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諏訪大社

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諏訪大社


上社 本宮(上)と下社 秋宮(下)
所在地 長野県諏訪湖周辺に4宮
(各項参照)
主祭神 建御名方神
八坂刀売神
社格 式内社名神大
信濃国一宮
官幣大社
別表神社
創建 不詳
別名 諏訪神社、諏訪明神、諏訪大明神、諏訪社 ほか
主な神事 御柱祭、御頭祭、御舟祭 など多数
祭事参照)
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上社神紋「諏訪梶の葉」
神紋は上社が四根の梶、下社は五根の梶。

諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県諏訪湖周辺4か所にある神社式内社名神大社)、信濃国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社神紋は「梶の葉」。

全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は諏訪神社。通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも呼ばれる。

概要

諏訪盆地
中心に諏訪湖。湖の左下(南東)に上社、右上(北)に下社が鎮座する。

長野県中央の諏訪湖を挟んで、以下の二社四宮の境内が鎮座する。

上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっている。なお「上社・下社」とあるが社格に序列はない。

創建の年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「より東の軍神鹿島香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟漁業の守護祈願でも知られる[1]

社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えている。社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られる。

祭神

当社全体で祀る主祭神は以下の2柱(各宮の祭神については各項参照)。両神とも上社・下社で祀られている。

上社本宮祭神。『古事記』の国譲りの段において、大国主神の御子神として登場する。
『先代旧事本紀』には大己貴神(大国主神)と沼河比売(奴奈川姫)の子とされ、「信濃国諏方郡諏方神社に鎮座す」と明示されている[2]
上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃とされ、記紀には出てこない。

なお、上社の古い神事や祭祀には長野県を中心に東日本全域に分布していたミシャグジ信仰の痕跡が見られる。また、水の神風の神とされたことから諏訪大社の神を(あるいは)とみなす信仰は昔から伝わり、諏訪の神が蛇または龍として登場する伝承や民話(甲賀三郎伝説小泉小太郎伝説など)は数多く残っている。

八幡神住吉三神など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、まとめて「諏訪大明神諏訪明神)」・「諏訪神」として扱われる事が多い。

特徴

御柱

前宮一之御柱
小社にも設けられた御柱の例
(諏訪市 手長神社境内社)

当社の社殿の周囲四隅には、御柱(おんばしら)と呼ぶ以下4本のモミの柱が建てられている。 御柱は一から四の順に短く細くなり、上空から見た場合に時計回りに配置される。

  • 一之御柱 - 社殿右手前
  • 二之御柱 - 左手前
  • 三之御柱 - 左奥
  • 四之御柱 - 右奥

下社秋宮・春宮では御柱先端の御幣が正面(裏面は曳行により削れている)を向いているが、上社本宮・前宮では諏訪大社奥宮のある八ヶ岳の方向を向いている。諏訪地方では、大きい神社から小さい祠に至るまで、当社にならってこの御柱を設ける社が多い。御柱の由来は明らかでなく古来より説があるが、今日では神霊降臨の依り代説、聖地標示説、社殿建て替え代用説が検討の余地を残している[3]

諏訪大社の御柱はの年に建て替えられ(御柱祭)、全国の諏訪神社や関連社でも同様の祭(小宮祭)が行われる。『諏方大明神画詞』(1356年)には平安時代初期の桓武天皇年間(781年806年)に御柱祭実施の記載があり[4]、その頃にはすでに御柱が設けられていたとされる。

神体

上社

前宮にあった精進屋

上社本宮には本殿が設けられていない。本宮の神体は現在守屋山と一般的に認識されているが[5]明治時代の始まりまでは諏訪明神こと建御名方神の「御正体」(依り代)とされた諏訪氏出身の大祝おおほうりが上社の神体ないし現人神として崇敬されていた[6]

前宮は古くは上社摂社であった関係で本殿を有している。元々は大祝が就任する前に精進潔斎を行う仮屋であったが、昭和7年(1932年)に取り壊され、伊勢神宮から頂いた古材で現在の本殿が建てられた。解体された精進屋は茅野市内にある別の神社の社殿として再利用された[7]

神体山

『画詞』に「当社大祝は此れを神体として崇敬異他の重職なり」とある通り、中世には上社の祭祀の対象は大祝であるという認識が根強かった[8]

を上社の神体とする現存する最古の文献は天文22年(1553年)12月の奥書のある『上宮鎮坐秘伝記』[9]である。

古記に云はく、神の岩隠か、諏方国鎮座の処、宮社を造らずして、唯拝殿を之を建て、山を以て神体と為して之を拝す。則ち父の尊大和国三輪の神陵ならひて建る。神の和魂・陰霊鎮座の処なり。(原漢文)
守屋神社奥宮(守屋山東峰)

これが守屋山神体山説の元と考えられているが、ここには守屋山の名は出てこない[8]江戸時代の文献には守屋山に筆頭神官の神長官を務める守矢氏の祖先(洩矢神あるいは物部守屋)の霊を祀るとはあるものの、守屋山を上社の神体山とうかがわせる記述はない。守屋山を神体山とする説はむしろ明治時代以降から見られるものである[10]。実際には山頂の石祠は物部守屋を祀る守屋神社伊那市高遠町)の奥宮とされている上にそれには御柱がなく、諏訪に背を向けている[11]。ただし、諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした際に降臨した場所は守屋山の麓という『諏訪信重解状』(伝・1249年)に書かれている伝承で見られるように[12][13]、この山は必ずしも上社とは全く関係がないとは言えない。織田氏による甲州征伐(1582年)の際に神輿を担いだ神官たちが避難した先は守屋山であったと言われている[14]

磐座
硯石(上社本宮)

室町時代書写の『諏訪上社物忌令之事』(1237年成立)[15]によると中世の上社の社壇は三檀三折の地形で、上壇(現在の拝殿・斎庭とその奥の禁足地)には「石の御座」があり、中壇には宝殿があり、下壇は神事を行うところである。『画詞』にも「社頭の体、三所の霊壇を構えたり、其の上壇は尊神の御在所、鳥居・格子のみあり」とある。つまり上壇には磐座が存在し、それが神の降りる場所と信仰された[16][17]。この磐座を拝殿の右側の少し高いところにある硯石(すずりいし)で、古くは硯石を通してその背後にある守屋山を遥拝していたという説があるが[16]、硯石は元々このところにあったのではなく中世以降に他所から移された可能性があるという指摘もある[18]

原正直(2012年)は諏訪明神の磐座を拝殿の奥にあるえぼし岩とし、文献に見られる「蛙石」や「甲石(かぶといし)」や「御座石」はすべてこの岩のことを指すという説を挙げている[19]。(なお、本宮境内の蓮池には「蛙石」と伝える石もあり、茅野市にある御座石神社[20]にも「御座石」と呼ばれる石がある。)

神が磐座に降臨するという思想は大祝の即位式にも見られる。大祝となる童男が諏訪明神の神体となるためには、柊の木のある鶏冠社(前宮境内)の石の上に立ち大祝の装束を着せられる。この儀式を受けることによって少年が神となるとされた[21][16]。前宮の本殿(精進屋があった場所)の下にも磐座があると伝わる[22]

信仰軸変更説
御射山神社(富士見町

上社本宮の本来の信仰の対象は上壇の磐座(ここでは硯石に比定)とその背後の山(守屋山)であり、本宮の御柱の位置がそれを反映しているという説がある。この説では、中世以降に上壇に拝殿が作られ神仏混交の影響でその奥にある聖域(神居)に「お鉄塔」と呼ばれる仏塔(以下詳細)が設置されると信仰軸が山から拝殿の奥に変わってしまったとされている[23]

本宮境内図

一方で金井典美(1982年)[24]と原正直(2018年)は上社の本来の神体山は八ヶ岳一帯であり、その麓にある上社の狩場・御射山(みさやま)はそれを祀る場所であったという説を立てている[25]。(これに対して八島ヶ原湿原に位置する下社の旧御射山は鷲ヶ峰の神霊を祀る祭場であったと考えられている。)原は中世の終わり頃(武田信玄による上社の祭祀の復興あるいは天正10年(1582年)に焼失した社殿の再建)に際して信仰軸に変更があったことを否定しており、むしろ中世から変わっていないと考えている。本宮の拝殿が向く先には御射山があることを根拠に、原は『上宮鎮坐秘伝記』に見られる「山」を上社の御射山に比定している[26]

御射山境内には三輪社が鎮座しており、中世では御射山の地主神(本地仏が虚空蔵菩薩)と三輪明神(大物主神)の習合にまで至った。これについて原は三輪信仰を吸収した近江国山伏が広めた甲賀三郎伝説の影響で諏訪信仰そのものも三輪信仰の影響を受けた結果、御射山の神を三輪山の神と同体とする思想が生まれたという見解を述べている[27]。なお諏訪氏(神氏)を大神氏の同族集団とする説もあり[28]大神神社と同様当社には本殿がないのはこのためであると考えられている[29]

神仏習合
石之御座多宝塔

神仏習合の時代には本宮の幣殿の奥に南天鉄塔をもとにした石之御座多宝塔(「お鉄塔」とも)と呼ばれる仏塔が安置され、大祝のほかに神体に相当するものとされた[30]。かつては毎年1月15日にこの塔に『法華経』を納める仏事は行われていたが、経巻は龍の姿で現れる諏訪明神が受け取りに行くため次の年にはなくなると信じられていた[31]。また、上社の本地仏である普賢菩薩を祀る「普賢堂」は奥の院として多くの参拝者を集めた[32]。普賢堂に安置されていた普賢菩薩像は諏訪明神そのものとして祀られて、甲州征伐の時に織田信長が神の力を恐れて菩薩像部分を破壊したという言い伝えがある(像は信長の死後に再彫刻される)[33]

明治初期に神仏分離令が発令された際、「お鉄塔」は諏訪藩主家菩提寺であった温泉寺諏訪市湯の脇)に移され[34]、普賢堂の普賢菩薩像とその他の仏像は仏法紹隆寺(諏訪市四賀)へと秘かに運ばれた[35]

下社

春宮三之御柱と砥川

秋宮の神体はイチイの木、春宮はスギの木とされている[36]。ただし春宮は砥川のほとりに位置しているため、本来は水霊を祀る祭祀場であったと思われる。砥川は八島ヶ原湿原(八島湿原)を水源とするが、ここには下社の旧御射山(もとみさやま)があり、が芽吹く頃には水田にも見えるため「神の田」として崇拝の対象であったと考えられる[37][38]

一方で秋宮の付近には青塚古墳があることから、元々は金刺氏(下社大祝家)の祖霊祭祀の場であったという見解がある[37]

神仏習合

下社秋宮の本地仏が千手観音とされ、秋宮付属の神宮寺(現存せず)には千手堂があった。この堂では毎朝、千手秘法の護摩を修し、節分には追儺が執り行われた。いっぽう薬師如来を本地仏とする春宮には薬師堂が存在していた[39]。明治の廃仏毀釈の際に移動された秋宮の千手観音像は岡谷市にある照光寺に[40]、春宮の薬師如来像(鎌倉時代作)は下諏訪町にある敬愛社に安置されている[41][42]

宝殿

社殿として再利用された旧宝殿
(本宮近くの大国主命社)

本宮・秋宮・春宮には、本殿がない代わりに2つの宝殿がある。宝殿の一方には神輿が納められ、の年の御柱祭で御柱建て替えと同時にもう一方へ遷座し、古い宝殿は建て替えられる。すなわち1つの宝殿は12年ごとに建て替えられ、神明造に似た古い様式を現在に伝えている。寅年から申年の間、神輿は向かって右の宝殿に納められる(申年から翌寅年は逆)。神輿の納められる宝殿は「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、もう一方は「権殿」と呼ばれる[43]。このように宝殿は一般の本殿にあたると解され、神社に本殿が設けられる過渡期の状態と考えられている。

建て替えられ役目を終えた宝殿は近傍の摂社、末社、分社などの社屋、補修用材として再利用される。平成18年7月豪雨で土石流災害により流出した岡谷市の舩魂神社は上社本宮の宝殿を移築して平成21年に再建された。

そのほか、宝殿を含め当社の社殿は華美な装飾・塗装はなされず、全て素木造である。

歴史

概史

創建

建御名方神が登場する場面
真福寺本『古事記』より)

神社の起源に関しては様々な説話が語られている。

古事記』『先代旧事本紀』では、天照大御神の孫・邇邇芸命の降臨に先立ち、建御雷神大国主神国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主神の次男である建御名方神が国譲りに反対し、建御雷神に戦いを挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる[44]。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。

一方で、諏訪地域に伝わる神話では建御名方神(諏訪明神)が諏訪に侵入した征服者として描かれている。これによると先住神の洩矢神守矢氏の遠祖)が建御名方神と対抗しようとして戦いを挑むも敗れ、最終的に諏訪の統治権を建御名方神に譲ったと言われている[45][46][47]。またもうひとつの伝承によると、諏訪明神が8歳の男児に自分の装束を着せつけた後に「我に体なし、ほうりを以て体とす」と告げて自分の身代わり(神体)として認定した。この少年はやがて守屋山麓に社壇(後の上社)を構えて上社大祝を務める神氏(諏訪氏)の始祖となったと言われている[48][49]

以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に先住の勢力(守矢氏)の上に外から入った氏族(上社の神氏・下社の金刺氏)によって成立したのが当社であると考えられている[50][51][52]。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており[53]、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。

古代

祭祀が始まった時期は不詳。上社本宮付近にあるフネ古墳(5世紀前半築造)には蛇行剣や呪術性を持つ副葬品(銅鏡・釧・鹿角小刀子等)が発見されているため、被葬者は天竜川上流・諏訪湖水系を統治して上社信仰と関連のある人物と思われる[54][55][56]。文献上は『日本書紀』の持統天皇5年(691年)8月に「信濃須波」の神を祀るというのが初見である[57]

また実在性には議論があるものの、大化の改新以前には上古諏訪を本拠とした洲羽国造が設置されたと伝わる。

平安時代の『日本三代実録』には「建御名方富命神社」[58]、『左経記』には「須波社」と記載されている[59]。また『延喜式神名帳』では「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載され名神大社に列しているが、この二座が上社・下社を指すとされる[60]。また、信濃国一宮とされた。

古くから軍神として崇敬され、坂上田村麻呂蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる。

中世

平安時代末期には平頼盛領となっており、鎌倉時代になると平家没官領として源頼朝に給付された。頼朝は諏訪大社に神馬を奉納し、信濃御家人に対しては、毎年恒例の重要祭事である五月会や上社南方の御射山で行われた御射山祭における頭役(祭礼の世話役)を務める神役勤仕(しんやくごんじ)を徹底させ、大祝に従うべきことを命じている[61]嘉暦4年(1329年)幕府が上社に発給した「頭役下知状案」では信濃の地頭・御家人が十四番に編成され、輪番制で1年毎に頭役に勤仕したことが示されている[62]。頭役に任じられた御家人は鎌倉番役(将軍御所等の警護任務)を免除される特権が与えられ、自らの家格や権勢、財力の誇示にもつながることから、熱心に勤仕した。五月会や御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加した[63]。それに加えて、軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成された[57]。また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み、両社間で争いも多かった[60]

この頃には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」・「上社」の記載もあり[64]、上社・下社に分けられていた。なお、治承4年(1180年)が上下社の区別が明示されている初見である[65]。他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音本地仏とされた。建暦2年(1212年)、幕府は諸国の守護地頭に鷹狩禁止令を出したが、諏訪大明神の「神御贄鷹」については例外的に許可し、諸国の御家人が諏訪大社を相次いで勧請する契機となった。また諏訪神党に属する根津氏の鷹匠流派が確立した。

戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年(1542年)には手切れとなり、武田晴信(信玄)による諏訪侵攻が行われ、諏訪郡は武田領国化される。信玄によって永禄8年(1565年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた[66]。信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる[67]

天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による武田領侵攻が行われ、同年3月2日には高遠城を陥落させた織田信忠の軍勢が諏訪郡へ侵攻し、3月3日には上社への放火を行った。

近世

江戸時代に入り、江戸幕府第3代将軍徳川家光によって慶安元年(1648年)に上社に朱印1,000石・下社に500石が安堵された。また高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)、会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進された[57][66]

近代以降

明治初頭に出された神仏分離令の影響で上社・下社付属の寺院の多くが撤去・破壊され、その中に安置していた仏像仏具は諏訪郡内の寺院に移された。

明治4年(1871年)に神職の世襲制が廃止された結果、従来の社家はすべて解職された。近代社格制度において国幣中社に列し「諏訪神社」を正式名称とした。その後、明治29年(1896年)に官幣中社、大正5年(1916年)に官幣大社と昇格した。

戦後は神社本庁別表神社の一社となり、昭和23年(1948年)から他の諏訪神社と区別する必要等により「諏訪大社」の号が用いられている。

神階

建御名方神
  • 承和9年(842年)5月14日、無位勲八等から従五位下勲八等 (『続日本後紀』) - 表記は「南方刀美神」[68]
  • 嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「御名方富命神」
  • 仁寿元年(851年)10月27日、従三位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「建御名方富命大神」
  • 貞観元年(859年)1月27日、正三位勲八等から従二位勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命神」
  • 貞観元年(859年)2月11日、正二位勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命神」
  • 貞観9年(867年)3月11日、従一位勲八等 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命神」
  • 寛平5年(893年)11月3日、正一位 - (『日本紀略』)[69]
八坂刀売神
  • 承和9年(842年)10月2日、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「健御名方富命前八坂刀売神」[68]
  • 嘉祥3年(850年)10月15日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「健御名方富命前八坂刀売命神」
  • 仁寿元年(851年)10月27日、従三位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「前八坂刀売命大神」
  • 貞観元年(859年)1月27日、正三位 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」
  • 貞観元年(859年)2月11日、従二位 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命前八坂刀売命神」
  • 貞観9年(867年)3月11日、正二位 (『日本三代実録』) - 表記は「建御名方富命前八坂刀自命神」
  • 寛平5年(893年)11月3日、従一位 - (『日本紀略』)[69]
  • 天慶年間(938年-946年)、正一位 - (『諏方大明神画詞』)[69]

神職

当社にはかつて最高位の神官・大祝おおほうりのもと、五官祝ごがんのほうりと呼ばれる神職が置かれた。

上社
祭神・建御名方神の後裔(神別)。古代から代々祭神の神体、すなわち現人神とされた。中世には大祝を中心として武士団化した。上諏訪の祭政の権を握っていたが室町時代に兵馬の惣領家・祭祀の大祝家に分かれ、のち惣領家に統一された[70]。江戸時代には諏訪藩を治めたが、諏訪頼忠の四男・頼広が大祝家として分かれ、藩主家と異なる「諏方」の字を用いて書き分けた。居館は神殿ごうどの(現・前宮)のち諏訪市中洲(北緯36度00分01.28秒 東経138度07分37.68秒)。
  • 神長かんのおさ神長官じんちょうかん守矢氏
上社五官の1つで筆頭。建御名方神の諏訪入りに抵抗したとされる洩矢神の後裔。大祝の即位式を含め上社の神事全般を掌握し、年間神事の一部に中心的な役割を果たしたミシャグジ(御左口神)という神(精霊)を扱う人物とされた。居館は茅野市宮川(現・神長官守矢史料館北緯35度59分43.53秒 東経138度07分42.21秒)。
  • 禰宜ねぎ禰宜大夫ねぎだゆう小出氏のち守矢氏
上社五官の1つ。祭神の御子・八杵命の後裔。
  • 権祝ごんのほうり矢島(八島)氏
上社五官の1つ。祭神の御子・池生神の後裔。居館は諏訪市中洲神宮寺(北緯35度59分48.04秒 東経138度07分32.90秒)。
  • 擬祝ぎのほうり(まがいの-とも):小出氏のち伊藤氏
上社五官の1つ。
  • 副祝そいのほうり(そえの-・ふく-とも):守矢氏のち長坂氏
上社五官の1つ。祭神の御子・片倉辺命の後裔。
下社
科野国造の後裔(皇別)。中世には大祝を中心として武士団化した。室町時代に金刺氏は上社との争いに敗れ他国へ去り、以後は武居祝から大祝が立てられた[66]。居館は下諏訪町上馬場のち下諏訪町武居。
  • 武居祝・竹居祝たけいほうり:武居氏のち今井氏(武居氏の支族)
下社五官の1つで筆頭。洩矢神と同様に建御名方神に服従した武居大伴主神の後裔とされる。
  • 禰宜太夫志津野氏のち桃井氏
下社五官の1つ。
  • 権祝山田氏のち吉田氏
下社五官の1つ。
  • 擬祝:山田氏
下社五官の1つ。
  • 副祝:山田氏
下社五官の1つ。
その他の神職として、若宮祝・宮津子祝・神楽役検校大夫・天王祝などの祝、八乙女、荷子などが文献に見られている[66]

明治以降は社家制度が廃止され神社本庁から神職が派遣されるようになったため、上記の氏族は現在祭祀に関わっていない。

各社概要

上社

諏訪大社 上社


本宮 拝殿(重要文化財、上)と前宮 拝所(下)
所在地 本宮:長野県諏訪市中洲宮山1
前宮:長野県茅野市宮川2030
位置 本宮
北緯35度59分53.37秒 東経138度07分10.09秒 / 北緯35.9981583度 東経138.1194694度 / 35.9981583; 138.1194694 (諏訪大社上社 本宮)
前宮
北緯35度59分28.08秒 東経138度08分00.28秒 / 北緯35.9911333度 東経138.1334111度 / 35.9911333; 138.1334111 (諏訪大社上社 前宮)
主祭神 本宮:建御名方神
前宮:八坂刀売神
神体 本宮:御山(神体山
本殿の様式 本宮:なし
例祭 4月15日(御頭祭、酉の祭)
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上社(かみしゃ)は、諏訪湖南岸、諏訪盆地の西南端にある。下社に対しては上流の位置にあたる。

本宮・前宮からなり、下社と異なり二宮は古くは本社・摂社という関係であった。古来の神事(蛙狩神事・御頭祭・年中4度の御狩神事など)に見られるように狩猟民族的な性格を有している。

かつては本宮を主として上諏訪の中心地であったが、近世以後は北方の高島城城下町に移り、そちらに甲州街道の上諏訪宿も設けられた。

祭神

本宮

本宮(ほんみや)は、赤石山脈北端の守屋山北麓に鎮座する。

社殿6棟が国の重要文化財に指定され、社叢は落葉樹からなる自然林で長野県の天然記念物に指定されている。

前宮

前宮境内図

前宮(まえみや)は、本宮の南東約2kmの地に鎮座する。諏訪の祭祀の発祥地とされる。境内には水眼すいが川が流れる。

名前の通り上社の中で一番古い社で、かつては祭事の中心地でもあった。本来は守矢氏の本拠地であったが、神氏が諏訪に進入して大祝体制が成立してから大祝に譲ったといわれている[79]

当地には大祝の始祖とされる有員が初めて大祝に就いて以来、大祝の居館が設けられていた。大祝は神体と同視(いわば現人神)されていたことから、その居館は「神殿ごうどの」と尊称され、周辺は「神原ごうばら」と呼ばれた。当地では代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われ、摂末社も多く置かれた。大祝は祭政両権を有したことから、当地は諏訪地方の政治の中心地であった。

のち諏訪氏は兵馬の惣領家と祭祀の大祝家とに分かれ、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移った。そして大祝の屋敷もまた慶長6年(1601年)に移転したが、祭事は引き続いて当地にて行われていた。

江戸時代までは「前宮社」として上社境外摂社筆頭の社格[80]を有して鎮座していたが、明治以降上社の前宮と定められた。上社の祭政一致時代の姿を色濃く残していることから、現在境内は「諏訪大社上社前宮神殿跡」として長野県の史跡に指定されている。

現在の祭神は八坂刀売神となっているが、これは『続日本後紀』に記載されている「前八坂刀売神」から発生した後世の解釈であり[81]、古文献には「前宮二十の御社宮神」が見られることから本来はミシャグジを祀る場所だったという説がある[82][83]

摂末社

本宮摂社 出早社
本宮摂社 大國主社
本宮境内社
三十九所
摂末社遙拝所(本宮)(重要文化財)

上社には上・中・下十三所ずつの計三十九所の摂末社が設けられていた。現在摂末社は上社で42社・下社で27社あり、明治以後独立した関係社を含めると計95社に及ぶ[84]

本宮にはこれらの神々を遥拝する遥拝所があり、朝夕に遥拝が行われる。遥拝所は文政11年(1828年)造営。

三十九所は以下の通り。

  • 上十三所
1. 所政ところまつ社(前宮)
2. 前宮社(前宮)
3. 磯並いそなみ社(茅野市宮川高部)
4. 大年おおとし社(茅野市ちの茅野町)
5. 荒玉あらたま社(前宮)
6. 千野川ちのがわ社(亀石社)(茅野市宮川西茅野)
7. 若神子わかみこ社(前宮)
8. 柏手かしわで社(前宮)
9. 葛井くずい社(茅野市ちの上原)
10. 溝上みぞがみ社(前宮)
11. 社(茅野市宮川高部)
12. 玉尾社(茅野市宮川高部)
13. 穂股ほまた社(茅野市宮川高部)
  • 中十三所
1. 藤島社 (諏訪市中洲神宮寺)
2. 内御玉殿うちみたまでん(前宮)
3. 鶏冠けいかん社(前宮)
4. 酢蔵すくら社(茅野市ちの横内)
5. 習焼ならやき社(諏訪市湖南)
6. 御座石ございし社(茅野市本町)
7. 御飯殿(本宮)
8. 相本あいもと社(茅野市宮川高部)
9. 若宮社(諏訪市中洲神宮寺)
10. 大四御庵おおよつみいお(富士見町御射山)
11. 山御庵やまみいお(富士見町御射山)
12. 御作久田みさくだ社(不明)
13. 闢尾あきほ社(原村室内)
  • 下十三所
1. 八剱やつるぎ社(八剣神社)(諏訪市小和田)
2. 小坂おさか社(岡谷市湊)
3. 鷺宮さぎのみや社(先宮神社)(諏訪市大和)
4. 荻宮 (諏訪市四賀上桑原)
5. 達屋たつや社(茅野市ちの横内)
6. 酒室さかむろ社 (茅野市宮川坂室)
7. 下馬げば社(茅野市宮川高部)
8. 御室みむろ社(前宮)
9. 御賀摩おかま社(本宮)
10. 磯並山神いそなみやまのかみ(茅野市宮川高部)
11. 武居会美酒(諏訪市中洲神宮寺武居平)
12. 神殿中部屋ごうどのなかべや(前宮→神宮寺)
13. 長廊神社(本宮)

その他

『上社古図』

上社の境内に関しては天正年間(1573年-1592年)に描かれたと伝えられる[85]『上社古図』があり、当時の様子がわかっている。絵図は現在は諏訪市博物館で保管され、神長官守矢史料館に模写版が展示されている。

上社神宮寺

別当寺。社伝では空海の創建といわれ、本宮の周りに大坊・上ノ坊・下ノ坊・法華寺の上社4寺ほか多くの坊があった[86]。普賢堂・五重塔・二王門といった伽藍があったことが絵図からわかっている。なお、絵図に描かれる法花寺は法燈を現在に伝えている(現 法華寺)。

御小屋

上社の御柱を伐り出す御柱山。


下社

諏訪大社 下社


秋宮(上)と春宮(下)の幣拝殿(ともに重要文化財)
所在地 秋宮:長野県諏訪郡下諏訪町5828
春宮:長野県諏訪郡下諏訪町193
位置 秋宮
北緯36度04分31.45秒 東経138度05分28.68秒 / 北緯36.0754028度 東経138.0913000度 / 36.0754028; 138.0913000 (諏訪大社下社 秋宮)
春宮
北緯36度04分55.45秒 東経138度04分55.60秒 / 北緯36.0820694度 東経138.0821111度 / 36.0820694; 138.0821111 (諏訪大社下社 春宮)
主祭神 建御名方神
八坂刀売神
八重事代主神
神体 秋宮:イチイ(神木)
春宮:スギ神木
本殿の様式 なし
例祭 8月1日(御舟祭)
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下社(しもしゃ)は、諏訪湖北岸、諏訪盆地の北縁にある。上社に対しては下流の位置にあたる。

秋宮・春宮からなり、上社と異なり二宮の地位は同格で、御霊代(依り代)が2月と8月に両社間を遷座する。南側が開けており古くから農耕が盛んな地であり[87]、農耕民族的な性格を有している。

一帯は下諏訪の中心地で、近世には中山道甲州街道の宿場町として下諏訪宿も設けられた。

祭神

  • 建御名方神 (たけみなかたのかみ)
  • 八坂刀売神 (やさかとめのかみ) - 主祭神
  • 八重事代主神 (やえことしろぬしのかみ) - 合祀。建御名方神の兄神。国譲りの際にはすぐ服従したとされる[44]

秋宮

秋宮(あきみや)は、下諏訪の春宮の町の東端に鎮座する。東方には承知川が流れている。

毎年8月-翌1月に祭神が祀られているため、秋宮よばれている。境内は社殿4棟が国の重要文化財に指定されている。周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯がある。社殿の形式は春宮と同じで、古くは秋宮・春宮間で建築の技が競われた[88]

  • 根入りの杉 - 境内正面に立つ。
  • 千尋池 - かつて賣神祝印(重要文化財)が掘り出された。

春宮

春宮(はるみや)は、下諏訪の町の北端、秋宮の北西約1.2kmの地に鎮座する。下社最初の遷座地とされる。西方には砥川が流れている。

毎年2月-7月に祭神が祀られているため、春宮とよばれている。境内は社殿3棟が国の重要文化財に指定されている。

摂末社

下社の摂末社は現在27社ある[84]

秋宮摂社 若宮社
秋宮境内社
春宮摂社 若宮社
春宮境内社
境外社
  • 御作田社 - 御田植神事が境内で行われる。6月30日に田植えをしても1ヶ月後の8月1日には収穫して神前に捧げられたとされ、「御作田の早稲」として諏訪七不思議の1つ。
  • 青塚社
秋宮近くの青塚古墳上に鎮座。

その他

下社神宮寺跡

別当寺

青塚古墳

下社秋宮近くに残る古墳で、かつては秋宮の境内地であった。諏訪地方では唯一の前方後円墳で、全長57m[89]。埋葬者と当社との関係は不明であるが、現在下社末社の青塚社が祀られている。

祭事

式年祭事

御柱祭
  • 諏訪大社式年造営御柱大祭御柱祭(おんばしらさい・みはしらさい)を参照
寅年と申年の6年ごと(7年目ごと)に、を山中から切り出し、各社殿の四方に建てて神木とする祭。諏訪大社の最も重要な祭である。御柱と同時に、宝殿の建て替えのため宝殿内の神器の遷座も行われる。

年間祭事

上社・下社

冬、諏訪湖の湖面に氷が張り、日中に氷の膨張によって亀裂が走る現象(プレッシャー・リッジ)で、特に上社から下社の方向へ走るものに対していう。これは男の神が上社から女の神のいる下社へ通った跡とされ、神事が諏訪市の八剱神社の宮司によって執り行われる。なお、同様の現象は摩周湖等でも起きる。

上社

  • 一覧
  • 蛙狩神事(かわずがりしんじ)
元日の朝に上社本宮で行われる神事。まず御手洗川の川底を掘り返し、を捕らえる。その後拝殿正面にて小弓と矢を以てこのを射抜き、生贄として神前に捧げ、宮司祝詞を捧げ国家平安と五穀豊穣を祈願する。上社の祭神が荒れ狂う「蝦蟆神」を退治したのがこの神事の始まりという故事がある。蛙を供える本当の理由は謎に包まれており、いろんな説が挙げられている[注釈 2]。しかし、諏訪の龍蛇信仰と関係している可能性がある。
2011年の神事後、環境NGO団体が抗議を提起し、2013年には環境NGO団体が無断で撮影した動画と写真がネット上に掲載された。2015年には動物愛護団体動物虐待であるとして抗議活動を展開し一部のメディアが報道した[90]

蛙狩神事の動物愛護問題

生きたカエルを串刺しにするという行為が、残酷であるとして、国内の複数の動物保護団体(LIA[91]、全国動物ネットワーク[92]、犬猫救済の輪[93]、JAVA[94]、PEACE[95]、アニマルライツセンター[96]など)及び国民から抗議の声が上がっている。

諏訪大社は御頭祭りでは狩猟時代より神事の御供えとして鹿肉や鹿頭等が狩りにより奉納されてきたが、狩猟を生業とする時代の移り変わりから

鹿の頭の剥製と加工された鹿肉に自身の判断で変えており、カエルの串刺しも時代の価値観を踏まえ代用品に変えるべきであるという主張が、動物愛護団体や国民の抗議内容となっている。

本来動物を殺す際には、日本では動物愛護法第四十条二項に基づく動物の殺処分方法に関する指針[97]に則って行わなければならず、現行の殺し方はこの指針に反すると主張する動物保護団体もある。

動物の殺処分方法に関する指針

第3 殺処分動物の殺処分方法

「殺処分動物の殺処分方法は、化学的又は物理的方法により、できる限り殺処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認されている通常の方法によること。」


動物の殺処分方法に関する指針における動物の定義は、愛護動物(牛、馬、豚、めん羊、山羊、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる、人が占有している動物で哺乳類鳥類又は爬虫類に属するもの)とされているが同指針の第4 補足2に「2 対象動物以外の動物を殺処分する場合においても、殺処分に当たる者は、この指針の趣旨に沿って配慮するよう努めること。」とあり、「愛護動物」以外であっても同指針の努力義務が求められている。

また、両生類であるカエルは動物愛護管理法で定義されている「愛護動物」でなはいため、同法の処罰対象外となっている。しかしながら法律本文自体はすべての動物に適用される。また純粋な野生下の動物については法律自体が適用されない(動物愛護管理業務必携(2016年版)参照)が、一度捕まえて人の支配下に置かれた以上「純粋な野生下」とはいえず、動物愛護管理法本文が適用されると、動物保護団体は主張する。

同法で定義される「愛護動物」(牛、馬、豚、めん羊、山羊、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる、人が占有している動物で哺乳類鳥類又は爬虫類に属するもの)以外のすべての動物に適用される条文には次のようなものがある。


第二条の基本原則

「動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。」


生きたカエルへの串刺しはこれに反する内容であり、神事であれ社会的に認められるべきではない。

また、動物愛護法には「神事や伝統行事は対象外」という規定はないため、伝統ある神事であっても同法の遵守が求められる。

諏訪大社は国や市からの文化財保存事業費[98]や諏訪大社保存修理費[99]を使い維持されている国民の財産であり、世界中に信奉者を持つ日本有数の神社である。

今後の蛙狩神事における諏訪大社の動物倫理が注目されている。

蛙狩神事は2021年現在も行われている。

  • 御頭祭(おんとうさい)
4月15日に上社で行われる祭。別名「酉の祭り」「大御立座神事(おおみたてまししんじ)」「大立増之御頭」と言われている。
現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供され、中世になると鹿の体全体が供され、それを「禽獣の高盛」と呼んだという内容が残っている。また諏訪大社七不思議の1つとして「耳裂鹿」というものがある。これは生贄の鹿の中で、必ず耳が大きく裂けた鹿がいるというものであるという。
  • 御射山祭(みさやまさい)
上社の狩猟神事。中世には年4回八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く5日間続いた。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという。
またこの祭の起こりとして、南北朝時代の神道集『諏訪大明神秋山祭のこと』では、
平安時代初期、坂上田村麻呂蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。将軍がこの神恩に報いるため悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。この縁日(旧暦7月27日)になると討ち取られた高丸の怨霊が嵐を起こすといわれる」
という伝説を伝えている。現在はこの祭はずっと小規模になっている。

下社

上社に比べて史料が残っておらず不明な神事も多い[66]

  • 一覧
  • 筒粥神事
1月14日の夜から1月15日の明け方にかけて下社春宮境内の筒粥殿にて行われる神事。葦筒を釜で一晩かけて炊き上げ、筒の中の状態でその年の農作物の収穫などを占う神事である。この占いの結果は地元メディアによって報道される。かつては上社でも行われていたが、現在の上社においては上社筒粥殿の遺構が境内に遺るのみである。
  • 犬追物(江戸時代中期まで)
旧暦7月1日、下社遷座祭で遷座の行列がお宮に到着すると、馬場で犬追物の神事が行われた。
江戸時代中期以降廃れる。
  • 御舟祭(おふねまつり)
下社の例大祭で、8月1日に催される。神体を舟(柴舟)に乗せて春宮から秋宮へ遷座する祭。舟は南北朝時代に書かれた『諏訪大明神絵詞』には「鉾山」と書いてあり、江戸時代から「御舟」と呼ばれるようになったとされる。舟の上にはとみられる人形が乗せられる。
なお、2月1日に開催される遷座祭は、秋宮から春宮への遷座であるが、あまり大きく行われない。諏訪地域は海から遠く、なぜ舟が出てくるのか不明である。「海の近くにいた神様が諏訪へ逃れた」という説や「建御名方神が妃神とともに諏訪の湖に舟を浮かべ周辺の作物の出来不出来を判じた」という説などがある。

文化財

重要文化財(国指定)

  • 諏訪大社上社本宮 16棟(建造物) - 幣殿・拝殿・左右片拝殿・脇片拝殿・四脚門は昭和58年12月26日指定[100]、布橋以下(附指定を含む)は平成28年2月9日追加指定[101]
    • 幣殿
    • 拝殿
    • 左右片拝殿(2棟)
    • 脇片拝殿
    • 四脚門
    • 布橋
    • 勅願殿
    • 文庫
    • 勅使殿
    • 五間廊
    • 摂末社遙拝所
    • 神楽殿
    • 天流水舎
    • 神馬舎
    • 入口御門
    • (以下は附指定)
      • 神橋
      • 塀重門
      • 額堂
      • 銅鳥居
      • 注連掛鳥居
  • 諏訪大社下社 7棟(建造物) - 昭和58年12月26日指定[102]
    • 春宮幣拝殿
    • 春宮左右片拝殿(2棟)
    • 秋宮幣拝殿
    • 秋宮左右片拝殿(2棟)
    • 秋宮神楽殿
  • 太刀 無銘(工芸品) - 1960年盗難。
  • 太刀 銘忠吉(工芸品) - 1960年盗難。
  • 銅印(考古資料) - 平安時代の資料。印文は「賣神祝印(めがみほうりのいん)」。昭和9年1月30日指定[103]

長野県指定文化財

  • 史跡
    • 青塚古墳 - 昭和40年2月25日指定[104]
    • 諏訪大社上社前宮神殿跡 - 昭和39年指定。
  • 天然記念物
    • 諏訪大社上社社叢 - 昭和39年8月20日指定[105]
  • 無形民俗文化財
    • 諏訪大社の御柱祭り - 平成6年8月15日指定[105][106]
    • 諏訪大社上社十五夜祭奉納相撲 - 平成20年4月21日指定[105]

諏訪市指定文化財

  • 有形文化財
    • 諏訪大社上社建造物 7棟 - 昭和48年5月7日指定[105]
    • 諏訪大上社社宝物 15点 - 昭和48年5月7日指定[105]
    • 諏訪大社上社宝印 2点 - 昭和59年3月26日指定[105]
  • 天然記念物
    • 諏訪大社上社境内の社叢 - 昭和49年3月23日指定[105]

茅野市指定文化財

  • 史跡
    • 犬射原社 - 昭和42年10月5日指定[107]
    • 大年社 - 平成6年12月26日指定[107]

下諏訪町指定文化財

  • 有形文化財
    • 春宮下馬橋(建造物) - 昭和48年6月26日指定[108]
    • 秋宮経塚出土品(工芸品) - 明細は以下。平成14年12月26日指定[108]
      • 舟形水差1、和鏡2、花形鋺1、黄瀬戸香炉1、灰釉と黄金46
    • 諏訪大社下社宝物(工芸品) - 明細は以下。平成14年12月26日指定[108]
      • 和鏡1、舟形錠1、鎌1
    • 諏訪大社下社文書(書跡・典籍・古文書) - 明細は以下。平成14年12月26日指定[108]
      • 右大将家下文1、小笠原長基寄進状1、小笠原持長社領安堵状1、江戸幕府朱印状1、御教書1
  • 天然記念物
    • 諏訪大社下社社叢 - 昭和48年6月26日指定[108]
      • 秋宮社叢
      • 春宮社叢
    • 専女の欅 - 昭和56年1月26日指定[109]

関連文化財

諏訪大社非所有の関連文化財。

  • 長野県指定文化財
    • 紙本著色諏訪社遊楽図 - 長野県宝。諏訪市博物館蔵。平成16年3月29日指定[105]
    • 上社神宮寺五重塔鉄製伏鉢残闕 - 長野県宝。諏訪市博物館蔵。平成16年3月29日指定[105]
    • 旧御射山遺跡 - 長野県指定史跡。昭和37年7月12日指定[105]
  • 市町村指定文化財
    • 諏訪大社上社古図 - 諏訪市指定有形文化財。諏訪市博物館蔵。昭和43年4月10日指定[105]
    • 諏訪大社五重塔風鐸 2個 - 諏訪市指定有形文化財。諏訪市博物館蔵。昭和55年2月12日指定[105]
    • 下社副祝職宛行状 - 下諏訪町指定有形文化財。諏訪湖博物館・赤彦記念館蔵。平成23年1月15日指定[110]
    • 川岸天竜河畔諏訪明神入諏伝説の地 - 岡谷市指定史跡。平成16年3月30日指定[111]

現地情報

上社

所在地
付属施設
  • 上社本宮宝物殿 - 開館時間:午前9時-午後4時
交通アクセス

本宮まで

  • JR東日本中央本線 上諏訪駅 (6.3km)
    • 徒歩:約80分
    • バス
      • 諏訪バス(有賀・上社統合路線)で、「上社」バス停下車 - 上諏訪駅から平日のみ1日8便
      • 諏訪市営「かりんちゃんバス」(市内循環外回り線・内回り線)で、「神社前」バス停下車 - 外回り線は上諏訪駅から1日6便、内回り線は1日8便
      • 諏訪市かりんちゃんバス(すわっこランド・上社有賀線)で、「諏訪市博物館」バス停下車 - 上諏訪駅から1日4便
    • タクシー:約20分

前宮まで

  • 最寄駅:JR東日本中央本線 茅野駅 (2.4km)
    • 徒歩:約30分
    • タクシー:約8分

本宮・前宮間

  • 長野県道16号岡谷茅野線を通って徒歩約20分(1.8km)
    • 前宮本殿の裏手と本宮隣の法華寺を結ぶ鎌倉みちという歩道も通行可能である。古道がベースのため道幅が狭く高低差もかなりあり、未舗装の砂利道などの歩行には注意が必要。徒歩:約40分
周辺

下社

所在地
付属施設
  • 下社秋宮宝物殿 - 開館時間:午前10時-午後3時
交通アクセス

秋宮まで

  • 最寄駅:JR東日本中央本線 下諏訪駅 (0.8km)
    • 徒歩:約10分
    • バス:下諏訪町循環バス「あざみ号」(循環線、星が丘線、萩倉・樋橋線、星が丘経由萩倉・樋橋線)で、「諏訪大社秋宮前」バス停下車 - 下諏訪駅から終日計13便
  • 中央高速バス 下諏訪バス停留所 (0.6km)
    • 徒歩:約8分

春宮まで

  • 最寄駅:JR東日本中央本線 下諏訪駅 (1.4km)
    • 徒歩:約16分
    • バス
      • 下諏訪町循環バス「あざみ号」(循環線)で、「諏訪大社春宮」バス停下車 - 下諏訪駅から終日4便
      • 諏訪バス(岡谷-上諏訪-茅野線)で、「春宮大門」バス停下車 (下車後徒歩0.9km)
  • 中央高速バス 下諏訪バス停留所 (1.1km)
    • 徒歩:約12分

秋宮・春宮間

  • 中山道を通って徒歩約12分(1.2km)
周辺

当社関係地

  • 神野 原山とも。八ヶ岳西山麓の広大な原野。御狩神事が行われた。

脚注

注釈

  1. ^ a b 建御名方彦神別命(たけみなかたひこがみわけ)、伊豆早雄命(いずはやお)、妻科比売命(つましなひめ)、池生神(いけのお)、須波若彦神(すわわかひこ)、片倉辺命(かたくらべ)、蓼科神(たてしな)、八杵命(やきね)、内県神(うちあがた)、外県神(そとあがた)、大県神(おおあがた)、意岐萩命(おきはぎ)、妻岐萩命(つまぎはぎ)の13柱。
  2. ^ 蛇神とされた祭神に好物の蛙を捧げる説、古代人に食料とされた蛙を祖先神に捧げる説、諏訪上社の御狩始めの儀式説、月(陰気)を象徴するを殺し春を迎える説、三毒の退治を表す密教風儀式説など。

出典

  1. ^ 「大法輪」第72巻1号、大法輪閣、90頁、2005年。
  2. ^ 経済雑誌社 編「先代旧事本紀 巻第四 地神本紀」『国史大系 第7巻』経済雑誌社、1901年、244頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/136 
  3. ^ 『国史大辞典』御柱祭項。
  4. ^ 御柱について”. 御柱祭観光情報センター. 2020年9月22日閲覧。
  5. ^ 『諏訪大社』。
  6. ^ 谷川健一 編『日本の神々 神社と聖地』 〈9〉美濃・飛騨・信濃、白水社、1987年、135-136頁。 
  7. ^ 野本三吉 著「地母神の村・序説」、古部族研究会編 編『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』人間社〈日本原初考 1〉、2017年、32-36頁。 
  8. ^ a b 原正直「守屋山上社本宮神体山説と御射山」『スワニミズム 第4号』2018年、209-210頁。
  9. ^ 信濃国一宮諏訪本社上宮御鎮坐秘伝記』(『信濃史料 巻十一』収録)
  10. ^ 原正直「守屋山上社本宮神体山説と御射山」『スワニミズム 第4号』2018年、225-229頁。
  11. ^ 寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書店、2010年、133頁。
  12. ^ 諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、682-683頁。
  13. ^ 原正直「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』山本ひろ子編、国書刊行会、2018年、148-149頁。
  14. ^ 原正直「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』山本ひろ子編、国書刊行会、2018年、134-135頁。
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参考文献

原典

書籍

  • 上田正昭 他『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年。ISBN 978-4-480-84181-0 
  • 金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年。 NCID BN01626104 
  • 古部族研究会編 編『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』人間社〈日本原初考 1〉、2017年。ISBN 978-4-908-62715-6 
  • 茅野市神長官守矢史料館編 編『神長官守矢史料館周辺ガイドブック』2010年。 
  • 茅野市神長官守矢史料館編 編『神長官守矢史料館のしおり』(第三版)、2017年。 
  • 諏訪市史編纂委員会編 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』諏訪市、1995年。 NCID BN02906048 
  • スワニミズム 編『スワニミズム 第3号 特集:ミシャグジ再起動』2017年。 
  • スワニミズム 編『スワニミズム 第4号』2018年。 
  • 谷川健一 編『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』白水社、1987年。ISBN 978-4-560-02509-3 
  • 三輪磐根『諏訪大社』学生社、1978年。ISBN 978-4-311-40712-3(元・諏訪大社宮司)
  • 寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書店、2010年。ISBN 978-4-8729-4608-6 
  • 福田晃 編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』二本松康宏、徳田和夫、三弥井書店、2015年。ISBN 978-4-838-23288-8 
  • 原直正『龍蛇神: 諏訪大明神の中世的展開』人間社、2012年。ISBN 978-4-931-38871-0 
  • 宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年。ISBN 978-4-876-63178-0 
  • 村岡月歩『諏訪の祭神』雄山閣出版、1969年。 NCID BN14385066 
  • 矢崎孟伯『諏訪大社』銀河書房〈銀河グラフィック選書 3〉、1986年。 
  • 山本ひろ子 他『諏訪学』国書刊行会、2018年。ISBN 978-4-336-06254-3 
  • 日本歴史地名大系 20 長野県の地名』平凡社、1979年。ISBN 4-582-49020-4 (信濃国節、諏訪郡 各項、諏訪市 各項、茅野市 各項)
  • 国史大辞典吉川弘文館 (諏訪氏項、諏訪信仰項、諏訪大社項)

関連項目

作品

外部リンク

座標: 北緯35度59分53.37秒 東経138度07分10.09秒 / 北緯35.9981583度 東経138.1194694度 / 35.9981583; 138.1194694

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