「塩狩駅」の版間の差分
Mister0124 (会話 | 投稿記録) m H26-30の乗降人員を追記。また、節順修正 |
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|画像説明= 駅舎正面(2009年7月) |
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|よみがな= しおかり |
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|ローマ字= Shiokari |
|ローマ字= Shiokari |
2020年2月15日 (土) 03:46時点における版
塩狩駅 | |
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駅舎正面(2009年7月) | |
しおかり Shiokari | |
◄W36 蘭留 (5.6 km) (7.9 km) 和寒 W38► | |
所在地 | 北海道上川郡和寒町字塩狩 |
駅番号 | ○W37 |
所属事業者 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) |
所属路線 | ■宗谷本線 |
キロ程 | 28.4 km(旭川起点) |
電報略号 | シリ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 2面2線 |
開業年月日 | 1924年(大正13年)11月25日 |
備考 | 無人駅 |
塩狩駅(しおかりえき)は、北海道上川郡和寒町字塩狩にある北海道旅客鉄道(JR北海道)宗谷本線の駅である。駅番号はW37。電報略号はシリ。
歴史
- 1916年(大正5年)9月5日:鉄道院宗谷線の塩狩信号所として設置[1]。
- 1919年(大正8年)10月20日:宗谷本線に線名を改称[1]。
- 1922年(大正11年)4月1日:塩狩信号場に改称。
- 1924年(大正13年)11月25日:塩狩駅に昇格[1]。旅客荷物取扱い開始。
- 1927年(昭和2年)9月1日:貨物取扱い開始。
- 1949年(昭和24年)6月1日:公共企業体である日本国有鉄道に移管。
- 1974年(昭和49年)10月1日:貨物取扱い廃止。
- 1984年(昭和59年)2月1日:荷物取扱い廃止。
- 1984年(昭和59年)11月10日:出改札業務廃止(連査閉塞運転要員はそのまま配置)。
- 1986年(昭和61年)11月1日:電子閉塞化により無人化。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR北海道に継承[1]。
駅構造
隣の蘭留駅と同じく、相対式ホーム型がずれた形の千鳥式ホーム2面2線を有する列車交換可能な地上駅。構内踏切で結ばれている。現在は永山駅管理の駅であるが、木造駅舎は残されている。
以前は駅舎側本線の旭川側のみ片開分岐であったが、現在は高速化にあわせて稚内側も片開分岐に敷き直され(旭川側の片開分岐も駅舎側ホームの位置に設置場所を変更)、駅舎側本線が一線スルー状になっている。また、かつては上下線の中央に待避線が1本あったが、無人化に伴い撤去された。
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ホーム(2017年10月)
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構内踏切(2017年10月)
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駅名標(2017年10月)
利用状況
- 2011 - 2015年(平成23 - 27年)の乗車人員(11月の調査日)平均は「1名以下」[2]。
- 2013 - 2017年(平成25 - 29年)の乗車人員(特定の平日の調査日)平均は0.2人[3]。
- 2014 - 2018年(平成26 - 30年)の乗降人員調査(11月の調査日)平均は「1名以下」[4]。
駅周辺
塩狩峠の頂上にある駅。山の中にあるため、周辺は自然が多い。作家三浦綾子の小説『塩狩峠』のクライマックスの舞台でもある。
- 国道40号
- 塩狩峠記念館(三浦綾子の復元移設の旧家)
- 長野政雄顕彰碑
- 一目千本桜
- 夢ロード桜塩狩パーク
- 道北バス「塩狩」停留所
- 塩狩ヒュッテユースホステル
長野政雄の殉職
1909年(明治42年)2月28日、8100形蒸気機関車牽引の名寄駅発旭川駅行き最終急行列車が塩狩峠の頂上付近に差し掛かった時、連結器が外れて最後尾の客車が単独で上り勾配を逆行・逸走する列車分離事故が発生した。乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)旭川鉄道運輸事務所庶務主任[注釈 1]・長野政雄が、デッキ上のハンドブレーキを操作して暴走する客車の停止を試みるもデッキから転落し、床下に巻き込まれ殉職した。しばらく走行したあと客車は停止し[5]、乗客にけが人や犠牲者はなかった[1][6]。
のちに三浦綾子によってこの話を元にした小説『塩狩峠』が発表され、映画化もされた。作品中では主人公・永野信夫が暴走する客車を停止させる最後の手段として、みずからの体を車輪の歯止めにするべくデッキから車両の前に飛び込んで殉職しているが、実際の事故では当事者死亡につき顛末の詳細は不明である[6]。
事故当時、塩狩駅は開業していなかったが、長野政雄の顕彰碑と塩狩峠記念館・文学碑が立てられている。
隣の駅
- 北海道旅客鉄道(JR北海道)
- ■宗谷本線
脚注
注釈
- ^ いわゆる事務方職員で、車両の機器類の操作は専門外である。
出典
- ^ a b c d e 曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 20号・宗谷本線/留萌本線、朝日新聞出版〈週刊朝日百科〉、2009年11月2日、34頁。
- ^ “極端にご利用の少ない駅(3月26日現在)” (PDF). 平成28年度事業運営の最重点事項. 北海道旅客鉄道. p. 6 (2016年3月28日). 2017年9月25日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員(【別添資料】(2)宗谷本線(旭川・稚内間)の状況)” (PDF). 宗谷線(旭川~稚内間)事業計画(アクションプラン). 北海道旅客鉄道. pp. 11-12 (2019年4月). 2019年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月18日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員” (PDF). 全線区のご利用状況(地域交通を持続的に維持するために). 北海道旅客鉄道. 2020年1月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月20日閲覧。
- ^ 受難の地 21線踏切付近 2013年9月19日 合田俊幸 編(PDF)2018年4月2日閲覧。長野政雄の転落地点からおよそ1マイル(約1.609km)程度走行して停止した。
- ^ a b おのつよし 1991, p. 94-96.
参考文献
- おのつよし『日本の鉄道100ものがたり』(初版第1刷)文春文庫、1991年5月10日。ISBN 978-4167536015。