「日本における死刑囚の一覧 (1980年代)」の版間の差分
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|[[夕張保険金殺人事件]] (HN)||1988年10月8日ないし13日{{Efn2|name="夕張死刑確定"|『読売新聞』によればHNは10月11日付、HYは13日付で、それぞれ控訴取り下げを行った<ref>『読売新聞』1988年10月15日東京朝刊第一社会面31頁「北海道夕張・保険金目当ての放火殺人の夫婦 控訴取り下げで「死刑確定」」(読売新聞東京本社)</ref>。}}{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}||1984年5月5日{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||1947年(昭和22年)生まれ{{Sfn|年報・死刑廃止|2020|p=248}}。北海道夕張市出身<ref name="北海道新聞19970802"/>。<br />下記HYの妻<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。裁判経緯は夫と同一で{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}、死刑確定後は札幌刑務支所に収監されていたが<ref name="北海道新聞19890209"/><ref name="北海道新聞19921121"/>、1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所<ref group="注" name="札幌仙台"/>で死刑執行(51歳没)<ref name="北海道新聞19970802">『北海道新聞』1997年8月2日朝刊第16版一面1頁「永山則夫連続射殺死刑囚 死刑を執行 保険金殺人 H夫婦も」(北海道新聞社)縮刷版53頁。</ref><ref name="中日新聞1997-08-02"/>。戦後3人目に死刑を執行された[[女性死刑囚]]である<ref>『読売新聞』2012年9月27日東京夕刊一面1頁「2人の死刑執行 福島信者殺害 祈とう師ら」(読売新聞東京本社)</ref>。 |
|[[夕張保険金殺人事件]] (HN)||1988年10月8日ないし13日{{Efn2|name="夕張死刑確定"|『読売新聞』によればHNは10月11日付、HYは13日付で、それぞれ控訴取り下げを行った<ref>『読売新聞』1988年10月15日東京朝刊第一社会面31頁「北海道夕張・保険金目当ての放火殺人の夫婦 控訴取り下げで「死刑確定」」(読売新聞東京本社)</ref>。}}{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}||1984年5月5日{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||1947年(昭和22年)生まれ{{Sfn|年報・死刑廃止|2020|p=248}}。北海道夕張市出身<ref name="北海道新聞19970802"/>。<br />下記HYの妻<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。裁判経緯は夫と同一で{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}、死刑確定後は札幌刑務支所に収監されていたが<ref name="北海道新聞19890209"/><ref name="北海道新聞19921121"/>、1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所<ref group="注" name="札幌仙台"/>で死刑執行(51歳没)<ref name="北海道新聞19970802">『北海道新聞』1997年8月2日朝刊第16版一面1頁「永山則夫連続射殺死刑囚 死刑を執行 保険金殺人 H夫婦も」(北海道新聞社)縮刷版53頁。</ref><ref name="中日新聞1997-08-02"/>。戦後3人目に死刑を執行された[[女性死刑囚]]である<ref>『読売新聞』2012年9月27日東京夕刊一面1頁「2人の死刑執行 福島信者殺害 祈とう師ら」(読売新聞東京本社)</ref>。 |
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|夕張保険金殺人事件 (HY)||1988年10月8日ないし13日{{Efn2|name="夕張死刑確定"}}{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}||1984年5月5日{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||1944年(昭和19年)生まれ{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。北海道日高管内様似町出身<ref name="北海道新聞19970802"/>。夫婦による犯行で、上記HNの夫<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。<br/>[[北海道]][[夕張市]]南部青葉町に在住し、炭鉱下請け会社「H工業」の社長を務めていた一方、暴力団組長でもあった<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。妻HNや配下の組員と共謀し、夕張市鹿島栄町の「H工業」従業員宿舎に゙放火して火災保険金と従業員の生命保険金を詐取し、借金返済に充てることを計画<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。1984年5月5日22時40分ごろ、配下組員に宿舎(木造一部3階建て約350平方メートル)を放火させて全焼させ、従業員4人と賄い婦の子供である姉弟(姉は中学生、弟は小学生{{Efn2|姉は当時12歳、弟は当時11歳<ref name="朝日新聞北海道1988-10-15"/>。}})の計6人を焼死させた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。また消火活動に当たっていた消防士1人も[[殉職]]したため、火災による死者は計7人となる<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。さらに失火を装い保険金の支払いを請求、火災保険金(約2,400万円)と生命保険金(約1億1,400万円)を詐取した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。組員は分け前100万円を受け取ったが、H夫婦に殺されると恐れ、事件から約3か月後に逃亡先の青森県で自首した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。これがきっかけで[[北海道警察|北海道警]]はH夫婦が宿舎の火災保険のほか、炭鉱災害に備えて従業員に加入させていた生命保険金を狙った放火殺人事件としてH夫婦を逮捕するに至った<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。<br />H夫婦と組員はそれぞれ、現住建造物等放火・殺人・詐欺罪に問われた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/><ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。第一審の公判でH夫婦は放火の事実を認めた一方、殺意は否認した{{Efn2|夫婦ともに宿舎の保険金を狙った事実は認めたが、夫HYは「全員が逃げ出すと思った」として被害者全員への殺意を否認し、妻HNも「泥酔した従業員1人は焼死すると思った」と一部を曖昧に認めた以外は否認した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。}}。<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>[[札幌地方裁判所|札幌地裁]]刑事第3部(鈴木勝利裁判長)は1987年3月9日の第一審判決で、首謀者は夫HYと位置づけた一方、妻HNも犯行を持ちかけられると制止しなかったどころか配下組員を実行犯として選び、死者が出ることを一時的に躊躇した夫HYを強い言葉で納得させるなど、謀議過程で最も重要な役割を果たしていたことや、保険金詐取の際にも主導的立場にあったと認定し、刑事責任はHYと同等であると認めた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。その上で夫婦ともに被害者6人に対する未必的殺意を有していたと認定した上で、HY・HNの両被告人に死刑判決を言い渡した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09">『朝日新聞』1987年3月9日北海道夕刊第一総合面1頁「夕張の放火保険金殺人 H夫婦に死刑判決 札幌地裁「未必的殺意あった」」([[朝日新聞北海道支社]])</ref>。夫婦が揃って死刑判決を言い渡された事例は1947年7月に[[大津地方裁判所|大津地裁]]で宣告された尊属殺人事件の第一審判決(同年11月、大阪高裁で夫婦ともに懲役15年に減軽されて確定)以来40年ぶりで<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>、新刑事訴訟法が施行された1948年以降では初である<ref name="北海道新聞1987-03-09">『[[北海道新聞]]』1987年3月9日夕刊第6版一面1頁「H夫婦に死刑判決 夕張保険金放火殺人で札幌地裁「身勝手、利己的な動機」 一片の酌量余地なし 保険制度悪用、厳しく処断 6人焼死、未必の殺意 夫婦死刑22年以来 HNの主導性認定」([[北海道新聞社]])縮刷版329頁。</ref>。北海道内の地裁における死刑判決は戦後40人目で、1984年3月に札幌地裁で言い渡された「平取事件」第一審判決以来<ref name="北海道新聞1987-03-09"/>。また戦後、死刑判決を宣告された女性はHNが9人目で、彼女以前の8人のうち3人は既に死刑が確定、別の3人は控訴審で無期または有期刑に減軽され確定、当時は「[[連合赤軍]]事件」の[[永田洋子]]ら2人が上告中だった<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。<br/>実行犯の組員は分離公判となり、子供らに対する殺意は否認した一方、検察官は子供らに対しても「未必的殺意」があったと主張して無期懲役を求刑していた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。札幌地裁刑事第2部(吉本徹也裁判長)は配下組員への判決(1987年3月9日)で、被告人には被害者6人への確定的殺意があったことを認定し{{Efn2|ただしHY・HN夫婦の公判で、鈴木裁判長は夫婦だけでなく配下組員についても「犠牲者に対する未必的殺意が認められる」と認定している<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。}}、「H夫婦の指示に基づくとはいえ、刑事責任はH夫婦と比較して軽いとは言えない」と指弾したが、犯行後に自首したことや反省の色が濃いことから、求刑通り無期懲役を宣告した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04">『朝日新聞』1987年3月4日北海道夕刊第4版第二社会面6頁「夕張の保険金放火殺人事件 実行犯Iに無期懲役 確定的殺意を認定 札幌地裁判決」(朝日新聞北海道支社)</ref>。組員は控訴したが、同年6月30日に控訴を取り下げて無期懲役が確定<ref name="朝日新聞北海道1988-10-15">『朝日新聞』1988年10月15日北海道朝刊第14版第一社会面23頁「夕張保険金放火殺人 H夫婦の死刑確定 控訴を取り下げ」(朝日新聞北海道支社)</ref>。<br/>第一審判決後、HNとともに量刑不当を理由に[[札幌高等裁判所|札幌高裁]]へ控訴<ref name="中日新聞1997-08-02">『中日新聞』1997年8月2日朝刊一面1頁「連続射殺事件 永山則夫死刑囚の刑執行 計4人 北海道の夫婦らも」(中日新聞社)</ref>。1988年6月16日に札幌高裁第3部(岡本健裁判長)で開かれた控訴審初公判では弁護側が、実行犯である組員の供述には誇張があり信用性を欠くことや、捜査段階でHYが「未必の殺意」の意味を理解していなかったことなどを主張した<ref>『朝日新聞』1988年6月16日北海道夕刊第4版第一社会面7頁「夕張保険金殺人 控訴審始まる 「殺意」再び争点に」(朝日新聞北海道支社)</ref>。しかし同年9月7日 - 8日に行われた弁護側の証人尋問で、組員は第一審と同様に「死人が出ても構わないという話をした」と証言しており、弁護側が期待を寄せていた組員の証言の変化も当てにできなくなっていた<ref name="朝日新聞北海道1988-10-15"/>。1988年11月1日に第5回公判が予定されていたが<ref name="北海道新聞1988-10-14"/>、同年10月に夫婦2人とも控訴を取り下げ{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}、それぞれ10月8日ないし13日付で死刑が確定{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}。『毎日新聞』によれば、夫婦揃っての死刑確定は戦前には記録がなく、戦後でも全国初とされる<ref name="毎日新聞1988-10-15"/>。『北海道新聞』『毎日新聞』によれば、HNは同月11日付で、HYも同月13日付でそれぞれ控訴取下げ手続きを取った<ref name="北海道新聞1988-10-14">『北海道新聞』1988年10月14日夕刊第6版一面1頁「H夫婦 控訴取り下げ 夕張保険金放火殺人 2人の死刑確定 変わらぬ○○証言 有利な展開望めず」(北海道新聞社)縮刷版549頁。</ref><ref name="毎日新聞1988-10-15">『毎日新聞』1988年10月15日東京朝刊第14版第二社会面22頁「夕張市の保険金殺人 夫婦に死刑確定 控訴を取り下げ」(毎日新聞東京本社) - 縮刷版566頁。</ref>。当時、死刑判決が第一審で確定することは珍しく、控訴審の途中で控訴取り下げがなされることは異例とされた<ref name="毎日新聞1988-10-15"/>。当時は[[昭和天皇]]の容体が悪化しており<ref name="中日新聞1997-08-02"/>、HY・HN夫婦を含む同時期に控訴を取り下げて死刑が確定した死刑確定者4人による取り下げは[[大喪の礼]]に伴う[[恩赦]](大赦以外は刑の確定が恩赦の条件とされているため)を期待したものとされているが、その期待に反して死刑確定者への恩赦減刑は行われなかった<ref name="毎日新聞1989-02-08">『毎日新聞』1989年2月8日東京夕刊第4版第二社会面10頁「死刑囚4人 いちるの望み、かなわず… 恩赦期待の上告取り下げ 減刑対象はずれ」(毎日新聞東京本社) - 縮刷版324頁。</ref><ref name="北海道新聞19890209"/>。<br/>1996年5月10日には夫HYのみが岡崎敬(東京弁護士会)を弁護人として、控訴取り下げは当時の国選弁護人2人との接見で恩赦減刑の可能性があると言われ、誤信したことによるものであるとして無効を訴え、札幌高裁に控訴審の再開を求める申し立てを行ったが<ref>『北海道新聞』1996年5月11日朝刊全道社会面31頁「夕張保険金殺人のHY死刑囚 控訴審再開申し立て 昭和天皇逝去の恩赦期待 取り下げは「錯誤」」(北海道新聞社)</ref>、札幌高裁(萩原昌三郎裁判長)は同年8月26日までに取り下げを無効にするような重大な認識の誤りがあったとは認められず、取り下げは有効であるとする決定を出した<ref>『北海道新聞』1996年8月27日朝刊全道社会面31頁「夕張保険金殺人 HY死刑囚 控訴審再開認めず 札幌高裁」(北海道新聞社)</ref>。HYは同高裁に異議申立を行ったが、これも1997年2月に棄却され、最高裁に特別抗告したが、最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)は同年6月2日までに抗告を棄却する決定を出した<ref>『北海道新聞』1997年6月3日朝刊全道社会面27頁「夕張保険金殺人のHY死刑囚 裁判再開認めず 特別抗告棄却」(北海道新聞社)</ref>。<br />死刑確定後は札幌拘置支所に収監されていたが<ref name="北海道新聞19890209">『北海道新聞』1989年2月9日朝刊全道社会面23頁「大喪の礼、恩赦 夕張の保険金放火殺人、H夫婦は対象外」(北海道新聞社)</ref><ref name="北海道新聞19921121">『北海道新聞』1992年11月21日朝刊全道解説面6頁「〈スコープ〉死刑囚、長期化する執行停止 面会制限、高まる疑問 最新の権利と人権 市民団体、国家賠償請求の例も」(北海道新聞社 社会部 黒川伸一)</ref>、1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所<ref group="注" name="札幌仙台"/>で死刑執行(54歳没)<ref name="中日新聞1997-08-02"/>。北海道における死刑執行は1993年11月、釧路市薬局一家3人殺害事件の犯人に対しなされて以来だった<ref>『北海道新聞』1997年8月2日朝刊第16版第1社会面29頁「H夫婦らの死刑執行 市民団体の反発必至」「「区切りついた」被害者の遺族」「道内死刑囚は3人」(北海道新聞社)縮刷版81頁。</ref>。< |
|夕張保険金殺人事件 (HY)||1988年10月8日ないし13日{{Efn2|name="夕張死刑確定"}}{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}||1984年5月5日{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||1944年(昭和19年)生まれ{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。北海道日高管内様似町出身<ref name="北海道新聞19970802"/>。夫婦による犯行で、上記HNの夫<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。<br/>[[北海道]][[夕張市]]南部青葉町に在住し、炭鉱下請け会社「H工業」の社長を務めていた一方、暴力団組長でもあった<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。妻HNや配下の組員と共謀し、夕張市鹿島栄町の「H工業」従業員宿舎に゙放火して火災保険金と従業員の生命保険金を詐取し、借金返済に充てることを計画<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。1984年5月5日22時40分ごろ、配下組員に宿舎(木造一部3階建て約350平方メートル)を放火させて全焼させ、従業員4人と賄い婦の子供である姉弟(姉は中学生、弟は小学生{{Efn2|姉は当時12歳、弟は当時11歳<ref name="朝日新聞北海道1988-10-15"/>。}})の計6人を焼死させた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。また消火活動に当たっていた消防士1人も[[殉職]]したため、火災による死者は計7人となる<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。さらに失火を装い保険金の支払いを請求、火災保険金(約2,400万円)と生命保険金(約1億1,400万円)を詐取した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。組員は分け前100万円を受け取ったが、H夫婦に殺されると恐れ、事件から約3か月後に逃亡先の青森県で自首した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。これがきっかけで[[北海道警察|北海道警]]はH夫婦が宿舎の火災保険のほか、炭鉱災害に備えて従業員に加入させていた生命保険金を狙った放火殺人事件としてH夫婦を逮捕するに至った<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。<br />H夫婦と組員はそれぞれ、現住建造物等放火・殺人・詐欺罪に問われた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/><ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。第一審の公判でH夫婦は放火の事実を認めた一方、殺意は否認した{{Efn2|夫婦ともに宿舎の保険金を狙った事実は認めたが、夫HYは「全員が逃げ出すと思った」として被害者全員への殺意を否認し、妻HNも「泥酔した従業員1人は焼死すると思った」と一部を曖昧に認めた以外は否認した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。}}。<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>[[札幌地方裁判所|札幌地裁]]刑事第3部(鈴木勝利裁判長)は1987年3月9日の第一審判決で、首謀者は夫HYと位置づけた一方、妻HNも犯行を持ちかけられると制止しなかったどころか配下組員を実行犯として選び、死者が出ることを一時的に躊躇した夫HYを強い言葉で納得させるなど、謀議過程で最も重要な役割を果たしていたことや、保険金詐取の際にも主導的立場にあったと認定し、刑事責任はHYと同等であると認めた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。その上で夫婦ともに被害者6人に対する未必的殺意を有していたと認定した上で、HY・HNの両被告人に死刑判決を言い渡した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09">『朝日新聞』1987年3月9日北海道夕刊第一総合面1頁「夕張の放火保険金殺人 H夫婦に死刑判決 札幌地裁「未必的殺意あった」」([[朝日新聞北海道支社]])</ref>。夫婦が揃って死刑判決を言い渡された事例は1947年7月に[[大津地方裁判所|大津地裁]]で宣告された尊属殺人事件の第一審判決(同年11月、大阪高裁で夫婦ともに懲役15年に減軽されて確定)以来40年ぶりで<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>、新刑事訴訟法が施行された1948年以降では初である<ref name="北海道新聞1987-03-09">『[[北海道新聞]]』1987年3月9日夕刊第6版一面1頁「H夫婦に死刑判決 夕張保険金放火殺人で札幌地裁「身勝手、利己的な動機」 一片の酌量余地なし 保険制度悪用、厳しく処断 6人焼死、未必の殺意 夫婦死刑22年以来 HNの主導性認定」([[北海道新聞社]])縮刷版329頁。</ref>。北海道内の地裁における死刑判決は戦後40人目で、1984年3月に札幌地裁で言い渡された「平取事件」第一審判決以来<ref name="北海道新聞1987-03-09"/>。また戦後、死刑判決を宣告された女性はHNが9人目で、彼女以前の8人のうち3人は既に死刑が確定、別の3人は控訴審で無期または有期刑に減軽され確定、当時は「[[連合赤軍]]事件」の[[永田洋子]]ら2人が上告中だった<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。<br/>実行犯の組員は分離公判となり、子供らに対する殺意は否認した一方、検察官は子供らに対しても「未必的殺意」があったと主張して無期懲役を求刑していた<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04"/>。札幌地裁刑事第2部(吉本徹也裁判長)は配下組員への判決(1987年3月9日)で、被告人には被害者6人への確定的殺意があったことを認定し{{Efn2|ただしHY・HN夫婦の公判で、鈴木裁判長は夫婦だけでなく配下組員についても「犠牲者に対する未必的殺意が認められる」と認定している<ref name="朝日新聞北海道1987-03-09"/>。}}、「H夫婦の指示に基づくとはいえ、刑事責任はH夫婦と比較して軽いとは言えない」と指弾したが、犯行後に自首したことや反省の色が濃いことから、求刑通り無期懲役を宣告した<ref name="朝日新聞北海道1987-03-04">『朝日新聞』1987年3月4日北海道夕刊第4版第二社会面6頁「夕張の保険金放火殺人事件 実行犯Iに無期懲役 確定的殺意を認定 札幌地裁判決」(朝日新聞北海道支社)</ref>。組員は控訴したが、同年6月30日に控訴を取り下げて無期懲役が確定<ref name="朝日新聞北海道1988-10-15">『朝日新聞』1988年10月15日北海道朝刊第14版第一社会面23頁「夕張保険金放火殺人 H夫婦の死刑確定 控訴を取り下げ」(朝日新聞北海道支社)</ref>。<br/>第一審判決後、HNとともに量刑不当を理由に[[札幌高等裁判所|札幌高裁]]へ控訴<ref name="中日新聞1997-08-02">『中日新聞』1997年8月2日朝刊一面1頁「連続射殺事件 永山則夫死刑囚の刑執行 計4人 北海道の夫婦らも」(中日新聞社)</ref>。1988年6月16日に札幌高裁第3部(岡本健裁判長)で開かれた控訴審初公判では弁護側が、実行犯である組員の供述には誇張があり信用性を欠くことや、捜査段階でHYが「未必の殺意」の意味を理解していなかったことなどを主張した<ref>『朝日新聞』1988年6月16日北海道夕刊第4版第一社会面7頁「夕張保険金殺人 控訴審始まる 「殺意」再び争点に」(朝日新聞北海道支社)</ref>。しかし同年9月7日 - 8日に行われた弁護側の証人尋問で、組員は第一審と同様に「死人が出ても構わないという話をした」と証言しており、弁護側が期待を寄せていた組員の証言の変化も当てにできなくなっていた<ref name="朝日新聞北海道1988-10-15"/>。1988年11月1日に第5回公判が予定されていたが<ref name="北海道新聞1988-10-14"/>、同年10月に夫婦2人とも控訴を取り下げ{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}、それぞれ10月8日ないし13日付で死刑が確定{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}。『毎日新聞』によれば、夫婦揃っての死刑確定は戦前には記録がなく、戦後でも全国初とされる<ref name="毎日新聞1988-10-15"/>。『北海道新聞』『毎日新聞』によれば、HNは同月11日付で、HYも同月13日付でそれぞれ控訴取下げ手続きを取った<ref name="北海道新聞1988-10-14">『北海道新聞』1988年10月14日夕刊第6版一面1頁「H夫婦 控訴取り下げ 夕張保険金放火殺人 2人の死刑確定 変わらぬ○○証言 有利な展開望めず」(北海道新聞社)縮刷版549頁。</ref><ref name="毎日新聞1988-10-15">『毎日新聞』1988年10月15日東京朝刊第14版第二社会面22頁「夕張市の保険金殺人 夫婦に死刑確定 控訴を取り下げ」(毎日新聞東京本社) - 縮刷版566頁。</ref>。当時、死刑判決が第一審で確定することは珍しく、控訴審の途中で控訴取り下げがなされることは異例とされた<ref name="毎日新聞1988-10-15"/>。当時は[[昭和天皇]]の容体が悪化しており<ref name="中日新聞1997-08-02"/>、HY・HN夫婦を含む同時期に控訴を取り下げて死刑が確定した死刑確定者4人による取り下げは[[大喪の礼]]に伴う[[恩赦]](大赦以外は刑の確定が恩赦の条件とされているため)を期待したものとされているが、その期待に反して死刑確定者への恩赦減刑は行われなかった<ref name="毎日新聞1989-02-08">『毎日新聞』1989年2月8日東京夕刊第4版第二社会面10頁「死刑囚4人 いちるの望み、かなわず… 恩赦期待の上告取り下げ 減刑対象はずれ」(毎日新聞東京本社) - 縮刷版324頁。</ref><ref name="北海道新聞19890209"/>。<br/>1996年5月10日には夫HYのみが岡崎敬(東京弁護士会)を弁護人として、控訴取り下げは当時の国選弁護人2人との接見で恩赦減刑の可能性があると言われ、誤信したことによるものであるとして無効を訴え、札幌高裁に控訴審の再開を求める申し立てを行ったが<ref>『北海道新聞』1996年5月11日朝刊全道社会面31頁「夕張保険金殺人のHY死刑囚 控訴審再開申し立て 昭和天皇逝去の恩赦期待 取り下げは「錯誤」」(北海道新聞社)</ref>、札幌高裁(萩原昌三郎裁判長)は同年8月26日までに取り下げを無効にするような重大な認識の誤りがあったとは認められず、取り下げは有効であるとする決定を出した<ref>『北海道新聞』1996年8月27日朝刊全道社会面31頁「夕張保険金殺人 HY死刑囚 控訴審再開認めず 札幌高裁」(北海道新聞社)</ref>。HYは同高裁に異議申立を行ったが、これも1997年2月に棄却され、最高裁に特別抗告したが、最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)は同年6月2日までに抗告を棄却する決定を出した<ref>『北海道新聞』1997年6月3日朝刊全道社会面27頁「夕張保険金殺人のHY死刑囚 裁判再開認めず 特別抗告棄却」(北海道新聞社)</ref>。<br />死刑確定後は札幌拘置支所に収監されていたが<ref name="北海道新聞19890209">『北海道新聞』1989年2月9日朝刊全道社会面23頁「大喪の礼、恩赦 夕張の保険金放火殺人、H夫婦は対象外」(北海道新聞社)</ref><ref name="北海道新聞19921121">『北海道新聞』1992年11月21日朝刊全道解説面6頁「〈スコープ〉死刑囚、長期化する執行停止 面会制限、高まる疑問 最新の権利と人権 市民団体、国家賠償請求の例も」(北海道新聞社 社会部 黒川伸一)</ref>、1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所<ref group="注" name="札幌仙台"/>で死刑執行(54歳没)<ref name="中日新聞1997-08-02"/>。北海道における死刑執行は1993年11月、釧路市薬局一家3人殺害事件の犯人に対しなされて以来だった<ref>『北海道新聞』1997年8月2日朝刊第16版第1社会面29頁「H夫婦らの死刑執行 市民団体の反発必至」「「区切りついた」被害者の遺族」「道内死刑囚は3人」(北海道新聞社)縮刷版81頁。</ref>。<br />死刑執行後の1998年10月、[[洋泉社]]から事件を題材としたノンフィクション『極刑を恐れし汝の名は』(著者:原裕司)が出版された<ref>『北海道新聞』1998年10月11日朝刊全道本C 9頁「〈ほっかいどうの本〉「極刑を恐れし汝の名は」 原裕司著」(北海道新聞社)</ref>。 |
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|銀座社交クラブママ殺害事件 (H)||1988年10月17日{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||1978年5月21日<br />1978年6月10日{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||高知県高知市内で化粧品販売会社を経営していたが、借金返済に窮したことから、部下である同社役員の男Nとともに上京<ref name="朝日新聞1978-07-11"/>。1978年5月21日、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[白金 (東京都港区)|白金]]一丁目のマンションで、知人関係にあった銀座の社交クラブのママ(当時54歳)を扼殺して2,000万円超の金品を奪った<ref name="朝日新聞1978-07-11"/>。また同年6月10日、[[愛媛県]][[松山市]]内に知人であるトルコ嬢の女性(当時41歳:東京都港区[[南麻布]]三丁目在住)を呼び出した上で2人がかりで首を絞めて殺害、現金数万円などを奪った上で遺体を全裸にして道路脇の空き地に埋めた<ref>『朝日新聞』1978年7月22日東京夕刊第3版第一社会面11頁「銀座ママ殺しの二人組 自供 松山でも女性を殺す カネが目的 東京から連れ出し 死体、空き地に埋める」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号765頁。</ref>。1978年7月10日、Nとともに逮捕される<ref name="朝日新聞1978-07-11">『朝日新聞』1978年7月11日東京朝刊第13版第一社会面23頁「経営難の社長ら凶行 銀座のママ殺し「49日」の夜解決 高知から部下と上京 金品を奪いトンボ返り」「預金引き出しアシ 8年来のなじみ客 以前にも殺人計画」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号353頁。</ref>。<br/>強盗殺人・詐欺などの罪に問われ、1980年1月18日に東京地裁刑事第6部([[小野幹雄]]裁判長)で共犯の男Nとともに死刑判決を受けた<ref name="朝日新聞19800119">『朝日新聞』1980年1月19日東京朝刊第13版第二社会面22頁「銀座ママ殺し判決 「非情・悪質」二人に死刑」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)1月号622頁。</ref>。2人とも控訴したが、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。<br />恩赦を期待して1988年10月20日までに上告を取り下げ、死刑が確定したが<ref>『読売新聞』1988年10月21日東京朝刊第二社会面30頁「東京・銀座のクラブママ殺人死刑囚が上告を取り下げ」(読売新聞東京本社)</ref>、期待に反して恩赦はされなかった<ref name="毎日新聞1989-02-08"/>。共犯Nは1990年2月に最高裁で死刑確定([[日本における死刑囚の一覧 (1990年代)#1990年|参照]]){{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。<br/>1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(60歳没){{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。 |
|銀座社交クラブママ殺害事件 (H)||1988年10月17日{{Sfn|福田康夫|2007|p=7}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||1978年5月21日<br />1978年6月10日{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}||高知県高知市内で化粧品販売会社を経営していたが、借金返済に窮したことから、部下である同社役員の男Nとともに上京<ref name="朝日新聞1978-07-11"/>。1978年5月21日、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[白金 (東京都港区)|白金]]一丁目のマンションで、知人関係にあった銀座の社交クラブのママ(当時54歳)を扼殺して2,000万円超の金品を奪った<ref name="朝日新聞1978-07-11"/>。また同年6月10日、[[愛媛県]][[松山市]]内に知人であるトルコ嬢の女性(当時41歳:東京都港区[[南麻布]]三丁目在住)を呼び出した上で2人がかりで首を絞めて殺害、現金数万円などを奪った上で遺体を全裸にして道路脇の空き地に埋めた<ref>『朝日新聞』1978年7月22日東京夕刊第3版第一社会面11頁「銀座ママ殺しの二人組 自供 松山でも女性を殺す カネが目的 東京から連れ出し 死体、空き地に埋める」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号765頁。</ref>。1978年7月10日、Nとともに逮捕される<ref name="朝日新聞1978-07-11">『朝日新聞』1978年7月11日東京朝刊第13版第一社会面23頁「経営難の社長ら凶行 銀座のママ殺し「49日」の夜解決 高知から部下と上京 金品を奪いトンボ返り」「預金引き出しアシ 8年来のなじみ客 以前にも殺人計画」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号353頁。</ref>。<br/>強盗殺人・詐欺などの罪に問われ、1980年1月18日に東京地裁刑事第6部([[小野幹雄]]裁判長)で共犯の男Nとともに死刑判決を受けた<ref name="朝日新聞19800119">『朝日新聞』1980年1月19日東京朝刊第13版第二社会面22頁「銀座ママ殺し判決 「非情・悪質」二人に死刑」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)1月号622頁。</ref>。2人とも控訴したが、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた{{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。<br />恩赦を期待して1988年10月20日までに上告を取り下げ、死刑が確定したが<ref>『読売新聞』1988年10月21日東京朝刊第二社会面30頁「東京・銀座のクラブママ殺人死刑囚が上告を取り下げ」(読売新聞東京本社)</ref>、期待に反して恩赦はされなかった<ref name="毎日新聞1989-02-08"/>。共犯Nは1990年2月に最高裁で死刑確定([[日本における死刑囚の一覧 (1990年代)#1990年|参照]]){{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。<br/>1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(60歳没){{Sfn|年報・死刑廃止|2019|p=251}}。 |
2024年12月11日 (水) 01:10時点における版
日本における死刑囚の一覧 (1980年代) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、1980年(昭和55年)から1989年(平成元年)の日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡され、確定した死刑囚(死刑確定者)の一覧記事である。
1980年 - 1984年
1980年
1980年(昭和55年)に死刑判決が確定した死刑確定者は7人であるが[1][2]、そのうちの1人である袴田巌(静岡一家4人殺害事件)は後に再審無罪が確定している。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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上野の一家5人殺し (K) [3][4] | 1980年1月5日[2] | 1974年2月6日[5] | 1934年(昭和9年)4月26日生まれ[6](事件当時39歳)[7]。下記Tの共犯。裁判経緯はTと同一だが、上告審判決(1979年12月25日)に対し訂正申立をせず、1980年1月5日付で死刑が確定[2]。 1986年5月20日に東京拘置所で死刑執行[8][9](52歳没)。 |
上野の一家5人殺し (T) | 1980年1月17日[2] | 1974年2月6日[5] | 1937年(昭和12年)5月12日生まれ[6](事件当時36歳)[10]。 事件の10年ほど前から、東京都台東区上野七丁目で消火器のセールスマンをしていた義父から得意先500軒を引き継いだが、これを同業者(義父の勤務先であった製作所の経営者)に奪われたことを恨み、1973年12月ごろから、顔見知りで金に困っていた上記Kに強盗殺人の計画を持ちかけた[5]。1974年2月6日15時過ぎ、経営者の男性(当時71歳)宅を訪れ、まず男性と妻(当時69歳)をハンマーで殴ったり、コードなどで首を絞めたりして殺害した[5]。続いて18時40分ごろ、帰宅した三男(当時33歳)と、この家に遊びに来た元従業員の男性(当時26歳)をハンマーで殺害したほか、三男の妻(当時27歳)も両手足を縛り、桶の水に顔を漬けることで窒息死させた[5]。その後、現金84,000円と背広などを奪い、翌7日に逃走した[5]。事件発生当時、東京都内では片岡仁左衛門一家殺害事件(1946年)以来の凶悪犯罪として世間を震撼させたが、Kは同月11日に逮捕され、Tも約1か月後に知人宅に立ち寄ったところを逮捕された[5]。 2人とも刑事裁判では強盗殺人罪などに問われ、Tは基礎事実を認めた一方、弁護人が「犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張、Kは殺意などを否認した[5]。しかし1975年12月22日に東京地裁刑事第4部(柳瀬隆次裁判長)で2人とも死刑判決を受けた[5]。東京地裁における死刑判決は、1972年4月に言い渡された正寿ちゃん誘拐殺人事件の第一審判決以来だった[3][5]。 2人とも控訴したが、1977年3月17日に東京高裁第4刑事部(寺尾正二裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[11]。同判決の理由で寺尾裁判長は、「死刑が凶悪犯罪の予防的効果を持つことは科学的に立証されていないが、一般国民は死刑があることによって、本件のような凶悪犯罪が抑止されると思い、日常の行動を規制している。この素朴な国民感情を無視することはできない」と、死刑存続論を述べた[12]。これは、日本の刑事司法に大きな影響を持つと言われる東京高裁の裁判官による意見として注目された[12]。 2人とも1979年12月25日に最高裁第三小法廷(環昌一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[4][13]。Tは1980年1月16日付で同小法廷から判決訂正申立棄却の決定を受け[14]、翌17日付で死刑が確定[2]。 1986年5月20日に東京拘置所で死刑執行[8][9](49歳没)。 |
銚子民宿母子殺害事件 (Y) | 1980年3月22日[2] | 1976年6月14日[15] | 1952年(昭和27年)5月10日生まれ[16](事件当時24)。福島県須賀川市古屋敷生まれ[17]。 逮捕当時は土木作業員で前科1犯[18]、逮捕歴3回[17]。 Yは中学卒業直前の1968年2月20日[注 1]、福島県須賀川市で母方の叔父の三男である従弟の男児(当時2歳)を殺害し、義理の叔母(当時36歳)を強姦しようとする事件を起こしていた[21]。Yは同日11時ごろ、従弟を殺害し[注 2]、死体を肥溜めに遺棄した[22]。その直後、叔父宅に戻ったYは在宅していた義理の叔母(当時36歳)を乱暴しようとしたが、叔母から厳しくたしなめられたことに逆上し、顔などを殴りつけて1週間の怪我を負わせた上、台所から包丁を持ち出して約30分間、逃げ惑う叔母を山林などで追いかけ回した[22]。その後逃走したが、翌21日未明に殺人・死体遺棄・傷害・暴行未遂容疑で緊急逮捕され[22]、同年3月21日に福島家裁白河支部で医療少年院送致の処分を受けた[23]。同年4月3日から盛岡少年院に入院したが、約7か月後の同年11月15日に仮退院した[24]。 退院後は東京で溶接見習い工、運転助手など職を転々としており、1972年には母親の口利きで事件当時勤めていた建設会社に就職したが[19]、同年10月23日には東京都内(王子警察署管内)で強盗未遂事件を起こして逮捕され、懲役3年6月の実刑判決を受けた[23](住居侵入・準強盗の罪)。黒羽刑務所に服役し、1976年4月6日に出所後、逮捕前と同じ建設会社に雇われていた[19]。 事件現場は千葉県銚子市川口町2丁目の民宿で、被害者は旅館の主人の義理の娘A(当時24歳:主人の長男の妻)と、長男夫婦の長女B(生後2か月:主人の孫)である[注 3][25]。Yは現場の民宿付近で行われていた銚子漁港整備事業(燃料タンク基礎工事)に携わっており[18]、6月11日から銚子入りし[26]、事件前夜から同僚3人とともに現場の民宿に投宿していたが、同僚たちが寝静まった隙にAに乱暴しようと2階に上がった[18]。その動機は、Aが初恋の相手に似ていたためだった[26]。14日23時ごろ、YはAの寝ていた2階に上がり、そこにAとBの母子2人しかいないことを確認したが[26]、物音でAに見つかったため、そばにあった置き時計で顔を殴って乱暴した後、室内の電気コードで首を絞めて殺害した[18]。その際[18]、Aと一緒にいたB[27]が泣くのを恐れ、同様に電気コードで絞殺し[28]、2人の死体を住宅2階の押し入れに隠した[25]。当時、同僚たちは熟睡していたため、Yの犯行に気づかなかった[18]。 強姦致傷・殺人・窃盗の罪に問われ[16]、1977年3月24日に千葉地裁第2刑事部(森岡茂裁判長)で死刑判決を受けた[15]。同地裁は、Yの両親が酒乱や窃盗癖を有するなどしており、そのような両親の下で不幸な生い立ちを経たYの境遇には同情の余地はあるが、母子2人を自身の獣欲のために残忍・冷酷な手口で殺害した点、25年間の人生で直近10年間に3人の人命を奪っておきながら反省の色がない点から、死刑をもって臨むべきだと述べた[28]。 Yは同月29日までに控訴したが[29]、1979年3月15日に東京高裁第8刑事部(西村法裁判長)で控訴棄却判決を受けた[27]。同高裁は、Yがそれまでに3人を殺害しており、今後も同種の犯行を繰り返す虞があるとして、原判決の量刑は妥当であると結論づけた[30]。 1980年3月11日に最高裁第三小法廷(横井大三裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[26][31][32]、同月22日付で死刑が確定[2]。 1987年9月30日に東京拘置所で死刑執行[9][33](35歳没)。 |
福島連続保険金殺人事件 (K) | 1980年5月21日[2] | 1970年7月28日 1971年5月20日 |
1937年(昭和12年)11月20日生まれ[34](事件当時33歳)。本籍地および住居は西白河郡表郷村(現:白河市)で[34]、同村で農業を営んでいた[35]。 1970年 - 1971年にかけ、福島県で雑貨商と材木商の2人を殺害した罪に問われた[36]。1970年に福島県で知人と共謀し、交通事故を偽装した保険金殺人を犯したほか、さらに別の男性を殺害して金を奪った[37]。強盗殺人の被害者は表郷村の材木商男性(当時44歳)、保険金殺人の被害者は東白川郡棚倉町の雑貨商男性(当時42歳)で[35]、後者はKらの知人であった[38]。 Kは強盗殺人・殺人・死体遺棄の罪に[39]、共犯の男は殺人・現住建造物等放火・詐欺の罪にそれぞれ問われ[40]、「県内の犯罪史上まれな凶悪犯罪を重ねた」と評された[41]。 1974年3月29日、福島地裁白河支部(磯部喬裁判長)でKは死刑、共犯の男は無期懲役(いずれも求刑通り)の判決を言い渡された[注 4][35]。2人とも控訴したが、1977年6月28日に仙台高裁第2刑事部(三浦克己裁判長)で控訴棄却の判決を受けている[38]。 1980年4月25日に最高裁第二小法廷(栗本一夫裁判長)で上告棄却判決を受けた[42][39]。同年5月19日付で同小法廷から判決訂正申立棄却の決定を受け[43]、同月21日付で死刑が確定したが[2]、雑貨商については事故死を主張し[36]、計4回にわたり自力で再審請求していた[44]。 1993年3月26日に宮城刑務所(収監先・仙台拘置支所に隣接。刑場は宮城刑務所にある)[注 5]で死刑執行(55歳没)[37][36]。 雑貨商殺害事件の共犯は一・二審とも無期懲役の判決を受け、1980年4月23日付で最高裁第二小法廷(栗本一夫裁判長)から上告棄却の決定を受けた[40]。同決定に対する異議申立も同年5月13日付で棄却され[45]、無期懲役が確定している[42]。 |
上那賀の母娘殺し (M)[46][47] | 1980年8月11日[47][2] | 1976年3月12日[48] | 徳島県那賀郡上那賀町拝宮(現:那賀町拝宮)生まれ[49]。逮捕当時23歳[50]。 窃盗の前刑服役を終えて3か月後の[49]1976年3月12日夜[48]、上那賀町拝宮[50](自宅近所[48])で建設作業員の女性A(当時46歳)とその次女B(同19歳)の母娘が住む家に侵入[50]。就寝中の母娘の首を鯵切り包丁で刺して殺害した上[48]、整理タンスから現金35万円[注 6]を奪ったほか、2人を殺害後に乱暴した[46]。遊興費欲しさに母娘を殺害した上で情欲を満たしたものである[49]。被害者宅では2月16日にAの夫(Bの父親)が病死し、Bは勤務先である大阪府堺市の紡績会社から葬儀のため実家に帰って以来、体調不良のためそのまま滞在していた[51]。 同事件発覚から3日後の3月16日未明、徳島市から那賀郡木沢村沢谷(現:那賀町沢谷)の沢谷郵便局付近までタクシーに乗車し、運転手の首を絞めて金を奪おうとしたが目的を果たせず、料金を踏み倒して逃走した[52]。 さらに沢谷郵便局へ盗みに入ろうとしたが、非常ベルが鳴ったため断念し、同日3時過ぎ、逃走用の車を得るため近くの局員宅に侵入[52]。局員の妻を突き飛ばしたほか、包丁を持って寝ていた次男(当時6歳)を人質に取り、局員の連絡で駆けつけた局長の車に乗り移った上、局長に運転させて小松島市方面へ逃走、約10 km先の勝浦郡上勝町八重地の八重地トンネル付近の県道でパトカーと鉢合わせし、局長と局員の次男の2人を人質に車に籠城した[52]。7時40分過ぎに警官隊の説得に応じて局長を解放した一方、その後も局員の次男を人質に抵抗を続けたが、9時過ぎに警官隊によって逮捕され、局員の次男も救出された[52]。 母娘殺害事件の現場となった拝宮地区は小さな谷間にある戸数約35戸の村で、被害者一家と犯人Mの実家は同じ組に属していた[53]。徳島県ではこの事件以前の20年間で、同一犯人が複数人を殺害した殺人事件は、1963年10月14日に三好郡池田町で森吉幸喜が街役場職員一家4人を手斧で殴り殺した事件と、1971年12月25日に徳島市国府町で左官が自宅のボヤの消火に駆けつけた近所の2人を出刃包丁で刺殺した事件の2件のみで、このうち金を奪った事件は森吉事件以来であり、事件当時は「『森吉事件』以来の凶悪犯罪」[53]「県史上まれにみる凶悪事件」として徳島県民の注目を集めた[49]。 強盗殺人、強盗強姦、略取、監禁、銃砲刀剣類所持等取締法違反、強盗致傷、窃盗、強要と[2]、計8つの罪に問われ[49]、検察官からは死刑を求刑されたが[54]、1978年6月29日に徳島地裁(安芸保寿裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[49]。同地裁は弁護人の「心神喪失もしくは心神耗弱」との主張を退けたが、犯行は幼児期のてんかんが心理的・生物的に影響して性格を歪めた結果、自己防御・統制力を失ったと認定し、矯正可能性の存在やMが深く反省していることを理由に無期懲役を選択した[49]。 検察官が同月7月10日、量刑不当を理由に高松高裁へ控訴[49]。1980年7月22日、高松高裁(桑田連平裁判長)は原判決と同じく持病と犯行の因果関係を否定した上で、「犯行は残虐非道で人格矯正も難しい」との理由から原判決を破棄し、Mに死刑判決を言い渡した[46][47]。Mはこの判決前から「死んで償いたい」と述べており、判決後には両親から説得を受けて最高裁へ上告したが、同年8月11日付で自ら上告を取り下げ、死刑が確定した[55]。 1988年6月16日に大阪拘置所で死刑執行(35歳没)[56]。 |
寝屋川夫婦殺害事件 (W) | 1980年11月26日[2] | 1975年8月23日 | 1926年(昭和元年)3月27日生まれ[57](事件当時49歳)。元タクシー運転手[58]。 失業保険金32万円を不正受給していたことが発覚し、その返済を迫られたことから強盗を計画[58]。タクシーの客が置き忘れた鍵を用い、1975年8月23日未明、手斧を持って三井団地(大阪府寝屋川市三井ヶ丘四丁目)A79棟108号室に押し入り、就寝中だった住人の男性(当時26歳)とその妻(当時22歳)を滅多打ちにして殺害(妻は同朝、夫も翌24日に死亡)[58]。被害者2人は新婚夫婦だった[59]。 詐欺・住居侵入・強盗殺人・遺失物横領・窃盗の罪に問われ[57]、1977年9月6日に大阪地裁第4刑事部(尾鼻輝次裁判長)で死刑判決を言い渡された[58]。 控訴審では「室内を物色中に被害者に見つかり、逃げようとして夢中で手斧を振るったもので、殺意はなかった」「犯行時は日本酒2升、ビール1リットルを飲んでおり、心神喪失状態だった」と主張したが、1978年3月31日、大阪高裁(瓦谷末雄裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[60]。同高裁は、犯行前に予め手斧を用意した計画性を認定した上で、Wは酒が強く、犯行時も犯行の隠蔽工作をするなどしていたことを指摘し、心神喪失の主張を退けた[60]。 1980年11月6日に最高裁第一小法廷(団藤重光裁判長)で上告棄却の判決を受けた[59][61]。同年11月25日付で判決訂正申立棄却決定を受け[62]、翌26日付で死刑が確定[2]。 1988年6月16日に大阪拘置所で死刑執行(62歳没)[56]。 |
静岡一家4人殺害事件(袴田巖) | 1980年12月12日[注 7][63][64][65] | 1966年6月30日[66] | 1936年(昭和11年)3月10日生まれ[67][44](現在88歳)。事件当時は30歳で、こがね味噌製造会社の元従業員[66]。 確定判決によれば、1966年(昭和41年)6月30日1時30分ごろ、住み込み先の[66]静岡県清水市横砂651番地の1[68](現:静岡市清水区横砂東町[69])にあった「こがね味噌」専務男性H(当時41歳)宅に忍び込んで物色中、Hに見つかって格闘となったため、持っていたくり小刀でHを滅多刺しにして殺害、さらに物音に気づいた妻(同39歳)、長男(同14歳:清水市立袖師中学校3年生)、次女(同16歳:高校2年生)の3人も次々と刺し、同家にあった売上金204,095円と小切手5枚(額面63,070円)などを奪った[66]。さらに犯行を隠蔽するため、Hの遺体やまだ息のあった3人に、工場にあった混合油をふりかけて放火し、死体もろとも同家1棟(150 m2)を全焼させたとして、強盗殺人・放火・住居侵入の罪に問われた[66]。同年8月10日に逮捕され、警察・検察官の取り調べには犯行を自供していたが、同年11月15日の初公判から「自白を強要された」と無罪を主張するようになる[66]。 1968年9月11日、第一審の静岡地裁(石見勝四裁判長)で死刑判決を言い渡された[68]。1976年6月18日、東京高裁第2刑事部(横川敏雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた[70]。 1980年11月19日、最高裁第二小法廷(宮崎梧一裁判長)で上告棄却判決を受けた[71]。同年12月10日付で判決訂正申立棄却決定を受け[72]、同月12日付で死刑が確定[注 7][63][64][65]。 2011年3月10日(75歳の誕生日)には「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス世界記録に認定された[73](当時42年間、その後46年間)。 第2次再審請求審で、2014年3月27日に静岡地裁(村山浩昭裁判長)が再審開始と袴田に対する死刑執行・拘置を停止する決定を出したため、同日に東京拘置所から48年ぶりに釈放された[74]。検察官が即時抗告したところ、2018年6月11日に東京高裁(大島隆明裁判長)で再審開始決定を取り消す決定が出されたが、死刑の執行および拘置は停止されず[75]、弁護団が特別抗告した結果、最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は2020年12月23日付で東京高裁決定を取り消し、審理を同高裁に差し戻す決定を出した[76]。 その後、東京高裁(大善文男裁判長)は2023年3月13日、静岡地裁の再審開始決定に対する検察官の即時抗告を棄却する決定を出し[77]、東京高検が特別抗告を断念したため、日本の死刑確定事件としては5件目となる再審開始が確定した[78]。 再審公判で静岡地検は改めて袴田に死刑を求刑したが、静岡地裁(國井恒志裁判長)は2024年9月26日、袴田に死刑確定後の再審事件としては5件目となる無罪判決を言い渡した[79]。静岡地検は同年10月9日付で上訴権を放棄したため、袴田の無罪が確定した[80]。 |
1981年
1981年(昭和56年)に死刑判決が確定した死刑確定者は3人である[1][2]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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釧路の一家3人殺し (K)[81] | 1981年4月20日[2] | 1974年8月7日[82][81][44] | 1932年(昭和7年)4月21日生まれの漁船員[83]。本籍地は岩手県気仙郡三陸町越喜来、住居は福島県いわき市平[83]。旧姓S[82]。 多額の借金を抱えて返済に困ったため[84]、1974年8月6日18時ごろ、約10年来の知り合いであり、過去に借金をしたこともある知人の薬局経営者(当時37歳)宅である釧路市春採6の民家を訪れ、借金を頼もうとした[82]。しかし人の気配がなかったため[81]、茶の間のホーム金庫から現金を盗もうとしていたところ、帰宅した長男(当時7歳)に見つかったため、灰皿や野球バットなどで頭を殴り、ビニールコードで首を絞め仮死状態にさせた[82]。さらに帰宅した経営者を野球バットやゴルフクラブで殴りつけ、手で首を絞めて殺し、続いて帰宅した妻(当時37歳)もゴルフシューズで殴った上、ビニールコードで首を絞めて殺害、息を吹き返した長男も首を絞めて殺害、現金97000円、カメラ、時計など75点(11万円相当)を奪い[82]、逃走した[81]。犯行後、薬局に「休業」の張り紙をして偽装工作をした上、岩手県気仙郡三陸町の実家に帰省したが、同年8月12日に逮捕された[82]。 強盗殺人の罪に問われ、1975年9月17日に釧路地裁(野口頼夫裁判長)で死刑判決を言い渡された[82]。Kは判決を不服として控訴し、弁護人の和田壬三は死刑制度の違憲性、Kが犯行時心神耗弱状態だったこと、量刑不当を訴えたが、1977年8月23日に札幌高裁(粕谷俊治裁判長)は最高裁判例を引用して「公共の福祉の見地から死刑もあり得る」と判断、また犯行後に2時間にわたって軍手をはめて現場を物色したり、発覚を遅らせるための偽装工作をしたりした事実から心神耗弱状態だったとは認められないと判断し、控訴棄却の判決を言い渡した。札幌高裁が死刑事件について判断したのは、1968年3月20日に言い渡した札幌市の山中における強盗殺人・死体遺棄事件(1966年9月8日発生)の被告人(同日時点で既に死刑執行済み)に対し、第一審の札幌地裁が言い渡した死刑判決を支持して控訴を棄却して以来、9年ぶりだった[85]。 1981年3月29日に最高裁第一小法廷(藤崎萬里裁判長)で上告棄却判決を受け[84][86]、同年4月20日付で死刑が確定[2]。責任能力の認定などから再審請求したが、棄却された[44]。 1993年11月26日に札幌刑務所(収監先・札幌拘置支所に隣接)[注 5]で死刑執行(61歳没)[44]。道内での死刑執行は1975年以来、18年ぶりだった[81]。 |
長崎雨宿り殺人事件 (O)[88] | 1981年7月6日[2] | 1977年9月24日[89] | 1937年(昭和12年)8月29日生まれ[90]。本籍地は大分県玖珠郡玖珠町[90]。殺人・強盗など前科6犯[91]。 1961年に傷害・窃盗事件を起こして服役して以降、刑務所暮らしを繰り返し、1965年には大分県内の飲食店で知り合った知人を殺害して懲役13年の判決を受けたが[92]、1976年11月に熊本刑務所を仮出獄した[93]。その後、大分県内の観光会社社長宅で働いていたが[注 8]、1977年9月12日に現金42万円を盗んで逃げ[92]、その金を使い果たしたため、長崎県南高来郡で一人暮らしの老人宅などを探してうろついていた[93]。 被害者は長崎県南高来郡千々石町(現:雲仙市)塩屋で一人暮らししていた女性(当時68歳)で[95]、海の家を経営していた[92]。1977年9月24日10時過ぎ[93]、Oは被害者宅に立ち寄り、上がり込んで世間話をしていたが[89]、雑談しているうちに被害者が1人暮らしだと知り、乱暴した[92]。被害者を殺害して現金を奪うことを思いつき、テレビを観ていた被害者[89]を強姦し[91]、角材で頭を滅多打ちにして殺した上[95]、整理タンスにあった現金2万円を奪い[92]、逃走した[89]。 強盗殺人・婦女暴行などの罪に問われ[92]、1978年9月18日に長崎地裁(萩尾孝至裁判長)で死刑判決を受けた[95]。同判決は、金に困ったOが独居老人を狙って強盗殺人を計画した上で冷静に実行に移したことを指摘し、犯行が残忍であること、刑務所での矯正教育の効果が薄く、将来再犯の危険性も高いこと、Oの性格や前科前歴の内容、被害者遺族の心情などを死刑適用の理由として挙げた[95]。 1979年9月25日、福岡高裁第2刑事部(安仁屋賢精裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[89]。同判決は犯行が計画的で残忍であることや[89]、仮釈放からわずか10か月後の犯行である点を指摘し、Oは再犯の危険性が極めて高いと評していた[94]。 上告審から無実を主張したが[44]、1981年6月16日に最高裁第三小法廷(環昌一裁判長)で上告棄却判決を受け[92][94][91]、同年7月6日付で死刑が確定[2]。 それ以降は自力で18年にわたり再審請求し、死刑執行時点では初めて弁護人が付いて再審請求してから4日目だった[44]。 死刑確定後、死刑執行までに6回の再審請求を長崎地裁に申し立てたがいずれも棄却され、1998年9月24日には自ら7回目の再審請求を行った[96]。その後、1999年12月14日付で弁護士の宮川清水が再審請求の代理人として8回目の再審請求を申し立て[注 9]、翌15日には後者の請求が長崎地裁から長崎地検に通知されていたが[96]、請求中の同月17日に福岡拘置所で死刑執行(62歳没)[98]。それまで法務省は再審請求中の死刑囚に対する刑執行を見送っており、当時は極めて異例の死刑執行とされていたが、『読売新聞』は法務省がOの請求理由について、以前に棄却された再審請求とほとんど同一であり、死刑執行を回避するために考慮する理由に該当しないと判断したと見られると報じている[98]。この死刑執行を受けて「死刑廃止を推進する議員連盟」の保坂展人(衆議院議員)ら国会議員3人は同日、法務省で指揮した法務大臣の臼井日出男に抗議したが、臼井は「再審請求中は執行できないことになると、死刑確定者が再審請求を繰り返す限り永久に執行できなくなる」と説明した[99]。臼井は2000年3月14日の参議院法務委員会で、この件に関する福島瑞穂議員の質問に対する答弁で、自身もOの弁護人が再審請求していたことを把握していたことを認めた上で、執行の数日前に自ら命令書に署名したことを明かした[97]。その上で再審請求については「死刑の重大な結果に鑑み、考慮している」としながらも、刑の執行を停止する理由ではないとする見解を示し、仮に死刑確定者が再審請求中であっても、当然棄却が予想される場合(例えば「何回も同じ理由で再審請求し、何度も棄却されている場合」など)は「再審請求を繰り返せば、刑が執行できないというのは確定した裁判を実現する責務に反する」として、死刑執行はやむを得ないとの方針を表明した[97]。 |
松前の母妻連続殺人事件[注 10] (T)[101] | 1981年7月11日[2] | 1971年1月12日[102][103] 1972年7月1日[102][103] |
1930年(昭和5年)10月20日生まれ、金融業[104]。本籍地は愛媛県松山市中村町[104]。 1971年1月12日22時ごろ[105]、愛媛県伊予郡松前町北黒田804の自宅で、1歳年上の姉と共謀し[105]、実母(当時65歳)の頭部をコンクリートブロック様のもの[103]で数回殴って意識不明の重体に陥らせた上で、自宅前の道路に運び出し、自転車をそばに倒してひき逃げ事故に見せかけ、14日に松山市内の病院で頭蓋骨骨折による内出血で死亡させたほか、事件8か月前に実母にかけていた簡易保険の保険金約4.000万円を受け取った[105]。当時、Tは土地取引を巡って横領事件を起こしており[100]、その裁判で約1,200万円を返済して実刑を免れるため、母親の死亡保険金を手に入れようとして犯行におよんだ[103]。 Tの姉は母親を殺害した後、母親が大型トラックにひき逃げされたと称して愛媛県警に通報し、彼女の証言したナンバーのトラックを運転していた男性が検挙された[102]。当時、交通事故としては不自然な点が認められたため、伊予警察署は事件性も視野に捜査を行ったが、Tらの犯罪は発見されず、交通事故として松山地検へ装置されたものの、運転手の男性は1972年4月、証拠不十分で不起訴となった[102]。一方でTは1971年2月に横領事件で有罪判決を受けたが、詐取した保険金の一部を用いて被害者に弁済金を支払ったため、執行猶予となった[102]。 一方で事件後、町内で「交通事故ではない」という噂が広まり、またこの事件の現場を目撃していたTの妻(当時35歳)とTとの不仲が目立ち始めた[102]。Tは1972年5月、松前町の実家で妻を絞殺しようとしたが未遂に終わり、妻は松山地検へ告訴したが、直後に告訴を取り下げている[102]。Tは3歳年上の兄(鍛冶職)と共謀し、口封じのために妻を殺すことを計画、同年7月1日21時30分ごろに松山市桑原町のマンション(当時のT宅)で細紐を使い、妻を絞殺[102]。死体を段ボールに詰め、松山町北黒田の兄宅作業場の地下に埋めた[102]。 1974年11月に一連の犯行が発覚、『愛媛新聞』では「本件犯罪史上にもまれな凶悪な連続殺人事件」と評された[102]。 Tは殺人、詐欺、死体遺棄の罪に問われ、1976年2月18日、松山地裁(鍵山鉄樹裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[102]。なおTは母親殺害事件後に起こした保険金詐欺事件4件のうち1件目と、2件目の間に横領事件の確定判決を挟んでいたため、判決前後の罪状は併合罪にならず、判決前(母親殺害事件+保険金詐欺1件)と判決後(保険金詐欺事件3件+妻殺害事件)で別々に死刑の主文が言い渡された[注 11][106]。また姉と兄はそれぞれ懲役15年の判決を受け[102]、いずれも弟Tの控訴審判決前に確定している[107]。 Tが控訴したところ、高松高裁(小川宣夫裁判長)は1979年12月18日の控訴審判決公判で、妻殺害の件に関しては原判決を破棄して無期懲役を言い渡したが、実母殺害については原判決通り死刑を言い渡した[107]。同高裁は死刑制度を違憲とする主張、母殺害に関する事実誤認の主張を排斥し、首謀者としてのTの量刑は兄や姉と比べて不当ではないと評した上で、母殺害については情状酌量の余地は認められないとした一方、妻殺害に関しては被害者である妻が母殺害の件を口外することを仄めかし、Tの殺意を誘発した点で情状酌量の余地があると認定した[107]。 1981年6月26日に最高裁第二小法廷(木下忠良裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[101][103][108]、同年7月11日付で死刑が確定[2]。 1993年3月26日に大阪拘置所で死刑執行(62歳没)[100]。日本における死刑執行は当時、1989年11月以来3年4か月ぶりで、これほど長期間にわたって死刑執行が行われなかった時期は明治以降では初だった[100]。Tは死刑確定後に再審請求をしており[100]、また死刑執行の2年前(1991年ごろ)には土地の所有権を巡り、伊予署に身内を告訴したい旨の手紙を出していた[109]。 |
1982年
1982年(昭和57年)に死刑判決が確定した死刑確定者は1人である[1][2]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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世田谷女性殺害事件 (S) | 1982年9月17日[2] | 1977年12月3日[110][111] | 東京都世田谷区東玉川一丁目で一人暮らししていた不動産売主の女性(当時61歳)が自宅の土地[注 12]・建物を売りに出しているのを新聞広告で知り、女性を殺害して奪うことを計画[110]。知人の男を誘い、1977年12月3日、2人で女性を車で連れ出し、19時ごろに千葉県佐倉市内の東関東自動車道路上に停車した車内で、ロープを用いて絞殺[110]。土地登記関連書類や印鑑などを奪った[112]ほか、女性の遺体にブロックを結びつけ、茨城県行方郡潮来町の鰐川に遺棄した[110]。 強盗殺人・死体遺棄・有印私文書偽造罪などに問われ[113]、1979年5月17日に東京地裁刑事第12部(金隆史裁判長)で死刑判決を受けた[110]。殺人の共犯である男は懲役13年を、その他犯行に関与した男女3人は懲役2年6月から懲役1年6月の判決を言い渡されている[110]。 共犯とともに控訴したが、1982年9月1日に東京高裁第9刑事部(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた[113]。上告せず[112]、同月17日付で死刑が確定[2]。1993年11月26日に東京拘置所で死刑執行(47歳没)[112][111]。 |
1983年
1983年(昭和58年)に死刑判決が確定した死刑確定者は1人である[1][114]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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徳島高齢者連続殺人事件 (F) | 1983年5月2日[2] | 1978年11月23日[115] 1978年12月16日[115] |
徳島県美馬郡美馬町(現:美馬市美馬町)生まれ[116]。 幼少期に両親が離婚し、三好郡池田町(現:三好市)の祖母に育てられたが、小学生のころから盗み癖があり、鳴門市の教護施設に収容されていた[117]。施設を出てからも定職に就かず、徳島・高知・大阪などを転々とし、その間に徳島市内で若い女性に小刀で切りつけてハンドバッグを奪おうとする強盗傷人事件を起こして逮捕されるなど、前歴6回[117]。 1978年8月に高知刑務所を出所したが[117]、遊興費に困ったことから、老人を殺害して金を奪うことを計画し、以下の事件を起こした[116]。
1979年3月6日に徳島地裁で開かれた初公判で、強盗殺人罪に問われたFは1. 事件の犯行を否認し、共犯者の存在も示唆していたが、後に供述を翻し、両事件とも犯行を認めた[115]。1983年4月14日に徳島地裁(山田真也裁判長)で死刑判決を受けた[115]。徳島地裁における死刑判決は、1964年3月に四国連続強盗殺人事件の犯人に言い渡されて以来、19年ぶりだった[115][117]。なお弁護人は犯行時、Fが心神喪失もしくは心神耗弱状態にあったと主張していたが、徳島地裁はFは精神病質者および精神薄弱者ではあるが、善悪の分別はでき、責任能力を欠いた状態ではなかったとして、完全責任能力を認定した[115]。 |
1984年
1984年(昭和59年)に死刑判決が確定した死刑確定者は3人である[1][124]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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大阪電解事件 (D) | 1984年5月8日[2] | 1974年7月10日[111] 1974年10月3日[111] |
1923年(大正12年)4月19日生まれ・会社員[125]。 本籍地は大阪府大阪市西淀川区中島一丁目、住居は大阪府寝屋川市田井町[125]。 金銭欲から、Dの勤務先の会社幹部を殺害し、死体を遺棄することで幹部が金員を拐帯して失踪したように偽装し、同会社の小切手を使って取引銀行から大金を引き出そうと企て、短期間内に会社の上司2人を次々に絞殺し、死体を埋立地に埋めた[126]。 下記共犯S(本事件以前の服役中に知り合った)[127]とともに、1978年2月23日に大阪地裁(浅野芳朗裁判長)で死刑判決を、1980年11月28日に大阪高裁で控訴棄却判決を受けた[111]。 1984年4月27日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却判決を受け[126]、同年5月8日付で死刑が確定[2]。 1993年11月26日に大阪拘置所で死刑執行(70歳没)[111]。 |
大阪電解事件 (S) | 1984年5月16日[2] | 1974年7月10日[111] 1974年10月3日[111] |
1936年(昭和11年)11月13日生まれ・元洗車場経営[125]。本籍地は和歌山県橋本市神野々、住居は兵庫県神戸市葺合区上筒井通五丁目[125](現:神戸市中央区上筒井通五丁目)。 上記Dの共犯(裁判経緯も同一)[111]。上告審判決に対する訂正申立を1984年5月14日付で棄却され[128]、同月16日付で死刑が確定[2]。 1993年11月26日に大阪拘置所で死刑執行(57歳没)[111]。 |
近畿連続強盗殺人事件 (K) | 1984年9月26日[2] | 1975年4月3日[129] 1977年8月18日[129] |
1944年(昭和19年)8月29日生まれ[130]。本籍地は福岡県北九州市八幡西区大字香月[130]。 1973年3月 - 1977年8月にかけ、7都府県で強盗殺人2件、同未遂1件、強盗傷人・強盗各3件、強盗予備・銃刀法違反各1件、窃盗5件と[129]、計16件の犯行を重ねた[131]。一連の犯行で3人が殺害され、7人が負傷している[132]。
大阪府泉佐野市の連続強盗・窃盗事件の被疑者として1977年8月、大阪府警に逮捕され、一家4人殺傷事件など一連の犯行を自供したが、1978年6月の第3回公判以来、姫路事件を否認し、弁護側も「自白は誘導された疑いが強い」と無罪を主張した[129]。 |
1985年 - 1989年
1986年(昭和61年)に死刑が確定した死刑確定者はいない[1][124]。
1985年
1985年(昭和60年)に死刑判決が確定した死刑確定者は2人である[1][124]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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伊勢崎3女性殺害事件 (K)[135] | 1985年5月17日[2] | 1977年4月16日[111] | 1950年(昭和25年)2月10日生まれ[127][136]。旧姓K[136]。 群馬県新田郡藪塚本町(現:太田市)在住[137][138]。文通で知り合った婚約者の会社員女性(当時23歳:群馬県群馬郡榛名町)と親しく交際していたが[139]、1977年4月上旬[138]、自分の素行不良[注 14]や多額の借金、離婚歴の存在を知られ[140]、交際を拒否されたことから無理心中を決意[138]。1977年4月16日12時10分ごろ[138]、彼女が匿われていた伊勢崎市連取町の知人女性(当時65歳)宅に押しかけ、婚約者とその妹(当時20歳)、そして知人女性の3人を文化包丁(刃渡り18 cm)で刺殺した[注 15][137]。 殺人罪などに問われ[138]、1978年3月8日に前橋地裁(浅野達男裁判長)で死刑判決を受けた[140]。前橋地検によれば戦後、前橋地裁で死刑判決を言い渡された被告人は1994年12月時点で11人いるが、Kは7人目であり[141]、Kへの死刑判決は松井田町2女性殺害事件の死刑囚(1978年に死刑確定)以来であった[137]。量刑不当などを理由に控訴したが、1980年2月20日に東京高裁第11刑事部(岡村治信裁判長)で控訴棄却判決を言い渡されている[142][139]。 1985年4月26日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却の判決を受け[143][138]、同年5月17日付で死刑が確定[2]。 死刑確定直前に支援者夫婦と養子縁組し、夫婦の姓である「A」に改姓したが、確定後の1985年5月27日以降、東京拘置所長によって養夫婦を含めた外部交通権をすべて禁止されたことから精神的苦痛を受けたと主張、Kと養父母は1988年10月26日付で慰謝料200万円支払いを求める国家賠償請求訴訟を提起した[144]。同訴訟の第一審は1993年12月に結審していた[141]。 第一審判決前の1994年12月1日に東京拘置所で死刑執行(44歳没)[135][145]。前橋地裁で死刑判決を受け、死刑が確定した死刑囚に対する刑の執行は大久保清らを含め、戦後4人目と見られる[135]。死刑執行後の同月13日、東京地裁(福井厚士裁判長)で「無罪推定を受ける被告人と違い、死刑確定者は基本的人権の制約を受けざるを得ない」として請求棄却の判決が言い渡されている[146]。原告側は控訴したが、1996年6月25日に東京高裁で原告側の控訴を棄却する判決が言い渡され[147]、1999年7月16日には最高裁第二小法廷(北川弘治裁判長)で上告棄却の判決が言い渡されている[148]。 |
青森旅館連続殺人事件 (S) | 1985年7月2日[2] | 1984年9月9日[111] | 1928年(昭和3年)3月1日生まれ[149]。岩手県上閉伊郡出身[150]。 1958年(昭和33年)6月5日に岐阜県大垣市で強盗殺人事件を起こし、同年9月2日に岐阜地裁大垣支部で無期懲役判決を受け、1976年(昭和51年)3月31日に仮釈放されるまで岐阜刑務所に服役していた[151]。しかし1977年には北海道函館市で無銭飲食で逮捕され、1983年9月まで服役していた[150]。 1984年9月9日8時30分ごろ、宿泊していた青森県青森市安方一丁目の旅館で、女将(当時61歳)に包丁を突きつけて金を奪おうとしたが、大声を出されたため刺殺した[150]。さらに包丁を持ったまま女将の家族を追って外に飛び出し、偶然旅館前を通りかかった近くの会社員男性(62歳)を刺殺した[152]。事件当時は所持金10円だった[152]。 強盗殺人・殺人の罪に問われ[150]、1985年6月17日、青森地裁第1刑事部[149](守屋克彦裁判長)で死刑判決を言い渡された[150]。S本人は判決宣告時に控訴しないことを明言していたが、弁護人は「Sには正常な判断能力がない」として、控訴期限の同月1日付で仙台高裁に控訴した[153]。しかし翌2日、S本人が控訴を取り下げたため[153]、同日付で死刑が確定[153][2]。 1994年12月1日に宮城刑務所(収監先:仙台拘置支所に隣接)[注 5]で死刑執行(66歳没)[145]。 |
1987年
1987年(昭和62年)に死刑判決が確定した死刑確定者は7人である[1][124]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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裕士ちゃん誘拐殺人事件 (S) | 1987年1月19日[2][154][155] | 1986年5月9日[111] | 1940年(昭和15年)9月20日生まれ[156]。 1986年12月22日に東京地裁刑事第5部[156](高島英世裁判長)で死刑判決を受け、本人の控訴取り下げにより死刑確定[111]。1983年に「永山基準」が示されて以降、被害者1人の殺人事件としては初めて死刑が確定した事件である[157]。 1995年5月26日に東京拘置所で死刑執行[111](54歳没)。 |
半田保険金殺人事件 (I) | 1987年4月15日[2] | 1979年11月19日 1983年1月24日 1983年12月25日[158] |
1942年(昭和17年)6月27日生まれ[159][111]。 男2人と共謀し、以下の事件を起こした。
1. 事件ではTとともに殺人罪に、2. 事件ではT・Mの2人とともに殺人・死体遺棄・詐欺罪に、3. 事件ではTとともに強盗殺人・死体遺棄の罪に問われた[158]。1985年12月5日の判決公判で、名古屋地裁刑事第2部[159](鈴木雄八郎裁判長)は3事件全てに関与したI・Tの両被告人を死刑、2. 事件にのみ関与したMを懲役14年(求刑:懲役18年)とする判決を言い渡した[158]。 |
連続企業爆破事件(大道寺将司) | 1987年4月21日[2] | 1974年8月30日-1975年5月4日 | 1948年(昭和23年)6月5日生まれ[111]。共犯の一部が超法規的措置で出国[111]。 1979年11月12日に東京地裁(蓑原茂広裁判長)で死刑判決を、1982年10月29日に東京高裁(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた[111]。1987年3月24日に最高裁第三小法廷(伊藤正己裁判長)で上告棄却判決(第一審・控訴審の死刑判決を支持)を受け[165]、同判決への訂正申し立ても1987年4月20日付で棄却されたため[166]、同月21日付で[2]、益永とともに死刑が確定[167]。同決定により共犯者の黒川芳正は無期懲役、共犯の女も懲役8年が確定した[167]。 交流誌「キタコブシ」が出ていたほか、著書『死刑確定中』や句集『鴉の目』『棺一基』『残の月』などがある[111]。 東京拘置所に収監されていたが2017年5月24日に収監先・東京拘置所内で多発性骨髄腫のため病死(68歳没)[168]。 |
連続企業爆破事件(益永利明) | 1987年4月21日[2] | 1974年8月30日-1975年5月4日 | 1948年(昭和23年)6月1日生まれ(旧姓:片岡)[111]。2020年9月27日時点で[169]東京拘置所に収監中(現在76歳)[170]。 裁判経緯は同上。1987年4月21日に判決訂正申立の棄却決定を通知され、死刑が確定[171]。その直前(同年4月7日)に獄中結婚していた[171]。国家賠償請求訴訟を多数提訴しているほか、交流誌「ごましお通信」が出ていた[111]。著書『爆弾世代の証言』がある[111]。 |
名古屋女子大生誘拐殺人事件(木村修治) | 1987年8月6日[2][154][155] | 1980年12月2日[111] | 1950年(昭和25年)2月5日生まれ[127][111]。愛知県名古屋市の被差別部落出身(参考:白山中学校事件)。 1982年3月23日に名古屋地裁刑事第3部(塩見秀則裁判長)で死刑判決を受け[172]、1983年1月26日に名古屋高裁刑事第2部(村上悦夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた[173]。 1987年7月9日に最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)で上告棄却判決を受け[174]。判決訂正を申し立てたが、同年8月4日の第一小法廷決定[事件番号:昭和62年(み)第6号・7号]によって棄却され[175]、同月6日付で死刑が確定[2][154][155]。 最高裁上告後「水平社宣言」や死刑廃止運動を知り、1986年2月には死刑廃止運動を行う死刑囚による「日本死刑囚会議・麦の会」に入会、同年には同会運営委員となる。上告審では死刑違憲論を主張するも棄却。大道寺将司・益永利明・坂口弘らとともに統一獄中者組合員として獄中活動。 1993年9月に恩赦を出願[176]。1995年1月に手記『本当の自分を生きたい 死刑囚・木村修治の手記』(インパクト出版会)を出版。恩赦出願の結果は代理人に通知されないまま、1995年12月21日に名古屋拘置所で死刑執行(45歳没)[111]。また日本死刑囚会議・麦の会『死刑囚からあなたへ 国には殺されたくない』(インパクト出版会:1987年10月刊行)に手記「強く、優しく生き抜いてください」を寄稿。 |
秋山兄弟事件(秋山芳光)[177] | 1987年8月29日[2][154][155] | 1975年8月25日[178] | 1929年(昭和4年)8月23日生まれ[127][179]。 秋山兄弟(双生児)の弟。兄が経営していた紙工場の元従業員。 兄(無期懲役が確定)と共謀し、1975年8月、千葉県市川市で知人の会社社長(当時47歳)をバットで撲殺、現金約1,000万円を奪って遺体を畑に埋めた[180]。また、自分の妻(当時37歳)に多額の保険金をかけて殺害しようとした[180]。 1976年12月16日に東京地裁刑事第20部で死刑判決を受け[179]、1980年3月27日に東京高裁第12刑事部[181](千葉和郎裁判長)で控訴棄却判決[178]。 1987年7月17日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却判決を受ける[182]。判決訂正申立も同年8月28日付の決定[事件番号:昭和62年(み)第9号・10号]によって棄却され[183]、翌日(8月29日)付で死刑が確定[2][154][155]。 2006年12月25日に東京拘置所で死刑執行(77歳没)[180][178]。死刑執行時の年齢は、それまで戦後最高齢とされていた古谷惣吉(71歳3か月)[184]や、秋山と同日に処刑された今市4人殺傷事件の藤波芳夫(当時75歳)を上回る[180]。また、確定判決(上告審判決)から19年5か月後の死刑執行であるが、これは2000年以降では最長記録である[185]。 共犯者である兄も芳光とともに死刑を求刑されたが[186]、従犯とされ[187]、第一審で無期懲役判決を受けた[179]。検察官が死刑を求めて控訴したものの[186]、控訴審でも無期懲役が支持され[181]、確定。 芳光は2003年8月、主犯は兄であるとし再審請求したが、棄却されている。 |
東村山署警察官殺害事件 (T) | 1987年11月17日[2][154][155] | 1976年10月18日[178] | 1925年(大正14年)1月30日生まれ[127][188]。旧姓K[188]。 1977年11月18日に東京地裁八王子支部(現:東京地裁立川支部)刑事第2部で死刑判決を受け[189]、1981年7月7日に東京高裁第8刑事部[190](市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決[178]。 1987年10月23日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却判決を受ける[191]、判決訂正申立も同年11月16日の第二小法廷決定[事件番号:昭和62年(み)第12号]によって棄却され[192]、同月17日付で死刑が確定[2][154][155]。 1995年5月26日に東京拘置所で死刑執行[178](70歳没)。 |
1988年
1988年(昭和63年)に死刑判決が確定した死刑確定者は12人である[1][193]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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熊本連続強盗殺人事件(平田直人[194]) | 1988年2月1日[193] | 1979年3月28日[178] | 1932年(昭和7年)1月1日生まれ[178]。熊本県玉名郡横島町生まれ[195]。 1979年3月16日、当時宿泊していた佐賀県小城郡牛津町上砥川の旅館から、経営者である女性の長女A(当時15歳、中学3年生)を[195]、東京の私立高校に裏口入学させてやると騙して連れ出した[196]。しかしその嘘が発覚しそうになったことや[196]、自身が別の詐欺事件で指名手配されていることをAに知られたことから、同月29日夜、Aを熊本県鹿本郡植木町轟の雑木林で絞殺し、近くの山中に死体を埋めた[197]。その後、Aの母親から4回にわたって計21万円余りを詐取した[196]。また同年5月15日、熊本県玉名市大浜町汐見の民家に侵入したが、家人の女性B(当時75歳)に見つかって騒がれたため、Bを電気コードで絞殺して現金1万円と指輪などを奪った[197]。強盗、盗み、詐欺などの余罪は18件にのぼる[196]。 未成年者誘拐、殺人、死体遺棄、強盗殺人など9つの罪に問われ、1980年10月2日に熊本地裁刑事第2部(上原吉勝裁判長)で死刑判決を言い渡された[195]。弁護人は犯行時、平田は心神耗弱状態だったと主張していたが、熊本地裁は平田は精神病質的人格者ではあったが、犯行は用意周到かつ計画的であるとしてその主張を退けた[195]。 平田は控訴したが、1982年4月27日に福岡高裁第3刑事部(平田勝雅裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[197]。 1987年12月18日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[196][198]、翌1988年(昭和63年)2月1日付で死刑が確定[193]。事実誤認を主張して再審請求していたが棄却され、1995年12月21日に福岡拘置支所[注 17]で死刑執行(63歳没)[178]。 |
福岡連続保険金殺人事件(浜田武重[201]) | 1988年3月30日[193] | 1978年3月(24日 - 25日) 1978年7月1日 1979年5月9日 |
1927年(昭和2年)3月10日生まれ[178]。 内縁の妻(一審公判中に死亡)と共謀して内縁の妻の子供(当時16歳)を農業用水路で水死に見せかけ殺害するなど、3件の殺人事件を起こして被害者2人の保険金約1,100万円を詐取した[202]。 3件中2件の殺人について無罪を主張していたが[203]、1982年3月29日に福岡地裁(秋吉重臣裁判長)で死刑判決を受け、1984年6月19日に福岡高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却判決[178]。1988年3月8日に最高裁第三小法廷(伊藤正己裁判長)で上告棄却判決を受け[204]、同月30日付で死刑が確定[193]。 福岡拘置所に収監されていたが、2017年6月26日に所内で死亡(90歳没・当時は確定死刑囚で最高齢)[203]。 |
北九州市病院長殺害事件 (S) | 1988年5月18日[193][154][155] | 1979年11月4日 - 5日[178] | 1946年(昭和21年)10月19日生まれ・釣具店経営[205]。本籍地は福岡県北九州市小倉北区昭和町、住居は同区木町一丁目[205]。 北九州市で大病院を経営していた院長を殺害して大金を強奪することを計画し、大金の奪取には失敗したものの、被害者を殺害して死体を切断・遺棄した[206]。 S・Yの両被告人とも、1982年3月16日に福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決を受け[207]、1984年3月14日に福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で控訴棄却判決を受けた[208]。 1988年4月15日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却判決を受ける[206]。判決訂正申立も同年5月17日付の決定[事件番号:昭和63年(み)第4号]で棄却され[209]、翌18日付で死刑が確定[193][154][155]。 1983年に最高裁で「永山基準」が示されて以降、殺害された被害者が1人の殺人事件で、複数の被告人に死刑判決が言い渡され確定した唯一の事例[210][211]。 1996年7月11日に福岡拘置所[注 17]で死刑執行(49歳没)[178]。自力で再審請求していたとされるが、詳細は不明[178]。 |
北九州市病院長殺害事件 (Y) | 1988年5月18日[193][154][155] | 1979年11月4日 - 5日[178] | 1952年(昭和27年)9月5日生まれ・スナック経営[205]。本籍地および住居は北九州市戸畑区椎ノ木町[205]。 上記Sの共犯(裁判経緯はいずれも同上)[178]。1996年7月11日に福岡拘置所[注 17]で死刑執行(43歳没)[178]。再審請求準備中だった[178]。 |
日立女子中学生誘拐殺人事件 (W) | 1988年6月3日[193][212] | 1978年10月16日[178] | 1939年(昭和14年)3月25日生まれ[178]。1978年10月16日、茨城県日立市久慈町で[213]、下校途中の義妹(金融業などを経営していた男性の娘[214]/当時14歳:市立久慈中学校3年生)を身代金目的で誘拐[213]。被害者にクロロホルムを嗅がせて気絶させ、車内で鼻・首を押さえつけて殺害し[215]、死体を山中に遺棄した上で、家族に身代金3,000万円を要求したが[214]、金を奪うことはできず[216]、韓国へ逃走しようとしたものの[213]、3日後に逮捕された。動機は経営していた鉄工所が、石油ショックで経営難に陥ったことに加え[213]、キーセン旅行に何度も行ったことから、1,400万円の負債を重ねたことだった[214]。 第一審・控訴審では捜査段階での「身代金目当て」という主張を翻し、誘拐の事実とわいせつ行為を否認した[213]。1980年2月8日に水戸地裁刑事部(大関隆夫裁判長)で死刑判決を受け[214]、1983年3月15日に東京高裁第6刑事部(菅野英男裁判長)で控訴棄却判決を受けた[216]。 上告審ではわいせつ行為を認めた上で、「犯行動機はいたずら目的で、自分に捜査の手が伸びないように電話で金を要求し、身代金目的誘拐を装った。捜査段階で『身代金目当て』と自白したのも、いたずらの事実を隠したかったため」などと主張し[213]、死刑制度の違憲論も訴えて無期懲役への減軽を求めたが、1988年4月28日に最高裁第一小法廷(角田礼次郎裁判長)で上告棄却判決を受けた[217]。判決への訂正申立も、同年6月2日付の決定[事件番号:昭和63年(み)第8号]で棄却され[218]、翌日(6月3日)付で死刑が確定[193][212]。 東京拘置所に収監されていたが、2013年6月上旬にくも膜下出血で倒れ、同月23日夜に病死[219](74歳没・当時再審請求中[178])。 |
赤城山麓連続殺人事件 (S)[220][221] | 1988年6月7日[193][222] | 1981年10月2日 1982年7月3日 |
1927年(昭和2年)2月2日生まれ[223][224]。千葉県印旛郡で生まれ育った[225]。 23歳だった[225]1950年[226]、千葉県内で強盗傷害事件を起こし[225]、強盗致傷罪で懲役8年に処せられた[226]。1959年1月には千葉県印旛郡酒々井町の山林で[227]、薪拾いの女性(当時22歳)を乱暴して殺害する事件を起こした[225]。この事件では強姦致傷、殺人、死体遺棄の罪に問われ[228]、精神鑑定では精神病的傾向があり、短気で衝動的な面を持っていることが指摘されていた[227]。翌1960年に東京高裁で無期懲役の判決を受け[225]、同年7月に無期懲役が確定[222]。千葉刑務所に服役していたが[225][229]、1976年2月に仮釈放され[226]、その翌月の3月には知人を頼り[225]、保護観察中の身で群馬県に移住した[230]。事件当時も保護観察中で[226]、第1の犯行は仮釈放から5年7か月後の犯行だった[229]。 1981年10月2日16時10分ごろ、群馬県佐波郡境町上渕名(現:伊勢崎市境上渕名)の畑で農作業中の女性(当時56歳)を脅していたずらをした上、手ぬぐいや前掛けなどで首を絞め、さらに小刀で胸や首を10回突き刺し、窒息と失血により死亡させて殺害した[231]。境町事件では乱暴目的で被害者を襲った上、近くに人の気配を感じながらもあえて犯行を継続していた[231]。また1982年7月3日16時30分ごろには、勢多郡宮城村柏倉(現:前橋市柏倉町)の畑で農作業をしていた女性(当時79歳)に声を掛けたが、騒がれたため山林内に連れ込み、手ぬぐいと前掛けを首に巻き付けて窒息死させ殺害した[231]。 また以上の2事件で逮捕・起訴された後には、20歳だった1947年10月15日1時40分ごろ、千葉県印旛郡富里村十倉(現:富里市十倉)の生茶仲買業者A(当時58歳)宅に侵入してAを短刀で刺し殺し、Aの妻B(当時61歳)も短刀で負傷させた上で金を奪おうとしたという強盗殺人・致傷事件も自身の犯行である旨を自供した[232]。同事件当時は一度被疑者として捜査線上に浮上したが、証拠不十分で逮捕には至らず[232]、1962年に公訴時効(当時は15年)が成立していた[233]。また旧刑事訴訟法(1948年廃止)時代の事件であり、また1982年時点では捜査資料はほとんど残っておらず、事件関係者も他界していたが[233]、群馬県警察の捜査本部は近隣住民らからの聞き込みによってその裏付けを取り、同事件について1982年10月19日付で前橋地検へ書類送検した[232]。 境町事件および宮城村事件の2事件で殺人および強姦致傷の罪に問われ[228]、1983年12月26日に前橋地裁(小林宣雄裁判長)で死刑判決を言い渡された[231]。同地裁は、Sが起訴された2事件を含めそれまでに4回の殺人事件を起こして4人を殺害している(1件は自供のみ)こと、また2事件はいずれも仮釈放中に起こしたことから、凶悪な犯罪性向は「もはや現下の矯正方法では改善不可能」であると断じた[231]。また死刑適用の枠を示し、下級審の緩刑化傾向に事実上歯止めをかけたものと評されている「永山判決」(同年7月8日宣告)において死刑適用が許されるか否かの判断基準として判示された9項目に照らし、Sの事件は9項目いずれも死刑適用に傾く条件を有していると結論付けた[231]。なおこの判決は、1973年の大久保事件の第一審判決以来、群馬県内では5件目(他3件のうち1件は1978年に死刑確定、残り2件も後に死刑確定)死刑判決とされ[231][234]、また「永山判決」以降では初となる第一審での死刑判決でもあった[234]。 弁護人の池田昭男によればSは判決後、控訴するかどうか迷っていたが、控訴期限(1984年1月9日)の直前である1月7日に量刑を不服として控訴した[235]。しかし1985年1月17日、東京高裁刑事第12部(小野慶二裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[229]。1988年5月20日に最高裁第二小法廷(奥野久之裁判長)で上告棄却判決を受け[226][228]、判決への訂正申立も同年6月6日付の決定で棄却されたため[236]、翌日(6月7日)付で死刑が確定[193][222]。 1995年12月21日に東京拘置所で死刑執行(68歳没)[237][230][178]。 |
男娼等連続強盗殺人事件[238] (W) | 1988年6月29日[193] | 1967年4月24日 1967年8月5日 1972年4月10日 1973年3月20日 |
1948年(昭和23年)3月17日生まれ[178]。2020年9月27日時点で[169]大阪拘置所に収監中(現在76歳)[239]。 以下の事件を起こした(被害者は売春婦3人・男娼1人)[240]。前半2件は少年時代の犯行(少年死刑囚)。
第一審・大阪地裁(大政正一裁判長)で1975年8月29日に無期懲役判決を受けたが[240]、控訴審・大阪高裁(西村哲夫裁判長)で1978年5月30日に一審破棄・死刑判決[178]。 |
神田ビル放火殺人事件 (I) | 1988年7月12日[193][243] | 1981年7月6日[178] | 1947年(昭和22年)8月23日生まれ[244]。本籍地は東京都三鷹市下連雀六丁目、住居は東京都田無市(現:西東京市)北原二丁目[244]。 酒色に溺れて多額の会社資金を使い込んだことから、証拠となる帳簿類を焼却し、会社所有の現金を入手した上で逃走することを計画[245]。深夜、それを実行する過程で、妨げとなった会社上司とビル管理人を殺害するとともに、現金252万円余りを強取してビルの一部を焼燬した[245]。 1982年12月7日に東京高裁(大関規雄裁判長)で死刑判決を受け、起訴から1年半後となる1984年3月15日に東京高裁(寺沢栄裁判長)で控訴棄却判決[178]。 1988年7月1日に最高裁第二小法廷(奥野久之裁判長)で上告棄却判決を受け[245]、同月12日付で死刑が確定[193]。 1996年7月11日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)[178]。 |
夕張保険金殺人事件 (HN) | 1988年10月8日ないし13日[注 18][193] | 1984年5月5日[247] | 1947年(昭和22年)生まれ[248]。北海道夕張市出身[249]。 下記HYの妻[250]。裁判経緯は夫と同一で[247]、死刑確定後は札幌刑務支所に収監されていたが[251][252]、1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所[注 5]で死刑執行(51歳没)[249][253]。戦後3人目に死刑を執行された女性死刑囚である[254]。 |
夕張保険金殺人事件 (HY) | 1988年10月8日ないし13日[注 18][193] | 1984年5月5日[247] | 1944年(昭和19年)生まれ[247]。北海道日高管内様似町出身[249]。夫婦による犯行で、上記HNの夫[250]。 北海道夕張市南部青葉町に在住し、炭鉱下請け会社「H工業」の社長を務めていた一方、暴力団組長でもあった[250]。妻HNや配下の組員と共謀し、夕張市鹿島栄町の「H工業」従業員宿舎に゙放火して火災保険金と従業員の生命保険金を詐取し、借金返済に充てることを計画[250]。1984年5月5日22時40分ごろ、配下組員に宿舎(木造一部3階建て約350平方メートル)を放火させて全焼させ、従業員4人と賄い婦の子供である姉弟(姉は中学生、弟は小学生[注 19])の計6人を焼死させた[250]。また消火活動に当たっていた消防士1人も殉職したため、火災による死者は計7人となる[250]。さらに失火を装い保険金の支払いを請求、火災保険金(約2,400万円)と生命保険金(約1億1,400万円)を詐取した[250]。組員は分け前100万円を受け取ったが、H夫婦に殺されると恐れ、事件から約3か月後に逃亡先の青森県で自首した[256]。これがきっかけで北海道警はH夫婦が宿舎の火災保険のほか、炭鉱災害に備えて従業員に加入させていた生命保険金を狙った放火殺人事件としてH夫婦を逮捕するに至った[256]。 H夫婦と組員はそれぞれ、現住建造物等放火・殺人・詐欺罪に問われた[250][256]。第一審の公判でH夫婦は放火の事実を認めた一方、殺意は否認した[注 20]。[250]札幌地裁刑事第3部(鈴木勝利裁判長)は1987年3月9日の第一審判決で、首謀者は夫HYと位置づけた一方、妻HNも犯行を持ちかけられると制止しなかったどころか配下組員を実行犯として選び、死者が出ることを一時的に躊躇した夫HYを強い言葉で納得させるなど、謀議過程で最も重要な役割を果たしていたことや、保険金詐取の際にも主導的立場にあったと認定し、刑事責任はHYと同等であると認めた[250]。その上で夫婦ともに被害者6人に対する未必的殺意を有していたと認定した上で、HY・HNの両被告人に死刑判決を言い渡した[250]。夫婦が揃って死刑判決を言い渡された事例は1947年7月に大津地裁で宣告された尊属殺人事件の第一審判決(同年11月、大阪高裁で夫婦ともに懲役15年に減軽されて確定)以来40年ぶりで[250]、新刑事訴訟法が施行された1948年以降では初である[257]。北海道内の地裁における死刑判決は戦後40人目で、1984年3月に札幌地裁で言い渡された「平取事件」第一審判決以来[257]。また戦後、死刑判決を宣告された女性はHNが9人目で、彼女以前の8人のうち3人は既に死刑が確定、別の3人は控訴審で無期または有期刑に減軽され確定、当時は「連合赤軍事件」の永田洋子ら2人が上告中だった[250]。 実行犯の組員は分離公判となり、子供らに対する殺意は否認した一方、検察官は子供らに対しても「未必的殺意」があったと主張して無期懲役を求刑していた[256]。札幌地裁刑事第2部(吉本徹也裁判長)は配下組員への判決(1987年3月9日)で、被告人には被害者6人への確定的殺意があったことを認定し[注 21]、「H夫婦の指示に基づくとはいえ、刑事責任はH夫婦と比較して軽いとは言えない」と指弾したが、犯行後に自首したことや反省の色が濃いことから、求刑通り無期懲役を宣告した[256]。組員は控訴したが、同年6月30日に控訴を取り下げて無期懲役が確定[255]。 第一審判決後、HNとともに量刑不当を理由に札幌高裁へ控訴[253]。1988年6月16日に札幌高裁第3部(岡本健裁判長)で開かれた控訴審初公判では弁護側が、実行犯である組員の供述には誇張があり信用性を欠くことや、捜査段階でHYが「未必の殺意」の意味を理解していなかったことなどを主張した[258]。しかし同年9月7日 - 8日に行われた弁護側の証人尋問で、組員は第一審と同様に「死人が出ても構わないという話をした」と証言しており、弁護側が期待を寄せていた組員の証言の変化も当てにできなくなっていた[255]。1988年11月1日に第5回公判が予定されていたが[259]、同年10月に夫婦2人とも控訴を取り下げ[247]、それぞれ10月8日ないし13日付で死刑が確定[193]。『毎日新聞』によれば、夫婦揃っての死刑確定は戦前には記録がなく、戦後でも全国初とされる[260]。『北海道新聞』『毎日新聞』によれば、HNは同月11日付で、HYも同月13日付でそれぞれ控訴取下げ手続きを取った[259][260]。当時、死刑判決が第一審で確定することは珍しく、控訴審の途中で控訴取り下げがなされることは異例とされた[260]。当時は昭和天皇の容体が悪化しており[253]、HY・HN夫婦を含む同時期に控訴を取り下げて死刑が確定した死刑確定者4人による取り下げは大喪の礼に伴う恩赦(大赦以外は刑の確定が恩赦の条件とされているため)を期待したものとされているが、その期待に反して死刑確定者への恩赦減刑は行われなかった[261][251]。 1996年5月10日には夫HYのみが岡崎敬(東京弁護士会)を弁護人として、控訴取り下げは当時の国選弁護人2人との接見で恩赦減刑の可能性があると言われ、誤信したことによるものであるとして無効を訴え、札幌高裁に控訴審の再開を求める申し立てを行ったが[262]、札幌高裁(萩原昌三郎裁判長)は同年8月26日までに取り下げを無効にするような重大な認識の誤りがあったとは認められず、取り下げは有効であるとする決定を出した[263]。HYは同高裁に異議申立を行ったが、これも1997年2月に棄却され、最高裁に特別抗告したが、最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)は同年6月2日までに抗告を棄却する決定を出した[264]。 死刑確定後は札幌拘置支所に収監されていたが[251][252]、1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所[注 5]で死刑執行(54歳没)[253]。北海道における死刑執行は1993年11月、釧路市薬局一家3人殺害事件の犯人に対しなされて以来だった[265]。 死刑執行後の1998年10月、洋泉社から事件を題材としたノンフィクション『極刑を恐れし汝の名は』(著者:原裕司)が出版された[266]。 |
銀座社交クラブママ殺害事件 (H) | 1988年10月17日[193][247] | 1978年5月21日 1978年6月10日[247] |
高知県高知市内で化粧品販売会社を経営していたが、借金返済に窮したことから、部下である同社役員の男Nとともに上京[267]。1978年5月21日、東京都港区白金一丁目のマンションで、知人関係にあった銀座の社交クラブのママ(当時54歳)を扼殺して2,000万円超の金品を奪った[267]。また同年6月10日、愛媛県松山市内に知人であるトルコ嬢の女性(当時41歳:東京都港区南麻布三丁目在住)を呼び出した上で2人がかりで首を絞めて殺害、現金数万円などを奪った上で遺体を全裸にして道路脇の空き地に埋めた[268]。1978年7月10日、Nとともに逮捕される[267]。 強盗殺人・詐欺などの罪に問われ、1980年1月18日に東京地裁刑事第6部(小野幹雄裁判長)で共犯の男Nとともに死刑判決を受けた[269]。2人とも控訴したが、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた[247]。 恩赦を期待して1988年10月20日までに上告を取り下げ、死刑が確定したが[270]、期待に反して恩赦はされなかった[261]。共犯Nは1990年2月に最高裁で死刑確定(参照)[247]。 1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(60歳没)[247]。 |
昭和石油元重役一家殺害事件 (I) | 1988年10月24日[193] | 1983年1月29日[271] | 1983年1月25日、自身の経営していた保険代理店の経営が思しくなく、資金繰りに困ったことから[272]、おじである昭和石油の元取締役男性(当時76歳)[注 22]に約30万円の借金を申し込んだが、断られた上に自身の両親や一族の生活態度を非難されたことや[271]、直後に保険会社から保険料納入の催促があったことから、おじを殺害して金を奪うことを決意[272]。同月29日1時ごろ、東京都大田区東雪谷のおじ宅に侵入しておじとその妻(当時62歳)、妻の母親(当時91歳)の3人をナイフで突き刺したり、手製の棍棒などで頭を滅多打ちにしたりして殺害し[272]、預金通帳2通(残高約570万円)を奪った[271]。 犯行後、3人の遺体の台所の床下貯蔵庫に詰め込んで隠した上、奪った銀行の預金通帳など2冊を用いて約400万円をおろし、一部を借金返済に充てた[272]。また犯行から2日後には現場のおじ宅を訪れて罪証隠滅工作をした[272]。 公判でIの弁護人は強盗目的を否定し、犯行動機は被害者になじられた恨みであると主張したほか[272]、専修大学法学部教授の森武夫による精神鑑定書などを基に、「被告人は1982年8月から精神安定剤を常用しており、犯行に歯止めが効かなくなっていた」として有期懲役刑にするよう主張していた[271]。1984年6月5日に開かれた第一審判決公判で、東京地裁刑事第7部(佐藤文哉裁判長)は、被告人は犯行時心因性の抑うつ状態だったと認定した一方、安定剤が正常な判断を阻害していたとは認められないとして完全な責任能力を認定[271]。恨みと同程度に強盗目的もあったとして強盗殺人罪の成立を認定し、Iに死刑判決を言い渡した[272]。控訴審でも事件当時は金策に窮して抑うつ状態・絶望状態におちい平判断力にも病的な異常があったと主張したが、東京高裁刑事第9部(内藤丈夫裁判長)は1985年11月29日、控訴棄却の判決を言い渡した[274]。 1988年10月22日付で上告を取り下げ[247]、同月24日付で死刑が確定[193]。控訴取り下げは大喪の礼に伴う恩赦を期待したものだったが、恩赦はされなかった[261]。 1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(55歳没)[247]。 |
1989年
1989年(平成元年)に死刑判決が確定した死刑確定者は5人である[1][275]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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日建土木保険金殺人事件 (N)[276] | 1989年6月8日[193][212][277] | 1977年1月7日[247] | 1936年(昭和11年)12月18日生まれ[247]。暴力団菅谷組系清田連合会幹部[278]。 組の運営資金や遊興費欲しさに保険金殺人を計画[278]。1977年1月7日、男Y(愛知県名古屋市西区の土木会社「日建土木」の実質的な社長)と共謀し[279]、同社取締役で3億円の生命保険に入っていた男性(当時48歳)を、自身と同じ菅谷組の組員(第一審で無期懲役判決)を通じて雇った暴力団員3人に命じて[278]、静岡県浜松市内でロープを用いて絞殺させ[279]、死体を同市馬郡町(現:浜松市中央区馬郡町)の駐車場に遺棄させた[278]。その後、Yが男性の死亡保険金3億円を保険会社に請求したが、保険会社が支払いを留保したため、詐取は未遂に終わった[279]。 また1976年9月21日未明には愛知県西春日井郡師勝町(現:北名古屋市)で、同様に3億円の保険に入っていた同社従業員男性を車ではねて殺そうとしたが未遂に終わり(被害者は2か月の怪我)[278]、保険会社から保険金630万円を騙し取った[279]。同年7月1日にも[278]、「日建土木」の名目上の社長だった男性を殺害しようと長良川に連れ出して溺れさせようとし[279]、翌8月にも恵那峡ダム(岐阜県恵那市)に゙誘おうとした(いずれも殺人予備)[279]。共犯Yも被害者3人と同じく、日建土木を保険金受取人とした保険に加入していたが、Yは4人で唯一被害に遭わなかった[279]。 1977年7月に保険金殺人事件が発覚[279]。1974年に゙発生した別府3億円保険金殺人事件をヒントにしたとも言われ、後に愛知県内で相次いで発生した大型保険金殺人事件の皮切りともなった事件である[注 23][276]。 殺人・死体遺棄などの罪に問われ、1980年7月8日に名古屋地裁刑事第3部(塩見秀則裁判長)で死刑判決を言い渡された[278]。名古屋地裁における死刑判決は当時、1974年5月20日に言い渡された武豊町一家3人殺害事件の判決以来だった[278]。控訴したが、1981年9月10日に名古屋高裁刑事第2部(海老原震一裁判長、転任のため服部正明裁判長が代読)で控訴棄却の判決を言い渡された[281]。 1989年3月28日に最高裁第一小法廷(安岡満彦裁判長)で上告棄却判決を受け[282]、同年6月8日付で死刑が確定[193][212][277]。 1998年11月19日に名古屋拘置所で死刑執行(61歳没)[注 16][163]。 共犯の男Yは1977年10月、Nの「Yに犯行を依頼された」という自供がきっかけで逮捕・起訴されたが、Yは「Nが自分の罪を軽くするために虚偽の供述をした」として殺人・殺人未遂3件については無罪を主張し、殺人事件とは無関係な自動車修理に関連する保険金(計約24万円)の詐欺事件のみ起訴事実を認めていた[279]。しかし名古屋地裁刑事第2部(桜林三郎裁判長)はNの供述などから、Yも殺人・殺人未遂の首謀者であると認定し、1984年3月28日に死刑判決を言い渡した[注 24][280][279]。Yは同判決を不服として控訴したが、1988年3月11日には名古屋高裁刑事第2部(鈴木雄八郎裁判長)から控訴棄却の判決を言い渡された[283][284]。しかし最高裁第二小法廷(根岸重治裁判長)は1996年9月20日、Yについて「犯行は明らかだが、積極的に殺人計画を進めた共犯者 (N) に引きずられたのであって、量刑は是認できない」として、殺害された被害者が1人であること、Yが殺人の実行行為・殺害方法の謀議に関与していないことなどを理由に挙げ、原判決を破棄自判し、Yに無期懲役の判決を言い渡している[285]。最高裁が量刑不当を理由に下級審の死刑判決を破棄した事例は、1953年6月に言い渡された強盗殺人事件の上告審判決以来、戦後2件目だった[276]。また実行犯を手配した男(Nと同じ清田連合会幹部)もNと同日に無期懲役の判決を言い渡され[278]、後に確定[284]。N・Yを含む計9人が関与した事件として[276]、N・Yと先述の組幹部以外に6人が起訴され、彼らはいずれも無期懲役から懲役4年の判決を言い渡され[278]、確定している[注 25][279][284]。 |
鳩ヶ谷市の2女性殺害事件[286](石田富蔵[287]) | 1989年7月5日[193] | 1973年8月4日 1974年9月13日[247] |
1921年(大正10年)11月13日生まれ[247]。埼玉県鳩ヶ谷市(現:川口市)在住[286]。 1973年8月4日夜、以前から親しくしていた交際中の鳩ヶ谷市の主婦(当時33歳)から別れ話を持ち出されたことに腹を立て、川口市戸塚の休耕田[注 26]へ連れ出した[288]。20時ごろ[286]、主婦をシュミーズで絞殺し[288][289]、現金2600円を奪った[286]。翌5日、主婦の腕時計(3000円相当)を奪った上、遺体を近くの資材置き場へ運び、大量の古材と廃油をかけ、マッチで火をつけて焼いた[286]。また1974年9月13日2時ごろ、鳩ヶ谷市桜町の飲食店に盗み目的で侵入し、室内を物色していたところ、廊下8畳間で寝ていた経営者女性(当時50歳)を見つけ[286]、乱暴しようとしたが、抵抗されたため、タオルと電気コードで絞殺し、指輪2点(約25000円相当)を奪った[286]。それ以外にも同年11月と12月、鳩ヶ谷市内のスーパーマーケットナでド卓上計算機、包丁、たばこなどを盗んだ[286]。 1件の強盗殺人事件で取り調べを受けていた際にもう1件の殺人を自白したが[247]、公判中に1974年の事件については自供を翻し[290]、無実を主張、また1973年の事件についても殺意を否定していた[289]。1980年1月30日、浦和地裁第3刑事部(杉山英巳裁判長)は検察官の主張をほぼ全面的に認定し、石田に死刑判決を言い渡した[288]。浦和地裁における死刑判決の言い渡しは1972年7月の戸田市の一家4人殺しの犯人に対する言い渡し以来、6年半ぶりのことであった[288]。石田は控訴したが、1982年12月23日には東京高裁(菅間英男裁判長)で控訴棄却判決を受けた[247]。 最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で1989年6月13日に上告棄却の判決を言い渡され[286][291]、同年7月5日付で死刑が確定[193]。 2009年6月以降は東京拘置所内の病棟で治療を受けていたが、2014年4月19日に前立腺癌のため所内で病死(92歳没)[292]。当時は再審請求を棄却され、再度請求する準備をしていたところだった[292]。 |
”殺し屋グループ”連続殺人事件 (F)[247] | 1989年11月2日[193] | 1970年2月13日 - 1973年4月15日 | 1942年(昭和17年)2月23日生まれ(旧姓S)[247]。2020年9月27日時点で[169]東京拘置所に収監中(現在82歳)[248]。上告棄却時点では東京都練馬区在住、元娯楽機械販売業[293]。 1970年2月13日21時ごろ、埼玉県志木市宗岡の水源池近くで[294]、X(無期懲役が確定)[注 27]ら2人と共謀して栃木県塩原町の保育園長を殺害した[295]。1971年10月27日23時ごろ、神奈川県津久井郡城山町の肥料小屋で[294]、Xや飯田博久[注 28](無期懲役が確定)他2人と共謀して東京都大田区内の娯楽機械販売業者を殺害した[295]。1973年4月、茨城県新治郡桜村の砂利採取現場で[294]、Xや飯田他1人と共謀し[295]、この現場に泊まり込んでいた[294]千葉県柏市の砂利採取業者夫婦を殺害した[295]。一連の殺人事件は、Sが各被害者との借金の取り立てや女性関係のもつれなどから、1件あたり50万から100万円の報酬でXらによる殺し屋グループを雇って行ったもので、殺害手段は鋭利な刃物で被害者らを滅多刺しにして殺害し、死体を土中に埋めるというものだった[295]。Sはこれらの4人殺害事件以外にも、6人が関与した恐喝、放火未遂など17の事件で起訴され[295]、関口は殺人、死体遺棄、恐喝、放火未遂、銃刀法違反の罪に問われている[296]。Sは1973年9月1日、中日スタヂアム事件で愛知県警から指名手配された元会社役員の男N[注 29]の共犯として、恐喝容疑で警視庁に逮捕され[298]、後に殺人の余罪を自供した[299][300]。 1977年3月31日、東京地裁刑事第20部(林修裁判長)はS・X・飯田の3被告人を死刑、共犯3人(甲・乙・丙)を無期懲役(求刑:同)、懲役18年(求刑:無期懲役)、懲役15年(求刑:同)とする判決を言い渡した[295]。ただし、Sは4件の殺人のうち砂利採取業者の妻殺害についてのみ、夫ともども殺害するよう指示したとは認められないとして無罪とされている[295]。丙以外の5被告人が控訴したところ、東京高裁刑事第2部(船田三雄裁判長)は1982年7月1日、Sの控訴を棄却する一方、残る4被告人はいずれも原判決を破棄し、Xと飯田はともに無期懲役、甲と乙はそれぞれ懲役20年、懲役16年とする判決を言い渡した[301]。同判決で船田は、自身の担当した連続射殺事件(被告人:永山則夫)の控訴審で示した死刑適用に関する「いかなる裁判官でも、死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限定されるべきだ」という理論を述べ、Sについては刑事責任は永山より重いと述べた一方、XはSに従属的な立場にあったことを酌量すべき事情として挙げ、また飯田も3人殺害に関与していることから「極刑もやむを得ない」としながら、精神鑑定結果から犯行時は心神耗弱状態にあったと認められると判断、無期懲役とした[301]。 Sと飯田は上告したが、Sは1989年10月13日に最高裁第三小法廷(貞家克己裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[293]、同年11月2日付で死刑が確定[193]。上告中の1986年10月、文通で知り合った女性と獄中結婚して「S」から「F」に改姓した[302]。なお飯田は同月25日までに、同小法廷から上告棄却の決定を受け、無期懲役が確定した[303]。 |
岩槻の3人殺害事件 (K) | 1989年12月1日[304] | 1985年3月8日[305] | 1954年(昭和29年)4月6日生まれ[306]。岩槻市愛宕町在住[307]。 1976年春に実弟(当時15歳)が自殺した原因は父親A(事件当時53歳)が酒に溺れて家出するなど、家庭を顧みなかったことが原因と思うようになり、1985年3月8日未明、Aと内縁の妻B(当時59歳)が同居していた埼玉県岩槻市本町五丁目の住宅に侵入、日本刀で2人を刺殺した[305]。またBの孫である女児C(同1歳)を2人の間に生まれた子供と誤解し[305]、首などを切りつけて殺害した[307]。犯行後に自宅で割腹自殺を図ったが、捜査員に発見され未遂に終わった[308]。 Kは殺人罪に問われ、第一審の公判で弁護人はBとCについてそれぞれ傷害致死および過失致死を主張して殺意を否定したほか、犯行時は心神耗弱状態にあったと訴えたが、1986年5月30日に浦和地裁(杉山忠雄裁判長)は被害者3人全員への殺意と完全責任能力を認定し、Kに死刑判決を言い渡した[307]。浦和地裁は事件の原因はAの生活態度にあると認定したが、事件を招くほどの責任はなく、Kの独善的な価値判断による犯行と指摘し、情状酌量の余地を認めなかった[307]。Kは同判決を不服として控訴したが、控訴から半年後の同年12月22日に東京高裁(萩原太郎裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[308]。同高裁はAを社会的に有害な存在と決めつけた上、無関係の2人を巻き添えにした冷酷で無残な犯行であると指摘した上で「殺人のための殺人」とも評した[308]。 Kは上告したが、1989年11月20日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[305]、同年12月1日付で死刑が確定[304]。 1997年8月1日に東京拘置所で死刑執行(43歳没)[309]。 |
伊勢崎2少女殺害放火事件 (T) | 1989年12月26日[304][243] | 1976年4月1日[247] | 1951年(昭和26年)6月29日生まれ[247]。群馬県伊勢崎市東上之宮町出身[310]。病死した時点では「U」姓に改姓していた[311]。事件前に強盗傷害など前科・前歴2犯[312]。 1976年4月1日、覚醒剤の購入資金を得るため、当時身を寄せていた女性宅の隣家である伊勢崎市三和町の会社員男性(当時48歳)宅に盗み目的で侵入、家人がいれば殺害して金を奪おうと計画した[310]。同日13時30分ごろ、柳刃包丁[310](刃渡り約30 cm[312])を隠し持って隣家に侵入し、男性の長女(当時13歳、伊勢崎市立殖蓮中学校2年生)と従姉妹の中学2年生の女子生徒(当時13歳、伊勢崎市立第三中学校2年生)の2人が包丁を見て悲鳴を上げたため、Tは2人の胸を包丁で刺して失血死させた[310]。その後、この家から指輪やネックレスなどを盗んだ上で[312]、犯行を隠すため、ストーブの灯油を2人の体や周囲に撒き散らして放火、この家と隣家を全焼させた[310]。 強盗殺人、現住建造物等放火などの罪に問われ、公判で弁護人は覚醒剤による幻覚で心神耗弱状態にあったと主張したが、1979年3月15日に前橋地裁(浅野達男裁判長)はTには事件当時、妄想症状は見られず、善悪の識別能力が多少欠けていたにすぎず、心神耗弱だったとまでは言えないと判断[310]。また自白の任意性も認定し、死刑判決を言い渡した[310]。Tは控訴したが、1983年11月17日に東京高裁刑事第4部(山本茂裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[313]。 1989年12月8日に最高裁第二小法廷(島谷六郎裁判長)で上告棄却の判決を受け[314]、同月26日付で死刑が確定[304]。 死刑確定後も「犯行時は覚醒剤の影響があり責任能力に問題があった」として再審請求していたが[315]、2013年7月に癌と診断され[311]、同年11月15日に肺癌のため、収監先の東京拘置所内で病死(62歳没)[311][316]。 |
脚注
注釈
- ^ Yは同年春に須賀川市立第二中学校を卒業し[19]、卒業後には隣接する鏡石町の農機具会社へ就職することが決まっていた[20]。
- ^ 殺害方法はうつ伏せに倒して背中に足をかけ、強く押さえつけながら手で首を絞めるというもので、死因は肝臓・膵臓の破裂である[22]。
- ^ 事件当時は主人夫婦が老人クラブの旅行で出かけていたため、長男一家が父の家で夕食を摂っていた[17]。長男は自身の長男(当時2歳)とともに、父親の家(民宿の離れ)で泊まった一方、民宿の住宅の寝室(建物2階)でAとBが寝ていた[25]。
- ^ 共犯の男は殺人・放火・詐欺のほか、Kと共謀して強盗殺人・死体遺棄にも関与したとされており[41]、起訴状ではこの男が犯行を計画してKを唆したとされていた[35]。しかし福島地裁白河支部は、それらの罪状については証拠不十分で無罪とした[35]。
- ^ a b c d e 札幌高裁・仙台高裁の管内(前者は北海道全域・後者は東北6県)で死刑が確定した死刑囚はそれぞれ札幌拘置支所・仙台拘置支所に収監されるが、死刑執行設備(刑場)はそれぞれ拘置支所に隣接する札幌刑務所・宮城刑務所に位置するため、死刑執行はそれぞれ刑務所で行われる[87]。
- ^ 約37万円との報道もある[48]。
- ^ a b 福田 (2007) では12月11日とされている[2]。
- ^ 1977年9月、玖珠郡九重町の宿泊先から49万円を盗んで逃げ、熊本・長崎両県下を放浪、盗みや賽銭泥棒を繰り返しながら一人暮らしの家を物色していた、とする報道もある[94]。
- ^ ただし福島によれば、弁護人が長崎地裁に「再審請求書を送付した」との電報を打った日付は同月13日で、翌日(14日)にはOが弁護人宛の礼状を送っている[97]。
- ^ 伊予郡松前町の連続殺人事件[100]とも呼称される。
- ^ a b 刑法第45条「確定裁判を経ていない二個以上の罪を併合罪とする。ある罪について禁錮以上の刑に処する確定裁判があったときは、その罪とその裁判が確定する前に犯した罪とに限り、併合罪とする。」
- ^ 約370平方メートル[112]。
- ^ 1994年初めから[121]。
- ^ 他に婚約した女性もあるなど、女性関係が派手だったこと[139]。犯行以前から結婚する意思もないのに女性と次々と肉体関係を結び、妊娠すると中絶させるなどしていた[137]。
- ^ 知人女性は事件から4か月後の同年8月29日に死亡した[137]。
- ^ a b 法務省はこの死刑執行(1998年11月19日)にあたり、初めて死刑執行の事実と人数を公表した[162]。
- ^ a b c 福岡拘置所はかつて、福岡刑務所の下部機関[199](福岡刑務所福岡拘置支所)だった[200]が、1996年5月11日に福岡拘置支所から昇格し、独立機関の福岡拘置所になった[199]。同時に、それまでの小倉拘置所は福岡拘置所の下部機関(小倉拘置支所)へ降格した[200]。
- ^ a b 『読売新聞』によればHNは10月11日付、HYは13日付で、それぞれ控訴取り下げを行った[246]。
- ^ 姉は当時12歳、弟は当時11歳[255]。
- ^ 夫婦ともに宿舎の保険金を狙った事実は認めたが、夫HYは「全員が逃げ出すと思った」として被害者全員への殺意を否認し、妻HNも「泥酔した従業員1人は焼死すると思った」と一部を曖昧に認めた以外は否認した[256]。
- ^ ただしHY・HN夫婦の公判で、鈴木裁判長は夫婦だけでなく配下組員についても「犠牲者に対する未必的殺意が認められる」と認定している[250]。
- ^ Iにとっておじである被害者は自身の母親(5姉妹の次女)の姉(長女)の元夫であり、被害者であるIのおじにとってIは自身の先妻の妹の次男に当たる[273]。おじは石油王・新津恒吉の甥(恒吉は3人兄弟姉妹の長男で、長女である妹と次男である弟がいた)で、恒吉の妹(長女)の次男である[273]。また同じく殺害されたおじの義母(おじの妻の母親)は岩崎家80代で、京城軌道社社長の次男との間に2女1男(長女・次女・長男)をもうけており、次女が同様に殺害されたおじの後妻だった[273]。Iは一時期、おじが所長を務めていた昭和石油川崎製油所で約10年間勤務していた[273]。
- ^ 1979年に発覚した愛知宝運輸・長崎グループによる保険金連続殺人事件の先例になったとされる[280]。
- ^ 名古屋地裁管内の第一審で言い渡された死刑判決は1965年(昭和40年)以降、同判決が8件目だった[280]。[280]。
- ^ 殺人1件と殺人未遂事件に゙関与した男が無期懲役、殺人1件に関与した男3人は無期懲役・懲役10年・懲役13年、殺人未遂1件に関与した男3人は懲役8年・懲役7年・懲役4年が確定、殺人予備1件のみに関与したとされた人物1人は不起訴処分となっている[280]。
- ^ 伝右川土手[288]。
- ^ XはSの従兄弟で、暴力団組員[293]。
- ^ 飯田は『死刑囚からあなたへ 国には殺されたくない』に実名で手記を寄稿している。
- ^ Nは多くの架空会社を設立して手形を乱立した末、その決済に困ったことから、1973年4月に中日スタジアムから割引を依頼された約束手形42通(約3億8000万円)を含む約束手形160通(15億86982000円)を詐取したり、1971年5月から1972年9月までの間、アメリカ合衆国に滞在していた共犯者に対し約9万ドルを不正送金したりしたとして、詐欺、外国為替法違反の罪に問われ、1976年3月12日に名古屋地裁刑事第3部(服部正明裁判長)で懲役4年(求刑:懲役7年)の実刑判決を言い渡されている[297]。
出典
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- ^ 『朝日新聞』1968年2月22日東京朝刊福島版(中通り・会津)16頁「いとこを絞殺 山林に捨てる 須賀川の中学3年生 伯母さんを襲う 知能囮衝動的犯行か 自転車盗み宇都宮へ」「すさんだ母親の生活」(朝日新聞東京本社・福島支局)
- ^ 「追跡レポート 発作的殺人犯が三度目に犯した民宿母子暴行殺人事件の教訓」『週刊サンケイ』第25巻第34号、産経新聞社出版部、1976年7月15日、24-26頁、NDLJP:1810503/13。 - 通巻:第1361号(1976年7月15日号)。
- ^ a b c d 『読売新聞』1968年2月21日東京朝刊第7版福島読売A版16頁「こんどは“狂った”中学生 いとこを殺し、おばを襲う 目に余る残虐性 計画的?逃走中、宇都宮で補導」「死体を“肥えだめ”で発見」「クラスに友なし母親も無関心 孤独が性格ゆがめる」(読売新聞東京本社・福島支局)
- ^ a b 『読売新聞』1976年6月16日東京朝刊第13版京葉読売20頁「銚子の母子殺し 海辺の民宿 戦りつの一日 やっぱり泊まり客だった 顔なじみのY 夏を目前、青ざめる住民」「決め手は指紋と足跡」(読売新聞東京本社・千葉支局)
- ^ 集刑217 1980, p. 186.
- ^ a b c 『読売新聞』1976年6月15日東京夕刊第4版第一社会面9頁「【銚子】銚子 民宿の母子殺される 乱暴、押し入れに」(読売新聞東京本社)
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- ^ a b 福島連続保険金殺人事件の死刑囚Kの共犯(無期懲役が確定)に対する上告審決定 - 最高裁判所第二小法廷決定 1980年(昭和55年)4月23日 集刑 第217号583頁、昭和52年(あ)第1348号、『殺人、現住建造物等放火、詐欺』「一 無期懲役刑につき、一、二審は未決を算入しなかつたが、上告審は算入した事例 二 分離決定をすることなく、被告人二名のうちの一名につき決定で上告を棄却した事例(他の一名については判決で上告棄却)」。
- 決定主文:本件上告を棄却する。
- 最高裁判所裁判官:栗本一夫(裁判長)・木下忠良・塚本重頼・鹽野宜慶
- 弁護人:白井正明
- ^ a b 『読売新聞』1974年3月30日東京朝刊第12版福島読売16頁「福島地裁死刑判決 “やはり”と傍聴席 ××の無期 検察、遺族不満」(読売新聞東京本社・福島支社)
- ^ a b 『朝日新聞』1980年4月25日東京夕刊第3版第二社会面14頁「福島の雑貨商殺し 上告棄却で死刑が確定」(朝日新聞東京本社) - 『朝日新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)4月号968頁。
- ^ 「事件番号:五五(み)二 事件名:強盗殺人、死体遺棄、殺人 申立人又は被告人氏名:K・S 裁判月日:五・一九 法廷:二 結果:棄却 原本綴丁数:一八三」『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和55年1月分』、最高裁判所事務総局、15頁。 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第217号(昭和55年1月-5月分:国立国会図書館書誌ID:000001530997)の付録。
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- ^ 「決定に対する異議申立 > 事件番号:五五(み)七七 事件名:殺人、現住建造物等放火、詐欺 申立人又は被告人氏名:A・K 裁判月日:五・一三 法廷:二 結果:棄却 原本綴丁数:二一三」『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和55年1月分』、最高裁判所事務総局、17頁。 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第217号(昭和55年1月-5月分:国立国会図書館書誌ID:000001530997)の付録。
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- ^ 『読売新聞』1973年10月1日東京夕刊第4版11頁「“あと5、6人殺した” パクリ屋「S」と殺し屋四人 山林(城山湖)から一遺体 茨城で夫婦も発掘へ 百万円で請け負う」「肥料小屋で絞殺 松の根元 ミイラ化の遺体」「巨体とハッタリ 暴力団バックに“逆らう者は消す”」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 『読売新聞』1982年7月1日第4版15頁「四人殺し 二被告、無期に減刑 再び死刑慎重論 船田裁判長」(読売新聞東京本社)
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- ^ a b c d 『埼玉新聞』1986年5月31日朝刊社会面15頁「岩槻の3人殺害事件 K被告に死刑判決 浦和地裁 計画的、極めて残忍 反省の態度見られぬ」「K被告 顔面そう白、目はうつろ」(埼玉新聞社) - 縮刷版439頁。
- ^ a b c 『埼玉新聞』1986年12月23日朝刊社会面15頁「岩槻市の3人殺害事件 K被告、二審も死刑 冷酷で無残な犯行」(埼玉新聞社) - 縮刷版329頁。
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参考文献
永山判決 永山判決
- 最高裁判所第二小法廷判決 1983年(昭和58年)7月8日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第37巻6号609頁、昭和56年(あ)第1505号、『窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』「一・死刑選択の許される基準 二・無期懲役を言い渡した控訴審判決が検察官の上告により量刑不当として破棄された事例」、“一・死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。二・先の犯行の発覚をおそれ、あるいは金品の強取するため、残虐、執拗あるいは冷酷な方法で、次々に四人を射殺し、遺族の被害感情も深刻である等の不利な情状(判文参照)のある本件においては、犯行時の年齢(一九歳余)、不遇な生育歴、犯行後の獄中結婚、被害の一部弁償等の有利な情状を考慮しても、第一審の死刑判決を破棄して被告人を無期懲役に処した原判決は、甚だしく刑の量定を誤つたものとして破棄を免れない。”。 - 永山則夫連続射殺事件(被告人:永山則夫)の上告審判決。後に「永山基準」と呼ばれる死刑適用基準が明示された。
死刑事件全般関連の文献(判例集など)
- 「死刑事件判決集(昭和52・53・54年度)」『刑事裁判資料』第227号、最高裁判所事務総局刑事局、1981年3月、NCID AN00336020。 - 朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、東北大学附属図書館に所蔵。
- 「死刑無期事件判決集[死刑事件(昭和60-62年度) / 無期事件(昭和58-62年度)]」『刑事裁判資料』第247号、最高裁判所事務総局刑事局、1989年3月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第247号は朝日大学図書館分室に所蔵。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第217号、最高裁判所、1980年、国立国会図書館書誌ID:000001530997。 - 昭和55年1月 - 5月分。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第220号、最高裁判所、1980年、国立国会図書館書誌ID:000001531000。 - 昭和55年10月 - 12月分。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第222号、最高裁判所、1981年、国立国会図書館書誌ID:000001595309。 - 昭和56年5月 - 7月分。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第249号、最高裁判所、1988年、国立国会図書館書誌ID:000001995318。 - 昭和63年4月 - 6月分。
- 「第一審判決の無期懲役の科刑を維持した控訴審判決が量刑不当として破棄された事例」『最高裁判所刑事判例集』第53巻第9号、最高裁判所、1999年12月、1280-1289頁、全国書誌番号:00009089、国立国会図書館書誌ID:000000009021。 - 福山市独居老婦人殺害事件の第一次上告審[1999年(平成11年)12月10日第二小法廷判決:平成9年(あ)第479号]で、検察官が提出した上告趣意書の別表。別表2「殺害された被害者が1名の死刑確定事件一覧表」[1280-1285頁(上告趣意書282-287頁)]には「永山判決」(1983年7月)以降、被害者1人で死刑が確定した事例が収録されている。また別表3「無期懲役の仮出獄期間中に殺人を含む犯罪を犯した事例一覧表(最高裁判所判例分)」[1286-1289頁(上告趣意書288-291頁)]には、無期懲役の仮釈放中に殺人および強盗殺人を犯し、「永山判決」から1992年までに判決(いずれも死刑)が確定した5人に関する情報が収録されている。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第287号、最高裁判所、2005年、575頁。 - 平成17年1月 - 8月分。
- 三重連続射殺事件の共犯者(死刑を求刑されたが、一・二審で無期懲役判決)に対する検察官の上告趣意書別表3「被害者二名の強盗殺人事件で、永山判決以後最高裁判所において死刑選択の当否が判断された事例一覧表」が収録されている。同事件は2005年(平成17年)7月15日付で、最高裁第二小法廷(津野修裁判長)が上告棄却の決定[平成12年(あ)第690号]を出した。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第289号、最高裁判所、2006年。 - 平成18年1月 - 8月分。光市母子殺害事件の第一次上告審判決[2006年6月20日第三小法廷判決:平成14年(あ)第730号]における検察官の上告趣意書。49 - 68頁に「(別表1)永山判決以後死刑の科刑を是認した最高裁判所の判例一覧表」[収録対象:2002年6月11日(多摩市パチンコ店強盗殺人事件の上告審判決)以前に上告棄却判決を宣告された死刑囚]が、69 - 84頁に「(別表2)永山判決以前に犯時少年であった者に死刑の科刑が是認された判例一覧表」が、85 - 86頁に「(別表3)死刑の求刑に対し、永山判決後無期懲役とした控訴審判決について検察官が上告した事例一覧表」が掲載されている。
- 福田康夫 (2007年11月2日). “第168回国会(臨時会) 答弁書 答弁書第三一号 内閣参質一六八第三一号” (PDF). 参議院議員松野信夫君提出鳩山邦夫法務大臣の死刑執行に関してなされた発言等に関する質問に対する答弁書. 参議院. 2022年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。 - 第168回国会における内閣総理大臣・福田康夫の答弁書(HTM版)。死刑執行に関する鳩山邦夫法務大臣の発言などに関して、松野信夫議員が行った質問に対する答弁書である。この答弁書には、1977年(昭和52年)1月1日から2007年(平成19年)9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第307号、最高裁判所、2012年。 - 平成24年1月 - 4月分。長崎市長射殺事件の上告審決定[2012年1月16日第三小法廷決定:平成21年(あ)第1877号]における検察官の上告趣意書。48 - 55頁に「(別表)被害者1名に対して死刑判決が確定した事案」[収録対象:裕士ちゃん誘拐殺人事件の死刑囚S(死刑確定:1987年1月19日)から、闇サイト殺人事件の死刑囚KT(死刑確定:2009年4月13日)]が掲載されている。
死刑事件全般関連の文献(書籍・雑誌)
- 佐久間哲「後世に名を残したい-絞首最高齢- 古谷惣吉(1985年5月31日死刑執行)」『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(第1刷発行)自由国民社、2005年12月5日、173-182頁。ISBN 978-4426752156。
- 村野薫『死刑はこうして執行される』 む-27-1(第1刷発行)、講談社〈講談社文庫〉、2006年1月15日、120-124頁。ISBN 978-4062753043。 NCID BA75304430。国立国会図書館書誌ID:000008051816。
インパクト出版会の書籍(『年報・死刑廃止』シリーズなど)
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・江頭純二・菊池さよ子・菊田幸一・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:フォーラム90実行委員会・国分葉子) 編『無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004』(第1刷発行)インパクト出版会、2004年9月20日。ISBN 978-4755401442 。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・死刑廃止のための大道寺幸子基金・深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) 編『コロナ禍のなかの死刑 年報・死刑廃止2020』(第1刷発行)インパクト出版会、2020年10月10日。ISBN 978-4755403064 。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90、死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金、深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) 編『加藤智大さんの死刑執行 年報・死刑廃止2022』(第1刷発行)インパクト出版会、2022年10月10日。ISBN 978-4755403248。 NCID BC17102998。国立国会図書館書誌ID:032411605・全国書誌番号:23787981 。