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「1905年の政治」の版間の差分

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* [[1月5日]] - 乃木、ステッセル両将軍が会見する([[水師営]]の会見)。
* [[1月5日]] - 乃木、ステッセル両将軍が会見する([[水師営]]の会見)。
* [[1月22日]]
* [[1月22日]]
** [[サンクトペテルブルク]]で'''[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]'''起こる。労働者による[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世]]に対する請願デモに軍が発砲し1,000人以上の死者が出る。[[ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー]]内相が引責辞任。後任は[[アレクサンドル・ブルイギン]]。
** [[サンクトペテルブルク]]で'''[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]'''起こる。労働者による[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]に対する請願デモに軍が発砲し1,000人以上の死者が出る。[[ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー]]内相が引責辞任。後任は[[アレクサンドル・ブルイギン]]。
** 日本政府、[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]に日露講和の条件を打診。
** 日本政府、[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]に日露講和の条件を打診。
* [[1月27日]] - 露の全都市で[[ストライキ]]が起こる。ロシア全土でストライキは拡大し、スト参加者は約44万人に登る。ロシアの支配下にあった[[ポーランド]]では独立派による武装蜂起が起こり、[[ポーランド王国]]の一部に[[戒厳]]が宣告される。
* [[1月27日]] - 露の全都市で[[ストライキ]]が起こる。ロシア全土でストライキは拡大し、スト参加者は約44万人に登る。ロシアの支配下にあった[[ポーランド]]では独立派による武装蜂起が起こり、[[ポーランド王国]]の一部に[[戒厳]]が宣告される。
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* [[10月9日]] - [[平民社]]、内紛が深刻化し解散。
* [[10月9日]] - [[平民社]]、内紛が深刻化し解散。
* [[10月12日]] - 桂首相、アメリカの鉄道王[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]と会談。[[満鉄]]の日米共同経営に関する覚書を取り交わす。
* [[10月12日]] - 桂首相、アメリカの鉄道王[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]と会談。[[満鉄]]の日米共同経営に関する覚書を取り交わす。
* [[10月14日]] - 日露の平和条約に[[明治天皇]]、[[ニコライ2世]]がそれぞれ署名し、'''[[日露戦争]]終結'''。
* [[10月14日]] - 日露の平和条約に[[明治天皇]]、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]がそれぞれ署名し、'''[[日露戦争]]終結'''。
* [[10月17日]] - [[遼陽]]に[[関東総督府]]を設置。
* [[10月17日]] - [[遼陽]]に[[関東総督府]]を設置。
* [[10月19日]] - 露、モスクワ・[[カザン駅]]でストライキが発生したのを契機に全国規模の鉄道ストライキが起こる。
* [[10月19日]] - 露、モスクワ・[[カザン駅]]でストライキが発生したのを契機に全国規模の鉄道ストライキが起こる。

2021年6月13日 (日) 10:05時点における版

1905年の政治(1905ねんのせいじ)では、1905年明治38年)の政治分野に関する出来事について記述する。

できごと

1月

水師営の会見 中央左からレース露参謀長、乃木大将、ステッセル将軍、伊地知幸介参謀長
血の日曜日事件。10万人の大群衆に向かって軍隊は銃火を浴びせた。

2月

3月

4月

戦艦三笠の艦橋に立つ東郷平八郎司令長官

5月

6月

7月

8月

ロシアでドゥーマ(国会)が開催。画像は議事堂となったサンクトペテルブルクタヴリーダ宮殿

9月

10月

ロシア第一革命を描いた1905年10月17日イリヤ・レーピン画)

11月

韓国駐箚日本軍司令官長谷川好道陸軍大将と共に統監府へ向かう伊藤博文(11月29日撮影)

12月