四ツ木橋
四ツ木橋 | |
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四ツ木橋 | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 東京都葛飾区・墨田区 |
交差物件 | 荒川 |
設計者 施工者 | 増田淳 |
建設 | 1939-1952 |
構造諸元 | |
形式 | アーチ橋 |
材料 | 鋼 |
全長 | 507.4 m |
幅 | 17.0 m |
最大支間長 | 80.8 m |
関連項目 | |
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四ツ木橋(よつぎばし)は、東京都墨田区八広と葛飾区四つ木の間の荒川(荒川放水路)に架かる国道6号の橋(道路橋)である。
平行して流れる綾瀬川に架かる四ツ木小橋(よつぎこばし)を含めて呼ばれることもある。
概要
[編集]荒川の河口から8.8 km[1][2]の地点に架かる永久橋で[3]、左岸は葛飾区四つ木三丁目地先で右岸は墨田区八広六丁目地先(四ツ木橋南交差点-本田広小路間)に至る。橋の全長は1952年(昭和27年)竣工の四ツ木橋は全長507.4(507.35)メートル[4]、幅員17.0メートル、最大支間長80.8メートルの鋼カンチレバーランガー桁を主径間に持つ単純鋼鈑桁橋で、歩道は幅員3メートルで橋の両側に設置されている。橋の左岸側は21.0メートルの中堤(背割堤)を挟み、綾瀬川に架かる橋長54.6メートルの四ツ木小橋に接続する[4][3]。河川区域外にある橋の前後にある取付道路は高架ではなく盛土である。また、首都高速中央環状線の四つ木出入口が橋の近傍にあるが、橋とは直接接続していない。 橋の管理者は関東地方整備局 東京国道工事事務所で[2]、災害時に防災拠点等に緊急輸送を行なうための、東京都の特定緊急輸送道路に指定されている[5]。
諸元
[編集]- 桁構造形式 - カンチレバー+鋼単純ランガー+鋼I桁橋
- 橋長 - 507.35 m(452.75 m[4][3]=四ツ木小橋除く)
- 幅員 - 17.0 m(車道11 m、歩道3 m×2)[6]
- 最大支間長 - 80.8 m
- 完成 - 1952年(昭和27年)
歴史
[編集]1922年の橋
[編集]荒川放水路(現:荒川)開削前は、綾瀬川と曳舟川通りが交差する所に木ノ下橋が架かっていた(現在は新四ツ木橋が架かっている)。
1922年(大正11年)6月30日[7]、荒川放水路開削に伴い橋長451メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木製の方杖桁橋の四ツ木橋(旧橋)が架橋された。また、綾瀬川には1921年(大正10年)11月30日開通した[8]橋長53メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木桁橋の四ツ木小橋が架けられていた。位置は現在の国道6号ではなく、約500 m下流の京成押上線荒川橋梁のすぐ下流側、東京都道465号深川吾嬬町線の延長上にあった[9]。木橋ながら戦車を通すこともできた[10]。
木根川橋
[編集]1969年(昭和44年)12月[11]、木製の旧四ツ木橋が解体され、代わりに旧四ツ木橋の約100 m下流に[1][12]木根川橋(きねがわばし)が橋長539.6メートル、幅員10.5メートル(車道6.5メートル、歩道2メートル×2)の7径間下路式平行弦ワーレントラス橋で架橋された[11]。右岸側にある旧四ツ木橋の取り付け道路は残され、木根川橋へクランク状に接続されている。なお、木根川橋の工事名は四ツ木橋であった[11]。また竣工は1969年(昭和44年)2月であった[13]。
1952年の橋
[編集]前述の木製の橋とは別に現在の国道6号上に近代的な橋をかける計画は早くからあった。 1935年(昭和10年)頃、千住大橋、六郷橋(旧橋)などの橋梁設計に携わった増田淳によって新橋に関する計算書が作成されている[14]。実際の工事は、東京府より1939年(昭和14年)2月から行われ、戦況悪化により総工程の70パーセントを残して1943年(昭和18年)10月頃に中断された[15][6]。
戦後、1950年に工事が再開、[15][6]、1952年(昭和27年)7月に完工[3]、7月30日[6]に永久橋が開通した。これが現在の四ツ木橋である。車道の舗装はトペカ舗装(細粒度アスファルト混合物舗装)、歩道はモルタル舗装である[15]。開通式は三世代家族による渡り初めや地元住民による余興が行なわれた。実現はしなかったが、東向島広小路止まりだった都電もこの橋を渡って路線延長される計画が存在した[10]。
開通時は旧橋も存在していたため[16]、新四ツ木橋と呼んでいた。
その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日[6]、新たな橋が約200メートル[1]離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった[17]。なお新四ツ木橋は建設中は「新々四ツ木橋」もしくは「第二四ツ木橋」と呼ばれていた。
その他
[編集]- 1923年(大正12年)9月、関東大震災の混乱に乗じ、旧四ツ木橋の墨田区側の袂で、韓国・朝鮮人虐殺が行われたといわれるが、その規模は不詳である[18][19]。2009年(平成21年)9月、墨田区側の旧四ツ木橋の袂にその追悼碑が設立された。
- 都内における国道6号で、唯一の片側1車線区間である。(ただし車線の幅が広いため、1車線に合流せず並走している車が航空写真などから見られる。)
- 橋の両詰に「平和之礎」と書かれた国旗掲揚塔がある。
隣の橋
[編集]- (上流) - 堀切菖蒲水門管理橋 - 堀切避難橋 - 四ツ木小橋 - 新四ツ木小橋 - 京成押上線綾瀬川橋 - (下流)
脚注
[編集]- ^ a b c 荒川下流河川維持管理計画【国土交通大臣管理区間編】 (PDF) p.73(巻末-7) - 国土交通省関東地方整備局 荒川下流河川事務所、平成24年3月、2017年3月3日閲覧。
- ^ a b “企画展「荒川の橋」荒川・隅田川の橋(amoaノート第8号)” (PDF). 荒川下流河川事務所(荒川知水資料館). 2005年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月3日閲覧。
- ^ a b c d 竹ケ原輔之夫、安田伊三郎「荒川新荒川長大橋梁整備計画について」『道路建設』第156巻、日本道路建設業協会、1960年12月、67頁、ISSN 0287-2595。
- ^ a b c (中島五郞 1941)22-23頁。
- ^ “一般国道14号 亀戸小松川立体” (PDF). 国土交通省関東地方整備局. pp. 10-15 (2015年12月21日). 2017年3月3日閲覧。
- ^ a b c d e “四ツ木橋1952-7-30”. 土木学会附属土木図書館. 2017年3月3日閲覧。
- ^ “四ツ木橋1922-6-30”. 土木学会附属土木図書館. 2017年2月20日閲覧。
- ^ “四ツ木小橋1921-11-30”. 土木学会附属土木図書館. 2017年2月20日閲覧。
- ^ B4-C3-47(1936/06/11) 1936年6月11日撮影の四ツ木橋周辺 - 国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)、2017年2月20日閲覧。
- ^ a b “葛飾区史編さんだよりVol.16”. 葛飾区(葛飾区史編さんのあゆみ). p. 2 (2015年6月11日). 2017年3月4日閲覧。
- ^ a b c “木根川橋(工事名・四ツ木橋)1969-12”. 土木学会附属土木図書館. 2017年2月20日閲覧。
- ^ MKT712X-C5-10(1971/04/23) 1971年04月23日撮影の四ツ木橋周辺 - 国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)、2017年2月20日閲覧。
- ^ “鐵骨橋梁年鑑 昭和44年度版(1969)” (PDF). 日本橋梁建設協会. pp. 108-109 (1969年11月1日). 2017年3月11日閲覧。
- ^ “東京府 四ッ木橋豫算設計書” (PDF). 土木学会附属土木図書館 (1935年). 2017年3月18日閲覧。
- ^ a b c 「ニュース 四ツ木橋の架設再開さる。」『土木学会誌』第36巻第1号、土木学会、1951年1月、52-53頁。
- ^ USA-M1010R1-2(1957/10/10) 1957年10月10日撮影の四ツ木橋周辺 - 国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)、2017年2月20日閲覧。
- ^ “墨田区の通史年表”. 墨田区 (2011年3月10日). 2017年3月4日閲覧。
- ^ “忘れぬ虐殺の歴史…関東大震災追悼碑建立へ”. 在日本大韓民国民団(民団新聞) (2008年11月26日). 2017年3月3日閲覧。
- ^ “ご挨拶”. 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 (2009年12月). 2017年3月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 中島五郞「東京府新四ツ木橋基礎工事に就て(第3報)」『土木技術5月號』第2巻第5号、土木技術社、1941年5月1日、22-28頁。
外部リンク
[編集]- 東京府 四ッ木橋豫算設計書(増田淳氏関係資料) - 土木学会附属土木図書館
- フォトギャラリー - 国土交通省 関東地方整備局 首都国道事務所(四ツ木橋の旧橋の写真がある)