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両像・森鷗外

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

両像・森鷗外』(りょうぞう・もりおうがい)は、松本清張による評伝。『文藝春秋1985年5 - 10・12月号に、「松本清張短篇小説館」第5話として連載され、加筆の上、著者没後の1994年11月に文藝春秋から刊行された。連載時の題は「二醫官傅」。

実質的な内容は著者による森鷗外評伝であり、著者の鷗外に言及した作品としては最も分量の多いものとなった。鷗外の生涯および作品内容の知識は前提とされており、加えて鷗外をめぐる石川淳唐木順三高橋義孝などによる言説も吟味の対象とされている。

本作冒頭の舞台となる常明寺(東海道土山宿)。左側に森家の供養塔がある

内容

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軍医としての森鷗外

エピソード

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  • 本作は短編小説の名目で連載されたが、鷗外がテーマになると長くなったため、独立した著作として出版することになった旨、当時文藝春秋の編集者であった藤井康栄は述べている[1]
  • 本作の原稿上では、最初は「二人の醫官傅」の表題であった。近代文学研究者の平岡敏夫は、著者が当初は『澀江抽齋』と『伊澤蘭軒』の二史伝(医官を対象)を書いた鷗外について書く予定だったか、あるいは鷗外と小池正直(ともに医官)などとの関連のもとに言及する予定だったが、当初の計画をはみ出して筆が進んだのだろうと、本作の成立経緯を推測している[2]
  • 近代文学研究者の田中実は、著者から当時西周関係の資料を貸してほしいと言われたと述べている[3]
  • 鷗外研究者の山崎一穎は、著者の指摘中、鷗外研究者がその後もなお超えられていない視点を例示した上で、鷗外の登志子との離婚や西周との関係が、鷗外の後年の作品(『半日』『伊澤蘭軒』)に反映されているのではないかとする著者の指摘は、それまでの鷗外研究者の間にはなかったと言えると評している[4]

参考文献

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  • 著者が鷗外に終生関心を持ち続けた動機・背景に関しては、種々の議論がある。以下はその一例である。
    • 『松本清張研究』第1号「特集・松本清張と森鷗外」(1996年、砂書房)
    • 『松本清張研究』創刊号「特集・清張と鷗外」(2000年、北九州市立松本清張記念館編集・発行)
  • 鷗外をモチーフにした著者の他の作品として、小説『或る「小倉日記」伝』『鷗外の婢』『削除の復元』など、他にエッセイ・対談等でも鷗外への言及がある。特に『過ぎゆく日暦』では、本作と部分的に共通する話題を扱っている。

脚注・出典

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  1. ^ 青山真治田中慎弥による対談「海峡の先輩へ 遥かな清張」(『松本清張研究 第15号』(2014年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
  2. ^ 平岡敏夫「『両像・森鷗外』」(『松本清張研究 第1号』(1996年、砂書房)収録)参照。
  3. ^ 田中実「「事実」の意味を問う清張-『「或る「小倉日記」伝』の深層批評」(『松本清張研究 第15号』(2014年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。
  4. ^ 松本清張研究会第37回研究発表会講演 山崎一穎 松本清張『両像・森鷗外』を読む(松本清張記念館館報第57号)” (PDF). 北九州市立松本清張記念館 (2017年12月2日). 2022年8月13日閲覧。