コンテンツにスキップ

「岳州」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
6行目: 6行目:
[[589年]]([[開皇]]9年)、隋が[[陳 (南朝)|南朝陳]]を滅ぼすと、巴州は'''岳州'''と改称された。[[606年]]([[大業]]2年)、岳州は'''羅州'''と改称された。[[607年]](大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、羅州は[[巴陵郡]]と改称された<ref>『[[隋書]]』地理志下</ref>。
[[589年]]([[開皇]]9年)、隋が[[陳 (南朝)|南朝陳]]を滅ぼすと、巴州は'''岳州'''と改称された。[[606年]]([[大業]]2年)、岳州は'''羅州'''と改称された。[[607年]](大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、羅州は[[巴陵郡]]と改称された<ref>『[[隋書]]』地理志下</ref>。


[[621年]]([[武徳]]4年)、[[唐]]が[[蕭銑]]を平定すると、巴陵郡は巴州と改められた。[[623年]](武徳6年)、巴州は岳州と改称された。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、岳州は巴陵郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、巴陵郡は岳州の称にもどされた。岳州は[[江南西道]]に属し、[[岳陽県|巴陵]]・[[華容県|華容]]・[[ゲン江市|沅江]]・[[湘陰県|湘陰]]・[[平江県|昌江]]の5県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志三</ref>。
[[621年]]([[武徳]]4年)、[[唐]]が[[蕭銑]]を平定すると、巴陵郡は巴州と改められた。[[623年]](武徳6年)、巴州は岳州と改称された。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、岳州は巴陵郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、巴陵郡は岳州の称にもどされた。岳州は[[江南西道]]に属し、[[岳陽県|巴陵]]・[[華容県|華容]]・[[江市|沅江]]・[[湘陰県|湘陰]]・[[平江県|昌江]]の5県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志三</ref>。


[[1119年]]([[宣和]]元年)、岳州に'''岳陽軍'''が置かれた<ref>『[[宋史]]』徽宗紀四</ref>。[[1155年]]([[紹興 (宋)|紹興]]25年)、亡き[[岳飛]]を誹る者の意見を採用して、岳州は純州と改称された<ref>『宋史』高宗紀八</ref>。[[1161年]](紹興31年)、純州は岳州の称にもどされた。[[宋 (王朝)|宋]]の岳州は[[荊湖北路]]に属し、巴陵・華容・[[平江県|平江]]・[[臨湘市|臨湘]]の4県を管轄した<ref>『宋史』地理志四</ref>。
[[1119年]]([[宣和]]元年)、岳州に'''岳陽軍'''が置かれた<ref>『[[宋史]]』徽宗紀四</ref>。[[1155年]]([[紹興 (宋)|紹興]]25年)、亡き[[岳飛]]を誹る者の意見を採用して、岳州は純州と改称された<ref>『宋史』高宗紀八</ref>。[[1161年]](紹興31年)、純州は岳州の称にもどされた。[[宋 (王朝)|宋]]の岳州は[[荊湖北路]]に属し、巴陵・華容・[[平江県|平江]]・[[臨湘市|臨湘]]の4県を管轄した<ref>『宋史』地理志四</ref>。

2021年3月1日 (月) 05:19時点における版

岳州(がくしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の湖南省岳陽市一帯に設置された。

概要

南朝梁のときに置かれた巴州を前身とする。

589年開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、巴州は岳州と改称された。606年大業2年)、岳州は羅州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、羅州は巴陵郡と改称された[1]

621年武徳4年)、蕭銑を平定すると、巴陵郡は巴州と改められた。623年(武徳6年)、巴州は岳州と改称された。742年天宝元年)、岳州は巴陵郡と改称された。758年乾元元年)、巴陵郡は岳州の称にもどされた。岳州は江南西道に属し、巴陵華容沅江湘陰昌江の5県を管轄した[2]

1119年宣和元年)、岳州に岳陽軍が置かれた[3]1155年紹興25年)、亡き岳飛を誹る者の意見を採用して、岳州は純州と改称された[4]1161年(紹興31年)、純州は岳州の称にもどされた。の岳州は荊湖北路に属し、巴陵・華容・平江臨湘の4県を管轄した[5]

1275年至元12年)、が岳州を占領した。1276年(至元13年)、岳州は岳州路総管府と改められた。岳州路は湖広等処行中書省に属し、録事司と巴陵・臨湘・華容の3県と平江州を管轄した[6]

1364年朱元璋により岳州路は岳州府と改められた。1376年洪武9年)、により、岳州府は岳州に降格された。1381年(洪武14年)、岳州は岳州府にもどされた。岳州府は湖広省に属し、直属の巴陵・臨湘・華容・平江の4県と澧州安郷石門慈利の3県の合わせて1州7県を管轄した[7]

のとき、岳州府は湖南省に属し、巴陵・臨湘・華容・平江の4県を管轄した[8]

1912年中華民国により岳州府は廃止された。巴陵県が岳陽県と改められた。

脚注

  1. ^ 隋書』地理志下
  2. ^ 旧唐書』地理志三
  3. ^ 宋史』徽宗紀四
  4. ^ 『宋史』高宗紀八
  5. ^ 『宋史』地理志四
  6. ^ 元史』地理志六
  7. ^ 明史』地理志五
  8. ^ 清史稿』地理志十五