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ボーディ王子経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菩提王子経から転送)

ボーディ王子経[1](ボーディおうじきょう、: Bodhirājakumāra-sutta, ボーディラージャクマーラ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第85経。『菩提王子経』(ぼだいおうじきょう)[2]とも。

釈迦が、ヴァンサ国ボーディ王子に、自身の修行経験を含む仏法を説いていく。

構成

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登場人物

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場面設定

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ある時、釈迦は、バッガ国スンスマーラギラベーサカラー林にある鹿苑に滞在していた。

使用人サンジカープッタを介して、ヴァンサ国のボーディ王子の食事供養を申し出された釈迦は、それを受け入れ、翌朝王子の家で食事を摂る。

王子から(dukka)と(sukha)の関係を問われた釈迦は、自身の修行時代を語り出す。

Mayhamipi kho rājakumāra, pubbeva sambodhā anabhisambuddhassa bodhisattasseva sate etadahosi:
" na kho sukhena sukhaṃ adhigantabbaṃ, dukkhena kho sukhaṃ adhigantatabba" nti.[3]

王子よ、わたしも等覚以前、未だ等覚していない菩薩であった頃にも、そのように考えていました。
「楽は楽によって証得されない。楽は苦によって証得される」と。

アーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタに師事し、そこでは満足できずにウルヴェーラセーナー村苦行生活を行った。その中で苦楽中道を悟り、独覚したこと、四禅三明、そして梵天勧請初転法輪などについて説かれていく。

法悦したボーディ王子は、三宝への帰依を誓う。

内容

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この経において釈迦は、在家信者ではあるけれど、その機にある者に対して、宇宙期の悟りから、ニルバーナ、さらには教えの流布に至るまでの経緯を明らかにしている。釈迦は、あらゆる人々に対して、その者の心の境地に即した教えを説くという対機説法を行い、を明らかにしていた。対機説法の多くは、個々人の心境に応じたものであるため、方便や、部分的な教えが多く、体系的に語られたものは少ないといえる。しかし、この経は、求道の初期から、仏法の流布に至るまでが、釈迦によって一貫して語られているとされている。

求道

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出家した釈迦は、最初にアーラーラ・カーラーマに師事すると、すぐ教えを学び取った。カーラーマからは二人で共に教団を率いることを提案されたが、それを断り、次にウッダカ・ラーマプッタに師事した。同じく教えを学び取った釈迦は、ラーマプッタからは代わりに教団を率いることを提案されたが、それを断り、さらなる求道を臨んだ。

出家前に初禅の段階にあったこと

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釈迦は、在家の当時、出家による苦行の修行をする以前に、菩薩としての修行を始めていたことが語られている。 出家してから、苦行しかしていないと思われがちであるが、釈迦の意識の中では、菩薩として修行をしていたとされている。釈迦は、菩薩としての修行中に、人間の中に常に湧き上がってくる思念について、善なる思いと悪なる思いのあるという観点から、対策を講じたとされている[4]。釈迦は出家する前にすでに初禅の境地を体得していたとされている。これは、初禅の段階にて、止観によって、善なる思いと悪なる思いを弁別し、正見のありかたを育んだということのようである。

悟る直前に為された第一禅には述べられていないが、いわばその前提として、第一禅の境地の体得には、マラーのわなについての考察が不可欠であったと言うことができる[注釈 1][注釈 2]

苦行生活

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ウッダカ・ラーマプッタの元を立ち去った釈迦は、マガダ国の各地を旅し、ウルヴェーラのセーナー村に入った。

体を痛めつけたり、無呼吸の禅定を行ったり、完全な断食を試みている。

Tassa mayhaṃ rājakumāra, etadahosi: " yannūnāhaṃ sabbaso āhārūpacchedāya paṭipajjeyya"nti.
Atha kho maṃ rājakumāra, devatā upasaṅkamitvā etadavocuṃ: " mā kho tvaṃ mārisa sabbaso āhārūpacchedāya paṭipajji,...[3]

王子よ、私にこのような考えが起こりました。「私は、完全な断食行をなしてはどうだろうか」と。
王子よ、天部デーヴァ)は、私へ近づいてこう言いました。「我が友よ、あなたは完全な断食行をしてはいけません。...」

しかし苦行では菩提を得ることはできないと感じた釈迦は、苦行を行うことを止め(苦行放棄)、正念(sati)が菩提への道であるとの考えに至った。

Na kho panāhaṃ imāya kaṭukāya dukkarakāriyāya adhigacchāmi uttarimanussadhammā alamariyañāṇadassanavisesaṃ.
Siyā nu kho añño maggo bodhāyā"ti.?[3]

私はこれらの辛い苦行によっても、人法を超えた聖なる智見殊勝を証得しなかった。
菩提のためには、別の道があるのではないだろうか。

その後、苦行を放棄した釈迦を見た五比丘たちは、彼を堕落したとみなして釈迦の傍を立ち去っている。

悟り

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Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ ahosi.
Khiṇā jāti vusitaṃ brahmacariyaṃ, kataṃ karaṇiyaṃ nāparaṃ itthattāya'ti abbhaññāsiṃ.

解脱したとき、「解脱した」という智が生じました。
「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。二度とこのような状態へ(至ることは)ない」と了知したのです。

釈迦の修行のおおまかな流れとしては、出家前に初禅の段階を会得し、出家して無所有の境地等を学び、苦行に転じ、やがて、初禅の境地に帰り、四禅の成道の道にたどりついたとされている。そして、教えを説く心が止滅しそうになったところに、世界の指導者であるブラフマー神が、仏法流布のこころを釈迦に思い起させた、と言うことのようである(梵天勧請[注釈 3][注釈 4]

悟りとは無余涅槃を求めるものであるというのは、誤解であるとされている[5]

法を説く気がなくなった時とは、釈迦が無余涅槃に近づいたときであると見ることができる。梵天勧請直前の釈迦は、無余涅槃を目的として魔の力の及ばない領域としての解脱を達成した、と見ることができる[注釈 5]

梵天勧請

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想受滅の境地にあった釈迦は、法を説こうという気持ち(想受)を、内的啓示を起因として思い起こした、ということのようである[注釈 6]

三種の梵天

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三十三天という世界観は後代の観念であるとされている。

一つ目は、神々に対しての用いられ方としては、死んだ人々を神々と呼び、ある場合には、死んだ人々は梵天界に住している、と表現されている場合の、梵天である。

二つ目は、兜率天よりも上位の世界にあるとおもわれる梵天界である。三十三天の観念では、兜率天が梵天界の上にあるとされている。しかし、兜率天にいる霊でも、恐怖心から、いきなり地獄に堕ちる時があるとされる[6]。 梵天界は、修行が進み、この世に還ることが無くなった人が行くときがあるとされる場合もある。この場合の梵天は、恐怖心を超えている境地に住していると考えられるので、六道輪廻のうちにある兜率天の上位に位置していると思われる。

三つめは、諸仏の中の「この世の主(世界の主)」の役目を持つ如来の住する世界を指す梵天界である。諸仏の教えという語があるように、諸仏の世界があり、そこの世界を指導する役目を持った如来がいるということが考えられる。釈迦は、自然現象の背後には神の存在があると説いたとされている。そのような神的次元と通じている世界に、「この世の主(世界の主)」である梵天がいると解釈することができる。

仏法の流布

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初期の仏教において、釈迦の説法を「梵輪をまわす」と言うときは、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があり、「梵」という語と「ブラフマン」という語は深い関りがあるとされている[7]。最初の説法の対象について、対機説法という観点から見てみると、苦行時代の師や、想受滅を目指す修行仲間だった人たちに、釈迦は、法を説いたようである。そのため、この時の釈迦は、宇宙の真理と慈悲との関係についてにまで踏み込んだ説話を説く機会には、無かったといえる。

日本語訳

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  • 『南伝大蔵経・経蔵・中部経典3』(第11巻上) 大蔵出版
  • 『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)中分五十経篇II』 片山一良訳 大蔵出版
  • 『原始仏典 中部経典3』(第6巻) 中村元監修 春秋社

脚注

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  1. ^ 初期の仏教においては、そのほかにも、止観や、調和された屋外での禅定、八正道についての考察、苦の止滅、一切の世界を慈悲で満たしたいという願いなどが、第一禅に至るまでの前提としてあったようだ。
  2. ^ 在家的な欲望を捨てるために釈迦が出家したように、一切の世界への無限の慈悲の想いというものも、釈迦の求道の動機であった、ということが考えられる。鋸喩経では、一切の世界を無限の慈悲の想いで満たせということが言われている。そのことは、四無量心における慈悲のこころとは少し違った点が見受けられる。四無量心はどちらかというと、観念的・瞑想的な実践の心のあり方を説いているといえる。しかし、一切の世界というのは、三千世界を意味しているようでもある。そこを無限の慈悲の想いで満たすという実践をしている存在は、「如来」を指している。そのため、如来に対する信仰や尊敬を持ち、三つの束縛を捨てることが、一切の世界を無限の慈悲の想いで満たすことと密接につながっていると見ることができる。 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第21経 怒りのこころと慈しみのこころー鋸喩経 P317 春秋社2004年 中村元監修 羽矢辰夫訳
  3. ^ 悟りの直前には、マラーによる試練があったとされる。そのことを考えた場合、マラーの存在はいきなり出てきたわけではなく、初禅の体得の段階から止観されてきたものと思われる。
  4. ^ それはいわば、菩薩として有余涅槃を求めることにはじまり、無余涅槃の求道に至り、想受滅を悟り、教えを説く心が止滅しそうになったところに、世界の主である如来から、慈悲の教えである有余涅槃を悟ったと言い換えることができるようである。
  5. ^ その悟りの内容は、猟師経に見られるごとく、解脱の九段階に見られるような、想受滅を求めるものであったといえるようだ。そこで用いられていた用語(無所有などの語)は、後に梵天勧請以後の境地に転換していった、と見ることができる。一般的に言うと、想受滅の状態であると、慈悲や、法の流布や、諸仏やブラフマー神などの概念は想念にすぎないので、空しい議論であると考えられるからである。またこれとは逆に、有余の諸仏の見地から無余涅槃を解釈すると、想受滅は、「滅(法)の想受」に、無所有は、「無の有となる所」、などと言い換えることが可能になると見ることができる。また、そうした宇宙期の悟りを説話するときであっても、「法」や、「神」や、「道の出起」、などの重要な語は、説話の中には出てきていないということになっている。いずれにしても、想受滅(無余涅槃)の境地からは、梵天勧請以後の悟りの境地は説法できないので、修正されたということのようである。
  6. ^ 聖求経には、想受滅と思われる境地に至り、教えを説く意欲のなくなった釈迦に、世界の主であるブラフマー神が、慈悲利他の境地に誘ったことが伝えられている。世界の主は、このままだと世界は滅びる方向に向かってしまう、と言ったとされている。考えてみると、無余の涅槃にとっては、宇宙には生成する時期もあれば、滅びる時期もある訳であるから、それはどちらでもいいわけである。世界の主の放った言葉のうちには、想受滅の解脱とは異なった次元に、諸仏の慈悲を衆生に説く境地があったことがうかがえる。

出典

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  1. ^ 『パーリ仏典』片山
  2. ^ 『南伝大蔵経』、『原始仏典』中村
  3. ^ a b c パーリ仏典, 経蔵中部 ボーディ王子経, Sri Lanka Tripitaka Project
  4. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思い P282  前書き  春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
  5. ^ 釈迦は無余涅槃を排斥したとされる。(出典『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P395注875 中村元)
  6. ^ 『仏典を読む1仏陀の生涯』岩波書店 2017年 中村元(前田専學 監修)P4
  7. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元

関連項目

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外部リンク

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