ミッドウェー海戦
ミッドウェー海戦 | |
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B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「飛龍」。 | |
戦争:太平洋戦争/大東亜戦争 | |
年月日:1942年6月5日 - 6月7日 | |
場所:ミッドウェー島周辺 | |
結果:アメリカ軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
山本五十六 南雲忠一 近藤信竹 |
F・J・フレッチャー R・A・スプルーアンス |
戦力 | |
航空母艦6 戦艦11 重巡洋艦10 軽巡洋艦6 駆逐艦53他 参加兵力10万 |
航空母艦3 重巡洋艦7 軽巡洋艦1 駆逐艦15 ミッドウェー島の基地航空隊 ミッドウェー島守備隊3000 |
損害 | |
航空母艦4、重巡洋艦1沈没 重巡洋艦1大破 駆逐艦1中破 戦死3,057(航空機搭乗員の戦死者は110名) |
航空母艦1、駆逐艦1沈没 戦死307(航空機搭乗員戦死者は172名) |
ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)は第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦。同島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で生起した。双方の空母機動部隊同士の航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の中核をなしていた航空母艦4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、ミッドウェー島の攻略は失敗し、この戦争における主導権を失った。
日本の作戦決定の背景
山本の作戦思想
太平洋戦争開戦前、日本海軍は、対米作戦における基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた[1]。連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた[2]。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年(昭和3年)海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃する米国に勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。さらに山本は太平洋戦争開戦前より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している[3]。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本のミッドウェー作戦の第一の狙いが米海軍・米国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知の上でも、米国に対し、戦争で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた[4]。
ハワイ攻略作戦の着想
アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた[5]。日本軍はマーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。米軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した[6]。
日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していたが、セイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた[7]。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。その結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ攻略を見据えた作戦計画を立案した[8]。
そこで、ハワイ作戦の前段階として浮上したのが、ミッドウェー島の攻略であった。このミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略することにより、アメリカ艦隊、特に空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍が米軍の要点であるミッドウェー島[9]を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとすることは明白であり[10]、現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。日本軍は情報分析の結果、米軍の空母戦力を以下のように推定した[11]。
- 空母「レンジャー」は大西洋で活動中。
- 捕虜の供述によれば「レキシントン」は撃沈されたようであるが、アメリカ西海岸で修理中という供述者もある。
- 「エンタープライズ」と「ホーネット」は太平洋に存在。
- 「ワスプ」の太平洋への存否については確証を得ない。
- 特設空母は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戦には使用し得ない。
これをふまえ、日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現する米軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した[12]。米軍がミッドウェー島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり[13]、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もありえると推測している[14]。同島占領の際には米軍基地航空隊から空襲を受けることを想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている[15]。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった[16]。
日本海軍は、ミッドウェー島を占領してからの維持は極めて困難であると考えていた。あくまでこの作戦は米空母を誘い出して撃滅することを目的とし[17]、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、米軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えた[18]。
大本営(参謀本部・軍令部)と連合艦隊司令部はこの作戦について激しく対立した。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的に同盟国ナチスドイツを支援することを構想していた[19]。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は、「仮に日本軍がミッドウェー島を占領しても、米艦隊は本当に出現するのか。日本軍の補給路が米軍に遮断され、疲弊した所を簡単に奪回されるだけではないか」という点を考慮して反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)を重視する立場を崩さなかった[20]。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、軍令部と折衝した[21]。だが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。
大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本の意向を伝えた[22]。伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定[23]、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった[24]。さらにアリューシャン列島西部要地攻略作戦をミッドウェー作戦に追加することを海軍部が提案し、連合艦隊もこれに同意、ミッドウェー作戦の全体像が固まった[25]。これには以前行われた図上演習においてアリューシャン方面から米国の最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景がある。
ドーリットル空襲
1942年4月18日、空母「ホーネット」はミッドウェーで空母「エンタープライズ」と合流し、第16任務部隊は日本に向けて進撃する。「エンタープライズ」は航空支援を、「ホーネット」は日本本土に接近、ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を輸送する役割分担である。爆撃隊は「ホーネット」から発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。第16任務部隊は4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第二十三日東丸に発見され、ウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、「ホーネット」は大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。
B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃、中国大陸に脱出後、不時着放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲機動部隊は台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった[26]。
空襲による被害は微小であったが、日本本土上空に米軍機の侵入を許してしまったことは日本に大きな衝撃を与えた。また米軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き[27]、山本にも国民からの非難の投書があったという[28][29]。山本は米海軍による空襲の危険性については以前より認識しており、この空襲で既に内定していたミッドウェー作戦の必要性を一層痛感し、予定通りに実施するために準備を進めた。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した[30]。渕田美津雄は、昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測している[31]。千早正隆は二度目のドーリットル空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母「瑞鶴」を有する第五航空戦隊の戦力が回復するのを待てなかったと指摘した[32]。
図上演習
山本五十六の意気込みとは反対に[33]、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来ドック入り、長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた[34]。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため[35]、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた[36]。山口多聞少将や源田実航空参謀をはじめとする南雲司令部は作戦延長求めたが、山本五十六以下連合艦隊司令部は却下した[37]。ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している[35]。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評される程度[38]。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ[39]。着艦訓練は訓練使用可能空母が「加賀」のみだけだった為、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている[38]。
さらに4月28日から1週間かけて戦艦「大和」で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」では、日本軍にとって不安な結果が出た[40]。ミッドウェー基地の攻略に成功したものの、米軍基地航空隊の反撃によって空母「加賀」は爆弾9発命中判定で沈没判定となる[41]。宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、「加賀」を復活させた[41] 。宇垣の強引な判定には、ミッドウェー作戦からハワイ攻略までの図上演習を行う時間が3日間しかなく、スケジュールが逼迫していたという事情もある[42]。こうして図上演習は続行となったが、今度は攻略部隊の燃料が不足し、艦隊がミッドウェー島に座礁する[43]。アリューシャン方面では、空母「隼鷹」「龍驤」が濃霧の中、米軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となる[41]。また当時の記録によれば宇垣が草鹿に対し「ミッドウェー島攻撃中に敵からの先制攻撃を受けた場合はどうするか」と尋ねると、草鹿は「そうならないよう行動する」と答えたため宇垣が追及、すると源田が「哨戒機を飛ばし側面を警戒はするが上空にある戦闘機の他に策は全くない」と答えた[44]。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」とした[45]。事前に山口少将から相談を受けていた宇垣は南雲部隊の指揮能力に不安を感じ、予想外の敵攻撃に備えるよう注意している[46]。
図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母補足撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している[47]。当時作戦会議で中沢佑第五艦隊が機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘したが、黒島は問題ないと発言した[48]。戦後草鹿龍之介は作戦目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している[49]。また源田実も作戦目標が米軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で大和と山本が後ろからついてくる事が疑問だったという[50]。古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラックに集合・米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いている[51]。
もっとも多少の不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた[52]。5月5日、永野軍令部総長より山本に対し大海令第18号が発令された[53]。
- 連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
- 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。
大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本、参謀長・宇垣纏の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦「大和」他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。渕田美津雄中佐によれば第一航空艦隊航空参謀源田実は当時「第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという[54]。
当初、珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の空母「瑞鶴」をミッドウェーに、大破した「翔鶴」を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし「翔鶴」の修理には3ヶ月を要し、また「瑞鶴」も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊して補充を待っている状態であり、本作戦に参加できなかった[55]。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、米軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算にいれると、航空戦力比は日本軍「戦闘機105、急降下爆撃機84、雷撃機94、艦偵2、水上戦闘機24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、米軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、米軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった[56]。この「翔鶴」・「瑞鶴」の2隻の運用については、後述の「ヨークタウン」の事例と比較され、本海戦における日本側の敗因の一つとして批判の対象となる事が多い。また米国歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲはアリューシャン方面に空母「龍驤」、「隼鷹」を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している[57]。
アメリカ軍の対応
情報収集と分析
米軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。昭和17年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただ、これは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。
真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。昭和17年(1942年)4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。その後、5月ごろから通信解析の資料が増え、暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。アメリカ側は、日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。
ワシントンのアメリカ統合参謀本部は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、チェスター・ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。
5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語であることが確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。
なお、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。たとえば、沈没する空母「飛龍」から脱出後、米軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、米軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦「隼鷹」の写真を見せられて仰天している[58]。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている[58]。また、半藤一利らによれば、該当する日本側の電文は残っていないという。
5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。
一方、日本軍では情報管理に綻びが見え始めていた。空母「飛龍」では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある[59]。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し[60]、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ[61]。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の零式艦上戦闘機(第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ[62]。野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、海軍第二特別陸戦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという[63]。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦「加古」艦長の高橋は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた[64]。白石萬(第二艦隊参謀長)は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている[65]。そして山本五十六に至っては愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に『5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう』と記している[66]。
事前準備
ハワイ諸島は、米国にとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェーはハワイ諸島の前哨であり、戦略的要所である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官のシマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭のTBFを含む約120機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名を撃退するには十分な兵力だった[67]。
ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母「龍驤」と「隼鷹」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせてアッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。
アメリカ軍の作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』として発令され、内容は、第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。
5月28日に作戦計画を発した時点において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。「サラトガ」は日本海軍の潜水艦による攻撃で損傷を受けて修理を要する状態にあり、第17任務部隊(TF-17)の2隻は、次にのべるように珊瑚海海戦により大打撃を受けていた。
フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦においてポートモレスビー防衛を成功させ、日本海軍の軽空母1隻撃沈し、主力空母にもダメージを与えたものの、自身も主力空母「レキシントン」を失い、「ヨークタウン」が中破するという犠牲を払っていた。「ヨークタウン」への命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けており、機関からの燃焼煙を正常に排出できないことでボイラーが出力を上げられず、速力が24ノットに低下していたのである[68]。また、2発の至近弾によって左舷燃料タンクの溶接が外れ、燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の油槽船「ネオショー」を失っていたため、この燃料漏れは海上での立ち往生という重大な結果を招きかねなかった[69]。
ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できた「ヨークタウン」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられて驚異的な応急修理が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって応急修理が施され、戦闘艦としての機能を取り戻し、「ヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。このことについて乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している[70]。また、珊瑚海海戦にて大きく損耗した「ヨークタウン」を母艦とする第5航空群は、修理のために本国に戻る「サラトガ」の第3航空群と入れ替えることで、アメリカ軍は3隻目の空母をこの戦闘に参加させることができたが、これは当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てであった。
もし、ニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」の2隻のみであった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、「ワスプ」や軽空母が出現することはあっても、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えた米空母「ヨークタウン」がミッドウェー作戦に間に合うことを考慮していなかった[71]。
戦闘の経過
アメリカ海軍機動部隊の出撃
1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、「エンタープライズ」、「ホーネット」を基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となる「ヨークタウン」の緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃した。
各任務部隊は、ミッドウェー島へ襲い来る日本軍と戦い、作戦計画において死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるべく、一路ミッドウェー島を目指した。
日本軍のミッドウェー海域進出
1942年(昭和17年)5月27日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した[72]。主力部隊他も2日後に同島を出撃している[73]。三和義勇(連合艦隊作戦参謀)は『今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる』『長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか』と日記にしたためている[74]。宇垣は米軍の無線交信が増えたことを気にして『日本軍輸送船団が察知されたのではないか』と疑ったがそれ以上の手を打つことはなく[75]、戦後日記を分析した千早正隆は「これ以上なく悔やまれる」と述べている[76]。
5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦「千歳」、駆逐艦「親潮」、「黒潮」と共にサイパンを出航した[77]。海軍陸戦隊(太田実海軍少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦神通)他に護衛され、北上した。
作戦では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし、担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第2潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第8潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第1潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。
このため、「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが5潜戦は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。特に第16任務部隊が6月2日に5潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。
次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。しかし二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画だったがウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎた為、経由地がウォッゼ環礁に変更された為ミッドウェー全海域の索敵が出来ず、更にパイロットの技量不足で夜間着水が出来ず薄暮までにウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)短縮された為、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。
最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である[78]。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、米軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した伊123は「見込み無し」という報告を送った[79]。これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この作戦も、もし実施されていたらオアフ島には米空母がいないことが判明し、以後の作戦が大きく変わった可能性が高かった。さらに南雲機動部隊にも作戦中止を連絡しなかった[80]。
6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦「大和」に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母をらしい呼び出し符号を傍受した[81]。回虫から来る腹痛に悩まされていた山本だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた[82]。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた[83]。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。この件を取材した亀井宏によれば、黒島参謀を含めて連合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという[84]。土井美二(第八戦隊首席参謀)は、草鹿龍之介参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたと証言し[85]、草鹿の回顧録にも同様の記述がある[86]。
日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦「赤城」は「飛龍」、「蒼龍」、「榛名」、「霧島」の艦影を見失った[87]。「飛龍」と「霧島」は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた[88]。無線の使用により米軍が南雲部隊の行動を察知したという批判が日本側にあるが、米軍側にこの通信を傍受した記録はない[89]。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦「秋雲」を分離した[90]。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している[91]。午後4時30分、「赤城」と「利根」が米軍機らしき機影を発見すると、「赤城」から3機の零戦が発進して迎撃に向かった[92]。南雲部隊は、誤認の可能性が高いと判断している[93]。午後11時30分、「赤城」は雲間に米軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた[94]。「赤城」では日本軍輸送船団が爆撃を受けたことを知り、また米軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母に関しては無警戒であった[95]。
米軍の哨戒と日本軍輸送船団攻撃
米軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フレッチャー少将の第17任務部隊とスプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する[96]。(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った[97]。日本時間6月4日午後1時(16:23)、船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した[98]。実際は輸送船「あるぜんちな丸」「霧島丸」が至近弾を受けたのみで損害も無かった[99]。
(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船団を発見(1:43)し、雷撃を開始した。夜間だった事で完全な奇襲になり、輸送船「清澄丸」が機銃掃射され、「あけぼの丸」に1本が命中し戦死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった[100]。この時、船団を護衛すべき第七戦隊(栗田健男少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)は船団を見失って離れた地点にいた。これは栗田のミスというより、田中頼三少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により、輸送船団が予定航路から北100浬地点を航行していたからである[101]。
ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受け、太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った[102]。フランク・J・フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している[103]。この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった[103]。
日本軍のミッドウェー島空襲
ミッドウェー作戦では、二つの時間が存在する[104]。米軍はミッドウェー島と同じ西経日付を使用し、さらに米軍機動部隊は日付帯時間に10時間を加えているので、ミッドウェー時間より2時間遅れている[104]。日本軍は東経日付を使用し、さらに東京時間を使用している。従って日本軍各艦各隊の戦闘詳報も東京時間であり、ミッドウェー時間とは21時間異なる[104]。ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間とし、戦闘詳報に記載された東京時間を「午前/午後○○時○○分」で併記する。「軍艦加賀戦闘詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時、日没は午後4時頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった[105]。
日本時間6月5日(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った[106]。一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や航空群司令からの指示や注意事項が通達された。日本時間午前1時15分(4:15)、ミッドウェー基地からPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンからSBD ドーントレス爆撃機からなる偵察隊が航空偵察に出撃した[107]。ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した[107]。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200浬を航行している[107]。
日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を発進させた[108]。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は虫垂炎による手術を行ったばかりなので出撃できない[109]。源田実航空参謀も風邪により熱を出していた[110]。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する[111]。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった[112]。
各空母からの発艦機数は、「赤城」から零戦9機、九九艦爆18機、「加賀」から零戦9機、九九艦爆18機、「蒼龍」から零戦9機、艦攻18機(800kg爆弾装備)、「飛龍」から零戦9機、艦攻18機である[113]。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している[114]。四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった[115]。一航戦の艦攻には航空機用魚雷が装着され、各空母格納庫で待機[116]。二航戦はセイロン沖海戦の戦訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも対応できるようにする為未装備状態とした。
また偵察機として空母「赤城」 、「加賀」から九七式艦攻各1機、重巡洋艦「利根」、「筑摩」から零式水上偵察機各2機、戦艦「榛名」から九五式水上偵察機が発進した[117][118]。索敵機の発進は日の出の30分前、午前1時30分と定められていた[119]。だが第八戦隊司令官阿部弘毅少将の判断で「利根」は対潜哨戒につく九五式水上偵察機の発艦が優先された[120]。このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に対潜哨戒機発進[121][122]。「利根」は(04:38)午前1時38分に対潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した[121][123]。戦闘詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある[117][124]。
最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩のため出撃した。このうち、「加賀」の零戦1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた[125]。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった[126]。
午前2時15分(05:15)ごろ、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機 (利根4号機)を発見する[127]。近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した[128]。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦「長良」から、続けて戦艦「霧島」から敵機発見の煙幕があがった[129]。南雲機動部隊は直掩零戦隊を発進させはじめたが、米軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった[130]。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した[131]。米軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は「赤城」でも傍受している[132]。
空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、 SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進した[133]。基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された[134]。午前4時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると「エンタープライズ」のスプルーアンスに対して攻撃を命令した[135]。米海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスは「エンタープライズ」と「ホーネット」の攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した[135]。
午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊は接近する艦攻・艦爆・戦闘機隊の順で進撃する[136]日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が火に包まれ[137]、直後に零戦隊が逆襲に転じて空中戦となった[138]。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃したF2Aブリュースター・バッファロー戦闘機20機のうち13機が撃墜され、F4Fワイルドキャット戦闘機6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。米軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した[139]。映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった[140]。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している[141]。日本軍攻撃隊は、米軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った[142]。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した[142]。友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている[143]。米軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった[142]。また、帰途につく艦攻隊に最初の空戦で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機菊池六郎中隊長以下3名がゴム筏の上でマフラーを振っているのが発見され非常食が投下されたがその後の戦況のため救助されることはなかった[144]。
攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し『カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)』と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた[145]。2ヶ月前のセイロン沖海戦と全く同じ展開である。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(07:49)、筑摩4号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)[146]。午前5時55分、利根1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。米軍側記録によれば、「ヨークタウン」から発進した10機の索敵機である[147]。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった[148]。
日本軍の兵装転換と米軍基地航空隊の空襲
日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というように米軍機の継続的な空襲に悩まされていた[149]。午前4時5分(07:05)、重巡洋艦「利根」は米軍重爆撃機10機を発見する[150]。米軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進したTBF アベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾のかわりに魚雷を抱えたB-26マローダー双発爆撃機4機(コリンズ大尉)だった[151]。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである[152]。「赤城」と「利根」が発砲し、直掩の零戦10機が迎撃する[153]。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した[154]。空母「赤城」は米軍の魚雷を全て回避した。被害は機銃掃射で「赤城」三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、「赤城」(旗艦)の通信能力に支障が生じた[155]。「赤城」を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている[156]。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。
ミッドウェー基地から発進した米軍陸上機による空襲は、同島の基地戦力が健在である証拠であった[157]。友永隊の報告をふまえ、南雲司令官はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)が6月7日に上陸を開始する前に、米軍基地航空戦力を壊滅させる必要に迫られたからである[158]。午前4時15分(07:15)、南雲司令部は艦攻に魚雷を装備していた第一航空戦隊(赤城、加賀)に対し[159]、『本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換』と通知した[160]。搭載する九七艦攻のほとんどがミッドウェー空襲隊に加わり、九九式艦上爆撃機しか残っていない第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)に対しては、爆装せず待機が命じられた。米側の二航戦の資料によれば[要出典]、雷装から爆装へ転換し終わるにはかなり時間がかかるため、後から未装備の艦爆を爆装させ始めても間に合う事と、帰投する空襲隊の収容をしなければならなかった為である。海戦前に「飛龍」で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている[161]。燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた[162]。
その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。午前3時7分(06:07)、フレッチャーはスプルーアンスに「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ[163]、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令、第16任務部隊は次からなる117機の攻撃隊を発進させた。
- 空母「エンタープライズ」
- F4F戦闘機10機(VF-6、指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)
- SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6、指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6、指揮官:ウィルマー・ガラハー大尉)
- TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:ユージン・リンゼイ少佐)
- 空母「ホーネット」
- F4F戦闘機10機(VF-8、指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)
- SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ロディー少佐)
- TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)
しかし、午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、敢えてスプルーアンスは発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した。艦をあげての全力攻撃で、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができなかったのである。結果的に、このスプルーアンスの決断が勝因の一つになる。
また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を発進させた[164]。
- 空母「ヨークタウン」
- F4F戦闘機6機(VF-3、指揮官:ジョン・サッチ少佐)
- SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)
- TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:ランス・マッセイ少佐)
「ヨークタウン」は(09:05)に攻撃隊を発進させると、すぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機17機(VS-5)、戦闘機6を甲板に並べ、発進準備を行った[164]。また潜水艦「ノーチラス」は日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦「嵐」)を雷撃するも命中せず、爆雷6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった[165]。
午前4時28分(7:28)、利根4号機(機長は偵察員の甘利洋司 一等飛行兵曹、操縦員は鴨池源 一等飛行兵、電信員は内山博 一等飛行兵)は「赤城」の南雲機動部隊司令部に対し、『敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)』と発信した[166][167]。ところが、位置報告がずれており、実際の米艦隊の位置は160km北に偏移している[168]。新規に搭載した機体であったため、コンパスの自差修正ができず、コンパスに10度のずれがあった為とされる[169]。約10分後に受信した南雲部隊は、午前4時45分(7:45)、魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断した[170]。これについて草鹿参謀長は午前5時ちょうどに利根4号機報告を知ったと著作で述べているが[171]、「赤城」の通信記録とは矛盾している。予期せぬ米艦隊発見報告に、南雲司令部は興奮した[172]。一方で特に動揺もなく平静だったという証言もある[173]。午前4時47分、南雲司令部は「艦種を確かめ触接せよ」と利根4号機に命令した[174]。これについて生存者に南雲司令部に敵艦隊発見の報が届いたのは午前8時という証言が多いので、以後の下令は戦闘詳報が作られた際の作文であるという説もある[誰によって?]。実際には午前4時47分の命令は米側の戦闘情報班で傍受され記録が残っているので、戦闘詳報の方が正しいと思われる。
なお利根4号機が米艦隊の位置を報告する前、筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)が米軍機動部隊上空を通過していたが、雲が低かったため米艦隊を発見できなかった[175]。
利根4号機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たな米軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(現地時間7:53)、戦艦「霧島」から敵機発見を意味する煙幕が展開され、ヘンダーソン少佐が指揮するミッドウェー基地のアメリカ海兵隊所属SBD ドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達した[176]。午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戦)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母「飛龍」と「蒼龍」を空襲するも命中弾を得られず、ヘンダーソン隊長機を含む合計8機を失った[177]。ヘンダーソン戦死後に攻撃隊を率いたエルマー・G・グリデン大尉は、航行する日本空母の甲板に日の丸が描かれており容易に見分けられたと述べている[178]。米軍側は「飛龍」に命中弾2、「加賀」に命中弾3を主張しているが、命中した爆弾は1発もない[179]。米軍機の攻撃は続いた。午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐)による空襲が行われ、「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」が狙われたが、損害は無かった。攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1発を主張している[180]。1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した[181]。最後に海兵隊のSB2Uビンディケーター爆撃機11機(ノリス少佐)による空襲が行われた[181]。この隊は零戦の防御網をくぐりぬけて空母を狙うのは困難と判断し、戦艦「榛名」を狙った[182]。直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、「榛名」は無傷だった[182]。日本軍の戦闘詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ発砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ対シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している[183]。ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戦力は失われた」とキング大将に報告した[184]。この後、ミッドウェー基地航空隊はSB2U 5機、SBD 6機で夜間攻撃に出撃したが会敵せず、SB2U 1機を事故で喪失した[185]。
米軍機動部隊発見と2度目の兵装転換
日本時間午前5時から午前5時30分(08:00から08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた[186]。ちょうど米軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。「赤城」からは、護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戦隊)は友軍に激怒している[187]。混乱した状況下、南雲は利根4号機に対し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた[188]。すると午前5時20分ごろ、『敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509発信)』という報告があった[189]。この段階での南雲司令部は、米軍空母が存在するという確証を持っていない[190]。しかし、午前5時30分(08:30)、『敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)』との打電が入った[191]。この空母は「ホーネット」である[192]。偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。
草鹿龍之介参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている[193]。南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要にせまられた。午前5時30分(08:30)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾を揚弾する[194]。同時刻、南雲は山口に対し、空母「蒼龍」に2機だけ配備されていた試作高速偵察機十三試艦上爆撃機(艦上爆撃機彗星の試作機)の投入を命じ、同機はただちに発進した[195]。この偵察機の最高速度は約519km/h、巡航速度約426km/h。利根4号機などの零式水上偵察機は最高速度367km/h、米軍主力戦闘機F4Fワイルドキャットの最高速度は514km/hである。十三試艦爆は当時の米軍戦闘機の追撃を受けても十分退避可能であり、正確な情報を持ち帰ることができた。
午前5時30分(08:30)、偵察に出発した十三試艦爆と入れ替わるように蒼龍攻撃隊が帰還した。この時第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を率いていた山口多聞少将は「現状況は一分一秒を争う。第一次攻撃隊(友永隊)100機を犠牲にしてでも敵空母攻撃隊の発進準備を急ぎ、用意出来次第攻撃隊を出すべき」との考えから、駆逐艦「野分」を中継して『直ちに攻撃隊発進の要ありと認む』と進言した[196]。だが、山口の提案は後述する南雲司令部の検討により却下された。源田実や淵田美津雄によれば、この進言時点で第二次攻撃隊の準備は完成し、空母「赤城」と「加賀」の甲板に九七式艦上攻撃機、空母「飛龍」と「蒼龍」の甲板に九九式艦上爆撃機が並んでいたかのように述べている[197]。一方でJ・パーシャルやA・タリーの調査によれば、この直前のB-17の空襲で撮影された「蒼龍」と「飛龍」の上空写真には飛行甲板に航空機は並んでおらず、直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能だという事がわかっている。また仮に出撃させたとしても相次ぐ直掩機の増強で艦内に戦闘機がなく護衛が付けられないので米軍迎撃機によって攻撃前に大損害を蒙り、珊瑚海海戦の二の舞だった可能性が高い。また米軍の高いダメージコントロール能力により陸用爆弾でどこまで米空母を無力化できたかは疑問である。
ただ偵察機の報告によれば米軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際の米軍機動部隊はもっと近くにいた)のと兵装転換自体、午前4時15分の転換開始から午前4時45分の一時中止まで30分しかたっておらず、殆どしていなかった。これについて淵田美津雄は敵艦隊発見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたと述べている[198]。実際は「赤城」で6機、「加賀」で9機が済んでいただけだという。南雲司令部は幾つかの条件を検討した[199][200][201]。
- 九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である[201]。
- 第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
- 上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない[200]。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である[201]。
- 敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るために殆ど発進しており、一度着艦して補給する必要がある[200]。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない[201]。
- 戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦や米軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない[202]。
零戦の護衛をつけずに攻撃隊を出すこと、第一次攻撃隊を見捨てることについて、南雲機動部隊参謀達の悩みは大きかった。帰還機収容を優先した判断は、吉岡忠一によれば司令部では何の問題もなく決まったという。草鹿龍之介参謀長は「一切の人情を放棄して第二次攻撃隊を発進させねばならなかったが、出来なかった」と述べている[203]。敵が戦闘機を付けずに攻撃して面白いように撃墜されていくため、爆撃機だけで発進させるなど決心できなかったという。源田実航空参謀は「機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになる。歴戦の搭乗員達の回収を優先させる」と判断し[204]、後に「部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わった」と後悔している[205]。図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えなかったという[206]。また、その時入手していた敵の位置情報(誤情報)から敵の艦上戦闘機が届かないことと援護機を伴わないならば十分防御可能であること、戦闘機を付けるならば接近してくる必要があることなどから「時間的に問題がない」と判断したのである[207]。
上記の項目を考慮した南雲司令部は山口の進言を却下した。そして米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は発進可能と判断した[201]。午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する[208]。午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた[209]。同時刻、重巡洋艦「筑摩」から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)発進予定」との報告がある[210]。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に発進可能との報告があった[211]。
午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る[212]。攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4号機から帰投するという電報が届いた[213]。阿部少将は第八戦隊(利根、筑摩)に交代の偵察機発進を命じると[214]、利根4号機に「帰投まて」を命じた[215]。零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握する為の長波輻射を利根4号機に命じた[216]。だが利根4号機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった[217]。
後方の戦艦「大和」で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下連合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった[218]。宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている[219]。山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、連合艦隊司令部は何も発信しなかった[220]。
米軍艦載機の攻撃(雷撃)
第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが[221]、「蒼龍」では午前6時50分頃までかかっている[222]。南雲は連合艦隊(山本五十六長官)に米軍空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する[223]。この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBD デバステイター雷撃機14機が日本の機動部隊上空に到達[224]、日本側では「赤城」や「筑摩」が確認した[225]。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる[226]。米軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま「赤城」を狙った。一機の雷撃機は「赤城」の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している[227]。デバステーター隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した[228]。ゲイ機は「蒼龍」を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる[229]。戦闘後の名誉勲章推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる[230]。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった[228]。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機は「ホーネット」に帰艦した[228]。
午前6時37分(09:37)、利根4号機から「燃料不足のため帰投する(発午前6時30分)」と連絡が入る[231]。阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した[232]。同時刻、利根4号機と交代すべく筑摩5号機が発進した[232][233]。午前7時(10:00)、「蒼龍」の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した[234]。これは前述のように、利根4号機が報告した米艦隊の位置が100km以上ずれていた為である[168]。
午前6時50分(09:50)、ユージン・リンゼイ少佐率いるエンタープライズ雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した[235]。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズ雷撃隊を掩護できなかった[236]。エンタープライズ雷撃隊は「加賀」を目標にするが10機を失い、1機が帰還後投棄、零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する[237]。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている[238]。
(10:10)、ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃隊が南雲部隊上空に到達した。「飛龍」は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという[239]。ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した「飛龍」を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した[240]。その上空では、戦闘機隊指揮官ジョン・サッチ少佐によって、彼の発案した対ゼロ戦空戦戦術サッチウィーブが初めて試されようとしていた[241]。この時点でヨークタウン戦闘機隊は6機だけである[240]。雷撃隊全てを護衛できずTBDデバステーター10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戦死、「飛龍」に魚雷5本を発射したが、全て回避された。だが15機の零戦に6機で挑み、損害1機に対し5機撃墜という米軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戦闘機隊隊員に自信を持たせたという[240]。一方プランゲは「サッチ戦法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戦闘機隊は何の役にも立たなかった」と評している[242]。生還した雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戦24機に襲われたと証言している[239]。コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戦闘機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戦っていたことになる[239][243]。この時、同隊雷撃機隊員が駆逐艦「嵐」に救助され重大な情報を供述したが、それについては後述する。
米軍艦載機の攻撃(急降下爆撃)、日本軍三空母炎上
その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズ艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた[244]。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する[245]。午前6時55分(09:55)、米軍潜水艦「ノーチラス」を攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦「嵐」を発見する[246]。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する[247]。「嵐」は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた[248]。ただし「嵐」の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、「嵐」は「赤城」直衛で傍を離れていなかったと主張している[249]。エンタープライズ艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した[250]。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズ艦爆隊は30機となった[247]。
日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戦場に到着する。こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズ艦爆隊とヨークタウン艦爆隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に対応して直掩零戦のほとんどが低空に降りており[251]、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ[252]、「敵、急降下!」と「加賀」見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった[253]。「被弾した時、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、米軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と草鹿龍之介や淵田美津雄は主張している[199]。これにより、いわゆる『運命の5分間』説が巷間に広まっているが[199]、これは誤りである[254]。日米生存者の証言や戦闘詳報の調査によりこの時点で各空母は直掩機の発着艦を行っており、攻撃隊は飛行甲板に並んですらいなかった[255][256]。赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前にお茶を飲もうと一息ついた時だったと証言している[257]。
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊で、「加賀」を狙った[258]。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった[259]。午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐の率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くガラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中する[260]。続いて3発が短時間の内に命中した[261]。なお「加賀」を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張する米国研究者もいる[262]。
午前7時25分(10:24)、レスリー少佐のヨークタウン艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で「蒼龍」へ攻撃を開始する[263][264]。「蒼龍」は艦爆12-13機と記録[265]。発艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ機銃掃射をもって突入した[266]。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は「蒼龍」前部エレベーター前に命中して大爆発を起こし、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た[264]。ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である[264]。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦「磯風」の後部に至近弾となった[267]。
同時刻、エンタープライズ艦爆隊のうち、ベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、4機のみで旗艦「赤城」を狙った。「赤城」では直衛の零戦が着艦し、補給を行い、ふたたび発艦する瞬間だった[268]。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が「赤城」より発艦した時点で急降下がはじまる[269]。最初の1弾は左舷艦首約10mに外れたが(ベスト大尉は命中と主張)、続いて2発の爆弾が命中し、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した[270]。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある[271]。発艦寸前だった零戦1機が爆風で赤城艦橋付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った[272]。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った[260]。
約6分間のできごとであったが、太平洋戦争のターニングポイントとなる6分間であった[273]。空母「加賀」では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、中にいた岡田次作艦長以下指揮官らが戦死した[274]。午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦「萩風」、「舞風」に移乗する[275]。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた[276]。「加賀」は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含めて800名弱で、航空機搭乗員では楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した[277]。
3発の爆弾が命中した「蒼龍」の被害は被弾空母の中で最も深刻だった[278]。被弾から20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が発令されている[279]。午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。直後、「蒼龍」は再度の爆発を起こし、楠本は救出不可能と判断する。「蒼龍」は午後4時13分(19:13)に沈没した[280]。あえて艦内に残った柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した[281]。搭乗員戦死者は機上・艦上合わせて10名で、江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。
「赤城」が被弾した爆弾は1-2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能な範疇であった[282]。だが被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生する[283]。さらに、被弾直後に雷撃機4機を発見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなった[284]。これにより洋上に停止した[285]。南雲忠一中将、草鹿龍之介参謀長、源田実航空参謀、淵田美津雄総飛行隊長ら第一機動部隊司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦「野分」に移乗したあと軽巡洋艦「長良」に移ったという[286]。直接「長良」に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある[287]。午前8時30分(11:30)、南雲は「長良」に将旗を掲げた[288]。青木泰二郎艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により艦を救うことを断念し、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した[289]。「赤城」の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本は「赤城」の処分を中止させた[290]。南雲は、木村進少将(第十戦隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている[291]。結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り、午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した[292]。上記2隻と比べて「赤城」では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらと比べ少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせて7名である。淵田美津雄中佐、板谷茂少佐、村田重治少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。
空母「飛龍」の反撃
空母「飛龍」は雲下にあり、また、ヨークタウン雷撃機の攻撃を回避するため他の3隻の空母から離れており、米軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった[293]。午前7時50分(10:50)、次席指揮官阿部弘毅第八戦隊司令官は「赤城」、「加賀」、「蒼龍」が被弾炎上していることを主力部隊に通報する[294]。阿部は「飛竜ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた[294]。午前7時58分(10:54)、これとほぼ同時に山口少将は、阿部に対し「我航空戦の指揮をとる」米空母に全力攻撃をかけることを告げた[295]。午前8時(11:00)、第一次波撃隊として小林道雄大尉指揮する零戦6機、九九艦爆18機の計24機が発艦した[296][297]。九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった[298]。「飛龍」は第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した[299]。
飛龍第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた[300]。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している[301]。すぐに筑摩5号機から「敵空母の一味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す0810」との連絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した[302]。また午前8時(11:00)、蒼龍十三試艦爆が米軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報(着信午前8時40分)[303]。30分後の午前8時30分、米軍機動部隊発見を発信している[304][305]。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが[306]、無線機の故障により、南雲部隊では米軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという[288]。この頃、「赤城」の零戦隊7機が「飛龍」に着艦[307]。「加賀」からは零戦9機[308]、「蒼龍」からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した[309]。
午前8時15分(11:15)、空母「ヨークタウン」では攻撃隊着艦作業がはじまったが、着艦事故が発生して甲板が損傷する[310]。11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた[311]。偵察隊が発進してまもない午前9時(12:00)、レーダーが南西46浬に日本軍機を探知する[311]。「ヨークタウン」は重巡洋艦「アストリア」、「ポートランド」、駆逐艦「ハマン」、「アンダースン」、「ラッセル」、「モーリス」、「ヒューズ」に輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット12機を発進させた[312]。
午前8時20分(11:20)、帰還するエンタープライズ艦爆隊を日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊(重松康弘大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還[313]、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助される[314]。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)は、ついに「ヨークタウン」を発見した[315]。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみが「ヨークタウン」を攻撃した[316]。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功し、爆弾3発が命中している。1発がボイラー室に火災を発生させ、「ヨークタウン」は動力を失って航行不能となった[317]。フレッチャー司令官は、重巡「アストリア」に移乗した[318]。
代償として、飛龍第一波攻撃隊は小林隊長機を含む艦戦3機、艦爆13機を失い、艦戦1機、艦爆5機が「飛龍」に辿り付いただけだった[319]。帰還した航空機も、零戦1が不時着救助され、修理不能艦爆1、修理後戦闘可能零戦1、艦爆2という状況だった[320]。飛龍攻撃隊は「エンタープライズ型空母」に爆弾5発、陸用爆弾1発命中し、大破或いは大火災、撃沈と報告[321]。しかし「ヨークタウン」は午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノットで航行可能となった[322]。また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩5号機は、午前9時5分(12:05)に米軍戦闘機の追跡を受け退避[323]、その15分後、新たな米軍機動部隊を発見した。
午前9時(12:00)、南雲中将も「長良」の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった[324]。それより前、駆逐艦「嵐」は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley・Frank・Osmus)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った[325]。有賀幸作第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した[325][326]。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している[327]。
- 空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻[325][328]。
- ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一団とし、他の部隊とは別働しつつあり[325][328]。
- (米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり[325][328]。
- 5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず)[325][328]。
連合艦隊は、米軍機動部隊の戦力と、出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米軍戦艦群のうち、戦艦「アリゾナ」、「ユタ」、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している[329]。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという[330]。オスマスは水葬に附された[331]。彼の名前はバックレイ級護衛駆逐艦「オスマス (護衛駆逐艦)」に受け継がれている。
午前10時15分(13:15)、第八戦隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対し直ちに索敵機を発進させよと命じた[332]。午前10時30分(13:30)、「飛龍」から第二波攻撃隊(零戦6機、艦攻10機)が発進[333]。零戦2機(山本、坂東)は「飛龍」に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった[334]。筑摩4号機も発進した[335]。いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が「飛龍」に着艦する[336]。さらに、午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した[337]。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は『敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり』と高く評価している[338]。この時点で、山口は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った[339]。午前11時(14:00)、母艦「利根」で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する[340]。午前11時30分(14:30)、戦艦「榛名」の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた[341]。
午前11時30分(14:30)、飛龍第二波攻撃隊は米軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中の「ヨークタウン」だった[342]。筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力で米軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永は「ヨークタウン」を「損傷を受けていない別の空母」と判断した[343]。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始する[344]。「ヨークタウン」は直掩F4F戦闘機16を向かわせ、零戦2機、艦攻4機を撃墜した[345]。続いて艦攻1機が対空砲火で撃墜されたが、4本の魚雷が両舷から挟み撃ちの形でヨークタウンに向かって放たれ、2本が左舷に命中する[346]。ボイラー室と発電機を破壊された「ヨークタウン」は航行不能となり左舷に傾斜、総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した[347]。戦果をあげた飛龍第二波攻撃隊は、艦戦3機、艦攻5機(友永隊長機含む)を失う[348]。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、4500mの高さにまで達する大爆発を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている[349]。
友永大尉の九七式艦上攻撃機は、ミッドウェー島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。友永は搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。米艦隊までの距離は近く、友永は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている[350]。ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった。また橋本敏男(飛龍艦攻第二中隊長)によれば劇的なシーンなどなく、応急修理はしてあったはずだと推測している[351]。戦闘詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談をもとに、黄色い尾翼の友永機は[352]対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している[353]。
山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった[354][355]。これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃した「ヨークタウン」の後方に「別の空母炎上中」と報告した為である[356]。第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している[357]。この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母「飛龍」発見の報告を受けた。「ヨークタウン」を航行不能とされたフレッチャーは、スプルーアンスの「何か指示があれば承りたし」という信号に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している[358]。
飛龍沈没
空母「ヨークタウン」が飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(米軍機動部隊から72浬)と発信した[359]。駆逐艦のうち1隻は四本煙突の軽巡洋艦長良(南雲忠一中将乗艦)である[359]。戦艦「榛名」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」、軽巡洋艦「長良」(南雲旗艦)、駆逐艦3隻は「飛龍」の周辺に集結していたのである[360]。空母「飛龍」発見の電文を受信した空母「エンタープライズ」はウィルマー・ギャラファー大尉率いるエンタープライズ爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させた[361]。
午後12時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した[362]。友永機を含む零戦2機、艦攻5機を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着救助、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している[363]。鹿江隆(飛龍副長)は「(米空母2隻撃沈により)これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという[364]。だが「飛龍」の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少していた[365]。炎上する「赤城」に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えたほどである[366]。山口は十三試艦爆により米軍空母の位置を把握し、同機の誘導により全兵力で薄暮攻撃をかける事を伝える[367]。これには、整備科が損傷機を修理することで、戦力が回復するかもしれないと山口達が考えたことも関係している[368]。この間、赤城・加賀・蒼龍から「飛龍」に着艦した零戦が交替で「飛龍」上空を守っていた[369]。
十三試艦爆の発進準備が終わり[370]、友永隊を護衛して消耗した加賀所属零戦1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時[371]、米軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズ艦爆隊指揮官ギャラファー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、「飛龍」飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した[372]。午後2時(17:30)、直衛の零戦6機が迎撃に向い、「飛龍」の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した[373]。続いてヨークタウン爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃する[374]。護衛の「利根」と「筑摩」が対空砲火で迎撃したが阻止できず、「飛龍」に爆弾4発が命中した[375]。「長良」からは、「飛龍」の飛行甲板、もしくはエレベーターが「飛龍」艦橋の前に突き刺さっているのが目撃された[376]。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦「榛名」を爆撃したが、至近弾に終わった[377]。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネット艦爆隊15機は「利根」と「筑摩」を攻撃したが、全て回避されている[378]。この他にも「飛龍」と「筑摩」は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった[379]。
炎上した「飛龍」は午後6時23分(21:23)に至るまで機関は無事だったため、離脱と消火につとめた。だが艦橋と機関科間の電話が不通となったため、機関科は全滅と判断された[380]。「飛龍」はしばらく洋上に浮いていた。横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの、誘爆が発生して消火不能となる[381]。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口は南雲に総員退艦させると報告し[380]、加来艦長と共に、駆逐艦「巻雲」の雷撃によって沈む「飛龍」と運命を共にした。空母「飛龍」が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが[263]、艦底部から脱出した機関科勤務34名が沈みゆく「飛龍」から短艇で脱出したのは、「巻雲」の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという[382]。彼らは15日後に米軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である[383]。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし417名には脱出後に米軍に救助された飛龍機関科34名が入っている。
情報錯綜
軽巡洋艦「長良」に移乗した南雲忠一中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戦闘を決意し、午前8時53分に「今より攻撃に行く、集まれ」と攻撃命令を出した[384]。日本軍三空母炎上の報告を受けた連合艦隊旗艦「大和」の艦橋は雰囲気が一変し、黒島亀人先任参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた[385]。山本五十六長官は渡辺と将棋を指している時に「赤城、被爆大、総員退去」という報告を受け「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるだろう」とつぶやくと将棋を続けている[386]。この時、連合艦隊主隊は濃霧の中で戦艦「長門」が行方不明になるなど混乱しており、焦燥がつのるばかりであったという[387]。午前9時20分(11:20)、山本五十六長官はGF電令作第133号で輸送船団の一時北西撤退を命じ、同時にアリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊(角田覚治少将、空母:隼鷹、龍驤)に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)に合流するよう下令した[388]。だが両艦隊の距離は遠く合流は9日以降となる見込みであり、宇垣纏連合艦隊参謀長は空母を分散させたことを後悔している[389]。日本軍攻略部隊(第二艦隊)の近藤信竹中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、栗田健男の支援隊(第七戦隊)に合同するよう命じた[390]。同時刻、南雲も各艦に「昼戦をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戦隊(利根、筑摩)は魚雷戦を挑む準備を整える[391]。午前10時、山本はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた[392]。
- 敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。
- 攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。
- ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。
山本の命令により、近藤信竹中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応して米軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した[393]。連合艦隊は、ミッドウェー基地の米軍航空兵力が使用可能かどうか、南雲部隊に尋ねている[394]。「長良」では空母「飛龍」が米空母2隻を撃破したという連絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことを誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた[395]。夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、「飛龍」の被弾と炎上により、米軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下での水上戦闘は困難と南雲は判断[396]、草鹿によれば「万事休す」であった[397]。そこで一旦西方に反転し、あらためて夜襲を企図した。草鹿参謀長は「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戦に一縷の望みをかけて、当てもなくただ走りまわっていた」と回想している[398]。宇垣は戦艦や重巡洋艦から水上偵察機を発進させて索敵を行わない南雲司令部を「消極的、退廃的」と批判しているが、空母4隻を目前で失ったからには当然の反応だろうと理解も示している[399]。近藤中将の第二艦隊は軽空母「瑞鳳」を有しており、米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示した[400]。炎上日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令有賀幸作大佐(後、戦艦大和艦長)に至っては「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令した[401]。
午後2時13分(17:13)、筑摩2号偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止した「エンタープライズ型空母」を発見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した[402]。南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した[403]。1時間後、筑摩2号機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4発見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する[404]。筑摩2号機は重巡洋艦「筑摩」を通じ、南雲司令部に対し「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を発見」と報告する[405]。南雲司令部では「まさか」という声があがったが、やがて偵察機の報告を信じた[406]。プランゲ博士は「南雲は苛立たしさのあまり、頭を壁に叩きつけるか、索敵機パイロットの首をその手で締めたかっただろう」と記述している[407]。戦闘詳報には「南下中順次にこれ等の敵を発見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録[408][409]。南雲は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。午後4時15分、山本五十六長官と宇垣纏参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158号として以下の命令を伝えた[410]。
- 敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり[407]。
- 当方面連合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす[407]。
- 主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット[407]。
- 機動部隊、攻略部隊(7戦隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし[407]。
午後5時30分(20:30)、山本はGF電令159号にて伊168号潜水艦に対し「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。同時刻以降は第七戦隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた[411]。南雲は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(22:30)、機動部隊機密第560番電に於いて筑摩2号機の「空母5隻」発見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する[412]。南雲は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158号に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、日本軍空母全滅を報告した[413]。すると山本より、第二艦隊司令官近藤信竹中将に「赤城」と「飛龍」を除く機動部隊戦力の統一指揮を任すという命令が届いた[414]。南雲部隊第八戦隊は第二艦隊と合流し、米軍と戦闘を継続したい旨を伝えている。
日本軍の撤退
日本時間6月5日午後9時15分、山本は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合同を命じた[415]。午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本は連合艦隊電令161号で、以下の命令を伝達した[416]。
- AF(ミッドウェー島)攻略を中止す[417]。
- 主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし[417]。
- 警戒部隊、飛竜同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし[417]。
- 占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし[417]。
ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始する。6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、軽空母「鳳翔」の九六式艦上攻撃機が漂流する「飛龍」と甲板上の生存者を発見、連合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍沈没を確認せよと命令した[418]。「飛龍」の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、「長良」偵察機を発進させ、駆逐艦「谷風」を「飛龍」処分と生存者救助のために分派した[419]。「谷風」は空母「エンタープライズ」を発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受け、4機撃墜を報告して生還した[420]。「谷風」を攻撃した「ホーネット」隊は香取型練習巡洋艦(駆逐艦谷風)を攻撃したと報告し、1機が撃墜された[421]。午前中、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した[422]。
支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:旗艦熊野、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた[423]。その後、夜戦中止に先立って砲撃中止命令が出された。しかし第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ってから1時間20分後、アメリカ海軍潜水艦「タンバー」(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦「三隈」と最後尾艦「最上」が衝突事故を起こした[424]。「三隈」に衝突した「最上」は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。第七戦隊司令官の栗田健男中将は「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて「大和」以下主力部隊と合流するため北西に向かった[425]。
一方の米軍では、「飛龍」の攻撃隊により空母「ヨークタウン」が深刻な損害を受けて放棄された。駆逐艦「ヒューズ」だけが「ヨークタウン」の護衛として残された[426]。その後「ヨークタウン」ではサルベージ作業が進み、艦隊曳船「ヴィレオ」が救助に向かった[427]。フレッチャーから指揮権を譲渡されたスプルーアンスの第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮したため、一時的に東へ退避する[428]。翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始した。
日本時間6月6日、潜水艦「タンバー」の報告を受けた米軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で「三隈」と「最上」を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃をおこない、SB2U指揮官機が「三隈」の後部砲塔に体当たりし、「最上」が至近弾で戦死者2名を出した[429]。米軍機動部隊の追撃を受けていることを知った「三隈」と「最上」はウェーク島に向かい、連合艦隊主隊と攻略部隊も「三隈」の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す[430]。6月7日、スプルーアンスは『空母1隻、駆逐艦5隻発見』という索敵機の報告を元に、「ホーネット」「エンタープライズ」攻撃隊を発進させた[431]。米軍攻撃隊は空母のかわりに「戦艦」を発見し、最初は航空母艦、次は戦艦と誤認された重巡洋艦「三隈」は集中攻撃を受けて沈没した[432]。また「最上」や駆逐艦「朝潮」、「荒潮」も被弾した。近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、米軍機動部隊の捕捉に失敗している[433]。翌8日午前中、「最上」は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した[434]。
戦艦「大和」をはじめとした主力部隊は夜戦を企図して東進していたが、「飛龍」を失ったことで再考して翌0時に夜戦を中止し、3時頃には作戦自体の中止も余儀なくされた。主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戦艦に移乗させ、収容と手当てを行ったに留まる。「赤城」の生存者達は、「大和」以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵っていた[435]。日本軍輸送船団は、米軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した[436]。山本は、米軍の追撃部隊をウェーク島の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが[437]、米軍はそこまで深追いしなかった。
6月7日、「ヨークタウン」は曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。駆逐艦「ハンマン」に移乗していたバックマスター「ヨークタウン」艦長と161名が再び「ヨークタウン」に乗艦している[438]。さらに駆逐艦「モナガン」、「グウィン」、「バルチ」、「ベンハム」が護衛に加わった[438]。その頃、ミッドウェー島を砲撃後同島海域にとどまっていた潜水艦「伊-168」が「ヨークタウン」撃沈の任を受け、同艦に接近していた[439]。(13:34)、「伊-168」は4本の九五式魚雷を発射し、2本が「ヨークタウン」左舷に命中する[440]。米軍機動部隊の主力として活躍した「ヨークタウン」は沈没した。また同空母に同行していた駆逐艦「ハンマン」にも1本が命中して沈没した[440]。日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、「飛龍」が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた[441]。
6月13日、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」は艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。米軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から「飛龍」沈没を知り、計3隻の撃沈を確信していた[442]。「赤城」については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である。
参加兵力
日本軍側
連合艦隊(主力部隊) 司令長官:山本五十六大将
第一艦隊(主力部隊) 司令長官:高須四郎中将
第二艦隊(攻略部隊) 司令長官:近藤信竹中将
- 第四戦隊第一小隊 司令官:近藤信竹中将
- 第五戦隊 司令官:高木武雄中将
- 第三戦隊第一小隊 司令官:三川軍一中将
- 第四水雷戦隊 司令官:西村祥治少将 軽巡洋艦:由良
- 油槽艦:健洋丸、玄洋丸、佐多丸、鶴見丸
- 第七戦隊(支援隊) 司令官:栗田健男中将
- 第八駆逐隊 司令:小川莚喜大佐
- 第二水雷戦隊(護衛隊) 司令官:田中頼三少将 軽巡洋艦:神通
- 哨戒艇:哨戒艇1号、2号、34号
- 油槽艦:あけぼの丸
- 第一一航空戦隊 司令官:藤田類太郎少将
- ミッドウェー諸島占領隊
- 輸送船18隻(清澄丸、ブラジル丸、アルゼンチナ丸、北陸丸、吾妻丸、霧島丸、第2東亜丸、鹿野丸、明陽丸、山福丸、南海丸、善洋丸 )
- 油槽艦:日栄丸
第一航空艦隊(第一機動部隊) 司令長官:南雲忠一中将
第五艦隊(北方部隊) 司令長官:細萱戊子郎中将
- 本隊 第五艦隊司令長官直率
- 第四航空戦隊(第二機動部隊) 司令官:角田覚治少将
- 第四戦隊第二小隊
- 第七駆逐隊 司令:小西要人中佐
- 補給船:帝洋丸
- 第一水雷戦隊(アッツ攻略部隊) 司令官:大森仙太郎少将 軽巡洋艦:阿武隈
- 輸送船:まがね丸、衣笠丸
- アッツ島占領隊
- 輸送船:1隻
- 陸軍北海支隊 支隊長:穂積松年(陸軍)少佐
- 輸送船:1隻
- 第二一戦隊(キスカ攻略部隊) 司令官:大野竹二大佐
- 第六駆逐隊 司令:山田勇助中佐
- 第13駆潜隊:駆潜艇3隻
- 輸送船:球磨川丸・白鳳丸・秋鳳丸・俊鶴丸・栗田丸
- キスカ島占領隊
第六艦隊(先遣部隊) 司令長官:小松輝久中将
- 本隊
- 軽巡洋艦:香取
- 第八潜水戦隊(先遣支隊)
- 第三潜水戦隊
- 第五潜水戦隊
アメリカ軍側
第17任務部隊司令官 フランク・J・フレッチャー少将
- 第2群 司令官:ウィリアム・W・スミス少将
- 重巡 アストリア - ポートランド
- 第4群 司令官:ギルバート・C・フーバー大佐
- 駆逐艦 ハンマン - アンダーソン - グウィン - ヒューズ - モリス - ラッセル
- 第5群 司令官:エリオット・バックマスター大佐(兼「ヨークタウン」艦長)
- 空母 ヨークタウン
- 第3戦闘機隊(F4F25機)、第3爆撃機隊(SBD18機)、第3索敵爆撃機隊(SBD19機)、第3雷撃機隊(TBD14機)
- 空母 ヨークタウン
※ヨークタウンの第5飛行隊は珊瑚海海戦で喪失、サラトガの第3飛行隊を搭載
第16任務部隊 司令官 レイモンド・A・スプルーアンス少将
- 第2群 司令官:トーマス・C・キンケイド少将
- 重巡 ミネアポリス - ニューオーリンズ - ノーザンプトン - ペンサコラ - ヴィンセンス
- 軽巡 アトランタ
- 第4群 司令官:アレキサンダー・R・アーリー大佐
- 第1水雷戦隊
- 駆逐艦 フェルプス - ウォーデン - モナガン - エイルウィン
- 第6水雷戦隊
- 駆逐艦 バルク - コニンハム - ベンハム - エレット - マウリー
- 第1水雷戦隊
- 第5群 司令官:ジョージ・D・マーレ大佐(兼「エンタープライズ」艦長)
潜水艦部隊 司令官:ロバート・H・イングリッシュ少将
- 潜水艦19隻
ミッドウェー島守備隊
- ミッドウェー基地海軍航空部隊 司令:シリル・T・シマード大佐
- カタリナ飛行艇31機、TBF6機
- 第22海兵航空群 司令:イラ・L・キムス海兵中佐
- F2A20機、F4F7機 SB2U 11機 SBD 16機
- 第7陸軍航空軍分遣隊 司令:ウイリス・P・ヘール陸軍少将
- B -26 4機、B-17 17機
- 地上部隊 司令:シマード大佐(兼任)
- 第2急襲大隊
- 第6海兵大隊 司令:ハロルド・D・シャノン海兵大佐
- 第1魚雷艇戦隊
両軍の損害
日本軍側
上記の沈没・損傷艦の他、筑摩航空搭乗員3名、利根航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,057名を失い、その中には友永丈市大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら110名の空母艦載機搭乗員を含んでいた。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戦4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戦6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戦4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戦11、艦爆27、艦攻34) [450]。搭乗員損失率は反撃を実施した飛龍が最も多い。空母上で米軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は、赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である[450]。
なお、文献によっては熟練搭乗員多数を失い、以後の航空作戦に支障をきたしたとする論調で評価するものがあるが、これは上記にもあるように誤解である。搭乗員の多くは空母が沈没する前に脱出しており、激戦を経た飛龍を除く三空母の搭乗員は大半が健在だった。
- 6月10日大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」[451]、6月18日の大本営発表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正発表した[451]。南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である[452]。米空母2隻撃沈は山口多聞少将(中将)も誤認しており、山口は真実を知ることなく空母「飛龍」と共に戦死した。
アメリカ軍側
- 戦死
- 空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハマン84名、駆逐艦ベナム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。
本海戦の影響
日本軍側
開戦時の聯合艦隊司令長官の山本五十六は戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒するだろう」と述べていた。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全てにおいての拙劣さにより、当時米軍の約2倍の戦力を有しながら、ミッドウェー海戦で主力空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けた。にも関わらず、事後に作戦戦訓研究会は開かれず、敗戦の責任者である南雲忠一などの高官が処罰されることもなかった。もっとも軍令部は、この敗北を国民には伝えなかったものの、参謀本部に対しては迅速に伝えている[454]。水上部隊の戦力では優位を保っていたとは言え、連合艦隊の中核戦力を一挙に失ったことによる高級指揮官らの困惑は甚だしく、「航空基地の偉大なる威力」という戦訓が生み出され、ラバウルから1,000kmもかなたのガダルカナル島に飛行場が建設され、また、ガ島基地奪回作戦が行われた。開戦から6ヶ月目に当たるミッドウェーの被害以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦、翌年初頭に行われたレンネル島沖海戦などいくつかの局地戦では日本は勝利を手にするものの、ガダルカナル、ニューギニアやマキン・タラワ島をめぐる戦いで戦局に影が生じるなど、1年を経過せずに日本の戦局は徐々に乱れ始め、開戦時に勤務していたベテラン搭乗員の半数以上が失われてしまった1943年の年末には日本軍の勢いが完全に落ち込んだ。そのため、後年ミッドウェー海戦は太平洋戦争の最大の転換点とも評されるようになった。
機動部隊の主力であった第一、第二航空戦隊が壊滅したため、新たに翔鶴、瑞鶴を中心として機動部隊の再建が図られたが、日中戦争以来のベテランである一、二航戦の穴は、最新鋭とは言え、経験不足の二艦で埋められるものではなかった。このことは、ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中で、軍令部側が「残存空母2隻(瑞鶴、翔鶴)では守勢の外はない」、「残りの空母は大したものではない」と述べていることからも明らかである[455]。ミッドウェーでの各空母のパイロットの喪失は、反撃を行った飛龍を除けばさほどでもなかったが、かけがえの無い主力正規空母4隻を一挙に失ったことは取り返しがつかず、これ以後米機動部隊に対して常に数的劣勢に立たされることになり、本来二線級の戦力である軽空母や改装空母までを主力として投入せざるを得なかった。
もともと搭載機会が少ないため生産要求の少ない艦上機がこのミッドウェー海戦と前の珊瑚海海戦において多数を失ったことは大きかった。[456]
また、本海戦で損失した航空戦力を補うため、大和型戦艦の3番艦は急遽装甲空母への改装が決定され、空母「信濃」となる。戦艦「伊勢」「日向」は5・6番砲塔を撤去して飛行甲板を設置し、航空戦艦となった。改鈴谷型重巡洋艦 「伊吹」は搭載していた主砲を撤去して軽空母に改造され、さらに、商船改装の空母の建造や、飛龍を元にした雲龍型航空母艦15隻追加建造が計画された。しかし、本海戦に続いてガダルカナル島をめぐる消耗戦等で熟練搭乗員を失っていったことにより、若手搭乗員の訓練・補充が追いつかず、この後の日本機動部隊は規模的にはミッドウェー海戦時を上回っても、質的にこの当時を上回ることは未来永劫できなかった。また改造空母群も日本の工業力の小ささ故に完成時期が遅れたり、搭乗員や搭載機そのものがなく、戦局に全く寄与しなかった。1944年時には艦載機の陳腐化が顕著となり、「作っても初陣で失われる」という有様であった。空母「大鳳」の初陣での戦没がそれを証明している。改造空母に至っては乾坤一擲の切り札であるはずの空母「信濃」は就役してから10日で沈没し、軽空母「伊吹」は完成しなかった。 飛龍を元にした雲龍型航空母艦は結局3隻のみ竣役したが「雲龍」は特攻兵器輸送任務中に潜水艦によって撃沈され、「天城」は航空戦艦に改装された「伊勢」「日向」とともに呉空襲の際に大破航行不能となった。空母「葛城」は戦後復員船として活躍した。これに対して、アメリカの戦力が量・質ともに時間とともに桁違いに充実していったことを考えれば、この時点において日本は太平洋戦争の勝利の機会を失ったといえる。
作戦の混乱により山本五十六を始めとする短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなった。また、大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機120機を撃墜。味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破、未帰還機35機」と国民に発表することによって士気の阻喪を防ごうとした[457]。これ以降国民に対して(天皇に対しても)歪曲を施した戦果報告を行なうようになり、この状態は第二次世界大戦の終結まで続くことになる。これは戦果を正確に記録できていた開戦初頭に比べて搭乗員の経験不足や、海軍上層部の冷静な判断力の欠如、また期待感や同情から搭乗員の過大な戦果報告を鵜呑みにしたことも関係しており、ブーゲンビル島沖航空戦や台湾沖航空戦などが代表例である。もっとも、米軍もミッドウェー海戦に先立つフィリピン防衛戦ではまったく架空の日本戦艦撃沈の報を国民に伝え、終戦までそれを訂正することはしなかった。珊瑚海海戦でもアメリカは、自軍の戦果を過大宣伝している。それでも、総じて米英の場合は日本やソ連ほど極端ではない。
アメリカ軍側
アメリカ軍は、それまでは数が確保できなかったため、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった航空母艦を、戦前から建造を進めていたエセックス級航空母艦の整備に伴い、空母機動部隊として集中運用するようになる[458]。大戦後期のマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。
仮に日本軍が勝利し、ミッドウェーやハワイの占領に成功したとしても大勢に影響を与えたかは疑問である。戦略的要衝であるミッドウェーを占領した時点で、ハワイよりアメリカ側の強力かつ執拗な反攻を受けるのは確実であり、補給線の維持も困難になっていた筈である。日米両国の国力差が歴然としていることから、結局戦争全体が長引いたに過ぎないという説がある[459]。
太平洋の戦局に余裕を得たフランクリン・ルーズベルト大統領は、配備したばかりのM4中戦車300両を回収して、他の武器と共に北アフリカ戦線に急送し、9月3日にスエズに到着。10月23日、M4中戦車の補給を受けた在アフリカイギリス軍はエル・アラメインから反攻し、エルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団を撃破した。ドイツアフリカ軍団の敗退により、日本軍が企図した西亜作戦[460]も潰えた。
戦闘の分析
日本軍の敗因
本作戦が失敗した原因は多岐にわたる要素が挙げられるが、ここでは主要なものに関してのみ述べる。
軍令部次長以下と連合艦隊司令部の検討において宇垣は空母が団子になっていたこと、戦闘機を援護機に使い過ぎたことをあげたが、空母の集中運用は当時の無線電話の現状や無線封止、警戒艦数の関係から見ても適切であるとされ、第一航空艦隊はミッドウェー基地航空兵力捕捉撃滅も主目的とされており戦闘機の運用も連合艦隊が承知していたことで所見にすぎない。[461]
ミッドウェー基地攻撃隊収容をあきらめて海上不時着させ艦上攻撃機準備発進を優先させるか、全機収容し陣容を整えた有力な攻撃隊を編成し一挙に撃滅するかの判断も山口多聞は攻撃隊発進を優先させる要請を出したが、第一航空艦隊司令部は帰還部隊の収容を優先させた。これは司令部内で何の問題もなく決まったという。草鹿は敵の援護機の無い部隊が撃墜される姿を見て戦闘機を付ける必要を感じたという。また源田も当時得ていた情報による時間的判断があったという。[462]しかし戦後は発進を優先させるべきだったとしている。[463]
連合艦隊も第一航空艦隊に敵に備えるように言っておきながら、甘い敵情判断、情勢の緊迫を察知しながら東京からの甘い状況判断の放送を全部隊に流したままで自己判断を知らせないままだった。[464] 出撃前に重要な作戦転換は連合艦隊から知らせることになっていたが敵空母の疑いを察知するも何もせず、第一航空艦隊ではサイパン出発後の敵潜水艦に発見されたという情報も知らされておらずその後の敵の緊急信増加、動きの活発化が何を意味するか判断がつかず敵情変化なしのまま行動していたという。宇垣は第一航空艦隊に対し連合司令部も至らざるところがありすまなかったと言っている。[465]
索敵が不十分だったという意見もあり索敵立案を担当した吉岡忠一は敵が作戦中現れると考えておらず艦上攻撃機を索敵に回すのが惜しかった全く状況判断が甘かったと戦後反省している。[466]索敵の密度をもっと濃くするべきだったという。[467]索敵計画に携わった草鹿龍之介[468]、源田実や淵田美津雄なども二段索敵にするべきだったと反省している。[469] また利根四号機による敵空母位置の誤りに第一航空艦隊、第八戦隊司令部、利根が気付かなかったことは南雲忠一の戦闘指導に大きな影響を与えた。[470]索敵計画はこれまでの経験から早くに出すように改善はされていた。[471] そのため利根4号機がカタパルトの故障がなく定刻に発進し偵察搭乗員に気の緩みがなければ索敵計画に問題はなかったとされることがある。[472]
艦隊構成
戦艦を主戦力とし、その概念で空母部隊も編成した。空母は、広い攻撃圏を有する飛行部隊を持っており、戦力の集中が簡単で、各艦の距離を戦艦の10倍以上持てる。しかし、あえて戦艦並みの距離で4隻が一緒に行動したため、同時攻撃を受けて3隻が壊滅した。
空母の集中運用は、各艦との連絡が取りやすく、指揮官の意思伝達を容易にし、艦隊すべての航空戦力を集中的に管理しやすい反面、空母自体の防御力の脆弱性もあり、攻撃を受けると一挙に大損害をこうむる危険もある。また、空母の艦長も各航空戦隊の司令官にも、自分の飛行隊を自由に使える権限がなく、不測の事態に対する柔軟性に欠ける。対して米艦隊は空母を分散運用し、結果的に被害をヨークタウンのみにとどめている。しかし、本海戦における米軍の航空運用は、各空母飛行隊間の連携がほとんど取れておらず、兵法における愚策とされる戦力の分散と逐次投入という状況を招いた。これは空母の分散運用の最大の欠点が現れた形である。現に、戦闘機隊と連携できずに単独で突入した雷撃機隊は有効な攻撃もできずに壊滅している。米軍にとって幸運だったのは、兵力の分散が偶然にも波状攻撃の形となり、日本艦隊の防空の意識が低空に向けられていた隙を突くことになったことである。本海戦は、日本側に空母集中の最大の欠点が如実に現れ、米側は逆に分散運用の欠点が利点に転じた結果となった。
南雲機動部隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻に対し、霧島、榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻と、護衛艦が貧弱であった。機動部隊の300浬(約550km)後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、鳳翔、千代田の空母2隻、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、瑞鳳、千歳の空母2隻、水母1隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊はまったく役に立たない。また、大型戦艦は空母の前に布陣していれば、おとりとなって空母を守れた可能性もあることから、そもそもの編成に不備があったとの指摘がある。
また、南雲機動部隊に、本来与えられてしかるべき海上航空戦力が与えられなかった、という批判もある。ミッドウェー攻略作戦の陽動作戦として、主戦場より遠く離れたアリューシャン攻略作戦には、貴重な2隻の空母隼鷹と龍驤を基幹とする艦隊が投入された。また、珊瑚海海戦を戦った2隻の空母のうち、翔鶴は中破していたが、もう1隻の瑞鶴についてはほとんど無傷であり、搭載機と搭乗員の手配をすればミッドウェー海戦への参加も不可能ではなかったにもかかわらず、内地にあって不参加であった。
南雲忠一に対する批判と擁護論
本作戦における南雲に対しては、兵装転換による無駄な時間を生じた点などで、その作戦指揮に対する批判が多い。また、それに対して当時の背景状況や、部下の進言・不手際にこそ問題点があったとする反論もみられる。なお、これらについては、南雲忠一の記事にも詳しい記載がある。
(1) 指揮官としての経歴やパーソナリティに関する問題点について
南雲は、本来水雷戦隊を率いての戦いが専門であり、航空戦を理解しておらず、敵の見えない戦いについての訓練もされていなかった。しかもリーダーシップに欠けて優柔不断だったとよく言われている。対米開戦確実となった昭和16年10月に、南雲の機動部隊指揮官としての資質に疑問を持った宇垣参謀長は山本連合艦隊司令長官に対して、南雲を更迭して小沢治三郎を起用するよう進言している。航空隊の指揮官だった淵田は後に、自著に「少々耄碌(もうろく)していた」と記している
こうした批判に対しては、そのような人物を年功序列で司令官においていた海軍の人事自体も問題視するべきで、ミッドウェーの敗因を南雲ひとりに負わせてしまうのは酷であるとする意見がある。空母同士による航空機主体の海戦は、この直前に行われた珊瑚海海戦が史上初であったが、南雲はじめ海軍首脳部にはこの戦訓を当海戦に活かした形跡が見られない。
山口にしても、航空戦の実戦経験は基地航空隊でのみであり、消耗したら直には航空戦力を補充できない空母同士の海戦を理解していたかについては疑問がある。米側も空母を初めて指揮するスプルーアンス少将は航空機を逐次投入するという本来なら愚策である決定をしている。運よく波状攻撃という形になり艦爆隊が奇襲できたが其々が各個撃破されていた可能性も充分ある。(実際雷撃隊はほぼ全滅している。)
また南雲の判断自体当時の艦隊の状況を考えれば至極真っ当であり機動部隊指揮官として今作戦の目的完遂の実質的指揮官である以上、作戦初期の段階で航空戦力をすり潰し戦果は低い可能性の高い運用はできないだろう。
(2) 作戦指揮そのものに対する問題点について
敵発見後に即時攻撃せず、爆撃装備から雷撃装備に換装させるという判断を下し、貴重な時間をとられたということが最大の失敗との分析が今まで多くなされてきた。通常の爆弾でも、特に対空母であれば甲板を破壊することで沈めずとも艦種としての主要機能を無力化できるし、対砲艦であっても、爆撃で露出した対空装備や甲板上の戦闘要員をなぎ払えば戦力低下をもたらすことができる。事実、本海戦での日本側空母は、米側の魚雷よりも爆弾による攻撃がもたらした火災被害が喪失の大きな原因となった。早期に発艦すれば攻撃の機会があった上、換装途中の航空機や弾薬の誘爆による被害拡大を防ぐことができたと見られ、南雲の戦闘指揮に対する批判としてよく挙がるものとなっている。 この批判に対しては、結果を知っているからこそ言えるいわゆる「後知恵」が多分に含まれているものが多いという意見もある。しかし吉岡忠一によればこれは司令部内で何の問題もなく決まったという。草鹿は敵の援護機の無い部隊が撃墜される姿を見て戦闘機を付ける必要を感じたという。また源田も当時得ていた情報による時間的判断があったという。[473]
また、兵装転換をはじめとする作戦指揮への批判には、近年以下のような用兵等の観点からの反論がでており、従来の定説が覆されてきている。これらについての詳細は下記に述べる。
A 山口司令官の意見具申を採用して攻撃隊を向かわせていたら勝てた。
- 右記の写真から見て意見具申時に空母にはなんら攻撃隊は準備なされていない事が判っている。即時攻撃自体が出来ない状況である以上それを南雲の失敗の一つとするのは明らかな誤りである。仮に敵発見の報告後、直ちに攻撃隊を準備し発進させたとしても、それまでの防空戦に大半の戦闘機を割いている状況だった。これは戦闘機の護衛がほとんど無い実質丸裸の攻撃機/爆撃機隊を送り出す事になることを意味する。(先の珊瑚海海戦で攻撃隊が米軍戦闘機の迎撃を受けて大きな損害を出している例があり、適切な措置であるとはいえない。)実際の飛龍攻撃隊によるヨークタウン空襲での結果から見ても攻撃隊が大損害を被り米空母にはあまり損害を与えられなかった可能性の方が高い。また米空母発見の報が届いた時間帯は、ミッドウェーを攻撃した第一次攻撃隊がちょうど帰還してきた頃である。当時の空母は、発艦・着艦を同時に行うことはできない。攻撃隊発進を優先することは、第一次攻撃隊の着艦を妨げるし燃料の残余から考えても実質不可能であり、反復した波状攻撃としては間が空く。これは米空母に復旧・反撃の時間的猶予を与えることになる。また、この時点で攻撃体を発進させた場合利根4号機の間違った報告のみを頼りに出撃することになり、攻撃が空振りに終わった可能性が高い。
B 兵装転換せず陸用爆弾のままでも攻撃隊をだすべきだった。
- 対地爆撃装備のままでの艦船攻撃は(直接的に浮力を奪うための攻撃という観点で)効果をさほど期待できない。実際飛龍の反撃で爆弾を3発受けたヨークタウンは2時間ほどで復旧している。また、艦攻による水平爆撃は命中率が悪く、充分な成果を挙げ得るとは考えにくい。時間的に見ても陸用爆弾への変更は殆どなされておらず対艦兵装への転換はそれほどかかるものでは無いと判断したのは誤りともいえない。
C 利根4号機の報告に対する決断が間違っていた。
- 利根4号機が知らせてきた米空母の位置が、実際よりも遠方であった。このため、時間的余裕があると判断したがそう決断することは決して不自然なものではなく、第一次攻撃隊の収容と、それに平行して艦内での対艦攻撃装備への転換を実施して、完全な攻撃隊を編成することは、誤った措置であるとは言い切れない。
D 偵察を1回のみの1段索敵しかせずおろそかにした。
- 索敵軽視と評する批判自体、その論拠となる「発進の遅れた利根4号機の報告を待たずに、攻撃目標をミッドウェーに切り替えたこと」については、代替機でより早く確実な情報を得ようとしても、要員や機材の準備が間に合う確証がないことからやむを得ないものである。また、索敵方法自体も従来から行われているものであり、むしろその問題点の発覚は本海戦の戦訓によるものであった。雲上を飛行したために見逃してはいるが、筑摩の偵察機は米軍艦隊上空を飛行しており、水平方向の索敵範囲としては問題の無いものである。レーダーも無い機体で視界の不十分な雲上を飛行して見逃したことは、そのパイロットに責を問うべきで、南雲が直接批判されるべき問題ではない。
(3) ミッドウェー攻略の作戦自体を問題視する意見
以下のようにミッドウェー攻略の計画自体の破綻を指摘し、南雲に責を問えないとする意見もある。ただし、米軍の待ち伏せは日本軍が作戦実施前に把握できなかったことであり、これを以っての擁護論は現場の戦術レベルの問題と戦略レベルの問題を混同している側面があると言える。また、これ自体が批判と同様に結果を知っているからこその後付けの指摘に過ぎないともいえる。
- もともと、作戦の方針はミッドウェーを攻撃して、その後反撃の為に進出してきた米空母部隊を撃滅するというものであり、米軍があらかじめ待ち伏せていることは想定外に近い状況であった。米軍が待ち伏せていたという時点で作戦そのものが破綻していたと言える。これを踏まえて、期せずしてミッドウェーと、米空母を同時に相手するという状態に陥ったことが、雷爆装転換による混乱という形になって現れ、結果空母部隊をもっとも弱い状態で米軍の攻撃にさらす事になった。これは機動部隊の指揮をとる南雲だけに問われる責任ではない。
戦力の分散が最大の敗因につながった。米軍は空母3隻、重巡7隻ほか合計57隻を決戦海面に集めた。日本側がミッドウェー・アリューシャン作戦に動員した戦力は、戦艦11隻、空母6隻、重巡17隻ほか合計350隻に達していたが、決戦海面で戦うことができたのは、戦艦2隻、空母4隻、重巡2隻ほかに過ぎなかった。空母1隻あたりの護衛能力は下回り、しかも航空兵力の半分を陸上攻撃に向かわせるという致命的な失敗を犯した。ニミッツ米司令長官は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう。日本海軍は奇襲を必要としない場合も奇襲に依存するという錯誤を犯したのである」と語り、日本の作戦構想の誤りを指摘した[474]。
レーダー
米艦隊にはレーダーがあり、日本空母にはないという装備上の大きな差があった。米軍はレーダーを用い、接近する航空機や艦船に対して有効な対応が直ちにできたため、奇襲を受けることはなかった。また、攻撃機の空中退避、戦闘機の邀撃、艦隊自体の退避が行えた。そして、米空母の管制により性能で日本側に劣る米戦闘機も空母の近くでは有利に防空戦を行えた。
もし日本に対空レーダーが装備されていれば、奇襲を受けて空母が全滅することはなかったと当時から言われ、以後、空母翔鶴を最初に21号電探等の装備が始まった。ただし、そのためにはレーダー探知情報に基づいて自軍戦闘機を誘導するCICのような体制がなければならないが、当時の日本軍戦闘機が装備していた無線電話機は近距離でもまともに交信できない劣悪な性能であった、従ってレーダー単体が完備されていたとしても、組織的な防空体制を整えていなければ、状況はほとんど変わらなかったとも言える。なお、主隊の伊勢と日向には、試作型の水上レーダーと対空対水上兼用レーダーが日本海軍で最初に装備されていた。
情報戦
米海軍が日本海軍の暗号解読に成功し、これに状況判断を加えることで、作戦計画の概要をほぼ完全に把握し、的確な邀撃作戦を準備していたことがまず挙げられる。一方日本軍は米軍の暗号をほとんど解読できず、主に通信状況、方位測定、平文傍受などの情報から状況判断を加えて分析しており、確度は低かった。
日本の「海軍暗号書D」系統は戦略常務用一般暗号書でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前より使用していたため寿命が尽きかけていた。ハワイの米軍情報隊に暗号は解読され、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇が判明しており、作戦全体像がほぼ察知されていた。日本軍としては暗号書などを改訂しようとしていたが主力部隊の出撃に間に合わず、作戦準備期間の電報が大量に解読されてしまう事態があった。
加えて珊瑚海海戦後の5月15日に、マーシャル諸島南方において敵空母を発見したことにより、敵空母の所在についての判断を誤る結果となったことも作戦行動に影響している。日本側が想定した米空母数は2隻。日本側の4隻と比べると倍の戦力差があり、このため今まで通り米空母は決戦を避けるのではないかということも考えられていた。情報戦における敗北については戦闘後に宇垣連合艦隊参謀長も「程度は別としてわが企図が敵に判っていた疑いがある」「敵情偵察不十分」を敗因として挙げている。日本海軍は、連合艦隊に情報参謀という情報分析を専門に行う参謀が無く、その価値が軽視されていた。
通信
南雲機動部隊を前衛に出し、後方を戦艦大和を旗艦とする本隊が進んでいたのだが、大和には高性能の受信設備と優秀な情報収集班が配置され、ミッドウェー付近の敵の状況を推測の範囲ではあるが、ある程度まで把握していた。片や南雲機動部隊側の通信設備は性能が劣り、敵の情報をつかむことが困難であるため、本隊からの情報が必要であったが、最後まで的確な情報提供がなされなかった。この情報伝達の不備が敗因のひとつであったと指摘されている。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督はハワイで指揮を執り、空母部隊に逐次連絡していたのに比べ、同じく前線部隊に情報を提供する立場にある連合艦隊司令長官山本提督は無線封鎖中の戦艦大和で指揮を執り、情報は一切発信しないという状況であった。また日本軍は全てを暗号に組み替えており(米軍は緊急時には平文のまま打電することもある)、通信自体に時間がかかった。
哨戒
第一に作戦事前のハワイとミッドウェー間の日本軍哨戒網に問題があった。当時の日本軍潜水艦はレーダーを装備しておらず哨戒能力に問題があった。さらに哨戒線への潜水艦の到着が遅れてしまい米軍空母の通過後に展開しているのも敗北の原因だった。また、ハワイ真珠湾を二式大艇で事前偵察を行い、米艦隊の動向を探る第二次K作戦も、偵察機の給油・中継地とされていた地点に米軍艦艇が出現した為、直前で中止になっている。これらにより南雲機動部隊は、事前段階の敵情報をほとんど掴めないまま作戦にあたることになってしまった。このことが、アメリカ海軍空母部隊の進出は「作戦通り」ミッドウェー攻撃が起こってからという先入観に拍車をかけてしまった。
第二に、南雲艦隊による索敵である。当時の日本海軍では主に巡洋艦に搭載された水上偵察機を主力として索敵を行っていた。空母の攻撃力を重視し他の艦艇との役割分担を明確にするために空母には偵察機を搭載しておらず、攻撃機や爆撃機等の艦載機による索敵にも消極的であった。本海戦においても索敵には主に巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は九七艦攻2機のみである。また、作戦全体の見通しの段階で、日本軍の将兵には、米空母のミッドウェー進出は、自分たちのミッドウェー攻撃後に行なわれるだろうという先入観が大きかったと思われる。
なお、利根4号機が定刻に発進できていれば、米空母発見が早まっていたのではないかとする説もある。定刻発進した場合、米艦隊が利根機の策敵線に差し掛かる前に利根機が通過していることになり、策敵そのものが失敗していた可能性が高いとも言われる。2005年に出版された「やっぱり勝てない?太平洋戦争」では哨戒ラインと米艦隊の航跡をタイムスケジュールを交えて重ね合わせ、利根4号機が米空母を発見したことを「むしろ幸運だった」とし、筑摩1号機が米艦隊を発見できなかったことについて言及している。空母艦載機を積極的に索敵に投入し、濃密な索敵網を形成できればより発見が早まった可能性もあるが、実際に行われた従来道りの方法による索敵は、本海戦まで必要充分の成果を挙げていたことから、従来の方法以外の索敵を適用する発想を当時の日本海軍に求めることは酷であるともいえる。なお、実際には、真珠湾攻撃やインド洋作戦の際は攻撃圏内にいた敵艦隊を発見できずに大魚を逸する結果となり、また珊瑚海では敵発見の遅れから必要以上の損害を出して本海戦にも影響があったが、これらが充分に戦訓化されていなかった。
もともと日本海軍はその数的劣勢に鑑み、攻撃力を温存するために空母艦載機を索敵にあまり使用せず、水上機を策敵の主力に据えていた。日本海軍はこの思想にのっとり、他国の水準を凌駕する水上偵察機や、それを最大限活用して機動部隊の索敵を担う為の「利根」型重巡洋艦を開発・運用しており、有力な艦載水上偵察機を開発できなかった米英海軍とは事情が大きく異なる。こうしたことから、結果的に不十分な内容となった哨戒には問題があったが、そのいくつかは背景状況からみて不可避のものでもあった。
この海戦の結果によって、従来の索敵法では不十分であるとされ、後の南太平洋海戦における二段索敵や、空母搭載用の高速偵察専用機彩雲の開発などにその教訓が生かされることになる。
楽観的気運
この時期の日本海軍航空隊の搭乗員の精強さについては、日中戦争(支那事変)以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の戦闘を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、その敗北の検証さえ十分に行われなかった。第一航空戦隊(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた[475]。さらに、淵田によるとミッドウェーでの米軍の初期の攻撃の拙さに、彼らは哀れみさえ感じていたという。
確かに経験・練度・士気など、いずれの点でも当時の南雲艦隊に勝る空母航空部隊はなかったといえるが、日本海軍はそのことを過信するあまり、自軍を脅かす可能性のある情報や兆候にひたすら目をつむり、希望的観測のみで作戦を進めてしまった。その結果、ミッドウェーで4隻もの正規空母を失うという取り返しのつかない敗北を招いたといえるだろう。これ以後、坂を転がり落ちるように日本海軍航空隊は凋落の一途を辿り、それはここからわずか2年後のマリアナ沖海戦の機動部隊の壊滅で決定づけられた。
ダメージ・コントロールの欠如
日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されていず、火災に備えた訓練も行われていなかった。[要出典]そのため自艦の爆弾や魚雷が誘爆すると手のつけようがなく、米軍勢力圏内で曳航に失敗し、自沈処理に至った。航空機用の燃料や爆弾を大量に搭載する空母の脆弱性は日本海軍も認識しており、マル4計画で既に飛行甲板に装甲を施した空母「大鳳」を建造中であった。しかし、6月21日に開かれた空母急増対策委員会(山本、草鹿、南雲、源田実、宇垣纏、鈴木軍令部第二部長、大西瀧治朗航空本部総務部長、江崎岩吉造船少将)では、四空母生存者から日本空母に対する厳しい指摘がなされた[476]。すると山本五十六が「計画変更の必要なし。空母に脆弱性あるとも、使いこなす自信がある」と発言し、出席者一同沈黙したという[477]。
特に赤城は、爆弾2発の直撃により大破している。これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。これについては後部に命中したとされる爆弾は命中せず至近弾だった可能性がある[478]。 赤城の右舷後部主機室が浸水し舵に損害が出ており爆弾が命中しただけで損害がでる場所ではないからである。船体すれすれに落下して水中内で爆発、舵に損害を与え浸水を招いたのではないかとも言われているが確証はない。
反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある[479]。
ミッドウェー海戦を扱った作品
- 映画
- 太平洋の鷲 (1953,日本)
- ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐 (1960,日本)
- ミッドウェー (1976,アメリカ)
- 連合艦隊 (1981,日本)
- 漫画
- ゲーム
- アーケードゲーム
- シミュレーションゲーム(ボード)
- ゲームブック
- スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌:新星出版社:1985年)
- ドキュメンタリー番組
文献
公刊戦史
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社、1971年3月1日
- 「第一航空艦隊戦闘詳報」を収録。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊(2)』朝雲新聞社、1975年2月
同時代資料
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.A06031045900「週報 第297号」(昭和17年6月17日)「敵の『空母集団』殲滅」
- Ref.A06031046100「週報 第299号」(昭和17年7月1日)「米本土に深刻な脅威」
- Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」
- Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(3)」
- Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(4)」
- Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030040500「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」
- Ref.C08030040600「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」
- Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」
- Ref.C08051585400「昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」
- Ref.C08051579300「昭和16年12月~昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含)
- Ref.C08051578800「昭和16年12月~昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含)
- Ref.C08030761000「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」
- Ref.C08030761100「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」
- Ref.C08030680800「昭和17年5月1日~昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸。敵潜に依る被襲撃報告(1)」
- Ref.C08030020900「昭和17年5月15日~昭和17年12月31日 第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030081200「昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030112500「昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」
- Ref.C08030745600「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」
主要書籍
- サミュエル・エリオット・モリソン 著/中野五郎 訳『ミッドウェー海戦』(筑摩書房、1966年)
「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録 - 澤地久枝『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月~1985年3月、のち文春文庫(全3巻)
- 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』文藝春秋社、1986年5月。
- 橋本敏男、田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0606-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
- 佐々木確治「戦艦『陸奥』ミッドウェー海戦従軍記」(戦艦陸奥二番砲塔員)談
- 小谷光四郎「海は燃えている」(加賀整備員、昭和42年7月号)
- 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7。
- 牧島貞一『続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記』光人社、2002年。ISBN 4-7698-2339-8。
『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。赤城被弾後は長良へ移動。 - ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳『ミッドウェーの奇跡 上巻』原書房、2005年。ISBN 4-562-03874-8。
- ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳『ミッドウェーの奇跡 下巻』原書房、2005年。ISBN 4-562-03875-6。
- 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』(学研M文庫、2008年) ISBN 978-4-05-901221-4
- 小学館「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)
- 松田十刻『山口多聞』光人社
参考書籍
- 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。
- 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年。
- 古村啓蔵回想録刊行会編『海の武将-古村啓蔵回想録』原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1。
- ピーター・C・スミス著、妹尾作太郎訳『日仏伊英米独ソ七人のサムライ 爆撃王列伝』光人社、1987年。ISBN 4-7698-0332-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
第5章 アメリカ海兵隊 エルマー・グリデン大佐 勇気と秀でた統率能力と義務に対する献身をもって貢献した不死身の伝説的戦士 - 千早正隆『日本海軍の驕り症候群』プレジデント社、1990年。ISBN 4-8334-1385-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 松田憲雄『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』光人社、1993年10月。ISBN 4-7698-0663-9。
- P・フランク、J・D・ハリントン著、谷浦英男訳『空母ヨークタウン』朝日ソノラマ文庫、1994年。ISBN 4-257-17048-4。
- 生出寿『凡将山本五十六 烈将山口多聞』徳間文庫 ISBN 4198922829
- 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社、1994年。ISBN 4-8334-1530-5。
- 碇義朗『飛龍 天に在り 航空母艦「飛龍」の生涯』光人社、1994年。ISBN 4-7698-0700-7。
- 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長海上修羅の指揮官』光人社NF文庫、1996年。
有賀幸作(後の大和艦長)は1942年6月時点で第四駆逐隊司令官。駆逐艦「嵐」に乗艦し、本海戦に参加した。 - 生出寿『勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六』徳間文庫、1997年7月。ISBN 4-19-890714-5。
- 別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997年)
「空母『飛龍』の機関室 真珠湾からミッドウェーへ」 萬代久男「飛龍」機関長付少尉 - 別冊歴史読本『第22(517)号 海軍機動部隊全史』(新人物往来社、1999年) ISBN 4-404-02722-2
- 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2C0095{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』テイ・アイ・エス、2000年7月。ISBN 4-88618-240-2。
- 『ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実』新人物往来社、2011年。ISBN 978-4404040305。
- 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8。
- 池田清・野村実ほか、近現代史編纂会編『海軍艦隊勤務』新人物往来社、2001年。ISBN 4-404-02914-4。
- 萬代久男(飛龍機関長付少尉)「空母『飛龍』の機関室 真珠湾からミッドウェーへ」
別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997年)を再録
- 萬代久男(飛龍機関長付少尉)「空母『飛龍』の機関室 真珠湾からミッドウェーへ」
- 牧島貞一『炎の海 報道カメラマン空母と共に』光人社、2001年。ISBN 4-7698-2328-2。
牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、ミッドウェー海戦を体験。 - 金沢秀利『空母雷撃隊 艦攻搭乗員の太平洋海空戦記』光人社、2002年。ISBN 4-7698-1055-5。
飛龍艦攻電信員(機銃手)。記述と戦闘詳報では同乗搭乗員が異なる部分がある。 - 森拾三『奇蹟の雷撃隊 ある雷撃機操縦員の生還』光人社、2004年。ISBN 4-7698-2064-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
森は「蒼龍」艦攻操縦員。真珠湾攻撃から沈没まで乗艦。 - 淵田美津雄、中田整一解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社、2007年。ISBN 978-4-06-214402-5。
- エドワード・P・スタッフォード 著、井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E 上巻』元就出版社、2007年。ISBN 978-4-86106-157-8。
- 小板橋孝策『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社NF文庫、2008年。ISBN 978-4-7698-2560-9。
高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は「愛宕」沈没時の航海士。 - 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』大日本絵画、2009年。ISBN 978-4-499-23003-2。
論文
- 外山三郎「大東亜戦争の軍事的教訓-3-ミッドウェー海戦について」『防衛大学校紀要 人文・社会科学編』第35号、1977年
- 滝沢民夫「戦争責任問題と歴史教育--ミッドウェー海戦の教材化を通して」『歴史評論』第460号、1988年
- 高橋弘道「防衛庁からの戦史 ハワイ攻撃とミッドウェー海戦」『セキュリタリアン』第504号、防衛弘済会、2000年
- 平間洋一「日本人特有の国民性とミッドウェー海戦」『丸』第55-7号、潮書房、2002年
- 相澤淳「大本営発表とミッドウェー海戦」防衛庁防衛研究所『戦史研究年報』第7号 2004年
- 吉田昭彦「ミッドウェー海戦に見る日米艦隊の蹉跌」『丸』第58-6号、潮書房、2005年
- 岩橋幹弘「ミッドウェー海戦--研究最前線」『歴史読本』第52号、新人物往来社、2007年
- 大塚好古「ミッドウェー海戦 (特集 日米空母 太平洋の戦い)」『世界の艦船』第715号、海人社、2009年
- 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年
脚注
- ^ #亀井戦記72頁
- ^ #亀井戦記73頁
- ^ #海軍驕り132-133頁。1941年1月に及川に提出した意見書より。
- ^ #勝つ戦略負ける戦略97頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.9-10
- ^ #戦藻録(九版)74-76,87,93頁等「第三節、米機動部隊の牽制作戦」
- ^ #勝つ戦略負ける戦略108-109頁、#海軍驕り193-194頁
- ^ #戦藻録(九版)68、72頁(1月14日・27日等)
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.10-11
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.14-15
- ^ #草鹿回想126頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.13
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.13-14、「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」p.8
- ^ #海軍驕り287頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.18-19「軍令部所報に依るミッドウェー島所在敵航空兵力左の如し」
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.11,13
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.15、#澤地記録26頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.21-23
- ^ 「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」p.10
- ^ #勝つ戦略負ける戦略109頁
- ^ #川崎戦歴120頁
- ^ #勝つ戦略負ける戦略110頁、#海軍驕り239頁
- ^ #亀井戦記73頁、#海軍驕り240-242頁
- ^ #海軍驕り243頁
- ^ #戦藻録(九版)99頁
- ^ #亀井戦記74頁
- ^ #勝つ戦略負ける戦略112頁、#海軍驕り244頁
- ^ #草鹿回想112-113頁
- ^ #戦藻録(九版)107頁
- ^ 三和義勇大佐(連合艦隊参謀)『三和日誌』
- ^ 直接届いた手紙はないと近江従兵長は証言。#従兵長103頁
- ^ #勝つ戦略負ける戦略113頁、#海軍驕り251頁
- ^ #淵田自叙伝177-178頁
- ^ #海軍驕り299頁
- ^ #従兵長104頁
- ^ #飛龍生涯290頁、#亀井戦記84-85頁、#草鹿回想120-122頁
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.21
- ^ #亀井戦記85,91-92頁、#海軍驕り306頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.25「各艦は補充交替により個艦戦闘能力相当低下せるに加えて、各母港に於いて出撃の数日前まで整備しやりて、その技量低下は相当大なるものあり」
- ^ #草鹿回想121頁、#海軍功罪303頁
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.22-25
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- ^ a b c #淵田自叙伝206頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "淵田自叙206"が異なる内容で複数回定義されています - ^ a b c #亀井戦記296-297頁
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- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.34 引用エラー: 無効な
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タグ; name "一1航空艦隊34"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40
- ^ #戦藻録(九版)133頁、第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40
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- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.33「0837:敵航空部隊見ゆ、ミッドウェーよりの方位4度、150浬」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻を伴ふ(0840)」
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- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.16「
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.47「我が攻撃により空母2隻は大破」
- ^ #戦藻録(九版)142頁、#澤地記録299頁、#プランゲ下104頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「雷撃終了後、該空母の西方約30浬乃至40浬に第一次敵空母攻撃に依り大火災を生じたる空母と覚しき炎上中の艦船の爆発らしき褐色煙を認む」
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.19「該空母(ヨークタウン)の東方約30浬を高速東進する三重の円形陣の敵艦隊を認む」
- ^ #プランゲ下102頁
- ^ a b #ヨークタウン239頁、#プランゲ下102頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.43、#澤地記録294頁
- ^ #ヨークタウン240頁、#プランゲ下102頁
- ^ 「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」p.63
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.21
- ^ #亀井戦記418頁。公刊戦史証言より。
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.37
- ^ #澤地記録293頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.42
- ^ #澤地記録296頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.37、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.44「1231:タナ135、十三試艦爆により触接を確保したる後、残存全兵力(爆5、攻4、戦10)を以て薄暮敵残存空母を殲滅せんとす」
- ^ #亀井戦記428-429頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.45、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.12、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.5,35-36
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.38「1403に至り特に触接機十三試艦爆を発艦せしめんとありし時」
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.13、26
- ^ #プランゲ下104頁
- ^ #ヨークタウン240頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.49
- ^ #橋本信号員154頁、#プランゲ下105頁
- ^ #ヨークタウン242頁、#澤地記録302頁
- ^ #炎の海268頁、#橋本信号員155頁、#亀井戦記433頁
- ^ #ヨークタウン243頁、#亀井戦記444頁
- ^ #プランゲ下106頁
- ^ #炎の海269頁、#亀井戦記445頁
- ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.43
- ^ #亀井戦記446頁、吉田正義(巻雲艦長)談。
- ^ 別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』23頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」p.37
- ^ #亀井戦記44頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.46、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.34
- ^ #プランゲ下108頁。渡辺安次参謀談。
- ^ #勝つ戦略負ける戦略133-135頁、#従兵長109頁,111頁
- ^ #戦藻録(九版)138頁
- ^ #プランゲ下110頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.36-37
- ^ #戦藻録(九版)130頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.14
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.37
- ^ #澤地記録289頁、#プランゲ下112頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.14-15、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.39-40
- ^ #澤地記録31頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.16、18
- ^ #澤地記録301頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.48
- ^ #草鹿回想142頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.48
- ^ #草鹿回想143頁
- ^ #プランゲ下121頁、#草鹿回想144頁
- ^ #戦藻録(九版)131頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.54「1450:2F機密第762番電攻略部隊電」、#澤地記録303,307-308頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.48-49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.3「各艦は担任母艦付近に在りて敵潜水艦及び機動部隊に対し警戒を厳にし、敵機動部隊来らば刺違戦法を以て敵を撃滅せよ」
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.35
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.37
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.2
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3-4「本艦2号機午後2時13分頃傾斜火災中の敵空母の東方30浬に敵空母4、巡洋艦6、駆逐艦15西航するを認めたり。その後は敵戦闘機の追跡を受け敵を見ず」
- ^ #亀井戦記451-452頁
- ^ a b c d e #プランゲ下172頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.36「1510、敵航空母艦2隻(ヨークタウンまたはホーネット型)(中略)其の南方約4浬に巡洋艦5、駆逐艦6を伴う航空母艦2隻(艦型不明)針路260度速力12ノット」
- ^ #澤地記録327-328頁、#亀井戦記451頁
- ^ #亀井戦記453頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.5、第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.19、「第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」p.38
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.7、#プランゲ下124頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.50、#澤地記録317頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.51、#澤地記録158頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.9
- ^ #戦藻録(九版)139頁、#澤地記録319頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.9「GF電令作160号」
- ^ #澤地記録321頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.11、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.23「GF機密第303番電」
- ^ #澤地記録324頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14
- ^ a b c d #プランゲ下144頁
- ^ #戦藻録(九版)143頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.1、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.15「GF機密第310番電」
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.2
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.2、#BIG E上136頁
- ^ #プランゲ下162下頁
- ^ #戦藻録(九版)142頁
- ^ #澤地記録31頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「GFの電令に依り七戦隊にミッドウェーの陸上航空基地施設の砲撃破壊を下令せり」
- ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4「敵潜回避時に三隈最上触衝最上は艦首を大破し」
- ^ #戦藻録(九版)139頁
- ^ #ヨークタウン249頁
- ^ #ヨークタウン250頁
- ^ #ヨークタウン248頁
- ^ #爆撃王列伝180頁、#プランゲ下153頁
- ^ #戦藻録(九版)144頁
- ^ #プランゲ下169頁
- ^ #プランゲ下170頁
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.28-29
- ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」p.4
- ^ #炎の海277頁
- ^ 「輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」pp.35-36
- ^ 「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」p.31
- ^ a b #ヨークタウン253頁
- ^ #戦藻録(九版)145頁、「第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
- ^ a b #ヨークタウン262頁
- ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.2
- ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』102頁
- ^ #澤地記録493頁
- ^ #澤地記録364頁
- ^ #澤地記録404頁
- ^ #澤地記録459頁
- ^ #澤地記録392頁
- ^ #澤地記録498頁
- ^ 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』498-549頁を参照
- ^ a b #澤地記録549頁
- ^ a b #澤地記録31頁
- ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(4)」pp.31、45
- ^ Office of Navy Intelligence, The Battle of Midway: June3-June 6, 1942, p.55.
- ^ 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、pp.189-190。この論文(p.191)によれば、ミッドウェー海戦の実態について、海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされ、前陸相の畑俊六にさえも真相は伝えられていなかったという。尚、東条英機首相兼陸相に対する情報提供があったか否かについては諸説あり不明である。
- ^ 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、p.190
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.599
- ^ #愛宕奮戦94頁
- ^ スプルーアンス個人は「空母を全滅させていたとしても、(大和以下の)戦艦群が突撃してきたら防げなかっただろう」と感想を残している。レイテ沖海戦でもハルゼーがこれと同義の意見を残している。スプルーアンスは戦後、本海戦の勝因について問われた時、「我々は幸運だった」と繰り返し答えている。
- ^ 参考[Why Japan Really Lost The War]、国力の差とアメリカから見た危険度の差などの観点から、主戦場として予定していたのは欧州における対ドイツ戦で、対日戦は片手間に過ぎなかったとする説もある。
- ^ 2個師団を当ててインド洋の北西部の要衝を占領し、日独連携を図るというもの。
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.417
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.290-291
- ^ #草鹿回想138頁、#海軍功罪124頁
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.585-586
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.251-252
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.165
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.425-426
- ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂p134-135
- ^ 吉田俊雄『栄光と悲劇 連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 p358
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.291
- ^ 吉田俊雄『栄光と悲劇・連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店326頁
- ^ 吉田俊雄『栄光と悲劇・連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 358頁
- ^ 戦史叢書43 ミッドウェー p.290-291
- ^ 別宮暖朗『歴史通』2011年5月号「逃げる山本五十六、隠れる戦艦大和」
- ^ #亀井戦記89頁
- ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』83頁
- ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』84頁
- ^ 《小学館「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)》
- ^ 『名鑑物語』(石渡幸二)
関連項目
外部リンク
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