]]に戦前戦中では最後の対外試合となる[[立教大学硬式野球部|立教]]戦にも出場した。当時の主将は[[嶋清一]]で、大下と嶋の打撃フォームの類似を指摘する説がある<ref>山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』[[彩流社]]、2007年、P188 - 189</ref>。同年に[[学徒出陣]]で[[埼玉県]][[入間市|豊岡]]の[[陸軍航空士官学校]]を卒業し、[[特別攻撃隊|特攻隊]]を志願するも間一髪で終戦を迎える。終戦後は明大商学部に復学
卒業後は[[明治大学]]予科に進学し、予科卒業後は商学部に進学。{{by|1943年}}には戦局の悪化でリーグ戦が中止となり、同年[[5月23日]]に戦前戦中では最後の対外試合となる[[立教大学硬式野球部|立教]]戦にも出場した。当時の主将は[[嶋清一]]で、大下と嶋の打撃フォームの類似を指摘する説がある<ref>山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』[[彩流社]]、2007年、P188 - 189</ref>。同年に[[学徒出陣]]で[[埼玉県]][[入間市|豊岡]]の[[陸軍航空士官学校]]を卒業し、[[特別攻撃隊|特攻隊]]を志願するも間一髪で終戦を迎える。終戦後は明大商学部を卒業


=== 現役時代 ===
=== 現役時代 ===

2020年8月30日 (日) 08:27時点における版

大下弘
セネタース時代(1946年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県神戸市三宮
生年月日 (1922-12-15) 1922年12月15日
没年月日 (1979-05-23) 1979年5月23日(56歳没)
身長
体重
173 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1946年
初出場 1946年4月27日
最終出場 1959年8月26日
1960年3月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1980年
選出方法 競技者表彰

大下 弘(おおした ひろし、1922年12月15日 - 1979年5月23日)は、兵庫県神戸市三宮出身のプロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者評論家

青バットの大下として、赤バット川上哲治物干し竿藤村富美男と共に終戦直後の日本球界を代表する存在であった。特に少年達からの人気は絶大であり、美空ひばりと並ぶ終戦直後の日本における国民的スターであった[1]

経歴

プロ入り前

父は3歳の時に亡くなり、小料理店を営む母が女手一つで育て上げた。1935年には母と共に台湾高雄市へ移住し、高雄商業学校へ入学。高雄商では野球部で投手としてプレーしながら、陸上競技柔道相撲などを掛け持ち。更には文芸部の部員も務め、学業も首席で卒業するほどの秀才であった。

卒業後は明治大学予科に進学し、予科卒業後は商学部に進学。1943年には戦局の悪化でリーグ戦が中止となり、同年5月23日に戦前戦中では最後の対外試合となる立教戦にも出場した。当時の主将は嶋清一で、大下と嶋の打撃フォームの類似を指摘する説がある[2]。同年に学徒出陣埼玉県豊岡陸軍航空士官学校を卒業し、特攻隊を志願するも間一髪で終戦を迎える。終戦後は明大商学部を卒業。

現役時代

大下の打席での構え

1945年に明大の先輩・横沢三郎の招聘で新設球団・セネタース[3] に入団し、同年11月東西対抗戦で、戦後初となるサク越え本塁打を放って衝撃的なデビューを飾る。1946年に20本塁打を記録。この年のリーグ本塁打数は211であり、大下はリーグ全体の本塁打の1割弱(9.5%)を1人で打ったことになる。本塁打シェア率は2011年中村剛也が抜くまで(10.57%)、65年間日本記録であった。この年の本塁打は左翼方向への20号本塁打を除き、全て右翼方向であり極端なプルヒッターだった。また、変化球はお手上げで、速球ばかりを強引に引っ張るために打撃も強引になり、三振もリーグダントツの80を記録した[4]。20号本塁打が近付くと、球場では観客と報道陣が20号はまだかと大合唱した[1]。大下の出現は敗戦に打ちひしがれた国民を狂喜させ、空前絶後の本塁打ブームが起こり、当時のリーグを代表する打者であった川上哲治でさえも本塁打狙いの打撃フォームに変えたほどである。強いゴロがバッティングの理想論とされた時代にあって、大下の登場は革命的であった。

1947年のシーズンからバットに青のラッカーを塗装し青バットを使って本塁打を連発、赤バットの川上哲治と共に大ブームを起こす。1947年シーズンは首位打者と本塁打王の二冠を獲得する。青バットは川上の「赤バット」に対抗する意味で並木路子の「リンゴの唄」の「いリンゴに(中略)い空」から青い色のスプレーで大下自身が染めていたが、バットの木の色が透けて見え、緑色に近く見えた。また、塗り方がよくなかったため、ボールに塗料がついてしまい、審判側から苦情が来たため使用を中止させられた。

1948年6月10日の対中日ドラゴンズ戦では竹製のバットを使用し、5打数3安打と猛打賞の活躍を見せた。木製でないバットの使用は公認野球規則違反であり、そのことが発覚して罰金100円を支払った[5]。なお、日本プロ野球では違反バットが発覚しても注意か使用禁止で終わっており、実際に処分が下ったのはこれが唯一の例である。

1949年8月18日に札幌市円山球場で、日本プロ野球最長とも言われる推定飛距離170mの本塁打を放つ。同年11月19日の対大陽戦で、日本プロ野球史上唯一の延長なしでの1試合7打数7安打を記録[6]1951年には当時の最高記録である打率.383で首位打者と本塁打王の二冠を獲得した[7]。同年のリーグ2位は蔭山和夫の打率.31463であり、リーグ2位との打率差.068543は日本プロ野球歴代1位の記録である。

大下の母親はヒロポン中毒に苦しんでおり、球団から前借りした金額は膨大なもので、かなりの部分が母親へのくすり代に消えていったと言われている[8]。球団との金銭面でのトラブルが元で確執が生まれ、1952年には周囲を巻き込んだ退団騒動 ( いわゆる「大下騒動」) となり、シーズン開始後に西鉄ライオンズトレード移籍する。移籍後に後楽園球場の東急ファンから受けた野次に対し、大下は出塁した一塁上で観客席に向かって頭をペコリと下げ、これには東急ファンも黙るしかなかった。また、平和台事件の際、暴行を受けて血まみれになりつつも観客を制止しようとした行動が称えられ、野口正明と共に連盟表彰を受賞する。なお、大下のトレード相手だった深見安博は25本の本塁打を記録して本塁打王となり、プロ野球史上唯一の「2チームに在籍した本塁打王」となっている。

1954年ラリー・レインズに次ぐリーグ2位の打率.321を残してチームの優勝に貢献し、シーズンMVPを獲得。西鉄は1956年から1958年水原茂監督率いる巨人相手に日本シリーズ3連覇を達成する。大下は4番打者として稲尾和久中西太豊田泰光らと西鉄の黄金時代を築き上げた。1959年現役引退

現役当時の背番号は、セネタース時代以来一貫して「3」であった。この番号は西鉄ライオンズでは一時欠番であったが、後述の東映フライヤーズの監督就任後、中日から移籍した広野功が9年ぶりに背番号3を付けている。

引退後

引退後はNHK大阪放送局解説者スポーツニッポン評論家1960年)を経て、阪急ブレーブス一軍打撃コーチ(1961年)を務めたが、1年で解任。2年契約だったので、技術顧問の肩書きで1962年も球団に残ったが、全くの窓際扱いで、時にはお茶くみなどの雑用もこなしていたという。その後は関西テレビフジテレビ解説者・サンケイスポーツ評論家(1963年 - 1967年)を務め、青田昇と熱海後楽園ホテルのテレビCMにも出演した。

1968年、東急の後身である東映の監督に就任。監督時代は「サインなし、罰金なし、門限なし」の「三無主義」を打ち出した(実は大川博オーナーの発案で、大下の案ということにして実行させていた)が、最下位に沈みシーズン途中で辞任。飯島滋弥二軍監督が監督代行となった。初代「ミスタータイガース」の藤村富美男は、一軍打撃コーチだった。当時は選手を「さん」付けで呼んだり、使わなかった選手に「申し訳なかった」と謝ったりなど、人の良さからペーソスを誘う存在となっていた。主砲の張本勲水原茂前監督のシンパと目されていたため「ハリさん、協力してくれ」としばしば懇願していた。しかし「協力しないというのは誤解」と曖昧な言葉しか返ってこなかったため、張本の目の前で脇差を抜き、自らの腕の動脈を切って見せ、「私の気持ちだ! わかってくれ!」と叫ぶという騒ぎを起こした。張本は後に自著で「大下さんは純粋無垢、綺麗過ぎた。言うなれば監督になってはいけない人だった」と述べている。ただし、大下東映監督の栄光の背番号3の姿は、野球場に来るファンには大人気だった。

その後はTVK解説者(1973年)を経て、1974年から1975年まで大洋ホエールズの一軍打撃コーチを務め、長崎慶一山下大輔ら若手を一流選手に育てた。当時、大下夫妻は東京都世田谷区経堂に住んでいたが、大洋退団後は野球の盛んな千葉県の地を気に入り、千葉市稲毛園生のマンション・丸紅ファミールハイツに移り住んだ。プロ野球界から身を退いた後は少年野球の発展に務め、自身のマンション群に住む子供たちを集め、千葉ファミールズ(現:柏台フェニックス)監督として甲子園球児を多く育てた。その後も少年野球チーム・大下フライヤーズ(現:大森フライヤーズ)監督、フジテレビの女子野球チーム・ニューヤンキース監督、横浜市の本牧リトルリーグ監督などを歴任する。1978年6月東京都隅田公園のグラウンドで少年野球を指導中に倒れ、数日自宅で静養したが、国立千葉病院に入院。脳血栓と診断される。左半身麻痺後遺症が残り、石和温泉などで懸命にリハビリに取り組んだが、麻痺は残り手足が不自由となり、自宅療養生活になる。

1979年5月23日早朝、脳血栓の療養中に逝去。56歳没。戒名は慈球院青打弘文居士。

逝去翌年の1980年小鶴誠千葉茂と共に野球殿堂入り。逝去当時は「脳血栓の後遺症による心筋梗塞」が死因と報道されたが、のちに致死量の睡眠薬を自ら飲み事実上の自殺を図ったことが辺見じゅんや桑原稲敏の著書によって明らかにされている。その死は、5月23日の夕刊一般紙各紙に大きく報じられ、美空ひばり笠置シズ子、赤バットの川上哲治とともに戦後復興のシンボルとなったスーパースターの死を悼んだ。

墓所は千葉市若葉区にある千葉市営平和公園。墓碑には球に生き、球に殉ず身、果報者 青バット 大下弘と刻まれている。

人物

大下が表紙を飾った『ベースボールマガジン』創刊号(1946年4月20日発行)

愛称は、打球を簡単にポンポン飛ばすことから「ポンちゃん」。

男前のルックスで女性にもよくモテた。柔らかいフォームから美しい虹を描くような本塁打を量産し、伝統球団に所属していた川上を上回る人気を獲得した。阿久悠は「少年にとって神はたくさんいたが、終戦直後、本当の神は美空ひばりと大下弘だった」と述べている[1]。また、野球雑誌『ベースボールマガジン』の創刊号(1946年4月20日、恒文社発行)の表紙を飾った選手である。

豪放な性格で、私生活でも多くのエピソードが知られている。馴染みの置屋には大下のバットが常時置いてあり、早朝バットを振っていた、との伝説の類もある。表向きはあまり練習もせず練習嫌いとも言われていたが、三原の著書『風雲の軌跡』によれば、三原は大下の手のひらを見て陰で練習する事を知っていた様である。後年、三原が本人に問い質したところ、その事実を認めたが、それは大下が亡くなる直前の事であった(それまでは三原からの再三の同様の問いには黙していた)。その三原によれば、「プロ野球から打者を5人選ぶとすれば、、大下、川上、中西、長嶋。3人にしぼるとすれば大下、中西、長嶋。1人選ぶとすれば大下」であるという[9]

大下本人や西鉄選手との遊廓をめぐるエピソードには事欠かないが、大下の妻は小遣いと別に「素人に手を出さないこと」を条件に「生理休暇代」を渡していた。大下が増額をねだると「何を言っているんですか。必要な場合は私が出前出張します」と言って手をはたいたという。

毎晩のように遊び歩き、また後述のように面倒見のよい性格で金が手元に残らなかったらしく、母親もヒロポン中毒に苦しんでいたために西鉄球団に莫大な前借りをしていたと言われる[10]。西鉄時代は若手選手の面倒見がよく、河村久文八浪知行を自宅に下宿させていた。大下は河村と八浪からは食費さえ取らなかったが、「遊びもしないとストレスがたまる」ということで大下の妻も交えた賭博(河村の述懐によれば「こいこい」)を行っていたため、いつも負けてばかりの2人は大下夫妻にお金を巻き上げられていた。もっとも大下の妻はこの金をそれぞれの名義で貯金しており、2人が下宿を去る際にはそれぞれにこの預金の通帳を渡したという。そのことを知った2人は感動してそれまで以上に野球に打ち込み、西鉄初優勝(1954年)に河村はエースとして、八浪はムードメーカーとしてそれぞれ重要な役割を果たした。

こうした奔放な「大人の遊び」の一方、子供が大好きで西鉄時代は平和台球場でのデーゲーム終了後、帰宅する大下の後をはしゃぎながらついていく子供たちの姿が目撃されている。大下は普段から自宅を子供たちのために解放しており、宿題を終えた子供たちに野球を教えたり、また夏にはキャンプを行ったりしていたという。大下の妻曰く、「本人が大きな子供のようでした」。大下自身は日記に以下のように記している(原文は旧かなづかい)。

「大人になると子供と遊ぶのが馬鹿らしくなる」と人は云うかもしれないが、私はそうは思わない。子供心にかえるのが恐しいから云うのだろう。余りにも汚い大人の世界を、子供の世界を見たばかりに反省させられるのが嫌なのかも知れぬ。私は其(そ)の反対だ、子供の世界に立入って、自分も童心にかえり夢の続きを見たいからなのだ。子供の夢は清く美しい。あえて私は童心の世界にとびこんでゆく。

酒豪であるとされ、7打数7安打のときは徹夜でのんだ後に打ったといわれた。「ボールがいくつも見えた」という本人“談”とともに長くそれが真実と思われていたが、本人は否定していた。実際の所の大下の酒量はビール1本程度であったという。

東急から西鉄へ移籍後しばらくして母親を東京から呼び寄せ、福岡の病院に入院させたことで病院の中に医師を中心とした「大下弘後援会」が出来た。自伝の『大下弘日記―球道徒然草』では、この時のことについて「ファンと云ふものは本当に有り難いものである。病中であり乍ら私達の事に関心をもって下さるファンあっての私であることを深く銘記すべきである。大人はもとより三才の童子たりともおろそかにすべきでない」「母の為に貧乏する事は本望かも知れぬ。今日迄大きくして頂いた恩義に比べれば、まだまだこの様な苦しみぐらひ軽いもの。もう直ぐ退院の筈。一緒に住める日も近い」と書いている[8]

筆まめで、著書『大下弘日記―球道徒然草』は球界には珍しい、ゴーストライターを使っていない純然たる自著である。原稿は巻紙に毛筆でしたためていた。文語調で球界や自身の出来事を綴っている。川上哲治に対してのむき出しのライバル意識、共感、そして感謝の言葉が多く出てくる。これまで原本の公開はされていなかったが、2012年福岡Yahoo!JAPANドーム内の「王貞治ベースボールミュージアム」で開催された「九州の野球歴史展」で初めて原本が一般に公開された。

次女は大洋コーチ時代の教え子であった長崎慶一と結婚したが、のちに離婚している。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1946 セネタース
東急
7 3 1 0 0 0 1 -- -- .000 100 20.1 20 0 17 -- 0 8 0 0 11 9 3.86 1.82
1947 1 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 12 2.1 2 0 3 -- 0 1 0 0 4 3 9.00 2.14
通算:2年 8 4 1 0 0 0 2 -- -- .000 112 22.2 22 0 20 -- 0 9 0 0 15 12 4.70 1.85
  • セネタースは、1947年に東急(東急フライヤーズ)に球団名を変更

年度別打撃成績

















































O
P
S
1946 セネタース
東急
急映
東急
104 448 395 59 111 17 9 20 206 74 16 4 0 -- 49 -- 4 80 -- .281 .366 .522 .888
1947 117 486 435 59 137 23 11 17 233 63 12 9 0 -- 47 -- 4 50 -- .315 .387 .536 .922
1948 133 539 496 50 132 19 4 16 207 72 26 7 0 -- 42 -- 1 55 -- .266 .325 .417 .742
1949 130 540 476 95 145 29 5 38 298 102 27 10 0 -- 58 -- 6 59 -- .305 .387 .626 1.013
1950 106 460 401 59 136 29 6 13 216 72 18 11 1 -- 54 -- 4 43 8 .339 .423 .539 .961
1951 89 371 321 56 123 15 5 26 226 63 5 7 1 -- 47 -- 2 18 4 .383 .465 .704 1.169
1952 西鉄 99 403 355 61 109 25 3 13 179 59 9 6 1 -- 45 -- 2 31 5 .307 .388 .504 .892
1953 114 474 443 60 136 29 6 12 213 61 8 6 5 -- 24 -- 1 43 5 .307 .344 .481 .825
1954 138 575 514 76 165 33 6 22 276 88 11 9 4 3 52 -- 2 50 6 .321 .386 .537 .923
1955 139 524 469 74 141 21 5 12 208 63 7 3 5 6 44 7 0 55 6 .301 .361 .443 .804
1956 115 382 347 31 90 14 2 4 120 52 3 4 5 8 21 5 1 31 7 .259 .304 .346 .649
1957 111 430 395 44 121 23 2 4 160 55 2 4 4 2 26 7 3 43 4 .306 .354 .405 .759
1958 62 212 199 19 44 6 2 1 57 10 1 3 1 0 12 1 0 19 5 .221 .265 .286 .552
1959 90 277 254 20 77 10 0 3 96 27 1 3 4 3 14 2 2 31 6 .303 .344 .378 .722
通算:14年 1547 6121 5500 763 1667 293 66 201 2695 861 146 86 31 22 535 22 32 608 56 .303 .368 .490 .858
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • セネタースは、1947年に東急(東急フライヤーズ)に、1948年に急映(急映フライヤーズ)に、1949年に東急(東急フライヤーズ)に球団名を変更

タイトル

表彰

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1954年9月3日 ※史上27人目
その他の記録
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1947年) ※1994年より表彰
  • 1試合7安打 (1949年11月19日) ※日本プロ野球記録
  • サイクル安打:1回 (1954年7月15日、対阪急ブレーブス戦、平和台野球場) ※史上10人目、サヨナラ本塁打による達成は史上初[12]
  • 4試合連続本塁打 (1949年8月25日 - 28日) ※達成当時史上2位(一時、1リーグ時代の日本プロ野球記録とされたが、1972年に1938年の中島治康の6試合連続の記録が発見されている[13]
  • オールスターゲーム出場:6回 (1951年 - 1955年、1957年)

背番号

  • 3 (1946年 - 1959年、1968年)
  • 1 (1961年)
  • 30 (1974年 - 1975年)

関連情報

出演番組

解説者としての出演番組
テレビCM

著書

  • 『大下弘日記―球道徒然草』、 大下弘、 大道文(解説)、 ベースボール・マガジン社、1980年11月発行
  • 『父と子の少年野球教室』、 大下弘、 青年書館、 1979年発行
  • 『プロ野球選手の真似をするな―体験による少年野球の指導術』、青年書館、 1979年6月発行

書籍

脚注

  1. ^ a b c 小野俊哉『プロ野球最強のベストナイン: 全時代の一流選手の真価を問う』2010年、P11
  2. ^ 山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年、P188 - 189
  3. ^ 1947年に「東急フライヤーズ」に、1948年には「急映フライヤーズ」に改名するが、1949年からは再び「東急フライヤーズ」となり、1954年に東映興業(東映子会社)へ球団経営を移管するまでその名前であった。
  4. ^ 【6月2日】1946年(昭21) “虹の橋”をかけた男 大下弘 第1号本塁打 スポニチ
  5. ^ プロ野球考古学 - 竹バット事件
  6. ^ 1953年8月30日、古川清蔵(阪急)が対南海戦で7安打を放ったが、こちらは延長戦を含んでいるため参考記録となっている。
  7. ^ 打率は厳密には.38318。この記録は19年後の1970年にチームの後輩にあたる張本勲が.3834で更新した。
  8. ^ a b ナンバー『豪打列伝』文春文庫、1992年、P208
  9. ^ 『さよなら平和台 夢を思い出をありがとう』(西日本新聞社編集・発行、発行日:1997年11月、書籍コード:ISBN 4816704558
  10. ^ 東急退団の際に球団に返済した借金は168万円。ただし「家を購入する際は球団がその一部をもつ」とした50万円も含まれていた。
  11. ^ a b c 川上哲治に次いで史上2人目のシーズン、オールスター、日本シリーズのMVP。
  12. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」520ページ
  13. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」412-415ページ

関連項目

外部リンク