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天守の一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

天守の一覧(てんしゅのいちらん)は、日本城郭天守、またはそれを模倣した建築物の一覧。

凡例

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掲載範囲

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以下のような建物を記載する。

  1. 天守は、「てんしゅ」と呼ぶ、呼ばれていたもの(漢字表記の指定はない)
  2. 御三階櫓などの実質上、天守としていたもの。
  3. 天守のない城郭において天守としてみなされていた事実のある

現状による分類

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各天守について以下のような区別をする。記述方法は各節に従う。

  • 現存天守は、城が存城当時に建てられたものが野外において保存され、現在も存在が認められるものをいう。
  • 現存しない天守は、現在では建物はないが、指図・絵画資料・文献・遺構・古写真の何れかがあり、存在した当時の様子が覗える資料が現存するものをいう。伝説・伝承のみのものは含まない。
  • 木造復元天守は、文献・絵図・絵画資料・古写真・遺構などを元に当時の工法・構法を用いて忠実に復元したものをいう。
  • 外観復元天守は、文献・絵図・絵画資料・古写真を元に外観を復元したものをいう。
  • 復興天守は、天守は過去に存在し、同じ場所に現存する城を参考に、または想像して建てられたものをいう。
  • 模擬天守は、存在が確認できないまたは、特定に至らない状態で建てられたものをいう。主に以下3種に分類に属するもの。
    1. 天守は実在したが、異なる場所(城敷地内もしくは常識的な近隣)に再建されたもの。
    2. 天守台は実在したが、天守が建てられなかった城に建てられたもの。
    3. 城は実在したが、天守は存在しなかった、もしくは存在したか不明な城に建てられたもの。
  • 天守閣風建築物は、上記のいずれにも属さず、「城」・「天守閣」などを含む正式名称を持つもの、または、正式に天守を模した外観であるものとする。

時代区分

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現存天守

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現存12天守

現存する江戸時代以前の天守の詳細は現存天守を参照。 括弧内は、(指定文化財、所在地- 建造年)順は建造年の古いものが上位。最終の改築・再建年代を順序に数える。

現存する天守相当の櫓

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上記現存天守のほかに、天守ではないが、天守代用の櫓、天守に付属する小天守またはそれに相当する城郭建築の現存例。

天守代用櫓の現存例
  • 江戸城富士見櫓(東京都千代田区 - 1659年頃築・関東大震災で倒壊後、修復) - 江戸城寛永度天守焼失後、天守の代用とされた。[1] 
  • 明石城坤櫓(兵庫県明石市 - 1620年頃築)[2]
小天守に当たる櫓の現存例

現存しない天守

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括弧内は、(損失原因-所在地-損失した年・年月日)順は損失した年の古いものを上位に記す。不明な場合は50音順で下位に記す。

16世紀損失

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17世紀損失

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18世紀損失

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19世紀損失

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幕末期(1853年 - 1868年
明治時代(1868年 - 1912年

20世紀損失

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炎上する名古屋城大天守
大正時代(1912年 - 1926年)
  • 金石城文化期二重櫓門(破却-長崎県対馬市-1919年(大正8年))
昭和時代(1926年 - 1989年)

近現代に建造された天守

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括弧内は(所在地 建造年)。順は建造年の古いものが上位。

復元天守

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木造復元天守

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木造で忠実に復したもの。実質上の天守とされていた三重櫓、天守やそれに類似する象徴的なものとして認識されていた事実のある建築も含む。

天守相当の櫓
木造復元天守(白河小峰城三重櫓)

外観復元天守

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鉄筋鉄骨コンクリートなどで、外観のみをほぼ以前の姿に復したもの。

外観復元天守(熊本城大小天守)

復興天守

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復興天守(福山城天守)

模擬天守

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天守閣風建築物

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正式名称、括弧内は、所在地・建築物が所属する施設名。順は50音順。

天守閣風建築物(伊勢・安土桃山文化村の安土城天守)

脚注

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  1. ^ 山川出版社編 中井均著『山川MOOK 日本の城』山川出版社 2009年
  2. ^ 「日本城郭大系」新人物往来社 1980年
  3. ^ a b c 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  4. ^ 史実を無視したデザインの天守を建築する一方で、一部の遺構を破壊したため、城郭研究者の千田嘉博に批判されている(千田嘉博『織豊系城郭の形成』東京大学出版会、発行年:2000年、p50)
  5. ^ 実物は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされる。Wikipedia「墨俣城」及び「大垣市墨俣歴史資料館」も参照。

関連項目

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外部リンク

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