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「メジロデュレン」の版間の差分

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'''メジロデュレン'''は[[日本]]の[[競走馬]]。おもな勝鞍は[[菊花賞]]、[[有馬記念]]。[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半弟]]には[[グレード制|GI]]4勝の[[メジロマックイーン]](父・[[メジロティターン]])がいる。[[主戦騎手]]は[[村本善之]]。
'''メジロデュレン'''(欧字名:{{Lang|en|Mejiro Durren}}、[[1983年]][[5月1日]] - [[2009年]][[10月15日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=メジロデユレン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000161431/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-03}}</ref>。主な勝ち鞍は1986年の[[菊花賞]]({{GI}})、1987年の[[有馬記念]]({{GI}})。


[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半弟]]には、菊花賞兄弟勝利、さらに天皇賞(春)連覇した[[メジロマックイーン]](父:[[メジロティターン]])がいる。
==戦績==
[[馬齢]]は当時の表記とする。


==生涯==
=== 3歳 - 4歳時 ===
[[1985年]]8月、[[函館競馬場]]でデビュー。[[新馬|新馬戦]]を3着、2着と惜敗するなど仕上がりの早さを見せたが膝の骨折のため長期休養を余儀なくされる。


=== デビューまで ===
復帰の時期は翌年の5月にまでずれ込むが、初戦をいきなりの勝利で飾る。その後、自己条件で2戦足踏みをするもなでしこ賞(400万下)に勝つと夏は[[北海道]]シリーズへ向かう。その年の函館競馬場でのオープン特別巴賞では格上挑戦ながら古馬に伍して3着に食い込むと続く樽前山特別(900万下)、関西に戻って嵐山特別(1400万下)と連勝して菊花賞に挑んだ。
[[北海道]][[浦河町]]の[[吉田ファーム|吉田堅牧場]]は、[[メジロ牧場]]をはじめとするメジロ系列が生産した牝馬を預かり競走馬生産を行っていた。1978年のメジロオーロラもメジロ牧場の生産馬である<ref>{{Cite web|title=メジロオーロラ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000110449/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-03}}</ref>。吉田はメジロオーロラを当歳から高く評価しており、競走馬としては1勝に終わったが、メジロ牧場の代表[[北野豊吉]]を説得させ、引退後は吉田堅牧場で[[繁殖牝馬]]となった<ref>『[[優駿]]』2011年1月号 155頁</ref>。初年度の配合相手は、北野豊吉と[[シンボリ牧場]]の[[和田共弘]]が日本に導入し、メジロ牧場に繋養された[[フィディオン]]が選ばれた。


1983年5月1日、吉田堅牧場にてメジロオーロラの初仔となる牡馬(後のメジロデュレン)が誕生。父母共にあまり評価は高いとは言えず、初仔にかかる期待は「平均的なもの<ref name="優駿2011-1-156">『[[優駿]]』2011年1月号 156頁</ref>」(阿部珠樹)であった。母仔は似て気が強く、母は初めての仔であったために仔の乳飲みを拒むこともあった<ref>『優駿』1991年7月号 62頁</ref>。メジロ牧場に移って育成が施されたが同様に、実力が抜き出ていたわけではなかった<ref name="優駿2011-1-156" />。怪我などトラブルないまま、開業8年目で44歳の若手調教師であった[[池江泰郎]]調教師の管理馬となり、母と同じ、[[栗東トレーニングセンター]]の池江厩舎に入厩した。所有は預託の通りメジロ系列の、株式会社メジロ商事が所有することとなり、冠名の「メジロ」を用いて「'''メジロデュレン'''」と命名された。
この年の菊花賞は明確な主役不在で「乱菊」と呼ばれたが、メジロデュレンは嵐山特別で菊花賞と同距離を克服している割に6番人気と低評価であった。レースは逃げる[[レジェンドテイオー]]が作り出すスローペースの中、好位をキープし直線では[[ダイナガリバー]]との叩き合いから2分の1馬身抜け出し戴冠した。この勝利は池江泰郎に調教師として初のGI制覇を齎しただけでなく、1982年の[[ホリスキー]]の菊花賞制覇以来続いた関東馬による牡馬[[クラシック_(競馬)|クラシック]]制覇に歯止めをかけるものでもあった。


=== 競走馬時代 ===
その年の有馬記念は出走を見送った。主戦騎手の村本によれば、同馬主の[[メジロラモーヌ]]のラストランであったため、回避することになったという<ref>「スペシャルインタビュー6 シャイな勝負師村本善之」『競馬騎手読本』宝島社、1997年、182-189頁</ref>。


=== 5 ===
==== 3(1985年) ====
1985年[[8月31日]]、[[函館競馬場]]の[[新馬戦]](芝1200メートル)に[[村本善之]]が騎乗しデビューした。同じメジロ牧場生産の[[スイートナディア]]が単勝オッズ1.0倍の1番人気に推される一方、メジロデュレンへの単勝式の投票は552票に留まる7頭立て5番人気で出走した<ref name="優駿2011-1-156" />。逃げたスイートナディアがそのまま逃げ切り勝利し、メジロデュレンは先行から3着、この敗戦に村本は距離延長を提案した<ref name="優駿2011-1-156" />。しかし、200メートル短縮した函館芝1000メートルの新馬戦に出走し、先行からアタマ差及ばず2着に敗れた。函館では初勝利に届かないまま、栗東トレーニングセンターに舞い戻った。池江は、向いていない短距離での2戦と栗東に戻った後の動きを見て、いずれ血統傾向に合致する長距離適性を感じ取っていた<ref name="優駿2011-1-156" />。しかし、膝を骨折してしまい長期休養となった<ref name="優駿2011-1-156" />。
[[1987年]]は[[日経新春杯]]から始動し3着に入る。春は[[天皇賞]]を最大の目標として調整が進められたが、骨折のため断念。秋になって復帰したもののカシオペアステークス5着、[[鳴尾記念]]では初めて掲示板を外す10着と大敗する。この敗戦にオーナーの[[北野ミヤ]]は翌年の天皇賞に向けての休養を主張するが、調教師の池江泰郎が「勝つチャンスがあると思います」という考えから[[第32回有馬記念]]出走に踏み切る。


==== 4歳(1986年) ====
多くの競馬ファンも有馬記念を勝てる状態にないと判断し、当日は10番人気と前年の菊花賞馬としては不人気だった。レースはスタート直後に[[メリーナイス]](その年の[[日本ダービー]]馬)が落馬、そして一番人気の[[サクラスターオー]](その年の[[皐月賞]]、[[菊花賞]]馬)の競走中止と波乱の展開となった。その中で、メジロデュレンは中団を追走して脚をため直線で外から一気に駆け上がり、先行していた[[ハシケンエルド]]を捉えて抜き去ると、[[ユーワジェームス]]の追走を抑えグランプリ制覇を果たした。2着には同枠のユーワジェームスが入ったため、[[投票券 (公営競技)|枠連]]は16,300円と当時のGI最高配当を記録するという大波乱に終わった。
故障の間に、4歳となった。骨折から7か月後の[[1986年]][[5月10日]]、[[京都競馬場]]の未勝利戦(芝1600メートル)で復帰し、2番人気に推されていた。2番手から直線で逃げ馬と4馬身の差があったが、村本の大きな追い動作から少しずつ伸びた<ref name="優駿2011-1-156" />。逃げ馬を半馬身かわして先頭となり、初勝利となった。池江は、伸びるまでに時間を要したレースぶりに、今後は長距離レースへの出走することを決意した<ref name="優駿2011-1-156" />。続く400万円以下の条件戦では、距離を延長して2000メートル以上のレースを走った。条件戦初戦と2戦目は後方待機からの追い込みが届かず2着、5着に敗れたが、3戦目の[[中京競馬場]]、なでしこ賞で先行策から、第3コーナーから加速して先頭となり、そのまま2勝目となった<ref name="優駿2011-1-157">『優駿』2011年1月号 157頁</ref>。


池江が夏に管理馬を多く出走させる函館競馬場に移り、格上挑戦で[[オープン競走]]の巴賞に出走した。[[重賞]]優勝馬の[[ドウカンヤシマ]]など[[古馬]]と初対決となり、5頭立て4番人気であった<ref name="優駿2011-1-157" />。天皇賞3着の[[ウインザーノット (競走馬)|ウインザーノット]]がレコードタイムで逃げ切り勝利する中、その2馬身ほど離された3着に敗れたが、ドウカンヤシマには先着した<ref name="優駿2011-1-157" />。続いて自己条件<ref group="注釈">元々所属するクラス(900万円以下)</ref>の900万円以下に戻って樽前山特別に出走し、再び第3コーナーで仕掛けて3勝目を挙げた<ref name="優駿2011-1-157" />。
“メジロ”の北野家にとっても初となったこの有馬記念制覇にはオーナーの北野ミヤも「こんなことがあるんですね」と予想もしなかった栄光に驚き、表彰式では夫の[[北野豊吉]]の遺影を掲げて感涙に咽ぶ場面もあった。


菊花賞参戦を見据えて栗東に戻り、同じ京都競馬場芝3000メートルの条件戦、嵐山特別(1400万円以下)に出走。重賞優勝経験のある古馬の[[ハクリョウベル]]が出走するなど、大勢が古馬というメンバーであったが、単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された。後方待機から、第3コーナーの坂の下りから村本に促され前進し、最終コーナーで逃げ馬に並びそのまま直線ではその逃げ馬と競り合った。ゴール板まで続き、クビ差残して入線し勝利した<ref>『優駿』2011年1月号 158頁</ref>。
=== 6歳以後 ===
翌年は7戦して未勝利に終わる。期待された天皇賞(春)も馬運車で外傷を負うという不運にも見舞われ、勝った[[タマモクロス]]から大きく離された3着に入るまでだった。[[第33回有馬記念]]では不利を受けながら5着となり健在ぶりを見せたがこの時の[[発馬機|ゲート]]入りが悪く、3ヶ月の出走停止という重い処分が下される。


続いて、菊花賞({{GI}})に出走、当日の京都競馬場は雨が降っていたが、良馬場であった<ref name="優駿1991-7-63">『優駿』1991年7月号 63頁</ref>。1番人気には、古馬相手の高松宮杯を優勝した[[ラグビーボール (競走馬)|ラグビーボール]]が推され、[[神戸新聞杯]]、[[京都新聞杯]]優勝の[[タケノコマヨシ]]、[[セントライト記念]]優勝の[[レジェンドテイオー]]、同期の東京優駿(日本ダービー)優勝馬[[ダイナガリバー]]などが人気を集める中、6番人気という評価であった。[[レジェンドテイオー]]が逃げ、ダイナガリバーが4番手ほど、メジロデュレンとラグビーボールは中団に位置した。メジロデュレンが向こう正面で好位まで位置を上げ、ダイナガリバーと並びかけていた。2000メートル通過が2分7秒と遅いペースで先行有利の展開となり、ラグビーボールは6番手まで浮上した。ダイナガリバーの外から並びかけて直線コースに入り、直前で半馬身抜け出して先頭で入線した<ref name="優駿1991-7-63" />。
陣営は次の天皇賞(春)での[[リベンジ]]を期していたが、この処分により天皇賞はぶっつけで臨むことを余儀なくされる。レースを使うことで良くなるタイプのメジロデュレンにとってこれは致命的であり、引退を決断することとなった。


村本は最終コーナーで勝利を確信し「大差で勝つような馬ではないが、競り合ったらメジロデュレンは負けない」と話した<ref name="優駿1991-7-63" />。メジロ系列は、クラシック三冠競走初制覇となった。前週に行われた[[エリザベス女王杯]]で優勝した史上初の[[中央競馬クラシック三冠|牝馬三冠]]を達成した[[メジロラモーヌ]]に続いて2週連続で「メジロ」系列が勝利となり、前週に引き続きメジロ牧場の創設者北野豊吉の[[遺影]]に収められて表彰式に参加した<ref name="優駿1991-7-63" />。豊吉の遺影を持つ妻のミヤは「雲の上に載っているみたい。まさか勝てるとは…」と証言した<ref name="優駿1991-7-63" />。これまで1982年菊花賞優勝の[[ホリスキー]]から始まった関東([[美浦トレーニングセンター]])所属の牡馬によるクラシック連勝記録を12で止める関西所属馬の勝利であった<ref name="優駿1991-7-63" />。
== 引退後 ==
引退後は[[1990年]]から[[種牡馬]]入りした。[[新潟県競馬組合|新潟県競馬]]の重賞である新潟ジュニアカップを勝ったライデンホースが代表産駒として挙げられる程度で、総じて産駒は走らなかった。


それから有馬記念は、ファン投票では10位の70623票を集めたが、メジロラモーヌが[[引退試合|引退レース]]としたために回避した<ref>『優駿』2011年1月号 35頁</ref>。
[[1994年]]を最後に種牡馬から引退。つま恋乗馬クラブで乗馬となった。さらにその後、[[長野県]]のスエトシ牧場に移され余生を送っていたが[[2009年]][[10月15日]]に老衰のため死亡した<ref name="net091019">{{Cite web |url=http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=40631&category=D |title=GI・2勝馬メジロデュレンが26歳で死亡 |author= |publisher=JRA |accessdate=2009年10月22日 |date=2009-10-19}}</ref>。

==== 5歳(1987年) ====
休養に入り、メジロの方針である「'''[[天皇賞]]'''制覇」を目標となった。[[日経新春杯]]({{GII}})で始動し、[[フレッシュボイス]]に5馬身つけられた3着に敗退。直後に、骨折が判明して天皇賞(春)を断念してメジロ牧場に放牧された<ref name="優駿1991-7-63" />。骨折が癒えた後、10月24日のカシオペアステークスで復帰し5着敗退。続いて[[鳴尾記念]]({{GII}})に2番人気で出走するも、勝利した[[タマモクロス]]に1.8秒離され、初めて掲示板外となる10着に敗れた<ref name="優駿1991-7-63" />。骨折復帰後の連敗に周囲は、馬体重の増加、3戦全敗の[[阪神競馬場]]、休み明けで感覚が戻っていないことなどに求めていた。

[[有馬記念]]のファン投票で出走権利を得ていたが、メジロ牧場側は鳴尾記念で大敗したことから辞退して、来春の天皇賞(春)に備えようと考えていた<ref name="優駿2011-1-159">『優駿』2011年1月号 159頁</ref>。しかし、池江はメジロデュレンの状態が良化して菊花賞並の状態であったことから有馬記念出走を願い出て、説得させて出走に至った<ref name="優駿2011-1-159" />。

12月27日の有馬記念では、二冠の[[サクラスターオー]]、牝馬二冠の[[マックスビューティ]]、[[東京優駿]](日本ダービー)優勝[[メリーナイス]]の4歳馬が参戦。ジャパンカップ日本調教馬最先着の3着となり、外国馬におよそ1馬身まで迫った[[ダイナアクトレス]]、前年の有馬記念優勝のダイナガリバーが連覇を狙うなどが出走し、メジロデュレンは10番人気という支持だった<ref name="優駿1991-7-63" />。

スタートから3番人気のメリーナイスがつまずいて[[落馬]]、1番人気のサクラスターオーが第3コーナーで故障発生し、有力馬の2頭が競走中止となった<ref name="優駿1991-7-63" />。後方待機していたメジロデュレンは、サクラスターオーが後退したことで生まれたスペースを利用して進出し、好位で最後の直線に差し掛かった<ref name="優駿1991-7-63" />。粘るハシケンエルドとミスターブランディを外からかわして先頭となり、内から抜け出したユーワジェームスを半馬身退けて先頭で決勝線を通過した<ref name="優駿1991-7-63" />。10番人気メジロデュレンの[[単勝式]]「7」は2410円、また7番人気ユーワジェームスを併せたゾロ目の[[枠番連勝|枠番連勝式]]「4 - 4」は1万6300円、両方が有馬記念歴代最高配当を更新する波乱となった<ref name="優駿1991-7-63" />。村本は勝利できると思っておらず、一応の勝因には馬体重を挙げたが出走前は「入着<ref group="注釈">5着以内</ref>ぐらい」と考えているに過ぎなかった<ref name="優駿1991-7-64">『[[優駿]]』1991年7月号 64頁</ref>。サクラスターオーとメリーナイスが競走中止するアクシデントのために、インタビューを受ける村本は喜びを態度に表すことができなかった<ref>『優駿』2011年1月号 160頁</ref>。

==== 6歳(1988年) ====
6歳となり、前年出走できなかった天皇賞(春)を目指して、[[阪神大賞典]]4着、[[サンケイ大阪杯]]7着から天皇賞(春)に参戦した。しかし、当日の京都競馬場へ輸送する馬運車の中で外傷を負ってからの出走となり、タマモクロスにかわされて3着に敗れた。続く宝塚記念もタマモクロスに敗れて7着に敗れた。次第に[[発馬機|ゲート]]で出遅れるようになり、良績を残すことができなかった<ref name="優駿2011-1-161">『[[優駿]]』2011年1月号 161頁</ref>。

夏は函館競馬場で過ごし、秋は[[富士ステークス]]、[[ジャパンカップ]]、有馬記念と連戦したものの、いずれも敗退した。有馬記念でのゲート入りで立ち上がるなど枠入り不良と判断されて、出走停止が命じられた<ref>『[[優駿]]』1989年2月号 140頁</ref>。停止措置が明けても出走せず、競走馬を引退した。
=== 種牡馬時代 ===
競走馬引退後は、メジロ牧場で1年間の休養し、北海道[[沙流郡]][[門別町]]の門別スタリオンステーションにて[[種牡馬]]となった<ref name="優駿1991-7-64" />。なお特筆すべき産駒は、[[新潟県競馬組合|新潟県競馬]]の重賞である新潟ジュニアカップを勝ったライデンホースくらいであった<ref>{{Cite web|title=ライデンホース|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000280738/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|title=種牡馬情報:種牡馬成績 |メジロデユレン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000161431/sire/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-03}}</ref>。[[1994年]]を最後に種牡馬から引退。つま恋乗馬クラブで乗馬となった。さらにその後、[[長野県]]のスエトシ牧場に移され余生を送っていたが[[2009年]][[10月15日]]に老衰のため死亡した<ref name="net091019">{{Cite web |url=http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=40631&category=D |title=GI・2勝馬メジロデュレンが26歳で死亡 |author= |publisher=JRA |accessdate=2009年10月22日 |date=2009-10-19}}</ref>。

== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=メジロデュレンの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/1983106973/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-06-03|language=ja}}</ref>及びJBISサーチ<ref>{{Cite web|title=競走成績:全競走成績|メジロデユレン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000161431/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-03}}</ref>、『[[優駿]]』2011年1月号<ref name="優駿2011-1-161" />の情報に基づく。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
!競走日
! nowrap="" |競馬場
!競走名
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(人気)
!着順
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!1着馬(2着馬)
|-
|[[1985年|1985]].{{0}}[[8月31日|8.31]]
|[[函館競馬場|函館]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
|芝1200m(良)
|7
|4
|4
|{{0}}42.1{{0}}(5人)
|{{0}}{{Color|darkgreen|3着}}
|1:12.5
|
|{{0}}[[村本善之]]
|53
|スイートナディア
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月22日|9.22]]
|函館
|3歳新馬
|
|芝1000m(良)
|7
|7
|7
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|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
|{{0|-}}{{0}}59.7
|
|{{0}}村本善之
|53
|アカネライコウ
|-
|[[1986年|1986]].{{0}}[[5月10日|5.10]]
|[[京都競馬場|京都]]
|4歳未勝利
|
|芝1600m(良)
|10
|4
|4
|{{00}}3.5{{0}}(2人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|1:39.5
| -0.1
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|55
|(プロンプトメア)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月24日|5.24]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
|4歳400万下
|
|芝2200m(良)
|12
|3
|3
|{{00}}3.1{{0}}(1人)
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|-
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|かきつばた賞
|4下
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|12
|5
|5
|{{00}}6.3{{0}}(4人)
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|2:39.6
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|モガミシール
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|4下
|芝2000m(良)
|10
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|9
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| -0.1
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|55
|(アイノヒーロ)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[8月3日|8.{{0}}3]]
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|OP
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|5
|1
|1
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|-
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|([[ダイナガリバー]])
|-
|[[1987年|1987]].{{0}}[[1月25日|1.25]]
|京都
|[[日経新春杯]]
|{{GII}}
|芝2200m(重)
|7
|7
|7
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|3
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|-
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|-
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|{{GI}}
|芝2500m(良)
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|-
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|7
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|3
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|{{0}}村本善之
|58
|タマモクロス
|-
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|[[サンケイ大阪杯]]
|{{GII}}
|芝2000m(良)
|12
|4
|4
|{{00}}8.8{{0}}(5人)
|{{0}}7着
|2:02.3
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|{{0}}村本善之
|59
|フレッシュボイス
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月29日|4.29]]
|京都
|[[天皇賞(春)]]
|{{GI}}
|芝3200m(稍)
|18
|3
|5
|{{00}}4.9{{0}}(2人)
|{{0}}{{Color|darkgreen|3着}}
|3:22.7
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|{{0}}村本善之
|58
|タマモクロス
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[6月12日|6.12]]
|阪神
|[[宝塚記念]]
|{{GI}}
|芝2200m(稍)
|13
|5
|8
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|{{0}}7着
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|{{0|-}}1.0
|{{0}}村本善之
|57
|タマモクロス
|-
|{{0|0000.}}[[11月13日|11.13]]
|[[東京競馬場|東京]]
|[[富士ステークス|富士S]]
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|芝1800m(良)
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|4
|4
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|{{0}}8着
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|57
|セーラムドライブ
|-
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|東京
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
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|芝2400m(良)
|14
|5
|10
|{{0}}44.5(12人)
|11着
|2:26.5
|{{0|-}}1.0
|{{0}}村本善之
|57
|[[ペイザバトラー]]
|-
|{{0|0000.}}[[12月25日|12.25]]
|中山
|有馬記念
|{{GI}}
|芝2500m(良)
|13
|5
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|[[オグリキャップ]]
|}

== エピソード ==

* 生産者の吉田堅とその息子の隆は、菊花賞の日に[[赤飯]]を炊き見事優勝した<ref name="優駿1988-2-138">『優駿』1988年2月号 138頁</ref>。しかし、翌年の生産馬の成績が悪かったため気晴らしに、有馬記念当日の朝から赤飯を炊き、再び有馬記念優勝に至った<ref name="優駿1988-2-138" />。


== 血統表 ==
== 血統表 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==

* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1988年2月号
***鶴谷義雄([[デイリースポーツ]])「【今月の記録室】第32回有馬記念〈グランプリ〉({{GI}})」
**1989年2月号
***有吉正徳([[東京中日スポーツ]])「【今月の記録室】第33回有馬記念〈グランプリ〉({{GI}})」
**1991年7月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 62】異色のステイヤー メジロデュレン」
** 2011年1月号
*** 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝】"離れ業"をやってのけた稀有な存在」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2021年6月3日 (木) 14:46時点における版

メジロデュレン
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1983年5月1日[1]
死没 2009年10月15日(26歳没)
フィディオン[1]
メジロオーロラ[1]
母の父 リマンド[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 吉田堅[1]
育成 メジロ牧場
馬主 メジロ商事(株)[1]
調教師 池江泰郎栗東[1]
競走成績
生涯成績 21戦6勝[1]
獲得賞金 2億5284万6600円[1]
勝ち鞍
GI 有馬記念 1987年
GI 菊花賞 1986年
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メジロデュレン(欧字名:Mejiro Durren1983年5月1日 - 2009年10月15日)は、日本競走馬種牡馬[1]。主な勝ち鞍は1986年の菊花賞GI)、1987年の有馬記念GI)。

半弟には、菊花賞兄弟勝利、さらに天皇賞(春)連覇したメジロマックイーン(父:メジロティターン)がいる。

生涯

デビューまで

北海道浦河町吉田堅牧場は、メジロ牧場をはじめとするメジロ系列が生産した牝馬を預かり競走馬生産を行っていた。1978年のメジロオーロラもメジロ牧場の生産馬である[2]。吉田はメジロオーロラを当歳から高く評価しており、競走馬としては1勝に終わったが、メジロ牧場の代表北野豊吉を説得させ、引退後は吉田堅牧場で繁殖牝馬となった[3]。初年度の配合相手は、北野豊吉とシンボリ牧場和田共弘が日本に導入し、メジロ牧場に繋養されたフィディオンが選ばれた。

1983年5月1日、吉田堅牧場にてメジロオーロラの初仔となる牡馬(後のメジロデュレン)が誕生。父母共にあまり評価は高いとは言えず、初仔にかかる期待は「平均的なもの[4]」(阿部珠樹)であった。母仔は似て気が強く、母は初めての仔であったために仔の乳飲みを拒むこともあった[5]。メジロ牧場に移って育成が施されたが同様に、実力が抜き出ていたわけではなかった[4]。怪我などトラブルないまま、開業8年目で44歳の若手調教師であった池江泰郎調教師の管理馬となり、母と同じ、栗東トレーニングセンターの池江厩舎に入厩した。所有は預託の通りメジロ系列の、株式会社メジロ商事が所有することとなり、冠名の「メジロ」を用いて「メジロデュレン」と命名された。

競走馬時代

3歳(1985年)

1985年8月31日函館競馬場新馬戦(芝1200メートル)に村本善之が騎乗しデビューした。同じメジロ牧場生産のスイートナディアが単勝オッズ1.0倍の1番人気に推される一方、メジロデュレンへの単勝式の投票は552票に留まる7頭立て5番人気で出走した[4]。逃げたスイートナディアがそのまま逃げ切り勝利し、メジロデュレンは先行から3着、この敗戦に村本は距離延長を提案した[4]。しかし、200メートル短縮した函館芝1000メートルの新馬戦に出走し、先行からアタマ差及ばず2着に敗れた。函館では初勝利に届かないまま、栗東トレーニングセンターに舞い戻った。池江は、向いていない短距離での2戦と栗東に戻った後の動きを見て、いずれ血統傾向に合致する長距離適性を感じ取っていた[4]。しかし、膝を骨折してしまい長期休養となった[4]

4歳(1986年)

故障の間に、4歳となった。骨折から7か月後の1986年5月10日京都競馬場の未勝利戦(芝1600メートル)で復帰し、2番人気に推されていた。2番手から直線で逃げ馬と4馬身の差があったが、村本の大きな追い動作から少しずつ伸びた[4]。逃げ馬を半馬身かわして先頭となり、初勝利となった。池江は、伸びるまでに時間を要したレースぶりに、今後は長距離レースへの出走することを決意した[4]。続く400万円以下の条件戦では、距離を延長して2000メートル以上のレースを走った。条件戦初戦と2戦目は後方待機からの追い込みが届かず2着、5着に敗れたが、3戦目の中京競馬場、なでしこ賞で先行策から、第3コーナーから加速して先頭となり、そのまま2勝目となった[6]

池江が夏に管理馬を多く出走させる函館競馬場に移り、格上挑戦でオープン競走の巴賞に出走した。重賞優勝馬のドウカンヤシマなど古馬と初対決となり、5頭立て4番人気であった[6]。天皇賞3着のウインザーノットがレコードタイムで逃げ切り勝利する中、その2馬身ほど離された3着に敗れたが、ドウカンヤシマには先着した[6]。続いて自己条件[注釈 1]の900万円以下に戻って樽前山特別に出走し、再び第3コーナーで仕掛けて3勝目を挙げた[6]

菊花賞参戦を見据えて栗東に戻り、同じ京都競馬場芝3000メートルの条件戦、嵐山特別(1400万円以下)に出走。重賞優勝経験のある古馬のハクリョウベルが出走するなど、大勢が古馬というメンバーであったが、単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された。後方待機から、第3コーナーの坂の下りから村本に促され前進し、最終コーナーで逃げ馬に並びそのまま直線ではその逃げ馬と競り合った。ゴール板まで続き、クビ差残して入線し勝利した[7]

続いて、菊花賞(GI)に出走、当日の京都競馬場は雨が降っていたが、良馬場であった[8]。1番人気には、古馬相手の高松宮杯を優勝したラグビーボールが推され、神戸新聞杯京都新聞杯優勝のタケノコマヨシセントライト記念優勝のレジェンドテイオー、同期の東京優駿(日本ダービー)優勝馬ダイナガリバーなどが人気を集める中、6番人気という評価であった。レジェンドテイオーが逃げ、ダイナガリバーが4番手ほど、メジロデュレンとラグビーボールは中団に位置した。メジロデュレンが向こう正面で好位まで位置を上げ、ダイナガリバーと並びかけていた。2000メートル通過が2分7秒と遅いペースで先行有利の展開となり、ラグビーボールは6番手まで浮上した。ダイナガリバーの外から並びかけて直線コースに入り、直前で半馬身抜け出して先頭で入線した[8]

村本は最終コーナーで勝利を確信し「大差で勝つような馬ではないが、競り合ったらメジロデュレンは負けない」と話した[8]。メジロ系列は、クラシック三冠競走初制覇となった。前週に行われたエリザベス女王杯で優勝した史上初の牝馬三冠を達成したメジロラモーヌに続いて2週連続で「メジロ」系列が勝利となり、前週に引き続きメジロ牧場の創設者北野豊吉の遺影に収められて表彰式に参加した[8]。豊吉の遺影を持つ妻のミヤは「雲の上に載っているみたい。まさか勝てるとは…」と証言した[8]。これまで1982年菊花賞優勝のホリスキーから始まった関東(美浦トレーニングセンター)所属の牡馬によるクラシック連勝記録を12で止める関西所属馬の勝利であった[8]

それから有馬記念は、ファン投票では10位の70623票を集めたが、メジロラモーヌが引退レースとしたために回避した[9]

5歳(1987年)

休養に入り、メジロの方針である「天皇賞制覇」を目標となった。日経新春杯GII)で始動し、フレッシュボイスに5馬身つけられた3着に敗退。直後に、骨折が判明して天皇賞(春)を断念してメジロ牧場に放牧された[8]。骨折が癒えた後、10月24日のカシオペアステークスで復帰し5着敗退。続いて鳴尾記念GII)に2番人気で出走するも、勝利したタマモクロスに1.8秒離され、初めて掲示板外となる10着に敗れた[8]。骨折復帰後の連敗に周囲は、馬体重の増加、3戦全敗の阪神競馬場、休み明けで感覚が戻っていないことなどに求めていた。

有馬記念のファン投票で出走権利を得ていたが、メジロ牧場側は鳴尾記念で大敗したことから辞退して、来春の天皇賞(春)に備えようと考えていた[10]。しかし、池江はメジロデュレンの状態が良化して菊花賞並の状態であったことから有馬記念出走を願い出て、説得させて出走に至った[10]

12月27日の有馬記念では、二冠のサクラスターオー、牝馬二冠のマックスビューティ東京優駿(日本ダービー)優勝メリーナイスの4歳馬が参戦。ジャパンカップ日本調教馬最先着の3着となり、外国馬におよそ1馬身まで迫ったダイナアクトレス、前年の有馬記念優勝のダイナガリバーが連覇を狙うなどが出走し、メジロデュレンは10番人気という支持だった[8]

スタートから3番人気のメリーナイスがつまずいて落馬、1番人気のサクラスターオーが第3コーナーで故障発生し、有力馬の2頭が競走中止となった[8]。後方待機していたメジロデュレンは、サクラスターオーが後退したことで生まれたスペースを利用して進出し、好位で最後の直線に差し掛かった[8]。粘るハシケンエルドとミスターブランディを外からかわして先頭となり、内から抜け出したユーワジェームスを半馬身退けて先頭で決勝線を通過した[8]。10番人気メジロデュレンの単勝式「7」は2410円、また7番人気ユーワジェームスを併せたゾロ目の枠番連勝式「4 - 4」は1万6300円、両方が有馬記念歴代最高配当を更新する波乱となった[8]。村本は勝利できると思っておらず、一応の勝因には馬体重を挙げたが出走前は「入着[注釈 2]ぐらい」と考えているに過ぎなかった[11]。サクラスターオーとメリーナイスが競走中止するアクシデントのために、インタビューを受ける村本は喜びを態度に表すことができなかった[12]

6歳(1988年)

6歳となり、前年出走できなかった天皇賞(春)を目指して、阪神大賞典4着、サンケイ大阪杯7着から天皇賞(春)に参戦した。しかし、当日の京都競馬場へ輸送する馬運車の中で外傷を負ってからの出走となり、タマモクロスにかわされて3着に敗れた。続く宝塚記念もタマモクロスに敗れて7着に敗れた。次第にゲートで出遅れるようになり、良績を残すことができなかった[13]

夏は函館競馬場で過ごし、秋は富士ステークスジャパンカップ、有馬記念と連戦したものの、いずれも敗退した。有馬記念でのゲート入りで立ち上がるなど枠入り不良と判断されて、出走停止が命じられた[14]。停止措置が明けても出走せず、競走馬を引退した。

種牡馬時代

競走馬引退後は、メジロ牧場で1年間の休養し、北海道沙流郡門別町の門別スタリオンステーションにて種牡馬となった[11]。なお特筆すべき産駒は、新潟県競馬の重賞である新潟ジュニアカップを勝ったライデンホースくらいであった[15][16]1994年を最後に種牡馬から引退。つま恋乗馬クラブで乗馬となった。さらにその後、長野県のスエトシ牧場に移され余生を送っていたが2009年10月15日に老衰のため死亡した[17]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[18]及びJBISサーチ[19]、『優駿』2011年1月号[13]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム 着差 騎手 斤量 1着馬(2着馬)
1985.08.31 函館 3歳新馬 芝1200m(良) 7 4 4 042.10(5人) 03着 1:12.5 0村本善之 53 スイートナディア
0000.09.22 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 7 7 7 006.40(3人) 02着 -059.7 0村本善之 53 アカネライコウ
1986.05.10 京都 4歳未勝利 芝1600m(良) 10 4 4 003.50(2人) 01着 1:39.5 -0.1 0村本善之 55 (プロンプトメア)
0000.05.24 阪神 4歳400万下 芝2200m(良) 12 3 3 003.10(1人) 02着 2:17.5 -1.3 0村本善之 55 ターゴフレーム
0000.06.08 阪神 かきつばた賞 4下 芝2500m(良) 12 5 5 006.30(4人) 05着 2:39.6 -2.0 0村本善之 55 モガミシール
0000.06.28 中京 なでしこ賞 4下 芝2000m(良) 10 8 9 007.30(5人) 01着 2:03.1 -0.1 0村本善之 55 (アイノヒーロ)
0000.08.03 函館 巴賞 OP 芝1800m(良) 5 1 1 013.70(4人) 03着 1:46.7 -0.3 0村本善之 53 ウインザーノット
0000.08.24 函館 樽前山特別 9下 芝2000m(良) 8 5 5 002.60(2人) 01着 2:00.5 -0.1 0村本善之 54 (アズマグリント)
0000.10.11 京都 嵐山特別 14下 芝3000m(稍) 7 6 6 001.70(1人) 01着 3:10.5 -0.1 0村本善之 54 (イチヨシマサル)
0000.11.09 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 21 6 13 011.30(6人) 01着 3:09.2 -0.1 0村本善之 57 ダイナガリバー
1987.01.25 京都 日経新春杯 GII 芝2200m(重) 7 7 7 002.80(2人) 03着 2:17.0 -0.9 0村本善之 56 フレッシュボイス
0000.10.24 京都 カシオペアS OP 芝2000m(稍) 10 3 3 005.50(3人) 05着 2:06.3 -0.6 0村本善之 58 ハシケンエルド
0000.12.06 阪神 鳴尾記念 GII 芝2500m(稍) 13 8 12 004.40(2人) 10着 2:34.8 -1.8 0村本善之 58 タマモクロス
0000.12.27 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 4 7 024.1(10人) 01着 2:33.9 -0.1 0村本善之 57 (ユーワジェームス)
1988.03.13 阪神 阪神大賞典 GII 芝3000m(稍) 7 3 3 003.90(2人) 04着 3:12.8 -0.7 0村本善之 58 タマモクロス
0000.04.03 阪神 サンケイ大阪杯 GII 芝2000m(良) 12 4 4 008.80(5人) 07着 2:02.3 -0.6 0村本善之 59 フレッシュボイス
0000.04.29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(稍) 18 3 5 004.90(2人) 03着 3:22.7 -0.9 0村本善之 58 タマモクロス
0000.06.12 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(稍) 13 5 8 014.20(5人) 07着 2:14.2 -1.0 0村本善之 57 タマモクロス
0000.11.13 東京 富士S OP 芝1800m(良) 10 4 4 018.10(6人) 08着 1:48.5 -1.6 0村本善之 57 セーラムドライブ
0000.11.27 東京 ジャパンC GI 芝2400m(良) 14 5 10 044.5(12人) 11着 2:26.5 -1.0 0村本善之 57 ペイザバトラー
0000.12.25 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 13 5 8 022.80(7人) 05着 2:34.6 -0.7 0村本善之 56 オグリキャップ

エピソード

  • 生産者の吉田堅とその息子の隆は、菊花賞の日に赤飯を炊き見事優勝した[20]。しかし、翌年の生産馬の成績が悪かったため気晴らしに、有馬記念当日の朝から赤飯を炊き、再び有馬記念優勝に至った[20]

血統表

メジロデュレン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 テディ系

*フィディオン
Fidion
1972 鹿毛
父の父
Djakao
1966
Tanerko Tantieme
La Divine
Diagonale Ribot
Barley Corn
父の母
Thessalie
1963
Sicambre Prince Bio
Sif
La Tournelle Tourment
Vatellino

メジロオーロラ
1978 栗毛
*リマンド
Remand
1965 栗毛
Alcide Alycidon
Chenille
Admonish Palestine
Warning
母の母
メジロアイリス
1964 黒鹿毛
*ヒンドスタン Bois Roussel
Sonibai
アサマユリ ボストニアン
トモエ
母系(F-No.) アサマユリ系(FN:7-c) [§ 2]
5代内の近親交配 アウトブリード [§ 3]
出典
  1. ^ [21]
  2. ^ [22][21]
  3. ^ [21]


脚注

注釈

  1. ^ 元々所属するクラス(900万円以下)
  2. ^ 5着以内

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n メジロデユレン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月3日閲覧。
  2. ^ メジロオーロラ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月3日閲覧。
  3. ^ 優駿』2011年1月号 155頁
  4. ^ a b c d e f g h 優駿』2011年1月号 156頁
  5. ^ 『優駿』1991年7月号 62頁
  6. ^ a b c d 『優駿』2011年1月号 157頁
  7. ^ 『優駿』2011年1月号 158頁
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 『優駿』1991年7月号 63頁
  9. ^ 『優駿』2011年1月号 35頁
  10. ^ a b 『優駿』2011年1月号 159頁
  11. ^ a b 優駿』1991年7月号 64頁
  12. ^ 『優駿』2011年1月号 160頁
  13. ^ a b 優駿』2011年1月号 161頁
  14. ^ 優駿』1989年2月号 140頁
  15. ^ ライデンホース|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月3日閲覧。
  16. ^ 種牡馬情報:種牡馬成績 |メジロデユレン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月3日閲覧。
  17. ^ GI・2勝馬メジロデュレンが26歳で死亡”. JRA (2009年10月19日). 2009年10月22日閲覧。
  18. ^ メジロデュレンの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2021年6月3日閲覧。
  19. ^ 競走成績:全競走成績|メジロデユレン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月3日閲覧。
  20. ^ a b 『優駿』1988年2月号 138頁
  21. ^ a b c 血統情報:5代血統表|メジロデュレン”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年12月23日閲覧。
  22. ^ メジロ三大牝系”. 競馬最強の法則WEB. 2019年12月23日閲覧。

参考文献

  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1988年2月号
      • 鶴谷義雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回有馬記念〈グランプリ〉(GI)」
    • 1989年2月号
      • 有吉正徳(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第33回有馬記念〈グランプリ〉(GI)」
    • 1991年7月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 62】異色のステイヤー メジロデュレン」
    • 2011年1月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝】"離れ業"をやってのけた稀有な存在」

外部リンク