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「浄妙寺 (鎌倉市)」の版間の差分

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== 関連項目 ==
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2021年6月20日 (日) 01:35時点における版

浄妙寺

本堂
所在地 神奈川県鎌倉市浄明寺3-8-31
位置 北緯35度19分22.2秒 東経139度34分16.7秒 / 北緯35.322833度 東経139.571306度 / 35.322833; 139.571306 (浄妙寺)座標: 北緯35度19分22.2秒 東経139度34分16.7秒 / 北緯35.322833度 東経139.571306度 / 35.322833; 139.571306 (浄妙寺)
山号 稲荷山[1]
宗派 臨済宗建長寺派
寺格 鎌倉五山五位[1]
本尊 釈迦如来
創建年 文治4年(1188年
開山 退耕行勇[1]
開基 足利義兼
正式名 稲荷山 浄妙広利禅寺
札所等 鎌倉三十三観音 第9番
鎌倉十三仏霊場 第2番(釈迦如来
文化財 木造退耕行勇坐像(国の重要文化財)ほか
法人番号 9021005001898 ウィキデータを編集
浄妙寺 (鎌倉市)の位置(神奈川県内)
浄妙寺
浄妙寺
横浜市
横浜市
神奈川県における位置
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浄妙寺 (鎌倉市)の位置(日本内)
浄妙寺 (鎌倉市)
浄妙寺

浄妙寺(じょうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市浄明寺にある臨済宗建長寺派の仏教寺院。山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺という。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇鎌倉五山の第五位。鎌倉三十三観音第9番。

概要

鎌倉市の東部、市の中心部から横浜市の金沢に抜ける金沢街道沿いにある。境内は南に開けた谷の中央に位置し、西には杉本寺と杉本城址、東は胡桃ヶ谷(くるみがやつ)があり、南に衣張山を望む。

鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していた。現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなど、その名残を残している。寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。境内墓地には足利貞氏の墓とされる宝篋印塔がある。

沿革

足利義兼による文治4年(1188年)の創建と伝えられる。初めは極楽寺という密教真言宗)の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257~1259年頃)とみられる。[2]

  • 文治4年(1188年):極楽寺創建。開山は退耕行勇、開基は足利義兼
  • 建久9年(1198年):足利義兼は秘蔵の弘法大師筆の荒神・不動の二軸を刻ませた。
  • 正治元年(1199年):源頼朝・足利義兼が没し、北条政子は前年作成の荒神・不動を寺門の右の小高いしげみの「本寂堂」に安置したという。
  • 建暦2年(1212年):源実朝足利義氏に命じて造営を加え、母北条政子白檀の弥陀の立像と新造の釈迦像を安置したという。
  • 正嘉元年(1257年)~正応元年(1288年)ごろ:蘭渓道隆(建長寺開山)の弟子の月峰了然が住持となって禅宗の寺院となり、「浄妙寺」に改名した。
  • 正平6年(1351年)浄妙寺境内の延福寺に足利直義が幽閉される。翌年2月26日急死。
  • 延文2年(1357年):火災。
  • 延文3年(1358年):鎌倉五山第五位の寺とされる。ただし、この時点では未確定。
  • 至徳3年(1386年7月10日足利義満鎌倉五山第五位の位次を決定した。寺は最盛期を迎え、塔頭23院を有した。後、火災などで衰微する。
  • 応永31年(1424年):火災。
  • 永享10年(1438年):火災。但し、永享の乱の際に三浦時高が付近に火を放ったことによる推定という。
  • 文明18年(1486年):尭恵は『北国紀行』に「浄妙寺に入りて見るに、台あれて春の草にかたぶき、ひはだ朽ちて苔のみどりにひとし」と記している。
  • 宝暦6年(1756年):仏殿を再建する。

境内

  • 本堂 - 寄棟造、銅板葺(もと茅葺)。平面は方丈形式の六間取りとする。江戸時代中期の建物だが、仏壇周辺などには室町時代の材が用いられている。[3]
  • 喜泉庵 - 天正年間(1573 - 1591年)に建立された茶室喜泉庵を復興したもの。枯山水庭園があり、有料で茶菓が供される。
  • 稲荷山 - 寺の裏山で、藤原鎌足が子孫のために「霊鎌」を埋めた地とされ、これが「鎌倉」の地名由来となったという伝承がある。複数ある「鎌倉」の地名由来伝承の一つである。鎌足稲荷神社の小祠がある。
  • 宝篋印塔 - 本堂裏の墓地に足利貞氏の墓と伝える明徳三年(1392年)銘の宝篋印塔がある。基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。

境内は国の史跡に指定されている(1966年11月2日指定)。境内は梅、つばきぼたんサルスベリいちょう紅葉などの名所として知られる。

周辺

  • 室町時代には浄妙寺の東側に足利公方屋敷が構えられ、足利尊氏やその子孫が居住していた。
  • 境内に隣接して大休寺跡と延福寺跡がある。大休寺は足利直義(尊氏の弟)の菩提所、延福寺は足利高義(尊氏の異母兄)が母の追善のために建てた寺である。寺の西側の熊野神社付近が大休寺跡、裏山のカフェレストラン付近が延福寺跡である。
  • 原節子の主演映画「山の音」(原作川端康成)には近くの「稲荷小路」や「報国寺」なども出てくる。

文化財

  • 木造退耕行勇坐像(国の重要文化財) - 行勇唯一の肖像で、鎌倉時代の頂相彫刻の優品。像高66cm。切れ長の目、頬骨が突き出た容貌は個性的であるが、衣の彫刻は定型化し、腕や足の存在感は希薄で、行勇没後十数年後に現在は失われた紙形か肖像画を元に制作されたと推測される[4]
  • 木造藤原鎌足
  • 木造淡島明神像
  • 紙本墨画浄妙寺境内図 - 江戸後期の想像図とされる。外門、惣門、三門、仏殿、法堂方丈、禅堂、経堂、鐘楼などが描かれている。

所在地・アクセス

  • 鎌倉市浄明寺3丁目8番31号
  • 鎌倉駅から京急バス金沢八景、太刀洗方面行きに乗車し「浄明寺」で下車。徒歩数分。
  • 拝観は有料。仏像の拝観は要予約。

ギャラリー

脚注

  1. ^ a b c 新編鎌倉志 1915, p. 42.
  2. ^ 『鎌倉の古寺』(JTBキャンブックス)、p.50
  3. ^ 『かたちの美 やさしい古建築の味わい方』、pp.40 - 41
  4. ^ 東京国立博物館ほか編集 『開山・栄西禅師八〇〇年遠忌 特別展 栄西と建仁寺』 読売新聞社ほか発行、2014年3月25日、pp.82、278。

参考文献

  • 山形雄三監修『かたちの美 やさしい古建築の味わい方』、潮音会、1994
  • 『鎌倉の古寺』(JTBキャンブックス)、日本交通公社出版事業局、1996
  • 河井恒久 等編 編「巻之二 浄妙寺」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、42頁。NDLJP:952770/36 

関連項目

外部リンク