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* [[小学館]]『[[GORO]]』1982年3月11日号「成熟した女を愛せないロリコン・ボーイの世界からキミは本当に脱出しているか」 |
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* [[アニメージュ]]増刊『[[プチアップルパイ|アップル・パイ 美少女まんが大全集]]』[[徳間書店]] 1982年3月 |
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* みのり書房『月刊OUT』1982年4月号 |
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** 米沢嘉博「ロリコンブームに物もうす」([[二次元コンプレックス]]に警鐘を鳴らす記事。最下段にそれまでの流れも概説) |
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** 目方海里「ロリコンマンガ・ブームの裏に潜む現代社会の抑圧された性」 |
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* [[創 (雑誌)|創出版]]『[[創 (雑誌)|創]]』1982年12月号 |
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* [[朝日新聞社]]『[[朝日ジャーナル]]』1984年5月14日号 |
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** 米沢嘉博「『美少女』たちを主人公にしたロリコンブームは、いま同人マンガ誌の世界で大盛況だ。『レモンピープル』を筆頭に同人誌的な季・月刊誌、単行本が、かつての『ガロ』『COM』のような勢いなのだ」 |
** 米沢嘉博「『美少女』たちを主人公にしたロリコンブームは、いま同人マンガ誌の世界で大盛況だ。『レモンピープル』を筆頭に同人誌的な季・月刊誌、単行本が、かつての『ガロ』『COM』のような勢いなのだ」 |
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** 池本浩一「なつかしの業界ケンカ史─ブリッコ盛衰記」 |
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* 宝島30編集部+[[東京公司]]『[[宝島30]]』1994年9月号、[[宝島社]]、1994年9月8日。 |
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* [[パルコ出版]]『流行観測アクロス』1996年9月号 |
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** [[竹熊健太郎]]×[[岡田斗司夫]]「オタク・サブカル大放談(4) オタク最大のタブーに迫る オタクセックスとは?」 |
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2021年12月5日 (日) 15:52時点における版
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シベール | |
---|---|
Cybele | |
『シベール』外観 何ひとつ表記のない黒一色の装幀が特徴的 | |
愛称・略称 | シベ・黒本・黒シベ |
ジャンル |
男性向創作系 ロリコン漫画 アニパロ漫画 近親相姦 百合・レズ 獣耳・ケモノ SF・不条理ギャグ ジュブナイルポルノ 二次元コンプレックス |
読者対象 | 青年・おたく |
刊行頻度 | 季刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
定価 | 300円(Vol.5以降400円) |
出版社 | 無気力プロ |
編集部名 |
シベール編集部 →グループ・シベール |
発行人 | 吾妻ひでお |
編集長 | 沖由佳雄 |
制作協力 | 蛭児神建=アリスマニア集団・キャロルハウス出版部 |
刊行期間 | 1979年4月8日 - 1981年4月5日 |
発行部数 | 50 - 500部(虫塚虫蔵調べ) |
特記事項 | 成人向につき18歳未満閲覧禁止(コミックマーケットで頒布された男性向けエロ同人誌の記念すべき第1号) |
『シベール』は、吾妻ひでおの漫画制作プロダクション「無気力プロ」のシベール編集部が、コミックマーケット(コミケ)11〜17で販売していた日本初のロリコン漫画同人誌。1979年4月に創刊され、1981年4月の第7号で終刊した。誌名は吾妻ひでおの命名で、映画『シベールの日曜日』に由来する[1]。黒一色の表紙で、紙袋やビニール袋に入れられて[2][3]人目を忍ぶように販売されていたため「謎の黒本」とも称された[1][注釈 1]。なお『シベール』はコミケで行列が出来た最初の同人サークルといわれる[5][1]。
同誌は「男性向けエロ同人誌」の草分けかつ立役者的役割の同人サークルで、コミケ黎明期における「ロリコンブーム」の起点となったことで名が知られる。また、同誌の潮流は『レモンピープル』『漫画ブリッコ』を始めとする美少女コミック誌の成立に多大な影響を与え、その後の美少女アニメや美少女ゲームの発展にもつながった。現在では資料的価値も指摘されているが[6]、同人誌というメディアの性質上、国立国会図書館など公共機関での所蔵は皆無に等しく[注釈 2]、全体を目にすることは極めて困難となっている。
主な執筆者はシベール編集部の吾妻ひでお、沖由佳雄、蛭児神建、仁科蒼一、孤ノ間和歩、計奈恵、豊島ゆーさく、三鷹公一、早坂未紀、森野うさぎ、川猫めぐみ、海猫かもめ等で全員別名義で描いている[7][8]。
本項ではロリコンブームの火付け役[9]となった自販機雑誌『少女アリス』(アリス出版)および『少女アリス』に吾妻ひでおが連載していた成人向け漫画作品である『純文学シリーズ』についても解説する。
歴史
シベールの発刊まで
『シベール』は吾妻ひでおの仕事場「無気力プロダクション」[注釈 3]に集まった有志数人により創刊された日本初の男性向けエロ同人誌である。『シベール』の主力作家は、漫画やアニメの愛好家が出入りしていた江古田の喫茶店「まんが画廊」に置かれていた「らくがき帳」[注釈 4][注釈 5]に常連客が残した落書きをみて、吾妻のアシスタントであった沖由佳雄がスカウトしてきた数名の同人で構成された[11][12]。この中には『シベール』に先駆けて日本初のロリコン同人誌『愛栗鼠』を1978年12月17日の「コミックマーケット10」で発表し、後に「ロリコンの神様」と呼ばれるようになる蛭児神建もいた。
吾妻によると本誌は「コミケからやおいを駆逐する」目的で創刊したとのことで、これは同誌のスローガンにもなった[2]。コミックマーケット準備会の資料などによれば、最初期のコミケットに訪れる参加者の9割以上が女性、花の24年組を筆頭とする少女漫画ファンを中心とした女子中高生や漫画誌『COM』の流れを汲む漫画研究会の大学生などであり[13][14][15][注釈 6][17][18][19][20]、流行していたのも『ポーの一族』の下ネタパロディ『ポルの一族』[注釈 7][15][21][22]をはじめとする「やおい」ものや、『宇宙戦艦ヤマト』ないしサンライズ作品などに登場する美形悪役キャラの同性愛を扱ったものばかりであったことから[2][17][20][23]、ロリコン漫画の出現とは「やおい」が席巻するコミケという場へ向けた、男性側からの一種のカウンターカルチャーであったのだという[24]。
蛭児神建も「やおいがあったからこそ『シベール』ができたということもあるわけです」「ロリコン同人誌を作ること自体、勇気が要ることだったんですよ。やおいがなければ、それをやる勇気はなかったかもしれません。やはり、いくら迫害されてもしようがないという意識があったわけです」と後年回想しており[25]、森川嘉一郎はコミケにおける「やおい」の隆盛について、「それに対する対抗意識と同時に、アニメの、もしくはアニメ調の絵柄のエロパロが許容される場をそこに形成し、 ロリコンマンガの発表を促していたのである。その意味では、やおいはロリコン同人誌の母だったとさえいえるかもしれない」と評している[26]。
また当時の一般的な男性向けエロ漫画はリアルタッチの三流劇画がほとんどで、『シベール』をはじめとするロリコン漫画の出現は「手塚治虫や石ノ森章太郎のような丸っこい記号的な絵柄でもセックスが描ける」という「かわいいエロ」[27]ないし「エロかわいい」という現代の日本的美意識の発見と革命をもたらしたとされる。実際、吾妻と沖によれば同誌を創刊した背景には当時の三流劇画ブームに対する強固な反発心が根底にあったという[28][29][30]。
日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』創刊
創刊号はB5判26ページのコピー誌で、何も印刷されていない黒色無反射ラシャ紙を表紙にした不気味な装幀だった[31]。創刊号の原稿は吾妻ひでお、沖由佳雄、蛭児神建、そして蛭児神の紹介で加わった仁科蒼一の4名で構成され[32]、併行して蛭児神は『愛栗鼠』の臨時増刊号『ロリータ』を準備し(吾妻は1ページ漫画「美少女製造の手引き」を寄稿)、1979年4月8日に開催されたコミックマーケット11(大田区産業会館)において両誌は隣り合うスペースで頒布された[32]。
なお、吾妻と沖はトラブル回避のためか、C11の実質的な主催者であった「迷宮'79」の米沢嘉博(のちにコミックマーケット準備会2代目代表)と事前に打ち合わせを行っており、吾妻は「無理言ってコミケに潜り込ませてもらいました」と後年述懐している[33]。また蛭児神の証言によれば両誌は袋に入れて糊付けし、とじ目に赤くマル秘の印を押して売っていたとのことで「世間の冷たい視線の痛さが何故か快感で、マゾヒスティックな喜びに震えていた。売り手と買い手の共犯意識による友情に私の体は火照っていた」と当時の心境を振り返っている[2]。
創刊当時の逸話として、創刊号を出した後、事情を知らない吾妻ファンが読者集会に同誌を持参してきて「これ、先生のにそっくりですよ」とわざわざ突っ込みを入れてきたというが、吾妻は「本当に似ているな。なかなかうまいじゃない」と誤魔化したと語っている[34]。また当時はメジャー少年誌・少女誌で活動しているプロの現役漫画家が、成人向け同人誌に作品を執筆するということはタブーに等しく、吾妻ファンでヒルダコン[注釈 8]の少女漫画家・和田慎二を『シベール』に同人として勧誘する案も当初はあったものの「それはやっぱしアカンじゃないかい」という吾妻の鶴の一声で取りやめになった。これについて蛭児神は「やはり吾妻先生としては、メジャー作家を巻き込むのは不味いと思われたのだろう」と語っている[35]。
孤ノ間和歩と計奈恵の参加
この頃、編集長の沖がまんが画廊の「らくがき帳」を通じて孤ノ間和歩と接触し[11]、それに伴い弟子の計奈恵も2号目から本誌に参加したが、計奈は「真っ黒い本で殆ど手に取ってもらえなかった」と証言しており、グループ客も「こんな本売っていいのか」と立ち読みで騒ぐだけで、そのまま買わずに通りすぎて行ったというが、例外的にその中のひとりが後でこっそり戻ってきて、中身も見ずにお金だけ置いてすぐに帰っていったと回想している(この出来事を計奈は「こっちは、そういうのを見て『仲間』と思ってた。僕にとっては同志を見つける気持ちでしたね」と述懐する)[36][37][38]。
こうしたエロ本を買う時にありがちな気恥ずかしい状況[38]が急変するのは吾妻がコミケに行かなくなった[39]3号目(1979年冬のC13)からで、この日は開場前から人だかりが出来ており、当時のコミケには開場前行列という概念が存在しなかったため、不審に思った会場スタッフが参列者に同誌の購入希望者かどうか尋ねると、ほとんどの人が満面の笑みで一斉に挙手したという[37][40]。
シベール同人について
- 漫画家。1950年に北海道浦幌町で生まれる。1968年に上京後、工員などの職を経て板井れんたろうのアシスタントを務める。1969年に『まんが王』(秋田書店)12月号付録に発表した『リングサイド・クレイジー』でデビュー。その後、1972年から『週刊少年チャンピオン』に連載した『ふたりと5人』で人気作家となる。1970年代は『二日酔いダンディー』『エイト・ビート』『きまぐれ悟空』『やけくそ天使』『チョッキン』『おしゃべりラブ』『ちびママちゃん』『翔べ翔べドンキー』『やどりぎくん』『スクラップ学園』(すべて秋田書店)などのナンセンスギャグ浸画で人気を得る一方、1978年の『不条理日記』を皮切りに発表した一連の作品がSFファン・漫画マニアに熱狂的に受け入れられ、そのマニアックなSFパロディと革新的なギャグセンスから今日の不条理漫画の先駆けになる。また1978年にニューウェーブ漫画誌『Peke』(みのり書房)で連載した『どーでもいんなーすぺーす』によって1980年代に「ロリコンまんが」と呼ばれることになるSFと美少女を中心とした先鋭的な作風をいち早く確立する。1979年4月から日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』(無気力プロ)を自費出版。さらに並行してアリス出版の自販機本『少女アリス』(川本耕次編集)に『陽差し』『海から来た機械』など「純文学シリーズ」と呼ばれる作品群を発表し、一連の作品で性的表現の中に手塚治虫を系譜とする戦後漫画の正統的な絵柄と少女漫画の内面世界を持ち込んだ[41]ことから今日の「美少女」「萌え」につながる「おたく」的表現に決定的な影響を与えた。その後も『ななこSOS』『おちゃめ神物語コロコロポロン』などの人気作品(2作品ともテレビアニメ化された)を精力的に発表するも、創作に行き詰まり、1989年11月と1992年4月に突如失踪、1998年12月にはアルコール依存症で入院する。その経緯を描いた自伝『失踪日記』(2005年)はロングセラーとなり、第34回日本漫画家協会賞大賞、第10回手塚治虫文化賞大賞、第9回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞したほか、2019年10月にはイタリアのグラン・グイニージ賞のRiscoperta di un’opera(再発見された作品)部門を受賞する。2019年10月13日没。
- 吾妻ひでおのアシスタント。『シベール』創刊編集長兼スカウト係[12]。同人サークル「グループ601」主宰。吾妻の漫画『オリンポスのポロン』に登場するエロースや『ななこSOS』に登場するDr.チャバネのモデル。『アニメック』で商業誌デビュー後、蛭児神建編集のモンド系ロリコン漫画雑誌『プチパンドラ』などにも執筆した[42]。
- 作家・編集者・僧侶。ロリコンの神様と呼ばれた伝説的人物。東京都生まれ。1978年に日本初のロリコン文芸誌『愛栗鼠』を創刊。その後『シベール』創刊参画を経て、過激派ロリコン同人誌『幼女嗜好』『SMロリータ』(変質社)をコミケットで発表。1980年代に巻き起こったロリコンブームの立役者・教祖的存在となる。また当時のコミケットには髪を腰まで伸ばし、ハンチング帽にサングラス、トレンチコートにマスク、プティアンジェ人形を逆さまにぶらさげた変質者スタイルで出没[46]していたことから吾妻ひでおの漫画『ななこSOS』『スクラップ学園』やアダルトゲーム『ALICE』などに登場する変質者のモデルにもなった。1982年には商業誌初のロリコン漫画雑誌『レモンピープル』でプロデビュー。1984年から雑誌『プチパンドラ』(一水社)の編集長に就任するが、1987年に引退・絶筆する。後に出家。その経緯に関しては2005年に上梓された自伝『出家日記―ある「おたく」の生涯』(角川書店)に詳しい。
- 仁科蒼一(にしな そういち)
- パロディ漫画家。蛭児神建が初参画した漫画評論サークル「ユニオン・エカルテ」主宰者。吾妻ひでおの漫画に登場するモブキャラクターのモデルのひとり。みのり書房発行の『月刊OUT』『ランデブーコミック』でも活躍した。後に蛭児神の仲介で『シベール』創刊に参加する[2]。
- 漫画家。孤ノ間和歩の弟子。くりいむレモンシリーズ『SF・超次元伝説ラル』『STAR TRAP』キャラクターデザインを孤ノ間和歩と共に担当。『アニメック』でプロデビュー後『漫画ブリッコ』を経て『月刊少年ガンガン』など少年誌にも執筆するかたわら「和猫」名義で成人向け漫画も執筆した。吾妻ひでおの漫画『ななこSOS』に登場する国際セル密売組織の男のモデル。
- 豊島ゆーさく(とよしま ゆーさく/豊島U作)
- 漫画家。東京都生まれ。中村プロダクション出身の元アニメーター[48]。I.N.U.(いぬねこうさぎざえもん)名義にて同人誌で活躍。ケモナーの先駆者で『シベール』時代からケモノを描き続けてきたケモロリおたくの最古参[49]。大塚英志編集のアンソロジーコミック『美少女まんがベスト集成3 プチアップル・パイ』(徳間書店/1983年6月)に発表した『きゃっとがーる』でデビュー。1986年に初単行本『硝霊島』(白夜書房)を上梓。1992年からは同人誌『獣姦王』を創刊し『キャッ党忍伝てやんでえ』や『RPG伝説ヘポイ』のミーヤ・ミーヤなどメスケモを題材にした成人向け漫画をあさりよしとおらと共に次々と発表していた[注釈 9]。なお『シベール』の頃「抜けシベ」を考えていた児童漫画志望[50]の計奈恵に「まんが画廊でロリコンと呼ばれ、今ここ(無気力プロ)を抜けるお前に行く所があるのか?」と釘を刺して退路を断たせ[28][51]、三流劇画誌『漫画大快楽』(檸檬社刊)に谷口敬の起用を投書で推薦するなど[52]、当時のロリコン文化にも少なからず影響を残している。代表作に『下品な魔法使いケツメドアナル』など。
- 三鷹公一(みたか こういち)
- 兵庫県出身。岡山大学卒業。望月三起也、吾妻ひでお、みやたけしの元アシスタント。小学館の学年別学習雑誌やコロコロコミックなど小学生向けの漫画雑誌でも執筆。また、吾妻ひでお原作のテレビアニメ『ななこSOS』の絵本は三鷹が作画を担当している。
- 富山県出身。和田慎二、吾妻ひでお、村上もとかの元アシスタント[12]。同人サークル「トラブルメーカー」所属。1980年に同人誌『フリス』を自費出版。その後、大塚英志が編集していた漫画雑誌『リュウ』『プチアップルパイ』『漫画ブリッコ』などにも執筆し、かがみあきらやあさりよしとおらとともに1980年代前半を代表する美少女SF漫画家として知られた。しかし現在は消息を絶っている模様である[53][54]。
- 漫画家・イラストレーター・キャラクターデザイナー・同人作家。現在の萌え属性につながる「ぷにロリ」の元祖的存在[55]。あさりよしとおやふじたゆきひさらが参画した同人サークル「スタジオ・アオーク」主宰[56]。同人サークル「うさぎ幼稚園]」主宰[注釈 10]。クリエイター集団「いちごはうす」メンバー。また「影夢 優」(えいむ ゆう)名義で成人向け漫画も執筆している。コミケ参加当初は同人誌経験もない高校生だったが[57]、まんが画廊でスカウトされる形で『シベール』に参加する[58]。その後「メカと少女」をテーマにした先駆的なロリコンSF漫画同人誌『TEKUNO RORIA』(STUDIO BAKI)を豊島ゆーさくらと創刊し[58]、二大ロリコン漫画誌『レモンピープル』『漫画ブリッコ』でも活躍する。1984年から同人アニメ『AWAKE』[注釈 11]を自主制作するため同人サークル「スタジオ・アオーク」を結成[58]。これを皮切りに大塚英志原案のアダルトアニメ『魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく』(白夜書房)やテレビアニメ『おやゆび姫物語』(テレビ東京)のキャラクターデザインのほか、スーパー戦隊シリーズ『光戦隊マスクマン』『超獣戦隊ライブマン』や宇宙刑事シリーズ『宇宙刑事ギャバン』『宇宙刑事シャリバン』の怪人デザインなども担当した。
- 『AWAKE』制作後は「スタジオ・アオーク」を解消して同人サークル「SYSTEM GZZY」に移行し、1990年から近親相姦をテーマにした代表作『遊裸戯』シリーズ(影夢優名義)を発表、米沢嘉博から「ちゃんとエロチシズムと少女をテーマにした『作品』が、おそらく初めて同人誌界に誕生することになるだろう」と評された[59]。1980年代に頒布した主なロリコン同人誌に『ま』『ん』『GSPOT』『ZZ』『XSEED』[60]『学習漫画・保健4・女体のひみつ』[61]などがある。
- 漫画家・愛猫家・同人作家・路上詩人[12]。神奈川県横浜市出身[62]。女性。1973年にトキワ松学園女子短期大学卒業後[62]、1974年に『蒼い馬I』(北冬書房)に「花帽子―宵の秋」発表。その後、北冬書房の『夜行』などに四畳半フォーク調で幽玄的雰囲気を漂わせた叙情派作品を発表していた。1976年には『週刊漫画ジョー』(廣済堂出版)に「半夏生」を発表し、一般誌デビュー。1979年には『月刊セブンティーン』(集英社)に掲載した「知らない明日へ」で第1回新人グランプリ努力賞を受賞した。1980年に初単行本『どこか遠い虹の国』(集英社セブンティーンコミックス)上梓。以後フリーとなり、川本耕次監修の美少女専門誌『ロリコンHOUSE』(三和出版)や『シベール』の後継同人誌『アスケロン』(ぐるーぷティンカーベル)のレギュラー作家となる[63][64]。この頃からデフォルメ系少女漫画調のスタイルを確立し、ファンシーかつエロティックな世界観で知られた。主な漫画作品集に『川猫めぐみ没作品集―星野原紙芝居』(虎馬書房・1983年)や『しましまBOOKS』(けいせい出版・1986年)がある。2008年に公式ホームページを開設。並行して雑貨販売や音楽活動を行うなど、現在も精力的に創作活動を行っている。
- 海猫かもめ(うみねこ かもめ)
※上記人物のうち、吾妻、沖、蛭児神、仁科、計奈、孤ノ間、豊島、森野、早坂、川本は、吾妻の漫画にサブキャラクターとしてたびたび登場する。
自動販売機雑誌『少女アリス』に「純文学シリーズ」連載開始
1979年冬には業界最大手の自販機本専門出版社・アリス出版の看板雑誌『少女アリス』の川本耕次編集長(三流劇画ブーム・ロリコンブームの仕掛け人)[注釈 12][66][67][68]から吾妻のもとに「ロリコン(美少女)ものを描いてください。純文学みたいなやつ」という依頼があり[69][70]、商業誌初のロリコン漫画「純文学シリーズ」を1980年1月頃から1980年9月[71]まで連載する(1981年7月に奇想天外社から『陽射し』として単行本化された)。
この連作は吾妻が得意とするギャグやSFを離れ、叙情的に描かれた美少女のエロティシズムを明確なテーマとしており、後のロリコン漫画〜美少女コミックに直結する最重要作品群とみなされている。大塚英志は著書『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書, 2001年)で「これは戦後まんが史における恐らくは最初の確信犯的な『ロリコンまんが』です。もちろんそれ以前にいくつか手塚的記号絵に近い作風でエロを描いた作品はなかったわけではありません。けれどもこの連作は手塚的記号絵の正当な後継者による、しかも作品としても高い水準のものでした」と同作品を非常に高く評価し、「吾妻ひでおはいきなりこの連作で『ロリコンまんが』の到達点ともいえる水準を示しているのであり、それ以降の今日に至るまでの20年間に描かれたこの種のまんがは吾妻ひでおの縮小再生産でしかありません」と絶賛した[72]。
また大塚はメジャー少年誌で活動していた吾妻が突如としてアリス出版の自販機本にロリコン漫画を発表したことを「漫画の世界で表と裏の境界を低くする動きの始まりであった」と評価している[73]。そのため大塚は吾妻のことを
- 「まんが界の中にあった少年週刊誌を頂点とするヒエラルキーを最初に崩した一人」[74]
- 「少年誌出身のまんが家がエロ雑誌に書くことは凋落を意味したが、わずか数年の後の吾妻ひでおの時代にはむしろそれは快挙となる」[75]
- 「メジャー少年まんが誌のまんが家が、自販機本というエロ本の中でも最底辺であるメディア[76]に現役のまま登場するというのはあり得ないことでした。もちろんこういった壁はばかげたものでしかありません。そして吾妻ひでおはこの壁を最初に乗り越え無化していったまんが家だった」[77]
と日本の漫画史におけるエポックメイキングな存在として位置づけている。
なお大塚が言うように、メジャー少年誌・少女誌で活動するプロの漫画家が、同人誌のみならず「最底辺のエロメディア」[76]と呼ばれた自販機本に成人向け漫画を発表することは当時としても前代未聞のことであった(吾妻によれば、古巣の秋田書店から警告を受けていたが無視したという[78])。このような経緯から吾妻ひでおは商業誌・同人誌ともにロリコン漫画の開拓者とみなされている。
シベールの終刊
ほどなく巷では吾妻の新作を求めて『少女アリス』(アリス出版)が売られている自動販売機を捜し歩くマニアが続出し[79][80][81][82]、同じく『シベール』も列整理が必要となる最大手の壁サークルに急成長する[83]。その人気を決定づけたのがアニメ雑誌『月刊OUT』(みのり書房)1980年12月号に掲載された「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータ・コンプレックス」という記事の中でコミックマーケット準備会代表の米沢嘉博が「コミケットなぞで見かけたら買っておくこと。汚染度90%である」と同誌を取り上げたことで、その名をアニメファンに広く知らしめるきっかけとなった[80][84]。
しかしブームの折りから次第に吾妻をはじめとする参加者の本職が忙しくなり[36]、それに加えて同誌に追随する複数のロリコンファンジンも現れ始めたことから「やるべきことはやった」という確信のもと[85]、コミックマーケット17(1981年4月5日)で頒布された7号目を最後に本誌は終刊宣言する。なお終刊号の行列は発売前から100人前後にまで達し[86]、この中にはデビュー前の「森山塔」こと山本直樹も並んでいたという逸話がある[87]。
コミケットのみならず一般にもロリコンブームを巻き起こした同誌の存在は終刊後すぐに伝説化した[86][88]。まず志水一夫(原丸太)が「終刊半年足らずにして伝説的存在に」と『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号のロリコン特集「ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」やアニメージュ増刊『アップル・パイ 美少女まんが大全集』(1982年3月)の寄稿記事などで同誌を布教して回った[89][90][91]。続いて米沢嘉博(阿島俊)が『レモンピープル』創刊号(1982年2月号)から連載を開始した「同人誌エトセトラ[注釈 13]」第1回で「今や神話となった幻のシベール」と同誌を神格化して紹介する[3]。結果として同誌は彼らの批評によって伝説化・神話化がより強調されることになり、終刊後も知名度の上昇に貢献したことは否めない。実際、吾妻は「米沢さんが評論をいっぱい書いてくれたので私は漫画史に名前が残ります」と感謝の弁を述べていた[33]。
『シベール』神話に関して同人の計奈恵は、新宿Naked Loftのトークイベント「プレイバック’80年代〜あの頃の美少女漫画の話をしよう」(2016年10月30日)出席時、同席者から『ミャアちゃん官能写真集』(吾妻ひでおが1981年夏のC18で頒布した伝説的同人誌)の話が出た時、当時からすでに「伝説のシベール」と扱われるような状況だったと述べており、「美少女漫画の黎明期を語る」という趣旨のイベントだったにも関わらず、最古参の計奈は同席者との会話に全く付いて行けなかったと苦笑する[92]。さらに計奈は吾妻ひでおファン葬(2019年11月30日)参加時も「知ってる人がいなかった」と語っており、同人の孤ノ間和歩ともども「確かに吾妻先生と美少女同人誌の歴史に居たけど、私ら〔シベールメンバー〕ってミッシングリンクだよね」と述懐している[93]。また大塚英志も「結局、あの後『シベール』の人たちよりもう一つ下の世代が次々出てきて、そっちの連中の方がもっとエロとしては過激なものを描いてたんで、わりと『シベール』の人たちはそういう世代の狭間にはまっちゃったみたいなところがあった」「吾妻ひでおの許に集まった創世記のロリコン/美少女まんがの描き手たちは、その後にやってきた世代に呑み込まれる形でフェードアウトしていかざるを得なかったが、たいてい新しいジャンルやスタイルのおいしいところは二世代ぐらい後にやってきた一群が全てさらっていくものだ」と語っており、黎明期のロリコン漫画家たちがミッシングリンク化している状況を認めている[94][95]。
シベール・メンバーのその後
吾妻ひでおが定型化したロリコン漫画の形式は、その周辺にいた同人作家たちに継承され拡散していった[96]。吾妻は1979年4月から1981年8月までの約2年間の活動で同人誌や自販機本といったアンダーグラウンドなインディーズメディアを通して以降の漫画状況をメジャー・マイナーを問わず決定的に変え、それを1980年代以後のおたく文化に繋いだ。そしてこれは無気力プロに集まった同人全員が全速力で駆け抜けた「奇跡の2年間」でもあった。
蛭児神建は1980年から自身が主宰する「変質社」に移り、過激派ロリコン文芸誌『幼女嗜好』を発行。ロリコン界の教祖的存在としてコミケに君臨する[46][97]。それ以外のメンバーは「グループ601」「ぐるーぷティンカーベル」「STUDIO BAKI」に分かれ、本誌終刊後も活動を継続した[64]。
「グループ601」は『シベール』元編集長の沖由佳雄が主宰する同人サークルであり、1981年12月に創刊された後継同人誌『エピカル』には『シベール』出身メンバー(計奈恵、孤ノ間和歩、三鷹公一、豊島ゆーさく、仁科倉一)も多数参加していた。しかし、その後は離合集散を繰り返し、やがて見解の相違などから一部の初期メンバーが分派・独立した結果、シベール時代の痕跡は跡形もなく雲散霧消した[94][98][99]。
一方「ぐるーぷティンカーベル」は、ファンタジー路線を基調にした創作系同人誌『アスケロン』や批評誌『アーケロン』を定期刊行し、沖由佳雄、豊島ゆーさく、計奈恵、森野うさぎ、川猫めぐみ、よしき志信、毛羽毛現、さえぐさじゅんらが原稿を寄稿した[64][100]。
森野うさぎ主宰の「STUDIO BAKI」は、後に壁サークルとなるクリエイティブ集団「スタジオ・アオーク」[56]に発展し、自主制作アニメ『AWAKE』[注釈 14]の製作を主軸にその資金稼ぎ[58][64]として同人誌以外に『漫画ブリッコ』誌上でメディアミックスも展開し、第2次ロリコン商業誌ブームの嚆矢となる[101]。さらに1985年には活動拠点であった白夜書房を製作母体に大塚英志原案のアダルトアニメ『魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく』の企画制作も行なった[56]。主なメンバーは森野うさぎ、豊島ゆーさく、あさりよしとお、来留間慎一、『プラモのモ子ちゃん』作者のふじたゆきひさ、『レモンピープル』読者欄担当のくあTERO、エディターの町田知之の7人で構成され[64]、編集者の池本浩一はサークル主宰者の森野うさぎについて「彼こそが、それまで夢のまた夢のように思われてきた『同人誌の商業化』という概念をモデル化し、また初めての実証実験にも成功して、のちに〈まんがの森商法〉とも呼ばれるようになる『同人誌リンケージによる複合的な利潤追求』を完成させてしまった第一人者。彼の活躍がなかったなら『販売活動を重視したサークルによる同人誌制作』が全盛となることもなかった」と評している[101][注釈 15]。
シベール以後―ロリコン文化の浸透と拡散
『シベール』は初期のコミケでブームを呼ぶも早期に終刊したが、日本漫画界ならびにコミックマーケットに与えた影響は計り知れず、これを嚆矢として1981年夏のC18ではロリコン同人誌が氾濫するに至り[103]、その後のロリコンブームの直接的な起爆剤となった。志水一夫はロリコン漫画同人誌ブーム到来と共に本誌が突然廃刊したことで、欲求不満になった有志が次々にロリコン同人誌を出しはじめたと言い「盛り上がったところで消滅しちゃったもんだから、どんなモノでも売れた」と述懐している[104][105]。
なお当時流行していたロリコン漫画というジャンルは頽廃的な幼女趣味に基づく漫画表現のみを単純に指していたわけではなく[106]、SFアニメや特撮などに育てられた若い世代の描き手たちが生み出した「パロディ的・アニメ的で必ずといっていいほど美少女が登場するような作品群」を半ば冗談で括ったネーミングとして現れたもので、広義の意味では「美少女をキーワードとする新しい感覚の少年漫画」[107]全般を指していた(米沢嘉博は同人誌における少年漫画がロリコン漫画によって「復権」したと結んでいる)[108][109]。
また志水によれば、それ以前から類似同人誌に存在していた「メルヘンチックな、あるいはオトメチックなかわいいものに接したい」「エロチックな、あるいはセクシャルなものに接したい」「(主にアニメの)ひいきのキャラクターに接したい」という3つの異なる志向がロリコン漫画ブームにより部分的に重なり合ったと言い[110][91]、その結果「ロリコン」は美少女を素材とした広い意味でのファンタジー表現を包括する概念として汎用化され[111]、このジャンルは後に「美少女コミック」として括られることになる。
おたく文化におけるロリコン文化の受容と拡散について、コミックマーケット準備会2代目代表で漫画評論家の米沢嘉博は次のように説明している。
ロリコンは、吾妻ひでおブームと重なって出てきた。マンガの中の少女のエロチシズムを認め、自覚しようとするものであり、当初提唱された概念は、今で言う「萌え」に非常に近い。即物的な少女姦、ペドフィリア、ではなく、精神的な「少女」への愛しさ、自らの子供時代に向けた追憶、世界として自律していた「少女」という美など様々なものを含んでいた。小説、映画、絵画などの中に散らばっている「少女」のモチーフのフレクト。無垢な現実の少女たちを、時間を記憶する装置であるカメラやビデオによって、その時を止め置く行為。それは、SEXという行為とは無関係に成立する。かわいさへの憧憬であり、「美」の収集の一つでもあったはずだ。ほんの一時の間、少女は輝き、子供でも女でもない「時間」の中に生きる。それが失われるものであるなら、その刹那的なまでのはかなさを記録しようとすることに、他意はない。ロリコンが、「少女の美」にこだわっていたのは、「少女」という存在が孕む物の大きさ故だったのでもあるのだろう。しかし、それは少女への性犯罪という現実の犯罪と混同され、一方では「ロリコン」という言葉から「商品化された性」として消費されていく、プラグマティックなエロマンガを生み出していった。こうした「ロリコン」の一般化、混乱などが、後に問題を引き起こしていったのかもしれない。
ただ、マンガ状況の中では「ロリコンマンガ」は80〜83年のわずかな時期、マンガの中の「少女」にエロスを感じたり、萌えたりすることの言い訳として、ちょっと危なげでオシャレな言葉として燃え上がっただけだ。少女の美学は、ナバコフ、キャロル、ラスキンといった作家と関係付けて語られ、ペダンティックに取り扱われもしたし、古今東西の文化や芸術も漁られた。それは「JUNE」「耽美」が、ジュネ、澁澤龍彦、三島由紀夫などと共に一つの文学的少女趣味として「少年愛」を語ったのに似ていた。ジュネは、より普通の少年たちによる「やおい」によって一般化したように、ロリコンマンガは、アニメ、少女マンガ、少年マンガなどの絵によって描かれる「エロマンガ」である「美少女コミック」へと一般化し、消えていくことになるのだ。 — 米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 pp.279-280「第35章/ロリコンマンガと美少女劇画」
さらに米沢は吾妻ひでお人気とも重なる同人誌発のロリコンブームについて「“少女”というモチーフを少年漫画や青年漫画の中で浮上させていくだけでなく、SF/ニューウェーブ/少女漫画/アニメ等と結びつかせたことで新世代にとっての心地良さ感覚をエロスとして描いていく方法論を内在させていた」と説明し、昭和30年代以後の世代のためのエロ表現として従来の三流劇画とは一線を画した「アニメ絵によるエロ漫画」が登場したと位置づけている[112]。また、こうした作品への思い入れは青年男性を中心に「二次元コンプレックス」なる現象を生み出すことにもつながっていった[111]。
とりわけ宮崎駿監督『ルパン三世 カリオストロの城』を題材にしたさえぐさじゅんの『クラリスMAGAZINE』や高橋留美子の『うる星やつら』をはじめとするアニメ調や少女漫画風の男性向け同人誌がコミケで急増し[113][114][115]、そこから描き手の供給を得ながらロリコン漫画同人誌ブームのひとつの到達点として1981年12月[116]に商業初の美少女コミック誌『レモンピープル』(あまとりあ社)が創刊される。創刊に際しては米沢嘉博の全面協力[117]のもと、蛭児神建、千之ナイフ、破李拳竜、孤ノ間和歩、森野うさぎ、猫井るとと、MEIMU、阿乱霊、火野妖子らコミケ出身の同人作家が大量に起用されたほか、吾妻ひでお、内山亜紀、中島史雄、村祖俊一、あさりよしとお、御茶漬海苔、ちみもりを、雨宮じゅん、しのざき嶺、新田真子、牧村みき、阿島俊らも執筆陣として参画した[107][118]。
ここまでの経緯を米沢は次のように総括している。
79年末〔ママ〕、たぶん『OUT』で連載されていた「病気の人のためのマンガ考現学」(米沢嘉博)で、さりげなく「シベール」のことが紹介され、「ロリコン」というキーワードがあたえられた時、同人誌は大きく変化し、コミケットでは、シベールに大きな列が出来、混乱が起きた。続く横浜で行なわれたコミケット18では、吾妻ひでおの出した「ミャアちゃん官能写真集」が一人一冊という頒布にもかかわらず1500冊を売っている。そして、この刺激を受けて、ロリコン同人誌と呼ばれる新たな波が同人誌界で生まれるのだ。その方向性は大きく分けて3つあった。一つは、少女という美学にこだわり、キャロル以来の流れにある「ロリータコンプレックス」という「少女妄想」をテーマに創作、研究などを行なう本。ロリコンという言葉をもっと単純に捉えて、女の子の出てくるエッチなマンガ、エロマンガを描く方向。そして、アニメやマンガの中に出てくる少女キャラクターを、男性の性的妄想をテコにパロディにする方向だ。
「シベール」を核にして、同人誌界にはロリコンブームが訪れることになる。アリス、変質社、キャロリータ。さらにピグマリオニズムをテーマにした「人形姫」(サーカスマッドカプセル)。アニメキャラ系では「カリオストロの城」のヒロインを扱った小冊子「クラリスマガジン」。80年から82年、サークルの数は20から30もなかったにも関わらず、女性が8割を占めていた同人誌界に、大量の男性参加者を呼び込むことになっていった。こうした「ロリコン」という方法論、キーワードによって、留美子系サークルなどのジャンルも築かれていったのだ。
一方、創作少女マンガサークルは、JUNE系の特化が行なわれていき、ロリコンにたいする「アダルトコンプレックス」(おじさま趣味)がまのとのま(引用者注:桜玉吉の実姉・真野匡の共有筆名)などを中心に提唱される一方、かわいい系少女マンガの描き手を中心に「ショタコン」という言葉が作られることになる。これらは明らかに「ロリコン」への女性たちの対抗文化であった。
こうした中、初の商業誌としてのロリコンマンガ誌『レモンピープル』が創刊されることになるのである。 — 阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』久保書店 2004年9月 p.22「序章/マンガ同人誌の歴史 〜1981」より抜粋
美少女コミック誌『漫画ブリッコ』とその周辺
コミックマーケットの創設母体となった漫画批評集団「迷宮」と深い関わり[119]のあった村上知彦は、1982年3月発刊の『マンガ宝島』(JICC出版局『月刊宝島』臨時増刊号/高取英編)に寄稿した「ニューコミック派宣言」という記事の中で、1970年代後半に「迷宮」を中心として勃興した「ニューウェーブ」が、少女漫画・三流劇画・アニメ・同人誌などの要素を混然一体と巻き込みながらロリコン漫画(=ポスト・ニューウェーブ・コミック)に移行したと指摘しつつも、その流れが結局は女の子を中心に展開するメジャーな少年漫画(あだち充『みゆき』や鳥山明『Dr.スランプ』など。80年前後からメジャー少年誌を中心にラブコメ作品が大人気となった)の売り上げに奉仕させられているに過ぎないという現状と憂慮を記していた[120]。
そうした状況のなか、ふゅーじょんぷろだくと編集部によるアンソロジー『ロリコン白書─ロリコン同人誌ベスト集成』が同年7月に白夜書房から発売される。内容は同人誌紹介や少女写真、ルポルタージュ、青山正明や蛭児神建らの過去発表済みの原稿など、雑多な記事を寄せ集めたものだったが、ロリコンブームの後押しもあって同書は中ヒットを記録した[121]。
これを契機として同年9月[122]には藤脇邦夫の企画[121]で三流劇画誌『漫画ブリッコ』(セルフ出版→白夜書房)が創刊され、ほどなく先行誌『レモンピープル』の後を追って「夢見る男の子のための美少女コミック誌!」をキャッチコピーに同誌は1983年5月号から突如ロリータ路線に誌面刷新した。この過程で『漫画ブリッコ』は徳間書店の契約編集者[123]であった大塚英志(オーツカ某)と『少女アリス』『Peke』『ロリコン大全集』編集人の川本耕次と関係があった元ふゅーじょんぷろだくと編集部/群雄社の緒方源次郎(おぐゎた)[124]を迎えた二頭体制となる[125][126]。
さらに1983年6月号[127]から中森明夫が『東京おとなクラブ[128]』の出張版[129]として「『おたく』の研究[130]」を全3回にわたり連載し、同誌は「おたく」の語源として日本のサブカルチャー史に名を残すことになった(ただし中森の連載は読者から猛反発を受けた結果、大塚の一存で打ち切りとなる)[125][126][131]。その後、売上不振で休刊が決まっていた同年11月号より表紙を三流劇画出身の谷口敬から少女漫画風のあぽ(かがみあきら)に変更し、アリス出版に嘱託社員として勤務[132][133]していた藤原カムイと、当時10代であった岡崎京子、桜沢エリカ、白倉由美ら3人の非少女漫画系ニューウェーブ女性漫画家[63][126][134][135]を雑誌の主軸とした。結果としてリニュアール号は完売し雑誌の存続が決定する[136]。
なお『漫画ブリッコ』では直接的・実用的な性的描写よりも『シベール』の雰囲気を受け継いだナンセンス色の強い不条理系作品が多く、実際に計奈恵、豊島ゆーさく、早坂未紀、森野うさぎら『シベール』出身の同人作家が執筆陣として関わっていたほか[8]、洋森しのぶ、中田雅喜、寄生虫、早坂みけ、あびゅうきょ、いくたまき、水縞とおる、西秋ぐりん、ちみもりを、ねぐら☆なお、外園昌也、五藤加純、中森愛、悶悶、後藤寿庵、竹熊健太郎、飯田耕一郎ら「一人一派」とも言えるほどの個性的なニューウェーヴ作家が多数起用されていた[137]。言い換えれば、ここに「迷宮」の米沢嘉博や川本耕次らが主導した三流劇画ブーム[119][138]→ニューウェーブ運動[20]→ロリコン漫画革命[139]へと連なる表現運動としてのエロ漫画史の流れが確立したといえる(この潮流は「祭りの時間は終わった」という大塚英志の終了宣言により雑誌を「自殺」させた1985年前後まで続いた)[140]。
ちなみに大塚が『漫画ブリッコ』で唱導した「美少女コミック」とは、成人向け漫画というより「男性も読める少女漫画的なもの」[141][142]ないし「ちょっとエッチで可愛い女の子が出てくる青少年向けのマニア雑誌」[143]という位置づけが強く、作り手も18歳以下の未成年を読者に想定していた節があったため、必ずしもエロ要素は必要条件ではなく「美少女さえ出ていれば何をしてもいい」という非常に自由で実験的な漫画ジャンルだったとされている(同誌の顛末については大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』などに詳しい)[143]。
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といった模倣誌・亜流誌・類似誌・競合誌が雨後の筍のごとく猛烈な勢いで産み出され、このムーブメントはロリータ総合情報誌『ヘイ!バディー』(白夜書房)や川本耕次監修『ロリコンHOUSE』(三和出版)の誌面にも大いに反映された。たとえば前者では蛭児神建が連載に起用[145]されたほか、ねぐら☆なおが商業誌デビューを果たしている[146]。また後者では川猫めぐみが挿絵を担当したほか、あらきあきらが商業誌デビューを果たした。
これらの雑誌は比較的短命に終わる状況が続いたが、現在では老舗エロ漫画誌の『COMICペンギンクラブ』『コミックMate』『COMIC快楽天』『コミックマショウ』『COMIC LO』『コミックホットミルク』[144]などがロリコン漫画〜美少女コミックの血脈を引き継いでいる。
また、この流れを受けて1980年頃から三流劇画誌もロリコン劇画に舵を切り[147]、とくに三大エロ劇画誌のひとつ『漫画エロジェニカ』(海潮社)は中島史雄、村祖俊一、ダーティ松本、谷口敬らを起用するなど、いち早く美少女路線に移行する[148]。これを口火として『漫画大快楽』(檸檬社)も内山亜紀、谷口敬、村祖俊一、火野妖子、五藤加純、牧村みき、小鈴ひろみ、西江ひろあきを起用し[149]、亀和田武と米沢嘉博が編集長を務めた自販機専門の三流劇画誌『劇画アリス』(アリス出版/迷宮)も吾妻ひでおの『不条理日記』『るなてっく』を連載する。以降、三流劇画における女性キャラの低年齢化が進み『漫画エロス』(司書房)では丸尾末広の残酷劇画『少女椿』(青林工藝舎)が連載され、美少女に特化した『漫画エロリータ』『漫画聖少女』『漫画ロリータ』『劇画ロリコン』『劇画ジッパー』『コミックひろこ』といったロリコン劇画誌すら出現するようになる[150][151][152]。
さらにこの潮流は漫画界のみならず美少女ゲーム業界にも波及し、PSKからは吾妻ひでお風の絵柄[153]を採用したアダルトゲーム『ロリータ(野球拳)』(1982年12月)や『不思議の国のアリス』をモチーフにしたアドベンチャーゲーム『ALICE』(1984年7月)がリリースされ[154]、同時期にはエニックス(現・スクウェア・エニックス)からも『マリちゃん危機一髪』(1983年2月発売。ダイナミックプロの槙村ただしが原画担当)や猟奇作品『ロリータ・シンドローム』(1983年10月発売。学習漫画で知られる望月かつみが制作[155]。1985年3月に光栄から発売された続編『マイ・ロリータ』は前作を上回る過激さ[156]からエニックスに販売拒否される)といった話題作・問題作もリリースされ、いずれも好セールスを記録した[157]。
アニメ界では1977年放送の『女王陛下のプティアンジェ』[158][159]、1982年放送の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』[158]、1983年放送開始のぴえろ魔法少女シリーズ『魔法の天使クリィミーマミ』[160]を皮切りに「大きいお友達」と呼ばれる視聴層が女児向けアニメに流入するようになり[161]、1984年夏には中島史雄原作のアダルトアニメ『仔猫ちゃんのいる店』がワンダーキッズから発売され、続いてフェアリーダストから美少女アニメの金字塔『くりぃむレモン パート1 媚・妹・Baby』(パート3『SF・超次元伝説ラル』およびパート10『STAR TRAP』には『シベール』出身の計奈恵と孤ノ間和歩も原作・キャラクターデザイン・作画監督などでアニメーション制作に参加している)[162]がリリースされるなど、漫画・アニメ・雑誌・同人誌・ゲーム・SF大会・三流劇画・官能小説・ラブコメ・OVA・ロリータビデオ・ロリコンショップ・少女ヌード写真集にまたがる複合的な流れが「ロリコンブーム」として形成されていく[113]。
ちなみにロリコン漫画における「美少女=ロリータ」というイメージは、漫画やアニメの受容年齢層の上限が拡大したことで現れた「漫画・アニメ調のかわいい絵柄でセクシャルな漫画が読みたい」という「劇画に対して劣勢であった手塚系漫画絵の復権運動におけるアイコン」として祭り上げられたものに過ぎず、別にロリコン縛りである必然性もなかったが、当時の出版業界・写真業界ではロリコンブームの実質的な火付け役となった山木隆夫撮影『Little Pretenders 小さなおすまし屋さんたち』(ミリオン出版/1979年1月)や石川洋司撮影『les Petite Fees ヨーロッパの小さな妖精たち』(世文社/同年11月)といった少女ヌード写真集[注釈 16]が大流行しており[163][164][165]、版元にとってもセールスしやすいネーミングとして現在の「萌え」に相当する言葉の不在から「ロリコン」という呼称が美少女作品全体を集約・包括するキャッチコピーとして便宜的に用いられたとみられている[166][167]。また志水一夫は「ロリコン」という言葉がアニメ雑誌で初めてクローズアップされた米沢嘉博の記事「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータ・コンプレックス」(みのり書房『月刊OUT』1980年12月号掲載)で意味が曖昧なまま「ロリコン」という言葉だけが世に広まった結果、本来「ロリータ・コンプレックス」とは異なる対象までも「ロリコン」と呼ばれるような状況が生み出されてしまったと指摘していた[168]。
ロリコン漫画から美少女コミックへ―祭りの終わりと皮肉な餞別
漫画評論家の永山薫は、ロリコン漫画の隆盛と三流劇画の敗北について、その形成要因と歴史的な意義について次のように語っている。
最初は全部ロリコン漫画だった。ロリコン漫画を語る上で、まず2005年に『失踪日記』(イースト・プレス)でカムバックした吾妻ひでおの名を挙げておかなければならない。吾妻が画期的だったのは、それまではつげ義春、宮谷一彦といった劇画作家が得意とした不条理文学的な表現や、三流劇画の専売状態だったエロティシズムを、児童漫画の丸っこい絵で描いてしまったことだ。当時はそれだけで強烈な異化効果があり、「児童漫画のエロパロディ」として誤読することも可能だった。
欲望の細分化はすでにこの時期から進行しており、それこそ一人一派ともいえそうなほどだった。80年代前半の『レモンピープル』と『漫画ブリッコ』のラインナップをざっと眺めるだけでも(中略)それぞれの作家の属性はバラバラで、初期のロリコン漫画は「美少女さえ出てくれば何をやってもロリコン」と認証されていたわけだ。エロス以上に「可愛い少女キャラ」が最優先で、エロスは主に内山亜紀、村祖俊一、中島史雄らの三流劇画経験者が担当していたが、それとても具体的で露骨な性的行為描写は抑えられており、現在の目で見れば一般青年誌の方がよほどセクシャルに映るだろう。なにしろ当時はレイプやハードなセックス場面があると読者から「ひどいことをしないでください」という抗議が来たほどで、読者の側が求めていたものも実はセックスシーン満載のエロ漫画ではなく可愛くてエッチな漫画だったわけだ。
そもそも初期のロリコン漫画の中核にあったのは手塚ミームの「かわいい」と「エロティシズム」であり、「セックス」は「かわいいエロティシズム」に奉仕する構成要素の一つでしかなかったのだ。
セックス志向であれば三流劇画を読めばいい。しかし、三流劇画は結果的にポスト団塊/ポスト全共闘世代のスタンダードにはなれなかった。端的にいえば、劇画は漫画じゃなかったからだ。アニメ絵っぽくなかったからだ。可愛くなかったからだ。後にオタクと呼ばれることになる60年代生まれの世代(引用者注:かつて「新人類」「しらけ世代」等と呼ばれた「おたく第一世代」を指す)は劇画のエロティシズムに官能するような「大人」にはならなかった。セックスそのものではない、セックスの周辺にもやもやと甘く切なく愛らしく漂うなにものかを求めていた。
エロ漫画におけるネオテニー(幼形成熟)と呼んでもいい。手塚漫画やアニメ絵の、つまり「幼児形態」を保ちつつ、性的刺激をもたらすこと。倒錯した表現になるが、初期ロリコン漫画の登場こそが、真の意味で「大人が漫画を読む時代」を確定したともいえるだろう。 — 永山薫『増補 エロマンガ・スタディーズ「快楽装置」としての漫画入門』筑摩書房〈ちくま文庫〉2014年4月 pp.133-136
これら経緯から『シベール』は今日まで連綿と受け継がれている二次元美少女(二次ロリ)文化すべての産みの親であり原点とみなされている[169][170]。
しかし、その一方でロリコン漫画から派生した美少女コミックが80年代後半以降、急速に大衆化・商業化・肥大化して行く過程で森山塔などセックスに特化した次世代のエロ漫画が人気を博すようになり[171][172]、美少女漫画の始祖的存在であった吾妻ひでおは読者からのプレッシャー[173][174][175]に耐えきれず、二度の失踪事件や自殺未遂を私生活で起こすなど初期のロリコン漫画を支えた先駆的作家の多くは世代交代の波に揉まれるなどして消えていくことを余儀なくされた。ロリコン漫画界では最古参の谷口敬も「まあ、これで谷口敬の役目は終わったのでありましょう。もはや初期のロリコン漫画の実験的な雰囲気は薄れ、マイナーなものがメジャーへと躍り出るとき、どうしても数の多い方へと移行せざるを得ないのは自然なことであります。『ロリコン漫画』がエロ主体の『美少女コミック』に変質していった、そんな時代でありました…」と行き場を失った当時の状況を述懐している[176]。
大塚英志は「吾妻ひでおが忘れられた理由」について1992年に太田出版から刊行された『夜の魚』の解説で以下のように述べている[177]。
吾妻ひでおは私たちが置き去りにしてきた作家である。いや、置き去りにされることを望んだのは吾妻ひでおのほうかもしれない。どちらにせよ私たちは吾妻ひでおを忘れることで1980年代のあの狂おしくもばかばかしい狂騒を生きていたことだけは確かだ。誰もが気づいていたことだが、ただ一人、吾妻ひでおだけが80年代の不毛と不可能性をあらかじめ体現し、そして黙って時代から降りていったのである。/もっと器用に気軽に全てやりすごしていいはずなのに吾妻ひでおは行き詰まり、私たちはそんな彼から目をそむけ、そして忘れた。/多くの人々がそうであったようにこの種の流行にさりげなく身をゆだねれば吾妻は80年代をそれなりの「カルト作家」として生きられたはずである。しかし吾妻が不幸だったのはこれらの不毛な諸現象が自分の中のどこから立ちあらわれるのかを彼が知っていた点にある。ただ不毛と気軽に戯れることに終始した時代にあって、その不毛の出自を知っている作家はやはり忘れられなくてはならなかったのである。
『夜の魚』の表題となった同名作品は、吾妻が見てしまい私たちが顔をそむけたものをめぐって描かれている。そして吾妻しかそれを描き得なかった以上、そんなことは免罪符にならないが、80年代の不毛と未だ地続きのこの時代に編集者であり続けるぼくは自分で初めて持つレーベルの最初の配本として『夜の魚』を流通させる。 — 大塚英志「吾妻ひでおを再び『流通』させる理由」より抜粋
やがて『シベール』が蒔いたロリコン漫画の種はアニメ調の明るくポップな絵柄で描かれる実用的な「美少女コミック」へと一般化する過程で拡散・消滅し[151][178][172]、コミケにおける男性向け同人誌の主流ジャンルなども「ロリータ」の範疇から大きく外れた「美少女もの」や「アニパロ」などになっていく[179][180][181][182]。明治大学准教授の森川嘉一郎によれば『シベール』を起点とするこの潮流と併行してコミケの規模拡大とともに、それまで継続的に展開されていたエロパロ系の同人誌から美少女コミック誌やエロゲーメーカーへの描き手の供給が拡大していき、次第に一般誌のみならず秋葉原の屋外広告物といった街の景観レベルで美少女(萌え)キャラが露出・展開されるようになっていったという[183]。
永山薫はロリコン漫画ブームの顛末について
ロリコン漫画は起爆剤として有効だったが、ありがたいことに偏狭なロリコン原理主義はほとんど存在しなかった。元々「ロリコン」は「お祭りのテーマ」にすぎなかったからだ。祭りが終われば、御興は倉庫に収納される。ロリコン漫画ブームはたかだか二年も続かずに下火になってしまう。とはいえ、ロリコンは充分に役目を果たした。漫画読者の注目を集め、新しいエロ漫画の可能性をプレゼンテーションすることができた。雑誌が増え、作者が増え、読者が増えれば、ありとあらゆるものが拡大していく。元々ペドファイルでもなんでもなかった読者の九九.九%は、あっさりと次の波に乗る。(中略)エロ漫画の歴史ということを考える上で、重要なのは「一度生まれたモード、スタイル、テーマ、モチーフ、趣味趣向、傾向は盛衰があっても決してなくならない」ということだ。どんなに時代が進んでも、相変わらずベタなロリコン漫画は存在するし、明朗な巨乳ラブコメもなくならない。年を追うごとに、エロ漫画は多様化し、細分化し、幅と奥行きが拡がり、交雑し、越境し、浸透し、拡散することを繰り返すことによって豊穣な土壌を形作っていく[184]。
と指摘しており、後に人口に膾炙して大衆化する「おたく文化」「萌え文化」の前哨戦的存在として同ブームを位置づけている[185]。
書誌情報
号数 | 発行日 | 判型 | 印刷形態 | 頁数 | 定価 | 備考 |
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創刊号 (Vol.1) | 1979年4月8日 | B5 | コピー | 26ページ | 300円 | 1979年6月15日に第2版刊行。最終項の編集後記、本文2か所に差異あり |
Vol.2 | 1979年7月27日 | B5 | コピー | 46ページ | 400円 | 1980年8月にVol.1の一部を合わせたオフセット第2版刊行。 |
Vol.3 | 1979年12月 | B5 | オフセット | 54ページ | 300円 | この号より完全オフセット化 |
Vol.4 | 1980年5月 | B5 | オフセット | 46ページ | 300円 | 劇画調に描かれた掲載作品がメンバー間で議論となる[186][187] |
Vol.5 | 1980年9月 | B5 | オフセット | 80ページ | 400円 | 掲載のアニパロ漫画が好評。この号からアニパロが増えたとのこと |
Vol.6 | 1980年12月 | B5 | オフセット | 82ページ | 400円 | 「メンバー間の意見の相違が作品中に」[188]表出 |
Vol.7 (終刊) | 1981年4月 | B5 | オフセット | 108ページ | 400円 | 「終刊それ自体をテーマとした作品」[188]多数 |
- この他にも『プチ・シベール』(1981年4月発行の補遺・番外編)[189],『アニベール』(1981年4月発行のアニパロ系コピー誌)[190],『ホワイトシベール Vol.10』(1981年12月発行のB6判フォトブック),Vol.0(吾妻・沖の2名で1978年秋に作成した限定50部のコピー誌)[28]がある。
掲載情報
すべて無気力プロダクション刊
- ALICE(1977年〜1978年頃)
- 無気力プロが吾妻ひでおの愛読者に向けて無料で郵送していた『シベール』の前身誌に相当するコピー新聞[191][192]。主筆は吾妻とチーフアシスタントの沖由佳雄とみぞろぎ孝[191]。なお沖は紙上で「アリス狂い、ロリータ・コンプレックス、戦記マニア」(吾妻いわく「軍事おたくでアニメおたく。おたくのかたまりのような奴」とのこと[193])を自称していたが、当時は「ロリコン」「アリコン」という概念が一般に普及しておらず、読者からは谷村新司のフォーク・グループ「アリス」に沖が熱中しているのかと勘違いされたという逸話がある[11]。
- 同紙の詳細については『シベール』創刊直前の1979年春頃まで無気力プロに出入りしていた吾妻ひでおファンのh-aokiが運営するウェブサイト「吾妻ひでお作品のあらすじ[194]」内「無気力プロのこと[195]」の項を参照されたい[191]。ちなみに吾妻が同紙に掲載した漫画作品やカットイラストなどは2016年3月に復刊ドットコムから出版された単行本『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド2』に初収録されている[196]。
或る日、無気力プロ(昼下がりで無人だった)へ沖さんと行ってみると、フェルトで自作した人形がいくつか吊り下げてあるのです。(中略)この人形の作者は男性であり後日お会いする事になるのですが、もしかすると彼こそが蛭児神建その人だったのかも知れません(2006年7月17日付記:沖さんのお話によれば、その通りだったようです)。(中略)沖さんはその人と、同人誌発行について相談するために朝のカトレアへ来てもらったようでした。「見本誌を1冊、即売会主催者に提出するきまりで……」と聞かされた沖さんが「あ、提出しなくちゃいけないの?」と言っていたりしましたが、一体何を発行しようとしているのか僕には説明してくれません。(中略)そのあと解散し店を出て、沖さんとその人と僕の3人だけになりました。すると沖さんが悩んだ表情で「この人(と言って沖さんは僕を指差しました)も入れちゃおうか」と提案し、「いや、この苦しみに人を引きずり込むのはつらい」とその人が止めたのでした。もしこの謎の会話が『シベール』創刊準備に関するものであったとすれば1979年4月以前であり、この時に吾妻先生の『猫日記』(月刊OUT 1979年3月号)の話もしたので、たぶん1979年春の出来事だったのでしょう。
──吾妻ひでお作品のあらすじ98「無気力プロのこと」
などという作品をだれか描いて下さい。あなたのアイドルをあなたの歯牙に!! ピピを! まゆを! 龍子を! ヒルダ[197]を! あなたの手で!!
- シベール発行に際して(沖由佳雄)
アリス・ロリータ等に見られる美少女の妖精の様な均整美は美の極致です。しかるに! 現在13才未満の少女に対して関係すると相手の同意を得ても不当にも罰せられます。これらの状況を打破し美少女を我等に!! 微力の執筆陣に原稿の御協力を! 美少女に関するマンガ・イラスト・雑文・小説等の投稿をお待ちしております。
あて先 練馬区西大泉2027 㐧二寿荘 無気力プロまで
㐧一号 年内発行予定
- Vol.1(1979年4月8日発行/コミックマーケット11)扉絵:沖由佳雄
- Vol.2(1979年7月27日発行/コミックマーケット12)扉絵:孤ノ間和歩
-
- らち・メリア(孤ノ間和歩)「不思議の国からフシギな国にやって来た不思議の国の小リスのアリスのふしぎなふしぎな物語」
- 沖由佳雄「みかさちゃんききいっぱつ」(第2版のみ掲載)
- 谷真似(計奈恵)「Me?」
- 『白雪姫』のパロディ漫画。テレビアニメ『女王陛下のプティアンジェ』のパロディコマも一部あり
- 蛭児神建「ロリコン図書リスト」(小説・写真集・画集等)
- y・t(豊島ゆーさく)「夏の一日」
- 幼女同士の百合漫画。ロリレズの先駆的作品。
- じゃ・じゃばあ・うおっく(吾妻ひでお)「マイ・タウン」
- 編集後記
- 作者紹介
- Vol.3(1979年12月発行/コミックマーケット13)扉絵:孤ノ間和歩
-
- 羅留下有介(沖由佳雄)「野良神様」
- 魔化留奈ルナ(計奈恵)「ライヴ」
- 怨訃居士「BLOODY.MARY」
- T.ルナ「もぎたて新聞」
- あ〜さ〜・ゆ〜ばん(孤ノ間和歩)「だれもしランドファンタジー」
- いぬねこうさぎざえもん(豊島ゆーさく)「エレネアの子ら」
- なんだかとってもイラスト展
- 羅留下有介(沖由佳雄)「美少女のおろし方」
- あ〜さ〜・ゆ〜ばん(孤ノ間和歩)「いっぺえじのたわごと」
- 魔化留奈ルナ(計奈恵)「ネるほうほう」
- いぬねこうさぎ(豊島ゆーさく)「君は何を見ているのかな?」
- いぬねこうさぎのぺいじ「てれびあにめきゃらくたあるうむ」(キッカ、おちゃめ、テンプルちゃん、さよちゃん、ハイジ、スー)
- にせ海がめ(吾妻ひでお)「赤い風」
- 作者アンケート
- 後記(吾妻ひでお)
- Vol.4(1980年5月発行/コミックマーケット14/カセット付)扉絵:沖由佳雄
- Vol.5(1980年9月発行/コミックマーケット15/B4ポスター付)扉絵:早坂未紀
-
- じゃっく・ぱんぷきん(早坂未紀)「フリーザ」
- 久輪言(沖由佳雄)「学園無稽帳」
- うにほやなまこ(孤ノ間和歩)「プラトニック ソルジャー」
- 美少女通信社
- マドーラほしい(森野うさぎ)「鏡の中のマリー」
- G・クローバー「シベール・アニメ考 あくと2」
- 息鳴漠「火星の赤い砂と白い肌」
- リムジン・アルファ「雨」
- 堂納豆聖(計奈恵?)「ふろむ いんなあすぺぃす うぃず るぅあぶ」
- シベールアートギャラリー(堂納豆聖・ひろひろ・ふんぼるとぺんぎんかものほしざえもんあるまじろ・マドーラほしい・久輪言・じゃっくぱんぷきん・うにほやなまこ)
- ふんぼるとぺんぎんかものほしざえもんあるまじろ(豊島ゆーさく)「我が国のTVアニメーションドラマにおける幼女キャラクターの魅力と人気についていささか極私的な考察」
- どーどー(吾妻ひでお)「10月の空」
- あとがき(担当:どーどー=吾妻ひでお)
- Vol.6(1980年12月発行/コミックマーケット16)扉絵:三鷹公一
-
- 無墓誇負(三鷹公一)「西遊記 in wonder land」
- 典薪霰(森野うさぎ)「落葉」
- しゅうあいはら&ゆきちゃん(計奈恵?)「FOX HUNTING」
- I・C INC.「the Bright Side Of the MOON」
- 濡亜樹羅「渚にて…」
- マケルナ・ポピー「シベール・アニメ考 ACT3:こすちゅーむ」
- みどりのおやま(緑沢みゆき?)「れいめい」
- 鶸出矢嵐(孤ノ間和歩)「プラトニック・ソルジャーはどこいった」
- めめめこねねね(無題のイラスト)
- 亜炒孤茶「アスタルエゴ・シュベール」
- 堡褻絞(沖由佳雄)「ブルートレイン異聞」
- INUNECO USAGI & FL.PRO(豊島ゆーさく)「ぱーるぴんく くりすます」
- どーどー(吾妻ひでお)「マイナースペース ササミストリート」
- 思いつきえっせいぷらすシベールゴシップ。「コミケはやがてエロ本即売会となることを私は予言する」という示唆的な一文がある。
- シベール通信販売のお知らせ
- Vol.7 終刊号(1981年4月発行/コミックマーケット17)扉絵:川猫めぐみ
-
- 蔵栗鼠(三鷹公一)「西遊記 in wonder land 2&3」
- 海猫かもめ「Faiys meking love story.」
- 山の一本杉「流れたら」
- 藤野矢舞「メデュウム 雨 Part.2」
- 畦砥夢兎蘭(森野うさぎ)「ミルキィ♡ピンク」
- ×××(川猫めぐみ)「ねねねこ山のハイジ」(終刊それ自体をテーマとした作品)
- 美少女通信社「びしょーじょつーしん」
- MORINO(森野うさぎ)「KOEDA」(こえだちゃんの性的なパロディ)
- かっぱふえにっくす(孤ノ間和歩)「シベールの星だなどと思うなよ」
- タイバーン・ヘルミ(沖由佳雄)「アクシデント プラネット」
- 佐久間心眼「ザクと少女が」
- 糧丹新聖(計奈恵?)「幻の震駭戦」
- らぶりい・ψ・きゃっつ(豊島ゆーさく)「南風」
- どーどー(吾妻ひでお)「妄想のおと(ロリコン編)」(散文的に描かれた美少女イラスト集)
- どーどー(吾妻ひでお)「うわさ」(シベール作家陣の噂について)
- らぶりい・ψ・きゃっつ(豊島ゆーさく)「シベオン」
- パパラパー(孤ノ間和歩)「シベール・マンガ考」(うる星やつらのラムなど)
- 編集後記(終刊のお知らせ)
- Vol.8 プチ・シベール(1981年4月26日発行)扉絵:吾妻ひでお
- 通販で終刊号を希望したのに買えなかった人のために作ったというイラスト集[202]
- Vol.9 アニベール(シベール終了記念臨時特別増刊創刊廃刊号/1981年5月号)扉絵:豊島ゆーさく
- 『シベール』廃刊時に臨時増刊として頒布された限定50部のアニパロ系コピー誌。登場キャラクターはクラリス、ラナ、ボッコ、ウラン、リーズ、神北恵子、アラレ、チャオ、マドーラ、ケーナ、ララァ、怪子、うらら、アンジェ、ビュウティ、レイカ、ペリーヌ、アン、マリア・フリードなど。
- Vol.10 ホワイトシベール(別冊特別版/1981年12月20日発行)表紙:孤ノ間和歩[203]
- 吾妻ひでおを除く『シベール』同人のカラーイラスト45葉で構成されたB6判のフォトブック[204]。発行部数が極端に少なく私家版に近い[204]。発行人は森野うさぎ。本誌『シベール』と違って表紙が白色のため「白本」「白シベ」等とも呼ばれる。
- ミャアちゃん官能写真集(1981年8月発行/コミックマーケット18)
- 吾妻ひでお(あじましでお)が20世紀に発行した最後の同人誌。1981年8月発行[205]。吾妻の漫画『スクラップ学園』の主人公・猫山美亜(ミャアちゃん)のイラスト等を収録。巻末には沖由佳雄、このま和歩、森野うさぎ、早坂未紀、豊島ゆーさく、三鷹公一らがイラストを寄稿した。C18(81年夏のコミケ)にて1,600冊を6時間かけて頒布[206]。なお当時のコミケ参加者は1万人規模であったが、1日の頒布部数は未だ破られていない[207]。続編として『ミャアちゃんラブワールド―吾妻ひでおイラスト集』(秋田書店・1983年7月)に描き下ろされたPart.3がある(Part.1のあとがきでPart.2は出さないと明言したため、いきなりPart.3に飛んでいる)[208]。また二次創作として沖由佳雄、このま和歩、三鷹公一、計奈恵、ちみもりをらによるPart.2(24頁のB5判コピー合同誌)がC24(83年夏のコミケ)で頒布されている[209]。
本誌4号で予告したとおり、あの「ミャアちゃん官能写真集」がついに出てしまった! この情報、リュウ9月号でも引用されたこともあってか、8月15・16日のコミケットでは、朝早くからならんでいた人間(♂)が開場と同時に売場へ殺到、一人一冊の制限にもかかわらず、大混乱のうちにたった一時間で売り切れるという前代未聞の記録になりました。三千部つくったのですが、もはや一冊の在庫もないそうで、買いそびれて悲嘆の涙にくれている人も多いとか。
先生にお聞きしたら、実は前々から、いつ出そうかと機会をねらっておられたそーで、決してヒョウタンからコマではなかったと言うから恐れ入りました。さすがに、同人誌の乄切があるからと、商業誌の仕事を断わるという吾妻ひでおだけのことはある! こんなとこが根強い人気の秘密なんでしょーね!
このぶんだと「出ません」と言う「ミャア官」第2巻とか、ポルノ編とかも、かるーく出てしまうかもしれませんなあ。恐ろしや、恐ろしや…。
──漫画の手帖事務局『漫画の手帖』6号(1981年12月)5頁「吾妻ひでおする人のぺえじ」
- 同人誌『シベール』『ロリータ』掲載作品
作品名 | 作品を収録している単行本 | 名義 | 初出 | 発表年月日 | 発行所 |
---|---|---|---|---|---|
日ヘンの美子ちゃん 官能編 | ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド (2015年 復刊ドットコム)[198] |
あほらしい | シベール Vol.0 | 1978年秋 | 無気力プロダクション |
赤ずきん・いん・わんだあらんど | れおなるど・だ・ひでお →れおなるど・だ・ちんぽ |
シベール Vol.1 | 1979年4月8日 | ||
美少女製造の手引き | KAWADE夢ムック 文藝別冊 [総特集]吾妻ひでお(2011年) 陽射し -reissue-(2018年) |
あじましでお | ロリータ Vol.1 | アリスマニア集団 キャロルハウス出版部 | |
マイ・タウン | 贋作ひでお八犬伝(1985年 秋田書店) さまよえる成年のための吾妻ひでお(2013年) 陽射し -reissue-(2018年) |
じゃ・じゃばあ・うおっく | シベール Vol.2 | 1979年7月27日 | 無気力プロダクション |
赤い風 | にせ海がめ | シベール Vol.3 | 1979年12月 | ||
夢の少女 | 贋作ひでお八犬伝(1985年) 夜の帳の中で(2006年) さまよえる成年のための吾妻ひでお(2013年) 陽射し -reissue-(2018年) |
ぐりほん | シベール Vol.4 | 1980年5月 | |
10月の空 | 十月の空(1984年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
どーどー | シベール Vol.5 | 1980年9月 | |
マイナースペース ササミストリート | - | シベール Vol.6 | 1980年12月 | ||
妄想のおと(ロリコン編) | 陽はまた昇る(1985年 双葉社) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
シベール Vol.7 | 1981年4月 | ||
うわさ | - | ||||
(イラストのみ2P) | ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド2 (2016年 復刊ドットコム)[196] |
プチ・シベール | 1981年4月26日 |
純文学シリーズ
『純文学シリーズ』は、吾妻ひでおが1980年1月頃から1980年9月まで自販機本『少女アリス』(アリス出版)に連載した一連の成人向け漫画作品の通称[注釈 18]。いわゆるロリコン漫画のルーツとされる記念碑的作品群であり[72][210][211]、おおこしたかのぶは「ロリコン漫画を文学的表現にまで高めた作品」「それはペダンチックなロリコンファンの趣向に合致し、ロリコンであることの後ろめたさへの免罪符の役割を果たした」と評している[41]。
発表の場が自販機本になったのは、吾妻が海外SF小説を元ネタにしたマニアックなパロディ漫画『どーでもいんなーすぺーす』[66][212]を連載していたニューウェーブ漫画雑誌『Peke』(みのり書房)[213]の担当編集者であった川本耕次が自販機本出版専門のアリス出版に移籍したからで、自販機本に発表することに何らかの意図や目的があった訳ではないが、当時はメジャー少年誌出身の漫画家が成人向けの自販機本に、それも写真・文芸中心の非漫画誌『少女アリス』に執筆することは、それだけで「事件」であった[77][214]。連載はアリス出版の分裂にともなう川本の退職(同社から派生した群雄社に移籍)とともに打ち切りとなるが[214]、翌年7月の『少女アリス』廃刊にともない、吾妻は全8頁からなる短編『海から来た機械』を終刊号に寄稿している。
単行本はアリス出版から発行されず、1981年7月に奇想天外社から『陽射し』のタイトルで表題作含む「純文学シリーズ」8作品のほか『マンガ奇想天外 SFマンガ大全集』No.4(1981年1月)に掲載された「帰り道」と描き下ろしのイラスト集「妄想画廊」を加えて、漫画単行本としては大変珍しいB5判ハードカバーの装幀で単行本化された[注釈 19]。
その後、同年7月26日に紀伊國屋書店新宿本店で行われた『陽差し』の刊行記念サイン会[215]には多数のファンが集まり、時間内でサインが終わらず、会場を倉庫に変えて夜まで続行する事態となった[216][217]。
- 自販機本『少女アリス』掲載作品
作品名 | 作品を収録している単行本 | 初出[218] | 発表年月[82] | 担当編集者 | 発行所 |
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ゴタゴタブラザース「我ら、少女を愛す」[68] | 人間失格(1980年 奇想天外社) ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド2 (2016年 復刊ドットコム) |
プレイコミック 1974年 少女アリス Vol.7 1980年1月号(再録) |
1974年 | 川本耕次[81] | アリス出版 |
午後の淫荒[219] | 陽射し(1981年 奇想天外社) 十月の空(1984年 双葉社) 夜の魚(1992年 太田出版) COMIC新現実 Vol.3(2005年 角川書店) 夜の帳の中で(2006年 チクマ秀版社) 陽射し -reissue-(2018年 復刊ドットコム) |
増刊少女アリス | 1980年1月? | ||
水仙 | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
少女アリス Vol.8 1980年3月号 |
1980年2月 | ||
さまよえる魂[注釈 20] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) |
少女アリス Vol.9 1980年4月号 |
1980年3月 | ||
不思議ななんきん豆 | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
少女アリス Vol.11 1980年6月号 |
1980年5月6日[220] | ||
夜のざわめき | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の帳の中で(2006年) さまよえる成年のための吾妻ひでお (2013年 河出書房新社) 陽射し -reissue-(2018年) |
少女アリス Vol.12 1980年7月号 |
1980年6月 | ||
陽射し[注釈 21] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) さまよえる成年のための吾妻ひでお(2013年) 陽射し -reissue-(2018年) |
少女アリス Vol.13 1980年8月号 |
1980年7月 | ||
水底[注釈 22] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
少女アリス Vol.14 1980年9月号 |
1980年8月 | ||
夕顔[注釈 23] | 陽射し(1981年) 十月の空(1984年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
少女アリス Vol.15 1980年10月号 |
1980年9月 | ||
海から来た機械[注釈 24] | 海から来た機械(1982年 奇想天外社) 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) コミックスクライマックス エッチ編 (1995年 竹書房) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
少女アリス Vol.25 1981年8月号 |
1981年7月 | 草間緑[82] | |
妄想画廊 | 陽射し(1981年) 夜の帳の中で(2006年) 陽射し -reissue-(2018年) |
単行本『陽射し』用 描き下ろし |
1981年7月 | 千頭俊吉[221] | 奇想天外社 |
作品名 | 作品を収録している単行本 | 初出 |
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九月怪談 | 海から来た機械(1982年) 十月の空(1984年) 夜の帳の中で(2006年) |
1981年10月号 |
愛玩儀式 | 海から来た機械(1982年) 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年 筑摩書房) さまよえる成年のための吾妻ひでお(2013年) |
1982年1月号 |
ラブ・ミー・テンダー | 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年) |
1982年5月号 |
ストレンジ・フルーツ | 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年) 陽射し -reissue-(2018年) |
1982年9月号 |
ジャアクダブラー | 十月の空(1984年) 贋作ひでお八犬伝(1985年) |
1983年1月号 |
MAIDO ONAJIMI | ミニティー夜夢(1984年 双葉社) | 1983年5月号 |
野獣の檻 | 1983年9月号 | |
ガデム | 十月の空(1984年) 吾妻ひでお童話集(1996年) 陽射し -reissue-(2018年) |
1984年1月号 |
横穴式 | 十月の空(1984年) 夜の魚(1992年) 吾妻ひでお童話集(1996年) |
1984年5月号 |
ひでお童話集 | ひでお童話集(1984年 双葉社) 吾妻ひでお童話集(1996年) |
1984年9月号 |
KOTATU | 贋作ひでお八犬伝(1985年) | 1985年3月号 |
関連年表
ロリコンブーム前史
- 1955年 - ロリータ・コンプレックスの語源となったウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』が発表される。
- 1968年7月21日 - 高畑勲演出作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』(東映/東映動画)公開。
- 1969年 - ラッセル・トレーナーの『ロリータ・コンプレックス』(1966年初版/1974年再販)が邦訳される。
- 1969年11月 - 剣持加津夫が撮影した日本初の少女ヌード写真集『ニンフェット 12歳の神話』(ノーベル書房)発売。1977年8月と1978年12月には新装版『エウロペ 12歳の神話』(ブロンズ社)が2分冊で再発刊される[163]。
- 1970年 - ロリコンの先駆者である杉本五郎(露木サブロー)が『12歳の神話』を原作にした幻想動画(12分・カラー)を自主制作する[注釈 25]。
- 1970年代初頭 - 西欧諸国でポルノ雑誌が解禁。1970年代後半には「チャイルド・ポルノ」と呼ばれた海外産の児童ポルノが国内で流通する[222]。
- 1971年末 - 旧虫プロダクションの出版部門・虫プロ商事発行の伝説的漫画雑誌『COM』が休刊する。同誌から派生し、吾妻ひでおも参加していた漫画マニアの全国組織「ぐら・こん」の構想も本誌の休刊に伴い頓挫するが、これがのちに同人誌即売会「コミックマーケット」の開催に結実する。
「COM」という本は、編集方針が定まらず、読者を何度か失望させました。「ぐらこん」も会社にとっては販売部数を増やすためのものという面がありました。また、本部だ支部だと言っても有名無実な面がありました。「ぐらこん」の精神には賛同したけれど、頼むに足りない面がありました。 ですから、虫プロ商事出版部の都合なんかに左右されない、漫画ファンのフィールドを作る必要がありました。「ぐらこん」から、「コミックマーケット」への発展は、それを、漫画ファン自身の企画で実現したという所に価値があります。なんと実行力のあるファンでしょう。(中略)そうした行動力とエネルギーが、更なる発展を可能にしていったのでしょう。 — 中島隆「ぐら・こん」がなくなった日(夏目房之介「夏目房之介の『で?』」所収)
- 1973年12月15日 - 『不思議の国のアリス』をモチーフにした沢渡朔撮影の『少女アリス』(河出書房新社)出版。モデルは当時8歳の外国人少女サマンサ[163]。
- 1974年6月 - 少女漫画家の和田慎二が『別冊マーガレット』(集英社)6月号に「アリス」をテーマにした『キャベツ畑でつまずいて』という短編漫画を描く[223]。漫画における「ロリータ・コンプレックス」という言葉の最も早い用例[224]。
「ロリータ・コンプレックス」という言葉を最初に知ったのは、和田慎二先生の作品によってであった。「そうか、自分はロリータ・コンプレックスだったのか」己の内に存在する、モヤモヤとした欲望を定義づける言葉を知った私は、中学生にしてロリコンを自覚した。(中略)私の幼い子供に対する欲望は、オジサンが私の肉体の奥底に焼き付けた呪縛の刻印なのである。和田先生のメルヘンチックで楽しい漫画は、そんな私の傷跡にどこか明るい光の道を見せてくれた気がする。甘いマシュマロの様な、可愛い少女への恋慕。ロリータ・コンプレックス……私にとってそれは、むしろ癒しの響きだったのだ。そうした定義づけ、枠組みを自分の周りにあえて作らなかったら、それとも別の出会いがあれば、私は男色家になっていたのかもしれない。それも、かなりタチの悪い少年喰いとか。言葉の定義って、けっこう人間を縛るものだ。 — 蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「ロリータ・コンプレックスの芽生え」角川書店 2005年11月 pp.31-32
- 1975年1月 - 吾妻ひでおの『やけくそ天使』が『プレイコミック』(秋田書店)1月11日号より連載開始。
- 1975年4月 - コミックマーケットの創設母体となった漫画批評集団「迷宮'75」が結成。結成メンバーは漫画情報批評誌『いちゃもん』(萩尾望都FC「モトのトモ」を母体として1973年に結成されたコミック・プランニング・サービス発行)の原田央男・式城京太郎、大阪の漫画評論誌『まんがジャーナル』(構雄会)の亜庭じゅん・高宮成河、そして明治大学SF研究会に所属していた米沢嘉博の5人。その後「迷宮'75」が発行した『漫画新批評大系』創刊号所載『ポルの一族』(原田央男)において「ロリータ・コンプレックス」という言葉がいち早く用いられる。
- 1975年12月21日 - まんがファンが創造的に交流する「場」の構築を目的に同人誌即売会「第1回コミックマーケット」(C1)が批評集団「迷宮'75」の企画・主催で開催される。会場は日本消防会館会議室(東京・虎ノ門)で参加サークルは32、参加者は約700人。当時の参加者は少女漫画ファンの女子中高生、漫画誌『COM』の流れを汲む創作系漫画サークル、女子大の漫画研究会が中心であった[20]。
- 1976年 - ヌーディスト村で撮影された少女ヌード写真集『モペット』を輸入販売(リプリント販売)しようとした業者が税関で摘発され、1980年にわいせつ図画販売で有罪判決を受ける[225][226]。
- 1976年頃 - 神田神保町の芳賀書店に海外輸入のチャイルド・ポルノが並ぶようになり、ロリコンの拠点となる[163]。
- 1976年9月 - 吾妻ひでおの出世作にして代表作のひとつ『ふたりと5人』が『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)37号で連載終了。
- 1977年〜1978年 - 成人男性と少女の性行為を主体としたデンマーク産の児童ポルノ『ニンフ・ラバー』(1976年)のコピーが国内で流通するようになる[227][228]。後に日本でも同誌を模したロリコン雑誌『にんふらばぁジャパン』(麻布書店/1985年6月創刊)が登場するに至った[163]。
- 1977年頃 - 江古田に喫茶店「まんが画廊」が出現する。
- 1977年頃 - 川本耕次が「迷宮」集会に参加。「迷宮'77」内に「三流劇画共斗会ギ」発足。
- 1977年3月 - サブカルチャー雑誌『月刊OUT』(みのり書房)創刊。創刊2号目の『宇宙戦艦ヤマト』特集が大ヒットしたためアニメ雑誌に転向。後に「おたく」と呼ばれるアニメファンに大きな影響力を及ぼすことになる。
- 1977年夏 - 作者不詳の官能小説『ペピの体験』(1906年初版/富士見ロマン文庫)と少女ヌード写真集『モペット』が市場に出回り始める[229]。
- 1977年9月 - 自販機本『劇画アリス』(アリス出版)創刊。初代編集長は亀和田武。1979年から「迷宮'79」が編集に参画、米沢嘉博が2代目編集長となる。
- 1977年10月21日 - 清岡純子撮影の少女ヌード写真集『聖少女』シリーズ(フジアート出版)刊行開始[163][230]。
- 1977年12月13日 - 葦プロダクション製作のテレビアニメ『女王陛下のプティアンジェ』(朝日放送)放送開始。
- 1977年12月31日 - 漫画批評同人誌『漫画新批評大系』(迷宮'77)第2期1号(通巻7号)に川本耕次と米沢嘉博が「三流劇画ミニマップ」を書く。三流劇画ブームの幕開け[231]。
- 1978年4月4日 - テレビアニメ『未来少年コナン』(NHK)放送開始。
- 1978年7月14日 - 映画『シベールの日曜日』が東京12チャンネル(現・テレビ東京)PM10:00〜11:40で放送[11]。これが同人誌名の由来となる。
──お好きな映画を教えて下さい。
吾妻:『シベールの日曜日』というのが大好きなんですけども。主人公の男の子が戦争で傷を負ってるんですけど、シベールは孤児なんですが、女性の象徴的な恋人であり、子供であり、母であるという、全部を象徴している存在なんです。最後は悲劇に終わるんですけど、素晴らしい名作だと思います。 — 萩尾望都×吾妻ひでおトークイベント・レポート(2014年5月31日) - 萩尾望都作品目録
- 1978年8月 - 『月刊OUT』(みのり書房)8月号にて初の吾妻ひでお特集「吾妻ひでおのメロウな世界」掲載。仕事場公開、インタビュー、漫画など全20頁。特集スタッフは「迷宮」関係者で固められ、漫画論は米沢嘉博、イラストはさべあのま、編集は川本耕次が担当[232]。
- 1978年9月 - ニューウェーブ系の三流SF漫画誌『Peke』(みのり書房)創刊。編集長は「迷宮」の川本耕次。連載当時、全国のロリコン少年達の胸をときめかした[233]という吾妻ひでおのSFパロディ漫画『どーでもいんなーすぺーす』連載開始[66][69][213]。第4話『すーぱーがーる』(1978年12月号掲載)は吾妻の代表作『ななこSOS』の原型となる[212][234]。
- 1978年9月24日 - 『週刊少年サンデー』(小学館)39号に高橋留美子『うる星やつら』第1回が掲載(アニメは1981年10月14日から放送開始)。
- 1978年10月 - 「迷宮」の佐川俊彦によって少年愛をテーマにした耽美雑誌『COMIC JUN』(サン出版)創刊。1979年8月に休刊。後に漫画・文芸混合の総合誌『JUNE』として復刊し、1990年代まで刊行される。
美少女たちの性的身体の発見をもって、ようやく男性の漫画ファンは、少女漫画ファンの視点に追いついたとされる[235]。少女浸画は早い段階からキャラクターの性的身体をモチーフとしはじめており、70年代後半には、すでに少年愛をテーマにした漫画雑誌『COMIC JUN』が創刊されている。男性キャラクター同士の性愛をパロディとして描く「やおい」と呼ばれるジャンルも当時すでに成立していた。
ロリコンブームと「やおい」との直接的な関係は不明だが、性愛が発見される過程において奇妙に共通点があることは見逃せない。少女たちも少年たちも、最初はパロディとして、ギャグとしてキャラクターの性愛を描こうとした。しかしその後、パロディ的な出自は希薄になり、性愛モチーフが突出しはじめていったのである。 — 斎藤環「メディアとペドフィリア―ロリコン文化はいかに消費されたか―」家族機能研究所『アディクションと家族―日本嗜癖行動学会誌』第25巻2号 2008年8月 p.108(日本評論社刊『博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理』に再録)
- 1978年11月6日 - 三流エロ劇画御三家(他2誌は『劇画アリス』『漫画大快楽』)のひとつ『漫画エロジェニカ』(海潮社)11月号がわいせつ文書図画販売でエロマンガ史上初の摘発を受ける[236][237]。以後、三流劇画ブームは失速の一途をたどる。
- 1978年12月10日 - 『別冊奇想天外 NO.6 SFマンガ大全集 PART2』(奇想天外社)に吾妻ひでおが『不条理日記』を描く。
- 1978年12月17日 - 蛭児神建が日本初のロリコン同人誌『愛栗鼠』(アリスマニア集団・キャロルハウス出版部)をコミックマーケット10で頒布する[2]。
第1次ロリコンブーム
- 1979年1月 - ロリコンブームの実質的な火付け役といわれる山木隆夫撮影『Little Pretenders 小さなおすまし屋さんたち』(ミリオン出版)発売[238]。1982年3月までに20万部を売る[164][239]。
- 1979年3月 - 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)3月5日号から同年4月2日号まで吾妻ひでおの『シャン・キャット』が連載される。これが吾妻にとって『週刊少年チャンピオン』最後の連載作品となった。
- 1979年4月7日 - テレビアニメ『機動戦士ガンダム』(名古屋テレビ)放送開始(〜1980年1月26日)。後に全52話の予定が43話に短縮される形で打ち切りとなる。
- 1979年4月8日 - 日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』(無気力プロ)創刊[240]。手塚治虫的な漫画キャラクターによる性的表現の嚆矢。まんが画廊に出入りしていた沖由佳雄、蛭児神建、孤ノ間和歩、計奈恵、豊島ゆーさく、森野うさぎらが参画[57]。1981年4月まで全7号が発行される。
日本におけるロリコン文化の黎明期において必ず語られるのが、漫画家・吾妻ひでおの存在である。吾妻は少年向けの人気作品を量産すると同時に、マニアックなSF的素養を背景として美少女キャラクターを描き続けたという意味においても、「おたく」の始祖の1人ともくされるべき人物であった。吾妻ひでおとそのアシスタントらは、1979年のコミックマーケット(わが国で最大規模の漫画同人誌即売会、コミケット)でロリコン同人誌『シベール』を販売した。これが日本におけるロリコンブームの端緒とみなされている「事件」である。その内容は簡単に言えば、美少女キャラクターを素材としたポルノグラフィーだった。『シベール』は人気をはくし、80年代初頭のコミックマーケットには数多くのロリコン同人誌が並べられ、ひとつのブームを形づくった。やがて商業誌もブームに追随するように、ロリコンの特集記事などを掲載するようになっていった。吾妻ひでおの登場は、同人誌市場において大きなインパクトを持つていた。ササキバラ・ゴウによれば、当時のポルノコミックは劇画タッチのリアリズム描写が全盛だったが、吾妻は手塚治虫以来の抽象度の高い「かわいい」絵柄を用いてセックス可能な身体を描こうとしたとされる[235]。ただしササキバラの註釈によれば「このような表現自体が、当時はお遊び感覚やパロディ感覚の入り混じった空気の中で行われていた」とされる。つまり、ロリコンポルノのブームは、青少年の性的嗜好の変化に先導されて起きたものではなく、パロディやユーモアといったメタ的な身ぶりにおいて見出され、それに性的嗜好の変化が追随したとみるほうが事実に近い、ということになる。 — 斎藤環「メディアとペドフィリア―ロリコン文化はいかに消費されたか―」家族機能研究所『アディクションと家族―日本嗜癖行動学会誌』第25巻2号 2008年8月 p.108(日本評論社刊『博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理』に再録)
- 1979年4月8日 - 蛭児神建編集『愛栗鼠』の後継誌『ロリータ』(アリスマニア集団・キャロルハウス出版部)創刊。同年7月の2号で休刊。
- 1979年5月 - 同年2月に休刊した『Peke』の後継誌『月刊COMIC AGAIN』(みのり書房)創刊。
- 1979年5月 - 元祖おたく族のSFファンから絶大な支持を集めた『不条理日記』(吾妻ひでお)が『劇画アリス』17号から連載開始[240]。
- 1979年6月頃 - 伝説的自販機本『少女アリス』(アリス出版)創刊。美少女(ロリコン)をテーマにした商業誌の記念すべき第1号。2代目編集長は川本耕次。
- 1979年6月10日 - 吾妻ひでお『パラレル狂室』(奇想天外社)発売。
- 1979年11月 - 石川洋司撮影『les Petite Fees ヨーロッパの小さな妖精たち』(岩波企画)発売。公称60万部[163]。これは無名のカメラマンが無名の外国人モデルを起用したロリータ写真集で、とくに宣伝もなかったが、国内における写真集の売上記録を塗り替える大ヒットを記録した[241]。
- 1979年11月20日 - 写真集『少女アリス』の続編『ALICE FROM THE SEA 海からきた少女』(河出書房新社)出版[163]。
- 1979年12月 - 『漫画エロジェニカ』1979年12月号に中島史雄が先駆的なロリコン劇画『幼女と少女がもんちっち』を発表、ロリコンブームの走りとなる[242]。これは所謂「おねロリ」をテーマにした成人向け漫画の第1号であり、作中に登場する幼女のヒロコは当時のロリコンファンのアイドル的存在であったヒロコ・グレースがモデルとなっている[243]。ちなみに本作品の影響から中島はロリコン劇画のパイオニアとみなされているが、当の中島本人は「(ロリコン劇画を描いたのは)実は内山亜紀さんのほうが1ヶ月早い」「彼が描いた少女のヘアスタイルがとても良かったんです」「内山さんに聞いたら『あなたの方が早い』と言うんだけど、本人が言うんだから間違いない(笑)」と語っている[244]。
- 1979年12月 - 『機動戦士ガンダム』のエロパロ同人誌『AMA』(東京アニメニア・アーミー)創刊。1981年7月まで全4号が発行される。
- 1979年冬 - この頃までに沖由佳雄と蛭児神建との関係が悪化[57]。以後、蛭児神は『シベール』を離れて同人サークル「アリスマニア集団・キャロルハウス出版部」を解消すると共に、後継サークルの「変質社」を発足させる。
- 1979年12月15日 - 宮崎駿監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』(東宝/東京ムービー新社)公開。当時のアニメファンから好意的に迎えられるが興行的には赤字に終わる[245]。ちなみに本作は「ロリコン」という言葉の最も早い用例としても知られ、アニメファンに「ロリコン」を広めるきっかけになったほか、ヒロインのクラリスは美少女アニメキャラ人気(=二次元コンプレックス)の端緒になったといわれる[246]。
- 1979年12月25日 - 吾妻ひでお『不条理日記』(奇想天外社)発売。
- 1979年12月31日 - 米沢嘉博編集の同人誌『吾妻ひでおに花束を』(虎馬書房/大日本吾妻漫画振興会)発行。
- 1970年代後半 - アンダーグラウンドなロリコン雑誌『キャンディ』(1983年11月にJOY企画から創刊された同名雑誌とは無関係)の編集長が4文字略語の「ロリコン」という言葉を使い始める[247]。
- 1970年代末 - 高田馬場に実写派のロリコンショップ「ぺぺ」が開店[248]。
- 1979年頃 - ビニ本ブームを反映したロリコン物が流通するようになる[249]。
- 1980年 - 日本PTA全国協議会が有害図書販売規制立法請願を国会に提出し[250]、43都道府県の地方公共団体が青少年保護育成条例による条例制定を行った[251]。以後、青少年に対する自販機本・ビニ本販売の規制強化が進み[252]、1980年代中頃までに自販機本は絶滅に追い込まれた。
- 1980年 - 『漫画大快楽』(檸檬社)の菅野邦明・小谷哲体制が崩壊[253]。後に菅野編集の『漫画ピラニア』(辰巳出版)と小谷編集の『漫画カルメン』(蒼竜社)に分派する。
- 1980年1月頃 - アリス出版の川本耕次からの依頼で吾妻ひでおが『増刊少女アリス』に『午後の淫荒』を掲載[66][67][68][69]。以降『少女アリス』Vol.15(1980年9月発売)まで8作品の「純文学シリーズ」を発表する。
- 1980年1月 - 『週刊少年ジャンプ』2号(1月14日号)から金井たつお『いずみちゃんグラフィティ』連載開始(〜同年40号)。
- 1980年1月 - 吾妻ひでお『やけくそ天使』連載終了。次回作『スクラップ学園』が『プレイコミック』(秋田書店)1月24日号より連載開始。
- 1980年2月 - 『週刊少年ジャンプ』5・6合併号(2月4・11日号)から鳥山明『Dr.スランプ』連載開始(〜1984年39号)。
- 1980年3月 - 『月刊OUT』(みのり書房)3月号に『機動戦士ガンダム』のセイラ・マスのヌード・ピンナップ「悩ましのアルテイシア」掲載。
- 1980年4月 - 吾妻ひでおの『ななこSOS』が『ポップコーン』(光文社)4月号より連載開始。
- 1980年4月 - 『SFマンガ大全集』の後継誌『マンガ奇想天外』(奇想天外社)創刊。1982年5月まで全10号を刊行。
- 1980年5月 - 自販機本『劇画アリス』が通巻29号で終刊。その後、後継誌『グルーピー』(アリス出版)のアリス特集(巻号不明/自販機本のため発行年月日記載なし)で米沢嘉博が『シベール』を商業誌で初めて紹介する[253]。
- 1980年7月 - 『シベール』に直接的影響を受けたコピー誌『ロータリー』(ロータリークラブ)創刊。少年漫画的な絵柄によるショートストーリー創作集でギャグ、パロディ、性的描写なども含む[254]。当初は限定13部だったが後にオフセット化してコミケにも参加する[90]。
- 1980年7月9日 - 海潮社倒産[255]。『漫画エロジェニカ』が6月号で休刊。次号予告が掲載された同誌増刊号『漫画エロリータ』も告知なく廃刊。
- 1980年8月 - 『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスを題材にしたさえぐさじゅんによるロリコンファンジン『クラリス狂専誌 クラリスMAGAZINE』(A・W・S・C内クラリスマガジン編集室)創刊[256]。同年9月14日のコミックマーケット15で頒布[240]。同年12月発売の続刊も即完売する[257]。クラリスブームの幕開け。
- 1980年8月 - アリス出版分裂。群雄社設立。
- 1980年9月 - 川本耕次が『少女アリス』15号を最後に編集長を降板。
- 1980年9月 - 蛭児神建編集のロリコン同人誌『幼女嗜好』(変質社)創刊[240]。
- 1980年9月 - 早坂未紀の個人画集『FRITHA』(トラブルメーカー)創刊[90][240]。
- 1980年10月 - 『アニメージュ』(徳間書店)10月号の吾妻ひでおを囲んた座談会で「二次元コンプレックス」という言葉が初めて商業誌に使われる[258]。
- 1980年12月 - 『月刊OUT』12月号に米沢嘉博の「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータ・コンプレックス」が掲載。アニメ雑誌で「ロリコン」という言葉が初めてクローズアップされる。
- 1980年12月 - ピグマリオンコンプレックスとテクノとロリコンをテーマにした同人誌『人形姫』(サーカスマッドカプセル)創刊。中心メンバーは千之ナイフと破李拳竜[259]。
- 1980年12月 - アニメキャラのヌードをテーマにしたみやすのんき主宰の同人誌『のんき』(おとぼけ企画のんき編集室)創刊。
- 1980年12月17日 - 『水曜ロードショー』(日本テレビ放送網)で『ルパン三世 カリオストロの城』初放送。
- 1981年3月 - クラリスの異常人気を受けてアニメ雑誌『アニメック』17号(4月1日発行)が全25頁にもわたるロリコン大特集「“ろ”はロリータの“ろ”」を組む(担当者はまんが画廊の常連客で同誌副編集長だったKADOKAWA代表取締役副社長の井上伸一郎)[260]。漫画・アニメ誌において「ロリコン」が本格的に特集されたのはこれが史上初となる(単体の記事としては『月刊OUT』1980年12月号掲載の米沢嘉博「病気の人のためのマンガ考現学」が初出)。本特集ではアニメ、同人誌、三流劇画、SFなど多角的に「少女愛」が考察されており、具体的には『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロイン・クラリスをはじめとする名作アニメの少女評、安座上学によるSFとロリータ・コンプレックスを関連づけた評論「SFと少女愛好の双曲線 二次元コンプレックス処方箋」[261][262][263]、吾妻ひでお・村祖俊一・中島史雄らへのインタビュー、そして『シベール』をはじめとするロリコン同人誌紹介のほか、ルイス・キャロル研究の第一人者である高橋康也へのインタビュー記事などが掲載された。また表紙には『カリオストロの城』の劇中において「妬かない、妬かない。ロリコン伯爵。や〜けどすっぞ〜!」とルパンが発した直後のシーンが流用されている[240]。
- 1981年4月5日 - コミックマーケット17をもって『シベール』終刊。
- 1981年4月13日 - 清岡純子撮影の少女ヌード写真集『白薔薇園』(大塚カラー出版)が季刊誌として創刊。創刊号から5万部のヒットとなる[264]。
- 1981年5月 - 奇想天外臨時増刊号『吾妻ひでお大全集』(奇想天外社)発売。寄稿者は新井素子、飯田耕一郎、いしかわじゅん、坂口尚、ささやななえ、高橋留美子、橋本治、ひさうちみちお、松久由宇、米沢嘉博、萩尾望都、川又千秋ら。
- 1981年7月 - 自販機本『少女アリス』が通巻25号で終刊。吾妻ひでお『海から来た機械』掲載。
- 1981年7月10日 - 吾妻ひでお『陽射し』(奇想天外社)発売。
- 1981年7月26日 - 『陽差し』刊行記念に紀伊國屋書店新宿本店で吾妻ひでおのサイン会が行われる[215]。
- 1981年8月15〜16日 - コミックマーケット18で吾妻ひでおが『ミャアちゃん官能写真集』(無気力プロ)を頒布。3000部が即完売する[202]。
- 1981年8月22〜23日 - 大阪で開催された第20回日本SF大会(通称:DAICON 3)開会式で自主制作アニメ『DAICON III OPENING ANIMATION』が上映され、吾妻ひでお作品に登場する不気味やナハハが客演する。ちなみに同作品は後に『新世紀エヴァンゲリオン』を製作するガイナックスの原点となったことでも知られている。
SFとアニメとロリコンの蜜月の好例として挙げられるのが八一年のSF大会『DAICON Ⅲ』である。同大会は後のオタキング・岡田斗司夫、武田康廣(現・GAINAX取締役統括本部長)らが主催し、「SFまんがを語る部屋」には手塚治虫、村上知彦、高信太郎、いしかわじゅんとともにロリコン漫画の旗手でもあった吾妻ひでおが登場し、そこから生まれた企画が美少女アニメの原点ともいえる『DAICON オープニングアニメ』であり、庵野秀明(監督『新世紀エヴァンゲリオン』九五他)、山賀博之(現・GAINAX代表取締役社長、監督『オネアミスの翼』八七他)、赤井孝美(元・GAINAX取締役、イラストレーター、ゲームクリエイター)らが制作に携わっている。もちろん当時のファンダムがペドファイルの巣窟だったわけではない。フラジャリティ(著者注:フラジャイルとは「壊れやすいもの、繊細なもの、小さきもの、幼いもの、か弱きもの、不完全なるもの、断片的なもの、愛らしいもの、歪んだもの、病んだもの、儚きもの……」といった、男性原理あるいはマチズモとは対極的な「もの/状態」を慈しむ文化)を愛好するマイナー文化の中から美少女嗜好が浮上し、一般性を獲得していく過程で、アニメや漫画を含めて同時進行的にコトが起こっていたのである。 — 永山薫『増補 エロマンガ・スタディーズ「快楽装置」としての漫画入門』筑摩書房〈ちくま文庫〉2014年4月 pp.85-86
- 1981年10月 - まんがマニア専門誌『ふゅーじょんぷろだくと』(ラポート)が「ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」特集。ロリコンブームの仕掛け人である吾妻ひでお、内山亜紀、谷口敬、蛭児神建、早坂未紀、川本耕次らの座談会や、志水一夫(原丸太)によるロリコン同人誌の紹介記事「ロリコンファンジンとは何か──その過去・現在・未来 ロリコン同人誌界分布図の試み」などが掲載される。表紙は真崎守が担当、特集扉絵は弟子の中島史雄による描き下ろし。
- 1981年10月6日 - 望月智充編集のミニコミ誌『別冊アニコム 少女愛好家のために』(早稲田大学アニメーション同好会)発行。
- 1981年11月 - プレロリコン漫画誌『月刊YOUNG KISS』(光彩書房)が創刊されるも6号で休刊(〜1982年4月)[259][152]。その後『漫画エマニエル』1982年5月号増刊として後継誌『純少女』(同)が創刊されるも1号で休刊する。
- 1981年12月 - 商業初の美少女コミック誌『レモンピープル』(あまとりあ社)創刊。看板作家は吾妻ひでおと内山亜紀[152]。創刊当初は三流劇画から派生した「ロリコン劇画」(美少女劇画とも)とコミケ系の「ロリコン漫画」が混在していた[265]。
- 1982年1月 - 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)1月1日号(1・2合併号)から内山亜紀『あんどろトリオ』連載開始。
- 1982年2月以降 - この頃から『プレイボーイ[要曖昧さ回避]』『GORO』『ホットドッグ・プレス』『バラエティ』『BRUTUS』などの男性週刊誌が立て続けに「ロリコンブーム」の特集を組むようになる[266]。
- 1982年3月 - 『月刊OUT』3月号で吾妻ひでおVS米沢嘉博「OUTにかかわったばかりに道を誤った二人の不条理対談」掲載。
- 1982年3月 - 大塚英志が『ふゅーじょんぷろだくと』のロリータ特集にヒントを得てアニメージュ増刊『アップル・パイ 美少女まんが大全集』(徳間書店)を企画発売[267]。これは児童向け雑誌が母体だった徳間書店第二編集局内で企画編集されたため、必然的に性的表現を排除した健全な内容になっており[268]、これが結果的に「ロリコン」(=萌え)から「セックス」を切り離した非エロ系美少女コミック誌の先駆けとなる。主な執筆陣は吾妻ひでお、和田慎二、村祖俊一、早坂未紀、谷口敬、浪花愛、ふくやまけいこ、このま和歩、望月智充、原丸太などで過渡期ゆえにアニメ系同人誌出身作家と三流劇画出身者が混在している[267]。後継誌は大塚英志編集のアンソロジーコミック『プチアップルパイ 美少女まんがベスト集成』。
- 1982年3月18日 - 葦プロダクション製作のテレビアニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(テレビ東京)放送開始。
- 1982年3月25日 - 吾妻ひでお『海から来た機械』(奇想天外社)発売。
- 1982年4月 - クラリスなど名作アニメの美少女キャラを集めてトランプにした「ロリコントランプ」が『アニメージュ』(徳間書店)4月号付録につく[245][269]。パッケージイラストは吾妻ひでお画のアンジェ。
- 1982年4月 - 『月刊OUT』4月号に米沢嘉博の「ロリコンブームに物もうす」が掲載。二次元コンプレックスやファッションとして消費されるロリコンカルチャーに警鐘を鳴らす内容(最下段にそれまでの流れも概説)。
- 1982年初夏 - 男性向け総合月刊誌『ヘイ!バディー』(白夜書房)がロリータ専門誌に転向する[270]。
- 1982年5月 - 『アニメージュ』5月号に「アニメファンのビョーキスタイル研究」掲載。米沢嘉博や内山亜紀へのインタビューが中心。
- 1982年5月8日 - 吾妻ひでお原作のテレビアニメ『おちゃめ神物語 コロコロポロン』(フジテレビ)放送開始。
- 1982年5月31日 - 蛭児神建を監修者に起用したロリコンブームの集大成本『ロリコン大全集』(群雄社出版)発売。吾妻ひでお、内山亜紀、米沢嘉博、蛭児神建、高取英、谷口敬、杉浦日向子、さべあのま、早坂未紀、青山正明、近藤昌良、孤ノ間和歩、千之ナイフ、赤井孝美、女子高生など多彩な人材が集った評論集・コミック&画集。初版2万3千部は完売し、1982年末までに4万部を発行した[271]。編集人は元アリス出版の川本耕次と元ふゅーじょんぷろだくと編集部の緒方源次郎[124][272][273]。内容としては少女写真やコミック、ロリコン用語の基礎知識(米沢嘉博)、女子高生座談会、少女愛の社会学・考現学などを多角的に分析した評論などが掲載されている。付録にロリーポップ着せ替え人形、ろりろりシール、ロリコンカセットレーベル、蛭児神の同人誌『幼女嗜好』出張版付き。吾妻は当時のロリコン漫画界の諸相を任侠映画風に描き出した『仁義なき黒い太陽 ロリコン編』という「女の子がひとりも出てこない、おっさんばかり出てくる、嫌がらせのような(笑)作品」を寄稿した(川本耕次談)[232][274]。
- 1982年6月 - 『アニメージュ』6月号で宮崎駿が「ぼくらはあこがれを“遊び”にはしなかったし、また、大っぴらに口にすることは恥ずかしかった。“恥じらい”があったんですよね。/とにかくいまのぼくは“ロリコン”を口で言う男はきらいですね」とロリコンについて言及する[245][275]。
- 1982年7月 - 『週刊少年チャンピオン』30号(7月9日号)から手塚治虫『プライム・ローズ』連載開始(〜1983年6月3日号)。
- 1982年7月 - 同人誌からロリコンに関する図版と記事を転載した『ロリコン白書―ロリコン同人誌ベスト集成』(白夜書房)発売。『漫画ブリッコ』の前身となる。
- 1982年7月 - 『月刊OUT』7月号臨時増刊号として『アニパロコミックス』(みのり書房)創刊。1993年に休刊。
- 1982年7月 - 『レモンピープル』7月号の読者投稿欄より「ロリコン(漫画)にエロ(裸)は必要か」という誌上討論が持ち上がる[151][178][276]。
- 1982年8月 - 日本初のロリータビデオ『あゆみ11歳 小さな誘惑』発売。内容は大学生の青年が伊豆の別荘地で出会った少女に懸想するというもの。定価3万円で約4000本が即完売したという。また大学生のツトム役としてロリコンライターの草分け的存在だった青山正明が作品に出演している[277]。その後『あゆみ11歳』発売からわずか半年で50本以上ものロリータビデオが国内で製作された[278]。
- 1982年8月14〜15日 - 東京で開催された第21回日本SF大会(通称:TOKON 8)開会式で大阪のマイコンサークル「NEWON」が自主制作した吾妻ひでお原作の短編アニメーション作品『夕顔』(自販機本『少女アリス』掲載)上映。
- 1982年9月 - ロリコン漫画誌『漫画ブリッコ』(セルフ出版→白夜書房)創刊。当初は三流劇画の再録誌としてスタートしたため販売不振に悩む。
- 1982年秋頃 - 檸檬社倒産。三大エロ劇画誌としては唯一の生き残りだった『漫画大快楽』が休刊。三流劇画ブームが完全に終焉する。
というようなわけで、エロ劇画界、ひいてはマンガ界全般に、インパクトを与えた三流劇画のムーブメントは、この檸檬社の倒産によって、ほぼ完全に終焉したといわざるをえない。しかしそれは、観方を変えれば、三流劇画ムーブメントというひとつのパワーが、機能をはたし終えたということでもあるのかも知れないが……。ともかく、またひとつ、奇妙な魅力のある出版社が消えたことを残念に思う。状況はなおキビシイ。 — 北新宿Y男「檸檬社の倒産と三流劇画ブームの終焉」ふゅーじょんぷろだくと『コミックボックス』1982年11・12月合併号 pp.28-29
- 1982年10月 - 『ロリコンランド』(白夜書房『ヘイ!バディー』増刊)創刊。主に読者投稿の盗撮写真や犯罪写真などが多数掲載されていた。
- 1982年10月 - 清岡純子少女写真集『プチトマト』創刊。1987年に第42号が発禁となり廃刊するまで月刊ペースで定期刊行された。
- 1982年11月5日 - パソコンショップ高知(PSK)からアダルトゲーム『ロリータ 野球拳』発売。吾妻ひでおの画風を真似たグラフィックデザインが人気を博した。続編は下校中の少女と格闘してレイプする『ロリータⅡ 下校チェイス』(1983年5月)と『ファイナルロリータ』(1985年11月)の2部作[279]。
- 1982年11月10日 - アンソロジーコミック『プチアップルパイ 美少女まんがベスト集成』創刊。以後、5年掛かりで全18号を刊行。
- 1983年1月15日 - 大塚英志と小形克宏の企画で『COMICキュロットDX』がセルフ出版から『劇画パニック』増刊として発行。新生『漫画ブリッコ』のパイロット版となる。主な執筆者は中島史雄、谷口敬、飯田耕一郎、火野妖子、藤原カムイ、中田雅喜、夏目房之介など[280]。
- 1983年2月 - エニックス(現・スクウェア・エニックス)からアダルトゲーム『マリちゃん危機一髪』発売。制作者は永井豪のダイナミックプロ所属の漫画家・槙村ただし[281]。
- 1983年春 - 大塚英志と小形克宏が『漫画ブリッコ』の編集に参加。4月23日発売の5月号から『レモンピープル』と並ぶ美少女コミック誌にリニューアルする。
- 1983年4月1日 - コミックマーケット23で頒布された『SF大会本 第21回SF大会プライベートレポート TOKONVIII』(虎馬書房)に吾妻ひでおが「祭りの終焉」を描いた非ギャグ漫画『冷たい汗 TOKONの夜』を描く。その他、吾妻と親交があるとり・みきといしかわじゅんのレポート漫画、および前述した作家3人と米沢嘉博のパネルディスカッションなどが掲載された。
- 1983年4月2日 - 吾妻ひでお原作のテレビアニメ『ななこSOS』(フジテレビ)放送開始。
- 1983年5月23日 -『漫画ブリッコ』6月号からミニコミ誌『東京おとなクラブ』の出張版『東京おとなクラブJr.』の1コーナー[129]として中森明夫の「『おたく』の研究[282]」が連載開始。これが「おたく」の語源となる[283]。また同6月号では岡崎京子が商業誌デビューしている。
- 1983年6月 - エニックス(現・スクウェア・エニックス)からアダルトゲーム『女子寮パニック』発売。
- 1983年7月1日 - ぴえろ魔法少女シリーズ第1作『魔法の天使クリィミーマミ』(日本テレビ放送網)放送開始。
- 1983年10月 - エニックス(現・スクウェア・エニックス)からアダルトゲーム『ロリータ・シンドローム』発売。『マリちゃん危機一髪』に続くエニックス第2回目のゲームホビープログラムコンテスト受賞作の製品化[284]。制作者は学習漫画で知られる望月かつみ[155]。手塚治虫や藤子不二雄の系譜を引く可愛らしい絵柄とは裏腹に残酷で猟奇的な内容が一部で話題となった[285]。また「全国5000万人のお医者さんごっこファンを狂喜させるロリコンゲーム」がキャッチコピーの続編『マイ・ロリータ』(1985年3月)は「病院に来た美少女から卵子を摘出してクローンを作る」等といった前作を上回る過激な内容からエニックスに販売拒否されたため光栄から発売された[156]。
- 1983年10月20日 - クラリスマガジン被害者同盟が結成[286]。いわゆる「クラリスマガジン事件」が本格的に勃発する。同事件の詳細については漫画評論同人誌『ロリコンブームの後を追って』(暗黒拠点月)第5章「シベールの子ら──シベール以後に現れた同人誌など」を参照されたい。
- 1983年12月10日 - 藤脇邦夫の企画で白夜書房の漫画単行本レーベル「白夜コミックス」刊行開始。同時発売された第1弾は藤原カムイ『デジャ・ヴ』とひろもりしのぶ第1作品集『オトナなんかだいっきらい!』の2冊。同シリーズは青林堂のA5判・850円という高価な価格設定を踏襲したが、第1弾のみで最終的に2万部が完売した[287]。
- 1984年 - 『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』の異常人気を受けて始まったアニメブームが終焉する[269][288]。以後、ティーンエイジャー向けの作品は、主にOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)を主戦場として制作されるようになる。
- 1984年 - 群雄社倒産。川本耕次が独立する。
- 1984年 - 庵野秀明らが学生時代に制作した自主制作アニメ『DAICON III OPENING ANIMATION』に触発された森野うさぎらによってアニメ・特撮・同人誌の制作を中心とする同人サークル「スタジオ・アオーク」が結成[58]。あさりよしとお、ふじたゆきひさ、豊島ゆーさく、くあTERO、来留間慎一などの漫画家が集結して短編アニメーション作品『AWAKE』(1984年8月16〜17日に杉並公会堂で開催された「ウル祭III」こと第3回特撮大会で上映されたオープニングアニメ)などを自主制作した。
- 1984年2月11日 - 押井守監督『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(東宝)公開。学園祭前日が永遠に繰り返されるというループ構造(サザエさん時空)に自己言及したエポックメイキングな作品であり、後に社会学者の宮台真司が提唱した「終わりなき日常」の元ネタとなる。
- 1984年3月23日 - 白夜コミックス第2弾として森野うさぎ第1作品集『ミルキィ★ボックス』とアンソロジーコミック『美少女同人誌 スーパーアンソロジー』(漫画ブリッコ編集部/編)が同時発売される。寄稿者はあきもとかづひろ、あさりよしとお、あぽ、池田一弘、l.N.U.、沖由佳雄、計奈恵、さえぐさじゅん、沢田翔、川猫めぐみ、すらそうじ、園田健一、たかはしちこ、西秋ぐりん、藤原カムイ、水縞とおる、森野うさぎ、有紀桂、寄生虫(五十音順)。
- 1984年春[289] - 自販機本『ピンクハウス』(日本出版社)に掲載された『ほら、こんなに赤くなってる』で森山塔(山本直樹)がデビュー。
- 1984年5月1日 - 『漫画ブリッコ』5月増刊号『美少女イラスト・ベスト・セレクション─ペパーミント☆ギャラリー』(セルフ出版)発行。これは『漫画ブリッコ』に連載された「ブリッコ劇写文庫シリーズ」に早坂未紀、沖由佳雄、ちみもりを、計奈恵、白倉由美らの描き下ろしを加えて単行本化したもの。その他に藤原カムイ、谷口敬、羽佐間みのる、あぽ、森野うさぎ、洋森しのぶらが作品を寄稿した。
- 1984年5月 - 『SFマンガ競作大全集 Part25』(東京三世社)に吾妻ひでおが『夜の魚』を描く。続編『笑わない魚』は『SFマンガ競作大全集 Part28』(1984年11月)に掲載。
八四年、吾妻ひでおは『夜の魚』を発表します。それは『不条理日記』の延長上にあってそれをもっとシリアスにしてしまった感のある一種の私小説的な作品です。/ここに記号絵を介してしか女性の身体性と向き合えない男たちの性意識が冷徹に描写されています。男たちが剥き出しの身体に怯み、その一方では昆虫のような異形の存在とはかろうじて性交可能なのは、この時期のロリコンまんがが描く男女間の性交が、しかし一方は人間ではない異形の存在として描かれる傾向が強かったこととも関わっています。/吾妻ひでおは、しかしこの『夜の魚』の流れにある作品を、直後に発表した『笑わない魚』以外には発表していません。それどころか八〇年代の後半にはまるで自分があらかじめ生きてしまった、八〇年代に殉じるかのように沈黙してしまいます。/吾妻ひでおが彼が産み落とした〈おたく〉の時代について、今現在どう思っているのかぼくにはわかりません。けれども吾妻ひでおの作品とその身の処し方は、この十何年かで余りに肥大し、そして市民権さえをも得てしまったおたく表現に対して、その始まりの時点であらかじめ発せられた批評としての意味を失ってはいないとぼくは信じています。だからこそぼくは吾妻ひでおは読み続けられなくてはいけないと思うのです。おたく表現の負の側面をも自ら積極的に背負ったこのまんが家に全てを押しつけて、吾妻ひでおごとなかったことにさせてはいけないのです。 — 大塚英志「吾妻ひでお〈おたく〉なるものの起源」(大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社〈講談社現代新書〉2001年5月 pp.99-108)
- 1984年5月 - PSKから『不思議の国のアリス』をモチーフにしたアダルトゲーム『ALICE』FM-7版が発売[290]。PC-88版は7月発売[291]
- 1984年7月 - 奇想天外社倒産。
- 1984年7月 - 成人向け美少女アニメの記念すべき第1号『仔猫ちゃんのいる店』(中島史雄原作)がワンダーキッズからOVAで発売。
- 1984年8月 - 美少女アニメの原点と言われるOVA『くりぃむレモン パート1 媚・妹・Baby』(フェアリーダスト/創英新社)発売。妹ヒロインの亜美がカリスマ的な人気を博す。以後、同シリーズはファンタジー、SF、レズ、触手責めなど多彩なジャンルをテーマに躍進を続け、美少女アニメの基礎を築いた。なおスタッフには計奈恵、孤ノ間和歩、庵野秀明、山本直樹らも起用されている。
- 1984年8月3日 - 『漫画ブリッコ』の姉妹誌『いけないCOMIC』創刊。みやすのんきが創刊号に『ニューヨーク1997』の舞台を日本に置き換えたパロディ漫画『NEO TOKYO 1997』を描くが皇子(ショタ)が無法地帯に不時着して陵辱されるという内容だったため右翼が街宣車で白夜書房に抗議する異例の事態となった[292]。
- 1984年8月8日 - かがみあきら急逝。
- 1984年9月1日 - モンド系のロリコン漫画誌『プチパンドラ』創刊。編集人はロリコン界の教祖としてコミケットで有名だった蛭児神建。
- 1984年10月1日 - 白夜書房の系列会社が経営する漫画専門書店「まんがの森」新宿店が開店。当時は美少女漫画の半ば「聖地」として扱われた。
- 1984年12月 - 川本耕次を監修者に起用した『ロリコンHOUSE』(三和出版)創刊。美少女と二次コン中心の本格的な美少女総合専門誌を標榜し「本邦初のロリコン専門誌」を自称した[293]。
- 1984年12月3日 - 美少女アニメ『くりぃむレモン パート3 SF・超次元伝説ラル』発売。キャラクターデザインは孤ノ間和歩と計奈恵。少女を犯す対象が人間ではなく触手という理由から無修正で日本ビデオ倫理協会の審査を通過したことでも話題となった[294][295]。
- 1985年6月 - 宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(84年3月11日公開)を制作したトップクラフトを発展的に解散・改組する形でスタジオジブリ設立。
- 1985年7月10日 - 森野うさぎ主宰の同人サークル「スタジオ・アオーク」が実質的な制作を請け負った大塚英志原案のアダルトアニメ『魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく』(白夜書房)発売。
- 1985年7月23日 - 大塚英志が『漫画ブリッコ』9月号を最後に編集長を降板。斎藤O子に編集長が交代する。
- 1985年9月 - 同年8月10日発売の『ヘイ!バディー』9月増刊号『ロリコンランド8』(白夜書房)が警視庁保安一課より摘発され発禁回収処分となる[296]。翌10月発売の1985年11月号を最後に『ヘイ!バディー』終刊[297]。第1次ロリコンブームが終焉する。
- 1985年12月23日 - 『漫画ブリッコ』休刊。後継誌は『漫画ホットミルク』。以後、ロリコン漫画雑誌の多くが美少女コミック誌に転身する。
- 1989年12月24日 - 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を受けて別冊宝島104号『おたくの本』(JICC出版局)発売。中森明夫「僕が『おたく』の名付け親になった事情」のほか、米沢嘉博、浅羽通明、みうらじゅん、土本亜理子、小浜逸郎、永江朗らが「おたく」にまつわる論考を寄稿した。
- 1991年夏 - 有害コミック騒動の影響で1991年8月に開催予定であったC40が会場予定地の幕張メッセより開催拒否(コミケ幕張メッセ追放事件)。
- 1992年4月 - 吾妻ひでおが大塚英志に単行本『夜の魚』のあとがき漫画『夜を歩く』(後に『失踪日記』の第1話となる)を宅配便で送ったその足で再び失踪する[298]。その後、同書は吾妻不在のまま同年9月28日に太田出版から刊行された。巻末解説は飯田耕一郎、いしかわじゅん、大塚英志。
- 2019年10月13日 - 吾妻ひでお逝去(訃報は10月21日)。
参考文献
- 早坂未紀の世界「1970年代の資料」 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 早坂未紀の世界「1980年代の資料」 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 黒沢哲也 (2013年1月). “手塚マンガあの日あの時 第26回:手塚萌えの異色作『プライムローズ』の時代!!”. 『虫ん坊』2013年1月号(手塚プロダクションWeb事業部). 2021年5月24日閲覧。
- 吉田正高 (2008年1月20日). “コミケ73カタログ出張版「戦後コンテンツ文化の発展にみるコミックマーケットの意義―その1」”. AIDE新聞(共信印刷Web事業部). 2020年6月20日閲覧。
- ばるぼら (2008年10月19日). “ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第29回 ロリコンにおける青山正明(1)”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年4月27日閲覧。
- 鳥山仁 (2008年3月20日). “児童ポルノQ&A(2)どうして、日本では実写よりも漫画・アニメ作品の影響力が強かったのでしょうか?”. 王様を欲しがったカエル. 2020年2月6日閲覧。
- 安田理央Blog「続おやじびでお・第6話・ロリコンはどんどん肩身が狭くなるよの巻」 - ウェイバックマシン(2013年6月12日アーカイブ分)
- 永山薫 (2010年8月21日). “80年代初期ロリコン漫画誌の時代−SFと美少女からエロ漫画への変遷を辿って”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年5月27日閲覧。
- SFと美少女の季節(吾妻ひでおと川本耕次の関連年表) 明治大学米沢嘉博記念図書館
- ラポート『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」
- 原丸太「ロリコンファンジンとは何か──その過去・現在・未来 ロリコン同人誌界分布図の試み」
- アニメージュ増刊『アップル・パイ 美少女まんが大全集』徳間書店 1982年3月
- 原丸太+志水一夫「ロリコン同人誌レビュー 幻の『シベール』伝説にはじまるロリコン同人誌の覚醒期を経て今日のブーム到来までをロリコン雑誌研究家・原丸太がドキュメント」
- 白夜書房『アリス・クラブ』1992年7月増刊号『ミルク・クラブ/アリス大全年鑑1992』
- 宝島社『宝島30』1994年9月号「ロリータの時代」(宝島30編集部+東京公司)
- 高月靖『ロリコン―日本の少女嗜好者たちとその世界』バジリコ 2009年10月
- 米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月
- 永山薫『増補 エロマンガ・スタディーズ「快楽装置」としての漫画入門』筑摩書房 2014年4月
- 宮本直毅『エロゲー文化研究概論 増補改訂版』総合科学出版 2017年5月
- 降間『ロリコンブームの後を追って』暗黒拠点月 2020年8月初版 / 2021年6月増補改訂
- Matteo Watzky (2021年4月17日). “ロリコンから萌えへ:美少女の冒険” (英語). Full Frontal. 2021年6月20日閲覧。
関連雑誌
1978年
- 『愛栗鼠』
- 蛭児神建(当時20歳)がC10(1978年冬のコミケ)で頒布した日本初のロリコン同人誌。1978年12月創刊号ピピの号のみ。蛭児神の個人サークルであるアリスマニア集団・キャロルハウス出版部が発行した。数十部程度のコピー誌(蛭児神すら現物を所持していない)かつ性的要素の乏しい文芸誌[2]のためか『シベール』ほど大きな話題にならなかった[24]。手塚治虫『海のトリトン』のピピをはじめ松本零士原作のテレビアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』に登場するまゆなど複数の幼女キャラが取り上げられている。表紙のカラー部分は手塗り。1978年12月17日発行。44頁。
1979年
- 『ロリータ』
- 『愛栗鼠』臨時増刊号として蛭児神建がC11(1979年春のコミケ)で頒布した「不健全ロリコン文芸誌」[299][32][97]。同年7月の2号で休刊。『シベール』と協力関係を結び、吾妻ひでお[300]、沖由佳雄[301]、孤ノ間和歩[302]が原稿やイラストを寄稿している。志水一夫は「読物あり漫画ありキャラ・ヌードありの、正に現在のほぼすべてのロリコン誌の先駆」と評している[303]。アリスマニア集団・キャロルハウス出版部発行。
- 『少女アリス』
- アリス出版が1979年6月頃から1981年6月まで刊行していた自販機本[82]。創刊編集長はアリス出版初代社長の小向一実。2代目編集長はロリコンブームの仕掛人である川本耕次。通巻25号で終刊[82]。ロリコンをテーマにした雑誌の第1号で「少女の恥部とかわいらしさを求めるアリスの少女愛好家のため」の雑誌を標榜し[304]、最盛期の1980年8月には自販機雑誌としては破格の5万部を売り上げた[82]。本誌は1982年にロリータ誌に転向した白夜書房発行の『ヘイ!バディー』に先駆けて刊行されていた美少女総合月刊誌であるが、メインであるヌードグラビアのモデルは全て18才以上であり、本物の少女ヌードは一切取り扱っていない所謂「疑似ロリータ誌」であった[305]。しかしながら「当時、娘の制服を借りて来たのか、と張り倒したくなるようなババアがセーラー服姿でニカッと笑っているのが普通でさえあった自販機本業界にあって、おそらく本物の十代の少女が登場する数少ない総合グラフ誌」(斉田石也談)でもあったという[306]。吾妻ひでおは川本耕次の依頼で増刊号(1979年12月)から通巻15号(1980年8月)まで8ヶ月間にわたり『純文学シリーズ』(※「午後の淫荒」「水仙」「さまよえる魂」「不思議ななんきん豆」「夜のざわめき」「陽射し」「水底」「夕顔」の8作品)を連載した[82][305]。同連載は川本の退職とともに終了したが、翌1981年に奇想天外社から『陽射し』の題で単行本化され、当時の「吾妻ひでおブーム」を象徴する記念碑的一冊となった。のちに吾妻は「新宿の大きい本屋で『陽射し』のサイン会したら、えらい列ができちゃって。夜までかかってサインを描いていた。本屋が閉まっちゃって、そのあとは倉庫で書いてた。『ふたりと5人』の時もサイン会をやったことあるけど、その時は3人くらいだったよ(笑)」と当時を回想している[216]。
- 『AMA』
- 1979年12月創刊。81年7月の第4号で終刊[90]。東京アニメニア・アーミー発行。『機動戦士ガンダム』の成人向け同人誌[158]。男性向けアニパロ誌の嚆矢として知られる。
1980年
- 『ロータリー』
- 1980年7月創刊[90]。1989年夏コミ時点で27号[307]。ロータリークラブ発行。あるデザイン学校の学生が『シベール』を見て自分たちも同様の同人誌の発行を志す[205]。1981年夏のコミケにおけるロリコンファンジンの大量出現の契機を作る。
- 『クラリス狂専誌 クラリスMAGAZINE』
- 1980年8月創刊。同年12月の2号で休刊[190]。A・W・S・C内クラリスマガジン編集室発行。さえぐさじゅんによる『ルパン三世 カリオストロの城』の非エロ同人誌[24][308]。ロリコンファンジンの中核としてコミケで人気を博すが、増刷時の未発送トラブル(サークル関係者ではなく再販時の関係者の不祥事)で再販予約を募った『アニメック』誌を巻き込んだ「同人誌史上最大の詐欺事件」と呼ばれる「クラリスマガジン事件」を引き起こした[309]。
- 『幼女嗜好』
- 1980年9月創刊の過激派ロリコン文芸誌。変質社(蛭児神建)発行。4号で終刊。主に幼女姦を主題にした猟奇的な官能小説やイラスト・漫画で構成された。表紙の幼女は『機動戦士ガンダム』に登場するキッカ・キタモト。また『ロリコン大全集』(群雄社出版・1982年)には出張版も掲載されている。ちなみに1981年冬のC19で頒布された『SMロリータ』は蛭児神が「落ちる所まで落ちてやる」つもりで作った臨時増刊号[310]。
- 『人形姫』
- 1980年12月創刊。サーカスマッドカプセル(千之ナイフや破李拳竜が中心のサークル)発行。少女サイボーグやピグマリオンコンプレックスを主題とした同人誌[205]。のちに『レモンピープル』の主力作家陣として同誌黎明期を支えた[259][311]。
- 『のんき』
- 1980年12月創刊。鬼畜系・リョナの元祖的存在である洋森しのぶ(現・みやすのんき)主宰。おとぼけ企画のんき編集室発行。アニメキャラのヌードを主題にした同人誌で創刊号は『機動戦士ガンダム』のギャルズ特集、2号はセイラ・マス特集、3・4号はロリコン特集となっている。1982年12月までに5号を刊行。当時としては過激な内容から印刷所が自主回収したとされる[105]。
1981年
- 『赤本』
- やおいサークル「FOX」代表が黒本『シベール』に対抗して1981年春頃に発行した男性向け同人誌[312]。主な素材は当時一部の女性に人気があったテレビアニメ『超電磁マシーン ボルテスV』『闘将ダイモス』『J9シリーズ』など。計奈恵によれば「最初に見た女性作家の男性向け同人誌」だったと述懐している[313]。なお『赤本』完成直後『シベール』の終刊を知った製作者の女性は「黒本が話題なので男性向けに挑戦しようと『噂の赤本』を創ったのに、シベが解散しちゃうんだもんなぁ」と苦笑したという[312][314]。
- 『ヴィーナス』
- 1981年5月創刊、同年11月の第3号で終刊[90]。ムーンライン製作室発行。「アニメ女性キャラクター・ヌード専門誌」を名乗る[190]。1981年夏のコミケにおけるロリコンファンジンの大量出現の契機を作るが、当時としては過激な内容から印刷所が自主回収したとされる[105]。
- 『プティアンジェ専門誌 アンジェ』
- 1981年冬のコミケで蛭児神建が創刊した『女王陛下のプティアンジェ』のアニパロ同人誌。蛭児神の人脈が総動員されており、吾妻ひでお、沖由佳雄、三鷹公一、破李拳竜、孤ノ間和歩など元シベール編集部やサーカスマッドカプセルなどの人気サークルが大集結した。全104頁。
その他
- 『PETITパンドラ』
- 蛭児神建編集のモンド系ロリコン漫画雑誌(雑誌コードが取られていないため正確にはムック本)。1984年から1987年まで全12冊を刊行した。一水社発行。キャッチコピーは「どうせ亜流誌 みんなでレミング」。著名な愛読者に『美少女戦士セーラームーン』原作者の武内直子がいる[315]。主な執筆陣は新田真子、沖由佳雄、万寺タツヤ、雨宮じゅん、森山塔、帯ひろ志、やまぐちみゆき。
参考文献
単行本・ムック
- 蛭児神建責任編集・監修『ロリコン大全集』編集発行:群雄社出版株式会社/発売:都市と生活社 1982年5月31日
- 吾妻ひでお、内山亜紀、米沢嘉博、蛭児神建、高取英、谷口敬、杉浦日向子、さべあのま、早坂未紀、青山正明、近藤昌良、孤ノ間和歩、千之ナイフ、赤井孝美、女子高生など多彩な人材が集ったロリコンブームの集大成本。初版2万3千部は完売し、1982年末までに4万部を発行した[271]。本書は蛭児神建が責任編集・監修という名目だが、実質的には群雄社の川本耕次と緒方源次郎(小形克宏)によって編集された[124][272][273]。主に少女写真やコミックのほか、ロリコン用語の基礎知識(米沢嘉博)、女子高生座談会、少女愛の社会学・考現学を多角的に分析した評論などが掲載されている。付録にロリーポップ着せ替え人形、ろりろりシール、ロリコンカセットレーベル、蛭児神の同人誌『幼女嗜好』出張版付き。吾妻が寄稿した『仁義なき黒い太陽 ロリコン篇』は美少女が一切登場せず[232]、1982年当時のロリコン漫画界の諸相を任侠映画風のパスティーシュという形で描き出した作品である(河出書房新社刊『ポスト非リア充時代のための吾妻ひでお』に再録)[124]。
1982年に群雄社から『ロリコン大全集』という画期的なムックが出た。内山亜紀のシールがついていたやつだ。〈ロリコン〉という言葉はそこで初めて思想の上でも、一般向けの商品市場の中でも確固とした地位を与えられたのだと記憶している。しかしそこからさらなる発展があったわけではなく(発展しようがないものに敢えて思想性のカバーをかけて本にまでしてしまった『ロリコン大全集』を褒めるべきかもしれないが)〈ロリコン〉は結局商品市場の中で蕩尽されて陳腐化してしまったのである。
──杉江松恋は反省しる!日記 2004/5/4 - ウェイバックマシン(2004年5月31日アーカイブ分)
- 高桑常寿+ふゅーじょんぷろだくと編『ロリコン白書―ロリコン同人誌ベスト集成』編集発行:エンドレス企画/発売:白夜書房 1982年7月
- ふゅーじょんぷろだくと編集部「パワーの時代」(協力:志水一夫)
- 別冊宝島104『おたくの本』JICC出版局 1989年12月
- 土本亜理子「ロリコン、二次コン、人形愛―架空の美少女に託された共同幻想」『別冊宝島』第104巻、JICC出版局、102 - 115頁。
- 吾妻ひでお『夜の魚』太田出版(太田COMICS 芸術漫画叢書)1992年9月(担当者:大塚英志)[316]
不条理、美少女、おたく的、自閉。コミックがメジャーとマイナーに歴然と区別されていた時代、ただ一人境界を越えていったまんが家がいた。'80年代コミックの不毛と不可能性を予告し自ら沈黙した伝説のカルト作家・吾妻ひでおの“水準”を示す私小説的作品集。 ─同上帯
- 辰巳出版『同人漫画大百科』1992年10月
- 米沢嘉博、森野うさぎ「同人漫画家インタビュー 森野うさぎ」『同人漫画大百科』、114 - 117頁。
- 米沢嘉博「同人誌の歴史」『同人漫画大百科』、122 - 127頁。
- KKベストセラーズ『ベストの本3 SEXYコミック大全―マンガで「抜く」時代がやってきた!』1998年8月
- 米沢嘉博「略史・エロとマンガの密やかな関係」『ベストの本』第3巻、22 - 27頁。
- 大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社〈講談社現代新書〉2001年5月
- 東浩紀編著『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』青土社 2003年1月
- 竹熊健太郎「オタク第一世代の自己分析―あくまで個人的立場から」
- ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』講談社〈講談社現代新書〉2004年5月
- 吉田正高『二次元美少女論―オタクの女神創造史』二見書房 2004年9月
- 阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』久保書店 2004年9月
今はプロ作家になった描き手たちの同人誌時代が紹介されているだけでなく、千冊以上に及ぶ同人誌の記録はここにしかない。この本では、この「同人誌エトセトラ」をすべて収録し、年毎にまとめることで、同人誌の流れをレビューと共に読めるようにした。さらに、連載中に何回か試みられた「同人誌の歴史」の部分を取り出し、新たに書き下ろす形で80年までのマンガ同人誌の歴史を序章として収め、連載終了以後の99〜04年までの同人誌の大きな流れを巻末の方にまとめてある。明治期から現在までのマンガ同人誌の通史としても、この本は読むことができるはずである。(中略)この本は、貴重な記録であると同時に、そのボリュームとカバーされた時代によって二度と書かれることのない一冊であることはまちがいない。同人誌研究の資料としてだけでなく、マンガのもう一つの歴史を書いた本として、様々な発見のための本として、手元に置かれることをお勧めしたい。 ─同上, 5頁, イントロダクション
- コミックマーケット準備会『コミックマーケット30’sファイル』青林工藝舎 2005年7月
- 蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』角川書店 2005年11月
- ヨコタ村上孝之『マンガは欲望する』筑摩書房、東京、2006年7月15日。ISBN 978-4480873514。
- 吾妻ひでお『逃亡日記』日本文芸社 2007年1月
- 難波功士『族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史』青弓社 2007年6月
- 家族機能研究所『アディクションと家族 第25巻2号―日本嗜癖行動学会誌』2008年8月 pp.107-112
- 斎藤環「メディアとペドフィリア―ロリコン文化はいかに消費されたか―」(後に『博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理』に再録)
- 霜月たかなか『コミックマーケット創世記』朝日新聞出版〈朝日新書〉2008年12月/Kindle版 2013年6月
- 吉本たいまつ『おたくの起源』NTT出版、東京、2009年2月9日。ISBN 978-4-75714-209-1。
- 高月靖『ロリコン―日本の少女嗜好者たちとその世界』バジリコ、東京、2009年10月7日。ISBN 978-4-86238-151-4。極めて広範な知見より考察された、密度の濃い研究書。
- 米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月(担当者:浅川満寛)
- KAWADE夢ムック『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお 美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』河出書房新社 2011年4月30日
- 川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年10月
- 永山薫『増補 エロマンガ・スタディーズ「快楽装置」としての漫画入門』筑摩書房〈ちくま文庫〉2014年4月
- 「第一部 エロマンガ全史 第三章 美少女系エロ漫画の登場」。
- 「第二部 愛と性のさまざまなカタチ 第一章 ロリコン漫画」。
- 2006年11月にイースト・プレスより刊行された同名書籍に増補・加筆を加えて文庫化したもの。
- おおこしたかのぶ『美少女マンガ創世記 ぼくたちの80年代』徳間書店 2014年9月
- 「Column*02 新世代によるエロ漫画の躍進」。
- 吾妻ひでお『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド』復刊ドットコム 2015年2月
- 『シベール』掲載作のうち単行本未収録となっていた『日ヘンの美子ちゃん 官能編』『赤ずきん・いん・わんだあらんど』を初収録。
- 藤脇邦夫『出版アナザーサイド ある始まりの終わり 1982-2015』本の雑誌社、東京、2015年12月30日。ISBN 978-4-86011-280-6。
- 吾妻ひでお『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド2』復刊ドットコム 2016年3月
- 無気力プロの頃を描いた『吾妻ひでお伝!』『絵日記』『無気力日記』『良いファン悪いファンとんでもないファン』『祝・ズッコケター御出版』ほか、同人誌『ALICE』『POCO』『シベール』『プチ・シベール』『はあどしゅ〜る』などのカットを収録[196]。
- 竹内オサム・西原麻里編著『世界文化シリーズ別巻2 マンガ文化55のキーワード』ミネルヴァ書房 2016年2月
- 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年3月(装画:早坂未紀)
- 大塚英志『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』星海社文庫 2016年4月(装画:吾妻ひでお)
- スタジオジブリ出版部発行の広報誌『熱風』2012年2月号から2014年6月号にかけて発表された同名連載を加筆修正のうえ新書化したもの。
- 稀見理都『エロマンガノゲンバ』三才ブックス 2016年12月
- 北田暁大+解体研『社会にとって趣味とは何か 文化社会学の方法規準』河出書房新社〈河出ブックス〉2017年3月
- 宮本直毅『エロゲー文化研究概論 増補改訂版』総合科学出版 2017年5月
- 稀見理都「補遺2『美少女コミック』と『エロマンガ』の違い」『エロマンガ表現史』、太田出版、2017年11月、360 - 362頁。
- 吾妻ひでお『陽射し -reissue-』復刊ドットコム 2017年11月
雑誌
八〇年代エロ劇画界は再編の時代を迎えていた。同年五月号で『劇画アリス』休刊。「黄昏は始まったばかりだけど」(井上英樹)を巻頭に、奥平衣良、近藤ようこ、清水おさむ、吾妻ひでお、森田じみい、坂口尚、加藤カズオ、まついなつき、飯田耕一郎、高信太郎、田口智朗、そして宮西計三の「さようなら」のネームがラストページとなっていた。同誌休刊後『グルーピー』『ロックアウト』などのマンガ誌が同社から出たが、自販機においてマンガ誌はあまりうま味のある商品ではなくなっていたのだ。この二誌には、花輪和一、ケン吉(柴門ふみ)なども作品を描いていたし、『グルーピー』はいち早く「アリス」ロリータ特集を行ない、『シベール』を紹介した。といってもぼくがやったのだが、この時“ロリコンマンガ誌”の企画を出したものの通らず、特集でお茶を濁した形になってしまったのだ。同年海潮社が倒産し、『漫画エロジェニカ』が休刊。また『大快楽』も小谷・菅野体制が崩壊する。
──米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 253頁「第33章/エロ劇画界の再編とロリコンマンガ」
- みのり書房『月刊OUT』1980年12月号
- 米沢嘉博「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータコンプレックス」
少女マンガ、ことにA子たんなぞのオトメチックラブコメを男共が見ると言われ始めた頃に気がつけばよかったのだ。あるいは、江口寿史の『すすめ!パイレーツ!!』や、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』の女の子がかわいいと評判になった頃に注意しておけばよかったのだ。いやいや、金井たつおの『いずみちゃんグラフィティ』のパンチラや、柳沢きみおの『翔んだカップル』など、少女がやたら出始めた頃に大事をとっておけばよかったのだ。だが、もう遅い。吾妻ひでおがもてはやされ、高橋留美子の『うる星やつら』が大人気で、細野不二彦の『さすがの猿飛』が面白く、鳥山明の『Dr.スランプ』のあられちゃんが大評判という「今」となっては、もはや手遅れかもしれない。高橋葉介の『宵暗通りのブン』や、藤子不二雄の『エスパー魔美』等も、それに力を貸している。中島史雄や村祖俊一、内山亜紀(野口正之)等所謂三流劇画のテクニシャン達の単行本が売れ、『リトルプリテンダー』『小さな妖精』等々の少女写真集はレジの横に積み上げられる。今や世界はロリコンで一杯だ!! ─同上
ここに、あの『アニメック』17号(81年4月発行)のロリコン特集「“ろ”はロリータの“ろ”」が登場する。この特集は、その後のいわゆる「ロリコン・ファンジン・ブーム」の方向を決定づけた、あるいは予言した、一つのエポックであった。この特集の登場以前を、私はロリコン誌ブームの「覚醒期」と呼びたい。この特集は、その後のいわゆる「ロリコン・ファンジン・ブーム」の方向を決定づけた、あるいは予言した、一つのエポックであった。この特集の登場以前を、私はロリコン誌ブームの「覚醒期」と呼びたい。この『アニメック』の特集は全25ページ。今から見ると、恐ろしいほどまでにその後のロリコン誌ブームの傾向がエッセンスされている。まず、ロリコン特集とはなっているものの、実はその半分ほどはアニメの美少女キャラ特集に近いものであったということ。このことは、後にいわゆる「二次元コンプレックス」もしくは単なるアニメ美少女キャラ・ファンまでもが「ロリコン」と呼ばれ、あるいは「ロリコン」を自称するようになる、一つのきっかけとなったものと思われる。この点『アニメック』が「二次元コンプレックス」(この言葉が最初に商業誌に現われたのは『アニメージュ』1980年10月号の吾妻ひでおを囲んた座談会であろう)をロリコンに引き込んだと言っても過言ではない。しかしまた、このことがなければ、現在のようなロリコン誌ブームはなかったというのも、正しい見方であろう。同特集の5分の1に当たる5ページ分を『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロイン、クラリスに関する記事で埋めていることも、注目に値いする。主人公ルパンが悪役カリオストロ伯爵を「ロリコン伯爵」呼ばわりする場面があるとは言え、16歳という本来ロリコンの対象となる年齢(14歳以下)とはかけ離れた設定の彼女がその後ロリコン誌の三種の神器の一つのように扱われるようになるのも、やはりこの『アニメック』の特集の影響が大きいのではなかろうか。
──原丸太「ロリコン同人誌レビュー 幻の『シベール』伝説にはじまるロリコン同人誌の覚醒期を経て今日のブーム到来までをロリコン雑誌研究家・原丸太がドキュメント」アニメージュ増刊『アップル・パイ美少女まんが大全集』徳間書店 1982年3月 pp.116-117
- ラポート『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集/ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」
- 月刊『宝島』臨時増刊号『マンガ宝島』JICC出版局 1982年3月
- 北崎正人「三流劇画ムーブメント・エロ劇画ルネッサンスが残したもの」
- 村上知彦「ニューコミック派宣言 “ニューウェーブ”から“ロリコン”“中道定着路線”、そして“ニューコミック”へ」
- 小学館『GORO』1982年3月11日号「成熟した女を愛せないロリコン・ボーイの世界からキミは本当に脱出しているか」
- アニメージュ増刊『アップル・パイ 美少女まんが大全集』徳間書店 1982年3月
- 原丸太「ロリコン同人誌レビュー 幻の『シベール』伝説にはじまるロリコン同人誌の覚醒期を経て今日のブーム到来までをロリコン雑誌研究家・原丸太がドキュメント」。
- みのり書房『月刊OUT』1982年4月号
- 米沢嘉博「ロリコンブームに物もうす」(二次元コンプレックスに警鐘を鳴らす記事。最下段にそれまでの流れも概説)
- 徳間書店『アニメージュ』1982年5月号
- アニメージュ編集部「ここまで来た『ロリコン』ブーム。その最前線を追う!」[322]
当時のアニメ雑誌でロリコンについてよく語っていたのが米澤嘉博だ。同人誌の世界を熟知していた彼は、『アニメージュ』1982年5月号で「〔ロリコンは〕アニメの美少女キャラを題材にした男の子の遊び」「パロディをやりやすい対象として、アニメやマンガの美少女キャラがある」と語った。つまリアニメ美少女にエロチックなことをさせるのはパロディであり、ただの遊びだったというわけだ。似たようなことを「編集家」の竹熊健太郎も語っている。竹熊は『網状言論F改』(東浩紀編著 2003年)で、アニメ美少女のロリコン表現は「最初は『シャレ』とか『パロディ』の一種だったと断言できます」と述べた。だが「数年を経ずして、本当に『それでオナニーする』ことを表明する人々」が登場し、驚かされたという[323]。
- 潮出版社『潮』1982年9月号
- 岩田薫「大学生をおおうロリコン症候群」
- サンデー社『Mr.Dandy』1982年11月号(No.129)
- 目方海里「ロリコンマンガ・ブームの裏に潜む現代社会の抑圧された性」
- 創出版『創』1982年12月号
- 高取英「若者を覆う“ロリコンブーム”の仕掛人」『創』1982年12月号、創出版、140 - 147頁。
- 朝日新聞社『朝日ジャーナル』1984年5月14日号
- 米沢嘉博「『美少女』たちを主人公にしたロリコンブームは、いま同人マンガ誌の世界で大盛況だ。『レモンピープル』を筆頭に同人誌的な季・月刊誌、単行本が、かつての『ガロ』『COM』のような勢いなのだ」
- ふゅーじょんぷろだくと『COMIC BOX Jr.』1984年12月号「特集/ロリータ・シンドローム」
- 石清水了ほか「床下放談:それからのロリコン それからのファンジン」
- 日本出版社『レモンクラブ』1990年12月号〜1991年7月号
- 池本浩一「なつかしの業界ケンカ史─大魔神・蛭児神建の怒り」
- 日本出版社『レモンクラブ』1991年8月号〜1991年12月号
- 池本浩一「なつかしの業界ケンカ史─ブリッコ盛衰記」
- 宝島30編集部+東京公司『宝島30』1994年9月号、宝島社、1994年9月8日。
- パルコ出版『流行観測アクロス』1996年9月号
- 大塚英志「ぼくと宮崎勤の'80年代 第10回 マッチョなものの行方」『諸君!』1998年7月号、文藝春秋、234 - 239頁。
- 大塚英志、吾妻ひでお「吾妻ひでおインタビュー 今度出て行くときは『出て行きます!』って言ってからにします──無頼派の作家が書いた小説、放浪の詩人が編んだ詩集、破滅派のまんが家が描いたまんがそのものを、本当に生きてしまった人、吾妻ひでお。本人が語る、誰のものでもない人生。」『Comic新現実』第3巻、角川書店、2005年2月、10 - 22頁。
- 大塚英志「吾妻ひでおのいる場所」『Comic新現実』第3巻、角川書店、2005年2月、96 - 97頁。
- 大塚英志「特集・真説おたくの精神史―解題」『Comic新現実』第4巻、角川書店、2005年4月、76 - 77頁。
論文
- 木下信一『日本のサブカルチャーにおける《ルイス・キャロル=ロリータ・コンプレックス》像の定着史』日本ルイス・キャロル協会編『Mischmasch』Vol.7, pp.74-95, 2004年。キャロル論だが、貴重なロリコン史概説をふくむ。
- 一ノ瀬健太『クラリス・クライシス ─なぜ日本でロリコン文化が花開いたのか?─』東京藝術大学修士論文 2015年
- Mark McLelland編『The End of Cool Japan―Ethical, Legal, and Cultural Challenges to Japanese Popular Culture』Routledge 2016年8月
- Patrick W. Galbraith「“The Lolicon guy”―some observations on researching unpopular topics in Japan」
- 専修大学講師で文化人類学者のPatrick W. Galbraith(パトリック・W・ガルブレイス)によるおたく文化論。日本におけるロリコンブームとその周辺のサブカルチャーが多角的に分析されている。
同人誌
- 無気力プロ内シベール編集部『シベール』Vol.1-7(1979年4月 - 1981年4月)
- 漫画の手帖事務局『漫画の手帖』3号(1981年2月)
- 漫画の手帖事務局『漫画の手帖』4号(1981年6月)※『シベール』廃刊を伝える小記事が14頁に掲載
4月5日のコミケットでは発売前から100人前後の行列ができ、その異常人気ぶりを示したシベール(本誌3号で紹介)ですが、この7号をもって廃刊となってしまいました。理由としては吾妻ひでおが売れすぎて同人誌になんて描いてるヒマがないこと、編集長が元のアシスタントの仕事にかえること、メンバーがプロでデビューすることなどだそうですが“謎の黒本”だったシベールがあまりメジャーになりすぎたためイヤ気さしたこともあると思います。しかしコミケットのみならず、一般的にもロリコンブームを引きおこしたシベールの存在は伝説化されて残っていくことでしょう。 ─同上
- 望月智充編『別冊アニコム 少女愛好家のために』早稲田大学アニメーション同好会 1981年10月
- 小俣誠+佐野邦彦「こうして私は同人誌した──吾妻ひでお・高橋葉介・高橋留美子・同人誌作品カタログ」
- 緑沢みゆき・このま和歩ほか『でんでんむすめ』このま和歩FC 1982年11月
- 孤ノ間和歩の『シベール』時代の人気キャラなどを特集したファン同人誌
- 米澤英子ほか『米澤嘉博に花束を』虎馬書房 2007年8月
- Up-Beat Underground『懐かしの同人誌:郷愁同人誌専門マガジン』VOLUME.1(70年代〜1985 収集記録)2008年5月
- みぐぞう『くりいむレモン毒本』華ディスコ 2017年11月
- 漫画の手帖事務局『漫画の手帖』79号(2020年4月)
- 降間『ロリコンブームの後を追って』暗黒拠点月 2020年8月初版 / 2021年6月増補改訂
- 白根こま『現代獣耳研究 VOL.1〜2』S猫出版部 2020年8月
- 『シベール』における獣耳作品について詳述あり
WEBサイト
- Matteo Watzky (2021年4月17日). “ロリコンから萌えへ:美少女の冒険” (英語). Full Frontal. 2021年6月20日閲覧。
- 早坂未紀の世界「1970年代の資料」 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 早坂未紀の世界「1980年代の資料」 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 川本耕次(&竹熊健太郎)トークイベント(2011年05月21日) - 倉田わたるの廃墟通信
- SFと美少女の季節(吾妻ひでおと川本耕次の関連年表) - 明治大学米沢嘉博記念図書館
- 沖由佳雄+KAZUNA(計奈恵)トークイベント「『シベール』の頃」 - 明治大学米沢嘉博記念図書館
- 吾妻ひでお美少女実験室 / 吾妻ひでおマニアックス - 明治大学博物館
- トークイベント「『シベール』のころ」 - タマヒメβ版 2011年2月20日
- 吉田正高 (2008年1月20日). “コミケ73カタログ出張版「戦後コンテンツ文化の発展にみるコミックマーケットの意義―その1」”. AIDE新聞(共信印刷Web事業部). 2020年6月20日閲覧。
- 鳥山仁 (2008年3月20日). “児童ポルノQ&A(2)どうして、日本では実写よりも漫画・アニメ作品の影響力が強かったのでしょうか?”. 王様を欲しがったカエル. 2020年2月6日閲覧。
- ばるぼら (2008年10月19日). “ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第30回 ロリコンにおける青山正明(1)”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年4月27日閲覧。
- ばるぼら (2008年10月26日). “ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第30回 ロリコンにおける青山正明(2)”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年1月25日閲覧。
- 黒沢哲也 (2013年1月). “手塚マンガあの日あの時 第26回:手塚萌えの異色作『プライムローズ』の時代!!”. 『虫ん坊』2013年1月号(手塚プロダクションWeb事業部). 2021年5月24日閲覧。
- 1982年頃のロリコンブームについて、米沢嘉博と内山亜紀へのインタビュー
- 米沢嘉博の仕事:暫定版─少女漫画関係を中心に/版元別[雑誌掲載状況調べ]みのり書房
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- 同人用語の基礎知識 / ロリコン誌について - ぱらだいす☆あ〜み
- 1980年代のエロ漫画(成年誌) - メガネの殿堂
- 1980年代のエロ漫画(少年誌) - メガネの殿堂
- 誰も語らなかった美少女漫画の黎明期―シベールと無気力プロの思い出(70年代末~80年代初頭) - Togetter 2020年2月14日
- 伝説のロリコン漫画家・内山亜紀先生のデビュー時期が曖昧な件について検証 - Togetter 2020年3月11日
- 『ジ・アニメ』(近代映画社)'81年11月号の美少女キャラ特集へのつっこみ - Togetter 2020年4月9日
- 1982年女性誌におけるロリコン記事〜男の子の憧れが「姉」から「妹」になったのはいつか- Togetter 2011年12月19日
- モブ顔キャラに性的な意味で萌える話 - Togetter 2019年10月16日
- 意外と知らない「コミケ45年の歴史」を振り返ろう―#エアコミケ Twitter企画 @comiketofficial - Togetter 2020年5月5日
- おたくの語源―”非”大塚英志史観の『漫画ブリッコ』再検証 - Togetter 2020年5月20日
- 1985年夏コミ「男性向け同人誌」の勃興期を語ろう(コミックマーケット28) - Togetter 2021年4月21日
- 無気力プロのこと - 吾妻ひでお作品のあらすじ
- 映画『シベールの日曜日』など - 吾妻ひでお作品のあらすじ
- 少女アリス掲載の作品群 - 吾妻ひでお作品のあらすじ
関連項目
- ルール34 - 匿名画像掲示板「4chan」発祥のインターネット・ミーム。いわく「それが存在するなら、それのポルノがある。例外はない」というもの。これはコミックマーケットで頒布されている二次創作物(ロリコン/面妖本・やおい/ボーイズラブ)などに起源の一端を見ることができる。
- 無気力プロダクション - 吾妻ひでお主宰の漫画制作プロダクション。元来、吾妻ひでおは低血圧で「必要に迫られなければ何もせずゴロゴロしている無気力体質」だというのが名前の由来[324]。
- 機動戦士ガンダム - 『シベール』創刊前日(1979年4月7日)に名古屋テレビ他で放送開始されたテレビアニメ。沖由佳雄は「最初の号をコピーに持って行かなきゃというときに『ガンダム』の第1話が始まったのは覚えてますね」と回想している[28]。その後、折からのガンダムブームで『シベール』でもたびたび同作のパロディが登場するようになる。また同誌から派生した蛭児神建の同人誌『幼女嗜好』や『シベール』臨時増刊号『アニベール』の表紙にもキッカ・キタモトのヌードイラストが象徴的に描かれた。なお『ガンダム』のキャラクターデザインおよび作画監督を務めた安彦良和は吾妻ひでおのファンであり、文庫版『地を這う魚 ひでおの青春日記』(角川文庫・2011年)に「あとがき漫画」を寄稿しているほか、漫画雑誌『月刊COMICリュウ』(徳間書店)が主催する「龍神賞」の選考委員を、第1回から第13回まで吾妻と共に務めていた経験などがある。
- 美少女コミック - 1980年代にロリコン漫画から派生した漫画のジャンル。美少女コミック研究家の稀見理都は「時代と共に変化する不定系の言葉」と前置きをしたうえで「美少女キャラクターをストーリーの中心に据え、彼女たちの美しさ、愛らしさ、健気さ、たくましさ、などの活躍を描くマンガの総称」と定義している[325]。ちなみに「美少女コミック」という名称の名付け親は吾妻ひでおとされ、日本初の美少女コミック誌『レモンピープル』(あまとりあ社)1982年6月号から用いられるようになった。なお同誌は創刊当初「ロリコン・コミック」を自称していたが、この名称が気に入らなかった吾妻が「美少女コミック」と言う名称を提案し、採用されたと言われている[143]。
- ニューウェーブ - 1975年〜1978年頃[326]に始まったコミケット周辺の同人誌ブーム、三流劇画ブーム、マニア誌ブーム(マイナー漫画誌、まんが情報誌、アニメ雑誌、三流劇画誌、自販機本)[327]時に活躍した既成の枠に囚われない新しいスタイルの漫画家(吾妻ひでお、いしかわじゅん、大友克洋、高野文子、ひさうちみちお、いしいひさいち、宮西計三、高橋葉介、さべあのま、柴門ふみ、近藤ようこ、高橋留美子、吉田秋生、森脇真末味、ますむらひろし、川崎ゆきお、諸星大二郎、蛭子能収ら)が一躍注目された非メジャー漫画界のオルタナティヴな潮流を指す。特にそれまで大手出版社の漫画雑誌で活動していた吾妻ひでおは1978年から三流SF少年誌『Peke』(みのり書房)や自販機本『劇画アリス』(アリス出版)などのマイナー誌にマニアックな不条理SF作品を次々と発表するようになり、SF専門誌『別冊奇想天外・SFマンガ大全集PART2』(奇想天外社)に発表した『不条理日記』が第10回(1979年)星雲賞コミック部門を受賞、ニューウェーブ作家としての地位を確立することになる[328]。
- 翔べ翔べドンキー - 1979年に『月刊プリンセス』(秋田書店)で連載された吾妻ひでおの少女漫画。連載開始翌月に『シベール』が創刊されている。吾妻によれば本作は「男性向けに描いた少女漫画」とのこと[329]。
- 川本耕次 - 吾妻ひでおの担当編集者。三流劇画ブーム・ロリコンブームの仕掛け人といわれる[68][67]。コミックマーケットの創設母体となった「迷宮」に学生時代から出入りし、米沢嘉博や青葉伊賀丸と共に三流劇画ブームを牽引する[330]。その後、大学在学中に入社したみのり書房で『月刊OUT』1978年8月号の特集「吾妻ひでおのメロウな世界」を担当し、先駆的なニューウェーブ漫画誌『Peke』を創刊する。同誌では吾妻の『どーでもいんなーすぺーす』(奇想天外コミックス『パラレル狂室』ほか収録)を担当したほか[66]、内山亜紀とさべあのまをデビューさせ[67]、大学時代からの知人であった日野日出志を復活させる[331]。同誌廃刊後はアリス出版に移籍してロリコンブームの火付け役となった自販機本『少女アリス』の2代目編集長に就任し、同誌で吾妻に美少女漫画を初依頼して「純文学シリーズ」(1980年)を描かせた[68]。後に吾妻は『失踪日記』で「私の転機ともいえる作品を描く時に現れる幸運を運ぶ人」と川本について語っている[332]。主な著書に『ポルノ雑誌の昭和史』(ちくま新書)ほか多数。
- お色気漫画 - 1970〜80年代に流行した軽度の性的描写を含む少年漫画・青年漫画のこと(エロ劇画は含まない)。永井豪の『ハレンチ学園』を端緒とする。1970年代の代表作品に『あばしり一家』『やけっぱちのマリア』『モーレツ先生』『あらし!三匹』『ふたりと5人』『やけくそ天使』『ドッキリ仮面』『女だらけ』『スケ番あらし』『快感ぱあマント』『おじゃまユーレイくん』などがある。
脚注
注釈
- ^ 当時『シベール』に吾妻ひでおが関与していたことは暗黙の了解として認識されていた。[4]
- ^ 所蔵機関は明治大学米沢嘉博記念図書館のみ。Vol.1,2,3,4,6の計5冊を閉架所蔵している(一般/1ヶ月会員のみ請求可)。
- ^ http://azumahideosakuhin3arasuji.web.fc2.com/98mukiryoku.html
- ^ https://twitter.com/shindosha/status/553457614084771840
- ^ 現在は伸童舎に保管されている[10]。
- ^ コミックマーケットは当初「参加者の9割が少女漫画ファンの女子高生」だったが、ロリコン同人誌の登場によって、1981年頃には「参加者の過半数は男性が占める」ようになる[16]。
- ^ C1の実質的な主催者であった漫画批評集団「迷宮'75」発行の同人誌『漫画新批評大系』に連載された原田央男の二次創作。
- ^ ヒルダコンとは米沢嘉博の造語で、宮崎駿や高畑勲らが参画した東映動画の劇場用アニメ『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)に登場するヒルダという美少女の熱狂的な愛好家(いわゆる二次元コンプレックス)を指す。ちなみにヒルダコンであると同時に「ロリータ・コンプレックス」という言葉を漫画界で初めて紹介したとされる和田慎二は、漫画雑誌の欄外にある作家紹介スペースや作中のモブシーンでもヒルダを描いたり、アラビアが舞台の作品『炎の剣』のヒロインに「ヒルディアス」という(およそアラビアらしくない)名前をつけたりしている。
- ^ この流れは90年代後半を境に断絶している。ちなみに当時のコミケにはケモノ趣味のサークルも殆どなく現在のケモノ系とは大きな隔たりがある
- ^ http://www.usagimix.com/
- ^ 『AWAKE』とは1984年8月16・17日に杉並公会堂で開催された第3回特撮大会(通称:ウル祭III)で上映されたオープニングアニメのこと。1981年に大阪で開催された第20回日本SF大会(通称:DAICON 3)開会式で流れた短編アニメーション作品『DAICON III OPENING ANIMATION』に触発されて自主制作された。その後、ビデオ発売に向けて予約をとったものの遅れに遅れ、3年後の1987年に『VIDEO AWAKE』(発売元:STUDIO AWAKE)としてようやくVHSソフト化された(収録作品はオリジナル版『アオーク』、改訂版『アオーク改』、実写作品『宇宙刑事オバノン』、最新作『オーパーツ・オーマン』の4本。ちなみに少女役の声優は本多知恵子が務めた
- ^ 批評集団「迷宮」同人。みのり書房『Peke』『官能劇画』元編集長。アリス出版『少女アリス』編集長。群雄社出版『ロリコン大全集』編集人。吾妻ひでおの漫画『美美』『ぶらっとバニー』『スクラップ学園』『不思議ななんきん豆』『仁義なき黒い太陽 ロリコン編』などに登場する「編集者」のモデルとなった。
- ^ 米沢嘉博が「阿島俊」名義で『レモンピープル』創刊号(1982年2月号)から休刊号(1998年11月号)まで18年間にわたり計187回連載していた同人誌紹介記事。創刊当初の題は「ロリコン同人誌ピックアップ」。1982年12月号のリニューアルから「同人誌エトセトラ」に改題。雑誌の性格上男性向け作品を中心としながら全ジャンルを対象とし、時には漫画同人誌の歴史にまでも言及した。休刊から6年後の2004年9月、久保書店から350頁超の大著『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98』として単行本化された。
- ^ http://www.burikko.net/people/awake02.html
- ^ 計奈恵の証言によれば「同人誌の商業化」という指針は『シベール』の頃から沖由佳雄がすでに意識していたという。
- ^ ほとんどの読者は当時ヘア規制されていた成人女性の性器の代替品として少女のワレメ(子供の性器はまだ性器になってない「ただの排泄器官」と当時はみなされていた)目当てに少女ヌード写真集を消費していたといわれている。
- ^ 紙媒体以外では『吾妻ひでお CD-ROM WORLD』(アスキー・1995年)に電子ファイルとして収録されたことがある。
- ^ ただし連載当時の掲載誌『少女アリス』には「純文学シリーズ」の記載はない(連載時は「LOLITA COMIX」とだけ表紙に書かれていた)。「純文学シリーズ」の名称は米沢嘉博が「阿島俊」名義で編纂し、1979年12月31日に発行した同人誌『吾妻ひでおに花束を』(虎馬書房/大日本吾妻漫画振興会)中の「『AZUMA HIDEO の純文学シリーズ』が少女アリスに連載される」(p.101)という囲み記事が初出である。また明治大学米沢嘉博記念図書館が作成した「SFと美少女の季節(吾妻ひでおと川本耕次の関連年表)」によれば1981年5月発行『奇想天外臨時増刊号 吾妻ひでお大全集』(奇想天外社)の年譜と単行本『陽射し』広告に「純文学シリーズ」と記載されたものが商業誌における初出とされているが、それ以前の『月刊OUT』(みのり書房)1980年12月号に掲載された「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータ・コンプレックス」(米沢嘉博)において既に「純文学シリーズ」の記載が確認できる。
- ^ ちなみに自販機本『少女アリス』掲載作品のうち「海から来た機械」は翌1982年3月に奇想天外社から刊行された単行本『海から来た機械』に収録されている。
- ^ 手塚治虫の伝統に忠実な記号的な絵で少女キャラクターの身体の上に残された精液さえもが描写された作品(大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社〈講談社現代新書〉2001年 94頁)。
- ^ 「この原稿いただいた時は感動しました。傑作です」(川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 118頁)「筆を使ったと思われるやわらかい描線で描かれた佳作は『シベール』読者も、ギャグやSFから入ったファンも魅了した」(KAWADE夢ムック『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお 美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』河出書房新社 2011年 222頁)
- ^ 「ますます鋭く文学的になって、編集者としても背筋が寒くなるような思いだった」川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 119頁
- ^ 「この号で私はアリス出版を退職するのだが、ドタバタのせいで写植が間に合わなかったのか、この回だけ手書き文字です」川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 119頁
- ^ この作品は古屋兎丸によってカバーされている(1999年10月/イースト・プレス刊『COMIC CUE』Vol.7掲載。同社刊『Garden』所収)。「ファンタジックなのに残酷でリアルなこの話が大好きでカバーさせていただきました」(古屋兎丸『禁じられた遊び』イースト・プレス 2015年 81頁)。
- ^ 「剣持加津夫が撮影した少女のヌード写真集(モデル梅原多恵)を主にスチル、動画、実写合成した幻想映画」山口且訓・渡辺泰『日本アニメーション映画史』プラネット編 有文社刊 1977年 302頁
出典
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- ^ a b 阿島俊「ロリコン同人誌ピックアップ 第1回 シベール神話の誕生」『レモンピープル』1982年2月号(創刊号)あまとりあ社(2004年9月に久保書店から発行された阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』23頁に再録)
- ^ 奇想天外社『奇想天外』1981年5月臨時増刊号『吾妻ひでお大全集』284頁
- ^ みぐぞう『くりいむレモン毒本』華ディスコ 2017年 87頁
- ^ 「吾妻さんは、少女マンガ的な絵柄を性的なパロディにするという、後の『萌え』へとつながる美少女の様式を成立させる上で、非常に大きな影響を及ぼしました。そして、そうした影響を伝搬させた重要な媒体の一つに、70年代末から80年代初頭にかけて吾妻さんが参加していた同人誌『シベール』があります。しかしこれを手にとって読むことは、今となっては非常に難しいわけです。『そういう影響があった』ということは間接的に語られていますが、今の研究者が一次資料に当たってそれを検証しようとしても、非常にアクセスしにくい。コミックマーケットの見本誌を閲覧することができるようになれば、大変な前進があります。/後の美少女の様式を成立させる上で、吾妻さんのスタイルとともに大きなイメージソースとなったのが宮崎駿さんによるヒロイン像だといわれていますが、こちらも『クラリスMAGAZINE』などの当時の同人誌が閲覧できないと、客観的な検証ができません」コミックマーケット準備会共同代表×森川嘉一郎 (2009年4月30日). “米沢嘉博記念図書館とは何なのか? 第2部 コミックマーケットの見本誌閲覧 第4章 コミケットの見本誌──保存・閲覧することの意義”. 明治大学. 2020年1月28日閲覧。森川嘉一郎の弁。
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- ^ a b 大塚 & 吾妻 2005, p. 19
〔大塚〕──それで話を戻すと、同人誌の『シベール』のメンバーは、じゃあ吾妻さんが集められたんですね。
吾妻「きっかけは私ですけど、シベールメンバーを集めたのは沖由佳雄です。あの時代は狐ノ間和歩〔ママ〕がみんなに人気ありました。みんなペンネームだったからわかりづらいかもしれないけど」
〔大塚〕──確かに『スクラップ学園』のどれかの回のミャアちゃんは、あのへんの人達が描いてるっていうのがありますよね。
吾妻「あれはシベ・メンバーが描いたミャアちゃんを私が模写したんです。あと人気があったのは計奈恵、森野うさぎ……」
〔大塚〕──沖さんがいて、早坂さんがちょっと別格みたいな感じでいて。
吾妻「そうそう、早坂さんは途中でスカウトしたの、こっちが」
〔大塚〕──元は村上もとかさんのとこにいたんでしたね。
吾妻「そうらしいですね。僕も時々手伝ってもらいましたけど、すげーきれいな原稿でね。カラー原稿の時はよく手伝ってもらいましたけど、めちゃくちゃうまいですよ。あの人は別格。『シベール』系のエッチなものは一切描かなかった。ゲストみたいな感じですね。あと川猫めぐみっていう女性がいましたね。この人は池袋で詩を売ってたみたい」
〔大塚〕──路上詩人ですか(笑)。僕、『シベール』周りの人たちはほとんど全員、徳間時代に原稿頼んでるんですよ。. - ^ 川本耕次「1976-79年『A5判の夢』〜『シングル・ピジョン』」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』赤田祐一+ばるぼら著 誠文堂新光社刊 2014年4月発行 162-164頁
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- ^ 相田美穂「コミックマーケットの現在──サブカルチャーに関する一考察」広島修道大学人文学会『広島修大論集・人文編』第45巻2号、2005年、157頁)
- ^ a b 1975年12月のコミックマーケット第1回は、虎ノ門消防会館で参加サークル32、一般参加700人の規模で行われ、主として漫画誌『COM』の流れを汲む大学などの漫画研究会が集まっていたが、『宇宙戦艦ヤマト』の劇場公開以降は、アニメファンクラブの参加が増え、80年代前半にはロリコン・ショタコンやコスプレが盛り上がった。その後、1981年から『週刊少年ジャンプ』に連載された『キャプテン翼』が起爆剤となり、後半にはやおい・アニパロも急成長した(西村マリ『アニパロとヤオイ』太田出版 2002年)
- ^ 「やおい」という言葉は、1970年代末、坂田靖子により同人誌『ラブリ』の中で自嘲的に使用されたのが始まりとなり広まった(岩崎彩香「現代女性の社会適応戦略──〈やおい〉文化の社会学的考察」関西大学大学院社会学研究科院生協議会編『関西大学大学院人間科学──社会学・心理学研究』第63号、2005年、55頁)。周知のように「やおい」は「ヤマなし、オチなし、意味なし」のアクロニムであり、アニパロやボーイズラブなどの源流でもある。
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- ^ 霜月たかなか『コミックマーケット創世記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年, Kindle版, 位置No.全2936中 1831-1840 / 62-63%。ISBN 978-4022732507。
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- ^ 「まあ、そういう……エロ界の革命をね。この世から劇画を駆逐せよとね(笑)。そのころは同人誌もやっていたけど、あれは“やおい”を駆逐する目的だったの。結果的には劇画誌から劇画を駆逐したんだけど。みんなアニメ顔になったんだから(笑)。なかなか劇画もしぶといけどね。でも、子供時代から少年誌を読んでいる子供たちは、そういうアニメ顔でエロを読んでいるんじゃない、今? オレ自身はアニメ顔のエロはきらい。劇画の女性もきらい。ほどよく融合したリアリティーのある絵が好き。今のロリエロ漫画が氾濫してる時代、影丸譲也さんとか、笠間しろうさんの描く熟女がなつかしいよ。『いい肉(しし)してやがるなあ』とかの名ゼリフがあったりね。ロリエロ飽きた」吾妻ひでお『逃亡日記』日本文芸社、2007年1月30日、180頁。ISBN 978-4-537-25465-5。
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- ^ 原 1982, p. 117「皮肉なことに『シベール』の終刊は、むしろロリコン誌ブームを本格化・活発化させることになった。これまでは、ブームといってもしょせんは「シベール・ブーム」であり、あるいは「クラマガ・ブーム」であった。その『クラマガ』がなくなり、『シベール』がなくなったのである。残ったのは「もっとクラマガを」「もっとシベールを」という声だけであった。ポスト・シベールをねらい、あるいはポスト・クラマガをねらう人々が出てきたところで、何の不思議があろう。ましてこれまで『シベール』を買う人の列を横目で見ていた人々にとってみれば、正に「チャンス到来」の感があったに違いない」.
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- ^ 「かつて、青春マンガと実験マンガこそが同人誌マンガのほとんどだった。『COM』を核とするマンガ同人誌の描き手は、マンガと自己表現という関係をかなりダイレクトにとらえていた。自己が勝れば青春マンガ、表現に重きをおけば実験マンガということになるのだろう。マンガは手段であるか目的であるかというアンビヴァレンツに悩んでいたのである。が、24年組を中心とする少女マンガブームの到来によって、陥ち込みめていたマンガ同人誌はまた活気を取り戻す。同人誌即売会を中心とする新しい展開、すなわち同人誌少女マンガブームは、ファッションとスタイルの増殖を意味していた。美少年、ホモパロディを武器としながら、少女達の妄想は快調に進撃していったのだ。青春マンガ、実験マンガ、パロディ、少女マンガ、SFマンガ──これらプロダムにおいては傍流のジャンルが何故、同人誌において主流でありうるのか。それは、描き手と作品の近さである。これらに共通しているのは、描くことの楽しさであり、誤解を承知でいうならば描くことの安易さである。そのぶんだけ、作品を読むことは描き手を見ることでもあったし、センス、感覚、趣味における共感を抱きやすくもあった。同人誌マンガがコミュニケーションであるとは、またそういうことでもあったのだ。70年代はそうやって過ぎていった。そうして“ロリコンマンガ”が現われる。『シベール』を先駆者として、やがてプロダムを混じえて盛り上っていった“ロリコンブーム”とは、「少女」を媒介としたマンガによるコミュニケーションの新しい形態だった。かつて「ホモの美少年」を出す、ただそれだけで成立することができた少女マンガ同人誌における描き手と読み手のコミュニケーションと似た形で、男性の同人誌の描き手達は通じ方を見つけ出したのである。そう、ロリコンマンガとは、同人誌における「少年マンガ」の復権でもあった。どちらかといえばメディア不在の同人誌界において、読み手(買い手)とのコミュニケーションの方法を持っていることは強力な武器である。美少年、アニパロ、そして「少女」。少女は痛ぶられ、ひんむかれ、突っ込まれた。そういった「少女」のみで、コミュニケーションが成立する状況が生まれたのだ」編/漫画ブリッコ編集部『美少女同人誌 スーパーアンソロジー』白夜書房 1984年4月 p.166(阿島俊の解説)
- ^ みのり書房『月刊OUT』1982年3月号 p.60
- ^ 原 1982, p. 117「そこで私は、いわゆるロリコン・ファンジンの中には、X=メルヘンチックなあるいはオトメチックなかわいいものに接したい(見たい、書きたい…以下同)、Y=エロチックなあるいはまたセクシャルなものに接したい、Z=(主にアニメの)ひいきのキャラクターに接したい、の3つのベクトル方向が様々にからみあって存在すること、そしてそのからみ具合によって、大別して3つ、更に分類して6つにほぼ区分できることを示しておいた。その6つとは『シベール』に代表される「ロリコン・マンガ誌」的な'A群(主にX―Y方向)。それよりややZ方向の強い『愛栗鼠』のような「ロリコン文芸誌」的または『プレザンス』のような「ファン会誌」的性格を持ったA群。『AMA』や『ヴィーナス』のような「アニメ・パロディー」の延長線上にある'B群(主にY―Z方向)。その中でも『アニベール』(東京「シベール編集部」81年4月創廃刊)や『のんき』(東京「おとぼけ企画」80年12月創刊、現在4号)3号のようなロリ・キャラ専門誌の'B群(主にY―Z方向プラスX方向)。そして『美少女自身・イマージュ・ソフィー』(神奈川「EIRISHA」81年8月創刊)のような「アニメ少女キャラ・ファン会誌的な'C群(X―Z方向中心)、それに『クラマガ』に代表される「特定アニメの少女キャラ・ファン会誌」的なC群(ほぼX―Z方向のみ)である」.
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- ^ 「80年前後のロリコン系同人誌周辺の状況を一瞥しておくと、79年には蛭子神建〔ママ〕『ロリータ』が既にコミケットに登場しており、吾妻ひでおや高橋留美子の描くキャラが「美少女マンガ」への渇望を高めていた。これを下敷きにして、80年に入るとロリコン同人誌『シベール』ブームが過熱。『クラリスマガジン』(さえぐさじゅんの宮崎駿アニメのパロディ)、『人形姫』(サーカスマットカプセル、千之ナイフ、破李拳竜)、81年には吾妻ひでおの『ミャアちゃん官能写真集』が大人気を博することになる。さらに同じ年には『うる星やつら』や一連の「魔女っ子もの」のアニメ系サークルが登場。『シベール』以外のロリコン系同人誌が増加した(米沢嘉博「同人誌の歴史」『同人漫画大百科』辰巳出版 1992年)」宮台真司・石原英樹・大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』筑摩書房 2007年2月 pp.351-352
- ^ 永山 2014, p. 81「八二年。最初のロリコン漫画誌と呼ばれる『コミックレモンピープル』(あまとりあ社)が創刊された。創刊号の月号は「八二年二月号」だが月号表記は先付けであり、実際には八一年末に書店に並んでいたわけだが、これが世にいう「ロリコン漫画ブーム」の始まりである」.
- ^ 「これは『レモンピープル』編集長の久保(直樹)さんに聞いたんですけど、最初はどうやって作家を集めようかとなった時に、米沢(嘉博)さんに頼んだらしいんですよ。コミケでいろいろ探してきてくれて、それからは芋づる式というか、『レモンピープル』に載った作家が知り合いの作家をどんどん連れてくるという。なので、そのいわゆる同人を商業でやるという感覚で、人が集まってきて、そういう意味では久保さんは特に何も言わずに『レモンピープル』が育っていったと。それで、久保さんは元々、ロリコンとか、そういう文化をまったく分からない人なので、むしろそういう若い世代に勝手にやってもらう。その世代の方が漫画を持ってきて、載せることが逆に良いと考えて、そういう自由な誌面になっていったと。そういう風には言ってましたね。だから、計画的に練られた雑誌ではなくて、本当に時代が作った雑誌だったっていう感じのことを話してくれました(稀見理都)」レモンピープル執筆者が1980年代美少女コミックシーンをゆるゆる語る会 Vol.0(2021年6月14日放送)
- ^ 「吾妻ひでお、阿島俊(米澤嘉博)なども『レモンピープル』には描いているのだが、何と言ってもここの功績というのは同人誌系の作家を大量に起用した事だろう。千之ナイフ、破李拳竜、蛭児神建などがそうした例として挙げられる」川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 193頁
- ^ a b 「迷宮の中で三流劇画、エロ劇画に積極的に関わっていたのは川本耕次、青葉伊賀丸、そしてぼくだ。川本がこの年の六月頃には『別冊官能劇画』の編集者となり、業界につながりが出来、迷宮と深い関わりのあった村上が編集に携わる『プレイガイドジャーナル』に企画を立ち上げるなどの動きは重なっていく」米沢嘉博『戦後エロマンガ史』(青林工藝舎 2010年4月)223P
- ^ 村上知彦「ニューコミック派宣言 “ニューウェーブ”から“ロリコン” “中道定着路線”、そして“ニューコミック”へ」月刊『宝島』臨時増刊号『マンガ宝島』JICC出版局 1982年3月 172-173頁
- ^ a b 藤脇 2015, p. 56「当時社内にも漫画雑誌があったが『劇画ブッチャー』他、「三流エロ劇画ブーム」の最後のようなものしかなく、これでは連載をまとめたコミックス的なものは考えられない。担当もその周辺の出版社から流れてきたような年輩の人で、新しいコミックスなど夢のまた夢だった。ところが、当時の漫画同人誌の周辺で「ロリコン漫画」の静かなブームがあり、これを新書で『ロリコン白書』として出入りのフリーを使って出したら、まずまずの売れ行きで、当時社内の書籍部門は赤字続きだったから、何となくこの路線で行こうということになった。既に、漫画雑誌でなくても、グラフ誌の『ヘイ!バディー』もロリコン色が強くなってきていて、とりあえず増刊でということで、新しい漫画雑誌を『ロリコン白書』を担当したフリーと立ち上げたのが、『漫画ブリッコ』だった」.
- ^ 『漫画ブリッコ』創刊号の発行日は名目上「昭和57年(1982年)11月1日」となっているが、大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(星海社文庫 2016年3月 53頁)には「82年9月に創刊」という記載があり、実際の発売日は発行日よりも約1ヶ月ほど早かった。
- ^ 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年3月 131頁
- ^ a b c d 「明けて1982年、5月31日の日付で『ロリコン大全集』(都市と生活社)が出ている。これも近藤昌良のストック写真ヌードが少々入っているものの、ほとんどが雑多な記事で構成されていて、吾妻ひでおの漫画も『仁義なき黒い太陽・ロリコン編』という、同人誌の内幕モノです。実は、この頃から元ふゅーじょんぷろだくと編集だった緒方源次郎という男が私の仕事を手伝うようになっていて、そのカラーが色濃く出ている。後に漫画家になる白倉由美がまだ女子高生なのにカラーページで着せかえ人形描いていたりして、他にも緒方源次郎が連れてきたような女子高生が何人も参加してます。この本は『責任編集・監修 蛭児神建』となっているが、そちらはほとんど名前だけです」川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 182-183頁
- ^ a b (『漫画ブリッコ』は)白夜書房から出ていたロリコンマンガ誌。元ふゅーじょんぷろだくとの編集長だった緒方氏と大塚某の2人の編集による本で、女性系作家も多数採用した。後に中森明夫が「おたく」について書き、それが「おたく」の語源となった。人脈的には緒方氏系が多く、大塚某の比重はそんなに大きくないように見える。(阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』久保書店 2004年9月 p.68)
- ^ a b c 「『レモンピープル』のライバルとして登場するのが『漫画ブリッコ』(セルフ出版)だが、こちらは多少複雑な経緯をたどっている。当初は石井隆、羽中ルイ、中島史雄などエロ劇画の再録誌として出発するが売上げが伸びず、編集者が交代、大塚英志と小形克宏になる。この小形克宏というのは、私のところで「緒方源次郎」と名乗っていた男です。元はふゅーじょんぷろだくとの編集者だった。ここでは洋森しのぶ(のちの「みやすのんき」)、藤原カムイなどが起用される。藤原カムイは、私が抜けたあとのアリス出版で竹熊健太郎とともにデザイン関係の仕事をしていたらしい。また『少女アリス』の編集部に出入りしていた女子高生の読者の中から、桜沢エリカなどが起用されている。ここは、私が『Peke』で目指したような「少女漫画家ではない女流漫画家」路線を受け継いでますね。中森明夫を起用して「おたく」という言葉を有名にしたのもこの雑誌です。『レモンピープル』や『漫画ブリッコ』はいずれも今はないのだが、売れなくて廃刊したというより、世の中そのものがロリコン系漫画誌だらけになって役目を終えたので引退したという形に近い。気がつけば、あれだけ人気のあった「エロ劇画」はほとんど壊滅状態になっていたのだ」川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 193-194頁
- ^ http://rioysd.hateblo.jp/entry/20090711/p1
- ^ http://www.burikko.net/another/toc.html
- ^ a b 「いまから30年前、私は、『東京おとなクラブ』という雑誌を作っていて、本の町こと神田神保町のはずれにあるビルのワンルームの部屋を借りていた。/当時は、『宝島』や『ポパイ』の元気があったし、『本の雑誌』や『広告批評』なんかも頑張っていた時代である。源喜堂でまとめ買いした『WET』や『Whole Earth Catalog』(スティーブ・ジョブズのスタンフォードでの講演の“Stay hungry,stay foolish”はこれからの引用なのですよ)を見ると、米国でも好きなように雑誌を作っている。新宿の紀伊國屋書店や神保町の書泉ブックマートなど、全国の30くらいの書店が置いてくれた。そこで、もう少し真面目にやろうかなと思って、オフィスを借りたのだった。/ここの家賃を稼ぎだすために商業誌や自販機本のページ編集なんかをやることになった。その頃、ここによくいた数人の間でだけ使われていたのが『おたく』という言葉だった。それを、“東京おとなクラブ Jr.”という連載をやらせてもらっていた『漫画ブリッコ』に、中森明夫が“おたくの研究”というのを書いたのだ。/クラスターとしてのおたくというのは、この部屋から広がったんだよ」遠藤諭 (2013年5月16日). “おたく30周年、発祥の地をご案内しましょう”. 週刊アスキー. 角川アスキー総合研究所. 2020年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月25日閲覧。
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- ^ 永山 2014, p. 92「同誌のコラム欄では竹熊健太郎や中森明夫が健筆を揮っていたが、中森のコラムで椰楡的に使用された「おたく」という言葉が論議を呼び、大塚英志と論争になるという前代未聞の展開によって「おたく/オタク」という言葉が急速に一般化していくことになる」.
- ^ 俺の“難民”時代(1) - たけくまメモ 2007年7月17日
- ^ 「1981年アリス出版に嘱託として勤務。『少女激写』編集&レイアウト&マンガ&イラストその他、何でも屋。初めてのオフセットミニコミ『CRISIS』この時代の原稿も行方不明」藤原カムイのツイート 2021年4月11日
- ^ 高月 2009, p. 152「この時期のロリコンマンガ誌は必ずしもエロ一色だったわけでない。『ニューウェーブ』と呼ばれた従来のカテゴリに収まらない若い描き手の受け皿ともなっていたようだ。例えば岡崎京子が『漫画ブリッコ』でデビューしたこともよく知られている。そうした面からロリコンマンガ誌は、一定数の女性読者も獲得していた」.
- ^ 「高野文子とかさべあのまとかは、1980年代に入ると「コミック・ニューウェーブ」と呼ばれるようになるんだが、柴門ふみも合めて、彼女たちに共通するのは「少女漫画家ではない」という言葉に尽きる。それまで、女性の漫画家がデビューする場というのはほぼ少女漫画誌という媒体に限られていたのが、そういう商業的なジャンルに囚われずに書く場が作られるわけだ。そうした作家を世に送り出したのは、同世代の編集者だった。しかも、学生時代からコミケットで交流していた同人誌仲間がそのまま編集者、作家としてプロになるという、それまでの業界では考えられなかった時代が訪れていた」川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 37-38頁
- ^ 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年3月 54頁
- ^ 永山 2014, p. 92「大塚の凄味はあくまでもエロ漫画というタテマエを守りつつ、実質的にはニューウェーヴ革命を推進してしまったことだろう。藤原カムイ、岡崎京子、ひろもりしのぶ(別名みやすのんき)、故かがみ♪あきら(別名あぽ)、白倉由美など、同誌からデビューまたはブレイクした漫画家は数多いが、その多くは一般の漫画誌へと活動の中心を移していくことになる。フリーだった大塚は同誌と並行して、執筆者がほとんど重なるエロ抜きのアンソロジー・シリーズ『プチアップルパイ』(徳間書店)の編集にも携わり、新しい感覚の漫画とその作家たちを売り出していく」.
- ^ 私事ですが - ネットゲリラ(2009年10月13日配信) - ウェイバックマシン(2011年11月20日アーカイブ分)
- ^ 「それから忘れられないのが、亡くなられる数ヶ月前、昨年の夏に聞いた「ロリコン」に関する話である。当時、私は大学の同級生でもあるヨコタ村上孝之氏の『マンガは欲望する』を編集しており、その中に出てくる「ロリコン漫画の起源」「吾妻ひでおとロリコンの関係」について、たしか手塚治虫文化賞の後の夜を徹しての飲み会で、米沢さんに教えてもらったのだった。その時、米沢さんがおっしゃっていたのは、「『ロリコン』というのを取り上げたのは、実は『迷宮』が最初なんだよ。和田慎二のマンガに「キャベツ畑でつまづいて」〔ママ〕っていう読み切り(『別冊マーガレット』一九七四年六月号)があって、たしかそれにはじめて〈ロリコン〉っていう言葉が出てくる。それから僕たちが『迷宮』で〈ロリコン特集〉を組んだんだ…」これは初めて聞いた話で、「日本ロリコン史」(?)を考える上では貴重な情報だと思う」藤本由香里「実録!「生き字引」伝説」『米澤嘉博に花束を』虎馬書房、2007年8月19日、52-53頁。
- ^ 永山 2014, p. 93「大塚がエロ漫画界を去ることによって、三流劇画論争→ロリコン漫画革命→ニューウェーヴ運動と連なる「運動としてのエロ漫画史」は終焉を迎えたといっていいだろう。とはいえ大塚の「遺産」即ち「カワイイ」「泥臭くない」「オシャレな」「先進的な」スタイルは、後述する「ハイエンド系」や「萌え」という形で美少女系エロ漫画に影響を与えていく」.
- ^ 永山 2014, p. 163.
- ^ ヒロイン手帖 その19 永山薫 表現規制において怖いのは自主規制、問われるのは作家より編集者(文/荒玉みちお・構成/うぶモード特ロリ班) - VOBO
- ^ a b c 稀見 2017, p. 361.
- ^ a b 「今までは『漫画ホットミルク』(旧HM)と、現在の『COMIC ホットミルク』には継続性がないとされていましたが、商標的には継続性があり、復刊として続いていると!!」「わかりにくいですが、雑誌コード的には違うけど、編集部的には同じ雑誌である! との見解だそうで、これは『COMIC ホットミルク』創刊時の編集長の見解とは異なるとのことです。雑誌の継続性については、実は明確な定義がなく、ある意味編集部の意向が最優先されます」稀見理都のツイート 2020年9月25日
- ^ 蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「変態として崇拝される」角川書店 2005年11月 pp.83-88
- ^ 「エロマンガノゲンバ大休刊号」とデビュー作 - ねぐら☆なお公式サイト 2014年11月18日付
- ^ 米沢嘉博「ロリコンブームに物もうす」(みのり書房『月刊OUT』1982年4月号 p.97)
- ^ 高取 1982, p. 144.
- ^ 五藤加純は檸檬社発行の官能劇画誌『漫画大快楽』に連作『移動性高気圧』を連載予定だったが、その直前に同社が倒産したため白夜書房発行の美少女まんが誌『漫画ブリッコ』に移籍連載した。ちなみに双子の弟の中森愛は当時檸檬社の編集者で失業後は東京三世社の『漫画エロチスト』に持ち込み1983年3月号掲載「夜の訪問者」で漫画家デビューした。その後、中森も五藤の後を追って兄弟ともに大塚英志の美少女コミック誌『漫画ブリッコ』(白夜書房)で再デビューする。
〔司会〕―デビューは五藤加純さんのほうが早かったんですね。
五藤 そうですね。私は商業主義が嫌いだったので、お断りしてたのですが、檸檬社の担当の方に泣いて懇願されたので……。
中森 私が聞いた話では、「コイツなら安く使えるなと。」
(フフフ……。ニラみ合う二人)
五藤 この編集さん、私を起用するなどマンガを見る目だけは確かなようで、この人の雑誌には他にも野口正之(内山亜紀)さんや谷口敬さん、火野妖子さんなども執筆していました。
〔司会〕―デビュー作は?
五藤 1982年、檸檬社の漫画快楽王2月増刊号「ああ快感!」(1月15日発売)に掲載された「竹取物語」。
〔司会〕―とても商業主義的な誌名ですね。/で、少女漫画風の集大成みたいのが「移動性高気圧」だと。最初は漫画大快楽に載るはずだったとか?
五藤 路線変更は移動性の前に同人誌や漫画エマニエルという雑誌で読み切りで描いてました。で大快楽で本格的にと、大快楽では連載の予定だったんです。1回目をほぼ描き上げたところで未払い原稿料を残して檸檬社が倒産、そこで締切りが迫っていた漫研時代のOB会同人誌に発表しました。それを当時の漫画ブリッコ編集長大塚英志さんが見て拾ってくれてた、というわけです。—中森愛+五藤加純『二人でロリコメばかり描いていた』ネコ通信社 2019年12月31日発行 pp.38-43「対談:中森愛VS五藤加純 兄弟対決 二人でロリコメばかり描いていた―デビューから漫画ブリッコまで」
- ^ 原 1982, p. 117「更に、ロリコン誌を見てると、その関係者の中に成人向劇画のファンが結構いることに気付く。成人向劇画の美少女路線横行も、間接的にこのロリコン誌ブームに影響を与えているであろうことも、想像に難くない。何しろ最近の成人向劇画誌の中には、『劇画ロリコン』とか『漫画ロリータ』などという題名のものまであるくらいなのだから」.
- ^ a b c 米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 pp.273-280「第35章/ロリコンマンガと美少女劇画」参照。
- ^ a b c 原丸太「ロリコン・まんが誌の現状を総括する」(ふゅーじょんぷろだくと『コミックボックス』1982年9月創刊号,29頁所載)
- ^ 高月 2009, pp. 169–170.
- ^ 高月 2009, p. 170.
- ^ a b MAISON ROLITA - 望月かつみデータベース
- ^ a b 高月 2009, p. 170「『ロリータ・シンドローム』は、「メゾンロリータ」に囚われた幼い美少女をロリコンの「僕」が救い出す「美少女ファンタジーアドベンチャー」。電動ノコギリ責めやナイフ投げからヒロインを救うという、やや猟奇的な内容が盛り込まれていた。翌年にメーカーを替えて出たその続編らしい『マイ・ロリータ』は、いっそう過激だ。これは「お医者さんごっこゲーム」と銘打ち、病院に来た美少女を脱がせてさまざまな処置を施す形で進行する。浣腸、手術、さらに卵子を摘出してクローンを作るステージもあったという」.
- ^ みぐぞうの後ろ向き日記「マイコン創世記を飾ったロリゲーについて語ってみる」(2007年11月16日) - ウェイバックマシン(2019年9月8日アーカイブ分)
- ^ a b c 高月 2009, p. 151.
- ^ 「私の変質者ルックについて、大塚氏は「吾妻先生の漫画の真似をしたのだろう」などと思い込んでいたようだが、これは間違い。私がオリジナルである。先生が、畏れ多くもキャラとして使ってくださったのだ。プティ・アンジェ人形を逆さ吊りにして持ち歩いた事もあったな。とても気持ち悪い。プティ・アンジェについては、今の読者には説明が必要であろう。一つの、ムーブメントでもあったし。『女王陛下のプティアンジェ』という少女向けアニメが、かつて存在したのだ。ミンキーモモやクリィミーマミのようなカリスマ級キャラクターが誕生する以前には、まだまだ貴重な美少女アニメだったのだ。時代は十九世紀末。英国インド総督の令嬢である十二歳のアンジェ・アイリントンが、ヴィクトリア女王から特別なペンダントを貰い、美少女探偵として活躍するという話だ。冗談半分に、このアニメを持ち上げるのが流行った。「人形姫」のメンバーとパロディ同人誌を作り、吾妻先生にも御執筆いただいた。私も、ヴィクトリア朝時代のロンドンで少女が、犯罪捜査などという危険な真似をしたらどうなるかというポルノ小説を書いた記憶が有る。リアリズムリアリズム。いやあ、確かにキャラの設定は可愛かったんですよ。惜しむらくは、作画と脚本と演出にまるで恵まれていなかった。裏番組が(東京の放送では)宮崎駿の『未来少年コナン』だったというのも不運である」蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「プロのエロ・ライターに」角川書店 2005年11月 pp.75-79
- ^ 高月 2009, p. 150.
- ^ 高月 2009, pp. 148–151.
- ^ 「ロリータアニメビデオ、すなわち美少女ハードコアアニメビテオって奴がケッコー売れているらしい。中島史雄アニメシリーズの第3作『仔猫ちゃんのいる店』(ワンダーキッズ製作)やら『くりぃむれもん/媚・妹 Baby』(フェアリーダスト製作)とかがビデオ売りあげベスト10に入っていたりして、ポルノビデオに比べりゃ、ずいぶん金のかかるオリジナルアニメだが、それでも充分元がとれて、もうかっていると思える。そうなると次々に新作がでてくるわけで、「くりぃむれもん3」は計奈恵と、このま和歩キャラデザになる『SF超次元伝説ラル』とのこと。ロリコンマンガのブームによって出てきた同人誌出身作家と、ロリータアニメってのは、相性がいいみたいだ。まあ、中島史雄のキャラを使ってた前作のビデオに比べて『仔猫ちゃんのいる店』がよかったのは、やっぱりあのアニメっぽい今風の絵だ。「くりぃむれもんシリーズ」ははじめからそのへんを狙って作っていて、アニメ、ロリコンファンにぴったりくるフィーリングをもってたわけなのだ。そのへんの製作秘話なんかも含めて「くりぃむれもんシリーズ」の原画や設定資料を本にしたのが悶々亭の『MONMON select N02.ぴいちぱい』、サブタイトル「い・け・な・いアニメ原画集」だ。一種の「設定コピー集」といえないこともない。こういったものは即売会で販売を禁止しているところが多い。要するに著作権の問題があるからだ。しかし、原画を担当した本人や製作会社のOKがあれば、まあ構わないともいえる。この『ぴいちぱい』なども本文を読む限りでは、関係者が出した同人誌ということになるのだろう」阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』久保書店 2004年9月 pp.70-71「第24回/ロリコンアニメとその周辺」(1985年1月)
- ^ a b c d e f g h ばるぼら (2008年10月19日). “ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第29回 ロリコンにおける青山正明(1)”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年4月27日閲覧。
- ^ a b 高月 2009, p. 55「一連の少女ヌード写真集のなかで業界に大きなインパクトを与えたのは、1979年の『LITTLE PRETENDERS 小さなおすまし屋さんたち』(山木隆夫撮影)だという。これはファインアートをうたったそれまでの写真集と異なり、アダルト市場のムック系写真集として出版された。1981年10月の『週刊宝石』によれば、『LITTLE PRETENDERS 小さなおすまし屋さんたち』は20万部売れたという。また同年続いて出た『les Petite Fees ヨーロッパの小さな妖精たち』(石川洋司撮影)と1981年の『ロマンス』(会田我路撮影)は、各25万部とされている。当時はほかにも近藤昌良、力武靖といった写真家たちが、膨大な点数の少女ヌード写真集を残した」.
- ^ 高月 2009, pp. 78–79.
- ^ a b 永山 2014, pp. 86–87.
- ^ 一ノ瀬健太『クラリス・クライシス ─なぜ日本でロリコン文化が花開いたのか?─』 東京藝術大学修士論文 2015年
- ^ 原 1982, p. 116「アニメ雑誌ではじめて「ロリコン」なる言葉がクローズ・アップされたのである。『月刊OUT』(みのり書房)80年12月号の米沢嘉博「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータコンプレックス」がそれだ。米沢がそこで対象にしたのはもちろんプロ作品だが、後にロリコン・マンガの二大宗家の如くに言われるようになる吾妻ひでおと野口正之(内山亜紀)との扱いがとりわけ大きいことは注目される。また「ロリータ・コンプレックス」いう言葉が元来学術用語だということを充分明らかにしていないことにも、注意を要する。意味があいまいなまま「ロリコン」という言葉だけを世に広めてしまったのである。このことは、後に本来のロリータ・コンプレックスとは異なるものまでが「ロリコン」と呼ばれるような状況を生み出してしまうきっかけになったと思われる。また『シベール』の名がはじめて商業誌に現われたのも、この時が最初だと言われる(引用者注:正確にはアリス出版の自販機本『グルーピー』において米沢嘉博が企画したアリス特集で『シベール』を取り上げたのが最初だと推定される)」.
- ^ 森川 2011.
- ^ 稀見理都のツイート 2017年8月21日
- ^ 高月 2009, pp. 158-159「もともと初期のロリコンマンガでは、性描写そのものはさほど露骨でなかった。非アダルト系のかわいいタッチで描かれた美少女を任意の性的な文脈に置いた時点で、目的の多くは達成されていたのかも知れない。幼い美少女のエロチックなシーンは、しばしばSFや少女マンガ的な手法で空想的なファンタジーに仕上げられている。劇画的な大人の体臭がするリアリズムは、むしろ積極的に排除されていたようだ。時にはそうした雑誌の読者欄で、読者と作り手が「ロリコンマンガに裸は必要か」といった議論までしていた。そうした状況からの転換点となったのが、1984年に自販機本と青年誌でデビューした山本直樹(森山塔)だ。後にメジャーな青年誌で人気作家となる彼は、当時「ニューウェーブ」と呼ばれたアンダーグラウンドな作家の1人だった。『シベール』に影響されながら同人誌を始めたという山本は、蛭児神建が編集長を務めた『プチパンドラ』、アダルトアニメ「くりいむレモン」シリーズなどに関わったこともある。彼はエロ劇画に萌えない若者たちに向けて露骨で挑発的、またしばしば嗜虐的な性描写をして見せた。1991年に東京都の条例で初めて有害コミック指定を受けたことも有名だ。エロ劇画的なポルノ全股と比べて、山本の性描写はナイーブな若者らしい冷めたシニシズムが強調されている。これが多くの読者から支持された要因のひとつだろう。また同時に、生々しさを追求した露骨なセックスシーンは、興奮度が高いオナニーのおかずとしても広く歓迎された。つまりロリコンマンガ市場の需要が、吾妻らの観念的な世界から実用性が高いおかずヘシフトしたわけだ。『レモンピープル』をはじめとするロリコンマンガ誌は、21世紀を待たずに廃刊した。だがその流れは表現を実用的な方向ヘシフトさせつつ、「美少女コミック」として現在の成年向けマンガの主流となっている。もっともその多くは恐らく市場の嗜好を取り入れた結果、あるいは規制をふまえて18歳未満を連想させる描写を排除した結果、スイカのような巨乳の成熟した体に幼いアニメ美少女の顔を取りつけたヒロインが描かれるようになった」.
- ^ a b 稀見 2017, p. 362.
- ^ a b 大塚 & 吾妻 2005, p. 11
〔大塚〕──二度目の失踪は確か、自費出版『夜の魚』の「あとがき」をお書きになった直後にですよね。二度目の「取材旅行」に行ってしまった。そこらへんは何でだったんですか?(笑)。僕はそれまで、吾妻先生と直接お仕事したことはなくて、沖由佳雄さんとか、アシスタントの人たちとよく仕事してたんだけど、「どこぞの編集が逃げられた」という話を他人事のように聞いてて。だから『夜の魚』の時も、あとがきを書き下ろしてもらって「無事に終わったな」と思ってたら、そのあとがきを宅配便でうちに送ったその足でいなくなられたという(笑)。
吾妻「何か……。突然嫌になったんだよな。一回目の時はいろんなプレッシャーがあってね。吾妻バッシングっていうのがあったの。ファンの人たちからも「最近のは面白くない」とか言われてね。俺の方もなんか変な妄想が出ちゃって、みんなが俺の悪口を言ってるような気がして。夜中に電話して怒鳴りつけたり。ちょっと精神的に変になってた。それで、ちょっと人に会いたくないなぁという感じで逃げ出したんです。でも二回目の時は……ちょっとよく覚えてないんだけど(笑)」
〔大塚〕──それが知りたかったんですけどね。あの時、僕が何かしたんだろうかって(笑)。
吾妻「いやいや、関係ないですよ」
〔大塚〕──まあでも、ちょっと嬉しかったんですけどね、やっぱ、編集者は吾妻ひでおに逃げられてなんぼっていう(笑)。
吾妻「あれは困りましたよね……。でも一応原稿は入れましたから(笑)」
〔大塚〕──徳間書店の校条満さんから連絡があって、「お前のところに原稿送っていなくなったって、お前いったい何やったんた!」って叱られたんですよ(笑)。
吾妻「そうなんだ。すいません(笑)」. - ^ 最初の失踪は、マニアックなファンとの摩擦が原因だった。
「『不条理日記』以上の作品が描けなかったから。僕のようなナンセンス志向の作家は、自己模倣のマンネリ化が避けられない。ペーソスの方向に逃げられれば楽だったけれど、自分のギャグを捨てたくなかった」
つげ義春の『無能の人』や花輪和一の『刑務所の中』にも比肩する本書だが、吾妻さん自身は「いつも通り描いただけで、何の気負いもなかった」という。「ギャグ漫画家は自分を笑い物にするのが基本だから、自己憐憫(れんびん)とは無縁なんです」
一時は完全なアルコール依存症に陥ったが、今年で断酒5年目。精神状態はかなり落ち着いたという。「家で待っていてくれた妻のおかげです。でも、昨年は月産4ページでほとんど収入ゼロ。今のおたく文化はよくわからないけれど、コミックマーケットで同人誌売って、生活の足しにしています」
石田汗太 (2005年3月30日). “「おたく文化」の祖、体験ギャグで復活 漫画「失踪日記」の吾妻ひでおさん”. 読売新聞・東京夕刊 - ^ 「あの頃、吾妻先生が壊れ始めたのも私の狂気を加速した。「マニアが追いつめたんだ」とファンクラブの誰かが発言した。だとしたら、わたしも共犯だ。罰せられなければならない。死刑だ、死刑だ、あははははは。蛭児神建を殺さなければならない。私の魂の闇の中で、幼い裸の子供が泣いていた。「苦しいよお……苦しいよお……早く、殺してよお……」よおし、殺してやる。私は心の内で少年の首に手をかけた。しかし、死なない。いくら力を込めて絞めても、死んでくれないのだ。少年は、目から真赤な血の涙を流しながら真っ直ぐ私を見つめている。やがて、少年は姿を変える。巨大な銀色の蛇になって私の喉笛に牙を立てる。「ああ……やっと、これで死ねる……」私は陶酔し、そして幻覚から覚める。そして泣く。私は、全身から目に見えぬ血を流していた。誰も、それに気づいてはくれなかった。私は、潰れなければならない。どんな理由があろうと、他人様の悪口を書く以上は消えなければならない。それはいつにしよう……安易に原稿を落とす馬鹿を非難している以上、原稿を落とした時に決めよう。そして落とした。エロ劇画誌のコラムである。わざとではない。もう、書けなくなっていたのだ」蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「『蛭児神建』を殺す」角川書店 2005年11月 pp.116-117
- ^ 谷口敬のホームページ「水の戯れ」から単行本『フリップ・フロップ3』解説 - ウェイバックマシン(2013年11月28日アーカイブ分) - 谷口敬の旧サイトのアーカイブ
- ^ 大塚 1992.
- ^ a b 高月 2009, pp. 158-159「もともと初期のロリコンマンガでは、性描写そのものはさほど露骨でなかった。非アダルト系のかわいいタッチで描かれた美少女を任意の性的な文脈に置いた時点で、目的の多くは達成されていたのかも知れない。幼い美少女のエロチックなシーンは、しばしばSFや少女マンガ的な手法で空想的なファンタジーに仕上げられている。劇画的な大人の体臭がするリアリズムは、むしろ積極的に排除されていたようだ。時にはそうした雑誌の読者欄で、読者と作り手が「ロリコンマンガに裸は必要か」といった議論までしていた。そうした状況からの転換点となったのが、1984年に自販機本と青年誌でデビューした山本直樹(森山塔)だ。後にメジャーな青年誌で人気作家となる彼は、当時「ニューウェーブ」と呼ばれたアンダーグラウンドな作家の1人だった。『シベール』に影響されながら同人誌を始めたという山本は、蛭児神建が編集長を務めた『プチパンドラ』、アダルトアニメ「くりいむレモン」シリーズなどに関わったこともある。彼はエロ劇画に萌えない若者たちに向けて露骨で挑発的、またしばしば嗜虐的な性描写をして見せた。1991年に東京都の条例で初めて有害コミック指定を受けたことも有名だ。エロ劇画的なポルノ全股と比べて、山本の性描写はナイーブな若者らしい冷めたシニシズムが強調されている。これが多くの読者から支持された要因のひとつだろう。また同時に生々しさを追求した露骨なセックスシーンは、興奮度が高いオナニーのおかずとしても広く歓迎された。つまりロリコンマンガ市場の需要が、吾妻らの観念的な世界から実用性が高いおかずヘシフトしたわけだ。『レモンピープル』をはじめとするロリコンマンガ誌は、21世紀を待たずに廃刊した。だがその流れは表現を実用的な方向ヘシフトさせつつ、「美少女コミック」として現在の成年向けマンガの主流となっている。もっともその多くは恐らく市場の嗜好を取り入れた結果、あるいは規制をふまえて18歳未満を連想させる描写を排除した結果、スイカのような巨乳の成熟した体に幼いアニメ美少女の顔を取りつけたヒロインが描かれるようになった」.
- ^ 土本 1989, pp. 105-106「青少年向けのエロ漫画には、いわゆるロリコン漫画と美少女漫画の二系統があるらしい。発行部数十四万部と業界ではトップを走る『ペンギンクラブ』は美少女漫画雑誌。編集長で漫画プロダクション「コミックハウス」社長の宮本正生さんによれば、「幼女趣味のロリコン漫画は、同人誌『シベール』の出現でいっとき隆盛を誇ったけれど、やがて美少女漫画に人気が移行した」という。理由はアニパロ。アニメ世代がアニメ作品に出てくる少女キャラクターにエッチをさせるパロディ漫画に人気が集まり、主人公が幼女から少女に変わったというのだ。しかも大人のエロ雑誌に出てくる劇画調の美女ではなく、アニメに出てくる美少女が主人公になった、と」.
- ^ 「ロリコン=少女のくびきから逃れた男性たちは、アニパロと重なりながら、新たなかたちの『エロマンガ』へと向かい始めていた。メカと少女、SF、ホラー、スプラッター、SM、Dカップ、レズ、猟奇…より妄想は、拡大していき、85年頃より商業誌に登場した美少女コミック誌(ロリコン誌とは違う)とリンクし…89年、幕張メッセに移ったコミケットによって一気に爆発することになっていく」米沢嘉博「同人誌の歴史」『同人漫画大百科』辰巳出版 1992年 126頁
- ^ 「短い頁数、パロディ、コメディを基本に、SF、ホラー、ファンタジーなどマニアックなテーマを扱うロリコンマンガは、多くは素人くさいマニア向けマンガでしかなく、さほど意識的に『エロ』が求められていたわけでもない。同人誌界では、八三年頃より高橋留美子の人気が高く、描かれる少女たちもグラマラスになりつつあった。貧乳、ツルペタ、幼い──というロリータという特殊な対象から、より一般的な若い女体=美少女への変化は、よりエロマンガ的なイコンへと向かいつつあったのである」米沢嘉博「ロリコンマンガから美少女コミックへ」『戦後エロマンガ史』青林工藝舎、2010年4月22日、285頁。ISBN 978-4-88379-258-0。
- ^ 高月 2009, pp. 64-65「雑誌や写真集などでのロリコンブームは1980年代後半から徐々に失速し、1988〜89年の幼女連続誘拐殺人事件を挟んで沈静化していった。この事件が業界に打撃を与えたというのが定説だが、ほかの要因もあったらしい。『少年愛者 神話とタブーに包まれた彼らの本当の姿を探る』(谷口玲著 2003年)によれば、「ごく初期はつながりのあったおたく文化と実写派のロリコンの文化は、この頃から急速に関係を薄くしていった」という。「この頃」とは、単純化されたタッチで幼女を描く初期のロリコンマンガから、「トランジスタグラマー的なボディラインのキャラクター」に人気がシフトし始めた1980年代後半のことだ。同じ時期からオタクの来店が減ったというロリコン関連コンテンツ専門店の証言もある。こうしてオタクなどのライトな層が去ったことも、ブームが失速した理由のひとつだろう」.
- ^ 森川 2011, p. 186.
- ^ 永山 2014, pp. 95–97.
- ^ 永山 2014, p. 116「当時の読者たちが、三流劇画を拒否し、可愛いデザインのロリコン漫画]を歓迎したのは、リアルであからさまな性表現とエロティシズムに対する忌避が大きく働いていたからでもある。何しろ、ハードな性描写を入れると読者から「○○ちゃんにヒドイことしないで!」という抗議のハガキが舞い込んだ時代なのだ。当時は「仮にもエロ漫画に対してそれはね―だろ!?」と吹き出したものだが、後に「萌え」と呼ばれることになる「可愛い嗜好」は性交や性器の描写を必ずしも必要としない。性的な要素は「可愛いミーム」の中に巧妙に隠されている。逆説的にいえば、隠蔽され、抑圧されているからこそエロチックなのだ」.
- ^ a b 「私的主観ではシベールの頃からのロリコン漫画が劇画寄りに成ったのも やはりシベールの某作品からなんですよ。恐らく当事者も忘れていると思いますけど漫画初心者の私には印象的な「意見の相異」がシベメンバーで起こりました。今 思い返すとリバウンドなのかなぁ?(;^^;)」計奈恵のツイート 2016年10月7日
- ^ a b 「本人の記憶に在るか判りませんケドw シベールでINU氏の作品が劇画に寄った時 メンバー間で是非の意見が判れた事が在るンですよw 勿論 拒絶と言う物では無く「シベール〔ロリコン〕向きか? 否か?」結構 普通の漫研っポイでしょ?(;^^;)」計奈恵のツイート 2019年7月3日
- ^ a b c 『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」 P109
- ^ 『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」P97
- ^ a b c 『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」 P94
- ^ a b c 無気力プロのこと - 吾妻ひでお作品のあらすじ
- ^ 「シベールの前進〔ママ〕は吾妻先生とアシスタントのファンへの返礼コピー誌と聞いてます。ロリ漫画同人誌の初期メンバーは先生とアシの沖さん狐ノ間さん INUさんと私でこれもコピー誌でした。当時 私がアニメ資料同人誌を出してたのでオフを勧めて そこからメンバーも増えました」計奈恵のツイート 2016年7月29日
- ^ 大塚 2005, p. 17.
- ^ http://azumahideosakuhin3arasuji.web.fc2.com/
- ^ http://azumahideosakuhin3arasuji.web.fc2.com/98mukiryoku.html
- ^ a b c 佐野邦彦 (2016年3月17日). “吾妻ひでお:『ワンダーAZUMA HIDEOランド2』(復刊ドットコム)”. WebVANDA. 2020年4月27日閲覧。
- ^ 高月 2009, p. 99「『太陽の王子 ホルスの大冒険』に登場した少女ヒルダは、アニメブーム以前のマニアにとって重要な存在だった。1971年にデビューしたベテラン少女マンガ家の和田慎二も、一部の作品でヒルダヘの偏愛をアピールしている。1950年生まれの和田は『太陽の王子 ホルスの大冒険』公開時18歳だった。アニメ雑誌の一般的な論調としては、白娘やヒルダヘの素朴な憧れが二次コンのルーツとして位置づけられたようだ。またヒルダを元祖ロリコンキャラクターとして扱った例(引用者注:阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』p.52によれば『ルパン三世 カリオストロの城』に登場するクラリス人気の流れでの再発見でもあったらしい)もあちこちで見られる」.
- ^ a b 吾妻ひでおのレア作品集、同人誌掲載作からホームページ日記まで - コミックナタリー 2015年1月2日
- ^ 降間『ロリコンブームの後を追って』暗黒拠点月 2020年8月 47-48頁
- ^ コミックマーケット準備会『コミックマーケット30’sファイル』青林工藝舎 2005年7月,P243
- ^ 降間『ロリコンブームの後を追って』暗黒拠点月 2020年8月 55頁
- ^ a b 漫画の手帖事務局『漫画の手帖』6号(1981年12月)5頁「吾妻ひでおする人のぺえじ」
- ^ 緑沢みゆき・このま和歩ほか『でんでんむすめ』このま和歩FC, 1982年11月, 44頁「このま和歩不完全作品リスト」
- ^ a b ホワイトシベール - まんだらけオークション
- ^ a b c 『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」 P93
- ^ コミックマーケット準備会『コミックマーケット30’sファイル』青林工藝舎 2005年7月,P265
- ^ 「今日のミャアちゃんは1981年7月の「お弁当大好き」からです。この年「吾妻ひでお大全集」「陽射し」が発売され、コミケ18では「ミャアちゃん官能写真集 第1巻」が頒布されました。参加者は1万人でしたが、1日の頒布部数は、まだ破られていないそうです」虎馬書房のツイート 2018年1月21日
- ^ 『ミャアちゃん官能写真集 Part.3』は復刊ドットコム版『スクラップ学園』下巻にも再収録されている(Part.1は上巻に再録)。
- ^ 計奈恵のツイート 2017年11月24日
- ^ ヨコタ村上 2006, pp. 121-122「日本のロリコン・ブームのきっかけがクラリスなのかセイラ・マスなのかは、今のところ断定できる根拠はぼくにはない(ただ、発表年代から考えてもクラリスの方が早いようには思えるが)。さらに言えば、もう一つ別の「起源」も考えられる。吾妻ひでおの作品群がそれで、彼が1980年頃に『少女アリス』に掲載していた作品が人気となり、そこにもられていた美少女のエロティックな表現が「ロリコン漫画」として認知されるようになり、ジャンルとして定着していったことは、すでに常識になっている。しかし、吾妻自身が自分の作品を「ロリータ・コンプレックス」という範疇で理解していたのかどうか筆者には定かではない。少なくとも、筆者が見た限りでは、当時の作品に「ロリコン」という言い方を吾妻が自ら使うことはなかったようである(引用者注:ただし吾妻が『シベール』7号に発表した美少女イラスト集『妄想のおと(ロリコン編)』では「ロリコン」という言葉が頻繁に用いられている)。それらを考えると、ロリコン・ブームが1970年末尾から1980年代はじめに、何らかのきっかけで始まったことだけが現在の段階ではいえることだ」-第5章 ロリータ・コンプレックスの系譜学「妹萌え」の起源
- ^ 高月 2009, p. 154.
- ^ a b 「一貫して海外SF小説を元ネタにしたパロディで成立している作品群。マイナーだがニューウェーブマンガの先駆けとなった『Peke』という雑誌だからこそ可能だった連載と言えよう。『つかれる方程式』はトム・ゴドウィンの『冷たい方程式』。『惑星間スカウター』はアーサー・K・バーンズの『惑星間の狩人』。『少女と犬と猫とブタと馬と牛と……』はハーラン・エリスンの『少年と犬』。『すーぱーがーる』はアメリカン・コミックスの『スーパーガール』。『恍惚都市』はアイザック・アシモフの『鋼鉄都市』。『いもむし以上』はシオドア・スタージョンの『人間以上』。それぞれのSF小説を題材に取り上げて、パロディにするとともにギャグと不条理を味付けした独特の世界観を表現している。なお、『すーぱーがーる』は後の『ななこSOS』の原型となった作品で気の弱いすーぱーがーるが登場する」KAWADE夢ムック『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお 美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』河出書房新社 2011年 211頁「吾妻ひでお作品解説/どーでもいんなーすぺーす」
- ^ a b 「当時みのり書房では、宇宙戦艦ヤマトの特集で当てた『月刊OUT』が看板雑誌で、その延長で「SFっぽい漫画雑誌」を作ろうという事になったわけだ。そこで創刊されたのが『Peke』で/私は大学生時代からの知人であった日野日出志を復活させ、やはりコミケット周辺の同人誌作家であった「さべあのま」をデビューさせ、『月刊OUT』に持ち込みで来た野口正之をデビューさせた。野口正之はその後「内山亜紀」と名前を変えてロリコン漫画の帝王と呼ばれる量産作家になるんだが、もうひとつ『Peke』の功績といえるのは、少年漫画誌から青年劇画誌へと舞台を移して漫画を描き続けていた吾妻ひでおを起用して、SFのパロディ連作を描いてもらった事だ。これをきっかけにして、吾妻ひでおはSF関係の仕事が多くなり、 ついでにコミケットにまで参加してロリコン同人誌を作って売る事になる。もっとも『Peke』は商業的には儲かるところまでは行かず、6号で潰れる」川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 36-37頁
- ^ a b KAWADE夢ムック『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお 美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』河出書房新社 2011年 222頁「吾妻ひでお作品解説/陽射し 少女アリス掲載の作品群」
- ^ a b はぁどしゅ〜る編集部「吾妻ひでおサイン会のお知らせ」(まんだらけ出版部『まんだらけZENBU98号』2020年4月15日発行,578頁)
- ^ a b 吾妻ひでお『逃亡日記』日本文芸社 2007年 179頁
- ^ KAWADE夢ムック『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』 河出書房新社、2011年4月30日、18頁
- ^ 川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 111-119頁
- ^ 担当編集者が「午後の淫荒」を「午後の曳航」になぞらえて「純文学シリーズ」と名付けたともいわれる(KAWADE夢ムック『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお 美少女・SF・不条理ギャグ、そして失踪』河出書房新社 2011年 222頁)。92年刊行の『夜の魚』(太田出版)収録以降「午後の淫行」に改題。
- ^ アリス出版『The Buther』創刊号の巻末広告より
- ^ 吾妻ひでお『陽射し』(1981年 奇想天外社)奥付
- ^ 青山, 志水 & 斉田 1994, p. 139「オランダとかデンマークとか海外で70年代初頭あたりにポルノが解禁されて、チャイルドポルノというのが出てくる。それがダッーと日本に流れ込んだのが『モペット』とか……」.
- ^ 木下信一『日本のサブカルチャーにおける《ルイス・キャロル=ロリータ・コンプレックス》像の定着史』日本ルイス・キャロル協会編『Mischmasch』Vol.7, pp.74-95, 2004年。
- ^ 高月 2009, p. 33.
- ^ 高月 2009, p. 56「過激な児童ポルノ雑誌、また日本でそれを複写印刷したコピー品も、ポルノショップや通販などで販売された。1976年には『ヌーディスト・モペット』というヨーロッパの児童ポルノ雑誌を複製して販売した業者が摘発され、1980年にわいせつ図画販売などで有罪判決を受けている。業者は局部をマジックで塗りつぶした状態で販売したが、シンナーなどで簡単に復元できた点などからわいせつ図画と判断された。結果的に子供の性器も「人の性欲を刺激、興奮させ、正常な性的羞恥心を害する」と裁判所が認めた格好だ」.
- ^ ヒロイン手帖 その19 永山薫 表現規制において怖いのは自主規制、問われるのは作家より編集者(文/荒玉みちお・構成/うぶモード特ロリ班) - VOBO
- ^ 高月 2009, p. 58.
- ^ 青山, 志水 & 斉田 1994, p. 139「『ニンフ・ラバー』とかね。少女と男がほんとに絡んでるヤツが77、8年ぐらいからちょこちょこ日本に入るようになった」.
- ^ 青山 1994, p. 164「日本男子の眠れるロリコン心に初めて揺さぶりをかけたのは、作者不詳の海外ノベル『ペピの体験』(富士見書店)〔ママ〕と、アメリカから入荷された写真集『モペット』シリーズである。どちらも、市場に出回りはじめたのは77年の夏のことだ。『ペピの体験』は、少女をメインキャラに据えた究極のチャイルド・ポルノ小説。もう一方の『モペット』は、米ヌーディスト村にカメラを持ち込んでの、いたって健全な(?)単体少女ヌード写真集。とはいえ、幼い乳房とヘアなしのワレメのオンパレードは、ポルノ後進国日本にあって、それなりのセンセーションを呼び、週刊誌などに取り上げられもした」.
- ^ ほぼ月刊プチトマトどっとこむ - 清岡純子どっとこむ
- ^ 「個人的なことにもなるが、迷宮として漫画批評誌『漫画新批評大系』を出していた七七年の時点において少女漫画とエロ劇画は、新たな可能性を持つ漫画ジャンルとして取り組みを始めることにもなっていった。七七年十二月に出た『漫画新批評大系』(第2期/VOL.1/迷宮77)において、ぼくは「戦後少女マンガの流れ」の連載を開始し、同時に川本耕次と共に「三流劇画ミニマップ」を“三流劇画共闘会議”名で掲載した。(中略)たぶん、ここから三流劇画ブームはスタートしていったはずなのである」米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 221P
- ^ a b c 川本耕次(&竹熊健太郎)トークイベント(2011年05月21日) - 倉田わたるの廃墟通信
- ^ 「それから最近奇想天外社から出た吾妻ひでおさんの『パラレル狂室』は実に面白い。幻の雑誌『ペケ』に連載当時、全国のロリコン少年達の胸をときめかした『ど〜でもいんなーすぺーす』も収録されています。やっぱり、あの方は天才だ! 一度お会いしてみたいものだ」蛭児神建「ロリコン図書リスト」(無気力プロ『シベール』Vol.2, 1979年7月27日発行, 43頁)
- ^ 虎馬書房『はぁど・しゅ〜る新聞』VOL.1,1980年3月15日発行
- ^ a b ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』講談社〈講談社現代新書〉2004年5月
- ^ 高取英『性度は動く セックスは文化とヤル』情報センター出版局 1984年 p.199
- ^ 高取英「三馬鹿劇画ブーム」(ダーティ・松本の同人誌『発禁20周年本 真・堕天使たちの狂宴』所載)
- ^ 青山 1994, p. 164「『モペット』ショックからおよそ1年半。79年の1月にロリコン・ブームの実質的な火付け役と言われる『リトル・プリテンダー』がミリオン出版から発売される。海外ものではなく、日本人少女(5人)の全裸を日本人カメラマンが撮影したという点で、この写真集が世の男性、そしてエロ・メディアにもたらした影響は大きかった。このムックがきっかけとなって、その後、続々とロリータ・ヌード写真集が出版されることとなる」.
- ^ 小学館『GORO』1982年3月11日号「成熟した女を愛せないロリコン・ボーイの世界からキミは本当に脱出しているか」
- ^ a b c d e f ばるぼら (2008年10月26日). “ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第30回 ロリコンにおける青山正明(2)”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年5月23日閲覧。
- ^ おおこし 2014, p. 116.
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- ^ 『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」P79
- ^ おおこしたかのぶ『美少女マンガ創世記 ぼくたちの80年代』徳間書店 2014年9月 p.215
- ^ a b c たまごまご (2015年1月16日). “ロリコンの原点はルパン三世だった? 宮崎駿が考えるロリコンとは”. エキサイトレビュー. 2020年5月27日閲覧。
- ^ ヨコタ村上 2006, pp. 119-120「ロリコン・ブームの真っ盛りの1982年に出された『ロリコン大全集』に収められた「ロリコン用語の基礎知識」という語彙集の「ロリータ・コンプレックス」の項で、米沢嘉博はこう述懐している。「R・トレイナーの同名の本が新宿紀伊國屋書店で平積みになっている。数年前は、この本、手に入れるのもおぼつかなかったのだが、時代の流れを感じる。」だが、米沢自身は、「ロリコン」という表現の起源をここには求めていない。彼によれば、それは宮崎駿の『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)である。そこで米沢は、「ロリコン用語の基礎知識」の「クラリス」という見出し語に次のような解説をつける。「『カリオストロの城』に登場した美少女。アニメの美少女キャラブームは、クラリスから起こったといってもまちがいない。この映画の中で、ルパンがカリオストロ伯爵に向かって、このロリコン伯爵と叫ぶシーンがあるんだけど、これがアニメファンに『ロリコン』という言葉を広めるきっかけになったようだ。」米沢その人は、 1969年に出たトレーナーの『ロリータ・コンプレックス』を前からよく知っていたらしいから、ここでいえるのは、米沢が──おそらくは彼の世代を代表して──1980年代はじめにロリコン・ブームや美少女キャラ・ブームを支えたアニメ・ファンたちを、少し距離を置いた地点から見ているということである。つまり、自分はトレーナーとかを通じて『ロリータ・コンプレックス』のこととかをよく知っているんだけれど、最近のロリコン青年たちは『ルパン三世』を見てはじめて知ったらしい、という感じである。宮崎自身が「ロリコン」という表現をどこからひろってきたのかは、残念ながら定かではない。濫読の宮崎であるから、ナボコフの『ロリータ』はもちろん、トレーナーの『ロリータ・コンプレックス』も読んでいたのかもしれない。しかし、そうして間接的にはナボコフやトレーナーにまで起源をたどれるかもしれないが、直接にはロリコンの発生源はクラリスであるというのが米沢の説である。」.
- ^ 高月 2009, p. 71「1970年代後半に『キャンディ』っていうアンダーグラウンドのロリコン雑誌があって、その編集長がロリコンという略語を使い始めました。言葉ができると、そのジャンルが見えやすくなるでしょう。それでロリコンという言葉に惹かれて集まり出した、という面が大きいかも知れない。潜在的にあった趣味が目覚めたというか。でもブームでマニアが増えたというより、もともとそういうのが好きだった人が僕らを見つけてくれたような気がします」.
- ^ 高月 2009, p. 70「ここは1970年代の終わり頃、マニアが集まるスペースとして立ち上げたのが始まりです。いま考えてもいいスペースだったんじゃないかと思いますよ。犯罪と結びつけられたり、いろいろ言われる趣味でしょう、ロリコンは。そういう人が自分の性癖について相談しに来て、我々もカウンセラーみたいに答えたりとか。だから僕もいろいろ勉強しました。あとマニアが持ってる写真やビデオを交換したりね。出版関係の人もよく来てくれました。盛り上がったのは始めて2〜3年の頃かな。斉田石也さんとか蛭児神建さんとか睦月影郎さんとか、ロリコン関係のそうそうたる書き手たちもよく来ました。ブーム以前からロリコン的なものを追いかけてきた人たちが、集まってくれたんです。スペースを運営していく上で、収益も上げなきゃいけない。それでオリジナルの写真集などを作って売りました。当時はコンテンツの需要に対して供給が圧倒的に少なかったので、じやあ自分たちでやろうかと。それで1980年代年〔ママ〕に入ってから、いまのような専門の販売店の形になった」.
- ^ 高月 2009, p. 56「1979年頃からビニールで包まれた非合法すれすれのエロ本、いわゆるビニ本が出回り始める。そこでもブームを反映して、ロリコン物が作られるようになった。1980年代には東南アジアや韓国の子供をモデルにしたものも出回っている」.
- ^ 川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 120頁
- ^ 奥平康弘『青少年保護条例・公安条例』学陽書房 1981年
- ^ 永山 2014, p. 76「『エロジェニカ』摘発は、編集長がテレビの深夜番組『11PM』で当局を挑発したからだという説がある。たしかにありうる話だが、前後の推移を見れば遅かれ早かれどこかが見せしめ的にやられることは自明だったはずだ。取締当局及び規制推進陣営の目的は自販機とビニ本というゲリラ的な出版物を抹殺することだった」.
- ^ a b 米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 p.253「第33章/エロ劇画界の再編とロリコンマンガ」
- ^ 阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』久保書店 2004年9月 p.24
- ^ 「あの海潮社が倒産してしまった。7月9日のことだ。このことについては、稿料の未払いで執筆者の方々に多大な迷惑をかけてしまったままの状態で、まだ解決されていない。私自身フリーの編集者だったので失業保険もなく、現在、手ぶらのまま放り出されている状態というわけだ」田川克巳「エロ劇画編集の顛末」東考社『螺旋』2号
- ^ 原 1982, p. 116「80年夏の「コミケ15」には、いわゆるロリコン誌のもう一つの方向、即ち必ずしも性的な描写を含まず、ただひたすらアニメの美少女キャラにこたわるという形を持った、クラリス狂専誌『クラリス・マカジン』(別名『クラマガ』、東京「クラリスマガジン編集室」80年8月創刊、同12月2号で体刊)が登場」.
- ^ 高月 2009, p. 101.
- ^ 原 1982, p. 116.
- ^ a b c 米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 p.261「第33章/エロ劇画界の再編とロリコンマンガ」
- ^ 青山, 志水 & 斉田 1994, p. 142「アニメでのヌードシーンのはしりは、『ハニー』を別とすれば、『ヤマト』のワープシーンの森ユキのやつ。それからロリコンという言葉は、今をときめく宮崎駿さんの『ルパン三世 カリオストロの城』で使われてたのと、それを受ける形での『アニメック』の美少女特集がきっかけでしょう。その特集の担当者だったのが、今『ニュータイプ』編集長のIさん。この頃ロリコンに関係した人はみんな出世してる(笑)」.
- ^ 原 1982, pp. 116-117「更には同特集がSFといわゆるロリコンとを関連づけた記事(安座上学「少女愛好の双曲線──二次元コンプレックス処方箋」)を掲載していたことにも注意しておきたい。これ以後、それまで潜在的に存在していたと思われる SFファンのロリコン趣味を顕在化させるきっかけとなり、ひいては大学SF研を中心とするロリコンブームのSFファンダム(同人誌界)への蔓延の元になったとも考えられるからである。ただこの辺になるともう、一種のニワトリで、この特集があったためにその後の展開があったのか、その気配があったから特集にそれが現れて来たのか、判然とはし難い。しかし仮に後者だとしても、この特集がその後の動きを増幅したということだけは、間違いないと考えられるのである」.
- ^ 高月 2009, p. 112「ここで指摘しておく必要があるのは、初期のオタク文化に集まった若者のなかにも最初からロリコンの傾向を持った者が決して少なくなかったらしい点だ。例えば『アニメック』1981年第17号では、「SFファンにロリコンが多い」ことが指摘されている。そこで例に挙げられていたのが、1979年にSF大会と呼ばれるSFファンのイベントに参加した26歳男性の体験談だ。イベントのため上京した彼は浅草のポルノショップを訪れ、輸入物の少女ヌード写真集を買おうとした。ところが複数の店を回っても、10歳前後のモデルの商品が売り切れている。そこである店で店主に聞くと、「さっきあんたと同じようなバッジ(SF大会参加者用)をつけた連中がみんな買いしめていったよ」と答えたという。オチができすぎのような気もするが、当時の貴重な証言には違いない。「ロリコンはパロディ」と断言する集団があった一方で、ポルノとしてそれを求めた集団も早くから存在していたのだろう」.
- ^ 青山, 志水 & 斉田 1994, p. 139「浅草でSF大会をやったら、近所のビニ本屋からロリコン系のヤツだけがゴソッと消えたって話がある(笑)。SF大会に来たヤツがみんな帰りに買ってったって。彼らはシャレで何でもやるからねぇ」.
- ^ 高月 2009, p. 55.
- ^ 永山薫 (2010年8月21日). “80年代初期ロリコン漫画誌の時代−SFと美少女からエロ漫画への変遷を辿って”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年5月26日閲覧。
- ^ 阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』久保書店 2004年9月 p.26
- ^ a b 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年 139頁
- ^ 大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年3月 141頁
- ^ a b 藤津亮太 (2021年5月3日). “『アニメージュとジブリ展』に潜んでいた「アニメブーム終焉」の真実”. QJWeb. 太田出版. 2021年5月5日閲覧。
- ^ 青山 1994, p. 165「ジャンルの区別なく、人気のあるテーマは定期刊行物、つまりは雑誌となって、ファンを拡大・再生産していくのが消費社会の常。ロリコンもその例に漏れず、80年に創刊された月刊『ヘイ!バディー』(白夜書房)が、ブーム過熱に多大な役割を果たした。創刊当初、ごく当たり前のアイドル系エロ雑誌だった『ヘイ!バディー』が明確にロリコン色を打ち出したのは82年の春」.
- ^ a b 高取 1982, p. 140「今年の五月に発刊された『ロリコン大全集』(群雄社出版・発行/都市と生活社・発売)は、ロリコンブームの青少年たちのための集大成ともいえる単行本で、初版二万三千部は完売し、現在、四万部まで版を重ねている」.
- ^ a b 高取 1982, p. 146「彼(引用者注:蛭児神建)は、『ロリコン大全集』の責任・監修者として名を出しているが、キャラクターとしての人気が買われたためであって、実際は川本耕次氏が編集した」.
- ^ a b 高取 1982, p. 141「この本は、八〇年から八一年にかけて自動販売機の雑誌『少女アリス』の編集長だった川本耕次氏(二十九歳)が編集したものである。『少女アリス』の初代編集長は、当時アリス出版の社長でもあった小向一実氏であった。ほどなくして、編集長となった川本耕次氏は、みのり出版〔ママ〕で『官能劇画』『月刊Peke』の編集を担当していた編集者である。『ロリコン大全集』は、その川本耕次氏がロリコン本の集大成をはかったものである。彼は、マンガ誌編集時代に知っていた吾妻ひでお氏にエロティックな美少女マンガを描かせることに成功した」.
- ^ 岩田薫「大学生をおおうロリコン症候群」(潮出版社『潮』1982年9月号)
- ^ 宮崎駿、ロリコンについてコメント
- ^ 「レモンピープルでは読者間の討論が誌上で催されたが、そのなかに興味深いトピックがある。 一九八二年八月号に掲載された「ロリコンにエロは必要か」という議論だ。少女ヒロインの心身に思い入れるロリコン漫画の発展途上で、アダルトな男女の情欲を表現する劇画調のエロとは距離が求められていた様子がにじみ出ている。そこにはのちの時代に「美少女ゲーム」と「アダルトゲーム」を区別しようと試みた一部ゲーム情報誌の動きや、現在「萌え」と「エロ」をわけようとする二次元ファンの感覚のさきがけがみてとれる」宮本直毅『エロゲー文化研究概論 増補改訂版』総合科学出版 2017年5月 p.31
- ^ 青山 1994, pp. 166-167「グラビアから映像媒体に目を転じてみると、日本初のロリータ・ビデオは、82年8月に発売された『あゆみ11歳 小さな誘惑』。伊豆の別荘地で少女と出会った大学生の青年が、彼女にほのかな思いを寄せるという淡いラヴ・ストーリー仕立ての作品である。大学生ツトムの役を若かりし青山正明(当時大学4年生)が務めたこととはまったく関係なしに(トホホホホ……)、定価3万円の本作はあっという間に4千本を売り尽くした」.
- ^ ばるぼら (2008年4月20日). “ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第5回”. WEBスナイパー(大洋図書Web事業部). 2020年6月18日閲覧。
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- ^ おたくの語源―岡崎京子・桜沢エリカ・白倉由美は誰かデビューさせたか? - Togetter 2020年5月20日
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- ^ 藤脇 2015, p. 57.
- ^ 「1984年アニメブームは終わった、と記事にはあるが、第一次ロリコンブームもこの年にはかなり沈静化している。この年にデビューを果たすのが、森山塔(山本直樹)なのが非常に象徴的な出来事であろう。当たり前だが、アニメ、マンガ、ゲームは影響しあっている」稀見理都のツイート 2021年5月4日
- ^ 「(デビュー時期は)確か春だと思います。当時婚約者だった妻が五月に上京して友達みんなと下北沢で飲んで、駅前の本屋通りかかって本屋前の自販機でピンクハウス見つけて『これ!これ!』と盛り上がった記憶」山本直樹のツイート 2021年5月7日
- ^ 松田 (2018年5月24日). “とんがりギャルゲー紀行 第30回:ALICE”. 電脳世界のひみつ基地. チアソル. 2019年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月28日閲覧。
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- ^ 後藤寿庵のツイート 2013年1月7日
- ^ 青山 1994, p. 166「『ヘイ!バディー』が廃刊に追い込まれた理由は、当局絡みのトラブルだけではなかった。84年12月に創刊された後発のロリコン専門誌『ロリコンHOUSE』(三和出版)に読者を奪われ、部数に翳りが見えはじめていたのだ。投稿に重きを置いたアングラ色濃厚な『ヘイ!バディー』に対し、『ロリコンHOUSE』は山添みづき、萩尾ゆかりなど、作り手が率先して次から次へとロリータ・アイドルを輩出。また、コミックスやアニメにも紙幅を割き、「美少女&二次コン」という今日にも通ずる新境地を開拓してみせた」.
- ^ 計奈恵のツイート 2018年9月12日
- ^ くりいむレモンPART3「SF超次元伝説ラル」について - オーバーコッヘン
- ^ “ワイセツ出版、三社摘発 警視庁”. 読売新聞・東京夕刊: p. 19. (1985年9月19日)
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- ^ アリスマニア集団・キャロルハウス出版部『ロリータ』Vol.1表紙
- ^ アリスマニア集団・キャロルハウス出版部『ロリータ』Vol.1「美少女製造の手引き」(あじましでお名義)
- ^ アリスマニア集団・キャロルハウス出版部『ロリータ』Vol.1「アニメヒロイン危機一髪! 危うし!! 美少女のいたぶり方」(沖由加雄名義)
- ^ アリスマニア集団・キャロルハウス出版部『ロリータ』Vol.2にイラスト(1P)を「このま和歩」名義で寄稿している。
- ^ 『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」 P96
- ^ 安田理央『日本エロ本全史』太田出版 2019年7月 p.84
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- ^ 阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビュ-で読むおたく史』 P21
- ^ 米沢 1992, pp. 124-125「また78〜79年にかけて、同人誌を基盤にしたマニア誌が創刊されていく。アニメ・ファン雑誌『OUT』、耽美美少年雑誌『JUNE』、後にニューウェーブブームにつながっていく『PEKE』『AGAIN』…それらは編集や企画にコミケット関係者が関〔ママ〕んでいたと同時に、同人誌系のライターを多く採用していたのだ」.
- ^ ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』講談社〈講談社現代新書〉2004年5月 pp.29-31
- ^ 吾妻ひでお『翔べ翔べドンキー』(秋田書店 1980年)作者コメントより。
- ^ 米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 221-223頁
- ^ 川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書 2011年 37頁
- ^ 吾妻ひでお『失踪日記』イースト・プレス 2005年3月 142頁
外部リンク
- 漫画ブリッコとその周辺 - 漫画ブリッコの世界
- OUTSITE - みのり書房刊『月刊OUT』全目録とその関連誌
- 昭和レトロ・懐かしポルノ館 - ウェイバックマシン(2015年3月25日アーカイブ分)
- 初期ビニ本・自販機本プライベート・コレクション - 少女アリスの伝説/全25冊紹介 - ウェイバックマシン(2011年8月24日アーカイブ分)
- Hirukogami Ken / 蛭児神建 - The Doujinshi & Manga Lexicon(同人誌のデータベース)
- Cybele Henshuubu / シーベル編集部 - The Doujinshi & Manga Lexicon(同人誌のデータベース)
- 吾妻ひでお - 大宅壮一文庫