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|背番号 = 77 |
|背番号 = 77 |
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|選手写真ファイル名 = Kenjiro Nomura in 2010.05.05.JPG |
|選手写真ファイル名 = Kenjiro Nomura in 2010.05.05.JPG |
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|写真のコメント = 2010年5月5日 |
|写真のコメント = 2010年5月5日 横浜スタジアム |
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|国籍 = {{JPN}} |
|国籍 = {{JPN}} |
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|出身地 = [[大分県]][[佐伯市]] |
|出身地 = [[大分県]][[佐伯市]] |
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1988}} |
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1988}} |
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|ドラフト順位 = ドラフト1位 |
|ドラフト順位 = ドラフト1位 |
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|初出場 = 1989年4月 |
|初出場 = 1989年4月9日 |
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|最終出場 = 2005年10月12日 |
|最終出場 = 2005年10月12日 |
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|経歴 = <nowiki></nowiki> |
|経歴 = <nowiki></nowiki> |
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{{MedalSilver|[[ソウルオリンピック|1988]]|野球}} |
{{MedalSilver|[[ソウルオリンピック|1988]]|野球}} |
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'''野村 謙二郎'''(のむら けんじろう、[[1966年]][[9月19日]] - )は、[[大分県]][[佐伯市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[プロ野球監督]]。{{by|2010年}}から[[広島東洋カープ]]監督である。 |
'''野村 謙二郎'''(のむら けんじろう、[[1966年]][[9月19日]] - )は、[[大分県]][[佐伯市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[プロ野球監督]]。{{by|2010年}}から[[広島東洋カープ]]監督である。[[愛称]]は「'''ノムケン'''」。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== アマチュア時代 === |
=== アマチュア時代 === |
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[[1966年]]、精肉店を営む家庭に生まれた。父はかつて[[大分県立佐伯鶴城高等学校|佐伯鶴城高校]]で[[阿南準郎]]の1学年上で野球をし、母もかつて[[陸上競技]]をしていた元アスリートの両親と、姉・弟が一人ずついる五人家族だった。[[小学校]]1年生の時に鶴城スポーツ少年団に入団して父から[[グラブ]]を買ってもらい、俊足に注目されて[[遊撃手]]として野球を始めている<ref name="base_20040426_34">週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.34</ref>。 |
[[1966年]]、[[佐伯市]]で精肉店を営む家庭に生まれた。父はかつて[[大分県立佐伯鶴城高等学校|佐伯鶴城高校]]で[[阿南準郎]]の1学年上で野球をし、母もかつて[[陸上競技]]をしていた元アスリートの両親と、姉・弟が一人ずついる五人家族だった。[[小学校]]1年生の時に鶴城スポーツ少年団に入団して父から[[グラブ]]を買ってもらい、俊足に注目されて[[遊撃手]]として野球を始めている<ref name="base_20040426_34">週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.34</ref>。また、[[おじ]]の[[八木孝]]がかつて[[広島東洋カープ]]に在籍していた元プロ野球選手であった事から、小学生の頃から毎年カープの[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]を見学していた<ref>読売新聞、1988年11月25日付朝刊、P.19</ref>。 |
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両親からは市や県の一番では満足するなと言われて高い目標を持って練習し<ref name="base_20040426_34"/>、少年団や[[佐伯市立鶴谷中学校|鶴谷中学校]]では最高学年で主将を務めた。父と同じ[[大分県立佐伯鶴城高等学校|佐伯鶴城高校]]に進むと1年時に右打ちから左打ちに転向し<ref name="base_20040426_35">週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.35</ref>、同級生の[[若林重喜]]と三遊間のコンビを組んで3年時には主将を務めた。[[第66回全国高等学校野球選手権大会|3年夏の選手権]]では[[全国高等学校野球選手権大分大会|大分県大会]]の準決勝で敗れ<ref>朝日新聞、1984年7月25日付朝刊、P.19</ref>、高校時代は全国大会には出場できなかった。 |
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⚫ | [[駒澤大学硬式野球部|駒澤大学]]に進学すると[[太田誠]]監督に見込まれ、鉄拳を振るわれる事も珍しくない厳しい指導の一方で1年時から[[東都大学野球連盟|東都大学野球]]リーグ戦に起用されている<ref name="base_20040426_35"/>。2年生の春からは遊撃手のレギュラーとなり、 |
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⚫ | [[駒澤大学硬式野球部|駒澤大学]]に進学すると[[太田誠]]監督に見込まれ、鉄拳を振るわれる事も珍しくない厳しい指導の一方で1年時から[[東都大学野球連盟|東都大学野球]]リーグ戦に起用されている<ref name="base_20040426_35"/>。2年生で迎えた{{by|1986年}}の春季リーグ戦からは遊撃手のレギュラーとなり、同年の秋季リーグで初めて[[ベストナイン]]に選出された<ref>読売新聞、1986年11月5日付朝刊、P.17</ref>。3年時の春季リーグ戦では[[大石大二郎]]の17[[盗塁]]を破ってシーズン新記録となる18盗塁を記録し、2季連続でベストナインに選ばれている<ref>読売新聞、1987年5月30日付朝刊、P.14</ref>。また6月の[[日米大学野球選手権大会|日米大学野球]]と8月の[[第14回アジア野球選手権大会|アジア選手権]]で日本代表入りを果たし、同年頃からプロ入りを意識するようになったという<ref name="base_20040426_35"/>。秋季リーグ戦では[[二塁手]]としてベストナインに選ばれた<ref>読売新聞、1987年10月30日付朝刊、P.16</ref>。 |
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⚫ | 東都での通算成績は、89試合出場、325打数103安打、[[打率]].317、10[[本塁打]]、48打点、[[ベストナイン]]4回、 |
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4年生になると駒大の主将に就き、春のリーグ戦では22年振りにリーグの通算記録を更新する52個目の盗塁を決めるなど、完全優勝の原動力となり満票で最高殊勲選手とベストナインに選出されている<ref name="yomiuri_19880528">読売新聞、1988年5月28日付朝刊、P.18</ref>。同年も日米大学野球で代表入りし、さらに9月の[[ソウルオリンピック野球日本代表]]にも[[大森剛]]、[[笘篠賢治]]とともに3人だけの大学生選手として選ばれた<ref name="takarajima_67">別冊宝島、1545号、2008年、P.67</ref>。同五輪では[[西正文]]が[[遊撃手]]のレギュラーだったため代打として起用され、決勝を含む3試合で9打数2安打の成績を残している<ref name="takarajima_70">別冊宝島、1545号、2008年、P.70</ref>。決勝の対[[野球アメリカ合衆国代表|アメリカ]]戦では途中出場で1安打を放つも、一打逆転の場面で[[ジム・アボット]]に抑えこまれた<ref name="takarajima_70"/>。 |
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⚫ | 1年目の{{by|1989年}}シーズンは[[開幕戦]]から[[代走]]として出場し、[[5月4日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]では遊撃手として初の先発出場を果たした。[[高橋慶彦]]が遊撃手のレギュラーだったため[[左翼手]]などの守備につく機会が多かったが、出場88試合ながら21[[盗塁]]をマークしている。同年オフに高橋が[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]にトレードされると、翌{{by|1990年}}には遊撃手のレギュラーとなった。[[オープン戦]]では失策が多く<ref name="base_19900528_36">週刊ベースボール、1990年5月28日号、P.36</ref>、公称70kg(当時)より細い外見から来るパワー面の不安<ref name="base_19891218_36">週刊ベースボール、1989年12月18日号、P.138</ref>なども懸念されていたが、シーズンに入ると攻守に活躍して33盗塁 |
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⚫ | 東都での通算成績は、89試合出場、325打数103安打、[[打率]].317、10[[本塁打]]、48打点、[[ベストナイン]]4回、52[[盗塁]]。なお[[全日本大学野球選手権大会]]には2度出場し、3年時には[[九州東海大学|九州東海大]]の[[松永幸男]]らと対戦している。大学No.1野手の評価を得て<ref name="base_20010507_41">週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.41</ref>[[石毛宏典|石毛]]2世とも呼ばれ<ref name="yomiuri_19881118">読売新聞、1988年11月18日付朝刊、P.19</ref>、[[1988年度新人選手選択会議_(日本プロ野球)|1988年のドラフト会議]]では重複指名が予想されていた<ref name="yomiuri_19881118"/>が結果として広島に単独で1位指名された。なおカープは[[川崎憲次郎]]も1位候補として検討していたものの、スカウトの強い推薦もあって野村を指名している<ref name="base_20010507_41"/>。担当スカウトは[[渡辺秀武]]で、契約金6,000万円、年俸600万円で入団契約を結んだ<ref name="yomiuri_19881202">読売新聞、1988年12月2日付朝刊、P.19</ref>。 |
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⚫ | 3年目の{{by|1991年}}には全試合出場を果たし、31盗塁で2年連続となる盗塁王を獲得。打棒も冴えて170安打で[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]、リーグ4位の打率.324を記録した。また、自身初となる[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に選出されるなど、チームのリーグ優勝の大きな原動力となった。[[1991年の日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武 |
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翌{{by|1995年}}は4月に長男が誕生し、[[9月22日]]に当時歴代5位のスピード記録となる857試合目で1000本安打を達成し、最終的に史上6人目となる[[トリプルスリー]](打率:.315、本塁打:32、盗塁:30)を記録した。また守備面の評価も高く、[[ゴールデングラブ賞]]を受賞した。同年オフにはカープ史上最高(当時)となる1億7000万円で契約を更改し、5年後に[[金本知憲]]が抜くまで野村をチーム最高年俸とする不文律が生まれた<ref name="base_20010507_43">週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.43</ref>。{{by|1997年}}オフには[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]の権利を獲得し、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]からオファーがあったという。駒沢大の大田監督の「カープと日本球界のために生きるのも人生」という助言もあり<ref name="base_20040426_37">週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.37</ref>カープ残留を決め、日本人では13人目の2億円プレーヤーとなった。 |
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⚫ | 1年目の{{by|1989年}}シーズンは[[開幕戦]]から[[代走]]として出場し、[[5月4日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦では遊撃手として初の先発出場を果たした。[[高橋慶彦]]が遊撃手のレギュラーだったため[[左翼手]]などの守備につく機会が多かったが、出場88試合ながら21[[盗塁]]をマークしている。同年オフに高橋が[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]にトレードされると、翌{{by|1990年}}には遊撃手のレギュラーとなった。[[オープン戦]]では失策が多く<ref name="base_19900528_36">週刊ベースボール、1990年5月28日号、P.36</ref>、公称70kg(当時)より細い外見から来るパワー面の不安<ref name="base_19891218_36">週刊ベースボール、1989年12月18日号、P.138</ref>なども懸念されていたが、シーズンに入ると攻守に活躍して[[1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]に初めて選ばれ、第2戦では2番・遊撃手として先発出場した<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/allstargame/boxscore1990_2.html 1990年NPBオールスターゲーム 公式記録]</ref>。シーズン通算で33盗塁を記録し、自身初のタイトルとなる[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]を獲得した。 |
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⚫ | 3年目の{{by|1991年}}には全試合出場を果たし、31盗塁で2年連続となる盗塁王を獲得。打棒も冴えて170安打で[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]、リーグ4位の打率.324を記録した。また、自身初となる[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に選出されるなど、チームのリーグ優勝の大きな原動力となっている。特に[[9月10日]]の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦では同点タイムリーを放って守備でもファインプレーを見せ、勝利したチームは首位に立ってそのまま優勝へと進んだ。この試合は終了後の幸福感も含めて現役時代で最も印象に残っているという<ref>週刊ベースボール、2006年1月2日号、P.102 </ref>。[[1991年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武]]に敗れたものの、チームトップの打率.333を残してシリーズ優秀選手に選ばれている<ref name="base_20010507_42"/>。オフには年俸が3,050万円増の5,300万円(推定)となるなど球団から高い評価を受け<ref>読売新聞、1991年12月6日付朝刊、P.19</ref>、[[12月7日]]には2年間交際していた女性と結婚式を挙げている<ref>朝日新聞、1991年12月11日付夕刊、P.2</ref>。 |
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{{by|1992年}}には[[日米野球]]の日本代表に選ばれ<ref>読売新聞、1992年9月22付朝刊、P.20</ref>、翌{{by|1993年}}も14試合連続安打を記録して4月に月間MVPに初めて選ばれ<ref>読売新聞、1993年5月8日付朝刊、P.19</ref>、[[1993年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]では第2戦で優秀選手賞を受賞する<ref>読売新聞、19937月22日付朝刊、P.21</ref>などの活躍の一方で、シーズン通算では打率が.266と低迷した。 |
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欠場中に遊撃手は[[東出輝裕]]、三塁手は[[新井貴浩]]がそれぞれレギュラーの座につき、{{by|2001年}}は[[二塁手]]のポジションを[[木村拓也]]と争うことになった。キャンプ中の[[2月8日]]に守備練習で左太ももを痛めてオープン戦は2試合のみの出場にとどまり、開幕戦は初めて不出場となった。同じ二塁手の[[エディ・ディアス]]が打撃好調だったこともあり、後半戦以降は再び三塁手のレギュラーの座をつかんだ。{{by|2003年}}には開幕直後のケガで長期離脱し、オフには[[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]の上限を超える33%(5000万円)減の1億円で契約を更改した<ref name="base_20040426_34"/>。{{by|2004年}}は1月に[[黒田博樹]]とともにアリゾナで自主トレを行ない、ケガ防止のための[[インナーマッスル]]強化などに取り組んだ。[[一塁手]]にコンバートされた{{by|2005年}}[[6月23日]]、[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]でのヤクルトスワローズ戦にて通算2000本安打を達成した。これは[[日本プロ野球]]史上33人目、大卒・社会人出身の選手としては史上15人目(大卒では5人目)となる記録だった。以後は[[代打]]としての出場が多くなり、同年限りで[[現役引退]]した。 |
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=== プロ野球選手時代・中期 === |
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チームリーダーとして期待され[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]宣言をして臨んだ<ref>朝日新聞、1994年4月17日付朝刊、P.25</ref>{{by|1994年}}は、シーズン当初は二番だった打順も6月には一番に戻り、2度目の最多安打(タイトル制定はこの年から)と3度目の盗塁王を獲得した。年俸は同僚の[[前田智徳]]には及ばなかったものの4,500万円の大幅増の1億800万円となり、初めて1億円の大台を突破した<ref>朝日新聞、1994年12月20日付朝刊、広島地方面</ref><ref name="base_20010507_42">週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.42</ref>。オフには秋季キャンプへの参加を免除されて奥歯の[[う蝕|虫歯]]を集中的に治療し、かみ合わせが改善してインパクト時に力を集中できるようになった<ref name="yomiuri_19950925">読売新聞、1995年9月25日付夕刊、P.3</ref>。また、内角球への対応を改善するためにグリップ位置を上げて強く振り切るなど打撃フォームを改造している<ref name="yomiuri_19950925"/>。 |
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翌{{by|1995年}}は[[4月18日]]に長男が誕生してヘルメットに名前を書き込むなどこれを励みとし<ref name="yomiuri_19950718">読売新聞、1995年7月18日付朝刊、P.21</ref>、5月には自身2度目となる月間MVPを受賞した<ref>読売新聞、1995年6月7日付朝刊、P.15</ref>。[[9月22日]]には当時歴代5位のスピード記録となる857試合目で1000本安打を達成している。シーズン後半は腰や背中に痛みを抱えて[[スライディング|ヘッドスライディング]]で帰塁ができず、リードが取りにくくなり盗塁が減った<ref>朝日新聞、1995年10月7日付朝刊、P.28</ref>が、[[10月6日]]の対ヤクルト戦で30盗塁に到達。最終的に史上6人目となる[[トリプルスリー]](打率:.315、本塁打:32、盗塁:30)を記録した。また守備面の評価も高く、初の[[ゴールデングラブ賞]]を受賞した。同年オフにはカープ史上最高(当時)となる1億7000万円で契約を更改し、5年後に[[金本知憲]]が抜くまで野村をチーム最高年俸とする不文律が生まれた<ref name="base_20010507_43">週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.43</ref>。同年の契約更改では、チームリーダーとしての働きや[[高津臣吾]]や[[西山一宇]]など他球団の[[リリーフ|リリーフエース]]から[[サヨナラゲーム|サヨナラ本塁打]]を放った事から、球団からはチーム一番の貢献度だったと評価されている<ref>読売新聞、1996年2月6日付朝刊、P.19</ref>。 |
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{{by|1996年}}は前年に盗塁王を獲得した[[緒方孝市]]の存在もあり、4月中旬からは主に三番打者を務めた。[[7月6日]]の対ヤクルト戦で8回に二盗を試みた際に左足首を負傷し、担架で運ばれて退場し翌日から3試合を欠場している<ref name="asahi_19961012">朝日新聞、1996年10月12日付夕刊、P.3</ref>。歩行にも支障を来すほどで[[骨折|剥離骨折]]が疑われたが、球団からは[[捻挫]]と発表されて痛み止めを飲みながら出場を続けた<ref name="asahi_19961012"/><ref name="asahi_19960927">朝日新聞、1996年09月27日付朝刊、広島地方面</ref>。[[三村敏之]]監督は休養させる事を考えたが、控えに有力な遊撃手がいない事もあって本人が出場を直訴したという<ref name="asahi_19961012"/>。しかし左足首をかばう事で負担がかかって両足の太ももやふくらはぎにも痛みが広がり、9月に入ると全力疾走もできないほど状態が悪化した<ref name="asahi_19960927"/>。チーム成績も負傷前の45勝24敗からその後は26勝35敗と急激に悪化し、この負傷が[[読売巨人軍|巨人]]に[[メークドラマ]]を許す一因になったも言われている<ref name="asahi_19961012"/>。負傷のため個人成績は芳しくなかったが、オフにはチームを引っ張る働きを評価されて2,000万円増の年俸1億9,000万円で契約を更改し、選手会長に就任した<ref>朝日新聞、1996年12月20日付朝刊、P.23</ref>。 |
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{{by|1997年}}オフには[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]の権利を獲得し、巨人の[[長嶋茂雄]]監督が[[川相昌弘]]の後継者として獲得を強く望んだとされる<ref>週刊ベースボール、1997年3月24日号、P.41</ref>。また[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]と[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]からオファーがあった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09june/KFullNormal20090601194.html スポニチ 日めくりプロ野球09年6月]</ref>が、駒沢大の大田監督の「カープと日本球界のために生きるのも人生」という助言もあり<ref name="base_20040426_37">週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.37</ref>カープ残留を決め、日本人では13人目の2億円プレーヤーとなった。 |
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{{by|1998年}}はチームでただ一人全試合出場を果たし、年俸は現状維持となっている<ref>朝日新聞、1998年12月11日付朝刊、P.25</ref> |
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{{by|1999年}}[[5月19日]]には、当時歴代4位のスピード記録となる1289試合目で1500本安打を達成した。また9月には[[シドニーオリンピック野球日本代表]]に選ばれ、アジア予選に出場した。しかしこの年は[[股関節|右股関節]]を痛めたことが原因で夏場からは欠場や[[一塁手]]としてのスタメン出場が多くなった。これ以降、野村は度重なる怪我に悩まされることとなる。 |
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⚫ | [[江藤智]]が移籍した翌{{by|2000年}}の春季キャンプからは[[三塁手]]に取り組んだが、[[4月8日]]の[[阪神タイガース]]戦では内野ゴロを打って一塁まで走った際に左足ヒザ裏の[[肉離れ]]を起こし、全治3週間と診断された<ref name="base_20010507_40">週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.40</ref>。[[5月3日]]には一軍復帰したものの症状が酷く、[[7月24日]]の精密検査で左足の筋力が右足の41%まで落ちていることがわかり、自身初の出場登録抹消を受けて後半戦は欠場した<ref name="base_20010507_40"/>。8月には同じく故障した前田智徳や緒方孝市とともに[[ピッツバーグ]]に移ってリハビリに専念し、同年はプロ入り後最低の打率.240、2本塁打、1盗塁に終わっている。 |
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欠場中に遊撃手は[[東出輝裕]]、三塁手は[[新井貴浩]]がそれぞれレギュラーの座につき、{{by|2001年}}は[[二塁手]]のポジションを[[木村拓也]]と争うことになった。キャンプ中の[[2月8日]]に守備練習で左太ももを痛めてオープン戦は2試合のみの出場にとどまり、開幕戦は初めて不出場となった。同じ二塁手の[[エディ・ディアス]]が打撃好調だった一方、緒方の故障などで新井が外野に回り、後半戦以降は再び三塁手のレギュラーの座をつかんでいる。翌{{by|2002年}}は4月末に右太ももを痛めて約1ヶ月間の二軍生活が続き、後半戦は代打や守備固めで主に起用されて出場試合数が100試合を切るとともに打率も.211と低迷した<ref>読売新聞、2002年10月4日付夕刊、P.2</ref>が、遊撃手のライバルである東出にも守備面などで積極的にアドバイスを送っていた<ref name="yomiuri_20020923">読売新聞、2002年9月23日付朝刊、P.24</ref>。 |
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{{by|2003年}}は開幕直後の[[3月29日]]の対ヤクルト戦において守備で打球を処理した際に左[[内腹斜筋]]に全治3週間の挫傷を負い、[[4月2日]]に出場選手登録を外れた<ref>中日新聞、2003年4月2日付朝刊、P.25</ref>。さらにシーズン終盤の右太もも痛もあって戦線離脱は長期にわたり、オフには[[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]の上限を超える33%(5000万円)減の1億円で契約を更改した<ref name="base_20040426_34"/>。なお、同年7月に[[山本浩二]]監督の続投が決まった際には、オーナーの[[松田元]]が次期監督候補が野村であることを明言している。 |
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{{by|2004年}}は1月に[[黒田博樹]]とともにアリゾナで自主トレを行ない、ケガ防止のための[[インナーマッスル]]強化や股関節の柔軟性向上などに取り組んだ<ref>毎日新聞、2004年2月27日付朝刊、P.5</ref>が、[[6月19日]]の対ヤクルト戦で三塁ゴロを処理した際に右ひざを痛めて登録抹消を受けるなど、同年も故障との戦いが続いた。オフには現状維持で契約を更改している<ref>産経新聞、2004年12月11日付朝刊、P.25</ref>。 |
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2000本安打まで残り55本で迎えた{{by|2005年}}は守備の負担軽減のため[[一塁手]]にコンバートされ、年初から記録達成に向けて周囲の期待が高まっていた。5月には故郷の佐伯市内6ヶ所<ref>読売新聞、2005年5月12日付朝刊、大分地方面</ref>、や[[そごう広島店]]にカウントダウンボードが設置され<ref name="yomiuri_20050621">読売新聞、2005年6月21日付朝刊、広島地方面</ref>、6月に入ると[[広島ガス]]のインフォメーションプラザで入団からの軌跡を辿る写真展が開催された<ref name="yomiuri_20050621"/>。残り4本で迎えた[[6月21日]]からの地元6連戦では、佐伯市の大手前公園で250インチの野外スクリーンにより[[パブリックビューイング]]が行なわれている<ref>毎日新聞、2005年6月21日付朝刊、大分地方面</ref>。[[6月23日]]、[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]での対ヤクルト戦にて4回の第2打席でレフト前ヒットを放ち、通算2000本安打を達成した。これは[[日本プロ野球|NPB]]史上33人目、大卒・社会人出身の選手としては史上15人目(大卒では5人目)となる記録で、同年4月に同じく達成した[[古田敦也]]からその場で花束が贈呈されている<ref>朝日新聞、2005年06月24日付朝刊、P.19</ref>。これを記念して[[広島県]]から県民栄誉賞が贈られた<ref>読売新聞、2005年7月10日付朝刊、P.32</ref>ほか、[[広島電鉄]]が記念の[[広島地区共通カード|パセオカード]]を発行している<ref>朝日新聞、2005年7月22日付朝刊、広島地方面</ref>。 |
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以後は[[代打]]としての出場が多くなり、[[9月16日]]に同年限りでの[[現役引退]]を発表。シーズン最終戦である[[10月12日]]の対[[横浜ベイスターズ|横浜]]が引退試合となり、満員の観客に背番号の「7」が入ったポスターが配布され、一番・遊撃手として先発出場した<ref>朝日新聞、2005年10月13日付朝刊、P.30</ref>。なお、球団からはこの背番号を[[永久欠番]]とすることを打診されたが本人が断り、ふさわしい選手が現れるまでの永久預かりという形になっている<ref name="chunichi_20050917">中日新聞、2005年9月17日付朝刊、P.23</ref>。また、球団幹部は{{by|2009年}}の[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|新球場]]オープンに合わせて監督として招聘する方針をこの時点で打ち出していた<ref name="chunichi_20050917"/>。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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引退後は{{by|2006年}}から{{by|2009年}}まで[[広島テレビ放送|広島テレビ]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[スポーツニッポン]]の[[野球解説者]]を務め、{{by|2007年}}の春季キャンプでは |
引退後は{{by|2006年}}から{{by|2009年}}まで[[広島テレビ放送|広島テレビ]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[スポーツニッポン]]の[[野球解説者]]を務める一方、{{by|2007年}}の春季キャンプではカープの臨時コーチとして守備・走塁を指導した<ref>毎日新聞、2007年2月15日付朝刊、P.23</ref>。{{by|2008年}}には、[[トレイ・ヒルマン]]の率いる[[カンザスシティ・ロイヤルズ|ロイヤルズ]]の春季キャンプに臨時コーチとして[[白井一幸]]とともに招待されている<ref>読売新聞、2008年5月3日付朝刊、P.20</ref>。同年の[[北京オリンピックにおける野球競技]]では解説者として[[ジャパンコンソーシアム]]の中継に参加し、10月には[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]の日本代表監督選定会議に若い世代の代表として出席した。初回の会議の後には、現役監督・コーチ以外からの選出になるのでは、との見通しを語っていた<ref>朝日新聞、2008年10月16日付朝刊、P.18</ref>が、次回会議の結果を受けて巨人監督の[[原辰徳]]が代表監督に選ばれている<ref>朝日新聞、2008年10月28日付朝刊、P.34</ref>。 |
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==== 監督就任 ==== |
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{{by|2010年}}には広島の監督に就任し、若手を積極的に起用する姿勢を打ち出している。同年は春先から主力の離脱が相次ぎ、5月終了時の借金二桁(43年ぶり)、10打席連続被安打(日本新)、4戦連続完封負け(セ・リーグタイ 51年ぶり)、40イニング無得点(球団新)、7月終了時の借金20(54年ぶり)、シーズン被満塁ホームラン12本(新記録)を記録するなどチームの成績は低迷している。なお、一方で8月にはオーナーの[[松田元]]が続投を宣言している。9月12日の巨人戦に敗れ広島の13年連続Bクラスが決定した。野村がロイヤルズ時代のメジャーキャンプで惚れ込み、獲得に至った[[ジャスティン・ヒューバー]]は全く結果が残せなかった。 |
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{{by|2010年}}より「チーム再建の切り札」として12年連続Bクラスに低迷する広島の監督に就任した。年俸は7,000万円(推定)。監督・コーチ歴は皆無であったが、NPBの監督としては格安とされた<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/12937?page=2 Number Web スポーツ・インテリジェンス原論より]</ref>前任の[[マーティ・ブラウン]]の年俸(40万ドル)<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cw200810260100.html ブラウン監督契約合意 年俸、出来高を倍増 中国新聞 2008年10月26日記事]</ref>を大きく上回った。就任会見では「優勝を目指す!選手にもそういう気持ちで、Aクラスを目指すというのはやめてもらいます」<ref>[http://www.carp.co.jp/news09/s-045.html 野村謙二郎 新監督 就任記者会見]-広島東洋カープ公式サイトより</ref>「優勝したら『普通のことをやったまでです』と言うつもりです」<ref>[http://l-co.co.jp/times/modules/log/index.php?content_id=689 『野村監督「優勝を目指す」原田病院の講演会で熱く』]-週刊西広島タイムス 2010年1月8日記事より</ref>、等と宣言した。 |
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ヘッド兼投手コーチに[[大野豊 (野球)|大野豊]]を招いたが投手陣に怪我人が相次ぎチーム防御率が大幅に悪化した。監督1年目は5位で球団3年ぶりの80敗を喫した。 |
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=====2010年===== |
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前年まで不振だった大学後輩の[[梵英心]]、高校後輩の[[廣瀬純]]、オープン戦で活躍した[[天谷宗一郎]]、自身が獲得を推薦した[[ジャスティン・ヒューバー]]を開幕からスタメンに固定し、梵と廣瀬はキャリアハイの成績を残した。一方で天谷は打撃不振に陥るが、頑なに[[中堅手]]として起用し続けたため、シーズン途中に故障から復帰した同ポジションの[[赤松真人]]は、出塁率を除く全ての成績で天谷を上回ったものの、出場機会は下回った<ref>[http://bis.npb.or.jp/players/51155110.html 赤松真人 個人成績] </ref><ref>[http://bis.npb.or.jp/players/01105115.html 天谷宗一郎 個人成績] </ref>。さらに全く結果を残せなかったヒューバーを、シーズン終盤まで見切ることが出来ずに起用し続けた事には批判を受けた<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/2010/Cs201009220211.html 中国新聞 2010年9月22日記事]</ref>。 |
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[[スターティングメンバー]]のパターンは95通りにも上り、シーズンを通じて最適な打線を固定できなかった。さらに[[栗原健太]]の故障もあって長打力に欠けた反面、チーム犠打数は球団史上最多の140個、チーム盗塁数も過去15年間で最多の119個と機動力が改善し、1試合平均得点は5年ぶりに3点台を脱却して4.1点になった。守備面でも前年リーグ最下位の100個だったチーム失策数が同3位の82に改善した<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cw201010140132.html 【検証】野村カープ元年<下>野手陣の光と影 中国新聞 2010年10月15日記事]</ref>。 |
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投手陣では[[コルビー・ルイス]]の退団が前年12月に急遽決まったが、さらにキャンプからシーズン序盤にかけて[[大竹寛]]や[[横山竜士]]、[[マイク・シュルツ]]、[[永川勝浩]]といった主力の故障が相次いだ。特に大竹については、故障後は慎重な調整を行っていたにも関わらず、復帰を急がせて再故障させるなど選手の体調管理面で多くの課題を残している<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cw201010140132.html 【検証】野村カープ元年<中>長期離脱 中国新聞 2010年10月14日記事] </ref>。 |
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自己流の調整を貫いた[[前田健太]]<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=3346]-『前田健太に真のプロ根性を見た』二宮清純・スポーツコミュニケーションズ 2010年9月28日記事</ref>が球団史上初の投手成績で三冠を達成したものの、飛躍を期待された[[齊藤悠葵]]、実績のある[[梅津智弘]]、ら多くの投手が不振に陥った。また中継ぎ投手の起用法にも疑問が投げかけられた<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs201007060377.html 状態重視し柔軟起用を 中国新聞 2010年7月6日記事] </ref>。 |
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チーム防御率は前年の3.59から5年ぶりに4点台後半(4.80)へ、さらに前田健を除くチーム防御率は5.33となり、過去最大の悪化幅(1.21)を記録した。同様に失点が162増の737、四死球は137増えて524個、被本塁打も54多い171本と、いずれも最大幅の増加を記録し、「球団史上最悪の『投手後退』」と評された<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cw201010130093.html 【検証】野村カープ元年<上>歴史的な投壊 中国新聞 2010年10月13日記事]</ref>。 |
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最終的な成績は球団史上ワースト2位タイとなる84敗(58勝)を喫し、「優勝を狙う」宣言とは裏腹に2年連続でセ・リーグ5位に終わったが、今季不調に終わった投手陣に秋季キャンプでは過酷な練習を課すことを予告するなど、来季に向けて意欲を見せた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/ser2/201010/16/ser2223329.html 「素晴らしい投手、野手は、1回は死ぬ思いをしてきている」 スポーツニッポン 2010年10月16日記事] </ref>。 |
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== プレイスタイル == |
== プレイスタイル == |
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=== 打撃 === |
=== 打撃 === |
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[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]3回、最多得点2回、そして[[トリプルスリー]]や通算2000本安打を達成するなど、特に現役時代前半はカープのリードオフマンとして大いに活躍した。実働7年間だった遊撃手での通算打率.292は1000打席以上では最高記録(2004年当時)であり、史上屈指の強打の遊撃手だった<ref name="base_20040426_37"/>。思い切りの良いバッテイングを持ち味とし、賛否両論はあったものの初球から積極的にストライクを打ちに行った<ref name="Number1993_40">Number、1993年1月20日号、P.40</ref>。 |
[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]3回、最多得点2回、そして[[トリプルスリー]]や通算2000本安打を達成するなど、特に現役時代前半はカープのリードオフマンとして大いに活躍した。177cm・75kgと体格に恵まれていたわけではなく、それまで主にパワーヒッタータイプの選手が達成していたトリプルスリーを成し遂げた時には、地道なトレーニングによる筋力強化を高く評価されている<ref name="yomiuri_19950925"/>。実働7年間だった遊撃手での通算打率.292は1000打席以上では最高記録(2004年当時)であり、史上屈指の強打の遊撃手だった<ref name="base_20040426_37"/>。思い切りの良いバッテイングを持ち味とし、賛否両論はあったものの初球から積極的にストライクを打ちに行った<ref name="Number1993_40">Number、1993年1月20日号、P.40</ref>。 |
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深夜の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]のテレビ中継を欠かさず見るほどのメジャーフリークだった事もあり、ダイナミックなプレーを意識し、[[三塁打]]のクロスプレーにはこだわりがあった<ref name="Number1993_40"/>。なお、俊足を活かすため高校入学とともに左打ちに転向したが、当時の目標だった[[スイッチヒッター]]にはならなかった<ref name="base_20040426_35"/>。 |
深夜の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]のテレビ中継を欠かさず見るほどのメジャーフリークだった事もあり、ダイナミックなプレーを意識し、[[三塁打]]のクロスプレーにはこだわりがあった<ref name="Number1993_40"/>。なお、俊足を活かすため高校入学とともに左打ちに転向したが、当時の目標だった[[スイッチヒッター]]にはならなかった<ref name="base_20040426_35"/>。なお、[[バット]]は[[ミズノ|ミズノテクニクス]]の[[名和民夫]]の作品を使用していた<ref>読売新聞、2006年8月29日付朝刊、P.3</ref>。 |
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=== 走塁 === |
=== 走塁 === |
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[[東都大学野球]]での最多盗塁記録を残すなど、アマチュア時代から走塁技術は高かった。プロ入り後も1年目の[[4月12日]]に初盗塁を記録し、5月末までに盗塁企図10に対して成功8と早くから技術が通用している<ref name="base_19890612_34">週刊ベースボール、1989年6月12日号、P.34</ref>。プロでも通算3度の[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]を獲得し、通算250盗塁は歴代39位({{by|2010年}}現在)にあたる。しかし現役時代後半は故障のため[[代走]]を送られるケースが増えた。 |
[[東都大学野球]]での最多盗塁記録を残し、4年春にはパーフェクトスチールを達成する<ref name="yomiuri_19880527">読売新聞、1988年5月27日付朝刊、P.18</ref>など、アマチュア時代から走塁技術は高かった。また、4年生の時にはベース一周13秒8の好タイムを残している<ref name="yomiuri_19880527"/>。プロ入り後も1年目の[[4月12日]]に初盗塁を記録し、5月末までに盗塁企図10に対して成功8と早くから技術が通用している<ref name="base_19890612_34">週刊ベースボール、1989年6月12日号、P.34</ref>。プロでも通算3度の[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]を獲得し、通算250盗塁は歴代39位({{by|2010年}}現在)にあたる。しかし現役時代後半は故障のため[[代走]]を送られるケースが増えた。 |
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=== 守備 === |
=== 守備 === |
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小学校1年生の時から[[遊撃手]]として20年以上プレーし、遊撃への愛着は強かった。[[投手]]への声掛けや[[二塁手]]への送球などでの思いやりを重視し、特にカープ入団1、2年目は[[二塁手]]の[[正田耕三]]との連携プレーを徹底的に練習した<ref name="base_19891218_36"/>。打球が飛んでくる回数や併殺、中継に絡む機会が多いため、バッターが打つ瞬間以外は常に360度全方向に注意していた<ref name="base_20090803_24">週刊ベースボール、2009年8月3日号、P.24</ref>。ホームの[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]は土のグラウンドだったため[[イレギュラーバウンド]]が多く、平常心を保ち、腰を落としてしっかり捕球することを心がけた<ref name="base_20090803_24"/>。なお、自分の肩が強くないと考えてスローイングを課題に挙げ、ダッシュなどでカバーする事を意識していたという<ref name="base_19891218_36"/>。 |
小学校1年生の時から[[遊撃手]]として20年以上プレーし、遊撃への愛着は強かった。[[投手]]への声掛けや[[二塁手]]への送球などでの思いやりを重視し、特にカープ入団1、2年目は[[二塁手]]の[[正田耕三]]との連携プレーを徹底的に練習した<ref name="base_19891218_36"/>。打球が飛んでくる回数や併殺、中継に絡む機会が多いため、バッターが打つ瞬間以外は常に360度全方向に注意していた<ref name="base_20090803_24">週刊ベースボール、2009年8月3日号、P.24</ref>。 |
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ホームの[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]は土のグラウンドだったため[[イレギュラーバウンド]]が多く、平常心を保ち、腰を落としてしっかり捕球することを心がけた<ref name="base_20090803_24"/>。なお、自分の肩が強くないと考えてスローイングを課題に挙げ、ダッシュなどでカバーする事を意識していたという<ref name="base_19891218_36"/>。必ずしも守備の名手という印象を持たれていない<ref name="Number_20100122">[http://number.bunshun.jp/articles/-/14336 Number Web “守備の華”遊撃手で最高の選手は?]</ref>が、[[1990年代]]前半には[[レンジファクター]]でリーグトップの数値を複数年にわたって記録するなど、打球をアウトにする能力は高かった<ref name="Number_20100122"/>。 |
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グラブについては入団2年目から同じものを7年間使うなど強いこだわりを持ち、同タイプのグラブを使った後輩には[[井生崇光]]や[[甲斐雅人]]、[[石橋尚登]]らがいる<ref name="base_20010507_43"/>。また野村のグラブをベースにしたグラブを[[江藤智]]や[[東出輝裕]]は使用し、[[木村拓也]]も野村のグラブを参考にしていた<ref name="base_20010507_43"/>。 |
グラブについては入団2年目から同じものを7年間使うなど強いこだわりを持ち、同タイプのグラブを使った後輩には[[井生崇光]]や[[甲斐雅人]]、[[石橋尚登]]らがいる<ref name="base_20010507_43"/>。また野村のグラブをベースにしたグラブを[[江藤智]]や[[東出輝裕]]は使用し、[[木村拓也]]も野村のグラブを参考にしていた<ref name="base_20010507_43"/>。 |
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* 10試合連続得点(1995年5月13日 - 5月26日) |
* 10試合連続得点(1995年5月13日 - 5月26日) |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:8回 (1990年、1991年、1993年 - 1998年) |
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:8回 (1990年、1991年、1993年 - 1998年) |
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=== 年度別監督成績 === |
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![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br />本塁打!!チーム<br />打率!!チーム<br />防御率!![[年齢]] |
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|{{by|2010年}}||rowspan="1" style="text-align: center;"|[[広島東洋カープ|広島]]||5位||144||58||84||2||.408||21.5||104||263||4.80||44歳 |
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!colspan="3"|通算:1年 |
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|144||58||84||2||.408||colspan="5" style="text-align: center;"|Bクラス1回 |
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== 過去の出演番組 == |
== 過去の出演番組 == |
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; 日本テレビ・広島テレビ |
; 日本テレビ・広島テレビ |
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* [[PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球]](解説者。広島戦を中心に担当) |
* [[Dramatic Game 1844|PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球]](解説者。広島戦を中心に担当) |
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; 広島テレビ |
; 広島テレビ |
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* [[テレビ宣言]](スポーツコーナー) |
* [[テレビ宣言]](スポーツコーナー) |
2011年4月5日 (火) 14:56時点における版
広島東洋カープ 監督 #77 | |
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2010年5月5日 横浜スタジアム | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県佐伯市 |
生年月日 | 1966年9月19日(58歳) |
身長 体重 |
176 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト1位 |
初出場 | 1989年4月9日 |
最終出場 | 2005年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銀 | 1988 | 野球 |
野村 謙二郎(のむら けんじろう、1966年9月19日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。2010年から広島東洋カープ監督である。愛称は「ノムケン」。
経歴
アマチュア時代
1966年、佐伯市で精肉店を営む家庭に生まれた。父はかつて佐伯鶴城高校で阿南準郎の1学年上で野球をし、母もかつて陸上競技をしていた元アスリートの両親と、姉・弟が一人ずついる五人家族だった。小学校1年生の時に鶴城スポーツ少年団に入団して父からグラブを買ってもらい、俊足に注目されて遊撃手として野球を始めている[1]。また、おじの八木孝がかつて広島東洋カープに在籍していた元プロ野球選手であった事から、小学生の頃から毎年カープのキャンプを見学していた[2]。
両親からは市や県の一番では満足するなと言われて高い目標を持って練習し[1]、少年団や鶴谷中学校では最高学年で主将を務めた。父と同じ佐伯鶴城高校に進むと1年時に右打ちから左打ちに転向し[3]、同級生の若林重喜と三遊間のコンビを組んで3年時には主将を務めた。3年夏の選手権では大分県大会の準決勝で敗れ[4]、高校時代は全国大会には出場できなかった。
駒澤大学に進学すると太田誠監督に見込まれ、鉄拳を振るわれる事も珍しくない厳しい指導の一方で1年時から東都大学野球リーグ戦に起用されている[3]。2年生で迎えた1986年の春季リーグ戦からは遊撃手のレギュラーとなり、同年の秋季リーグで初めてベストナインに選出された[5]。3年時の春季リーグ戦では大石大二郎の17盗塁を破ってシーズン新記録となる18盗塁を記録し、2季連続でベストナインに選ばれている[6]。また6月の日米大学野球と8月のアジア選手権で日本代表入りを果たし、同年頃からプロ入りを意識するようになったという[3]。秋季リーグ戦では二塁手としてベストナインに選ばれた[7]。
4年生になると駒大の主将に就き、春のリーグ戦では22年振りにリーグの通算記録を更新する52個目の盗塁を決めるなど、完全優勝の原動力となり満票で最高殊勲選手とベストナインに選出されている[8]。同年も日米大学野球で代表入りし、さらに9月のソウルオリンピック野球日本代表にも大森剛、笘篠賢治とともに3人だけの大学生選手として選ばれた[9]。同五輪では西正文が遊撃手のレギュラーだったため代打として起用され、決勝を含む3試合で9打数2安打の成績を残している[10]。決勝の対アメリカ戦では途中出場で1安打を放つも、一打逆転の場面でジム・アボットに抑えこまれた[10]。
東都での通算成績は、89試合出場、325打数103安打、打率.317、10本塁打、48打点、ベストナイン4回、52盗塁。なお全日本大学野球選手権大会には2度出場し、3年時には九州東海大の松永幸男らと対戦している。大学No.1野手の評価を得て[11]石毛2世とも呼ばれ[12]、1988年のドラフト会議では重複指名が予想されていた[12]が結果として広島に単独で1位指名された。なおカープは川崎憲次郎も1位候補として検討していたものの、スカウトの強い推薦もあって野村を指名している[11]。担当スカウトは渡辺秀武で、契約金6,000万円、年俸600万円で入団契約を結んだ[13]。
プロ野球選手時代・前期
1年目の1989年シーズンは開幕戦から代走として出場し、5月4日の対ヤクルト戦では遊撃手として初の先発出場を果たした。高橋慶彦が遊撃手のレギュラーだったため左翼手などの守備につく機会が多かったが、出場88試合ながら21盗塁をマークしている。同年オフに高橋がロッテにトレードされると、翌1990年には遊撃手のレギュラーとなった。オープン戦では失策が多く[14]、公称70kg(当時)より細い外見から来るパワー面の不安[15]なども懸念されていたが、シーズンに入ると攻守に活躍して同年のオールスターゲームに初めて選ばれ、第2戦では2番・遊撃手として先発出場した[16]。シーズン通算で33盗塁を記録し、自身初のタイトルとなる盗塁王を獲得した。
3年目の1991年には全試合出場を果たし、31盗塁で2年連続となる盗塁王を獲得。打棒も冴えて170安打で最多安打、リーグ4位の打率.324を記録した。また、自身初となるベストナインに選出されるなど、チームのリーグ優勝の大きな原動力となっている。特に9月10日の対中日戦では同点タイムリーを放って守備でもファインプレーを見せ、勝利したチームは首位に立ってそのまま優勝へと進んだ。この試合は終了後の幸福感も含めて現役時代で最も印象に残っているという[17]。同年の日本シリーズでは西武に敗れたものの、チームトップの打率.333を残してシリーズ優秀選手に選ばれている[18]。オフには年俸が3,050万円増の5,300万円(推定)となるなど球団から高い評価を受け[19]、12月7日には2年間交際していた女性と結婚式を挙げている[20]。
1992年には日米野球の日本代表に選ばれ[21]、翌1993年も14試合連続安打を記録して4月に月間MVPに初めて選ばれ[22]、同年のオールスターゲームでは第2戦で優秀選手賞を受賞する[23]などの活躍の一方で、シーズン通算では打率が.266と低迷した。
プロ野球選手時代・中期
チームリーダーとして期待され首位打者宣言をして臨んだ[24]1994年は、シーズン当初は二番だった打順も6月には一番に戻り、2度目の最多安打(タイトル制定はこの年から)と3度目の盗塁王を獲得した。年俸は同僚の前田智徳には及ばなかったものの4,500万円の大幅増の1億800万円となり、初めて1億円の大台を突破した[25][18]。オフには秋季キャンプへの参加を免除されて奥歯の虫歯を集中的に治療し、かみ合わせが改善してインパクト時に力を集中できるようになった[26]。また、内角球への対応を改善するためにグリップ位置を上げて強く振り切るなど打撃フォームを改造している[26]。
翌1995年は4月18日に長男が誕生してヘルメットに名前を書き込むなどこれを励みとし[27]、5月には自身2度目となる月間MVPを受賞した[28]。9月22日には当時歴代5位のスピード記録となる857試合目で1000本安打を達成している。シーズン後半は腰や背中に痛みを抱えてヘッドスライディングで帰塁ができず、リードが取りにくくなり盗塁が減った[29]が、10月6日の対ヤクルト戦で30盗塁に到達。最終的に史上6人目となるトリプルスリー(打率:.315、本塁打:32、盗塁:30)を記録した。また守備面の評価も高く、初のゴールデングラブ賞を受賞した。同年オフにはカープ史上最高(当時)となる1億7000万円で契約を更改し、5年後に金本知憲が抜くまで野村をチーム最高年俸とする不文律が生まれた[30]。同年の契約更改では、チームリーダーとしての働きや高津臣吾や西山一宇など他球団のリリーフエースからサヨナラ本塁打を放った事から、球団からはチーム一番の貢献度だったと評価されている[31]。
1996年は前年に盗塁王を獲得した緒方孝市の存在もあり、4月中旬からは主に三番打者を務めた。7月6日の対ヤクルト戦で8回に二盗を試みた際に左足首を負傷し、担架で運ばれて退場し翌日から3試合を欠場している[32]。歩行にも支障を来すほどで剥離骨折が疑われたが、球団からは捻挫と発表されて痛み止めを飲みながら出場を続けた[32][33]。三村敏之監督は休養させる事を考えたが、控えに有力な遊撃手がいない事もあって本人が出場を直訴したという[32]。しかし左足首をかばう事で負担がかかって両足の太ももやふくらはぎにも痛みが広がり、9月に入ると全力疾走もできないほど状態が悪化した[33]。チーム成績も負傷前の45勝24敗からその後は26勝35敗と急激に悪化し、この負傷が巨人にメークドラマを許す一因になったも言われている[32]。負傷のため個人成績は芳しくなかったが、オフにはチームを引っ張る働きを評価されて2,000万円増の年俸1億9,000万円で契約を更改し、選手会長に就任した[34]。
1997年オフにはフリーエージェントの権利を獲得し、巨人の長嶋茂雄監督が川相昌弘の後継者として獲得を強く望んだとされる[35]。またメジャーリーグのアリゾナ・ダイヤモンドバックスとタンパベイ・デビルレイズからオファーがあった[36]が、駒沢大の大田監督の「カープと日本球界のために生きるのも人生」という助言もあり[37]カープ残留を決め、日本人では13人目の2億円プレーヤーとなった。
プロ野球選手時代・後期
1998年はチームでただ一人全試合出場を果たし、年俸は現状維持となっている[38] 1999年5月19日には、当時歴代4位のスピード記録となる1289試合目で1500本安打を達成した。また9月にはシドニーオリンピック野球日本代表に選ばれ、アジア予選に出場した。しかしこの年は右股関節を痛めたことが原因で夏場からは欠場や一塁手としてのスタメン出場が多くなった。これ以降、野村は度重なる怪我に悩まされることとなる。
江藤智が移籍した翌2000年の春季キャンプからは三塁手に取り組んだが、4月8日の阪神タイガース戦では内野ゴロを打って一塁まで走った際に左足ヒザ裏の肉離れを起こし、全治3週間と診断された[39]。5月3日には一軍復帰したものの症状が酷く、7月24日の精密検査で左足の筋力が右足の41%まで落ちていることがわかり、自身初の出場登録抹消を受けて後半戦は欠場した[39]。8月には同じく故障した前田智徳や緒方孝市とともにピッツバーグに移ってリハビリに専念し、同年はプロ入り後最低の打率.240、2本塁打、1盗塁に終わっている。
欠場中に遊撃手は東出輝裕、三塁手は新井貴浩がそれぞれレギュラーの座につき、2001年は二塁手のポジションを木村拓也と争うことになった。キャンプ中の2月8日に守備練習で左太ももを痛めてオープン戦は2試合のみの出場にとどまり、開幕戦は初めて不出場となった。同じ二塁手のエディ・ディアスが打撃好調だった一方、緒方の故障などで新井が外野に回り、後半戦以降は再び三塁手のレギュラーの座をつかんでいる。翌2002年は4月末に右太ももを痛めて約1ヶ月間の二軍生活が続き、後半戦は代打や守備固めで主に起用されて出場試合数が100試合を切るとともに打率も.211と低迷した[40]が、遊撃手のライバルである東出にも守備面などで積極的にアドバイスを送っていた[41]。
2003年は開幕直後の3月29日の対ヤクルト戦において守備で打球を処理した際に左内腹斜筋に全治3週間の挫傷を負い、4月2日に出場選手登録を外れた[42]。さらにシーズン終盤の右太もも痛もあって戦線離脱は長期にわたり、オフには野球協約の上限を超える33%(5000万円)減の1億円で契約を更改した[1]。なお、同年7月に山本浩二監督の続投が決まった際には、オーナーの松田元が次期監督候補が野村であることを明言している。
2004年は1月に黒田博樹とともにアリゾナで自主トレを行ない、ケガ防止のためのインナーマッスル強化や股関節の柔軟性向上などに取り組んだ[43]が、6月19日の対ヤクルト戦で三塁ゴロを処理した際に右ひざを痛めて登録抹消を受けるなど、同年も故障との戦いが続いた。オフには現状維持で契約を更改している[44]。
2000本安打まで残り55本で迎えた2005年は守備の負担軽減のため一塁手にコンバートされ、年初から記録達成に向けて周囲の期待が高まっていた。5月には故郷の佐伯市内6ヶ所[45]、やそごう広島店にカウントダウンボードが設置され[46]、6月に入ると広島ガスのインフォメーションプラザで入団からの軌跡を辿る写真展が開催された[46]。残り4本で迎えた6月21日からの地元6連戦では、佐伯市の大手前公園で250インチの野外スクリーンによりパブリックビューイングが行なわれている[47]。6月23日、広島市民球場での対ヤクルト戦にて4回の第2打席でレフト前ヒットを放ち、通算2000本安打を達成した。これはNPB史上33人目、大卒・社会人出身の選手としては史上15人目(大卒では5人目)となる記録で、同年4月に同じく達成した古田敦也からその場で花束が贈呈されている[48]。これを記念して広島県から県民栄誉賞が贈られた[49]ほか、広島電鉄が記念のパセオカードを発行している[50]。
以後は代打としての出場が多くなり、9月16日に同年限りでの現役引退を発表。シーズン最終戦である10月12日の対横浜が引退試合となり、満員の観客に背番号の「7」が入ったポスターが配布され、一番・遊撃手として先発出場した[51]。なお、球団からはこの背番号を永久欠番とすることを打診されたが本人が断り、ふさわしい選手が現れるまでの永久預かりという形になっている[52]。また、球団幹部は2009年の新球場オープンに合わせて監督として招聘する方針をこの時点で打ち出していた[52]。
引退後
引退後は2006年から2009年まで広島テレビ、日本テレビ、スポーツニッポンの野球解説者を務める一方、2007年の春季キャンプではカープの臨時コーチとして守備・走塁を指導した[53]。2008年には、トレイ・ヒルマンの率いるロイヤルズの春季キャンプに臨時コーチとして白井一幸とともに招待されている[54]。同年の北京オリンピックにおける野球競技では解説者としてジャパンコンソーシアムの中継に参加し、10月には第2回WBCの日本代表監督選定会議に若い世代の代表として出席した。初回の会議の後には、現役監督・コーチ以外からの選出になるのでは、との見通しを語っていた[55]が、次回会議の結果を受けて巨人監督の原辰徳が代表監督に選ばれている[56]。
監督就任
2010年より「チーム再建の切り札」として12年連続Bクラスに低迷する広島の監督に就任した。年俸は7,000万円(推定)。監督・コーチ歴は皆無であったが、NPBの監督としては格安とされた[57]前任のマーティ・ブラウンの年俸(40万ドル)[58]を大きく上回った。就任会見では「優勝を目指す!選手にもそういう気持ちで、Aクラスを目指すというのはやめてもらいます」[59]「優勝したら『普通のことをやったまでです』と言うつもりです」[60]、等と宣言した。
2010年
前年まで不振だった大学後輩の梵英心、高校後輩の廣瀬純、オープン戦で活躍した天谷宗一郎、自身が獲得を推薦したジャスティン・ヒューバーを開幕からスタメンに固定し、梵と廣瀬はキャリアハイの成績を残した。一方で天谷は打撃不振に陥るが、頑なに中堅手として起用し続けたため、シーズン途中に故障から復帰した同ポジションの赤松真人は、出塁率を除く全ての成績で天谷を上回ったものの、出場機会は下回った[61][62]。さらに全く結果を残せなかったヒューバーを、シーズン終盤まで見切ることが出来ずに起用し続けた事には批判を受けた[63]。
スターティングメンバーのパターンは95通りにも上り、シーズンを通じて最適な打線を固定できなかった。さらに栗原健太の故障もあって長打力に欠けた反面、チーム犠打数は球団史上最多の140個、チーム盗塁数も過去15年間で最多の119個と機動力が改善し、1試合平均得点は5年ぶりに3点台を脱却して4.1点になった。守備面でも前年リーグ最下位の100個だったチーム失策数が同3位の82に改善した[64]。
投手陣ではコルビー・ルイスの退団が前年12月に急遽決まったが、さらにキャンプからシーズン序盤にかけて大竹寛や横山竜士、マイク・シュルツ、永川勝浩といった主力の故障が相次いだ。特に大竹については、故障後は慎重な調整を行っていたにも関わらず、復帰を急がせて再故障させるなど選手の体調管理面で多くの課題を残している[65]。
自己流の調整を貫いた前田健太[66]が球団史上初の投手成績で三冠を達成したものの、飛躍を期待された齊藤悠葵、実績のある梅津智弘、ら多くの投手が不振に陥った。また中継ぎ投手の起用法にも疑問が投げかけられた[67]。
チーム防御率は前年の3.59から5年ぶりに4点台後半(4.80)へ、さらに前田健を除くチーム防御率は5.33となり、過去最大の悪化幅(1.21)を記録した。同様に失点が162増の737、四死球は137増えて524個、被本塁打も54多い171本と、いずれも最大幅の増加を記録し、「球団史上最悪の『投手後退』」と評された[68]。
最終的な成績は球団史上ワースト2位タイとなる84敗(58勝)を喫し、「優勝を狙う」宣言とは裏腹に2年連続でセ・リーグ5位に終わったが、今季不調に終わった投手陣に秋季キャンプでは過酷な練習を課すことを予告するなど、来季に向けて意欲を見せた[69]。
プレイスタイル
打撃
最多安打3回、最多得点2回、そしてトリプルスリーや通算2000本安打を達成するなど、特に現役時代前半はカープのリードオフマンとして大いに活躍した。177cm・75kgと体格に恵まれていたわけではなく、それまで主にパワーヒッタータイプの選手が達成していたトリプルスリーを成し遂げた時には、地道なトレーニングによる筋力強化を高く評価されている[26]。実働7年間だった遊撃手での通算打率.292は1000打席以上では最高記録(2004年当時)であり、史上屈指の強打の遊撃手だった[37]。思い切りの良いバッテイングを持ち味とし、賛否両論はあったものの初球から積極的にストライクを打ちに行った[70]。
深夜のメジャーリーグのテレビ中継を欠かさず見るほどのメジャーフリークだった事もあり、ダイナミックなプレーを意識し、三塁打のクロスプレーにはこだわりがあった[70]。なお、俊足を活かすため高校入学とともに左打ちに転向したが、当時の目標だったスイッチヒッターにはならなかった[3]。なお、バットはミズノテクニクスの名和民夫の作品を使用していた[71]。
走塁
東都大学野球での最多盗塁記録を残し、4年春にはパーフェクトスチールを達成する[72]など、アマチュア時代から走塁技術は高かった。また、4年生の時にはベース一周13秒8の好タイムを残している[72]。プロ入り後も1年目の4月12日に初盗塁を記録し、5月末までに盗塁企図10に対して成功8と早くから技術が通用している[73]。プロでも通算3度の盗塁王を獲得し、通算250盗塁は歴代39位(2010年現在)にあたる。しかし現役時代後半は故障のため代走を送られるケースが増えた。
守備
小学校1年生の時から遊撃手として20年以上プレーし、遊撃への愛着は強かった。投手への声掛けや二塁手への送球などでの思いやりを重視し、特にカープ入団1、2年目は二塁手の正田耕三との連携プレーを徹底的に練習した[15]。打球が飛んでくる回数や併殺、中継に絡む機会が多いため、バッターが打つ瞬間以外は常に360度全方向に注意していた[74]。
ホームの広島市民球場は土のグラウンドだったためイレギュラーバウンドが多く、平常心を保ち、腰を落としてしっかり捕球することを心がけた[74]。なお、自分の肩が強くないと考えてスローイングを課題に挙げ、ダッシュなどでカバーする事を意識していたという[15]。必ずしも守備の名手という印象を持たれていない[75]が、1990年代前半にはレンジファクターでリーグトップの数値を複数年にわたって記録するなど、打球をアウトにする能力は高かった[75]。
グラブについては入団2年目から同じものを7年間使うなど強いこだわりを持ち、同タイプのグラブを使った後輩には井生崇光や甲斐雅人、石橋尚登らがいる[30]。また野村のグラブをベースにしたグラブを江藤智や東出輝裕は使用し、木村拓也も野村のグラブを参考にしていた[30]。
リーダーシップ
小・中・高・大・プロの全てで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた[30]。プロでは入団2、3年目の早い時期からチームリーダーとしての素質を認められ[18]、FA権取得時には球団も指導者としての期待をかけて残留を望んだ[30]。
球場外でのトレーニングの時も他の選手に目を配り、若手だった東出輝裕や新井貴浩が不振に苦しんだ時期には励ましを送るなどし、新井は野村について「心から頼れて、120%信用できる」と語っている[30]。また金本知憲がトリプルスリーを達成した際には経験者としてアドバイスを送り落ち着きを取り戻させた[30]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 広島 | 88 | 164 | 151 | 29 | 39 | 4 | 5 | 0 | 53 | 12 | 21 | 5 | 2 | 1 | 7 | 0 | 3 | 21 | 1 | .258 | .299 | .351 | .650 |
1990 | 125 | 576 | 519 | 84 | 149 | 28 | 8 | 16 | 241 | 44 | 33 | 23 | 2 | 1 | 45 | 3 | 9 | 83 | 1 | .287 | .352 | .464 | .817 | |
1991 | 132 | 573 | 524 | 75 | 170 | 22 | 7 | 10 | 236 | 66 | 31 | 5 | 5 | 6 | 29 | 0 | 9 | 62 | 7 | .324 | .363 | .450 | .813 | |
1992 | 130 | 611 | 545 | 89 | 157 | 22 | 5 | 14 | 231 | 63 | 21 | 6 | 2 | 3 | 56 | 5 | 5 | 73 | 5 | .288 | .357 | .424 | .781 | |
1993 | 130 | 602 | 556 | 67 | 148 | 21 | 1 | 14 | 213 | 48 | 12 | 9 | 1 | 1 | 39 | 4 | 5 | 83 | 6 | .266 | .319 | .383 | .702 | |
1994 | 130 | 614 | 558 | 77 | 169 | 20 | 4 | 10 | 227 | 61 | 37 | 14 | 4 | 3 | 45 | 5 | 4 | 75 | 7 | .303 | .355 | .407 | .762 | |
1995 | 131 | 611 | 550 | 109 | 173 | 29 | 5 | 32 | 308 | 75 | 30 | 8 | 0 | 2 | 53 | 7 | 6 | 60 | 4 | .315 | .380 | .560 | .940 | |
1996 | 124 | 562 | 514 | 77 | 150 | 30 | 3 | 12 | 222 | 68 | 8 | 7 | 0 | 5 | 38 | 1 | 5 | 63 | 5 | .292 | .343 | .432 | .775 | |
1997 | 131 | 601 | 540 | 81 | 151 | 25 | 0 | 13 | 215 | 52 | 26 | 5 | 0 | 2 | 54 | 3 | 5 | 68 | 10 | .280 | .349 | .398 | .748 | |
1998 | 135 | 607 | 561 | 75 | 158 | 26 | 4 | 14 | 234 | 49 | 15 | 9 | 0 | 2 | 41 | 6 | 3 | 63 | 8 | .282 | .333 | .417 | .750 | |
1999 | 101 | 387 | 350 | 37 | 102 | 20 | 1 | 6 | 142 | 42 | 2 | 4 | 1 | 1 | 33 | 3 | 2 | 34 | 11 | .291 | .354 | .406 | .760 | |
2000 | 61 | 228 | 208 | 15 | 50 | 4 | 1 | 2 | 62 | 17 | 1 | 1 | 0 | 2 | 13 | 1 | 5 | 22 | 6 | .240 | .298 | .298 | .596 | |
2001 | 117 | 435 | 403 | 35 | 110 | 18 | 1 | 9 | 157 | 53 | 7 | 4 | 0 | 1 | 31 | 2 | 0 | 59 | 13 | .273 | .324 | .390 | .714 | |
2002 | 85 | 187 | 175 | 14 | 37 | 4 | 0 | 3 | 50 | 11 | 1 | 1 | 2 | 1 | 9 | 0 | 0 | 33 | 5 | .211 | .246 | .286 | .532 | |
2003 | 94 | 340 | 310 | 25 | 85 | 8 | 0 | 5 | 108 | 32 | 3 | 1 | 1 | 1 | 27 | 1 | 1 | 49 | 10 | .274 | .332 | .348 | .681 | |
2004 | 107 | 392 | 359 | 27 | 97 | 18 | 2 | 5 | 134 | 43 | 1 | 2 | 3 | 3 | 24 | 5 | 3 | 48 | 8 | .270 | .316 | .373 | .690 | |
2005 | 106 | 297 | 272 | 19 | 75 | 14 | 0 | 4 | 101 | 29 | 1 | 0 | 4 | 2 | 18 | 2 | 1 | 42 | 7 | .276 | .316 | .371 | .688 | |
通算:17年 | 1927 | 7787 | 7095 | 935 | 2020 | 313 | 47 | 169 | 2934 | 765 | 250 | 104 | 27 | 37 | 562 | 48 | 66 | 938 | 114 | .285 | .340 | .414 | .754 |
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 7 (1989年 - 2005年)
- 77 (2010年 - )
タイトル・表彰
- 最多安打:2回 (1994年、1995年)※正式タイトル制定前の1991年も記録(正式タイトル制定は1994年)。
- 盗塁王:3回 (1990年、1991年、1994年)
- ベストナイン:3回 (1991年、1995年、1996年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (1995年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1991年)
- 月間MVP:2回 (1993年4月、1995年5月)
- 優秀JCB・MEP賞:2回 (1994年、1995年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1995年)
- セ・リーグ会長特別表彰:1回 (2005年)
- 大分県佐伯市民栄誉賞(1996年3月15日)
個人記録
- 初記録
- 初出場:1989年4月9日、対阪神タイガース2回戦(広島市民球場)、7回裏に代走として出場
- 初盗塁:1989年4月12日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(横浜スタジアム)、7回表に二盗(投手:欠端光則、捕手:市川和正)
- 初先発出場:1989年5月4日、対ヤクルトスワローズ6回戦(広島市民球場)、7番・遊撃手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、6回裏に中本茂樹から中前安打
- 初本塁打:1990年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、3回裏に宮本和知から
- 節目の記録
- 1000本安打:1995年9月22日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、5回表にデニー友利から本塁打 ※史上181人目(857試合での達成は歴代9位)
- 100本塁打:1996年5月28日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、8回表に山本昌から右越ソロ ※史上187人目
- 1000試合:1997年4月16日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上340人目
- 1500本安打:1999年5月19日、対阪神タイガース8回戦(米子市民球場)、5回裏に井川慶から左前安打 ※史上77人目(1289試合での達成は歴代5位)
- 1500試合:2001年8月26日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、6番・三塁手として先発出場 ※史上133人目
- 150本塁打:2001年10月6日、対中日ドラゴンズ28回戦(広島市民球場)、4回裏に小笠原孝から中越ソロ ※史上119人目
- 300二塁打:2005年4月1日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回表に佐藤宏志から右中間へ二塁打 ※史上42人目
- 2000本安打:2005年6月23日、対ヤクルトスワローズ8回戦(広島市民球場)、4回裏に川島亮から左前安打 ※史上33人目
- 250盗塁:2005年7月1日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助) ※史上37人目
- その他の記録
- トリプルスリー:1回 (1995年)
- シーズン150安打以上:7回 (1991年、1992年、1994年 - 1998年)※歴代4位タイ。
- 5年連続シーズン150安打以上(1994年 - 1998年)※歴代5位タイ。
- 4年連続リーグ最多内野安打(1991年 - 1994年)
- 通算初回先頭打者本塁打:21本(表6本、裏15本)※歴代9位。
- 通算初回先頭打者初球本塁打:7本(表3本、裏4本)※歴代1位。
- シーズン初回先頭打者初球本塁打:3本 (1990年:表2本、裏1本)※歴代2位。
- 2試合連続初回先頭打者本塁打(1997年8月21日 - 8月22日)
- 1試合3犠飛(1996年6月30日)※日本タイ記録。
- 3試合連続三塁打(1990年4月8日 - 4月11日)
- 20試合連続安打(1994年8月3日 - 8月25日)
- 10試合連続得点(1995年5月13日 - 5月26日)
- オールスターゲーム出場:8回 (1990年、1991年、1993年 - 1998年)
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2010年 | 広島 | 5位 | 144 | 58 | 84 | 2 | .408 | 21.5 | 104 | 263 | 4.80 | 44歳 |
通算:1年 | 144 | 58 | 84 | 2 | .408 | Bクラス1回 |
過去の出演番組
- 日本テレビ・広島テレビ
- PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球(解説者。広島戦を中心に担当)
- 広島テレビ
- テレビ宣言(スポーツコーナー)
- 旬感★テレビ派ッ!(スポーツコーナー)
- 進め!スポーツ元気丸(コメンテーター。番組ホームページにも自身のコラムを不定期で連載していた)
- ラジオ日本マリーンズナイター(ゲスト解説)
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(ゲスト解説)
参考文献
- ^ a b c 週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.34
- ^ 読売新聞、1988年11月25日付朝刊、P.19
- ^ a b c d 週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.35
- ^ 朝日新聞、1984年7月25日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、1986年11月5日付朝刊、P.17
- ^ 読売新聞、1987年5月30日付朝刊、P.14
- ^ 読売新聞、1987年10月30日付朝刊、P.16
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関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 【野村謙二郎 (広島東洋カープ)】 - 日本野球機構オフィシャルサイト