毛利煕元
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(毛利熙房から転送)
時代 | 室町時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛正5年2月5日[1](1464年3月12日) |
改名 | 少輔太郎(幼名)[1]→熙房[1]→煕元 |
別名 | 毛利熈元(異体字表記) |
戒名 | 大通院殿大樹光茂大居士[1] |
墓所 | 広島県安芸高田市の吉田郡山城跡内 |
官位 | 備中守[1]、治部少輔[1] |
主君 | 山名氏 |
氏族 | 大江姓毛利氏 |
父母 | 父:毛利光房[1]、母:不詳 |
兄弟 | 煕元、元忠[2]、女(山内煕通室[2]) |
妻 | 花庭善栄禅定尼(法名)[1][注釈 1] |
子 |
豊元[1]、元家[1]、女(山内時通室[3]) 養子:毛利親直(熊谷氏より)、女(井上光教室) |
毛利 煕元(もうり ひろもと)は、室町時代の武将。安芸国の国人・毛利氏当主。父は毛利光房。
幼名は少輔太郎。初めは父の1字を受けて煕房(ひろふさ)と名乗り、のち煕元に改名(「元」は祖先の大江広元や曽祖父・毛利元春の偏諱に由来するもので、煕元以降の当主も代々通字として使用することとなる)。なお、「煕」の字は当時毛利氏が従属していた安芸・備後守護・山名時熙の偏諱を受けたものである。
生涯
[編集]永享9年(1437年)、第6代将軍・足利義教より上京の命を受け畿内へと出陣することとなった。
嘉吉2年(1442年)、嘉吉の乱に際しても、謀反を起こした赤松満祐を討つためにわざわざ播磨まで出陣している。
長禄元年(1457年)、周防を本拠とする大内教弘が安芸分郡守護武田信繁・信賢父子の居城・佐東銀山城に進攻した際にも、幕府の命令により吉川之経らと共に武田氏への支援に当たった。
このように幕府への忠勤を励んだ煕元であったが、寛正4年(1463年)に毛利氏庶家の反抗を受けることとなり、諸家の中には幕府に対して讒言する者もあって、結果として領地の一部を関所として召し上げられた。
翌寛正5年(1464年)、嫡男の豊元に知行を取り戻すように遺言して死去。所領奪回は豊元へ引き継がれることとなる。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。