塩狩駅
塩狩駅 | |
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駅舎(2009年7月) | |
しおかり Shiokari | |
◄W36 蘭留 (5.6 km) (7.9 km) 和寒 W38► | |
所在地 | 北海道上川郡和寒町字塩狩 |
駅番号 | ○W37 |
所属事業者 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) |
所属路線 | ■宗谷本線 |
キロ程 | 28.4 km(旭川起点) |
電報略号 | シリ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 2面2線 |
開業年月日 | 1924年(大正13年)11月25日[1] |
備考 | 無人駅 |
塩狩駅(しおかりえき)は、北海道上川郡和寒町字塩狩にある北海道旅客鉄道(JR北海道)宗谷本線の駅である。電報略号はシリ[2]。事務管理コードは▲121809[3]。駅番号はW37。
歴史
[編集]当初は単なる信号場として設置されたが、入植者の増加や塩狩温泉の開業もあり、1924年(大正13年)から旅客駅として営業を開始した[4]。
その立地から後述するように周辺他駅と比しても利用が僅少な状況が長らく続いており、2010年代以降のJR北海道による利用僅少駅の旅客扱い見直しにあたっては、2021年(令和3年)4月以降は和寒町が維持管理を受け持つ形で旅客扱いを継続している[新聞 1]。
年表
[編集]- 1916年(大正5年)9月5日:鉄道院宗谷線の塩狩信号所として設置[5][6][7]。
- 1919年(大正8年)10月20日:宗谷本線に線名を改称[6]。
- 1922年(大正11年)4月1日:塩狩信号場に改称[1][7]。
- 1924年(大正13年)11月25日:塩狩駅に昇格し[5][7]、旅客・手荷物・旅客附随小荷物の取扱い開始[8][4]。
- 1927年(昭和2年)9月1日:小荷物・小口扱貨物の取扱い開始(配達はせず)[9][4]。
- 1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道に移管。
- 1963年(昭和38年)4月30日:公衆電報の取り扱い廃止[7]。
- 1969年(昭和44年)9月12日:構内に「長野政雄殉職記念碑」(後述)建立[4][7]。
- 1971年(昭和46年)9月1日:構内に「塩狩峠」の標識を建植[7]。
- 1974年(昭和49年)10月1日:貨物取扱い廃止[1]。
- 1984年(昭和59年)
- 1986年(昭和61年)11月1日:電子閉塞化により運転要員を廃止し、完全無人駅化[新聞 3]。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる[6]。
- 2019年(令和元年)12月3日:JR北海道が沿線自治体に対し、宗谷本線活性化推進協議会を通じて当駅含む29駅[注釈 1]について、自治体による維持管理もしくは費用負担による存続か、2021年(令和3年)3月での廃止かの方針を2020年3月までに報告するよう要請[新聞 4]。
- 2021年(令和3年)4月:和寒町による維持管理に移行[新聞 1]。
駅名の由来
[編集]駅構造
[編集]隣の蘭留駅と同じく、相対式ホーム型がずれた形の千鳥式ホーム2面2線を有する、列車交換可能な地上駅。構内踏切で結ばれている[2]。和寒町管理の無人駅。木造駅舎がある。
1993年(平成5年時点)では構内の旭川方のみ駅舎側が直進の片開分岐、稚内方は両開き分岐器を採用し、駅舎側が下り本線・反対側が上り本線となっていたが[2]、その後高速化にあわせて駅舎側を本線とした一線スルーになっている。また、かつては上下線の中央に待避線が1本あったが、無人化に伴い撤去された。
のりば
[編集]番線 | 路線 | 方向 | 行先 |
---|---|---|---|
1 | ■宗谷本線 | 下り | 名寄・音威子府方面 |
1・2 | 上り | 旭川方面 |
- 2番線は一部列車のみ使用
-
ホーム(2017年10月)
-
構内踏切(2017年10月)
-
駅名標(2017年10月)
利用状況
[編集]乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。
年度 | 乗車人員 | 出典 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|
年間 | 1日平均 | JR調査 | |||
1924年(大正13年) | 10,952 | (30.0) | [4] | 同年11月25日に旅客営業開始 | |
1928年(昭和 | 3年)13,317 | (36.5) | |||
1933年(昭和 | 8年)10,380 | (28.4) | |||
1938年(昭和13年) | 16,145 | (44.1) | |||
1943年(昭和18年) | 37,355 | (102.1) | |||
1953年(昭和28年) | 33,405 | (91.5) | |||
1958年(昭和33年) | 52,516 | (143.9) | |||
1963年(昭和38年) | 39,245 | (107.2) | |||
1948年(昭和43年) | 24,210 | (66.3) | |||
1973年(昭和48年) | 12,742 | (34.9) | |||
1978年(昭和53年) | 16.0 | [10] | |||
1992年(平成 | 4年)(4.0) | [2] | 1日乗降客数8名 | ||
2015年(平成27年) | 「1名以下」 | [JR北 1] | |||
2017年(平成29年) | 0.2 | [JR北 2] | |||
2018年(平成30年) | 「1名以下」 | [JR北 3] | |||
2019年(令和元年) | 1.2 | [JR北 4] | |||
2020年(令和 | 2年)「3名以下」 | [JR北 5] | |||
2021年(令和 | 3年)「3名以下」 | [JR北 6] | |||
2022年(令和 | 4年)「10名以下」 | [JR北 7] | |||
2023年(令和 | 5年)2.6 | [JR北 8] |
駅周辺
[編集]塩狩峠の頂上付近にあり、後述の当駅開業前に発生した鉄道事故、およびそれをモデルとした三浦綾子の小説『塩狩峠』に関連した施設もみられる。
その他
[編集]長野政雄の殉職
[編集]1909年(明治42年)2月28日、8100形蒸気機関車牽引の名寄発旭川行き最終急行列車が塩狩峠の頂上付近(事故当時、当駅は未開業)に差し掛かった時、最後尾の客車の連結器が外れ[注釈 2]、逆行・逸走する列車分離事故が発生した。乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)旭川鉄道運輸事務所庶務主任の長野政雄が[注釈 3]、デッキ上のハンドブレーキを操作して暴走する客車の停止を試みている最中、何らかの理由からデッキから線路上に転落した[12]。客車はしばらく走行した後に停止し、乗客にけが人や犠牲者はなかったが、長野は客車の下敷きになり殉職した[6][12](28歳没)。
後に三浦綾子によって、この事故を基にした小説『塩狩峠』が発表され(1966年〔昭和41年〕連載開始)、1973年(昭和48年)には映画化もされた。前述のように長野の死亡経緯は不明であるが、作中では長野をモデルとした主人公・永野信夫の殉職理由は「列車を止めるべく、自らの意志でデッキから車両の前に飛び込んだため」という解釈がされている[12]。
『塩狩峠』連載開始3年後の1969年(昭和44年)には構内に「長野政雄殉職記念碑」が建立され[4][7]、そののちには塩狩峠記念館・文学碑が立てられている。
隣の駅
[編集]- 北海道旅客鉄道(JR北海道)
- ■宗谷本線
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、897頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
- ^ a b c d e 宮脇俊三、原田勝正 著、二見康生 編『北海道630駅』小学館〈JR・私鉄各駅停車〉、1993年6月20日、143頁。ISBN 4-09-395401-1。
- ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、238頁。doi:10.11501/1873236 。2023年1月15日閲覧。
- ^ a b c d e f 和寒町 編『和寒町史』和寒町、1975年、412-413頁。doi:10.11501/9569701 。2022年6月25日閲覧。
- ^ a b c 『北海道 駅名の起源』(第1版)日本国有鉄道北海道総局、札幌市、1973年3月25日、174頁。ASIN B000J9RBUY。
- ^ a b c d 曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 20号・宗谷本線/留萌本線、朝日新聞出版〈週刊朝日百科〉、2009年11月2日、34頁。
- ^ a b c d e f g 『鉄道百年記念 旭鉄略年表(1972年)』日本国有鉄道旭川鉄道管理局、1972年、5, 7, 9, 33, 45, 51頁。doi:10.11501/12061017 。
- ^ 内閣印刷局, ed (1924-11-18). “鉄道省告示 第232号”. 官報 (国立国会図書館デジタルコレクション) (3672) .
- ^ 内閣印刷局, ed (1927-08-30). “鉄道省告示 第189号”. 官報 (国立国会図書館デジタルコレクション) (202) .
- ^ 藤田, 稔 編『国鉄全駅大事典』藤田書店、1980年4月30日、886頁。doi:10.11501/12065814 。
- ^ 中島啓幸『塩狩峠、愛と死の記録』いのちのことば社 フォレストブックス、2007年7月30日。ISBN 978-4-264-02554-2。
- ^ a b c おのつよし 1991, p. 94-96.
JR北海道
[編集]- ^ “極端にご利用の少ない駅(3月26日現在)” (PDF). 平成28年度事業運営の最重点事項. 北海道旅客鉄道. p. 6 (2016年3月28日). 2017年9月25日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員(【別添資料】(2)宗谷本線(旭川・稚内間)の状況)” (PDF). 宗谷線(旭川~稚内間)事業計画(アクションプラン). 北海道旅客鉄道. pp. 11-12 (2019年4月). 2019年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月18日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員” (PDF). 全線区のご利用状況(地域交通を持続的に維持するために). 北海道旅客鉄道. 2020年1月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月20日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員(【別添資料】(2)宗谷本線(旭川・稚内間)の状況)” (PDF). 宗谷線(旭川~稚内間)第2期事業計画(アクションプラン). p. 10 (2021年4月16日). 2021年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員” (PDF). 地域交通を持続的に維持するために > 全線区のご利用状況. 北海道旅客鉄道 (2021年9月30日). 2022年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月1日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員” (PDF). 地域交通を持続的に維持するために > 全線区のご利用状況. 北海道旅客鉄道. 2022年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月9日閲覧。
- ^ “駅別乗車人員” (PDF). 地域交通を持続的に維持するために > 全線区のご利用状況. 北海道旅客鉄道 (2023年). 2023年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月26日閲覧。
- ^ “宗谷線(旭川・稚内間) 事業の抜本的な改善方策の実現に向けた実行計画(2024(令和6)~2026(令和8)年度)” (PDF). 北海道旅客鉄道 (2024年). 2024年9月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月8日閲覧。
新聞記事
[編集]- ^ a b “無人18駅、自治体管理へ JR北海道 経営難で急拡大”. 『北海道新聞』. (2021年2月5日). オリジナルの2021年2月6日時点におけるアーカイブ。 2021年2月6日閲覧。
- ^ “「通報」●函館本線江部乙駅ほか49駅の駅員無配置について(旅客局)”. 鉄道公報 (日本国有鉄道総裁室文書課): p. 1. (1984年11月9日)
- ^ “宗谷線、20駅無人化へ 特殊自動閉そく装置導入工事進む”. 交通新聞 (交通協力会): p. 2. (1986年9月17日)
- ^ “宗谷線の無人駅管理 自治体に要請 JR「負担か廃止」 3月期限、悩む沿線”. 北海道新聞. (2019年12月12日). オリジナルの2019年12月12日時点におけるアーカイブ。 2020年3月28日閲覧。
- ^ “塩狩駅維持にふるさと納税 和寒町 返礼品に独自カード”. 『北海道新聞』. (2020年6月25日). オリジナルの2020年6月25日時点におけるアーカイブ。 2020年6月25日閲覧。
- ^ 「塩狩駅維持へ寄付623万円 和寒町管理の無人駅 鉄道愛好家、三浦文学ファン支え」『北海道新聞』2021年5月7日(第4社会面)
参考文献
[編集]- おのつよし『日本の鉄道100ものがたり』(初版第1刷)文春文庫、1991年5月10日。ISBN 978-4167536015。
- 武田元秀、山井美希(写真)「最北端最後の砦 孤高の一本道」『鉄道ジャーナル』第55巻第4号(通巻654号)、成美堂出版、2020年4月1日、24-33頁、ISSN 0288-2337。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 塩狩|駅の情報検索(時刻表・バリアフリー)|鉄道・きっぷ|JR北海道- Hokkaido Railway Company