北海道日本ハムファイターズ/log20230528
北海道日本ハムファイターズ | |
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会社名 | 株式会社北海道日本ハムファイターズ |
創設 | 1946年 |
今シーズン | |
2024年の北海道日本ハムファイターズ | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
札幌ドーム(北海道札幌市豊平区) | |
収容人員 |
札幌ドーム 固定客席:40,476人 フィールドシート:202人 車椅子用席:117人 ファミリーシート:50人 |
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永久欠番 | |
0:球団永久欠番 | 00:球団永久欠番 | 100:大社義規 | |
獲得タイトル | |
アジアチャンピオン(1回) | |
2006 | |
日本一(2回) | |
1962 | 2006 | |
リーグ優勝(6回) | |
1962 | 1981 | 2006 | 2007 | 2009 | 2012 | |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
2007 | |
成績(タイトル以外) | |
アジアシリーズ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
2006 | |
日本シリーズ出場(6回) (太字は勝利した年) | |
1962 | 1981 | 2006 | 2007 | 2009 | 2012 | |
クライマックスシリーズ出場(5回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
3勝2敗 | |
プレーオフ(2004-2006)出場(2回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
1勝1敗 | |
プレーオフ(前後期制)出場(2回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) | |
1勝1敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 小林浩 |
運営母体 | 日本ハム |
監督 | 栗山英樹 |
種類 | 株式会社 |
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略称 | HNF |
本社所在地 |
日本 〒062-8655 北海道札幌市豊平区羊ケ丘1番地 (札幌ドーム内) |
設立 | 2003年8月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 日本プロ野球球団の運営 |
代表者 |
小林浩(取締役オーナー) 津田敏一(代表取締役社長) |
資本金 | 2億円(2009年12月31日時点) |
純利益 |
3億2,900万円 (2009年12月期) |
純資産 |
10億4,700万円 (2009年12月31日時点) |
総資産 |
33億7,600万円 (2009年12月31日時点) |
決算期 | 12月末日 |
主要株主 |
日本ハム ほか(#グランドパートナーを参照。) |
関係する人物 | 大社啓二(取締役オーナー代行) |
外部リンク | http://www.fighters.co.jp/ |
特記事項:2004年に日本ハム球団株式会社より、プロ野球球団運営権を譲受。 |
北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団の一つである。
北海道を保護地域とし、道内札幌市豊平区にある札幌ドームを専用球場(本拠地)としており、2003年までの本拠地である東京都文京区にある東京ドーム(後述)を現在も準本拠地としており、更に道内の地方球場(後述)でも主催公式戦を開催している。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズスタジアムである。
球団の歴史
セネタース〜日拓時代
- 1945年11月6日、戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規に「セネタース(Senators、企業名:セネタース野球協会)」を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。
- 大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。
- 旧華族の西園寺公一をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。
- 東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある[1]。
- 1946年、9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。12月18日、東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却[2]。東急との仲介の労をとったのは小西得郎と浅岡信夫、黒川渉三という[3][4]。運営法人として、「株式会社東急ベースボール倶楽部」を設立。翌1947年の1月7日、球団名を「東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、Tokyu Flyers)」とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。
- 1948年4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスと幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、Kyuei Flyers)」に改称した[5]。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(大映ユニオンズを参照)。
- この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は「急映チックフライヤーズ(Kyuei Tic Flyers)」となる。「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス(Otsuka Athletics)のチックを絡ませた名称だった。
- 1954年1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社[6]に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を「東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、Toei Flyers ※東映フライヤーズ野球団とも)」に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。
- 1960年12月、前巨人の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。
- 1962年、東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区の明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる)。水原監督の下で土橋正幸と尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手(MVP)は土橋正幸と種茂雅之の2名が選出されるているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。
- 1964年、国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本勲、大杉勝男、白仁天、毒島章一ら強打者を擁した。
- 1968年は、草創期の人気選手・大下弘が監督就任(16年ぶりの球団復帰)したものの、シーズン途中で休養。結果、球団史上初の最下位に終わる。1970年、「黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。1971年には、名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任し、岡田の盟友で球団所有権を有する東急社長の五島昇と共に、大川色が強く不採算だった球団を手放すこととなる。
- 1973年1月16日、東京急行電鉄は球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝の経営する不動産会社・日拓ホームへ球団を売却。商号は日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、Nittaku Home Flyers)に改称(同年2月7日のパ・リーグ実行委員会で球団名変更を承認)。新オーナーの西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、結局不発に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで球団を身売りすることとなった。
日本ハム時代
後楽園時代
- 1973年11月19日に日本ハムへ売却。法人名は「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任。新ニックネームを一般公募し、12月17日、公募で選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、Nippon Ham Fighters)」となる。
- 1975年は前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わる。高橋直樹が17勝、大杉との交換で入団した小田義人が首位打者を争うも太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が高橋一三・富田勝との交換で巨人に移籍。中西は2年連続最下位の責任を取り辞任、大沢啓二が監督に就任。1976年・1977年、2年連続の総合5位に終わる。
- 1980年、新人の木田勇が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。打線も柏原、トニー・ソレイタ、トミー・クルーズのクリーンナップが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつける。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・江夏豊の交換トレードを行う。
- 1981年、前期は4位に終わるも後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。日本シリーズでは、同じ本拠地を使用する巨人と対戦となった為。史上初めて全試合が同一球場で行われた(第1戦の始球式は、鈴木俊一東京都知事が行った)。井上弘昭が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。
- 打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や菅野、高代といった小兵選手も活躍した。投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、間柴茂有が15勝無敗、岡部憲章が防御率1位、高橋一三も14勝を挙げた。江夏も広島時代から3年連続でセーブ王[7]となった。
- 1982年、後期に優勝するものの、プレーオフで前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。
- 1983年、パ・リーグの1シーズン制が再開。二村忠美が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。1984年、植村義信が監督に就任するも、最下位に低迷するなど、成績不振のため6月に辞任。終盤は大沢が代行を務め、オフには中日三沢淳を獲得。1985年、高田繁が監督就任。しかし、成績は85年・翌1986年と2年連続の5位。
- 1987年、新人の西崎幸広が15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区後楽)で建設中の東京ドームへ巨人とともに移転することとなる。オフに大宮龍男・田中富生が大島康徳・曽田康二との交換トレードで中日に移籍。
東京ドーム時代
- 1988年から2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎幸広や柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案といわれる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」「同一カード3連戦に指定日なし(例:「○月1日・2日・3日」と書かれており、この内だったら切符一枚につき一度、何時でも入場可)」といったイベントなどを打ち出す。しかし、この16年間でリーグ優勝は1回もなかった。
- 1988年、東京ドーム元年。西崎、松浦宏明が最多勝、河野博文が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。しかしチーム打率、得点数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位は確保したものの勝率は5割を切った。観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。オフに高代延博と広島鍋屋道夫・滝口光則とのトレード。大洋から若菜嘉晴を無償トレードで獲得。高田が監督を辞任、後任は近藤貞雄が就任。
- 1990年、柴田保光が対西武戦でノーヒットノーラン達成。新外国人のマット・ウインタースやドラフト1位酒井光次郎とベテラン若菜とのバッテリーが活躍するもののチームは4位だった、しかし勝率は5割を確保。
- 1992年、広島から移籍した金石昭人がチームトップの14勝。片岡篤史が新人ながらレギュラーで活躍したが、エース西崎が絶不調。主砲として期待していた田中幸雄が開幕戦でリタイア。ベストメンバーが組めず2年連続の5位に終わり、土橋はチームの成績不振の責任を取る形で1年で辞任。後任は大沢啓二が3度目の監督就任。
- 1993年、投手陣では西崎が復活。武田・前年リリーフエースだった白井康勝が先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。打撃陣では去年開幕戦だけしか出れなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された広瀬哲朗、ウィンタース・新外国人リック・シュー等の活躍により、優勝した西武にわずかの差でリーグ優勝を逃した。金石と田村藤夫が最優秀バッテリー賞を受賞。
- 1994年、46勝79敗5分で10年ぶりの最下位に終わる。3連敗以上を14度記録、逆に3連勝以上は3度しかなかった。9月29日の本拠地最終戦では試合終了後のセレモニーで大沢監督がファンの前で土下座している[8]。観客動員数が東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。大島が現役を引退。オフに木村拓也プラス金銭で広島長冨浩志とのトレード。大沢は監督辞任、後任は上田利治。
- 1995年、若手の岩本勉、今関勝、島崎毅、田口昌徳 、上田佳範、井出竜也らを積極的に起用。4位に終わる。西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成。2年目のキップ・グロスが、最多勝を獲得。田中幸雄が打点王獲得。オフに武田・松田慎司とダイエー下柳剛・安田秀之のトレード。田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。河野がFAで巨人へ移籍。
- 1996年、岩本・今関・芝草宇宙の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。グロスが二年連続で最多勝、4年目の金子誠が新人王を獲得。二軍は本拠地を神奈川県川崎市の日本ハム球団多摩川グランドから千葉県鎌ケ谷市のファイターズスタジアムに移転している。
- 1997年、前年オフに巨人を自由契約になった落合博満をヤクルトとの競合の末獲得。しかし、落合は不調、期待ハズレの結果に終わる。去年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み不調、合計20勝に終わる。新外国人のナイジェル・ウィルソンが本塁打王を獲得。上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。結果はリーグ4位。二軍は移転初年度にしてファーム日本選手権を制覇。オフに長年チームのエースだった西崎を西武石井丈裕と奈良原浩との交換トレード。金石が成績不振で解雇される[9]。
- 1998年、開幕投手候補グロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントに合うも、岩本が開幕戦完封勝利。関根裕之 金村暁 黒木純司が台頭。今関 芝草も前年の不調を脱出。ウィルソン、ジェリー・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦克拓を擁してビッグバン打線と呼ばれた。西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。開幕直前にヤクルトから移籍の野口寿浩が正捕手として活躍。前半戦は首位独走だったが、後半大失速。西武に逆転され優勝を逃した。ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。金村が最優秀防御率。片岡が最高出塁率獲得。落合が現役引退。
- 1999年、前年まで主に代打の切り札だった小笠原道大が捕手から一塁手に転向、「史上最強の2番打者」として大活躍。岩本が稲尾和久に並ぶ2年連続開幕戦完封勝利。しかし、4月の月間MVPを獲得した金村が4月末に怪我でシーズンの大半をリタイア。ウィルソンも怪我で離脱。前年ブレイクした西浦の不調。岩本、関根以外の投手の不調もあり、リーグ5位。上田が監督辞任。後任監督には大島康徳。
- 2000年、小笠原が最多安打。野口が捕手ながら最多三塁打を獲得。優勝争いに加わるも、エース岩本の不調等がありダイエーと西武に敗れて3位に終わる。
- 2001年、小笠原が最多安打。ルーキー中村隼人が初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し、7年ぶりのリーグ最下位に終わる。観客動員数が137万6000人まで落ち込む。片岡がFAで阪神へ移籍。
- 2002年、観客の増加を図るため、それまでプロ野球球団がなかった北海道の札幌市に本拠地を移す構想が、3月20日刊の北海道新聞でトップ記事になる。同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて[10]移転を受諾させ、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行うと発表した。小笠原が初の首位打者を獲得。3年目の正田樹が球団では金子以来、投手としては1980年木田勇以来の新人王である。しかし、チームは5位に終わる。大島が監督を解任され、後任はトレイ・ヒルマン。
- 2003年、東京ドーム最終年。翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは、2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、8月20日の対近鉄戦で3対1で初勝利する[11]。チームは2年連続の5位。小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得する。
- 8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる株式会社北海道日本ハムファイターズを設立。本拠地を札幌ドームに移転(事務所も東京都港区六本木六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。同時に日本ハム球団株式会社は、株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、特別清算手続きをとった[12]。二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、鎌ヶ谷市に「首都圏事業グループ」を設置している。なお、日本ハム球団株式会社は2005年2月1日付で特別清算終結決定が確定し、翌日付で登記簿が閉鎖(法人格消滅)されている。オフに新庄剛志(登録名「SHINJO」)を獲得。
札幌ドーム時代
ヒルマン監督時代
- 2004年、同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ出場を、千葉ロッテマリーンズとシーズン終盤まで争い、9月24日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決め、最終的に4位ロッテと0.5ゲーム差であったが、この年のプロ野球は近鉄とオリックスの球団合併による球界再編問題が取りざたされ、選手会はこの問題で9月18・19日の2日間、全球団それぞれ2試合ずつ計12試合でストライキを行い試合中止となり、代替試合は行われなかった事も影響した。
- プレーオフ第1ステージでは2位の西武に1勝2敗で敗退。フェルナンド・セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横浜から移籍の横山道哉が28セーブで最多セーブ。オフにメジャー移籍を目指していたヤクルトの稲葉篤紀をFAで獲得。球団初のFA選手獲得となる。ドラフト会議では1位指名した東北高校のダルビッシュ有の交渉権を獲得した。
- 2005年、元監督の高田繁が球団初のゼネラルマネージャー(GM)に就任。4月27日、日本ハム球団の初代オーナー大社義規が死去。背番号100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて永久欠番になった。この年から始まったセ・パ交流戦で11連敗を喫し、チームは5位に終わる。
- 2006年、4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表。セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップ。西武には7勝13敗と負け越したものの、ソフトバンクにはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスと東北楽天ゴールデンイーグルスにはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。プレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し、25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げると、中日との日本シリーズを4勝1敗で制し、10月26日に44年ぶりの[13]日本一に輝く。11月12日、アジアシリーズでも優勝を飾り、アジア王者となった。
- 打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王。投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録する。八木智哉が12勝を挙げて新人王をとなる。この年のリリーフは武田久とマイケル中村の2人の名前を取ってHisashi And Micheal、略してHAM(ハム)と呼ばれた[14]。岡島秀樹が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。時々andを「&」と表現し「H&Mの方程式」とすることもある。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。
- オフには、宣言通りSHINJOが引退。小笠原が巨人へ、岡島が大リーグ・ボストン・レッドソックスへそれぞれFA移籍。ドラフトで日本大学の長野久義をドラフト指名するも入団を拒否される。戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。
- 2007年、5月19日の対ソフトバンク戦から交流戦を挟み、6月8日の対ヤクルト戦まで、球団史上最長となる14連勝を記録し、6月23日には18勝5敗でセ・パ交流戦初優勝を決めた。ライアン・グリンが5勝0敗で交流戦MVPを獲得した。9月19日、クライマックスシリーズ進出を決め、9月29日に球団史上初のリーグ2連覇を達成した。ロッテとのクライマックスシリーズ第2ステージを3勝2敗で制した。日本シリーズで前年と同じ中日と対戦し、初戦に勝つもその後4連敗となり、第5戦では山井大介と岩瀬仁紀の継投による完全試合[15]もあり、1勝4敗で連覇はならなかった。稲葉が自己最高の打率.334、176安打で首位打者と最多安打の2冠を獲得した。
- 10月3日、高校生ドラフトで中田翔の交渉権を阪神・オリックス・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で仮契約を交わした。オフには田中幸雄が引退し、監督のヒルマンとGMの高田が退団した。後任監督は梨田昌孝。
梨田監督時代
- 2008年、開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人[16]であったなど多くの故障者に悩まされた。ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。10月11日、10月12日、クライマックスシリーズでは第1ステージではオリックスを2勝0敗で勝利したが、続く第2ステージで西武に2勝4敗で敗退した。
- 2009年、4月15日、金子誠が日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。8月18日、ヘッドコーチの福良淳一、ターメル・スレッジ、宮西尚生が新型インフルエンザに感染した。球界初の新型インフルエンザ感染者となった[17]。10月6日の札幌ドームで対西武戦に勝利するが、試合途中に楽天がロッテに敗れたため、その時点で2年ぶり5度目のリーグ優勝が決まった。年間主催試合観客数が199万2000人と、札幌移転後では過去最高を記録した。
- 投手陣ではダルビッシュと武田勝以外に規定投球回数に達した投手はいなかったが、巨人から移籍した林昌範、江尻慎太郎、宮西、菊地和正らリリーフ陣が成長し、ストッパーに転向した武田久は無敗のまま最多セーブ投手に輝いた。野手陣では大野奨太、巨人から二岡智宏らが加入し、更に投手から野手に転向した糸井嘉男の成長もあった。その結果、稲葉、糸井、高橋、金子誠が打率3割を超える活躍(稲葉以外シーズン3割はこの年が初)となり、チーム打率はリーグトップだった。対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが、他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。クライマックスシリーズ第2ステージで、楽天を4勝1敗で下し、日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズでは巨人と対戦、2勝4敗で日本一を逃した。11月22日、札幌市中心部でパリーグ優勝記念パレードが行われ、約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。
- 球団史上最多となる7人[18]の選手がゴールデングラブ賞を受賞する。藤井秀悟が巨人へFA移籍。
- 2010年、1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身した小林繁が心不全の為、57歳で急逝。それに伴い1月23日、二軍投手コーチの島崎毅が一軍投手コーチに就任。
- 開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥る[19]。シーズン序盤は黒星を重ね、借金を最大14とするが、交流戦終了後の7月1日に勝率を5割にする。最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから2ケタ勝利を挙げた。最終戦まで、ロッテとCS争いをしたが、10月1日に5年ぶりのBクラスとなる4位が決定した[20]。
- 10月28日、2010年ドラフト会議で、早稲田大学の斎藤佑樹の交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月18日、中継ぎ投手での10勝を挙げた榊原諒がチームでは4年ぶりの新人王を獲得。12月9日、札幌ドームで斎藤佑樹単独の入団会見が行われた。オフには建山義紀が大リーグ・テキサス・レンジャーズへ、森本稀哲が横浜へそれぞれFA移籍した。
- 2011年、この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で当初予定されていた3月25日の開幕が4月12日に延期となった。5月26日から6月4日にかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細は下述を参照)。交流戦は16勝8敗で3位となっている。7月27日、 対オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成。ソフトバンクとの優勝争いとなったが、9月に直接対決で3連敗するなど6勝16敗1分と大きく負け越しことが響き、最終的には首位から17.5ゲーム差の2位となった。西武とのクライマックスシリーズファーストステージでは2連敗で敗退している。二軍では2004年以来7年ぶりのイースタンリーグ制覇を成し遂げている[21]。
- 8月27日、梨田が今年の成績如何にかかわらず、同年限りでの監督退任の報道が流れ[22][23]、9月15日に正式に梨田の監督退任が発表された[24]。梨田の後任は栗山英樹[25]。
- ドラフト会議では1位で東海大の菅野智之を指名し、交渉権を巨人との競合の末獲得したが、入団には至らなかった。7位に早稲田大学ソフトボール部の大嶋匠を指名しているが、ソフトボール部出身者では日本球界初となった。
栗山監督時代
- 2012年1月、ダルビッシュ有がポスティングシステムを利用して大リーグ・テキサス・レンジャーズに移籍。
- 3月30日、開幕戦の対西武戦(札幌ドーム)に勝利[26]、前半戦はロッテと首位を争い、5月6日に首位となっているが、交流戦は14勝8敗で2位、その後、ロッテに首位を奪われ、前半戦を2位で折り返す。後半戦は西武との首位争いとなり、9月15日に首位に立ち[27]、9月28日に優勝へのマジックナンバー4を点灯させる[28]。マジック1とした10月2日、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決めた[29]。クライマックスシリーズファイナルステージは3位ソフトバンクと対戦し、3連勝で通算成績を4勝0敗として日本シリーズ進出を決定[30]、日本シリーズでは巨人と対戦、2勝4敗で敗退している[31]。田中賢介が海外FA権を行使してMLBに挑戦することを表明し[32]、ジャイアンツに入団[33]。
- 2013年、糸井嘉男、八木智哉とオリックス・木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾の2-3のトレードが成立。[34]
チームの特徴
球団史上、生え抜き監督(当球団のみで現役生活を終えた後に監督を務めた人物)は保井浩一、土橋正幸の2人のみである(なお、土橋は日拓時代の1973年と日本ハム時代の1992年に監督を務めたが、その間の1984年から1986年にヤクルト監督を務めた事がある)。また、1992年の土橋退任後の6人については、現役生活22年のうち最後の7年間在籍した大島康徳を除いて、日本ハムでプレーした経験がない完全な外部招聘監督である。
歴代の4番打者も他球団から移籍した選手が多い。小田義人(ヤクルト)、柏原純一(南海)、落合博満(巨人)、外国人では1990年から1994年のマット・ウインタース、1999年から2002年のシャーマン・オバンドー、2004年から2007年まで、4番に座っていたフェルナンド・セギノールなどである。80年以降、半シーズン以上定着した生え抜きの4番打者は古屋英夫、田中幸雄、高橋信二、小谷野栄一、中田翔のみである。
チーム名が日本ハムに変わってからトレードによる補強が積極的に行われ、他球団と比較しても多い。それは生え抜きレギュラーやチームの顔、またタイトルホルダーも例外ではなく、特に主力捕手が入団から引退までいたケースが皆無に等しい。この積極的トレードの姿勢は監督・フロントとして長年務めていた大沢啓二によるチーム体質改善が今も受け継がれている。
2006年以降で見ると、同年3月24日に行われた岡島秀樹と實松一成・古城茂幸のトレードから数えて、22人の選手がトレードによる入団、24人の選手が退団であり、これは毎年約6人の選手がトレードで入れ替わるペースである。ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり、その根拠となっているものは「ベースボール・オペレーション・システム(BOS)」という情報システムである[35]。これは所属選手をセイバーメトリクスを元に成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正に育て、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持し、登録選手全員を戦力として活用することを目標としたものである[35]。BOSは千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス[36]、読売ジャイアンツ[37]にも採用されているが、他球団ではセイバーメトリクスに未だ懐疑的で日本ハムほど重用されていない。[38]過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。(山田正雄GM)」[39]とこだわらない方針である。背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。
上記の通り年俸総額を抑えるため、ほとんどが高年俸であるフリーエージェント(FA)選手の獲得には基本的には消極的である。そんな中、2004年オフに唯一稲葉篤紀をFAで獲得している[40]。
過去1人も育成選手を採用しておらず、現在は12球団中唯一となっている。過去に育成枠に大学生を指名しようとしたが、その大学生が既に内定を得ていたため、NPBから「内定者への育成枠指名は禁止」と通達され断念。現在、「いくら個別練習しても、実戦体験に勝る練習は無い」という方針で、選手の出場機会を増やすために取ってはいない。
過去1人も盗塁王を出していない。張本勲と島田誠は、かつて共に通算300盗塁を記録したが、広瀬叔功や福本豊がタイトルを保持し続けた期間が長く、タイトルを取れなかった。
本塁打の出やすい東京ドームを本拠地としていた時代はビッグバン打線を中心とした攻撃型チームだったが、広い札幌ドームに本拠地を移転したことと、2005年に5位に終わった事で監督のトレイ・ヒルマンがチーム方針を転換したことを機に、2006年以降は投手力・守備力主体のチームとなり、犠打や走塁による得点を目指すスモールボール型のチーム編成となった。
球団の観客増加戦略
札幌ドーム移転後、球団は以下の観客増加策を打ち出し、チームの好成績も相まって東京ドーム時代よりも大幅に観客が増加した。2005年以降は、1993年以来の100万人超の観客動員を続けており、200万人に迫った年もあった。これはソフトバンクに次いでリーグ2位の観客動員数である。
- なまらチケット
- 公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、平日ナイターの午後7時15分以降の入場者を対象に通常価格の約半額で入場できる「715チケット」(2007年までは午後7時30分以降の入場者を対象とした「730チケット」)を発売している。これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら!超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。
- チョッQR
- 2009年には12球団初の、携帯電話のQRコードによって、チケットレスで入場できるシステム「チョッQR」を導入した。
- KONKATSUシート、シンデレラシート
- 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募があったが、逆に男性の応募が半分以下に留まったため、急きょ定員を600人に増員した。初日に28組が、二日目には34組のカップルが成立した。因みに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。
- 2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。[41]
- ウィークデー割引
- 曜日ごとに対象者が変動する割引制度であり、火曜日は60歳以上と学生を対象にした「シニア&学生デー」、水曜日は女性全員を対象にした「レディースデー」、木曜日は公式ファンクラブ会員を対象にした「ファンクラブデー」、金曜日は男性全員を対象にした「メンズデー」で、いずれも当日券がある場合に限り、ほとんどの座席が一般価格の半額で入場できる。
- なお、これは東京ドームでの公式戦でも実施されており(一部異なる場合あり)、札幌ドームの試合では試合開始前の1時間前まで買えないが、東京ドームの試合では当日の午前10時から買える。購入は当日券売り場、札幌ドームの試合のみファイターズステーション(札幌駅北口付近)でも可能で、2011年から金曜日が無くなり、火曜日が「メンズ&シニアデー」、水曜日が「レディース&学生デー」になった。
- 東京時代
- 戦前の東京セネタースとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。ただし、セネタース・東急時代の節にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。
- 1947年から1973年に使われた愛称「フライヤーズ(Flyers)」は鳥の英語表現から取っているが、東京急行の「急行」の意も含むという説がある。水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。「フライヤーズ」の商標は現在も東映が保有し、2007年まで東映アニメーションの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使われておりサイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使われていた。
- 1962年にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに親会社・東映が「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。
- 2003年までのフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。同時にパリーグ初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。
- 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、都市対抗野球による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「死のロード」に匹敵するものだった。1996年、1998年前半首位を走っていたが8月に失速して優勝を逃している。 特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた[42]。
- 札幌時代
- 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロサッカー・Jリーグのコンサドーレ札幌がホームスタジアムとして使っていた(札幌厚別公園競技場と併用)。プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で[43]、球団事務所もそれぞれ札幌ドーム内に併設されている。2006年には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。
- 札幌ドームでは、施設のレイアウト面やアクセス面で三塁側の方が便利であり、スコアボードとして使われている電光掲示板が三塁側からの方が見易いため、ホームチームが三塁側ダグアウトを使う。ホームチームが三塁側ダグアウトを使うのは日本では二軍を除いて、日本ハムが初である(なお、東京ドームや道内の地方球場で開催される主催試合では一塁側ダグアウトを使用)。
チームスローガン
東京時代
- 1993年:「はつらつベースボール」
- 1994年:「はつらつベースボール Part2」
- 1995年:「Aggressive&Dramatic」
- 1996年:「更なる挑戦」
- 1997年:「大いなる挑戦」
- 1998年:「乾坤一擲」
- 1999年:「Vへ一丸!」
- 2000年 - 2002年:「Be tough,Stay tough,Win tough」
- 2003年:「Ethos Pathos Logos(エトス・パトス・ロゴス)」〜勝利への精神、勝利への情熱、勝利こそ意義〜
札幌時代
- 2004年:「New Home,New Identity,New Dreams.」
- 2005年:「Faith,Hope,Love The Game」
- 2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong!」
- 2007年:「Focus,Advance,Nexus Spirit」
- 2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」〜F・A・N・S '08〜
- 2009年:「Re:Challenge」
- 2010年:「Feel it !」
- 2011年:「ONE_1」
- 2012年:「9+ NinePlus」
- 2013年:「純 -ひたむきに-」
応援スタイル
- 東京時代
1980年代前半頃の応援スタイルは、トランペットを使わず、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(このスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承した)[44]。
トランペットを使うようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、交流戦のビジターで投手が打席に立つ場合には、投手用の汎用応援歌を歌う[45])。原則的には1回目は演奏なしでアカペラで歌い、2回目以降はトランペット演奏で歌うが、森本稀哲などファンファーレのある場合はそれに続けて1回目から演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後で最初からトランペット演奏が始まる選手もいる。これ以外にも非公式だが、一部の選手には応援歌に合わせた動きをすることもある。
1980年代から1990年代後半までは、相手選手凡退時に凡退テーマを演奏していたが、現在では関西地区9回裏限定で行っている。
- 札幌時代
札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには『北の国から』、得点が入った時のテーマが「I'm A 北海道MAN」の「おーいおーい北海道」の部分など地元をイメージした応援歌[46]になっている。また、東京時代は本拠地東京ドームでは使えなかった太鼓が札幌ドームで使用可能となり、ホームゲームでも太鼓を使うようになった[47]。
なお移転後も、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」は引き続き歌われている。歌い手にささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。2007年からは速水の再録音版を使っている。2011年途中から諸事情で歌唱の入っていないカラオケバージョンになるが、翌2012年より再び、速水歌唱バージョンを使用。
東京ドームなど関東の球場でも応援するために、札幌移転後も東京の応援団は存続している。このため東京のファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われ、2007年から東京ドームでの試合のみ、ホーム・ビジター試合を問わず全試合で、東京ドーム本拠地時代の応援スタイルを使う(ただし、移転後にできた「北の国から」等のチャンステーマを使う時もある)。
ホームゲームで相手投手がノックアウトで降板するときは「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌う。東京時代は海援隊の「贈る言葉」を応援団が演奏していた。札幌移転後もビジターゲームでは演奏する時がある。
2007年後半から、鳴り物が禁止されている宮城球場の試合で、宮城球場限定の鳴り物なしでの応援スタイルとチャンステーマを取り入れた。2008年からは関東限定で映画『チキ・チキ・バン・バン』の主題歌[48]、札幌ドーム限定で「ジンギスカン」[49]、2010年は、沖縄限定で『ハイサイおじさん』、東京ドーム限定でかつての球団歌『それゆけぼくらのファイターズ』と、地域別あるいは球場別でチャンステーマを取り入れている。
北海道移転当初の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがあった。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB.Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風であった。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。
札幌ドームの試合等、北海道での試合では、日本ハムの投手が3ボールになって、カウントを悪くしてしまうと、投手を応援する為の拍手が自然に起こる。
試合後、日本ハムが勝った場合に電光掲示板のカウントダウンと共にスタンド最上段(3階)から金色の紙テープがバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う[50]。移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかること、野球・サッカーの共用スタジアムという性質上の問題などから2005年に廃止された。しかし勝利セレモニー復活の希望が多かったため、清掃しやすいスタイルになった。(札幌ドームのみ)。2011年からは金テープのバズーカから勝利の花火に変更された。
稲葉の打席では「稲葉ジャンプ」と呼ばれるジャンプが起こる。なお、2011年は東日本大震災の被災者に配慮してシーズン中は自粛していたが、クライマックスシリーズで復活した。金子誠の打席では、新撰組の「誠」の隊旗や法被が応援に使われている。
- ビニール風船を使った応援
2005年頃から特定の選手へのビニール風船を使った応援が始まった。
- 小笠原道大(2005 - 2006年):イルカ - 一時期、札幌市内と近郊の100円ショップからイルカの風船が消えるまでになった。
- セギノール(2005 - 2007年):バナナ
- 森本稀哲(2007年 - 2010年):緑色のマイク。これは森本本人がヒーローインタビューで歌ったりするなどマイクパフォーマンスに長けていることからファンの有志が考案したものが広まったもので、札幌ドームの近所のファンが集まるラーメン屋で5000個作られて販売されたものである。
- 田中賢介(2008年 - 2012年):人差し指だけ伸ばしたピンクの手
- スレッジ(2008年 - 2009年・2012年):ハンマー
- 鶴岡慎也(2008年 - ):鶴または、ガチャピンのバット - 札幌では鶴が普及している。
- 札幌ドームでは長らくジェット風船を膨らませての応援が禁じられていた(東京ドームも同様)。理由は、札幌ドームはバックスクリーン奥にあるサッカー・ラグビー用天然芝ピッチの出し入れに必要な隙間に風船が挟まって移動に支障をきたす恐れがあるため(東京ドームはエアドームなので空気圧の膨張で風船が割れる恐れがあるため)。なお、札幌ドームでは2011年6月12日の対横浜戦に限り、限定的に使用が許された(ただし、衛生の観点から口から膨らますことは禁止され、専用ポンプを使っての応援のみ認められていた)。2012年から札幌ドームで行われる全試合で使用可能になった[51]。日本ハムファンは7回表終了後に青色の風船を飛ばし、勝利時には金色の風船を飛ばしている。
ラッキー7を6回裏に
2009年より、日本ハム主催試合ではファイターズのラッキー7を6回裏に行う事になった。これは、6回の得点が7回よりも多いことなどから、ラッキー6としたものである。[52]同時に、2008年までラッキー7のBGMとして流れていた「GO!GO!ファイターズ」に代わり、ラッキー6のBGMとして、4月は「ファイターズ讃歌」[53]を、また5月1日の西武戦からは「ファイターズ賛歌」に代わり新応援歌「La La La FIGHTERS」を流している(「ファイターズ讃歌」は、勝利時にインストを流している。)。
場内アナウンスでも6回裏の攻撃の際に、「6回の裏、ファイターズ、ラッキーイニングの攻撃は…」と流している。
なお、ファイターズの7回裏には逆に何のイベントもなくなり、ビジターチームのラッキー7は通常どおり7回表に行っている。ただし札幌ドームのみ、B☆Bバズーカを6回表終了から試合開始前(2009年は7回表終了時)に移動した。2012年からは道内主管試合(札幌ドームでも条件付でジェット風船[54]打ち上げが解禁となったため。東京ドームは従来どおりジェット風船の使用は全面禁止)で7回裏のセレモニーが行われるようになった。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回 (1962年、1981年※、2006年 - 2007年、2009年、2012年)
- 日本一 2回 (1962年、2006年)
- クライマックスシリーズ優勝 3回(2007年、2009年、2012年)
- アジアチャンピオン 1回 (2006年)
- セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年)
- Aクラス 27回 (1959年、1961年 - 1967年、1978年 - 1983年、1987年 - 1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年 - 2009年、2011年 - 2012年)
- Bクラス 40回 (1946年 - 1958年、1960年、1968年 - 1977年、1984年 - 1986年、1989年 - 1992年、1994年 - 1995年、1997年、1999年、2001年 - 2003年、2005年、2010年)
- 連続Aクラス入り最長記録 7年 (1961年 - 1967年)
- 連続Bクラス最長記録 13年 (1946年 - 1958年)
- 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期)
- レギュラーシーズン優勝 4回 (1982年、2006年 - 2007年、2009年、2012年)
- 最長連勝 14連勝 (2007年)
- 最多勝 83勝 (1961年)
- 最多敗 80敗 (1956年)
- 最多引分 13分 (1984年)
- 最高勝率 .611 (1961年)
- 最低勝率 .364 (1955年)
- 最小ゲーム差 1.0(2位:1993年)
- 最大ゲーム差 48.0ゲーム(8球団中7位:1955年)
※1981年の優勝はロッテとのプレーオフで勝利したことによる。年間最高勝率は西武とのプレーオフで敗退した1982年を含む7回。
その他の記録
この節の加筆が望まれています。 |
- シーズン最多得点 771点(2000年)
- シーズン最多安打 1370本(2009年)
- シーズン最多二塁打 290本(2009年・日本プロ野球記録)
- シーズン最多三塁打 56本(1961年)
- シーズン最多本塁打 178本(2004年)
- シーズン最少本塁打 40本(1955年)
- シーズン最多打点 735打点(2000年)
- シーズン最少打点 312打点(1947年・2リーグ制以降は1951年の324打点)
- シーズン最多盗塁 185盗塁(1979年)
- シーズン最多三振 1151三振(2005年・パ・リーグ記録)
- シーズン最高打率 .281(2004年)
- シーズン最低打率 .216(1956年)
- シーズン最高防御率 2.39(1961年)
- シーズン最低防御率 4.98(1984年)
- シーズン最多セーブ 48セーブ(2006年・パ・リーグ記録)
- ゲーム最多得点 22点(1949年11月19日対大陽)
- ゲーム最多安打 28本(2008年10月1日対楽天)
- ゲーム最多二塁打 9本(2004年5月12日対ロッテ、2009年4月19日対西武・パ・リーグ記録)
- ゲーム最多三塁打 6本(1946年7月14日対ゴールドスター)
- ゲーム最多本塁打 7本(1950年5月31日対毎日)
- ゲーム最多盗塁 9盗塁(1979年6月5日対西武)
- ゲーム最多犠飛 4犠飛(1982年7月3日対近鉄・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多死球 7死球(1979年5月12日対ロッテ・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多暴投 5暴投(2003年4月18日対西武・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多ボーク 4ボーク(1974年7月17日対近鉄・日本プロ野球記録)
- 5者連続本塁打(1971年5月3日対ロッテ10回表・日本プロ野球記録[55])
- 4者連続二塁打(2009年7月29日対ロッテ1回表・パ・リーグ記録)
- 先頭打者から4者連続二塁打(同・日本プロ野球記録)
- 5試合連続無失点勝利(2011年5月28日対広島1回戦から6月3日対ヤクルト3回戦まで・日本プロ野球記録[56])
- 52イニング連続無失点(2011年5月26日対中日2回戦6回裏から6月4日対ヤクルト4回戦2回裏まで・日本プロ野球記録[57])
2000本安打達成者
- 同じく名球会入りの基準である通算200勝及び通算250セーブ達成投手はいない。
- 特記無い場合の安打以外の記録は達成当時のもの
- 39歳10ヶ月、2290試合での達成は2012年現在、最年長記録
- 8413打席数での達成は史上最多、2205試合目は2番目に遅い記録
無安打無得点試合達成投手
- 高橋善正 (1971年8月21日 対西鉄(後楽園球場) スコア 4-0) ※完全試合達成でもある。
- 高橋直樹 (1973年6月16日 対近鉄(後楽園球場) スコア 1-0)
- 田中幸雄 (1985年6月9日 対近鉄(後楽園球場) スコア 12-0)
- 柴田保光 (1990年4月25日 対近鉄(東京ドーム) スコア 3-0)
- 西崎幸広 (1995年7月5日 対西武(東京ドーム) スコア 1-0)
- 参考記録[58]
- 先発八木が10回まで無安打無得点で抑えるものの、味方打線が点を取れないまま降板、その後11回を武田久、12回に挙げた1点をその裏MICHEALが抑えて勝利している。
- 1941年以来65年ぶりで64シーズンぶり、戦後かつ2リーグ制以降初めての継投によるノーヒットノーランで、延長戦かつ3人の投手で抑えたのは日本プロ野球史上初めてとなる。
- また、八木の「先発投手が安打も得点も許さないまま9回以上を投げて途中降板」と言うのも日本プロ野球史上初めてとなる。
サイクル安打達成打者
- 浅原直人 1952年4月20日 対近鉄(川崎球場)
- 毒島章一 1957年6月23日 対近鉄(駒沢球場)
- 張本勲 1961年5月7日 対近鉄(駒沢球場)
- 大宮龍男 1980年7月29日 対南海(大阪球場)
- 田村藤夫 1989年10月1日 対ダイエー(平和台野球場)
歴代本拠地
- 1948年 - 1953年 後楽園球場(※1)
- 1953年 - 1961年 駒澤野球場(※1)
- 1962年 - 1963年 明治神宮野球場(※2)
- 1964年 - 1987年 後楽園球場
- 1988年 - 2003年 東京ドーム
- 2004年 - 札幌ドーム
※1 1953年8月まで後楽園球場を使い、同年9月より駒澤野球場へ移転。
※2 学生野球シーズンの使用が認められず、その時期は後楽園球場などを使った。後楽園球場が本拠地となった1964年から1977年頃まで、後楽園球場で他球団の試合が開催され、且つ神宮球場を本拠地とするアトムズ・スワローズの試合が組まれていない場合に限り準本拠地として神宮球場を使用している
歴代監督
- 1946年 : 横沢三郎
- 1947年 - 1948年 : 苅田久徳 ※1・2
- 1949年 - 1950年 : 井野川利春 (第1次) ※3
- 1951年 : 安藤忍
- 1952年 - 1954年 : 井野川利春 (第2次) ※4
- 1955年 : 保井浩一
- 1956年 - 1960年 : 岩本義行 ※5
- 1961年 - 1967年 : 水原茂
- 1968年 : 大下弘 ※6
- 1969年 - 1970年 : 松木謙治郎
- 1970年 - 1973年 : 田宮謙次郎 ※7
- 1973年 : 土橋正幸 (第1次)※8
- 1974年 - 1975年 : 中西太 ※9
- 1976年 - 1983年 : 大沢啓二 (第1次)
- 1984年 : 植村義信 ※10
- 1984年 : 大沢啓二 (第2次)
- 1985年 - 1988年 : 高田繁
- 1989年 - 1991年 : 近藤貞雄
- 1992年 : 土橋正幸 (第2次)
- 1993年 - 1994年 : 大沢啓二 (第3次)
- 1995年 - 1999年 : 上田利治 ※11
- 2000年 - 2002年 : 大島康徳
- 2003年 - 2007年 : トレイ・ヒルマン ※12・13
- 2008年 - 2011年 : 梨田昌孝
- 2012年 - : 栗山英樹
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここから東急フライヤーズ(第1次)
- ※2 ここから急映フライヤーズ
- ※3 ここから東急フライヤーズ(第2次)
- ※4 ここから東映フライヤーズ
- ※5 1960年は前半戦まで指揮、残り試合は保井浩一が代行
- ※6 1968年は8月4日まで指揮、残り試合は飯島滋弥が代行
- ※7 ここから日拓ホームフライヤーズ
- ※8 シーズン後期のみ指揮
- ※9 ここから日本ハムファイターズ
- ※10 1984年は6月26日まで指揮、6月28日までは矢頭高雄が代行
- ※11 1996年は9月9日まで指揮、残り試合は住友平が代行
- ※12 ここから北海道日本ハムファイターズ
- ※13 2005年は7月18日から28日までの6試合を白井一幸が代行
主な出資企業
現在の本拠地移転にあたり2003年8月に設立した運営会社(新法人)「株式会社北海道日本ハムファイターズ」には、元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。歴史の項でも触れたとおり、旧法人である「日本ハム球団株式会社」(日本ハム100%出資子会社。前身の「セネターズ野球協会」時代の1946年設立)から新法人への事業(球団)譲渡という形をとり、旧法人は2004年に特別清算手続きにより解散・法人消滅となっている。
グランドパートナー
ゼネラルパートナー
ユニフォームの変遷
ユニフォーム(一軍)
- 東京時代
- 1946年 最初のユニフォームは阪急軍からのお下がり(1936年創立当時のユニフォーム)で、阪急軍の「H」マークに変わりセネタースの「S」のマークを付けた。
- 1947年 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。現在のビジター用にあたるダークグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。
- 1948年 - 1949年 大映球団と合併し球団名が急映フライヤーズとなる。大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。
- 1949年 球団名が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T.K.K」に変更。胸マークには、熊のマスコットが描かれている。
- 1950年 2リーグ分立を機にロゴを変更。左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。
- 1951年 - 1952年 ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。また、縦縞が初登場。ビジター用は「TOKYO」。1954年に「TOEI」となるがデザインはそのまま。
- 1953年 - 1960年 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。1954年から球団の親会社が東映となり、球団名も「東映フライヤーズ」となる。ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。帽子は、こげ茶地にオレンジ色で「F」。
- 1961年 - 1967年 水原茂監督就任に伴い、水原の古巣・読売ジャイアンツをモチーフに、こげ茶とオレンジを基調とした物に変わる。左袖には親会社・東映の社章(東映マーク)に「TOEI」のロゴが入る。
- ホーム用は「FLYERS」ロゴが大文字になって字体も一新され、頭文字の「F」の字に飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという物だった。
- ビジター用は、グレーの地色が淡くなり、胸ロゴが「TOEI」から「TOKYO」に変更される。
- 1967年後半のみ、ビジター用ユニフォームが変更。地色が鮮やかなスカイブルーとなり、縁取り、ライン、東映マークに使われていたオレンジが金糸に代わり、胸ロゴが「TOEI」に戻る。
- 1968年 大下弘監督就任に伴い、赤と青を基調としたユニフォームに変更。帽子は紺色になり、Fマークが菱形風に変わる。袖、パンツ、ポケットには赤・青の2本ライン、アンダーシャツ、ストッキングは青地、ストッキングには白・赤・白のラインが入る。左袖の東映マークは赤地に白抜き、青のライン。また、Flyersロゴが戦後すぐに使われていた筆記体に戻る。
- 1969年 - 1971年 松木謙治郎監督就任により、モデルチェンジ。赤と紺を基調としたものになる。
- 1972年 田宮謙次郎監督就任により、ニット式ベルトレスユニフォームを採用。前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。帽子は紺地に金糸でTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく(ビジター用はラインの模様がホーム用と逆)。背番号の書体がセリフ体となり、ビジター用のみ背番号の上に選手名が入る。
- 1973年前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来どおりで、帽子のマークがNとFの組み合わせとなり、左袖には日拓マーク、さらにビジター用の胸のマークが「NITTAKU HOME」(胸番号がなくなる)と、マイナーチェンジが行われる。
- 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。(#7色のユニホームを参照。)
- 1974年前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。帽子のマークと左袖には親会社・日本ハムのブランドマーク(社章)と「ニッポンハム」ロゴ(左袖のみ)。パンツのサイドには2本の極太ラインが入る。
- ホーム用は紺(縁取り:赤)の「Fighters」ロゴ。背番号、胸番号の書体は斜体がかった独特のものになる。首・袖・腰・パンツのラインは紺・赤で、紺地のストッキングには赤で親会社のブランドマークの刺繍が入る。
- ビジター用はスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「Nippon Ham」ロゴ、ロゴと背番号にはナール式(丸)文字を採用。選手名、胸番号は無し。帽子もスカイブルー、首、袖、腰、パンツのラインは赤・白。
- 1974年後期 - 1981年 ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用。基本カラーが青とオレンジに変わり、背番号と胸番号(ホーム用のみ)が角文字になり、袖とパンツのサイドラインが消える。首にはオレンジと紺の2本ライン、腰はオレンジ・紺・オレンジの3本ライン。途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。
- 1982年 - 1992年 アストロズのレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。採用前年のリーグ優勝へのご祝儀と、継ぎ接ぎが目立っていた旧ユニフォームに対する評判を覆すためにモデルチェンジした[60]。胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした。帽子のマークが白抜きの「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に青字で「TOKYO」の文字の刺繍が入る。
- ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「ニッポンハム」。
- ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「Nippon Ham」。
- 1988年から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなる。スパイクも白地にオレンジラインに変更。
- 1993年 - 2003年 大沢啓二監督復帰により、デザインを一新。濃紺が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になった。12年ぶりに縦縞が復活(ホームは白地に濃紺の縦縞、ビジターはグレー地に濃紺の縦縞)し、帽子のロゴが「Fs」になる。
- ホーム用は、左胸に濃紺にオレンジの縁取りで「Fs」、右胸に胸番号がつく。
- ビジター用は胸に濃紺にオレンジの縁取りで「NIPPONHAM」、胸番号は左につく。
- 2001年からは右胸に親会社の広告が入るようになる。
- 札幌時代
- 2004年 - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。ユニフォームを一新。帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。また、プロ野球初の左右非対称デザインを採用した(右肩は地の色と同じだが左肩が黒、甲冑をイメージしている)。ホーム、ビジター共に胸番号が消える。帽子のロゴは上から“ボール・七芒星・文字「F」”の順に重なったデザインとなっている。デザインを担ったのはシアトル・マリナーズなどのCI(コーポレート・アイデンティティ)を手掛けている米企業のSME社である。
- 2007年 8月17日 - 19日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」と銘打ち、3連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入り、ユニフォームの生地の色は青、左肩は黒。帽子は本体が黒、つばが青のものを使用。
- 2008年 7月22日 - 27日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2008」と銘打ち、6連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年と同じだが、ユニフォームの生地の色は黒、左肩が青。帽子は本体が青、つばが黒で前年とカラーリングが逆転している。
- 2009年 札幌円山球場で6月10日に行われた対横浜ベイスターズ戦を除く道内地方(旭川・函館・帯広)開催の全試合と、9月11日 - 13日に札幌ドームで行なわれる3連戦を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2009」と銘打ち、限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年までと同じだが、生地の色は紺色で、左肩と首回り、ボタン部分に北海道をイメージする花でもあるラベンダーカラー(薄紫)を採用。帽子は本体が紺、つばが薄紫(ラベンダー)。
- 2010年 7月9日 - 11日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」と銘打ち、3連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年までと同じだが、ユニフォームの生地の色は北海道の「豊穣の実り」をイメージした黄金色、左肩が黒。帽子は本体が青、つばが黄金色。なお、このユニフォームは「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」の3連戦限定の予定だったが、梨田監督の発案により、帯広・旭川で行なわれる計4試合でもこのユニフォームを着用することになった。
- 2011年 - 「HOKKAIDO PRIDE~北海道の誇りを胸に~」と銘打ち、ユニフォームデザインを一部変更。帽子・アンダーシャツの黒はそのままに、ホーム用は右肩の上部から左肩部を青に変更(新たに左脇下にも青を配色)し、左肩下部以降は以前と同じ黒とした。また「FIGHTERS」のロゴも下部に七芒星を付けたものに変更された。ビジター用は大きくモデルチェンジし、両肩が黒で、地色が北海道の「豊穣の実り」を表す「ハーベスト・ゴールド」となった(この他、青も北海道の空を表す「スカイブルー」、ホームの地色となる白も雪を表す「スノー・ホワイト」と命名されている)。またビジター用は帽子ロゴが「F」から北海道の「H」にし、胸のロゴは二段組で上段に「HOKKAIDO」、下段に「NIPPONHAM」が入る。さらにパンツ右には新たにスポンサーとなったニトリのロゴが入る。また、ホーム、ビジターとも帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」で縁取られている。
- 2011年7月15日 - 17日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。さらに、同年9月23日 - 25日の試合を「秋の祭典」と銘打ち、こちらも札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。
- 2012年 - 主将・田中賢介のユニフォームの左胸にキャプテンマーク(黒文字で「CAPTAIN」の頭文字である「C」と金色の「七光星」の組み合わせ)のワッペンを導入。
- 備考
- 台湾プロ野球の中信ホエールズは札幌移転した日本ハムを意識して、2005年から左右非対称デザインのユニフォームを採用した。
- 他球団が行っている復刻ユニフォームといった企画は現時点では2005年に新規参入した楽天を除き、11球団唯一公式戦では行っていない。但し、2005年に円山球場で開催されたデーゲーム時に、試合前の練習で1974年後期 - 1981年モデルのホーム用ユニフォームを上衣のみ着用した。プルオーバーだった当時の物と異なりボタン式となっていた。
ユニフォーム(二軍)
- 二軍用も原則的には一軍と同じものだが、地域密着を目指しチーム・カラーを鎌ヶ谷市の色であるグリーンに。2008年7月20日・21日の鎌ヶ谷での試合に限り、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入り、本体が緑、左肩が白、金色のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は緑に前面が白のものでマークは「K」。
- 2010年 - 一軍のユニフォームをモチーフに、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入った緑のユニフォームを正式採用。前述の特別ユニフォームをモデルチェンジ。緑をベースカラーとし、左肩から左わき・右わきがオレンジ。両わき腹部分に白のラインが入り、白とオレンジのツートンカラーのラケットラインが入る。背中のネームは無しで背番号は白文字にオレンジの縁取り。帽子は緑に左前面にオレンジのラインが入り、マークは「K(ボール・七芒星・文字「K」)」。左袖に球団ペットマーク、右袖に「NIPPON-HAM(白文字にオレンジ縁)」。
- 2012年 - 鎌スタ限定ユニフォームを2年ぶりにリニューアル。胸に「KAMAGAYA(KとAに緑の☆)」のロゴが入り、本体が緑、右側がゴールド、左側が黒、その間に白いライン。白のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は黒地にマークは「K」、その上に緑の☆。
球団旗の変遷
- 1945年 - 1946年:上から青・白・赤の横線。青の部分に白字でセネタースの頭文字「S」。
- 1947年 - 1949年:球団名が「東急フライヤーズ」となる。上が赤・下が青のセパレート、右端に白の二等辺三角形。赤の部分に白字で「F」。
- 球団名が「急映フライヤーズ」となった1948年も使用。
- 1950年 - 1973年:2リーグ分立を機に球団旗を変更。右端の白の二等辺三角形はそのままだが、セパレートの色を上下逆に(上が青・下が赤)。青の部分に白字で「F」。東急・東映・日拓と親会社が変わっても継続して使用される。
- 1974年 - 1976年:球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。橙色地に白のライン。白の部分には親会社・日本ハムのブランドマーク(社章)と「ニッポンハム」ロゴ。その下の橙色の部分に白文字で「Fighters」ロゴ。
- 1977年 - 2003年:大まかのデザインはそのままだが、「ニッポンハム」ロゴと「Fighters」ロゴを縮めたものに変更。
- 2004年 - :札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。白地にペットマークの七芒星。下の部分は黒地に白文字で「HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS」。
永久欠番
過去、永久欠番制度と該当者が不在だったが、2009年1月30日に球団史上初めて永久欠番を制定することが発表された。該当者第一号は野球殿堂入りした大社義規初代オーナーである。また、2009年より「番号が0から始まるのは違和感がある」として0と00の使用をやめ、永久欠番とすることも決定された。
- 永久欠番一覧
- 0 球団永久欠番
- 00 球団永久欠番
- 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー)
- 準永久欠番(非公式)
- 79 小林繁(元コーチ。2009年に二軍コーチを務め、2010年より一軍コーチを務める予定であったがこの年の1月に急逝。これに伴い小林を称えて当分の間欠番扱いとなる。)
- 86 大沢啓二(元監督。球団史上、他者の着用がない。)
マスコット
- 熊のマスコット(正式名称不明)
- 東急時代の1949年に、ユニフォームの胸マークの右上に入れていた。
- 帽子をかぶった少年の似顔絵(正式名称不明)
- 東映時代の1972年から日拓時代の1973年に、上記似顔絵が入ったペットマークを採用。球団発行印刷物に使用されていた。
- 弓を射るヘラクレス(正式名称不明)
- 日本ハム球団となってから1987年までペットマークに採用していた。
- ユニフォームを着た少年(正式名称不明)
- 上のヘラクレスのマークと同時期にペットマークとして使用された。背番号は「100」。
- ギョロタン
- 1980年、球団の着ぐるみマスコット第1号として登場。モチーフは太陽。名前の由来は「ギョロ目のタン吉」から。自転車が得意だった。晩年にはスクーターで走ることが多かった。
- ちなみにギョロタンは、パリーグ初の着ぐるみキャラクターであり、ヤクルトスワローズのヤー坊に続き、日本球界2体目の着ぐるみキャラクターである。
- ファイトくん
- 1988年の東京ドームへの移転に合わせて登場。翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた1頭身の姿。ペットマークはもちろん、着ぐるみ化もされ、動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。
- 甲冑の戦士(正式名称不明)
- 1993年から2003年までのペットマーク。ユニホームを着た騎士が、剣の代わりにバットを振り上げているポーズ。
- ファイティー(100)
- 1993年に登場した、東京ドーム時代の翼竜型のマスコット。英語表記は「FIGHTY」。大社義規オーナーがモデルといわれており、背番号も同じ100だった。北海道移転の際に引退が予定されていたが、ファンによる存続希望の署名活動を受け、北海道移転後の2年間は東京ドームでの主催試合限定で登場していた。2005年8月17日に現役引退。この日東京ドームでは引退セレモニーが行われた。
- B・B(ブリスキー・ザ・ベアー)(212)
- 愛称「B・B(ビー・ビー)」。2004年、球団の北海道移転とともに登場。詳しくは当該項目を参照。
- カビー(カビー・ザ・ベアー)(337)
- B・Bの年の離れた弟で、2006年から登場している二軍マスコット。詳しくは当該項目を参照。
- ベビービー(baby☆B)
- B☆Bの小学生時代の姿。2010年デビュー。
- ポリー(ポリーポラリス)
- 北海道移転10年目となる2013年シーズンに向けて2012年オフに登場した、球団初の女の子のマスコット。エゾリスがモチーフになっている。
主な歴代の球団歌
- 東映時代
- 日本ハム時代以降
- 「それゆけ ぼくらのファイターズ」(作詞・作曲:石原美代子、補作詞・補作曲:中村泰士、編曲:高田 弘、歌:ささきいさお)
- 「ファイターズ讃歌」(作詞:石原信一、作曲:中村泰士、編曲:高田弘、歌:ささきいさお/速水けんたろう[63])
- 「GO!GO!ファイターズ」(作詞・作曲・編曲:大島隆二、歌:宮本毅)(2004年 - 2008年)
- 「La La La FIGHTERS」(作詞:いしわたり淳治、作曲:福原美穂、福原将宜、大坪稔明、中村優規、編曲:安原兵衛、歌:福原美穂)(2009年5月1日 - )
年度別イメージソング
球場にて試合前や試合後に流されたイメージソング。歌手は公式戦の始球式にも登場。
- 1993年「WILD DREAM」 (作詞:石岡美紀 作曲:パンタ 歌:立川亮子)
- 1994年「Let's Get A Groove 〜Yo! Hips〜」 (作詞・作曲・歌:久保田利伸)
- 1995年「Get the Truth!」 (作詞・作曲:長友仍世 歌:INFIX )
- 1996年「あの瞳を忘れない」 (作詞:沢村大和 作曲:野中則夫 歌:BLOW)
- 1997年「太陽」 (作詞:TSUNAMI 作曲:パッパラー河合 歌:TSUNAMI)
- 1998年「Let Love Shine」 (作詞:萩原由美子 作曲:小松建祐 歌:水野由加里)
- 1999年「プラスのスマイル!!」 (作詞・作曲:永井ルイ 歌:CLOVER)
- 2000年「輝け!未来へ~Hit & Run~」 (作詞:門屋陽平 作曲:石川寛門 詞・曲・歌:速水けんたろう)
以下の2曲は、中日出身である大島康徳の監督就任を記念して中日ファンの山本正之がイメージソングを作り公認ソングとして発売されたものの、それまでのイメージソングと違い球場で流されたり始球式への登場は無し。
- 2001年:「熱血ファイターズの歌」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- 2002年:「熱血ファイターズの歌2002」(作詞・作曲・歌:山本正之)
主なキャンプ地
キーワード
深夜のダブルヘッダー
1953年8月9日の対近鉄パールス戦(後楽園球場)のダブルヘッダー第1試合は17時から開始された。試合は両軍同点のまま決着がつかず、延長20回・試合時間は4時間46分の末に4-5で敗れた。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合についてはイニング制限が無く、変則ダブルの場合は12回までとなっていた。続く第2試合は22時11分に開始されたが、7回裏終了時点で当時のナイター時限だった23時45分が過ぎたため、コールドゲームで4-4の引き分けとなった。これも深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくてもそのイニングの攻撃が完了した時点でコールドとなる当時のルールによるものである。
1954年10月10日の同カード(大阪球場)で、今度は延長23回のパシフィック・リーグ延長イニング最長記録を作ったが、近鉄にサヨナラ負けを喫した。また、1981年10月10日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場・プレーオフ第1試合)では、9回・5-5の引き分けだったが、参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。
現在ではルールが改定され、ダブルヘッダーの場合、第1試合の終了が20時40分を過ぎたら第2試合は行わない取り決めとなっている。
7色のユニフォーム
1973年に東映フライヤーズを買収した日拓ホームのオーナー・西村昭孝は、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期リーグで7種類のユニフォームを作り、選手に日替わりで着用させる画期的な試みを行った[64]。その7種類とは以下のとおりである。
- ホーム用
- 全身がオレンジで、袖にラインが入る。胸マークは、黒文字の筆記体で「Flyers」。帽子はオレンジを地色につばが白、「NF」マークが黒。
- 肩から袖の下、パンツまでオレンジの太いラインが入る。胸マークは、黒文字の筆記体で「Flyers」。帽子はオレンジ、「NF」マークが黒。
- 上着がセパレートタイプで、上が紫、下が白。胸マークは、黄色の筆記体で「Flyers」。帽子は紫色を地色に「NF」マークが金色。
- 袖がブルーでロゴが赤く、背番号の後ろに太いラインが入る。胸マークは、赤文字の筆記体で「Flyers亅。帽子は水色、「NF」マークが赤[65]。
- ビジター用(全身を一色で統一)
- 全身が黄色で、肩・パンツに黒いライン。胸マークは、黒文字で上に「NITTAKU」下に「HOME」。帽子は黒を地色につばが黄色、「NF」マークが黄色。
- 全身が黒で、袖の下からパンツに至る太い黄色のライン。胸マークは、黄色の文字で上に「NITTAKU」下に「HOME」。帽子は黒を地色につばが黄色、「NF」マークが黄色。
- 全身が青で、肩に太いラインが入り、パンツのラインが白。右胸に白の「NF」マーク。帽子は青を地色につばが白、「NF」マークが白。
しかし、シーズン終了後に日本ハムに再身売りしたため、この7色ユニフォームは3ヶ月でお蔵入りとなった。
オールスター組織票問題
1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢が占めた[66]。
この年の日本ハムは、前期がリーグ3位ながら29勝31敗5分と負け越しているにも関わらず、投票期間中の7月6日-7日に約7万票が日本ハムに入ったため結果が大きく変わった。この事が報じられると各界著名人から批判が巻き起こったが、それに応える形でフロント陣が、オールスターゲームの第3戦が日本ハムの主催試合となることから、ファンクラブ「少年ファイターズの会」会員にダイレクトメールでオールスターのファン投票用紙を5枚セットで送ったことを悪びれずに公表した。
各界著名人から「組織票」と批判されると、日本ハムフロント陣は前言を撤回して事態の沈静化を図り、特に成績が悪かった古屋と菅野の出場辞退を発表した[67]。古屋は翌年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は引退までオールスターに出場することはなかった。
札幌ドーム移転後の東京ドームの公式戦
本拠地を札幌ドーム移転後も、年間で3カード8試合前後の主催試合を引き続き東京ドームで行われている。これは、東京都にも球団事務所がある事や、二軍施設は隣県の千葉県鎌ヶ谷市のまま継続されている事や、旧来の東京のファンの存在を考慮したものである。2003年11月に東京ドームで開催された最後のファンフェスティバルで球団社長(当時)の今村純二が「札幌移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」と東京のファンの前で約束した。
札幌ドーム移転後の2004年以降は、日本ハムの本拠地ではなくなったことで、関東地方以外に本拠地を置くパ・リーグの他球団も東京ドームで主催試合を行うようになった。移転1年目の2004年は主催試合を日本ハムが12試合の他・オリックスが2試合・ダイエーが1試合を行った。このうちオリックス主催分は対戦相手が日本ハムだったため、東京ドームの公式戦で初めて三塁側のダッグアウトを使った[68]。2005年は主催試合を日本ハムが10試合・オリックスが2試合(この年も対戦相手は日本ハム)を行い、2006年は日本ハムが9試合を、2007〜2009年は日本ハムが8試合・オリックスが2試合を、2010年は日本ハムが8試合・楽天が1試合を、2011年は日本ハムが5試合[69]・楽天が1試合を行っており、2012年は日本ハムが8試合・ソフトバンクと楽天が各1試合を行った。
2013年は2012年同様、日本ハム8試合・ソフトバンクと楽天が各1試合開催予定だが、ソフトバンクと楽天の試合の対戦相手がともに日本ハムになっているため、日本ハムのパリーグ公式戦での東京ドームの試合としては全10試合の予定となっている。
2005年よりセ・パ交流戦が開始されたため、巨人主催のロードゲームでも日本ハムは東京ドームでの試合を行っており、2006年までは3試合を、2007年以降は2試合を行っている。現在は、日本ハム主催試合と巨人など他球団の主催試合のロードゲーム数試合を合わせ、計10~12試合を東京ドームで行っている。
移転当初は週末に多く組まれていた主催試合は、2007年4月20日(金)〜22日(日)の対ソフトバンク戦3連戦を最後に行われなくなり、現在は平日だけ行っている。なお、現時点に於いて日本ハム主催の交流戦が東京ドームで行われたケースは1回もない。
札幌ドーム移転後、東京ドームでの日本ハム対西武戦の公式戦は未だ行われていない[70]。
2011年7月20日の対楽天戦では、ダルビッシュ有と田中将大の「エース対決」に注目が集まり、平日(この日は水曜日)ながら44,826人の観客動員数を記録。実数発表の2005年以降、現在の本拠地である札幌ドームでの動員数も含めて史上最多の動員数を記録した[71]。
東京の球団から地域密着球団へ
日本ハムの同年の観客動員数は、ドーム初年度の景気もあって2,458,500人(1試合平均37,800人)でパ・リーグ1位。同年最後まで優勝を争った西武や近鉄のそれを大きく上回り、また、セ・パ12球団を合わせても巨人に次ぐ2位で、同年セを制した中日や、5万人超[72]の収容能力を誇る阪神甲子園球場を本拠地とする阪神をも上回った。しかしこの日本ハムの動員数は、いわゆる“ドーム見たさ”の観客が多かったことが原因にあり、巨人戦のチケットが取れなかった野球ファンが、巨人戦に比べて座席に余裕のある日本ハム戦のチケットを購入し、ドーム見物ついでで観戦した、というのがその実情だった。また、当時日本ハムの所属選手の中では前年新人王を争った西崎幸広や、同年西崎と共に最多勝を獲得した松浦宏明ら数人の若手選手が全国的な人気を誇っていたものの、スター性の強い選手が少なく、球団のオフィシャルブックの表紙はほとんどのシーズンで西崎が被写体となっていた。
この間フロントは「ドームさえあれば、何もしなくてもお客さんは来てくれる」と“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策は次第におざなりになっていった。試合中の場内演出も乏しく、チームも常時優勝争いをすることができぬまま低迷した。さらに西崎ら主力選手との契約交渉上のトラブルが多発し(結局西崎は1997年オフに西武へトレードされる)、1993・1996・1998年には優勝争いに加わるものの、翌年に尻すぼみとなる悪循環を繰り返した。また1993年には福岡ドーム、1997年には大阪ドーム、ナゴヤドームが相次いで開場し、ドームの稀少価値が相対的に低下。皮肉にも観客動員数は1988年をピークに減少[73]し、2003年の動員数は約133万人にまで落ち込んだ。
日本ハムはこの反省を教訓に、札幌移転を機にCIの導入を決定し、アメリカのSME社と共同で球団のイメージアップに本格的に着手する。その一環として「地域密着」の方針を打ち出し、北海道内でのチームの認知度アップとファン層開拓を目指した。新庄剛志を獲得したのも、ファン獲得の一環でもあった。移転当初は「北海道は巨人ファンが圧倒的に多い」という現実があったが、道内での野球教室やファンイベントの開催、メディアへの露出促進などといったさまざまな活動が奏功して観客動員数は年々増加。また、トレイ・ヒルマンら首脳陣の下で森本、ダルビッシュらが成長し、高田繁らフロント陣の編成策によってチームの戦力層が強化された。
札幌ドームで初めて開幕戦を迎えた2006年に実施した「43,000プロジェクト」は、開幕戦など年間数回にわたってドームを満員にするために行われたスペシャル企画で、開幕戦では42,393人(パ開幕戦3球場中最多)、翌日も29,170人の観客動員を記録し、動員数増加に大きく貢献した。12年ぶりの開幕2連勝を飾ったチームも優勝を争い、シーズン終盤には連日3万人超の観客が札幌ドームを訪れた。そしてチームはパ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでも中日を退けて日本一に輝いた。新庄が引退し、小笠原道大がFAで巨人へ移籍した2007年も2年連続でリーグ優勝し、クライマックスシリーズも制すなど、ピークといわれた前年の観客動員をさらに上回った。また、移転当初は隔年開催だった旭川スタルヒン球場と函館オーシャンスタジアム、釧路市民球場と帯広の森野球場(道東シリーズ)での道内開催公式戦を、4球場とも毎年開催するよう改めた。
この道内各所での遠征シリーズ、あるいは札幌ドームでの主に夏季に行われるある3連戦は「We Love Hokkaido」シリーズとして、オリジナルユニフォームの着用や、2011年の札幌ドームでの西武戦(「北海道祭り」シリーズ)では外野席に道内179市町村と北海道の自治体旗が掲揚されたり、道内物産展や民俗芸能の紹介、花火大会(2011年)など、様々な趣向を凝らした地域密着応援シリーズを行っている。
しかし、それでも平日(特にシーズン序盤)の試合の観客動員数が2万人を割り込むことが多いため、球団では北海道在住者や午後7時台以降に来訪する観客を対象とした企画チケットを発売するなど、数々の観客獲得策を実施している(#チームの特徴も参照)。2007年には、財政破綻した夕張市の市民を札幌ドームに招待する「夕張シート」を創設し、2009年には札幌ドームのファウルエリアにフィールドシートを増設するなど、さらなる誘客策と地域密着策の開拓に力を注いでいる。[74]
なお、札幌ドーム以外の道内の開催球場には照明設備がないため、これまでは必然的に上記4球場の試合はデーゲームだったが、2013年から旭川にナイター設備が常設されることが決まり、そこでのナイター開催も予定されている(2013年は4試合、うち2つは交流戦でナイター開きになる)。
放送
テレビ
- 全国向け放送
- 熱パ・プロ野球→なまら!ファイターズ中継→GAORAプロ野球中継(GAORA)
- ドラマティック プロ野球・パ!(スポーツ・アイESPN)
- J SKY STADIUM(J SKY SPORTS)
- 月刊ファイターズTV・週刊ファイターズTV(GAORA)
1990年代当初は東京ケーブルネットワーク制作(試合日によってテレビ埼玉、または千葉テレビ放送と共同制作としたものあり)の番組を、GAORAとスポーツ・アイESPNと本数調整しながら中継した。その後はほぼGAORAの独占となるが、1999年の一時期、J SKY SPORTSと放送本数を調整して中継した試合があった。
- 北海道内
全体的な総数では各局ごとにばらつきが見られるが、特に2006年の日本一を境に中継数が大幅に増加している。移転初年度から数年間は本拠地の試合を中心に数試合放送される事がほとんどであったが、近年ではビジター中継も積極的に行っている。
- NHK札幌放送局
-
- 現在
- 『ネットワークニュース北海道』内スポーツコーナー
- 過去
- ほくほくスポーツ(『ほくほくテレビ』内)
- 『まるごとニュース北海道』内スポーツコーナー
- HBC 北海道放送
-
- 現在
- Bravo!ファイターズ(『グッチーの 今日ドキッ!』内スポーツコーナーとテレビ中継の番組名)
- 侍プロ野球(2010年はBravo!ファイターズ)
- ビジターゲームはTBS系列局からのネット受けだが、ほとんどファイターズOBの岩本勉が解説者として登場することが多い。
- 過去
- STV 札幌テレビ放送
-
- 現在
- ファイトF(ファイターズ)
- どさんこワイド!!朝!
- どさんこワイド
- マハトマパンチ
- ぞっこん!ファイターズ
- 過去
- HTB 北海道テレビ放送
-
- 現在
- 朝までファイターズ
- FFFFF(エフファイブ)
- イチスポ(『イチオシ!』内スポーツコーナー)
- 朝いちSPORTS(『イチオシ!モーニング』内スポーツコーナー)
- スーパーベースボール
- 過去
- UHB 北海道文化放送
-
- 現在
- ファイコンEXP.(コンサドーレ札幌の情報も含む)
- さあ!トークだよ
- U型テレビ
- サタすぽ
- UHBスーパーニュース内ファイターズコーナー
- BASEBALL LIVE〜野球道〜
- 過去
- えきニジ
- スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜
- タカアンドトシのどぉーだ!
- YASUのえき☆スタ@noon
- 土曜えき☆スタUP
- えき☆スタ1
- えき☆スタ発
- のりゆきのトークDE北海道
- TVh テレビ北海道
-
- 現在
- TVh道新ニュース内スポーツコーナー(毎週木曜日だが、他のスポーツも含む)
- TVhファイターズ戦の中継
- 過去
- おばんでスタ!GOGOファイターズ(『おばんでスタ!』内)
道内の地上波局が全てファイターズ主催試合の放映権を持っていることも特筆すべき点である。中でも2008年まではTVhが一番力を入れていた[75]。
但し、TVhは札幌・旭川・函館・室蘭を中心にした道央と道南のほぼ全域、道北の一部でしか見ることができず、帯広・北見・釧路・稚内を中心にした道東全域、道北の一部では見られないことから、これらの地域の視聴者からの苦情が少なくなかった。特に2006年のプレーオフ第2ステージ第2戦で優勝を決めた時はTVhが中継していたため、大量の苦情が殺到(HBCラジオとSTVラジオでは聞けた)。
その後TVhは、地上デジタル放送設置経費増加に伴う制作費削減に伴って2009年は原則として中継を行わず、2010年も試合中継数が少なかった。2011年には前年に総務省から「後発民放支援スキーム」という後発民放の置局格差解消に伴う開局費用が補助される支援で道東の一部でも開局することになり、釧路放送局開局記念特番として3年ぶりに自社中継が復活した。2012年以降は主要都市のほぼ全域でTVhが視聴できる体勢となるため、苦情の数は次第に収まると見込んでいる。
しかし、東京ドームでの主催ゲーム(テレビ東京からの裏送り)については放送実績がない。
- 2009年9月26日にソフトバンク対日本ハムの中継を行った。また、11月8日に日本シリーズ第7戦・北海道日本ハムファイターズVS読売ジャイアンツを放送する予定だったが、第6戦で巨人の日本一が決まったため、第7戦が開催されず放送されなかった。
- 2010年は3試合中継を行った(主に九州放送からのソフトバンク戦ネット受け)。
- 2011年は5試合の中継を行った(ネット受け2試合、自社制作3試合)。
- 備考
2006・2007年の優勝パレードは、全局優勝パレード中継を生放送した。2009年はNHKを除く全民放が互い違いに放送した。2012年はSTV・HTB・UHBが生放送、HBCがパレード終了後の午後3時から録画放送を行った[76]。NHK・TVhは放送なし。 ビデオリサーチ社の視聴率調査で北海道の2012年4月期の高視聴率番組トップ10が全てファイターズ戦の中継で1位が30%という快挙を達成し球団の密着度と人気が伺える結果となった。[77]
- その他
- テレビ東京
- 東京12チャンネル時代に『戦国ナイター』で一部試合を放送していたが、その後しばらく主催ゲームの中継が途絶えた。
- 1990年代後半から、日本ハム提供でテレビ中継を再び行うようになった。また、1996年度から2003年度の8年間に渡って、『超野球ファイターズ』という日本ハム提供の球団情報番組を、毎週日曜日に放映していた。
- 札幌移転後の2004年4月からは内容を全面的に一新し、球団監修のミニアニメーション番組『超ぽじてぃぶ! ファイターズ』をテレビ東京とテレビ北海道で放送した。開始当初の半年は日本ハムの選手(実名で登場する)をデフォルメしたギャグアニメーション形式だったが、同年10月の放送からストーリー性を重視して「闘魂野球伝」シリーズ、さらに監督が岸誠二に代わり2005年度上半期は北海道の野球少年やファンとの友情を描いた「燃えるぜ!焼けるぜ!」シリーズ、下半期は「燃えるぜ!焼けるぜ!」のメインキャラが野球勝負でファイターズ以外の11球団を擬人化した魔人にさらわれたファイターズ選手達を救出する「11魔人」シリーズを放送し、2006年3月に終了した。
- 過去には、テレビ北海道など系列局への裏送りを実施している。
ラジオ
- 北海道内
- HBCファイターズナイター
- ファイターズDEナイト!
- 朝刊さくらい
- ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組
- プロ野球三都物語(開幕前に放送する特別番組。東北放送・RKB毎日放送と毎年持ち回りで制作)
- おぢさんツインカム
- にちようサウンドボックス
- 携帯サイト『HBC熱闘!スポーツ』も運営していた(2010年1月 - 3月)。
- 『ファイターズ中継ナンバーワン』「120%応援実況」をスローガンに年々中継試合数を増やして2007年からは公式戦はほぼ全試合を中継し(ネットの関係で東京ヤクルトスワローズとのビジターゲームを中継できないため、全試合はこれまで達成できていない)、時には敵地にも自社アナウンサーを派遣する熱の入れようである。さらに試合後やオフシーズンにも応援番組も充実させている。
- ファイターズ戦中継を増やし、STVラジオとの差別化を図ったことが聴取者から支持され、聴取率でSTVラジオを破った。
- STVアタックナイター ぞっこんファイターズ中継
- ぞっこん!スポーツ(『みのやと幸代のときめきワイド』内)
- アタックナイター直前情報(『牧やすまさのスーパースクランブル』内)
- ナマスポ!(『News&Sportsチャートなまらん』内)
- なまらん
- 月刊梨田のはなしだ
- スポーツトレイン(『オハヨー!土曜日』内)
- 「オハヨー!チェック・ザ・チェック」「オハヨー!朝からファイターズ」「オハヨー!スポーツ情報」(『オハヨー!ほっかいどう』内)
※札幌ドームのナイターを中心に放送し、ビジターはヤフードームのソフトバンク戦など一部の試合のみ放送。その他は全国ネットの巨人戦を放送している。但し、2007・2008年度は、ナイターはホームの全試合とビジターの大半、日曜日のデーゲームを中継していたが、2009年以降のデーゲームはワイド番組を優先する関係で、主管試合でも放送することがなくなった。
- AIR-G'
-
- 現在
- 『ビビッド・クルール』内ファイターズ情報
- 過去
- AIR-G' Morning Pax内広瀬哲朗のファイターズ情報
- GOTCHA! 〜Fun's Radio〜内坪井智哉のツボチカ7(セブン)
- MOTTO FIGHTERS(『SPICY FRIDAY』内)
- G1sports(『G1-MOTION』内)
- DAY-TIME TRIPPERS(木曜日)
- 過去
- Weekly Fighters Press
- その他
-
- 文化放送
- 現在
- 過去
- えのきどいちろう意気揚々→フォークトレイン内日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク→ミュージックトレイン内北海道日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク
インターネット中継
2006年6月16日に「Yahoo!動画」上でインターネット配信を開始し、シーズン後半の1位通過争いやプレーオフの時は回線がパンク状態になった。SHINJOの引退セレモニーも中継したが、GOGOファイターズがずっと流れていた。2007年はオープン戦から配信している。CS放送のGAORA映像を使っている。2009年9月22日に「オンエアーステーション」上で2軍戦のラジオ中継が行われた。
補足
- 東映時代、同一資本系統の日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)がテレビ中継の優先権を確保していた。球団が日本ハムとなった後、関係は緩やかに解消され、1990年代以降は上述の通りテレビ東京等との結びつきが強くなっていった。
- 東京ドーム関連のCATV(東京ケーブル)制作ナイター番組をテレビ埼玉(過去には試合により千葉テレビ放送にも)とGAORA(毎日放送系列のCS)が購入して放送。北海道移転後もGAORAで引き続きナイター中継が放送されている。日本ハム本社は、GAORAに開局当初から出資している主要株主である。
- 1990年代前期、FM富士(当時JFN加盟)が不定期で放送していたラジオ番組『FIGHTERS ROCKS&BASEBALL』があり、日本ハム情報とロック音楽を放送していた。それを同タイトルでテレビ化した番組が1992年秋ごろから1994年ごろまで、テレビ埼玉制作で同局とテレビ神奈川・千葉テレビ放送・びわ湖放送の4局でネットしていた。
- この他、北海道内のコミュニティFM放送局でも以下の番組が放送されている。
脚注・出典
- ^ これは、読売ジャイアンツの前身の東京巨人軍が「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて、鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった(参照)。
- ^ 大川博著書・『真剣勝負に生きる』p77
- ^ もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』](JIMMY'S STRIKE ZONEより)
- ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 4 』ベースボール・マガジン社、1987年、P13-16
- ^ 東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男(横沢三郎の兄)の仲介で、五島慶太と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させた(関三穂『プロ野球史再発掘 5 』、P232、262)。
- ^ 1985年2月、東映不動産株式会社に吸収され、東映興業不動産株式会社となる(東映興業不動産は、2006年11月に東映へ吸収され消滅)。
- ^ 江夏はこの年、当時存在した全12球団からのセーブを達成
- ^ 【9月29日】1994年(平6)日本ハム10年ぶりの最下位大沢親分ファンの前で土下座スポーツニッポン 2009年9月17日
- ^ 西崎は球団とのFA交渉を控えていた矢先、突然のトレード通告に報道陣からのインタビューでもショックを隠しきれなかった。金石も球団に「西崎・金石の放出は落合の高額年俸を捻出の為だけでは?」と詰め寄る場面があり、広瀬も落合の入団で玉突き的にポジションを奪われ、契約更改で「複数年契約するべきだった」と後悔する場面があった。
- ^ 但しパ・リーグの他球団主管の札幌ドームの試合は日本ハム移転直後の2004年以後行われていない。セ・リーグでは巨人が2009年ごろまで夏季の北海道遠征をしていたが、2010年からはセ・リーグ球団の主管試合も組まれなくなった
- ^ 【8月20日】2003年(平15)引越し前に勝ててよかった…ハム3年越しの“初勝利”スポーツニッポン 2008年8月17日
- ^ 帝国データバンクの倒産情報(2004年6月24日付。※Webarchiveの保存キャッシュ)
- ^ 球団名が日本ハムになってからは初めでである。
- ^ この「ハム」の愛称は、北海道日刊スポーツの記者・上野耕太郎の記事による[1]。
- ^ 継投による完全試合は参考記録である。
- ^ 田中賢介、工藤隆人、紺田敏正、鶴岡慎也
- ^ 3名の他にも、新型の恐れのあるA型インフルエンザによる発熱で主力選手の欠場、登録抹消が相次いだ。
- ^ 鶴岡慎也(捕手)、高橋信二(一塁手)、田中賢介(二塁手)、小谷野栄一(三塁手)、金子誠(遊撃手)、稲葉篤紀、糸井嘉男(以上外野手)
- ^ 北海道日本ハムファイターズ 豊島明好オフィシャルブログ
- ^ 結果的に3位・ロッテとは0.5ゲーム差だった。
- ^ 日本ハム2軍がイースタンV
- ^ 日本ハム“監督交代報道”の真相…V争い中にナゼ?
- ^ 日本ハムが繰り返す“負の歴史”梨田監督退任報道で考えたこと。
- ^ 梨田監督、今季限り=日本ハム「後任は白紙」-プロ野球
- ^ プロ野球史上初の国立大学出身(東京学芸大学)監督
- ^ 2012年3月30日北海道日本ハム 対 埼玉西武日本ハム球団公式サイト
- ^ 日本ハムヒヤヒヤ奪首!栗山監督「生きた心地が…」スポーツニッポン 2012年10月13日閲覧
- ^ 中田2発5打点!日本ハム、西武との直接対決制しM4点灯スポーツニッポン 2012年10月13日閲覧
- ^ この日、日本ハムは試合がなかったが2位・西武がロッテに敗れたことによる優勝決定。試合の無い日に優勝が決まるのはパ・リーグでは24年ぶりのことであり、札幌ドームの内野席とグラウンドの一部をファンに解放し、優勝が決まるとファンの前で栗山監督を胴上げしている[2] 日本ハム3年ぶり6度目V!栗山監督「一緒に野球ができて幸せ」スポーツニッポン 2012年10月13日閲覧
- ^ 試合日程・結果日本ハム球団公式サイト
- ^ 試合日程・結果日本ハム球団公式サイト
- ^ “田中賢選手が海外FA権行使を表明”. 北海道日本ハムファイターズ. (2012年11月6日)
- ^ “田中賢介「メジャーでレギュラーに」 札幌で移籍会見”. 北海道新聞. (2013年1月28日)
- ^ “【【日本ハム】糸井、八木がオリへ電撃移籍”. 日刊スポーツ. (2013年1月23日)
- ^ a b ファイターズ快進撃の裏に、“本当に役立つ”情報システムありIT Pro 2009年4月21日、2009年4月24日閲覧
- ^ データベースで堅実強化=成果あげる日本ハム=
- ^ 【GS開幕シリーズin闘強導夢3.31】「巨人軍エース決定戦」〜左腕の鬼・内海哲也vs破壊王・澤村拓一とは?-プロ野球死亡遊戯
- ^ サンドウィッチマンの10分もらえたぜ!2012年2月8日放送分で「セイバーメトリクス(野球統計学)」について東海大学理学部情報数理学科淳教授鳥越規央の発言
- ^ モナ不倫・二岡も獲得…日本ハム“タブーなき補強”
- ^ ただし、稲葉も当初は大リーグ入りを目指したものの、応じる球団がなく断念し、国内で唯一オファーがあった日本ハムに移籍したものである。
- ^ シンデレラシートで盗難続出
- ^ 2003年8月のドームでのホームゲームは盆休みの3日間だけだった。
- ^ アメリカ合衆国ではオレゴン州・ポートランドで、1975年から1982年まで北米サッカーリーグのポートランド・ティンバーズとAAA級のパシフィック・コーストリーグに所属するポートランド・ビーバーズが、また、2001年から現在までユナイテッドサッカーリーグのティンバーズと同じくビーバーズが、共にPGEパークをホームスタジアムとして使っている。また、アメリカではメジャーリーグベースボールとアメリカンフットボール・NFLの本拠地を共有する事例がある
- ^ 現在、宮城球場限定の小谷野栄一の応援コールで同じスタイルが使われる。ただし宮城球場では笛が使えない為、笛の代わりに太鼓を用いて「ドンドドンドドンドドン栄一」としている。
- ^ ただし、ダルビッシュ有は専用の応援歌が用意されていた。
- ^ 同点・逆転・勝ち越しの時は、「ファイターズ讃歌」。
- ^ 東京ドームの主催試合のみ、基本的に移転前のスタイルが継続されている。ただし、2007年以降には太鼓を使うようになった。
- ^ 途中で男性パートと女性パートに別れる。また、クライマックスシリーズ限定で関東以外の球場でも披露された。
- ^ 2008年と2009年のクライマックスシリーズと2009年の日本シリーズでは、両方とも使われた。
- ^ 2006年までは銀色だった。また、「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」では銀と青の2色で、2009年5月の「ファミリーシリーズ・さくらまつり」ではピンクメタリック、10月の「炎の最終シリーズ」ではレッドメタリックのテープが発射された。
- ^ ロケット風船全面解禁!開幕シリーズ限定で来場者プレゼント! - 北海道日本ハムファイターズ 2012年3月16日
- ^ http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/fs_ballpark/64843.html 敵より先に「幸運」つかめ 球界初「ラッキー6」
- ^ 札幌移転前のラッキー7のBGMであり、移転後も2008年までは5回裏に応援団のトランペット演奏で流していた
- ^ 勝利で試合終了後も同様のセレモニーがあり、ヒーローインタビュー後に場内アナウンスの号令で打ち上げる
- ^ 作道烝、大下剛史、大橋穣、張本勲、大杉勝男の5者。作道の本塁打は代打満塁本塁打。
- ^ 2010年シーズンに中日ドラゴンズが記録して以来。
- ^ 1942年シーズンに阪神軍が記録して以来。
- ^ NPBでは継投によるノーヒットノーランは認められていない。
- ^ 『野球小僧』、白夜書房、2009年4月号、198、199頁。
- ^ 綱島理友「プロ野球ユニフォーム物語」より。
- ^ ちなみに対戦相手のロッテは、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。
- ^ CD『作曲家研究 名作選/古関裕而』(日本コロムビア、1999年)収録ブックレットの解説。
- ^ 現在、札幌ドームでの主催試合の勝利時の試合後に流されている。
- ^ 前期に使ったユニフォームは基本的に東映時代のデザインを踏襲したものだが、袖や襟のラインに使われた赤と青が入れ替わるなど、若干のマイナーチェンジが施されていた。
- ^ 当時の中日ドラゴンズのホーム用ユニフォームのデザインに近い。
- ^ 投手:高橋直樹、捕手:加藤俊夫、一塁手:柏原純一、二塁手:富田勝、三塁手:古屋英夫、遊撃手:菅野光夫、外野手:ミッチェル・千藤三樹男で、外野手の残り1枠は阪急の福本豊。
- ^ この2人は怪我以外の理由で出場辞退した初のファン投票選出選手となった。
- ^ 但し、前身の後楽園を含め、オープン戦や1981年の日本シリーズなどで使ったケースは多数ある。
- ^ 2011年、日本ハムは従来通り8試合を行う予定をしていたが、東日本大震災による計画停電の影響を受け、3月29日~3月31日の日本ハム主催の3試合が中止となり、その振替試合は全て札幌ドームで行われ、東京ドームでの主催試合は5試合となった。
- ^ 2005年のオープン戦で、このカードの東京ドームでの試合が組まれたケースはある。
- ^ 札幌ドームの現在の収容動員数は約42,000人であり、今後の増席改修工事を行わない限り、札幌ドームで上回る事はない。
- ^ ただし、これは実数発表を行うようになった2005年よりも前の数字であり、現在の最大収容人数は47,808人で5万人超にはならない。
- ^ 2004年春放送フジテレビ系EZ!TVより
- ^ 「捨てる」決断の価値を体現した北海道日本ハムファイターズ
- ^ これは、TXN系列自体のゴールデンタイムにおける全国ネット番組の縛りが緩く、まとまったローカル差し替えが容易なためといえる。同じ系列のTVQ九州放送も同様の傾向で福岡ソフトバンクホークスの中継に積極的である。
- ^ HBCは、パレードの時間帯はTBSの『王様のブランチ』を放送。
- ^ [3]
関連項目
外部リンク
- 北海道日本ハムファイターズ
- 連載 がんばれファイターズ - 北海道新聞
- 北海道日本ハムファイターズ - 日刊スポーツ新聞社
- 野球:北海道:スポーツ報知
- ファイターズ広報・畑中 (@FsPR_Hatanaka) - X(旧Twitter)