マーティン・ドネリー
マーティン・ドネリー Martin Donnelly | |
---|---|
マーティン・ドネリー (2012年) | |
基本情報 | |
国籍 | イギリス |
生年月日 |
1964年3月26日(60歳) ヒュー・ピーター・マーティン・ドネリー Hugh Peter Martin Donnelly |
出身地 |
北アイルランド ベルファスト |
基本情報 | |
イギリス・ツーリングカー選手権での経歴 | |
デビュー | 2015 |
所属 | インフィニティ・サポート・アウア・パラス・レーシング(英語版) |
車番 | 85 |
出走回数 | 3 |
優勝回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
シリーズ最高順位 | 35位 (2015) |
基本情報 | |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1989,1990 |
所属チーム |
'89 アロウズ '90 ロータス |
出走回数 | 15 (13スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1989年フランスGP |
最終戦 | 1990年スペインGP |
ヒュー・ピーター・マーティン・ドネリー(Hugh Peter Martin Donnelly, 1964年3月26日 - )は、北アイルランド・ベルファスト出身のレーシングドライバー。
主なレースキャリア
[編集]フォーミュラフォード2000を経て、1986年からイギリスF3に参戦[1]。初年度にランキング3位を獲得するなど活躍を見せ、若手の有望株と目される。
1987年のマカオグランプリF3で優勝。それらの実績から、同年12月のエストリルF1合同テストに参加するベネトン・フォーミュラに呼ばれ、ベネトン・B187をテストドライブした[2]。
イギリスF3選手権に参戦していた1988年シーズン途中に、国際F3000選手権にステップアップ。これはジョーダン(EJR:当時はF3000のチーム)のジョニー・ハーバートが足に重傷を負ったことによる代役起用だったが、デビュー戦で勝利を挙げるなど2勝しランキング3位を獲得。'88年末にはキャメル・チーム・ロータスと翌年のテスト・ドライバー契約を結んだ。この契約は1992年末までのオプション付きという長期でのつながりをロータスが確保したもので、ドネリーの国際F3000デビューウィンをロータスが高く評価していることが伺われた[3]。翌1989年もEJRから国際F3000に継続参戦し、ジャン・アレジ、エリック・コマス、エリック・ベルナール、エディ・アーバインのライバルとして活躍。
F1
[編集]1989年フランスGPを指の骨折のため欠場したデレック・ワーウィックの代役としてアロウズからF1にデビューし、12位で完走した。なお、この代役出走はワーウィック本人がドネリーの起用をチームに提案し、ドネリーのF3000のスケジュールと重なっていなかったため実現した[4]。
翌1990年には、ロータスのレギュラーシートを手にするが、ロータス・102の戦闘力は低く、同期のアレジがティレル・019で躍進の一方で、苦しい戦いを強いられることとなった。第13戦ポルトガルGP消化時点で、最高位は第10戦ハンガリーGPにおける7位と、ポイントも獲得できていなかった。
大クラッシュ
[編集]第14戦スペインGP(ヘレス・サーキット)の金曜日フリー走行で10位の好タイムをマークした。当日の朝には、来シーズンは500万ドルを受け取ってチームのナンバー1ドライバーになり、ミカ・ハッキネンをナンバー2に迎えるという契約に合意していたという[5]。期待のかかる状態で午後の予選1日目を迎えたが、予選終了8分前にタイムアタックをしていたドネリーはピット裏のエンツォ・フェラーリ・コーナー手前の右高速コーナーでマシンが粉々になる大クラッシュを起こす。
6速全開で抜けるその右高速コーナーを時速250kmで走行中、左フロントサスペンションが壊れ、外側ガードレールへ直角に近い角度で激突。テレメトリーデータでは激突時の時速は140マイル(約225km/h)、42Gの衝撃が発生した[5]。カーボンファイバー製モノコックの前半分は粉々に粉砕され、ドネリーはシートベルトを締めたシートごとコースに投げ出された。手足の関節は異なる方向に曲がり、コースに横たわり身動きしないドネリーの姿は、関係者・視聴者に大きな衝撃を与えた。グランプリドクターのシド・ワトキンス医師の応急処置を受け、ヘリコプターでセビリアの病院へ搬送されたが、左足を膝の上下で複雑骨折、右足膝下骨折、右ほお骨、鎖骨など全身の数箇所を骨折し、内臓破裂(特に右肺が大きなダメージを受けていたため呼吸に支障があった)に伴い一時は危篤状態となった[6]。心臓が3度停止し[5]、ドネリーの母親は臨終の儀式のため地元の司祭を病院へ連れてきた[5]。最終的には一命を取り留め、ロンドンの病院へ移り、6週間人工呼吸器を付け、1カ月間腎臓透析を受けた[5]。
当時ロータスは資金難に苦しんでいた。彼の乗っていた102シャシーのモノコックは既に一万キロ以上を走行していたともいわれ、疲労した車体を換えることもままならないなかでのレース参加であった。チーフデザイナーのフランク・ダーニーは当該シャシーを調査後、クラッシュの原因は左フロント・サスペンションのプルロッド・ロッカーアームの不具合の可能性を示唆した[6]。
なお、同僚のデレック・ワーウィックが、事故発生時、極めて自己中心的な性格と言われたネルソン・ピケが、コース上に横たわるドネリーの前にマシンを停め、後続車に轢かれないように守ったり、他人に寸毫の容赦もないドライブをすると評されたアイルトン・セナが、ドネリーの姿を撮ろうと群がるカメラマンを追い払ったりする様子に、「彼等の人間らしい別の一面を見た」と述懐している。
事故後
[編集]事故後、日常生活を営めるレベルまでには回復したが、左足は右足より1インチと5/8短くなり、関節の曲げ伸ばしに障害が残った[5]。ドネリーはリハビリや再手術を行いながら復帰を目指した。かつてニキ・ラウダのカムバックを手助けした医師に会うためオーストリアへ向かい、ラウダはラウダ航空のシートを無償で用意してくれた[5]。1993年6月には、エディ・ジョーダンがドネリーと約束していたというF1マシンドライブの機会を設け[7]、シルバーストーン・サーキットでジョーダン・192シャシーにハート・1035エンジンを搭載したマシン[8]を走らせている。しかし、5秒以内にコクピットから脱出するというテストに合格できず、レーシングドライバーとして復帰することはできなかった。その後はストレスなどから事故後にドネリーを看病した妻とも亀裂が入り、離婚に至っている。
1995年頃、自身のチーム「マーティン・ドネリー・レーシング」を立ち上げ、F3やフォーミュラ・ヴォクスホール等にも参戦。
現在はフォーミュラ・ルノー3.5などに参戦する英国の「コムテック・レーシング」で、ドライバー育成担当マネージャーの職についている。また、F1のスチュワード(競技審査委員)を担当することもある。
2011年、英国のモータースポーツイベント「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」で、クラシック・チーム・ロータス(CTL)がレストアしたロータス・102を21年ぶりにドライブし、ヒルクライムに出場した[9]。
2019年7月、チャリティーライドに参加した際モペットで転倒し、古傷がある左足をさらに痛めてしまい、医師からは切断しなければならなくなる可能性を聞かされた[5]。ドネリーを支援するため「GoFundMeキャンペーン」が立ち上げられ、5万ユーロ以上の寄付金が集まった[5]。
レース戦績
[編集]略歴
[編集]年 | シリーズ | チーム | レース | 勝利 | PP | FL | 表彰台 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983 | イギリス・フォーミュラ3 | エディ・ジョーダン・レーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC |
1986 | イギリス・フォーミュラ3 | スワロウ・レーシング | 17 | 4 | 1 | 0 | 7 | 59 | 3位 |
マカオグランプリ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | ||
1987 | イギリス・フォーミュラ3 | スワロウ・レーシング/インタースポーツ・レーシング | 18 | 2 | 2 | 1 | 8 | 61 | 3位 |
マカオグランプリ | インタースポーツ・エンジニアリング w/ Mr. ジューシー(英語版) | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | N/A | 1位 | |
1988 | イギリス・フォーミュラ3 | セルネット・リコー・レーシング/インタースポーツ・チーム | 12 | 3 | 4 | 2 | 7 | 54 | 4位 |
国際・F3000選手権 | エディ・ジョーダン・レーシング | 5 | 2 | 0 | 2 | 4 | 30 | 3位 | |
世界スポーツカー選手権 | リチャード・ロイド・レーシング/SARD | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 59位 | |
1989 | 国際・F3000選手権 | エディ・ジョーダン・レーシング | 10 | 1 | 1 | 1 | 2 | 13 | 8位 |
全日本・F3000選手権 | Team Kygnus Tonen | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
スーパーカップ(英語版) | ニスモ | 1 | 1 | 0 | 1 | 1 | 12 | 8位 | |
全日本・スポーツプロトタイプカー耐久選手権 | Takefuji Racing Team | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 29位 | |
フォーミュラ1 | アロウズ・グランプリ・インターナショナル | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
1990 | キャメル・チーム・ロータス | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
ル・マン24時間レース | ニスモ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
2015 | イギリス・ツーリングカー選手権 | インフィニティ・サポート・アウア・パラス・レーシング(英語版) | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 35位 |
イギリス・フォーミュラ3選手権
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | タイヤ | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983年 | エディ・ジョーダン・レーシング | ラルト・RT3 | トヨタ 2T-G | A | A | SIL | THR | SIL | DON | THR | SIL | THR | BRH | SIL | SIL | CAD | SNE | SIL | DON | OUL | SIL | OUL | THR | SIL Ret |
THR | NC | 0 |
1986年 | スワロウ・レーシング | ラルト・RT30 | フォルクスワーゲン GX | A | A | THR 3 |
SIL 8 |
THR Ret |
SIL DNS |
BRH 4 |
THR 7 |
DON 1 |
SIL Ret |
SIL 16 |
OUL 1 |
ZAN 4 |
DON 1 |
SNE 7 |
SIL 1 |
BRH 2 |
SPA Ret |
ZOL 2 |
SIL 8 |
3位 | 59 | ||
1987年 | レイナード・873 | SIL C |
THR 10 |
BRH 9 |
SIL 4 |
THR 5 |
SIL 8 |
BRH 3 |
SIL 7 |
3位 | 61 | ||||||||||||||||
インタースポーツ・レーシング | ラルト・RT31 | トヨタ 3S-G | THR 3 |
ZAN 2 |
DON Ret |
SIL 2 |
SNE 2 |
DON 5 |
OUL 1 |
SIL 8 |
BRH 1 |
SPA 2 |
THR 4 |
||||||||||||||
1988年 | セルネット・リコー・レーシング/インタースポーツ・チーム | THR 2 |
SIL 3 |
THR 1 |
BRH 7 |
DON 1 |
SIL 2 |
BRH 4 |
THR 3 |
SIL 5 |
DON Ret |
SIL 8 |
SNE 1 |
OUL | SIL | BRH | SPA | THR | SIL | 4位 | 54 |
国際F3000
[編集]年 | エントラント | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | DC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | ジョーダン・レーシング | JER | VLL | PAU | SIL | MNZ | PER | BRH 1 |
BIR 2 |
BUG 2 |
ZOL Ret |
DIJ 1 |
3位 | 30 |
1989年 | SIL Ret |
VLL DSQ |
PAU Ret |
JER Ret |
PER Ret |
BRH 1 |
BIR 3 |
SPA Ret |
BUG 7 |
DIJ 17 |
8位 | 13 |
全日本F3000
[編集]フォーミュラ1
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | アロウズ | A11 | フォード・コスワース DFR V8 | BRA | SMR | MON | MEX | USA | CAN | FRA 12 |
GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | ESP | JPN | AUS | NC | 0 |
1990年 | ロータス | 102 | ランボルギーニ 3512 3.5 V12 | USA DNS |
BRA Ret |
SMR 8 |
MON Ret |
CAN Ret |
MEX 8 |
FRA 12 |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 7 |
BEL 12 |
ITA Ret |
POR Ret |
ESP DNS |
JPN | AUS | NC | 0 |
イギリス・ツーリングカー選手権
[編集]年 | チーム | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2015年 | インフィニティ・サポート・アウア・パラス・レーシング | インフィニティ・Q50 | BRH 1 |
BRH 2 |
BRH 3 |
DON 1 |
DON 2 |
DON 3 |
THR 1 20 |
THR 2 19 |
THR 3 Ret |
OUL 1 |
OUL 2 |
OUL 3 |
CRO 1 |
CRO 2 |
CRO 3 |
SNE 1 |
SNE 2 |
SNE 3 |
KNO 1 |
KNO 2 |
KNO 3 |
ROC 1 |
ROC 2 |
ROC 3 |
SIL 1 |
SIL 2 |
SIL 3 |
BRH 1 |
BRH 2 |
BRH 3 |
35位 | 0 |
脚注
[編集]- ^ 1983年の終盤に1戦スポット参戦歴はある。
- ^ from ESTORIL ポルトガル・テスティング現地リポート グランプリ・エクスプレス 特別編集'88カレンダー号 3-5頁 山海堂 1988年1月10日発行
- ^ M.ドネリー ロータスとテスト契約 グランプリ・エクスプレス '89NA回帰元年号 30頁 山海堂 1989年2月8日発行
- ^ ウォーウィック負傷!! スポットでドネリーがデビュー F1GPX 1989第7戦フランス 29頁 山海堂 1989年7月29日発行
- ^ a b c d e f g h i “Former F1 star Martin Donnelly somehow survived a 170mph crash... now a 20mph tumble on a charity moped ride could cost him his leg”. Daily Mail Online (2019年9月28日). 2020年5月27日閲覧。
- ^ a b 「ドネリー大クラッシュ 重傷」『F1GPX 1990第14戦スペイン』 30頁 山海堂 1990年10月20日発行
- ^ Martin Donnelly (L) and Eddie Jordan at Silverstone, Formula One testing, Silverstone, June 21, 1993 ESPNF1
- ^ 「あの悪夢から立ち直るドネリー 遂にジョーダン・ハートをドライブ」『Racing On No.139 1993年4月1日号』 ニューズ出版
- ^ “2011 Goodwood Festival of Speed”. CLASSIC TEAM LOTUS (2011年). 2020年5月26日閲覧。
関連項目
[編集]- 武藤英紀 - レーシングドライバー。かつてマーティン・ドネリー・レーシングに所属。
タイトル | ||
---|---|---|
先代 アンディ・ウォレス |
マカオグランプリ優勝者 1987年 |
次代 エンリコ・ベルタッジア |