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稲葉正諶

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稲葉正諶
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延2年9月29日1749年11月8日
死没 文化3年8月24日1806年10月5日
別名 幸之助、図書、兵部(通称
墓所 京都市妙心寺麟祥院
官位 従五位下丹後守従四位下侍従
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代
主君 徳川家治家斉
山城淀藩
氏族 稲葉氏
父母 稲葉正益稲葉正弘
兄弟 正弘正諶正尹仙石久功、於悦、
稲葉正峯正室
松平宗衍五百
正備正選正守広幡前秀室、
内藤頼以正室、大岡忠固正室ら
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稲葉 正諶(いなば まさのぶ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。通称は幸之助、図書、兵部。山城国淀藩7代藩主。官位従四位下侍従。正成系稲葉家宗家11代。

生涯

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5代藩主・稲葉正益の次男として誕生した。正室は松平宗衍の娘。側室が多数いる。

安永2年(1773年)11月6日、先代藩主で兄だった正弘が嗣子無くして早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。安永3年(1774年)3月1日、10代将軍徳川家治御目見する。同年9月21日、淀城の大破及び凶作の連続により、幕府から5000両を借用する。同年12月18日、従五位下・丹後守に叙任する。

天明元年(1781年)4月21日、奏者番に就任する。天明7年(1787年)4月19日、寺社奉行との兼任となる。天明8年(1788年)6月26日、寺社奉行を解任される。寛政4年12月16日(1793年)、従四位下に昇進する。享和2年(1801年)10月19日、大坂城代に就任する。文化元年(1804年)1月23日、京都所司代に就任し、侍従に任官する。寛政の改革にも参与している。

文化3年(1806年)8月24日、58歳で死去し、跡を次男の正備が継いだ。

系譜

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父母

正室

子女