箱根峠
箱根峠 | |
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所在地 |
神奈川県足柄下郡箱根町 静岡県田方郡函南町 |
座標 | 北緯35度10分55秒 東経139度00分50秒 / 北緯35.18194度 東経139.01389度座標: 北緯35度10分55秒 東経139度00分50秒 / 北緯35.18194度 東経139.01389度 |
標高 | 846 m |
山系 | 箱根山外輪山 |
通過路 |
国道1号 東海道 |
プロジェクト 地形 |
箱根峠(はこねとうげ)は、神奈川県足柄下郡箱根町と静岡県田方郡函南町の境に位置する峠。箱根山の外輪山を越え、標高は846m。
概要
[編集]箱根峠の山道が、足柄峠を越える足柄路に代わり、東西交通の主要となってくるのは鎌倉時代以降である。道路の東海道である国道1号は箱根峠を経由する路線になっており、小田原から箱根峠までは箱根新道が建設されている。
地形が急峻なため、鉄道路線は箱根峠を避けて建設され、まず御殿場経由(現在の御殿場線)、次いで熱海経由で東海道本線が開通、東海道新幹線も熱海経由となった。道路交通においても、東名高速道路は御殿場を経由し、東名高速に並行する国道246号も4車線化が進み、大型車両はほとんどがこれらのルートを利用していることから、近年は箱根峠の主要交通路としての重要性は薄らいでいる。
唱歌『箱根八里』では「箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず」と詠われた。冬季は路面凍結に注意を要する。
歴史
[編集]律令時代
[編集]律令時代の当初の東海道は箱根峠(箱根路)ではなく、その北方の足柄峠を経由した(足柄路)。当時、足柄峠には足柄関が設置されていた。相模国(南足柄市)駿河国(小山町)との境に当たる。
しかし、富士山の延暦噴火(800年 - 802年)の際、降灰状況などの判断に基づき、足柄路の使用を1年間止め、箱根路を整備して使った(『日本後紀』の記述による)[1]。足柄路再開後は、箱根路は再び支道となった。箱根路は急勾配だが短距離だった。
鎌倉時代から天正時代まで
[編集]東海(駿府、浜松など)や関東(鎌倉、小田原など)に本拠地を置く戦国武将は、箱根峠と足柄峠を防衛の要衝としていた。鎌倉時代以後の「関東」の定義は、「東海道の箱根峠、足柄峠から東の地」となり、この定義が第二次大戦後の「関東地方」の基になっている。
戦国時代には、箱根を介して武田氏・後北条氏・今川氏が「甲相駿三国同盟」を結んでいた。
江戸時代
[編集]江戸時代になると、徳川幕府の五街道整備において、距離の短い箱根峠ルートが重視された。芦ノ湖畔には箱根関所が設けられ、幕府防衛のための関と位置付けられた。(しかし関所として取締りが厳重で厳しかったのは新居関所で、箱根の関は、比較的緩やかだった。)関の守備は小田原藩が担当した。
幕末には、佐幕派の遊撃隊と明治政府に恭順していた小田原藩兵との間に関所をめぐり激しい戦闘が行われ、関の大部分が戦火で焼失した。
明治維新以後
[編集]1869年(明治2年)に箱根関は廃止され、自由に往来することが可能になった。その後、関所跡は史跡として親しまれ、第二次大戦後には観光施設として整備された。
2007年(平成19年)にはそれ迄の文献や発掘作業などを基に、箱根関所がほぼ完全なかたちで復元された[2]。
交通
[編集]峠付近では、様々な道路が交差している。
- 国道1号:箱根峠の標識が設置されている。なお、国道1号の最高地点はここから約6.5km東京寄りの芦之湯温泉付近にある(標高874m)。
- 静岡県道20号熱海箱根峠線
- 芦ノ湖スカイライン
- 公共交通機関では、東海バスの元箱根港-三島駅線、伊豆箱根バス(元箱根(土曜休日は関所跡)→湯河原駅)が通り、峠付近に「箱根峠」停留所がある(伊豆箱根バスは片方向のみ経由)。
脚注
[編集]- ^ 安田政彦『災害復興の日本史』p18 吉川弘文館 2013年2月1日発行 全国書誌番号:22196456
- ^ 「箱根関所完全復元への道のり」(『箱根関所』公式サイト)
関連項目
[編集]- 箱根峠関連
- 東海道(江戸以北も含める)における「境界地帯」
- 逢坂関:大化の改新以来の畿内の東端であり、平安時代以降は京都の東端と理解され、言わば「京都の東門」となる関であった。
- 鈴鹿峠:鈴鹿山脈を越える峠で、箱根峠と並ぶ難所であった。この鈴鹿峠より北西が琵琶湖・若狭湾交流圏であり、南東が紀伊半島交流圏である。
- 桶狭間:尾張国と西三河地方の境に位置しており、戦国時代には、桶狭間以西が織田信長や豊臣秀吉の統治下だった畿内(=近畿地方)であり、桶狭間以東が今川義元や徳川家康の統治下だった海道(=東海地方)であった。この為、現在でも、桶狭間以西は伊勢・奈良・京都への志向が強い地域である。
- 七里の渡し:濃尾平野の低湿地を避けるため、徳川時代に海上ルートが選択された唯一の部分。現在は陸化されているが、日本語の方言のアクセントの重要な境界となっており、七里の渡しを境に西が近畿方言、東が濃尾方言になっている。
- 浜名湖:南端部が決潰している為、交通上のボトルネックであり、徳川幕府は新居関所を置いて重視した。京都と東京の双方から概ね等距離に位置しており、現在でも浜名湖近辺が京都系商圏と東京系商圏の境になっている。
- 小夜の中山:牧之原台地を通る小さな峠だが、難所とされた。江戸時代末には、京都と江戸の文化的境界とされている。
- 宇津ノ谷峠と薩埵峠:日本アルプスの尾根が太平洋に没する地域で、日本海側の親不知・子不知に対応するが、その間に今川義元や徳川家康の城下町である駿府(戊辰戦争後の静岡)が存在する。
- 足柄峠:箱根峠と並ぶ、もう一つの駿河国と相模国の境となる峠である。
- 勿来関:律令時代の東海道における境界の一つ。常陸国(現在の茨城県)と石城国(現在の福島県浜通り。旧磐前県)の境界であった。