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2020年11月10日 (火) 22:12時点における版

高津 臣吾
東京ヤクルトスワローズ 監督 #22
ヤクルト選手時代
(2006年5月14日、スカイマークスタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市南区
生年月日 (1968-11-25) 1968年11月25日(55歳)
身長
体重
180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト3位
初出場 NPB / 1991年4月24日
MLB / 2004年4月9日
KBO / 2008年6月24日
CPBL / 2010年3月23日
BCL / 2011年4月16日
最終出場 NPB / 2007年10月9日
MLB / 2005年10月2日
KBO / 2008年10月1日
CPBL / 2010年9月29日
BCL / 2012年9月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 新潟アルビレックスBC (2012)
  • 東京ヤクルトスワローズ (2014 - )

高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は、広島県広島市南区段原中町出身[1] の元プロ野球選手投手)・監督野球解説者評論家。2020年シーズンから東京ヤクルトスワローズの第22代一軍監督を務める。

主に抑え投手として、日本プロ野球(以下:NPB)・メジャーリーグベースボール(以下:MLB)・韓国プロ野球(以下:KBO)・台湾プロ野球(以下:CPBL)の4つの野球リーグを経験した初の日本人選手。NPB歴代2位の通算286セーブ[2]、史上2人目となるNPB/MLB通算300セーブを記録している。2005年のシカゴ・ホワイトソックス時代にはMLBチャンピオンリングを獲得している。

経歴

生い立ち

広島市立段原小学校に上がる前に比治山町にできたマンションに引っ越す[1]。当時はまだ高い建物が少なく、部屋の窓から広島市民球場がよく見えた[1]。幼少の頃から市民球場に何度も通い、白地に赤いユニフォームでグラウンドで躍動する広島東洋カープ選手に憧れた[1]。特にミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった[3]。また、叔母が広島市内の歓楽街でフグ料理店を経営していて、叔母に頼み江夏豊にも対面する機会があった[3]。小学校3年のとき、地元の軟式野球チーム「段原レッドイーグルス」で野球を始めた[3]張本勲らを輩出した広島市立段原中学校に進むが、当時の野球部は活動が盛んでなかった[1]。自宅に近い広島工業高等学校に進学。

プロ入り前

広島工業では県内では図抜けた存在だった上田俊治[4] を見て、何か特徴が欲しいとスリークォーターからアンダースローにフォームを変える[3]1986年に控え投手兼一塁手として春夏連続で甲子園に出場[1]第58回選抜は準々決勝に進むが宇都宮南高のエース高村祐に抑えられ敗退。第68回全国選手権は3回戦で鈴木健のいた浦和学院に敗れた。本大会での登板はなく代打での出場にとどまるが、広島大会では4試合に登板して2完封、準決勝でも尾道東高に完投勝利し、甲子園出場に貢献している。 

高校卒業後は小川成海監督に勧められ亜細亜大学に進学[3]。同期に小池秀郎がおり、投の二本柱として活躍。東都大学リーグでは1990年に春秋季連続優勝を飾る。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で東北福祉大を降し優勝。リーグ通算40試合に登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。大学2年のとき、スピードをつけるため、アンダースローからサイドスローにフォームを修正する[3]。このときシンカーを投げるようになった[3]。他の大学同期に川尻哲郎がいる。

大学卒業後はカープを希望したが、カープは横手投げは獲らないといわれた[1]社会人野球三菱重工広島の内定を得ていたが、小池秀郎の視察に来ていたヤクルトスカウト陣が下手投げの面白い投手である高津に着目し[5]1990年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから3位指名で交渉権を獲得し契約金5500万円、年俸700万円(金額は推定)で入団[6][7]

ヤクルト時代

入団当時は先発投手として期待されていた。特に目立った特徴のない投手だったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。既に速いシンカーは投げていたが、野村克也監督から遅いシンカーの習得を命じられた[3]1993年5月2日の対読売ジャイアンツ戦では松井秀喜にプロ初ホームランを献上[8] するも、チームのリードを守り切りプロ初セーブを記録。この年抑え投手に転向し、当時の球団記録を塗り替える20セーブを挙げてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。この年の日本シリーズでは3セーブを上げる活躍を見せ胴上げ投手になった。

1994年、熾烈なセーブ王争いに競り勝ちプロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得。

1995年、不動の抑えとして自身のセーブ記録を更新する28セーブを挙げリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは二度目の胴上げ投手になった。

1996年、5月が終わるまでは1勝10セーブ防御率も1.65と安定感を誇っていたが、6月に初黒星を記録するとそこから不安定な投球が目立ち6月に2敗、8月に3敗とチームの不振に釣られる形で救援失敗が目立つ結果となり、21セーブは記録したが自己ワーストの6敗を記録した。7月21日に行われたオールスターゲーム第二戦では松井の代打として登場、相手投手のイチローと対戦しショートゴロに討ち取られた。

1997年、シーズン序盤抑えとして結果を残せず、先発要員としても起用されるも先発でも3連敗と結果が出なかった。7月以降は中継ぎで徐々に安定感を取り戻し、抑えとして復活した伊藤智仁が復活はしたが故障明けで連投できないこともあり、左の加藤博人と共にセットアッパー兼抑えとして登板しチームのリーグ制覇・日本一に貢献(防御率は自己最高を更新)。日本シリーズでは三度目の胴上げ投手になった。この起用に関してはこのシリーズで伊藤の不調があったが、監督の野村克也からも「最後は伊藤より高津の方が似合う」の一言が高津の長年の信頼があることがわかる。

1998年、伊藤が先発投手に復帰したこともあり抑えを任されたが、シーズンを通して絶不調で抑え投手の座を失う。

1999年、監督の若松勉の就任とともに抑え投手として任命され、高津もその期待に応え自身のセーブ記録を更新するシーズン初の30セーブを挙げ二度目の最優秀救援投手のタイトルを獲得。

2001年、自己最高の37セーブを挙げ三度目の最優秀救援投手を獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは四度目の胴上げ投手になった[9]日本シリーズでは自身の持つ日本シリーズの通算セーブ記録を8に更新して連続無失点も継続した。これが高津にとっての現役での最後の日本シリーズ登板となり無失点のまま現役を終えている。

2003年佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手を獲得。オフにはFA権を行使。

また、毎年の春季キャンプにて、パンチパーマのかつらを被りクリスタルキングのムッシュ吉崎の物真似で、「大都会」を熱唱するという持ちネタを、フジテレビ系の「プロ野球ニュース」や「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」に向けて披露していた。1993年には珍プレー大賞を受賞している。

ホワイトソックス時代

2003年11月にジョー・アーボンを代理人とし、シカゴ・ホワイトソックスと年俸75万ドルの1年契約(2年目は球団オプション)を結ぶ。

2004年4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、最初の打者として松井秀喜と対戦[10]。5月1日のトロント・ブルージェイズ戦でメジャー初勝利、6月12日のアトランタ・ブレーブス戦でメジャー初セーブを上げる。その後はビリー・コッチに代わりクローザーを務める。4月23日のタンパベイ・デビルレイズ戦から6月29日のミネソタ・ツインズ戦まで24試合連続無失点を記録し、地元メディアから「ミスターゼロ」という名誉あるニックネームを貰った[3]。監督のオジー・ギーエンは「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」とコメント[11]。9月にはESPNの選出した「お買い得だったFA選手ベスト10」では大塚晶則に次いで7位にランクイン。最終的にリリーフ投手中リーグ3位のWHIP0.98と同8位の防御率2.31を記録する投球で19セーブを記録[3]。20度のセーブ機会で失敗したのは1度だけであった。10月28日には球団がオプションを行使し年俸250万ドルの1年契約を結んだ。

2005年も開幕からクローザーとして起用されるも、4月7日の対クリーブランド・インディアンス戦で1イニング3本塁打を浴びるなど序盤から救援失敗が続いた。特に5月までの14.1回で7被本塁打を喫し、6月は防御率0.96、WHIP0.75と復調したものの、7月には防御率12.60、WHIP2.20と再び打ち込まれ、18日にDFAとなり、8月1日にFAとなった。

メッツ時代

2005年8月12日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。9月1日にメジャー昇格を果たす。オフにFAとなり退団。このシーズンのホワイトソックスはワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手した。

ヤクルト復帰

2006年古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島戦(神宮)でNPB/MLB通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。NPB/MLB合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。

2007年は前年同様、抑え投手を任された。6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜に宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒し、左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び二軍に降格。約1か月後に一軍へ復帰し抑えに復帰。最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加せず獲得の連絡を待ったが獲得する球団はなく、11月30日付で自由契約公示された[12]

カブス傘下時代

2008年1月18日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。しかし、オープン戦で登板した5試合で4回1/3を投げて防御率9.64と結果を残せなかった。3月11日に戦力外通告を受けたが、現役続行を表明。16日に古巣のシカゴ・ホワイトソックス監督のオジー・ギーエンから勧められて入団テストを受けるも不合格となった。

韓国時代

2008年6月13日に、不振により退団したジェイソン・スコービーの代役として、KBOのウリ・ヒーローズと契約金6万ドル、年俸12万ドルで契約。

KBOでは4人目の日本人選手となった。6月24日に初登板、6月29日には1回2/3を無失点に抑え初セーブを挙げた。最終的に18試合に登板し1勝0敗8セーブ、防御率0.86だったが、12月17日に、ダグ・クラークを獲得する球団方針のため退団。

SFジャイアンツ傘下時代

2009年5月、ロサンゼルス郊外でメジャー球団のスカウトが見守る中でトライアウトを受験し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。40歳7か月は日本人最高齢での契約となり、7月にAAA級フレズノに合流した。

台湾時代

2010年1月4日にCPBLの興農ブルズと契約。背番号もヤクルト時代と同じ22。6月12日に球界トップの13セーブ目を挙げ、所属の興農ブルズが前期優勝を決め、胴上げ投手になる。11月26日、興農ブルズから契約打ち切りを告げられたことを発表[13]

独立リーグ・新潟時代

2011年1月24日に新潟アルビレックスBCへの入団が発表される[14]。名球会会員が独立リーグでプレーするのは史上初[15]。また、4月より並行してフジテレビすぽると!』の毎週火曜のレギュラー野球解説者も務めることとなった(シーズン開幕後は試合日程に差支えがない範囲での出演)。BCリーグ1年目となる2011年のシーズンは4月16日の開幕戦から登板し[16]、最終的に27試合に登板し、0勝2敗16セーブ防御率2.16でセーブ数はリーグトップであった。

2012年より新潟の選手兼任監督に就任[17]。8月31日、同年限りでの現役引退を表明[18]。9月22日の長岡市悠久山野球場の新潟対信濃戦が引退試合となり、9回2アウトから登板し原大輝をレフトフライに打ち取った。試合後には「終球式」が行われ、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田敦也に対して「最後の1球」を投じている[19]。監督としてはBCリーグ初優勝、四国アイランドリーグplus王者の香川とのグランドチャンピオンシップは3連勝し制した。同年限りで監督を退任。背番号22番は、新潟の永久欠番に制定された。

引退後

2013年より、『すぽると』に加え、ニッポン放送ショウアップナイター』野球解説者も務めることとなった。J SPORTSの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家も務める[20]

同年10月23日、2014年シーズンより一軍投手コーチとして東京ヤクルトスワローズに復帰することが発表された[21]。2015年は投手陣が安定し、救援防御率リーグ1位を記録、リーグ優勝に貢献した[22]2017年からは二軍監督に就任し、2020年から同チームの一軍監督を務めることが発表された[23]。大リーグ経験のある日本人選手の一軍監督就任は井口資仁以来2人目、日本の独立リーグの監督経験者がNPB監督に就任するのは史上初である。

人物

長男の高津大嗣も野球選手で、新潟明訓高等学校武蔵大学で投手としてプレーしている[24][25][26][27]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1991 ヤクルト 13 2 1 0 0 1 1 0 -- .500 120 27.2 34 4 6 0 2 25 1 0 15 13 4.23 1.45
1992 23 11 3 0 0 5 3 0 -- .625 362 82.2 84 10 36 2 3 63 1 1 48 43 4.68 1.45
1993 56 1 0 0 0 6 4 20 -- .600 324 78.1 69 3 24 5 5 72 1 0 28 20 2.30 1.19
1994 47 0 0 0 0 8 4 19 -- .667 298 72.1 63 7 30 7 1 54 1 0 25 23 2.86 1.29
1995 39 0 0 0 0 1 3 28 -- .250 197 48.1 42 2 14 1 3 36 0 0 14 14 2.61 1.16
1996 39 0 0 0 0 2 6 21 -- .250 215 50.0 56 7 16 4 1 35 1 0 18 18 3.24 1.44
1997 51 3 0 0 0 7 4 7 -- .636 313 79.1 55 9 20 4 5 68 0 0 20 18 2.04 0.95
1998 42 0 0 0 0 2 3 3 -- .400 212 45.1 54 6 26 3 2 32 1 0 29 28 5.56 1.76
1999 40 0 0 0 0 1 1 30 -- .500 164 41.1 32 6 8 3 0 38 1 0 11 10 2.18 0.97
2000 35 0 0 0 0 0 1 29 -- .000 139 34.2 32 4 8 0 1 29 0 0 8 8 2.08 1.15
2001 52 0 0 0 0 0 4 37 -- .000 212 51.2 49 3 13 3 0 39 1 0 17 15 2.61 1.20
2002 44 0 0 0 0 0 2 32 -- .000 174 41.2 37 6 11 1 3 28 1 0 19 18 3.89 1.15
2003 44 0 0 0 0 2 3 34 -- .400 185 42.0 42 7 21 7 0 26 2 0 18 14 3.00 1.50
2004 CWS 59 0 0 0 0 6 4 19 4 .600 245 62.1 40 6 21 3 2 50 1 0 17 16 2.31 0.98
2005 31 0 0 0 0 1 2 8 3 .333 130 28.2 30 9 16 1 0 32 1 0 19 19 5.97 1.61
NYM 9 0 0 0 0 1 0 0 1 1.000 38 7.2 11 2 3 1 0 6 0 0 2 2 2.35 1.83
'05計 40 0 0 0 0 2 2 8 4 .500 168 36.1 41 11 19 2 0 38 1 0 21 21 5.20 1.65
2006 ヤクルト 48 0 0 0 0 1 2 13 8 .333 173 42.2 33 3 15 1 1 31 0 1 15 13 2.74 1.13
2007 25 0 0 0 0 0 5 13 0 .000 110 23.1 32 4 7 2 0 15 0 0 17 16 6.17 1.67
2008 ウリ 18 0 0 0 0 1 0 8 0 1.000 85 21.0 16 1 5 0 4 18 0 0 2 2 0.86 1.00
2010 興農 40 0 0 0 0 1 2 26 2 .333 168 43.0 29 0 8 0 2 32 1 1 13 9 1.88 0.86
NPB:15年 598 17 4 0 0 36 46 286 *8 .439 3198 761.1 714 81 255 43 27 591 11 2 302 271 3.20 1.27
MLB:2年 99 0 0 0 0 8 6 27 8 .571 413 98.2 81 17 40 5 2 88 2 0 38 37 3.38 1.23
KBO:1年 18 0 0 0 0 1 0 8 0 1.000 85 21.0 16 1 5 0 4 18 0 0 2 2 0.86 1.00
CPBL:1年 40 0 0 0 0 1 2 26 2 .333 168 43.0 29 0 8 0 2 32 1 1 13 9 1.88 0.86
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度があることを示す

タイトル

NPB

表彰

NPB
MLB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100セーブ:1999年4月17日、対阪神タイガース2回戦(福岡ドーム)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上10人目
  • 150セーブ:2000年9月6日、対阪神タイガース20回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上3人目
  • 200セーブ:2002年4月28日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に4番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上2人目
  • 500試合登板:2003年6月20日、対横浜ベイスターズ12回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上71人目(同時に通算270セーブポイントのNPB記録を達成)
  • 250セーブ:2003年8月16日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に5番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上初
NPBその他の記録
MLB初記録
NPB/MLB通算節目の記録
  • 300セーブ:2006年10月7日、対広島東洋カープ20回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上2人目

独立リーグでの投手成績










































W
H
I
P
2011 新潟 27 0 0 2 16 .000 98 25.0 20 1 7 2 18 1 0 6 6 2.16 1.08
2012 1 0 0 0 0 ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
BCL:2年 28 0 0 2 16 .000 99 25.1 20 1 7 2 18 1 0 6 6 2.15 1.08
  • 太字はリーグ最高

背番号

関連情報

著書

脚注

  1. ^ a b c d e f g 「新・家の履歴書 高津臣吾」『週刊文春文藝春秋、2011年3月3日、96-99頁頁。 
  2. ^ 歴代最高記録 セーブ 【通算記録】”. 2011年6月29日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 「高津臣吾超ロングインタビュー」『野球小僧白夜書房、2011年2月、17-36頁頁。 
  4. ^ 明大から中国放送に入社。
  5. ^ [1]
  6. ^ 『朝日新聞』1990年12月6日付朝刊 (14版、23面)
  7. ^ 【12月5日】1990年(平2) “小池騒動”であいさつは後回しに 高津臣吾、即決入団
  8. ^ 野村監督からはストレートのサインのみが出されていて、捕手の古田も疑問に思い監督に抗議のジェスチャーをした。後に松井の実力を知るためあえてホームランを献上した事・高津のストレートがどの程度かを身をもって教えるためのサインだったとされている。
  9. ^ なお、この年は初のシーズン優勝時の胴上げ投手にもなっている。1993年、1995年、1997年のシーズン優勝決定時には、いずれも当該試合の先発投手が完投して胴上げ投手となっている。
  10. ^ 結果はライト線への二塁打。
  11. ^ 『月刊スラッガー』2004年9月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-9、52頁。
  12. ^ 2007年 度自由契約選手
  13. ^ 残念...”. 高津臣吾Official Blog (2010年11月26日). 2011年12月16日閲覧。
  14. ^ 高津臣吾投手入団決定のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2011年1月24日). 2011年12月16日閲覧。
  15. ^ 旅は終わらず 高津 BC新潟入り“名球会”選手で初!”. スポーツニッポン (2011年1月24日). 2011年2月2日閲覧。
  16. ^ “〈高津臣吾〉野球を愛し、去った男。僕は投げ続ける”. 朝日新聞. (2011年8月22日). http://digital.asahi.com/articles2/TKY201108190331.html 2020年2月22日閲覧。 
  17. ^ 新監督決定のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2011年12月16日). 2011年12月16日閲覧。
  18. ^ 高津臣吾選手兼任監督現役引退のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2012年8月31日). 2012年9月5日閲覧。
  19. ^ 高津 10歳次男の言葉に涙こらえきれず…引退試合 - スポーツニッポン、2012年9月23日
  20. ^ サブマリン高津氏 スポニチ評論家就任 - スポーツニッポン、2013年1月23日
  21. ^ 2014年コーチングスタッフについて
  22. ^ ヤクルトの14年ぶり優勝に張本氏「ごめんなさいだね」
  23. ^ “ヤクルト高津新監督が就任「投手陣を再建する」”. 朝日新聞デジタル. (2019年10月1日). https://www.asahi.com/articles/ASMB13Q16MB1UTQP00D.html?iref=pc_ss_date 2019年10月1日閲覧。 
  24. ^ “フォームそっくり!ヤクルト高津コーチ長男 新潟明訓で公式戦デビュー”. Sponichi Annex. (2015年5月2日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/05/02/kiji/K20150502010276590.html 2020年2月22日閲覧。 
  25. ^ “高津臣吾氏の長男、父思わせるシンカー披露 新潟大会”. 朝日新聞. (2015年7月13日). https://www.asahi.com/articles/ASH7F4TP2H7FUOHB01N.html 2020年2月22日閲覧。 
  26. ^ “新潟明訓・高津が卒業 父臣吾に続き4年後プロだ”. 日刊スポーツ. (2017年3月2日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1786330.html 2020年2月22日閲覧。 
  27. ^ “高津監督長男の武蔵大・大嗣は父譲りシンカーで0封”. 日刊スポーツ. (2019年12月1日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201912010000458.html 2020年2月22日閲覧。 
  28. ^ Baseball Digest Rookie All-Star Teams BR Bullpen 2015年9月16日閲覧。

関連項目

外部リンク