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考える葉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
考える葉
作者 松本清張
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 長編小説
発表形態 雑誌連載
初出情報
初出週刊読売1960年4月3日 - 1961年2月19日
出版元 読売新聞社
挿絵 朝倉摂
刊本情報
刊行 『考える葉』
出版元 角川書店
出版年月日 1961年6月30日
装幀 長尾みのる
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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考える葉』(かんがえるは)は、松本清張の長編推理小説。『週刊読売』に連載され(1960年4月3日号 - 1961年2月19日号、連載時の挿絵は朝倉摂)、1961年6月に角川書店から刊行された。太平洋戦争中の日本に秘蔵された財宝、隠匿物資をめぐって発生する連続殺人事件を描くミステリー長編。

1962年東映で映画化されている。

あらすじ

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井上代造は夜の銀座ガラスを破壊するなどの奇行を起こしたかどで、留置場拘留された。留置場内で井上は、崎津弘吉という名の無口な青年に声をかける。井上は崎津に親切にし、就職の斡旋まで申し出る。表情を示さない崎津だったが、結局崎津は「大日建設」という会社に就職することになった。しかし井上の周囲には、次々と怪人物が現われ、彼らと接触しながら井上は謎の行動を続けていた。

東京西郊の雑木林で、右刃物で抉られた死体が発見され、続いて、川崎の工場地帯で、不思議な宝の案内メモを持った浮浪者死体が発見された。捜査は停滞していたが、他方、世の中になんの希望も感じられず、ルーズな仕事を続けていた崎津に、井上はある用件を持ちかける。ところが、井上の指示通りに代々木駅近辺をうろついていた崎津は、近隣で発生した、東南アジア使節団団長射殺事件の容疑者として、警察逮捕されてしまう。

さらに崎津の周囲で不可解な事件が続発する。事態を知り、真相を掴もうと崎津は調査に乗り出す。

主な登場人物

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小説の舞台の一つ、小菅村沢辺方面
  • 原作における設定を記述。
崎津弘吉
孤独な青年。人生に何の生きがいも見い出せず、退屈している。
井上代造
体格のいい大男。留置場に居た崎津に声をかける。
板倉彰英
青年社長。元首相の別荘を買い取り、広大な邸宅に住んでいる。
村田露石
老書家。板倉の書道の先生。
杉田一郎
宝鉱山採掘所の保安主任。
中野博圭
政治家。派閥の頭領。
井上美沙子
井上代造の妹。
大原鉄一
川崎の浮浪者殺人事件の被害者。通称鉄ちゃん。
ルイス・ムルチ
東南アジア・R国調査団の団長。

エピソード

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  • 単行本刊行の2年後『宝石』に掲載された創作ノートで、著者は以下のように述べている。「名前はいわないが、いま大実業家になっている人がいるんだ。この人は、戦争末期に軍需省の雇員 ― 運転手で、いろいろな軍需物資の横流しをやっていた。そのために憲兵隊につかまったが、終戦のためウヤムヤになってしまった。その人は、もちろん一人でやったんじゃない。相当上の方と結託して、彼が横流し物資をどこかに運んだんですがね。ところが戦後になって、その人がメキメキと売り出しまして、数億の金を、ある財閥に突然投げ出したんです。昭和二十四、五年頃。そうすると、終戦の時の一介の運転手が、いくら終戦直後の混乱期があったとしても、金の出所がおかしいじゃないですか。そこに彼が軍需省の隠退蔵物資の横流しのものをどこかに隠して、あの終戦混乱期に、ヤミに流して一儲けした、とも考えられる。彼自身の釈明によると、鉱山であてたとか、株式で儲けたとかいってますがね。実証はないわけですよ。これは実話なんです。そういうところがヒントです」[1]

関連項目

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映画

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松本清張のスリラー 考える葉
監督 佐藤肇
脚本 棚田吾郎
出演者 鶴田浩二
磯村みどり
江原真二郎
音楽 菊池俊輔
撮影 仲沢半次郎
編集 長沢嘉樹
配給 東映
公開 日本の旗 1962年5月16日
上映時間 85分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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1962年5月16日公開。製作は東映東京撮影所、配給は東映。公開時のタイトルは『松本清張のスリラー 考える葉』[2]

製作

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企画は当時の東映東京撮影所(以下、東映東京)所長・岡田茂[3][4]

東急グループ内で孤立する大川博東映社長は[5]、東映内で幅を利かす東急系の古参幹部から、早く東映生え抜きの若手・岡田茂・今田智憲の時代に切り換えをしたくて[5][6][7][8]、1962年2月15日に[9]、それまでの企画本部を実質解散させ[10]、東西の撮影所の所長に企画の最終決定権を持たせる思い切った人事を発令した[9][10][11]。これにより1961年9月に東映東京の所長に就任していた岡田に強い権限が持たされた[10][12]。岡田は佐伯清など、巨匠監督を一人残らず契約解除し[12][13][14]深作欣二ら若手監督を起用[12][13][15][16][17]。若手と中堅との混成で東映東京の改革を推し進めていく体制を執った[18]

ただ現代劇を製作する東映東京には、絶対的にお客を呼べるスターが当時はおらず[3]、それで所長就任後に最初にやったのが、特に売れたスリラーなど知名度の高い原作を母体とする企画であった[3][4]壷井栄の『草の実』や、小坂慶助二・二六事件 脱出』、菊村到の『残酷な月』や、本作などで[3][4][19]、しかしこれらの作品は評価されるも興行が振るわず[3]。館主にも拒否され、営業部も宣伝も黙って市場に流す状況。つまり対外的にも対内的にも熱が入らず[3]。そこで対内的にまずPRの行き届くものを作ると決めた[3]。岡田茂は映画の企画力もさることながら、「オレの仕事の半分は社内セールスだ」「これ当たるで~」などと周りに吹きまわり[10]、営業部や興行部をその気にさせる宣伝力の才も持ち合わせていた[10]。ここから岡田が仕掛けた「東映ギャング路線」「喜劇路線」「名作路線」「任侠路線」などが次々当たり[7][4][12][15][20]、岡田の一言で製作が決まって、会議なしという状況が生まれ[17]、以降、岡田の標榜する"不良性感度映画"が幅を利かせていくようになった[13][21]

キャスト

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スタッフ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「ずっと以前、総理大臣をやっていた人の元別荘で(中略)、当時、新聞記事にもたびたび出ていた名前である」(第二章)、「中央線O駅の南口から歩いて十四五分はいった一画である」(第九章)などを参照。

出典

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  1. ^ 「ある作家の周囲 その23 松本清張篇」(『宝石』1963年6月号掲載)。のちに『松本清張推理評論集 1957-1988』(2022年、中央公論新社)収録。
  2. ^ 松本清張のスリラー 考える葉”. 日本映画製作者連盟. 2020年3月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、129-130,165-166頁。 
  4. ^ a b c d 草壁久四郎「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田 松竹・東宝、日活などの老舗に比べ新参だった東映は、岡田茂を中心に試行錯誤を繰り返しながら逞しく成長してきた...」『宝石』、光文社、1983年1月号、198 - 204頁。 
  5. ^ a b 南部僑一郎(映画評論家)・今村三四夫(映画評論家)、岡部竜、司会・北浦馨「座談会 活動屋野郎の土性っ骨 柄のいいのは映画人・柄の悪いのが活動屋」『映画時報』1962年2月号、映画時報社、19頁。 
  6. ^ 「匿名座談会 邦画五社の人事行政を衝く 企業を推進する人的エネルギーへの期待」『映画時報』1962年3月号、映画時報社、12、23-24頁。 
  7. ^ a b 「匿名座談会 明日に賭ける映画企画の諸問題 顔 企業は人なり 岡田茂氏 今田智憲氏」『映画時報』1962年12月号、映画時報社、12、25頁。 
  8. ^ “東映の新人事”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 5. (1962年1月27日) 
  9. ^ a b “東映―東西撮影所”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 7. (1962年2月24日) 
  10. ^ a b c d e 村山新治 著、村山正実 編『村山新治、上野発五時三五分 私が関わった映画、その時代』新宿書房、2018年、299,315-316頁。ISBN 978-4-88008-474-9 
  11. ^ 「東映、製作方針を一変して下半期攻勢 成功するか!完全リバイバル」『映画時報』1962年7月号、映画時報社、31頁。 井沢淳・瓜生忠夫大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「日本映画企画製作批判 ―これからの企画製作はいかにすすめるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、12、16頁。 
  12. ^ a b c d 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、132-147頁。ISBN 4-87932-016-1 
  13. ^ a b c 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)
  14. ^ 「追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫」『東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17』2011年8月1日、東映ビデオ、2-5頁。 
  15. ^ a b 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)
  16. ^ 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第2回 / 全5回)岡田茂「証言 製作現場から 『映倫カット問題が格好の宣伝効果を生む』 文・岡田茂」『クロニクル東映 1947-1991』 1巻、東映、1992年、174-175頁。 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6 山根貞男、米原尚志『「仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫日本放送出版協会、2005年、131頁。ISBN 4-14-080854-3 「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、50頁。 「東映不良性感度映画の世界」『映画秘宝』、洋泉社、2011年8月、44頁。 
  17. ^ a b 石井輝男福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、117-120頁。ISBN 4-948735-08-6 
  18. ^ 山平重樹 year = 2004『任侠映画が青春だった 全証言伝説のヒーローとその時代徳間書店、10-16,35頁。ISBN 978-4-19-861797-4 松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年、72-111頁。ISBN 4-06-206226-7 
  19. ^ 絢爛:東映文芸映画の宴|作品解説1/ラピュタ阿佐ケ谷
  20. ^ コラム|東映京撮・盟友対談②
  21. ^ 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、564-565頁。 岡田茂「証言 製作現場から 『映倫カット問題が格好の宣伝効果を生む』 岡田茂」『クロニクル東映 1947-1991』 1巻、東映、1992年、174-175頁。 黒沢, 清四方田, 犬彦、吉見, 俊哉 ほか 編「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度映画』の時代 内藤誠」『日本映画は生きている 第四巻 スクリーンのなかの他者』岩波書店、2010年、267-268頁。ISBN 978-4-00-028394-6 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年、134-153頁。ISBN 978-4-8158-0905-8 東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、52頁。 大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.29孤狼の血 : 映画評論・批評 - 映画.com『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第2回 / 全2回)『私と東映』× 神先 頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)東映任侠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI東映昭和映画傑作選 - U-NEXTコラム|東映京撮・盟友対談②高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」。それより若い「反社」の今後、どうなる?暴力とセックスはあたりまえ!ヤクザ、スケバン、ハレンチ!「東映不良性感度映画」を特集-映画秘宝あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)学歴に頼ってられない! 求められるのは“キャラ立ち”か……東映が史上初の「特撮番組専任のプロデューサー」を募集中 楊紅雲「任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に」『多元文化』第4巻、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2004年3月、191-202頁、doi:10.18999/muls.4.191ISSN 1346-3462NAID 1200009748642020年12月20日閲覧 

外部リンク

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