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「西園寺禧子」の版間の差分

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'''西園寺 禧子'''(さいおんじ きし、'''藤原 禧子'''(ふじわら の きし)、 [[嘉元]]元年([[1303年]]) - [[元弘]]3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1333年]][[11月19日]]))は、第96代[[天皇]]・[[後醍醐天皇]]の[[皇后]]([[中宮]])。[[女院]]号はめ[[北朝 (日本)|北朝]]より'''礼成門院'''(れいせいもんいん)と称されるが、のちにそれは廃され、後に改めて[[南朝 (日本)|南朝]]より'''後京極院'''(ごきょうごくいん)の号を追贈された。
'''西園寺 禧子'''(さいおんじ きし)は、第96代[[天皇]]・[[後醍醐天皇]]の[[皇后]]([[中宮]])、のち[[皇太后]]。正式な名乗りは'''藤原 禧子'''(ふじわら の きし)。[[女院]]号は[[持明院統]](後の[[北朝 (日本)|北朝]]より'''礼成門院'''(れいせいもんいん{{efn|name="reisenmonin"|[[日本史]]研究者の[[森茂暁]]は「礼成」の訓みを「れいせい」とする{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。一方、『[[増鏡]]』「[[宮内庁書陵部]]桂宮本」([[江戸時代]]初期写)では「礼成」に「れいしやう」とふりがなが振られており(つまり訓みは「れいしょう」)、『増鏡通解』([[和田英松]]・[[石川佐久太郎]]校注、1928年)や『増鏡解釈』([[塚本哲三]]校注、1932年)は「礼成」を「らいせい」としている{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。}})と称されるが、のちにそれは廃され、崩御同日[[建武政権]](後の[[南朝 (日本)|南朝]]より'''後京極院'''(ごきょうごくいん)の号を追贈された。皇女に[[伊勢神宮]][[斎宮]]・[[光厳天皇|光厳上皇]]妃の[[懽子内親王]](宣政門院)がいる


確実な生年は不明だが、幼名を「'''さいこく'''」と言い、[[嘉元]]3年([[1305年]])ごろには異母姉で[[亀山天皇|亀山院]](後醍醐の祖父)の寵姫である[[西園寺瑛子|昭訓門院瑛子]]に仕えていたと見られる。[[正和]]2年([[1313年]])秋(7月 - 9月)ごろに[[皇太子]]尊治親王(のちの後醍醐天皇)によって密かに連れ出され、翌年正月に情事が露見して既成事実婚で皇太子妃となる。これは基本的に恋愛結婚と見られ、夫婦の熱愛ぶりは様々な資料に現れている。一方、一国の皇太子として、尊治の求婚には政治的理由もあると考えられている。一つ目には代々[[関東申次]]([[朝廷]]と[[鎌倉幕府]]との折衝役)を務める有力[[公家]]である[[西園寺家]]の高貴な姫君との間に世継ぎをもうけることで、甥の[[邦良親王]]の系統に対し、自身の皇統存続を強固にすること。二つ目には、関東申次の権力を通じて、幕府との友好関係強化を図ったことなどが推測されている。しかしこうした理屈を越えて、尊治は心情的にも禧子を溺愛し、しかも年ごとに愛情を深めていった。禧子の側でも温和で誠実な人柄の尊治を恋い慕い、二人は私生活でも円満な夫婦となった。
== 系譜 ==

太政大臣[[西園寺実兼]]の三女。長兄は左大臣[[西園寺公衡]]、四兄は[[菊亭家|今出川家]]の初代、太政大臣[[今出川兼季]]、長姉は[[伏見天皇]]の中宮[[西園寺しょう子|西園寺鏱子]](永福門院)、次姉は[[亀山天皇|亀山上皇]]の妃[[西園寺瑛子]](昭訓門院)。
尊治が後醍醐天皇として即位した翌年の[[元応]]元年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1319年]][[9月21日]])に[[中宮]]に冊立され、このころ恋歌を得意とする勅撰歌人となる。皇子・皇女に恵まれない夫妻は、[[嘉暦]]元年(1326年)ごろからたびたび安産祈祷を行ったが、時には帝である後醍醐自身が禧子のため祈祷を実践することさえあった。[[元徳]]2年([[1330年]])には、後醍醐は腹心の僧の[[文観|文観房弘真]]に依頼し、禧子に[[真言宗]]最高の神聖な[[灌頂]](授位の儀式)である[[瑜祇灌頂]]を自身とお揃いで受けさせた。後醍醐の法服をまとった肖像画『[[絹本著色後醍醐天皇御像]]』は、この時の様子を描いたものである。こうして禧子は俗界と聖界の双方において同時に日本の頂点に立ったが、これほどの寵遇と地位を天皇から受けた女性は先例がない。しかし、ついに実子に恵まれず、[[元弘の乱]]([[1331年]] - [[1333年]])の時に患った病によって、[[建武の新政]]開始直後の[[元弘]]3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]](1333年[[11月19日]])に崩御した。後醍醐の嘆きは深く、[[臨済宗]]高僧の[[夢窓疎石]]をしばらく宮中に留めて供養を行わせた。2000年前後から、[[室町幕府]]の政策は建武政権の政策を、そして建武政権の政策は鎌倉時代末期の政策を基盤としていることが指摘されており、その時代の後醍醐の治世を中宮として共に歩んだ禧子の歴史的意義は大きい。

和歌に優れ、歌人としては『[[続千載和歌集]]』等4つの[[勅撰和歌集]]に計14首、准勅撰和歌集『[[新葉和歌集]]』に1首が入集。禧子の美貌を後醍醐はしばしば「月影」(古語で「月の光」の意)に喩えている。夫婦仲の睦まじさは同時代から著名だった。例えば、[[歴史物語]]『[[増鏡]]』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」の巻名は、「秋の深山」(西園寺家北山邸、のちの[[鹿苑寺|金閣寺]])の「秋の宮」(中宮)、つまり禧子を指し、禧子をこぞって褒めそやす[[西園寺しょう子|永福門院鏱子]](禧子の長姉)と後醍醐の和歌から取られている。『増鏡』巻第16「久米のさら山」では、[[元弘の乱]]前半戦に敗北し意気消沈する夫に[[琵琶]]を届け、夫婦がともに得意とする和歌を贈り合う姿が描かれた。『増鏡』の説話は『[[続千載和歌集]]』や『[[新葉和歌集]]』からも裏付けられる。『[[徒然草]]』では皇后ながら[[有職故実]](古代の朝廷儀礼)を気にかけない自由奔放な性格が記録され、中世の代表的な有職故実学者にして理知的でふさぎ込みがちな性格の夫・後醍醐とは好対照を為している。

なお、[[軍記物語]]『[[太平記]]』(1370年頃完成)では、後醍醐の側室の一人である[[阿野廉子]]が傾城の悪女と設定された余波を受け、自身の[[上臈]](高級女官)であった廉子に寵を奪われ、後醍醐から嫌悪された不遇の皇后であるかのように描かれた。夫の後醍醐もまた、禧子の安産祈祷を装って幕府調伏の祈祷を行う冷酷な人物であるとされた。しかし、これらの『太平記』の記述は多くの点で他の資料と矛盾している。特に、安産祈祷が幕府調伏の偽装だったとする『太平記』説は、2000年代初頭まで広く信じられていたが、2010年代後半時点で日本史・仏教学・日本文学の各分野の研究者から相次いで否定されている。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 幼少期 ===
[[正和]]2年([[1313年]])、[[皇太子]]尊治親王(のちの後醍醐天皇)と結婚。『[[増鏡]]』によると、これは親王による略奪婚であったと伝えられる。[[文保]]2年([[1318年]])2月、尊治親王の即位に伴い、同年4月に[[女御]]宣下、次いで翌[[元応]]元年([[1319年]])8月には[[中宮]]に冊立される。
太政大臣[[西園寺実兼]]の三女として生まれる(『[[女院小伝]]』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-136" />。長兄は左大臣[[西園寺公衡]]、四兄は[[菊亭家|今出川家]]の初代である太政大臣[[今出川兼季]]。長姉は[[伏見天皇]]の中宮[[西園寺しょう子|西園寺鏱子]](永福門院)、次姉は[[亀山天皇|亀山上皇]]の妃[[西園寺瑛子]](昭訓門院)。実母は[[藤原惟孝]]の子孫の[[藤原孝泰]]の娘である従二位隆子(藤原孝子とも書かれる)で、同母兄には前記した今出川兼季の他、[[天台座主]]の[[性守]]と大僧正の[[道意]]がいる{{sfn|井上|1983|p=61}}。


禧子の確実は生年は不明である{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。[[軍記物語]]『[[太平記]]』(1370年頃完成)は、禧子立后を数え16歳の時とし、ここから逆算すると[[嘉元]]2年([[1304年]])の生まれとなる{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}{{efn|name="birth-year-taiheiki"|『太平記』原文を[[中宮]]冊立ではなく[[女御]]宣下時に数え16歳と解釈し、逆算して伝・生年を[[嘉元]]元年([[1303年]])とする場合もある。}}。しかし、日本史研究者の[[森茂暁]] によれば、『太平記』説を裏付ける史料はないという{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。次に述べるように、嘉元3年([[1305年]])時点で「〜子」型の名前が付いていない、つまり[[裳着]](およそ数え12歳)より前と思われるため、逆算して少なくとも[[永仁]]3年([[1295年]])ごろ以降の生まれとも考えられる。
しかし元弘元年([[1331年]])、[[元弘の変]]によって後醍醐天皇が捕らえられ、翌元弘2年([[正慶]]元年、[[1332年]])3月に天皇が[[隠岐諸島|隠岐]]に流罪となると、禧子はそれに伴って同年5月、新たに立てられた北朝の[[光厳天皇]]より女院号を宣下されて礼成門院と称し、追って同年8月には出家する。


幼名はおそらく「さいこく」であり、嘉元3年(1305年)には姉の昭訓門院([[西園寺瑛子]])に仕えていたと推測される{{sfn|亀山天皇御凶事記:写(在楳文庫)|n.a.|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539638/10 10コマ]}}<ref name="tomida-no-sho">{{Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 香川県:大川郡 > 大川町 > 富田庄}}</ref>。その論拠として、嘉元3年(1305年)[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]、[[亀山天皇|亀山院]](後醍醐の祖父)の所領に関する遺言として[[西園寺公衡]](禧子の兄)が記録した『亀山院御凶事記』が挙げられる<ref name="tomida-no-sho" />。亀山は寵姫である昭訓門院との間に生まれた[[恒明親王]]に多くの領地を引き継がせようとしたが、このとき昭訓門院の妹で女院に仕えていた「さいこく」という女性に「さぬきの国とみたの庄」([[讃岐国]]富田荘、後の[[香川県]][[さぬき市]]大川町富田中およびその周辺)ほか2つの荘を、1期分として譲ることが記されている{{sfn|亀山天皇御凶事記:写(在楳文庫)|n.a.|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539638/10 10コマ]}}<ref name="tomida-no-sho" />。これは一代限りの領地であり、さいこくの没後は、甥の恒明に渡る約束となっていた{{sfn|亀山天皇御凶事記:写(在楳文庫)|n.a.|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539638/10 10コマ]}}<ref name="tomida-no-sho" />。ところが、『竹内文平氏旧蔵文書』所収『昭慶門院領目録案』によれば、翌年の嘉元4年([[1306年]])[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]、[[後宇多天皇|後宇多院]](後醍醐の父)は父帝の遺命を履行しなかった<ref name="tomida-no-sho" />。そして、遺領の莫大な荘園郡を亀山皇女で自身の異母妹である昭慶門院([[憙子内親王]])に譲与したので、富田荘もさいこくから取り上げられてしまったという<ref name="tomida-no-sho" />。
翌元弘3年(1333年)6月、後醍醐天皇が帰京すると、禧子は礼成門院の号を廃されて中宮に復され、間を置かずして[[皇太后]]となるが、それから間もなく、同年10月12日(11月19日)に崩御。享年31。同日、後京極院の号を追贈される。禧子の死後、後醍醐天皇の中宮には新たに[[後伏見天皇]]の第一皇女、[[じゅん子内親王|珣子内親王]]が立てられた。


同じく尊治親王(のちの[[後醍醐天皇]])もまたこのころ、母の[[五辻忠子]](談天門院)が亀山院の庇護を受けていた関係で、同母姉の[[奨子内親王]](達智門院)と共に、亀山院の周辺で祖父から目を掛けられて育てられていた{{sfn|森|2000|loc=§2.1.3 母談天門院藤原忠子のこと, §2.1.6 兄弟・姉妹たち}}。
== 所生の皇子女 ==
禧子は正和4年([[1315年]])に第二皇女、[[懽子内親王]](のちの光厳上皇妃、宣政門院)を出産しているが、その後は自身の上臈であった[[阿野廉子]]に天皇の寵愛を奪われたこともあってか、子女を産むことはなかった。


=== 皇太子と密かに ===
なお、天皇がしばしば中宮御産の祈祷を行ったとされ、通説ではこれを「関東調伏」の祈祷の口実とするが、[[河内祥輔]]は[[関東申次]]として幕府にも強い影響力を及ぼした[[西園寺家]]を外戚とする親王が誕生すれば、将来の皇位継承から除外された後醍醐天皇の皇子といえども鎌倉幕府がこれを無視することが困難になるため、禧子所生の親王の誕生を必要としたとする説を提示している。
『[[花園天皇|花園院]]宸記』[[正和]]3年([[1314年]])[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]条によれば、正和2年([[1313年]])秋(7月 - 9月)ごろ、禧子は[[皇太子]]尊治親王(たかはるしんのう、のちの[[後醍醐天皇]])によって、[[西園寺家]]から密かに連れ出された(「東宮、密かに盗み取る所なり」){{sfn|兵藤|2018|pp=21–23}}。この事実は翌3年(1314年)1月初頭に発覚したが、既に禧子は妊娠5か月であったので、妃が後宮に入る参入の儀式を飛ばして、一飛びに[[帯祝い|着帯祝い]](妊娠5か月時に安産祈願として[[腹巻き|腹帯]]を巻く儀式)をすることになった{{sfn|兵藤|2018|pp=21–23}}。この事件は、[[歴史物語]]の17巻本『[[増鏡]]』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」にも言及されており、時期は書かれていないが、「忍び盗み給ひて」と表現されている{{sfn|井上|1983|pp=58–61}}。前節で述べたように、このとき禧子が史実として何歳だったのか、確実には不明である{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。ただ、尊治は同時代を代表する『[[源氏物語]]』愛好家・研究者だった{{sfn|森|2010|loc=§5.2.2 『源氏物語』への関心}}。
かつて2000年ごろまでは後醍醐天皇は独裁的専制君主という人物像が主流であり、その世代の日本史分野における研究者の書籍では、この人物像に引きずられて「盗み取る」を「略奪」と表現するものがある(森茂暁の著書{{sfn|森|2013|loc=§1.1.6 禧子略奪}}など)。しかし、古語における「盗む」には、「こっそりと〜する」「密かに〜する」という意味もある{{sfn|井上|1983|p=61}}。したがって、同意を得ない唐突で略奪的な[[誘拐婚]]だったのか、あるいは秋より前からもともと禧子と忍んで関係があって同意を得た密かな[[駆け落ち]]だったのかは、「ぬすむ」という語からだけでは判別がつかない。日本文学分野の研究者の[[井上宗雄]]による『増鏡』の現代語訳では、「こっそりと連れ出されて」と中立的な表現に訳されている{{sfn|井上|1983|p=60}}。また、この時代の皇族による「ぬすみ」婚については前例があり、後醍醐が唯一の人物という訳ではなかった。例えば、後醍醐の父である[[後宇多天皇|後宇多院]]もまた、[[後深草天皇]]皇女の[[れい子内親王|姈子内親王]](遊義門院)を「ぬすみ奉らせ給ひて」妃としている(『増鏡』巻第11「さしぐし」)<ref>井上宗雄 『増鏡』 中巻 講談社〈講談社学術文庫〉、1983年、402–406頁。ISBN 978-4061584495。</ref>。

[[足利尊氏]]の執奏による『[[新千載和歌集]]』には、二人が某年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]に忍び音と初音について詠んだという和歌が入集している。

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}四月一日、郭公の鳴けるをよませ給ふける<br />'''忍び音も けふよりとこそ 待べきに 思ひもあへぬ 郭公かな'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000026519}}</ref>(大意:ホトトギスは四月のある日から鳴き始めると言う。その風情のある忍び音(四月のホトトギスの鳴き声)を聞こうとして、「きっと今日からだ」と、本当は何日も待ちぼうけになるべきはずだったのが、思いがけず四月初日の今日に聞くことが出来て、幸運なことだ。それは幸先良いとも言えるのだが、あなたに忍び通うのは、「今日よりも他の日だ」と、本当は堂々と付き合えるようになるまでもっと待つべきはずだったのに、思いあまって今日あなたのところへ来てしまった{{efn|[[和泉式部]]『[[和泉式部日記]]』「ほととぎす 世に隠れたる 忍び音を いつかは聞かむ 今日も過ぎなば」}}。迷惑だったろうか?)|author=後醍醐院御製|source=『新千載和歌集』「夏歌」194}}

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}おなじくよませ給ふける<br />'''なきぬなり 卯月のけふの 時鳥 これやまことの 初音なるらむ'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000026520}}</ref>(大意:ええ、不運にも、鳴いてしまいました。四月の今日の{{ruby|時鳥|ときのとり}}(ホトトギス)ですから、ただの初音(個人が初めて聞くホトトギスの鳴き声)ではなく、これこそ本当の初音(季節で初めてのホトトギスの鳴き声)なんでしょうね。それにしても、四月の今日この時、これが本当に初めての逢瀬でしたのに、もうホトトギスが鳴き始める早朝が来るなんて、夏の夜というのは、なんて短いのでしょうか{{efn|[[藤原定家]]『百番自歌合』「なきぬなり 木綿付け鳥の しだり尾の おのれにも似ぬ 夜半のみじかさ」(36)<br />[[壬生忠岑]]「くるるかと みればあけぬる 夏の夜を あかずとや鳴く 山郭公」(『[[古今和歌集]]』夏歌157)}}。これから夜はもっと短くなってしまいますから、今日で良かったですよ)|author=後京極院|source=『新千載和歌集』「夏歌」195}}

禧子と尊治の結婚理由として、比較的確実な資料が存在するのは、恋愛結婚であったということである。『増鏡』「秋のみ山」は、尊治の「わくかたなき御思ひ、年にそへてやんごとなうおはしつれば」云々と述べており、心情的に尊治は禧子に対し純粋に強い愛情を持っており、しかもそれは時を経るごとに深まっていったという{{sfn|井上|1983|pp=58–61}}。『増鏡』では全体として、夫婦仲は良好であったと描写されている{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。『太平記』研究者の[[兵藤裕己]]は、後に中宮となった禧子へ盛大な安産祈祷が実際に行われたことを示す[[鎌倉幕府]]の重鎮[[金沢貞顕]]の書状や、『太平記』のうち足利政権による政治的改変が入っていないと思われる箇所(巻第4等)に照らし合わせ、『増鏡』の二人の心情描写は事実であったろうとしている{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}忍恋をよませ給ふける<br />'''かよふべき 道さへ絶て 夏草の しげき人めを なげく比哉'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000021666}}</ref>(大意:夏草が生い茂って、あの人のところに通う道が途絶えたところに、繁って煩わしい人目のせいで、あの人のところに通う方法までもが絶えてしまった。嘆くばかりのこのごろだ)|author=今上御製|source=『続千載和歌集』「恋歌一」1078}}

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}だいしらず<br />'''たのめつゝ 待夜むなしき うたゝねを しらでや鳥の 驚すらむ'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000021912}}</ref>(大意:通ってきてくれると頼りにさせておきながら、来てくれないあの人を、ただ待つ夜はとてもむなしい。うたた寝をしていても、それを知らないのでしょうか、鶏の鳴き声ではっと目が覚めてしまいました。せっかく、[[小野小町]]になった気分で、恋しいあの人に夢で逢うことだけを頼みにしていたのに…{{efn|[[小野小町]]「うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき」(『[[古今和歌集]]』553)}})|author=中宮|source=『続千載和歌集』「恋歌三」1324}}

無論、一国の皇太子である以上、尊治(後醍醐)が禧子を皇太子妃に選んだ理由には、政治的理由もあると推測されている。第一の理由は、皇統継承権の強化である{{sfn|森|2013|loc=§1.1.6 禧子略奪}}{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。俗に[[鎌倉時代]]は武士の時代と言われているが、これは誇張表現であり、実際には[[鎌倉幕府]]は朝廷と日本を二分する国のうちの一つの「封建国家」([[佐藤進一]]説)、あるいは複数存在した強大な[[権門]](特権組織)のうちの「軍事を司る権門」([[黒田俊雄]]説)に過ぎず、[[朝廷]]もまだ強い実力と高度な法体系を確保していた{{sfn|中井|2016|pp=26–27}}。とりわけ後醍醐の父の[[後宇多天皇]]は「末代の英主」と称えられる賢帝だった{{sfn|河内|2007|pp=337, 347}}。当時、天皇家は後宇多・後醍醐らの[[大覚寺統]]と、それに対立する[[持明院統]]という二つの[[皇統]]に分裂しており、[[幕府]]が仲裁者となっていた([[両統迭立]](りょうとうてつりつ))。ところが、後醍醐が尊治親王として皇太子だった当時、大覚寺統の中でさらに、父の後宇多の意向によって、正嫡である[[邦良親王]](尊治の甥)と、それに次ぐ尊治の系統に別れており、尊治が将来天皇位を退位した後は、基本的に邦良の系統に皇位を譲らなければならなかった。

かつては、後醍醐の立場を一代限りの中継ぎとする説があった{{sfn|河内|2007|p=347}}。これに対し、[[河内祥輔]]は、一代限りの中継ぎというのは敵対皇統である[[持明院統]]からの中傷表現であり{{sfn|河内|2007|p=347}}、実際には大覚寺統の「准直系」程度の格式を父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]から許されており、条件付きで後醍醐の子も天皇位に就く可能性を認められていたのではないか、という説を唱えている{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。また、父の後宇多と敵対したとする古説とは違い、後醍醐が自身の系統強化を図ったのは、私利私欲からではなく、「末代の英主」である後宇多を尊敬する気持ちから、自分こそが父帝の後継者であると証明し、父の政策を引き継いで遂行したいという想いからだったという{{sfn|河内|2007|pp=337, 347}}。このような、後醍醐から後宇多への敬意は多大であり、後宇多もまた後醍醐に相当な信任を与えていたという説は、[[中井裕子]]も追加の資料を用いて補強している{{sfn|中井|2020}}。

もっとも、「准直系」説を採るにしても、正嫡である甥の邦良に対し、後醍醐が相対的に不安定な地位にあり、子に確実に皇位を継がせるには、高貴な血統の正室を必要としたことに変わりはない{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。そこへ、禧子の[[西園寺家]]は代々、[[朝廷]]と[[鎌倉幕府]]の交渉役である[[関東申次]](かんとうもうしつぎ)を世襲する家系であり、当主はしばしば[[太政大臣]]にまで登るなど、[[鎌倉時代]]には強い権勢を持つ[[公家]]だった{{sfn|森|2013|loc=§1.1.6 禧子略奪}}。このような西園寺家との縁戚関係は、安定しない立場への強化となるのである{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。

第二の政治的理由として、関東申次である西園寺家を通じ、鎌倉幕府との友好関係を強化しようとしたことが挙げられる{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}{{sfn|亀田|2017|pp=22–23}}。[[軍記物語]]『[[太平記]]』では尊治(後醍醐)は当初から倒幕を考えていたと物語られているが、2007年、河内はこれは歴史的事実ではないという新説を唱え{{sfn|河内|2007|pp=305–319}}、[[元弘の乱]]([[1331年]] - [[1333年]])の前年までは融和路線を堅持していたと主張した{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。[[亀田俊和]]も河内説に同意し、西園寺家を介して幕府との友好関係を模索する姿からは、現実的な政治家としての姿勢がうかがえると、後醍醐の婚姻政策を高く評価している{{sfn|亀田|2017|pp=22–23}}。[[呉座勇一]]もまた、「執念」「不撓不屈の精神」「独裁者」「非妥協的な専制君主」といった人物像は『太平記』以前には見られず、『太平記』とそれ以降に作られたイメージであり、実際は鎌倉幕府との融和路線を目指していた協調的な人物であるというのが、後醍醐の歴史的実像であろうとしている{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.2 通説には数々の疑問符がつく}}{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。なお、[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍]]の[[足利尊氏]]は、『後醍醐院百ヶ日御願文』で、後醍醐の人柄を「温柔之叡旨猶留耳底」、つまり「優しく穏やかな言葉が耳の奥底にまで響いて今でも残っている」と評している{{sfn|森|2000|loc=§6.1.3 足利尊氏の追慕と悔恨}}<ref name="dainihon-shiryo-6-5-816">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0816 『大日本史料』6編5冊816–819頁].</ref>。

いずれにせよ、後述するように、夫婦の間に強固な愛情があったことを物語る逸話は数多く、根底に強い恋愛感情があったのは確かである{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}顕恋をよませ給ふける<br />'''いつの間に 乱るゝ色の 見えつらん しのぶもぢずり ころもへずして'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000023416}}</ref>(大意:いつの間にバレてしまったのだろうか?「しのぶもじずり」の衣の乱れ模様の色のように、私の忍び恋の乱れた色恋は。あれからまだそんなに頃も(時間も)経っていないはずなのだが…)|author=御製|source=『[[続後拾遺和歌集]]』「恋歌一」672}}

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}顕恋を<br />'''忍べばと 思ひなすにも なぐさみき いかにせよとて もれしうき名ぞ'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000021727}}</ref>(大意:そう、忍んでいるから大丈夫だろう、と初めは思い込んでいたのだが、心の中でにやけていたのを周りに隠すことはできなかった。一体私にどうせよ、と自問自答したら余計焦ってしまって、例の騒動だ)|author=今上御製|source=『[[続千載和歌集]]』「恋歌一」1139}}

=== 恋の歌人 ===
その後、正和4年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]([[1315年]][[11月13日]])には、皇女の[[懽子内親王]](かんしないしんのう)が生まれた<ref name="kanshi-kotobank">{{Kotobank2|宣政門院|宣政門院|デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}</ref>{{efn|[[正和]]3年([[1314年]])に出産予定だった子がどうなったかは不明。『増鏡』「むら時雨」では、[[嘉暦]]元年([[1326年]])6月時点で、懽子が禧子の唯一の子であるとしている{{sfn|井上|1983|p=167}}。遅くともそれまでに早逝したとも考えられる。}}。

[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1318年]][[3月29日]])、皇太子尊治親王が[[践祚]]し、後醍醐天皇となる。天皇の正室となった禧子は、同年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]に[[従三位]]を叙され、[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]に[[女御]]宣下(『女院小伝』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-136" />。次いで翌[[元応]]元年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1319年]][[9月21日]])には[[中宮]]に冊立される{{sfn|井上|1983|p=61}}(『女院小伝』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-136" />。

『増鏡』「秋のみ山」によれば、禧子の父の[[西園寺実兼]]は、老後に娘が中宮となったのでとても喜んだという{{sfn|井上|1983|pp=58–63}}。[[森茂暁]]の推測によれば、娘が連れ出された当初は面食らったであろう実兼も、娘が手厚く扱われているのを見て気持ちがほぐれていき、やがて後醍醐に目をかけるようになったのではないかという{{sfn|森|2013|loc=§1.1.6 禧子略奪}}。[[西園寺家]]は[[琵琶]]の帝師を家業の一つとしたので、後醍醐は禧子の父の実兼や同母兄の[[今出川兼季]]から琵琶を習った(『花園天皇宸記』[[元亨]]2年([[1322年]])[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]条等){{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}。

また、このころ[[後宇多天皇|後宇多上皇]](後醍醐父)の命で編纂された『[[続千載和歌集]]』([[1318年]] - [[1320年]])に禧子の和歌が入集し、勅撰歌人となった<ref name="jpsearch-kishi-work" />。日本の歴史上、禧子の和歌は14首が勅撰集に入集したが(准勅撰を加えれば15首){{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}、存命中に後宇多・後醍醐のもと編まれた2つの勅撰和歌集(『続千載和歌集』『[[続後拾遺和歌集]]』)にある8首のうち、75パーセントに当たる6首が「恋歌」の部に収録され、後醍醐との恋愛を詠んでいる<ref name="jpsearch-kishi-work" />。

{{Quote|style=font-size:100%;|text='''又いつと しらぬもかなし 今はとて おき別つる 名残のみかは'''<ref name="shokugoshui-844">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000023588}}</ref>(大意:あなたとの次の逢瀬がいつになるのか、わからないのが本当に切ないです。またねと言って、起きて離れ離れになった後の寂しさの名残は、沖へ潮が引いた後に残るなごり(水たまり)のよう。これで最後なのでしょうか。いいえ、いつか潮がまた満ちるように、あなたならきっとまた私の心を満たしてくれるはず)|author=中宮|source=『続後拾遺和歌集』「恋歌三」844}}

=== 秋のみ山 ===
[[中宮]]となった[[元応]]元年([[1319年]])の[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]、禧子と[[後醍醐天皇]]は、[[西園寺家]]が領有する広大な邸宅である北山邸(後の[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[鹿苑寺|金閣寺]])に行幸した{{sfn|井上|1983|pp=60–62}}。

[[歴史物語]]の17巻本『[[増鏡]]』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」によれば、翌々日の15日夜には、中秋の名月を賞する盛大な宴が催された{{sfn|井上|1983|pp=60–62}}。このとき、長姉の永福門院([[西園寺しょう子|西園寺鏱子]])は妹の禧子が中宮に冊立されたことを喜び、禧子に宛てて、和歌を贈呈したという{{sfn|井上|1983|pp=60–62}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text='''こよひしも 雲井の月も 光そふ 秋のみ山を 思ひこそやれ'''(大意:中秋の名月である今宵は、雲井(雲のたなびく大空)にある満月も、雲井(宮中、ここでは天皇・皇后の行幸)の満月のように晴れ晴れしい中宮陛下も、いっそう光輝いていらっしゃいます。秋の深山(北山邸)にいらっしゃる秋の宮(中宮陛下)のことを、とてもめでたいと思いやっております){{sfn|井上|1983|pp=60–62}}{{efn|name="aki-no-miyama"|『増鏡』「秋のみ山」の2歌の解釈について、基本的には[[井上宗雄]]訳{{sfn|井上|1983|pp=60–62}}に基づく。また、『[[太平記]]』で[[新田義貞]]の和歌と描かれる「誰故に やどる袂の 涙とも 知らで雲井の 月やすむらん」の中の「雲井の月」が[[勾当内侍]]の比喩表現である([[長谷川端]]説){{sfn|長谷川|1996|p=564}}ことから、「雲井の月」は後宮の美しい女性(ここでは禧子)のことも指すという解釈を補った。}}|author=永福門院|source=『増鏡』「秋のみ山」}}

すると、夫の後醍醐は「まろ聞えん」(「わたくしが(代わりに)申し上げましょう」)と言って、禧子の代わりに返歌を詠んだ{{sfn|井上|1983|pp=60–62}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text='''昔見し 秋のみ山の 月影を 思ひいでてや 思ひやるらん'''(大意:永福門院様もまたその昔、([[伏見天皇]]の)秋の宮(中宮)でいらっしゃいましたね。中宮時代に秋の深山(北山邸)から御覧になった美しい月の光と、月の光のように美しい禧子のまだ幼い頃を思い出して、そのように思いやっておいでになるのでしょう){{sfn|井上|1983|pp=60–62}}{{efn|name="aki-no-miyama"}}|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「秋のみ山」}}

このように、義姉への返答をしつつ、その中身は禧子の月影(月の光)のような美しさを称える歌で、機会さえあれば妻の自慢をするという後醍醐ののろけ話だった。この話は『増鏡』のハイライトの一つであり、「秋のみ山」という巻名自体が、上記の永福門院と後醍醐の和歌に登場する禧子を指す語から取られている{{sfn|井上|1983|p=49}}。

これらの和歌と経緯は、[[勅撰和歌集]]である『[[続千載和歌集]]』の巻4「秋下」にも、第458歌と第459歌として見えている{{sfn|井上|1983|pp=62–63}}。

=== 達智門院との親交 ===
禧子は後醍醐天皇の同母姉の達智門院([[奨子内親王]]、元・[[伊勢神宮]][[斎宮]])とも親交があった{{sfn|安西|1987|p=136}}。禧子の父の[[西園寺実兼]]は[[元亨]]元年([[1321年]])[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]に薨去し、家宝である[[箏]]の一つを達智門院に遺していた{{sfn|安西|1987|p=136}}。薨去後のいつか確実な時期は不明だが、そのときの禧子と達智門院の贈答の和歌が『[[新千載和歌集]]』に入集している{{sfn|安西|1987|p=136}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}後西園寺入道前太政大臣申しおきて侍りける琴を、[[懽子内親王|宣政門院]]いまだ一品の宮と申しける比たてまつらせ給ふべきよし達智門院へ申させ給ふとて<br />'''代々をへて すみにし山の 松の風 千とせの声や ゆづりおきけむ'''{{sfn|安西|1987|p=136}}(大意:何代も住んできた山の松の風、その松風のような響きの箏の千年の音を、父はあなたへ譲りおいていたということです)|author=後京極院|source=『新千載和歌集』巻20「慶賀」}}

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}御返し<br />'''行く末を ゆづりおきける 松の風 つたへむ千世の こゑぞしらるる'''{{sfn|安西|1987|p=136}}(大意:行く末を譲りおいていたという、松風の箏を受け継ぎましょう。かの名高い千世の音が聞こえてきます)|author=達智門院|source=『新千載和歌集』巻20「慶賀」}}

=== 御産祈祷 ===
その後、『[[続群書類従]]』所収「御産御祈目録」によれば、[[嘉暦]]元年([[1326年]])6月から、禧子への安産祈祷が行われた{{sfn|兵藤|2018|p=84}}。

『[[増鏡]]』「むら時雨」によれば、当時、[[後醍醐天皇]]は禧子との間に[[懽子内親王]]しか子がいないのに満足していなかったが、ついに懐妊の兆しが見えたので、盛大な安産祈祷を始めたという{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。禧子は出産のため甥である[[恒明親王]]の邸宅である常盤井殿に移った{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。出産予定日が近づくと[[公卿]]・[[殿上人]]や、大臣で禧子の同母兄の[[今出川兼季]]らがひっきりなしに押しかけた{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。後醍醐側近の[[聖尋]]や、禧子の同母兄の[[道意]]を初め、多くの高僧も修法を行った{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。世間は祝賀の雰囲気で一杯になった、という{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。

[[日本文学]]研究者の[[兵藤裕己]]は、夫婦の仲睦まじさは『増鏡』「秋のみ山」や『[[太平記]]』4巻など様々な書で讃えられており、盛大な祈祷も納得がゆくという{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88}}。
一方、このタイミングで行われたことについては、[[日本史]]研究者の[[河内祥輔]]によれば、政治的意図なのではないかという{{sfn|河内|2007|p=336}}。この3か月前の[[正中 (日本)|正中]]3年(1326年)3月、後醍醐にとって最大の政敵の一人ともいえる、[[大覚寺統]]正嫡で後醍醐の甥である[[皇太子]][[邦良親王]]が薨去していた{{sfn|河内|2007|p=336}}。これによって邦良派は大きな打撃を受けたため、ここで禧子から高貴な生母を持つ皇子が誕生すれば、後醍醐派が後継者争いで勝利する可能性が高くなるのである{{sfn|河内|2007|p=336}}。いずれにせよ、前節(''→[[#達智門院との親交|達智門院との親交]]'')で述べたように、禧子にはもともと後醍醐派とは親交があって[[西園寺家]]の遺産によって後醍醐派の強化を図るなど、禧子個人でも能動的に動いており、政治目的であるとしても夫婦の共同作業だった。

ところが、引き続き『増鏡』「むら時雨」によれば、いつまで経っても禧子には子が生まれず、30か月以上経ってしまったので、常盤井殿から宮中へと帰った{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。産屋や新生児の乳母・侍女なども選定済みだったのに、全て意味がなくなったので、世間はがっくりときたという{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。祈祷の修法も大幅に削減された{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。同書「久米のさら山」によれば、このとき世間の人々から心ない笑いを浴びせかけられて、禧子は大きな精神的打撃を受けたという{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。後醍醐もまたそのことで心苦しくなったという{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。なぜこの時お産がなされなかったかについては、諸説ある。[[日本史]]研究者の[[保立道久]]は、[[近衛天皇]]中宮の[[藤原呈子]]の例を引き、[[想像妊娠]]だったのではないか、と推測している<ref>{{Citation | 和書 | last=保立 | first=道久 | author-link=保立道久 | chapter=大徳寺の創建と建武親政 | editor-first=毅 | editor-last=小島 | editor-link=小島毅 | title=中世日本の王権と禅・宋学 | publisher=汲古書院 | series=東アジア海域叢書 15 | pages=263–300 | year=2018 }} pp. 282, 298</ref>。一方、河内は、後醍醐が本来意図してたのは「安産祈祷」ではなく「懐妊祈祷」だったのが、周囲に誤解されてしまったのではないか、という推測をしている{{sfn|河内|2007|p=336}}。

多くの僧が去っていった後でも、後醍醐天皇ただ一人は禧子のために帝自ら修法を続けていた{{sfn|井上|1983|pp=167–177}}。鎌倉幕府の元・[[執権]]の[[金沢貞顕]]が、おそらく[[元徳]]元年([[1329年]])10月中旬ごろに、息子の[[金沢貞将]](六波羅南探題)に宛てて書いた書状には、以下のようにある{{sfn|兵藤|2018|pp=84–85}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|一 中宮の御懐妊の事、実ならざる間、御り祈等止められ候へども、禁裏一所御坐の由、その聞こえ候ふ。実事に候ふか。承り存すべく候ふなり。<br />
一 禁裏、聖天供とて□□{{efn|[[百瀬今朝雄]]{{sfn|百瀬|1985}}の指摘によれば、この欠落二字には「御自」という語で補うのが適当であろうという{{sfn|内田|2010|p=105}}。}}御祈り候ふの由承り候ふ、不審に候ふそう{{sfn|兵藤|2018|pp=84–85}}。}}

第1項は、「中宮懐妊が事実ではなかったので、祈祷は取りやめになったが、禁裏一所(天皇陛下お一人)がまだ祈祷をしている」という噂が鎌倉に届いており、これは本当なのか教えて欲しい、と依頼している{{sfn|兵藤|2018|pp=84–85}}。第2項は、[[歓喜天|聖天供]]という修法を帝自ら行っているらしいが、これは不審である、と述べている{{sfn|兵藤|2018|pp=84–85}}。

[[仏教美術]]研究者の[[内田啓一]]の指摘を発展させた兵藤の説明では以下のようになる{{sfn|兵藤|2018|pp=89–91}}。後醍醐父の[[後宇多天皇]]は密教の修法を極めており、後醍醐も父に倣って深く通じていたため、一人で修法を行うことができるだけの力量はあったし、それはまた誰もが知る周知の事実であった{{sfn|兵藤|2018|pp=89–91}}。また、「聖天供」というのは、除災や招福、富貴や子宝(夫婦和合)を祈願して、当時の貴族社会で広く行われた普通の祈祷である{{sfn|兵藤|2018|pp=89–91}}。したがって、ここに現れているのは、妻を心配に想って父祖伝来の手法で無事を願う、一人の夫として自然な光景である{{sfn|兵藤|2018|pp=89–91}}。貞顕が不審とするのは、懐妊が事実でないならば、なぜ後醍醐一人が残っているのかという素朴な疑問であって、特に幕府調伏の祈祷などを疑っていた訳ではないと考えられる{{sfn|兵藤|2018|pp=89–91}}。

実際、同年12月の中旬もしくは下旬に書かれたと推測される書状では、貞顕の疑念は氷解しており、禧子と後醍醐を祝っている{{sfn|兵藤|2018|pp=85–86}}。
{{Quote|style=font-size:100%;|一 中宮又御懐妊候ふとて、十一月二十六日、京極殿へ行啓の由承り候ひ了んぬ。比興申すばかりも無き事に候ふか。御祈りの事、言語道断に候ふか{{sfn|兵藤|2018|pp=85–86}}。<br />
一 禁裏御自ら護摩を御勤むるの由承り候ひ了んぬ{{sfn|兵藤|2018|pp=85–86}}。}}

貞顕は、禧子が今度こそ懐妊し、11月26日に京極殿([[土御門殿]])に移ったと聞いて、「比興申すばかりも無き」つまり「興あることこの上ない」と祝意を示し、祈祷は「言語道断」つまり古語で「言い尽くせないほど立派なものである」のだろうかと、素直に後醍醐・禧子夫妻の幸せを喜んでいる{{sfn|兵藤|2018|pp=85–86}}。

『[[新拾遺和歌集]]』には、これより数か月遡る嘉暦4年(1329年)某日(嘉暦4年は改元で[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]までしかないのでそれ以前)、[[帯祝い|着帯の儀]](妊娠5か月目に行う朝廷儀式)の翌日、朝餉の間(あさがれいのま、天皇が略式の食事を取る部屋)の[[几帳]](薄絹を下げた間仕切り)に、葵が掛かっていたのを見て禧子が詠んだ歌が入集している<ref name="shinshui-203" />。
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}嘉暦四年、御着帯の後祭の日、あさがれゐの御き帳に葵のかゝりたりけるを御覧じてよませ給ける<br />'''わが袖に 神はゆるさぬ あふひ草 心のほかに かけて見る哉'''<ref name="shinshui-203">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000028915}}</ref>(大意:私の袖にあふひ草([[フタバアオイ|葵草]])をなんとなく掛けて見て思うのは――そう、『[[源氏物語]]』で、あふひ草を詠んだ和歌に、神にも許されない不義の罪を犯して子ができたことを、悔やむ一首がありましたね{{efn|[[紫式部]]『[[源氏物語]]』「くやしくぞ つみをかしける あふひ草 神の許せる かざしならぬに」(若菜・下)}}。私の場合は逆に、私に何か罪があって、それで、あの人との次の子にあふひ(会う日)を、神様がお許しにならないのだとばかり思っていました。でも、思いもよらず、今度こそ心にかけてあの人との次の子を育てられるのですね)|author=後京極院|source=『新拾遺和歌集』「夏歌」203}}

だが、この年も禧子のお産はうまくいかなかった{{sfn|河内|2007|p=336}}。新たな皇子・皇女が生まれたという記録は、ない{{sfn|河内|2007|p=336}}。

なお、2000年代初頭までは、[[軍記物語]]『[[太平記]]』の物語に基づき、御産祈祷は幕府調伏の儀式の偽装であり、「聖天供」はいかがわしい呪術でそれを行った後醍醐は異形の天皇である、といった言説が行われることが主流だった。しかしその後2000年代から2010年代にかけて行われた議論により、こうした見方は2010年代後半時点でほぼ否定されている。詳細は''[[#『太平記』]]''を参照。

=== 瑜祇灌頂 ===
[[File:Go-Daigo.jpg|thumb|upright|[[文観|文観房弘真]][[開眼]]『[[絹本著色後醍醐天皇御像]]』([[重要文化財]]、[[清浄光寺]]蔵)。俗世の帝王の身のままにして[[真言宗]]の最高儀式「瑜祇灌頂」を受けた図。後醍醐は正妃の禧子にもお揃いで同じ儀式を受けさせた。]]
御産祈祷がうまくいかなかった後も、後醍醐から禧子への愛情は不動だった。

[[後醍醐天皇]]護持僧である[[文観|文観房弘真]]の高弟の宝蓮が著した『[[瑜伽伝灯鈔]]』([[正平 (日本)|正平]]20年/[[貞治]]4年([[1365年]]))によれば、[[元徳]]2年([[1330年]])[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]、[[後醍醐天皇]]は霊夢のお告げがあったとして、文観に命じ、禧子に[[灌頂]](かんじょう)と[[瑜祇灌頂]](ゆぎかんじょう)という儀式を受けさせている{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。

厳密には、原文では禧子ではなく「[[皇太后]]」と書かれており、禧子が皇太后となるのはこれより後の[[元弘]]3年([[1333年]])のことなので時期が合わないが、[[仏教美術]]研究者の[[内田啓一]]は、著者は過去遡及的に禧子を皇太后と書いたのであろうと推測している{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。霊夢を見たのが後醍醐なのか禧子なのかは、原文からは判別が付かない{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。

この瑜祇灌頂というのは、[[真言密教]]における究極最秘の神聖な儀式とされており、これを通過することは密教修行者にとっての事実上の最高到達点である{{sfn|内田|2010|pp=94–95}}。これより上は[[即身成仏]]しかない{{sfn|内田|2010|pp=94–95}}。この約1か月前の10月26日には、後醍醐自身が瑜祇灌頂を受けている{{sfn|内田|2010|pp=94–95}}。後醍醐の肖像画として最も著名な『[[絹本著色後醍醐天皇御像]]』([[重要文化財]]、[[清浄光寺]]蔵)も、この瑜祇灌頂の時の様子を描いたものである{{sfn|内田|2010|pp=211–217}}。著者の宝蓮によれば、高僧が帝王とその正妃の両方に瑜祇灌頂を授ける事例は、三国([[インド]]・[[中国]]・[[日本]])のいずれの国においてもこれまで先例がなかったという{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。

内田の主張によれば、後醍醐天皇自身の密教修行に特に変わった点はないが{{sfn|内田|2010|pp=94–95}}、例外的に禧子へのこの寵遇は異例中の異例であるという{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。瑜祇灌頂については、確かに天皇が受けた先例がないのは事実ではあるが、別に後醍醐自身に関しては唐突にこの儀式を受けた訳ではなく、それに足るだけの密教修行者としての経験と実績は、それまでに着々と積んできている{{sfn|内田|2010|pp=94–95}}。しかし、禧子に関してはいきなり同日中に[[結縁灌頂]]・[[伝法灌頂]]・瑜祇灌頂という一連の流れを受けており、相当な強行手段である{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。ただ、当時の人間にとっては、「夢のお告げ」というのは現代人が思う以上に尊重されるものであり、ましてそれが天皇あるいは中宮の夢とあれば、文観も断ることが出来なかったのであろうと考えられる{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。

内田の推測によれば、夢のお告げという体裁にして、後醍醐はどうしても夫婦お揃いで同じ神聖儀式を受けたかったのだろうという{{sfn|内田|2010|pp=95–97}}。

=== 元弘の乱勃発 ===
[[元徳]]3年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]([[1331年]][[6月5日]])、[[吉田定房]]の密告により[[後醍醐天皇]]と[[鎌倉幕府]]・[[北条得宗家]]の戦いである[[元弘の乱]]が勃発。

幕府から後醍醐への取り調べ続く中、同年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]、後醍醐と禧子の娘で[[伊勢神宮]][[斎宮]]の[[懽子内親王]]が賀茂の河原で身を清め、[[野宮]](ののみや)に入った(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|pp=198–199}}。野宮というのは[[嵯峨野]]にある施設で、伊勢神宮斎宮の儀式に使われる場である{{sfn|井上|1983|pp=208–212}}。なお、懽子は前年の元徳2年([[1330年]])[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]に斎宮に卜定(選定)されていた{{sfn|井上|1983|pp=198–199}}。この時期に野宮入りしたことについて、[[井上宗雄]]によれば、後醍醐としても挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという{{sfn|井上|1983|pp=198–199}}。

同じく『増鏡』「久米のさら山」によれば、[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]、武力行使の計画を幕府に気付かれたことを知った後醍醐は、急を要する事態にもかかわらず、まずまっさきに禧子のもとに駆けつけて別れの挨拶を述べた{{sfn|井上|1983|pp=202–208}}。それから急ぎ宮中と京を出て[[笠置山]]へ向かい、戦の準備をした{{sfn|井上|1983|pp=202–208}}。後醍醐の宮中脱出の際には粗末な女房車が用いられたが(『増鏡』『太平記』){{sfn|井上|1983|pp=202–208}}<ref name="taiheiki-2-tenka-kei">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/30 40–42]}}.</ref>、『太平記』は特に禧子の北山第(西園寺家別荘)へのお忍び行啓に見せかけて武士の検問を逃れたと描いている<ref name="taiheiki-2-tenka-kei" /> 。その後、同日夜、幕将[[小田時知]]が内裏に入り捜索を開始したので、禧子は娘の懽子がいる野宮に逃れたという{{sfn|井上|1983|pp=208–212}}。

=== 四つの緒 ===
『[[増鏡]]』「久米のさら山」によれば、[[元弘の乱]]の[[笠置山の戦い]]に敗北し幕府に捕らえられた[[後醍醐天皇]]は、年が明けて[[元弘]]2年/[[正慶]]元年([[1332年]])2月頃になってもまだ、六波羅に囚われており、意気消沈する日々を送っていた{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}。このとき、禧子は夫の慰めにと、後醍醐がかつて愛用していた[[琵琶]]を宮中から届けると、紙片に歌を書いて琵琶に添えた{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text='''思ひやれ 塵のみつもる 四つの緒に はらひもあへず かかる涙を'''{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}(大意:思いやってください。塵ばかりが積もる四つの緒(四弦の琵琶)に、払いきることも出来ないほど、絶えず落ちかかる私の涙を。そのむかし[[隠岐島|隠岐]]に流された[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]のため、院の琵琶を塵一つなく手入れしていたら老いの涙がかかってしまった[[藤原孝道]]のように{{efn|『[[古今著聞集]] 』「和歌第六」:「後鳥羽院の御時、木工権頭孝道朝臣に、御琵琶をつくらせられけるを、世かはりにける時、やがてその御琵琶を、彼の朝臣にあづけられたりけるを、程経て御尋ありければ、御琵琶につけて奉りける。ちりをだに すゑじと思ひし 四の緒に 老のなみだを のごひつるかな」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018126/101 塚本哲三校訂『古今著聞集』(1926年)、pp. 188–189]</ref>}}、私もあなたの帰りを待っている間に、きっとしわくちゃのおばあちゃんになってしまうでしょう)|author=中宮|source=『増鏡』「久米のさら山」(『新葉和歌集』「雑下」にほぼ同一歌)}}

これに対し、後醍醐も雨垂れのようにはらはらと涙をこぼし、歌を詠んだという{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text='''涙ゆゑ 半ばの月は くもるとも なれて見しよの 影は忘れじ'''{{sfn|井上|1983|p=248}}(大意:涙のために、その半ばの月(琵琶)と、半ばの月(満月)のようなあなたが曇って見える。けれども、あなたと逢って共に何度も観た夜の美しい月影(月の光)と、そのときの月影のように永久に美しいあなたの面影のことは、決して忘れはしない)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』「雑下」(『太平記』流布本巻3「主上笠置を御没落の事」にほぼ同一歌<ref name="taiheiki-3-kasagi" />)}}

{{Quote|style=font-size:100%;|text='''かきたてし {{ruby|音|ね}}をたちはてて 君恋ふる 涙の玉の 緒とぞなりける'''{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}{{efn|「緒」と「絶つ」は、和歌における[[縁語]]である{{sfn|井上|1983|pp=246–248}}。内容だけではなく、和歌の技巧的にも、禧子の歌の詞「四つの緒」に意識的に寄り添うものとなっている。}}(大意:確かにかつて私は琵琶をかき鳴らしたものだが、その音はもう絶ってしまった。私自身の音楽の楽しみよりも、あなたとの想いの方がずっと大切なのだから。その琵琶の緒(弦)は、あなたを恋しく想って流れるこの涙の玉を、首飾りとして連ねるための緒(紐)として使おう。『[[源氏物語]]』の[[宇治の大君|大君]]は、自分の「玉の緒」(命)は涙の玉のように脆く儚いから緒を通せない、と言って、[[薫]]と永き契りを結ぶことを拒んだが{{efn|[[紫式部]]『[[源氏物語]]』「{{ruby|貫|ぬ}}きもあへず もろき涙の 玉の緒に 長き契りを いかが結ばむ」(総角)}}、私はたとえこれから幕府に処刑されるかもしれない脆く短い命であったとしても、あなたがくれた緒を通して、あなたとの契りは何度生まれ変わっても永遠だ。どうかあなたは、いつまでも、長く生きて欲しい)|author=後醍醐天皇|source=『増鏡』「久米のさら山」}}

後醍醐天皇は琵琶の名手として著名であり、禧子の父である[[西園寺実兼]]や同母兄の[[今出川兼季]]に学び、その腕前は『増鏡』や、[[笙]]の名人であった将軍[[足利尊氏]]による弔文で絶賛されている{{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}。また、天皇家の神器である伝説の琵琶「[[玄象]]」(げんじょう)を初め、数多くの楽器の名物を所有していた{{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}。そうした天才音楽家としての名声や皇家累代の神宝、そして一国の皇帝たる自分自身の命よりも、禧子の存在と、禧子との契りの方が、はるかに尊い、と謳う歌である。

=== 病がちになる ===
[[元弘]]2年/[[正慶]]元年([[1332年]])3月には[[後醍醐天皇]]が[[隠岐諸島|隠岐]]に流罪となった。

それに伴い、同年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]、禧子は新たに立てられた[[持明院統]]の[[光厳天皇]]より女院号を宣下されて「礼成門院」と称し、追って同年[[8月30日 (旧暦)|8月30日]]には出家した(『[[女院小伝]]』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-136" />。

『増鏡』「久米のさら山」によれば、禧子は後醍醐と離れ離れになったことを深く思い嘆いたという{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。礼成門院の院号宣下なども他人事のように聞き流して喜ばず、かつて作ったお産のための修法の壇なども壊してしまい、薬湯を呑むことさえ少なくなってしまった{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。隠岐にいる後醍醐から文が届くこともあったようだが、直に会えないのが心苦しかったという{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。こうして、心身ともに次第に体調を悪くしていったと描かれる{{sfn|井上|1983|pp=287–290}}。『[[太平記]]』でも病気説は取られており(ただし月日に錯誤がある)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />、[[日本史]]研究者の[[森茂暁]]も病が禧子の死の原因になったことについて断定的に記している{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}おほんさまかへさせ給て後、人の琴を引ければよませ給ける(訳:御出家姿になられて後、側仕えの者が[[箏]]を弾いていたので、お詠みになった歌)<br />'''人しれず 心をとめし 松風の 声をきくにも ぬるゝ袖哉'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000028220}}</ref>(大意:出家姿になったのだから、この世への未練は絶ち切らないといけないはずなのですが、人知れず心を込めてあの人を待つところに、松風のような箏の音を聴き――よく[[琵琶]]を奏でていたあの人の声が思い出されて、思わず涙で袖が濡れてしまいました)|author=後京極院|source=『[[新千載和歌集]]』「雑歌中」1895}}

=== 崩御 ===
[[元弘]]3年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1333年]][[7月17日]])、[[元弘の乱]]に勝利した[[後醍醐天皇]]が京都に凱旋し、[[建武の新政]]を開始した。禧子の持明院統側から与えられた院号である「礼成門院」は廃止された(『女院小伝』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-136" />。『増鏡』「月草の花」によれば、禧子は中宮に復帰し、6日夜に再び内裏へ入ったが、元弘の乱の時に患った病気はまだ癒えてなかったため、「[[五壇法|五壇の修法]]」という息災の祈祷を始めたとされる{{sfn|井上|1983|pp=174, 378–383}}。

同年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]](西暦[[8月21日]])、[[皇太后|皇太后宮]]宣下(『[[女院小伝]]』『[[皇代歴]]』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-136">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0136 『大日本史料』6編1冊136–137頁].</ref>。翌12日、権大納言の[[三条実忠]]が皇太后大夫に、権中納言の[[徳大寺公清]]が皇太后権大夫に補任された(『[[公卿補任]]』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-136" />。「皇太后」というのは「皇后」よりさらに上位にある后位のことである<ref name="kokushi-sanko">{{Citation | 和書 | last=米田 | first=雄介 | author-link=米田雄介 | contribution=三后 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997}}</ref>。本来の[[令制]]では后位経験者かつ現天皇の母が登るものだったが、平安時代以降はこの制限は特に守られず、母でないものが皇太后になることもしばしばあった<ref name="kokushi-sanko" />。このさらに上には「[[太皇太后]]」があるが、1202年に崩御した[[藤原多子]]を最後に太皇太后が宣下された例はないため、朝廷の女性にとって皇太后が事実上最高の地位だった<ref>{{Citation | 和書 | last=米田 | first=雄介 | contribution=太皇太后 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997}}</ref>。

同年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]夜、後醍醐は以下のような歌を詠んでいる。
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時月前擣衣といふ事を<br />'''聞わびぬ 八月長月 ながき夜の 月の夜さむに 衣うつ声'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/172 60]}}(大意:[[白居易]]は言った{{efn|[[白居易]]『[[白氏文集]]』巻19「聞夜砧」「誰家思婦秋搗 月苦風淒砧杵悲 八月九月正長夜 千聲萬聲無了時 應到天明頭盡白 一聲添得一莖絲」}}、八月九月の長い夜、寒々しい月夜に、[[砧]]で衣を打つ音を聞くのが心苦しい、と。なぜなら、どこかの家の妻が、戦に行って帰るかもわからない夫を待ちわび、すっかりやつれ果てた姿を思い起こさせるからだ、と。私は白居易よりも心苦しい。なぜならそれは、「どこかの家の妻」などではなく、まさに私の妻なのだから)|author=後醍醐天皇御製|source=『[[新葉和歌集]]』「秋下」375(『新拾遺和歌集』「秋歌下」508<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000029220}}</ref>に同一歌)}}

同年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]](西暦[[11月19日]])、後醍醐天皇皇太后禧子、崩御<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0243 『大日本史料』6編1冊243頁].</ref>。享年不明{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。同日「後京極院」の女院号を追贈される(『后宮略伝』『女院記』等)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />。

[[女院]]とは、女性にとって男性の[[太上天皇|上皇]]に相当する地位であるが、没日宣下は、[[亀山天皇]]皇后の[[洞院佶子]](京極院)の先例はあるものの、当時まだ相当に珍しかった<ref name="nyoin">{{Citation | 和書 | last = 米田 | first = 雄介 | author-link = 米田雄介 | contribution = 女院 | title = 改訂新版[[世界大百科事典]] | publisher = [[平凡社]] | publication-date = 2007 }}</ref><ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />。後醍醐が、先例がほとんどないことをする危険を冒してまで、禧子に女院号を贈った理由は、「'''御存生之儀'''」<ref name="nyoin" /><ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />、つまり「'''この世に生きていたから'''」という、きわめて単純明快かつ、どんな美辞麗句にも勝る想いがこもった理由だった。

『夢窓国師年譜』によれば、後醍醐は[[臨済宗]]の高僧である[[夢窓疎石]]を宮中に留め、二七日(ふたなぬか、死後数え14日目)の法要を行わせたと伝えられる<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />。後醍醐は禧子の供養のためしばらく政務を停止し、夢窓と仏法の問答を交わしたという<ref name="dainihon-shiryo-6-1-243" />。

禧子崩御後、同年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]には、後醍醐天皇の中宮として新たに、[[持明院統]]の[[後伏見天皇]]の第一皇女であり、母方で禧子と同じ[[西園寺家]]の血を引く、[[じゅん子内親王|珣子内親王]]が立てられた(『女員次第』)<ref name="dainihon-shiryo-6-4-227">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0604/0227 『大日本史料』6編4冊227頁].</ref>。[[三浦龍昭]]・[[亀田俊和]]によれば、後醍醐は対立皇統である持明院統との友好関係構築を模索したのではないかという{{sfn|亀田|2014|pp=54–55}}。同12月中、禧子との娘の[[懽子内親王]]は持明院統の[[光厳天皇|光厳上皇]]に嫁いだ<ref>{{Kotobank2|宣政門院|宣政門院|朝日日本歴史人物事典}}</ref>。

『結縁灌頂記』によれば、[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]、宣政門院(懽子)は母の三回忌として、[[三条実忠]]の邸宅で[[結縁灌頂]](けちえんかんじょう、[[真言宗]]の一般信徒向けの儀式)を受けている<ref name="dainihon-shiryo-6-2-636">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0602/0636 『大日本史料』6編2冊636–648頁].</ref>。

その後の複雑な紆余曲折で建武政権は[[延元]]元年/建武3年([[1336年]])後半に崩壊し、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]が始まることになる。短命な政権ではあったが、思想的・文化的な面において、後醍醐天皇が傑出した才能を持ち、日本史上最大の転換点の一つだったことは疑いがない{{sfn|森|2000|loc=まえがき}}。政治面についても、かつては理想主義の非現実的政策と言われていたが、2000年前後からは、室町幕府の政策の基礎となる現実的で優れたものだったという評価と研究がなされている{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。また、その建武の新政も特異な政治を行った訳ではなく、鎌倉時代末期の鎌倉幕府の政策と父の[[後宇多天皇]]ら[[大覚寺統]]から続く朝廷政治を穏当に発展させたものであることが指摘されている{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}{{sfn|中井|2016|pp=37–41}}。その鎌倉時代末期の後醍醐の治世を、中宮として共に歩んだ禧子の歴史的意義は大きい。

南北朝時代、後醍醐天皇が最晩年の心境を詠んだものとして{{efn|name="godaigo-waka"|後醍醐の「不撓不屈の精神」を持った武闘派の天皇、というのは『太平記』以降に作られた虚像であるという([[呉座勇一]]説){{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.2 通説には数々の疑問符がつく}}{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。政治・学問・芸術の天才として、後醍醐天皇の和歌は、沈思的でメランコリックなものが多い。例として、「まだなれぬ 板屋の軒の むら時雨 音を聞くにも ぬるる袖かな」(『増鏡』「むら時雨」・『新葉和歌集』「雑上」1116){{sfn|井上|1983|p=229}}、「つひにかく 沈み果つべき 報いあらば 上なき身とは 何生まれけむ」(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|p=249}}、「聞きおきし 久米のさら山 越えいかむ 道とはかねて 思ひやはせし」(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|p=272}}、([[吉田定房|吉田前内大臣]]、[[坊門清忠|右大弁清忠]]など打つゞき身まかりにける比、思召つゞけさせ給ふける)「ことゝはむ 人さへまれに 成にけり 我世のすゑの 程ぞ知らるゝ」(『新葉和歌集』「哀傷」1370){{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/246 209]}}など。多芸多才かつ絶大なカリスマを持ちながら本人の和歌が憂鬱という傾向は、尊治(後醍醐天皇)が偏諱を与えた[[足利尊氏|尊氏]]にも見られる。}}、
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}題しらず<br />'''うづもるゝ 身をば歎かず なべて世の くもるぞつらき 今朝のはつ雪'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/228 172]}}{{efn|末尾は「はつ霜」とする版もあるが、{{Google books|3giA7e28JWcC|新葉和歌集:全(村上忠順校注)|page=258}}のイによって「はつ雪」とした。}}(大意:今朝、初雪が降る――歌に名高い、吉野の宮の初雪が。あれは[[寂蓮|寂蓮法師]]の歌だったか{{efn|『[[寂蓮]]法師集』「つまきこる あともむかしに なりぬとや よしののみやの けさのはつゆき」}}、この身が雪の中にうずもれるように、私という存在もまた歴史の中にうずもれて、跡形もなく忘れ去られるのだろう。それは仕方がない。この曇り模様のように世界の全てが色褪せていく、ただそれこそがつらい)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』「雑上」1127}}
{{Quote|style=font-size:100%;|text='''待なれし 跡はよそなる 山のおくに 身もうづもるゝ 庭の初雪'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/228 172]}}(大意:「年月が経てば、このように憂いだけが多くなる。そのような世を気にもかけずに、荒れ果てた庭に降り積もる初雪よ」{{efn|[[紫式部]]「おもふこと侍けるころはつ雪ふり侍ける日。ふればかく うさのみまさる 世をしらで あれたる庭に つもるはつ雪」(『新古今和歌集』「冬」661)}}と詠んだ[[紫式部]]は、何と幸せな人だったのだろう。この私は、自分の庭ではなく、契りを交わしたあの人を待ち慣れた跡から、遠く離れた山奥の庭で、一人悲しく雪に身もうずもれているというのに{{efn|[[後伏見天皇]]「待ちなれし 契はよその 夕暮に ひとりかなしき 入逢のかね」(『新後撰和歌集』「恋歌五」1127)}})|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』「雑上」1128}}

哀傷歌として、
{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}よし野ゝ行宮にてよませ給うてける御歌中に<br />'''あだにちる 花を思の 種として この世にとめぬ 心なりけり'''{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/243 203]}}(大意:あの[[西行|西行法師]]の歌に言うように{{efn|[[西行|西行法師]]『[[山家集]]』「惜しめども 思ひげもなく あだに散る 花は心ぞ 畏かりける」(121)}}、桜の花は観る人がどれだけ愛しく想っても、それを何とも思わず儚く散ってしまう、その心こそ桜が真に神々しい理由なのだろう。しかし一人残された私の心と言えば、儚く散ってしまった桜の花のようなあの人のことが思い悩みの種になって、ああ、この世が本当に物憂い)|author=後醍醐天皇御製|source=『新葉和歌集』「哀傷」1332}}

生前、禧子が自身と後醍醐の来世のことを詠んだ和歌として、『[[続千載和歌集]]』「恋歌二」1231<ref name="shokusenzai-1231" />がある。

{{Quote|style=font-size:100%;|text='''まよふべき 後のうき身を 思にも つらき契は 此世のみかは'''<ref name="shokusenzai-1231">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000021819}}</ref>(大意:迷うに違いない来世の悲しい身に思いを馳せてみると、あなたとのつらい契りは、この世だけのことではないのでしょうね。あの[[藤原俊成|俊成]]の恋歌のように{{efn|[[藤原俊成]]「あちきなや おもへはつらき ちきりかな こひはこのよに もゆるのみかは」(『[[久安百首]]』)}}、身を焦がして燃え上がるような恋は、たとえ二人が生まれ変わっても、ずっと、続くのですから)|author=中宮|source=『続千載和歌集』「恋歌二」1231}}

== 人物・逸話 ==
=== 勅撰歌人 ===
歌人としては、4つの[[勅撰和歌集]]に計14首が入集し、そのほか准勅撰和歌集の『[[新葉和歌集]]』にも1首が撰ばれている{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。

入集の内訳は、『[[続千載和歌集]]』「春歌上」59・「恋歌二」1231・「恋歌三」1324・「恋歌四」1499・「恋歌四」1533、『[[続後拾遺和歌集]]』「夏歌」233・「恋歌一」653・「恋歌三」844、『[[新千載和歌集]]』「春歌下」117・「夏歌」195・「冬歌」632・「雑歌中」1895・「慶賀歌」2346、『[[新拾遺和歌集]]』「夏歌」203<ref name="jpsearch-kishi-work">[https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/ Snorql for Japan Search]で、[[SPARQL]]クエリ:<nowiki>
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} ORDER BY asc(?cho)
</nowiki>で検索。</ref>。列挙してわかる通り、[[北朝 (日本)|北朝]]([[持明院統]])主導による[[京極派]]の『[[風雅和歌集]]』には全く撰ばれていないが、後醍醐を敬愛した[[足利尊氏]]の執奏による[[二条派]]の『新千載和歌集』には5首も撰ばれている。

=== 礼儀作法よりも雁の肉を食べたい ===
禧子は、[[兼好法師]]の[[随筆]]『[[徒然草]]』(14世紀前半)の第118段にも言及される{{sfn|永積|1995|pp=172–174}}。

兼好の主張によれば、禧子が中宮だった頃、父の[[西園寺実兼]]が宮中に参内した時、[[御湯殿上]](おゆどののうえ、お湯を沸かす場で、女官の詰め所でもある)の黒御棚(黒塗りの違い棚)の上に、調理の準備として[[雁]]の死体がそのままの姿で乗っているのを見たという{{sfn|永積|1995|pp=172–174}}。ところが、[[有職故実]](古い朝廷儀礼)では、[[雉]]が最も品位の高い鳥とされ、雉以外の鳥を黒御棚に置くのは厭わしいこととされていた{{sfn|永積|1995|pp=172–174}}。

びっくりした実兼は帰宅した後、いそいで娘の禧子へ手紙をしたため、こんな有様は見たことがありません、はしたないことです、しっかりした女官はいないのですか、と延々と禧子にお小言を食らわせたという{{sfn|永積|1995|pp=172–174}}。

この禧子の自由奔放な性格は、名著『[[建武年中行事]]』を著した有職故実学者で、理知的な性格{{efn|後醍醐天皇は、[[軍記物語]]『[[太平記]]』では、[[無礼講]]という淫靡な宴会を主催して倒幕の志士を集めた、武闘派で淫らな天皇と描かれているが、その歴史的証拠はない{{sfn|河内|2010|pp=306, 314}}。無礼講そのものは、後醍醐の腹心の[[日野資朝]]と[[日野俊基]]が行っていたことが『花園院宸記』から歴史的に確かめられるが、風紀のみが問題とされており、倒幕計画については書かれていない{{sfn|河内|2010|pp=306, 314}}。また、後醍醐自身については、「高貴の人」が無礼講に出席した、という真偽不明の投書が[[六波羅探題]]に投げ込まれたらしい、という曖昧な記述であり、しかも記録しているのが対立皇統の[[花園天皇|花園上皇]]のため、その内容については偏向を疑う必要がある{{sfn|河内|2010|pp=306, 314}}。後醍醐は当時の天皇の常として側室と子女の数はかなり多かったが、色に溺れたというよりも、有力な側室の多くは実務能力に長けた才女だった。たとえば[[尊良親王]]・[[宗良親王]]の生母の[[二条為子]]は[[二条派]]の有力歌人{{sfn|森|2013|loc=§1.2.4 二条為子と和歌}}。[[後村上天皇]]の生母の[[阿野廉子]]は、いわゆる悪女伝説は根拠がないが{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88}}、一定の国政運営能力を有したことは南北朝時代の発給文書(「新待賢門院令旨」)から確かめられる{{sfn|森|2013|loc=§2.2.1 女帝さながらの阿野廉子}}。}}の夫とは好対照である。たとえば、『徒然草』には皇太子尊治親王時代の後醍醐にかかわる話もあるが(第238段)、当時、尊治は[[堀川具親]]ら側近を総出してこれこれの漢文は『[[論語]]』のどこそこにあるのか、というのを調べさせており、兼好が該当箇所を具親に教えてあげると、具親は喜んで尊治に報告しに行ったという{{sfn|永積|1995|pp=265–266}}。後醍醐の和歌は、他人には思いやりをかける一方で{{efn|例として、''→[[#四つの緒|四つの緒]]''、「しるべする 道こそあらず なりぬとも 淀のわたりは 忘れじもせじ」([[佐々木導誉]]へ、『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|p=258}}、「あと見ゆる 道のしをりの 桜花 この山人の 情けをぞ知る」(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|p=262}}、「あはれとは なれも見るらむ 我民と 思ふ心は 今もかはらず」(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|p=271}}など。}}、自身の境遇については陰鬱で翳りのあるものが多いが{{efn|name="godaigo-waka"}}、禧子崩御後は一層その色彩が色濃くなり(''→[[#崩御|崩御]]'')、ふさぎ込みがちな後醍醐にとって、明るく可憐な禧子の存在がいかに大切なものだったかがわかる。

=== 春の桜花と秋の宮人 ===
あるとき、[[後醍醐天皇]]が[[紫宸殿]]で桜を鑑賞していた<ref name="shinsenzai-116" />。ちょうどそのとき、殿上人で[[中宮職]]の職員である者が、禧子の命令で皇后宮からやってきて、桜の枝を一つ折るところを見てしまった<ref name="shinsenzai-116" />。不審に思った後醍醐は、禧子を召し出して直に理由を聞いた<ref name="shinsenzai-116" />。

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}南殿の花御覧せさせ給うける折しも、きさいの宮の御方より殿上さぶらふをのこどもの中に、宮つかさなるして一枝おらせられけるを、御前にめして仰事ありける<br />'''九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ'''<ref name="shinsenzai-116" >{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000026441}}</ref>(大意:九重(内裏)の雲井(宮中)で、九重の雲井(大きな雲の立つ大空)に向かって高く咲く春の桜花を、秋の宮人(皇后宮に仕える人)が、どうして折ったのだろうか)|author=後醍醐院御製|source=『[[新千載和歌集]]』「春歌下」116}}

{{Quote|style=font-size:100%;|text={{quad}}御返し<br />'''たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき'''<ref>{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000026442}}</ref>(大意:手折らせたのは、秋の宮(皇后)である私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったからですよ{{efn|『[[万葉集]]』「住吉の 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君に逢へるかも」(10-1886)<br /> 同「冬こもり 春咲く花を 手折り持ち 千たびの限り 恋ひわたるかも」(10-1891)}})|author=後京極院|source=『新千載和歌集』「春歌下」117}}

== 『太平記』 ==
=== 上陽白髪人 ===
[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後村上天皇]]と対立する[[北朝 (日本)|北朝]]で書かれた[[軍記物語]]『[[太平記]]』(1370年頃完成)は、後村上の生母で[[後醍醐天皇]]の側室の一人であった[[阿野廉子]]を「傾城傾国」<ref name="taiheiki-1-rikko" />の稀代の悪女として描いている。そして、廉子悪女化の影響として、禧子は廉子に寵を奪われた不遇の妃として描かれた<ref name="taiheiki-1-rikko" />。

* 流布本巻1「立后の事{{small|附}}三位殿御局の事」によれば、[[文保]]2年([[1318年]])[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]、禧子は齢二八(数え16歳)で[[皇后]]に立てられ、[[弘徽殿]]に入内した<ref name="taiheiki-1-rikko">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/12 4–5]}}.</ref>。『太平記』作者は、[[西園寺家]]は鎌倉幕府との繋がりが深かったため、後醍醐天皇は幕府からの評判を高めようと、政治的意図のみで禧子を皇后に迎えたのだろうと推測している<ref name="taiheiki-1-rikko" />。ところが、禧子は心情的には後醍醐から嫌われ、一度も床を共にすることはなかった(「一生空しく玉顔に近かせ給はず」)と描かれる<ref name="taiheiki-1-rikko" />。
** しかし、実際には禧子は後醍醐との間に少なくとも[[懽子内親王]]という皇女をもうけており、「一生空しく玉顔に近かせ給はず」とするのは史実に反している{{sfn|森|2013|loc=§1.2.2 正室西園寺禧子}}。
* 次に、後醍醐の寵愛は禧子に仕えていた[[阿野廉子]]という妖艶な女官に注がれた<ref name="taiheiki-1-rikko" />。廉子は皇后に准ずる[[准三后]]の地位を与えられ、禧子を差し置いて正規の皇后であるかのように見なされた、という<ref name="taiheiki-1-rikko" />。
** しかし、実際に阿野廉子が准三后となったのは、禧子が崩御して1年以上経った[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])4月である{{sfn|森|2013|loc=§2.2.1 女帝さながらの阿野廉子}}。
* 流布本巻1「中宮御産御祈の事{{small|附}}俊基偽籠居の事」では、後醍醐天皇は禧子の安産祈祷と称し、それに偽装して幕府調伏の儀式を行う冷酷な人間として描かれる<ref name="taiheiki-1-chugu-osan" />。
** これについての議論は次節。

なお、禧子の「不遇」を表現する「一生空しく玉顔に近かせ給はず(中略)蕭々たる暗雨の窓を打つ声」という文章は、[[唐]]の大詩人である[[白居易]]の漢詩「上陽白髪人」(『[[白氏文集]]』巻3所収)の文詞を使ったものである{{sfn|長谷川|1994|p=27}}。

ところが、実は巻3および巻4では、禧子と後醍醐は仲睦まじい夫婦として描かれており、『太平記』内部ですら物語や人物設定に自己矛盾を起こしている{{sfn|兵藤|2018|p=88}}。

* 流布本巻3「主上笠置を御没落の事」では、[[元徳]]3年([[1331年]])10月8日の時点で、禧子が幕府に囚われた後醍醐に愛用の[[琵琶]]を届け、和歌を贈り合う場面が描かれる<ref name="taiheiki-3-kasagi">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/42 65]}}.</ref>(''→[[#四つの緒|四つの緒]]'')。
* 流布本巻4「中宮御歎の事」では、[[元弘]]2年/[[正慶]]元年([[1332年]])3月7日、後醍醐の隠岐国配流が決まったと聞くと、禧子は夜に紛れて牛車で六波羅の御所に駆けつけた<ref name="taiheiki-4-chugu">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/52 85–86]}}.</ref>。二人は夜もすがら語り明かしたが、朝が来てしまったので、禧子は涙ながらに「このうへに 思ひはあらじ つれなさの 命よされば いつをかぎりぞ」の歌を詠んで去ったという<ref name="taiheiki-4-chugu" />。

このような矛盾が生じた理由として、『太平記』研究者の[[兵藤裕己]]は、1つ目には作者が白居易の「上陽白髪人」を使って文学的効果を高めようとしたこと、2つ目には巻1は全体的に室町幕府からの政治的改変があると推測されることを挙げる{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88, 101–106}}(詳細は後述)。そして、1巻より後の、後醍醐と禧子の夫婦仲は円満であるという描写の方が、歴史的事実に近いであろうとしている{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88}}。

=== 御産祈祷は幕府調伏の隠れ蓑か否か ===
==== 内容 ====
『太平記』流布本巻1「中宮御産御祈の事{{small|附}}俊基偽籠居の事」によれば、[[元亨]]2年(1322年)春ごろ、後醍醐天皇は[[円観|慧鎮房円観]]や[[文観|文観房弘真]]らの僧侶を集め、[[中宮]]禧子への安産の祈祷をさせた<ref name="taiheiki-1-chugu-osan">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/13 6–8]}}.</ref>。ところが、3年間、禧子に出産の気配はなかった<ref name="taiheiki-1-chugu-osan" />。これは、安産祈祷という口実で、実は関東調伏(鎌倉幕府打倒の呪詛)の儀式を行っていたのだという<ref name="taiheiki-1-chugu-osan" />。後醍醐は討幕計画が露見することを恐れ、[[日野資朝]]・[[日野俊基]]・[[四条隆資]]・[[花山院師賢]]・[[平成輔]]ら少数の気鋭の側近のみと謀議し、これに軍事力として武士の[[足助重成]]や南都北嶺([[興福寺]]・[[延暦寺]])の僧兵らが加わった<ref name="taiheiki-1-chugu-osan" />。俊基は半年ばかりの間、籠居と称して出仕を止め、[[山伏]]の姿に身をやつして諸国を行脚し、当時の世相を実見し、さらに城郭として使えそうな要地を探した<ref name="taiheiki-1-chugu-osan" />。こうした延長で行われたのが、[[元亨]]4年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]([[1324年]][[10月7日]])の正中元年事件いわゆる[[正中の変]]である、と『太平記』は物語る(「頼員回忠の事」)<ref>{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/15 10–15]}}.</ref>。

その後、[[岡見正雄]]校注『太平記(1)』(角川文庫、1975年)と[[百瀬今朝雄]]の「元徳元年の「中宮御懐妊」」(1985年、『金沢文庫研究』第274号){{sfn|百瀬|1985}}などによって、実際の御産御祈は、正中元年事件の「後」の、[[嘉暦]]元年([[1326年]])以後であることが判明した{{sfn|河内|2007|pp=306, 338}}。そのため、安産祈祷は少なくとも正中元年事件とは関わりがないことが実証された{{sfn|河内|2007|pp=306, 338}}。

しかしその一方で、百瀬らは、安産祈祷が実は幕府調伏の隠れ蓑であるという『太平記』史観は踏襲した{{sfn|河内|2007|pp=306, 338}}。

==== 日本史での反論 ====
安産祈祷が幕府調伏の隠れ蓑であるという『太平記』説に対し、[[2007年]]、[[日本史]]研究者の[[河内祥輔]]は異議を唱えた{{sfn|河内|2007|p=336}}。

皇位継承において、旧説では後醍醐天皇が「一代の主」(子孫が皇位につくことを許されない天皇)というきわめて弱い立場にあったとされるが、河内は「一代の主」説は政敵である[[持明院統]]由来の文書にしか見られないことを指摘した{{sfn|河内|2007|p=347}}。そして、後醍醐父の[[後宇多天皇|後宇多院]]による「徳治三年後宇多処分状」を素直に読む限り、後醍醐は実際には[[大覚寺統]]の「准直系」程度の待遇は許されていたのではないか、と主張している{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。しかしそうはいっても、大覚寺統正嫡である甥の[[皇太子]][[邦良親王]]の系統に比べれば、相対的に皇位継承で弱い立場だった{{sfn|河内|2007|p=336}}。

[[正中 (日本)|正中]]3年([[1326年]])3月、後醍醐の最大の政敵の一人ともいえる皇太子の邦良が薨去し、7月には後任の皇太子として[[持明院統]]の量仁親王(のちの[[光厳天皇]])が立てられた{{sfn|河内|2007|p=336}}。これによって邦良派は大きな打撃を受けたため、後醍醐の子孫から天皇を出すことができる目算が以前よりも大きくなってきた{{sfn|河内|2007|p=336}}。

それまでの後醍醐の皇子たちは母方の血統的に、直系を担うには難しい者たちばかりであった{{sfn|河内|2007|p=347}}。しかし、ここにもし実力者である[[西園寺実兼]]の娘である禧子との間に皇子が誕生すれば、邦良派に替わることができる強力な皇嗣となるのではないか、と考えたのであろうという{{sfn|河内|2007|p=336}}。このようにして見れば、禧子の出産自体が強力な政治的カードなのだから、『太平記』説のような幕府調伏ではなく、本当に御産祈祷であると考える方が自然である{{sfn|河内|2007|p=336}}。

事実、禧子への祈祷は邦良薨去の3か月後から始まっており、4年間も続いてる{{sfn|河内|2007|p=336}}。河内の推測によれば、これは「安産祈祷」というよりは「懐妊祈祷」なのではないかという{{sfn|河内|2007|p=336}}。しかし、結果から見れば祈祷は功を奏すことなく、しかも幕府から調伏の儀式の疑いを誤解でかけられてかえって首を絞めてしまったのではないか、という{{sfn|河内|2007|p=336}}。

なお、河内はいわゆる「[[正中の変]]」で後醍醐は公式判決通り本当に冤罪であり、その時点で倒幕計画は立てていなかったという主張をしている{{sfn|河内|2007|pp=305–319}}。これと御産祈祷が本当に御産祈祷だったという説を合わせ、後醍醐天皇は、[[元弘の乱]]の前年である[[元徳]]2年([[1330年]])ごろまで、倒幕は考えていなかったのではないか、としている{{sfn|河内|2007|pp=336–337}}。

以上の河内説は、2010年代後半に入り、[[亀田俊和]]が大枠で積極的に支持しており{{sfn|亀田|2017|pp=18–19}}、[[呉座勇一]]も旧説よりも正しい可能性は相当に高いとしている{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1 打倒鎌倉幕府の陰謀}}。

==== 仏教学での反論 ====
[[河内祥輔]]とは独立に、[[2010年]]に、[[仏教学]]的知識から『太平記』説および[[日本史]]研究者の[[百瀬今朝雄]]の説へ反論を行ったのが[[仏教美術]]研究者の[[内田啓一]]である。

百瀬は、『[[金沢文庫]]文書』所収の[[金沢貞顕]](元・[[鎌倉幕府]][[執権]])の書状([[元徳]]元年([[1329年]])10月頃)(''→[[#御産祈祷|御産祈祷]]'')に、[[後醍醐天皇]]が[[歓喜天|聖天供]]という儀式を行っていると報告されていることを、『太平記』説の補強として用いた{{sfn|内田|2010|pp=104–106}}。百瀬は、『金剛寺文書』所収の[[享禄]]5年([[1532年]])の願文を引き、「大聖歓喜天浴油供一七ヶ日 右、悪人悪行速疾退散し、障難をなすもの微塵に摧破し、寺院安穏、仏法隆盛せんがため」云々とあるのを根拠に、聖天供というのは幕府を調伏(呪って破壊する)ための儀式であると推測した{{sfn|内田|2010|pp=104–106}}。

しかし、仏教美術を専門とする内田によれば、聖天供は仏教的にはあくまで息災法の修法であるという{{sfn|内田|2010|p=106}}。「怨敵退散」云々というのは、仏教の息災法ではほぼ常套句であり、そこに戦闘的な意味を見出すことは難しい{{sfn|内田|2010|p=106}}。もちろん、聖天供と偽って後醍醐が別の儀式をした可能性も考えられないでもないが、少なくとも聖天供というのが正しいと仮定する限りにおいては、とても幕府調伏の儀式であるとは思いにくいという{{sfn|内田|2010|p=106}}。

同じく12月頃の貞顕書状では、後醍醐が実際に自ら[[護摩]](火を使う仏教儀式)をしていることを確認し、祈祷について「言語道断」であるとある{{sfn|内田|2010|pp=107–109}}。百瀬はこれを、後醍醐が幕府調伏の修法を行っていたことについて、貞顕が激怒したのであろうと解釈した{{sfn|内田|2010|pp=107–109}}。しかし、内田は原文には護摩が息災法なのか調伏法なのかは書かれていないことを指摘し、これが本当に調伏の儀式でそれが貞顕に露見したのだったのだとしたら、[[元弘の乱]]([[1331年]] - [[1333年]])を鎌倉幕府が仕掛けるまで1年以上もかかっており、あまりに気長すぎるのではないか、と疑問を示した{{sfn|内田|2010|pp=107–109}}。そもそも元弘の乱の直接契機になったのは、後醍醐の側近の[[吉田定房]]による密告であって、特にこの貞顕の書状とは関係がないことも、後醍醐の祈祷が幕府調伏の隠れ蓑だったとする説への疑問になる{{sfn|内田|2010|pp=107–109}}。

また、百瀬論文は、「冥道供」や「七仏薬師法」といった密教修法が幕府調伏に用いられたと主張している{{sfn|内田|2010|p=112}}。しかし、内田によれば、これらは密教は密教でも[[台密]]([[天台宗]]の密教)の修法であり、後醍醐の腹心の密教僧は[[真言宗]]の[[文観|文観房弘真]]なので、それらの儀式が用いられたとは考えにくいという{{sfn|内田|2010|p=112}}。

==== 日本文学での反論 ====
[[2018年]]には、『[[太平記]]』研究者の[[兵藤裕己]]が、前節の[[内田啓一]]説を継承し、さらに古語の知識や『太平記』の成立過程を交えて、御産祈祷における『太平記』説を批判した。

これより前の[[1986年]]、日本史研究者の[[網野善彦]]は、後醍醐天皇は「異形の王権」を体現する「[[アドルフ・ヒトラー|ヒットラー]]の如き」異常な独裁者であると見なした{{sfn|網野|1993|p=200}}。また、後醍醐が儀式に使ったという[[歓喜天|聖天供]]の像について、象頭人身の男女が抱き合っているという見た目から、これは「セックスそのものの力」を表していると結論づけ、後醍醐の「異形の天皇」ぶりを象徴する逸話であると主張した{{sfn|網野|1993|pp=222–225}}。後醍醐側近の僧侶である[[文観|文観房弘真]]についても、「異形の僧正」である妖僧と主張した{{sfn|網野|1993|p=218}}。

しかし、兵藤は内田の研究成果を援用し、後醍醐天皇の密教への傾倒は父である[[後宇多天皇]]を引き継いでいることを指摘し(たとえば『[[後宇多天皇宸翰御手印遺告]]』)、「異形」どころかむしろ逆に、皇統の伝統を受け継いでいると主張した{{sfn|兵藤|2018|p=89}}。これは、[[金沢貞顕]]の[[元徳]]元年([[1329年]])12月頃の書状で、後醍醐が一人で祈祷を行っていることが、祈祷の実行能力そのものについては特に驚かれていないことからも実証される、とした{{sfn|兵藤|2018|p=89}}。

また「聖天供」が言及された貞顕の10月の書状については、内田の研究に則って聖天供は除災や招福、富貴や子宝(即物的なものではなく幅広く夫婦和合という意味での)といった息災法を祈願するものであるとして、[[百瀬今朝雄]]の幕府調伏説や、網野の性的儀礼説には根拠がないことを指摘した{{sfn|兵藤|2018|p=91}}。さらに、兵藤は仮にもし息災法ではなく調伏の祈祷が行われていたのだとしても、安産を阻害するもののけ(怨霊)の調伏を行うための祈祷は、『[[紫式部日記]]』『[[栄花物語]]』『[[源氏物語]]』『[[平家物語]]』など多くの作品に現れており、それを倒幕に結びつけることはできない、と非倒幕説を補強した{{sfn|兵藤|2018|p=91}}。文観妖僧説についても、敵対派閥からの中傷を起源として後世に広まった虚像でしかない、という{{sfn|兵藤|2018|pp=91–110}}。

また、百瀬論文の倒幕説では、二通の貞顕書状の文言のうち、1通目の「中宮御懐妊の事、実ならざる」が「中宮の妊娠は調伏に偽装した不実のことである」と、2通目の「御祈りの事、言語道断に候ふか」が「幕府調伏の祈祷はとんでもない不届きなことである」と解釈されている{{sfn|兵藤|2018|pp=91–110}}。しかし、内田によれば、『太平記』を外して読めば、「実ならざる」は単に前回の懐妊の噂が真ではなかったという以上の深い意味はないし{{sfn|兵藤|2018|pp=85–88}}、「言語道断」に至っては、現代語の言語道断の意味は当時では稀にしかない用法であり、この時代では「言いようもないほど立派である」という意味が主である{{sfn|兵藤|2018|pp=85–86}}。したがって、百瀬説とは逆に、2通目の書状は、(今回の懐妊の噂は本当のようであるから)「さぞや盛大な祈祷が行われているのだろうなあ」という貞顕から後醍醐・禧子夫婦への祝意と解釈するのが自然である、という{{sfn|兵藤|2018|pp=85–88}}。

このような歴史的事実と反することが『太平記』で描かれた理由として、兵藤は、二つの理由を挙げる{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88}}。

一つ目は、文学的効果を狙ったものであり、[[唐]]の大詩人である[[白居易]]の漢詩「上陽白髪人」を下敷きにして、廉子を唐の[[玄宗皇帝]]の寵姫で傾城の美女である[[楊貴妃]]に、禧子を楊貴妃の嫉妬から玄宗皇帝との関わりを邪魔された上陽白髪の人になぞらえて物語を作ったものであろうという{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88}}。

二つ目は、『太平記』の成立過程と政治問題に関わることである{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88, 101–106}}。[[今川了俊]]の『[[難太平記]]』によれば、[[法勝寺]]の[[円観]]が『太平記』の原型を、将軍[[足利尊氏]]の弟で当時の事実上の[[室町幕府]]最高権力者の[[足利直義]]に提出し、直義がそれを[[玄恵]]に見せたところ、不適切な箇所が多々あるとして、「書き入れ(加筆)」と「切り出し(削除)」が行われたという{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88, 101–106}}。現存する『太平記』テキストのうち巻第1・第12・第13は、[[建武政権]]批判が色濃い上に、他の巻と人物像や設定が一致しないため、兵藤によれば、このとき足利政権周辺で意図的に加筆・改訂されたのではないかという{{sfn|兵藤|2018|pp=86–88, 101–106}}。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{notelist}}

=== 出典 ===
{{reflist|20em}}

== 参考文献 ==
=== 古典 ===
* [[西園寺公衡]]『[[亀山天皇|亀山院]]御凶事記』
** {{Citation | 和書
| last=西園寺
| first=公衡
| title=亀山天皇御凶事記
| year=n.a.
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| ref = {{harvid|亀山天皇御凶事記:写(在楳文庫)|n.a.}}
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* 『[[増鏡]]』
** {{Citation | 和書
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* [[兼好法師]]『[[徒然草]]』
** {{Citation | 和書
| editor-last=永積
| editor-first=安明
| editor-link=永積安明
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* 『[[太平記]]』
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* 『[[新葉和歌集]]』
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=== 主要文献 ===
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}} - 上記の再版
* {{Cite journal | 和書
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| title=後醍醐天皇をめぐる三人の斎宮たち : 獎子内親王・懽子内親王・祥子内親王
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* {{ Citation | 和書
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* {{Citation | 和書
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| title=太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々
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}}上記の文庫化。
* {{Citation | 和書
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| title=後醍醐天皇 <small>南北朝動乱を彩った覇王</small>
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== 関連文献 ==
* {{Cite journal | 和書
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| authorlink=百瀬今朝雄
| title=元徳元年の「中宮御懐妊」
| journal=金沢文庫研究
| number=274
| pages=1–13
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}}


== 関連項目 ==
* [[紫の上]]


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2020年5月30日 (土) 10:50時点における版

西園寺 禧子
第96代天皇后
皇后 元応元年8月7日1319年9月21日
(中宮)
皇太后 元弘3年7月11日1333年8月21日
礼成門院
後京極院
院号宣下 正慶元年5月20日1332年6月13日
元弘3年10月12日1333年11月19日

誕生 不明(史実:永仁3年(1295年)以後?で嘉元3年(1305年)以前、『太平記』:嘉元2年(1304年[注釈 1]
平安京 一条烏丸東入・西園寺邸?
(現:京都府京都市上京区
崩御 元弘3年10月12日1333年11月19日
禧子
幼称 さいこく
氏族 西園寺家藤原氏
父親 西園寺実兼
母親 藤原孝泰女(従二位隆子、藤原孝子)
配偶者 後醍醐天皇
結婚 正和2年(1313年
子女 女?(夭折?)、懽子内親王(宣政門院)
身位 女御中宮 →(女院)→中宮皇太后
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西園寺 禧子(さいおんじ きし)は、第96代天皇後醍醐天皇皇后中宮)、のち皇太后。正式な名乗りは藤原 禧子(ふじわら の きし)。女院号は初め持明院統(後の北朝)より礼成門院(れいせいもんいん[注釈 2])と称されるが、のちにそれは廃され、崩御後同日に建武政権(後の南朝)より後京極院(ごきょうごくいん)の院号を追贈された。皇女に伊勢神宮斎宮光厳上皇妃の懽子内親王(宣政門院)がいる。

確実な生年は不明だが、幼名を「さいこく」と言い、嘉元3年(1305年)ごろには異母姉で亀山院(後醍醐の祖父)の寵姫である昭訓門院瑛子に仕えていたと見られる。正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろに皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)によって密かに連れ出され、翌年正月に情事が露見して既成事実婚で皇太子妃となる。これは基本的に恋愛結婚と見られ、夫婦の熱愛ぶりは様々な資料に現れている。一方、一国の皇太子として、尊治の求婚には政治的理由もあると考えられている。一つ目には代々関東申次朝廷鎌倉幕府との折衝役)を務める有力公家である西園寺家の高貴な姫君との間に世継ぎをもうけることで、甥の邦良親王の系統に対し、自身の皇統存続を強固にすること。二つ目には、関東申次の権力を通じて、幕府との友好関係強化を図ったことなどが推測されている。しかしこうした理屈を越えて、尊治は心情的にも禧子を溺愛し、しかも年ごとに愛情を深めていった。禧子の側でも温和で誠実な人柄の尊治を恋い慕い、二人は私生活でも円満な夫婦となった。

尊治が後醍醐天皇として即位した翌年の元応元年8月7日1319年9月21日)に中宮に冊立され、このころ恋歌を得意とする勅撰歌人となる。皇子・皇女に恵まれない夫妻は、嘉暦元年(1326年)ごろからたびたび安産祈祷を行ったが、時には帝である後醍醐自身が禧子のため祈祷を実践することさえあった。元徳2年(1330年)には、後醍醐は腹心の僧の文観房弘真に依頼し、禧子に真言宗最高の神聖な灌頂(授位の儀式)である瑜祇灌頂を自身とお揃いで受けさせた。後醍醐の法服をまとった肖像画『絹本著色後醍醐天皇御像』は、この時の様子を描いたものである。こうして禧子は俗界と聖界の双方において同時に日本の頂点に立ったが、これほどの寵遇と地位を天皇から受けた女性は先例がない。しかし、ついに実子に恵まれず、元弘の乱1331年 - 1333年)の時に患った病によって、建武の新政開始直後の元弘3年10月12日(1333年11月19日)に崩御した。後醍醐の嘆きは深く、臨済宗高僧の夢窓疎石をしばらく宮中に留めて供養を行わせた。2000年前後から、室町幕府の政策は建武政権の政策を、そして建武政権の政策は鎌倉時代末期の政策を基盤としていることが指摘されており、その時代の後醍醐の治世を中宮として共に歩んだ禧子の歴史的意義は大きい。

和歌に優れ、歌人としては『続千載和歌集』等4つの勅撰和歌集に計14首、准勅撰和歌集『新葉和歌集』に1首が入集。禧子の美貌を後醍醐はしばしば「月影」(古語で「月の光」の意)に喩えている。夫婦仲の睦まじさは同時代から著名だった。例えば、歴史物語増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」の巻名は、「秋の深山」(西園寺家北山邸、のちの金閣寺)の「秋の宮」(中宮)、つまり禧子を指し、禧子をこぞって褒めそやす永福門院鏱子(禧子の長姉)と後醍醐の和歌から取られている。『増鏡』巻第16「久米のさら山」では、元弘の乱前半戦に敗北し意気消沈する夫に琵琶を届け、夫婦がともに得意とする和歌を贈り合う姿が描かれた。『増鏡』の説話は『続千載和歌集』や『新葉和歌集』からも裏付けられる。『徒然草』では皇后ながら有職故実(古代の朝廷儀礼)を気にかけない自由奔放な性格が記録され、中世の代表的な有職故実学者にして理知的でふさぎ込みがちな性格の夫・後醍醐とは好対照を為している。

なお、軍記物語太平記』(1370年頃完成)では、後醍醐の側室の一人である阿野廉子が傾城の悪女と設定された余波を受け、自身の上臈(高級女官)であった廉子に寵を奪われ、後醍醐から嫌悪された不遇の皇后であるかのように描かれた。夫の後醍醐もまた、禧子の安産祈祷を装って幕府調伏の祈祷を行う冷酷な人物であるとされた。しかし、これらの『太平記』の記述は多くの点で他の資料と矛盾している。特に、安産祈祷が幕府調伏の偽装だったとする『太平記』説は、2000年代初頭まで広く信じられていたが、2010年代後半時点で日本史・仏教学・日本文学の各分野の研究者から相次いで否定されている。

経歴

幼少期

太政大臣西園寺実兼の三女として生まれる(『女院小伝』)[3]。長兄は左大臣西園寺公衡、四兄は今出川家の初代である太政大臣今出川兼季。長姉は伏見天皇の中宮西園寺鏱子(永福門院)、次姉は亀山上皇の妃西園寺瑛子(昭訓門院)。実母は藤原惟孝の子孫の藤原孝泰の娘である従二位隆子(藤原孝子とも書かれる)で、同母兄には前記した今出川兼季の他、天台座主性守と大僧正の道意がいる[4]

禧子の確実は生年は不明である[1]軍記物語太平記』(1370年頃完成)は、禧子立后を数え16歳の時とし、ここから逆算すると嘉元2年(1304年)の生まれとなる[1][注釈 1]。しかし、日本史研究者の森茂暁 によれば、『太平記』説を裏付ける史料はないという[1]。次に述べるように、嘉元3年(1305年)時点で「〜子」型の名前が付いていない、つまり裳着(およそ数え12歳)より前と思われるため、逆算して少なくとも永仁3年(1295年)ごろ以降の生まれとも考えられる。

幼名はおそらく「さいこく」であり、嘉元3年(1305年)には姉の昭訓門院(西園寺瑛子)に仕えていたと推測される[5][6]。その論拠として、嘉元3年(1305年)9月23日亀山院(後醍醐の祖父)の所領に関する遺言として西園寺公衡(禧子の兄)が記録した『亀山院御凶事記』が挙げられる[6]。亀山は寵姫である昭訓門院との間に生まれた恒明親王に多くの領地を引き継がせようとしたが、このとき昭訓門院の妹で女院に仕えていた「さいこく」という女性に「さぬきの国とみたの庄」(讃岐国富田荘、後の香川県さぬき市大川町富田中およびその周辺)ほか2つの荘を、1期分として譲ることが記されている[5][6]。これは一代限りの領地であり、さいこくの没後は、甥の恒明に渡る約束となっていた[5][6]。ところが、『竹内文平氏旧蔵文書』所収『昭慶門院領目録案』によれば、翌年の嘉元4年(1306年6月12日後宇多院(後醍醐の父)は父帝の遺命を履行しなかった[6]。そして、遺領の莫大な荘園郡を亀山皇女で自身の異母妹である昭慶門院(憙子内親王)に譲与したので、富田荘もさいこくから取り上げられてしまったという[6]

同じく尊治親王(のちの後醍醐天皇)もまたこのころ、母の五辻忠子(談天門院)が亀山院の庇護を受けていた関係で、同母姉の奨子内親王(達智門院)と共に、亀山院の周辺で祖父から目を掛けられて育てられていた[7]

皇太子と密かに

花園院宸記』正和3年(1314年1月20日条によれば、正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろ、禧子は皇太子尊治親王(たかはるしんのう、のちの後醍醐天皇)によって、西園寺家から密かに連れ出された(「東宮、密かに盗み取る所なり」)[8]。この事実は翌3年(1314年)1月初頭に発覚したが、既に禧子は妊娠5か月であったので、妃が後宮に入る参入の儀式を飛ばして、一飛びに着帯祝い(妊娠5か月時に安産祈願として腹帯を巻く儀式)をすることになった[8]。この事件は、歴史物語の17巻本『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」にも言及されており、時期は書かれていないが、「忍び盗み給ひて」と表現されている[9]。前節で述べたように、このとき禧子が史実として何歳だったのか、確実には不明である[1]。ただ、尊治は同時代を代表する『源氏物語』愛好家・研究者だった[10]

かつて2000年ごろまでは後醍醐天皇は独裁的専制君主という人物像が主流であり、その世代の日本史分野における研究者の書籍では、この人物像に引きずられて「盗み取る」を「略奪」と表現するものがある(森茂暁の著書[11]など)。しかし、古語における「盗む」には、「こっそりと〜する」「密かに〜する」という意味もある[4]。したがって、同意を得ない唐突で略奪的な誘拐婚だったのか、あるいは秋より前からもともと禧子と忍んで関係があって同意を得た密かな駆け落ちだったのかは、「ぬすむ」という語からだけでは判別がつかない。日本文学分野の研究者の井上宗雄による『増鏡』の現代語訳では、「こっそりと連れ出されて」と中立的な表現に訳されている[12]。また、この時代の皇族による「ぬすみ」婚については前例があり、後醍醐が唯一の人物という訳ではなかった。例えば、後醍醐の父である後宇多院もまた、後深草天皇皇女の姈子内親王(遊義門院)を「ぬすみ奉らせ給ひて」妃としている(『増鏡』巻第11「さしぐし」)[13]

足利尊氏の執奏による『新千載和歌集』には、二人が某年4月1日に忍び音と初音について詠んだという和歌が入集している。

    四月一日、郭公の鳴けるをよませ給ふける
忍び音も けふよりとこそ 待べきに 思ひもあへぬ 郭公かな[14](大意:ホトトギスは四月のある日から鳴き始めると言う。その風情のある忍び音(四月のホトトギスの鳴き声)を聞こうとして、「きっと今日からだ」と、本当は何日も待ちぼうけになるべきはずだったのが、思いがけず四月初日の今日に聞くことが出来て、幸運なことだ。それは幸先良いとも言えるのだが、あなたに忍び通うのは、「今日よりも他の日だ」と、本当は堂々と付き合えるようになるまでもっと待つべきはずだったのに、思いあまって今日あなたのところへ来てしまった[注釈 3]。迷惑だったろうか?)
後醍醐院御製、『新千載和歌集』「夏歌」194
    おなじくよませ給ふける
なきぬなり 卯月のけふの 時鳥 これやまことの 初音なるらむ[15](大意:ええ、不運にも、鳴いてしまいました。四月の今日の時鳥ときのとり(ホトトギス)ですから、ただの初音(個人が初めて聞くホトトギスの鳴き声)ではなく、これこそ本当の初音(季節で初めてのホトトギスの鳴き声)なんでしょうね。それにしても、四月の今日この時、これが本当に初めての逢瀬でしたのに、もうホトトギスが鳴き始める早朝が来るなんて、夏の夜というのは、なんて短いのでしょうか[注釈 4]。これから夜はもっと短くなってしまいますから、今日で良かったですよ)
後京極院、『新千載和歌集』「夏歌」195

禧子と尊治の結婚理由として、比較的確実な資料が存在するのは、恋愛結婚であったということである。『増鏡』「秋のみ山」は、尊治の「わくかたなき御思ひ、年にそへてやんごとなうおはしつれば」云々と述べており、心情的に尊治は禧子に対し純粋に強い愛情を持っており、しかもそれは時を経るごとに深まっていったという[9]。『増鏡』では全体として、夫婦仲は良好であったと描写されている[16]。『太平記』研究者の兵藤裕己は、後に中宮となった禧子へ盛大な安産祈祷が実際に行われたことを示す鎌倉幕府の重鎮金沢貞顕の書状や、『太平記』のうち足利政権による政治的改変が入っていないと思われる箇所(巻第4等)に照らし合わせ、『増鏡』の二人の心情描写は事実であったろうとしている[16]

    忍恋をよませ給ふける
かよふべき 道さへ絶て 夏草の しげき人めを なげく比哉[17](大意:夏草が生い茂って、あの人のところに通う道が途絶えたところに、繁って煩わしい人目のせいで、あの人のところに通う方法までもが絶えてしまった。嘆くばかりのこのごろだ)
今上御製、『続千載和歌集』「恋歌一」1078
    だいしらず
たのめつゝ 待夜むなしき うたゝねを しらでや鳥の 驚すらむ[18](大意:通ってきてくれると頼りにさせておきながら、来てくれないあの人を、ただ待つ夜はとてもむなしい。うたた寝をしていても、それを知らないのでしょうか、鶏の鳴き声ではっと目が覚めてしまいました。せっかく、小野小町になった気分で、恋しいあの人に夢で逢うことだけを頼みにしていたのに…[注釈 5]
中宮、『続千載和歌集』「恋歌三」1324

無論、一国の皇太子である以上、尊治(後醍醐)が禧子を皇太子妃に選んだ理由には、政治的理由もあると推測されている。第一の理由は、皇統継承権の強化である[11][19]。俗に鎌倉時代は武士の時代と言われているが、これは誇張表現であり、実際には鎌倉幕府は朝廷と日本を二分する国のうちの一つの「封建国家」(佐藤進一説)、あるいは複数存在した強大な権門(特権組織)のうちの「軍事を司る権門」(黒田俊雄説)に過ぎず、朝廷もまだ強い実力と高度な法体系を確保していた[20]。とりわけ後醍醐の父の後宇多天皇は「末代の英主」と称えられる賢帝だった[21]。当時、天皇家は後宇多・後醍醐らの大覚寺統と、それに対立する持明院統という二つの皇統に分裂しており、幕府が仲裁者となっていた(両統迭立(りょうとうてつりつ))。ところが、後醍醐が尊治親王として皇太子だった当時、大覚寺統の中でさらに、父の後宇多の意向によって、正嫡である邦良親王(尊治の甥)と、それに次ぐ尊治の系統に別れており、尊治が将来天皇位を退位した後は、基本的に邦良の系統に皇位を譲らなければならなかった。

かつては、後醍醐の立場を一代限りの中継ぎとする説があった[22]。これに対し、河内祥輔は、一代限りの中継ぎというのは敵対皇統である持明院統からの中傷表現であり[22]、実際には大覚寺統の「准直系」程度の格式を父の後宇多上皇から許されており、条件付きで後醍醐の子も天皇位に就く可能性を認められていたのではないか、という説を唱えている[19]。また、父の後宇多と敵対したとする古説とは違い、後醍醐が自身の系統強化を図ったのは、私利私欲からではなく、「末代の英主」である後宇多を尊敬する気持ちから、自分こそが父帝の後継者であると証明し、父の政策を引き継いで遂行したいという想いからだったという[21]。このような、後醍醐から後宇多への敬意は多大であり、後宇多もまた後醍醐に相当な信任を与えていたという説は、中井裕子も追加の資料を用いて補強している[23]

もっとも、「准直系」説を採るにしても、正嫡である甥の邦良に対し、後醍醐が相対的に不安定な地位にあり、子に確実に皇位を継がせるには、高貴な血統の正室を必要としたことに変わりはない[19]。そこへ、禧子の西園寺家は代々、朝廷鎌倉幕府の交渉役である関東申次(かんとうもうしつぎ)を世襲する家系であり、当主はしばしば太政大臣にまで登るなど、鎌倉時代には強い権勢を持つ公家だった[11]。このような西園寺家との縁戚関係は、安定しない立場への強化となるのである[19]

第二の政治的理由として、関東申次である西園寺家を通じ、鎌倉幕府との友好関係を強化しようとしたことが挙げられる[19][24]軍記物語太平記』では尊治(後醍醐)は当初から倒幕を考えていたと物語られているが、2007年、河内はこれは歴史的事実ではないという新説を唱え[25]元弘の乱1331年 - 1333年)の前年までは融和路線を堅持していたと主張した[19]亀田俊和も河内説に同意し、西園寺家を介して幕府との友好関係を模索する姿からは、現実的な政治家としての姿勢がうかがえると、後醍醐の婚姻政策を高く評価している[24]呉座勇一もまた、「執念」「不撓不屈の精神」「独裁者」「非妥協的な専制君主」といった人物像は『太平記』以前には見られず、『太平記』とそれ以降に作られたイメージであり、実際は鎌倉幕府との融和路線を目指していた協調的な人物であるというのが、後醍醐の歴史的実像であろうとしている[26][27]。なお、室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は、『後醍醐院百ヶ日御願文』で、後醍醐の人柄を「温柔之叡旨猶留耳底」、つまり「優しく穏やかな言葉が耳の奥底にまで響いて今でも残っている」と評している[28][29]

いずれにせよ、後述するように、夫婦の間に強固な愛情があったことを物語る逸話は数多く、根底に強い恋愛感情があったのは確かである[16]

    顕恋をよませ給ふける
いつの間に 乱るゝ色の 見えつらん しのぶもぢずり ころもへずして[30](大意:いつの間にバレてしまったのだろうか?「しのぶもじずり」の衣の乱れ模様の色のように、私の忍び恋の乱れた色恋は。あれからまだそんなに頃も(時間も)経っていないはずなのだが…)
御製、『続後拾遺和歌集』「恋歌一」672
    顕恋を
忍べばと 思ひなすにも なぐさみき いかにせよとて もれしうき名ぞ[31](大意:そう、忍んでいるから大丈夫だろう、と初めは思い込んでいたのだが、心の中でにやけていたのを周りに隠すことはできなかった。一体私にどうせよ、と自問自答したら余計焦ってしまって、例の騒動だ)
今上御製、『続千載和歌集』「恋歌一」1139

恋の歌人

その後、正和4年10月16日1315年11月13日)には、皇女の懽子内親王(かんしないしんのう)が生まれた[32][注釈 6]

文保2年2月26日1318年3月29日)、皇太子尊治親王が践祚し、後醍醐天皇となる。天皇の正室となった禧子は、同年4月20日従三位を叙され、7月28日女御宣下(『女院小伝』)[3]。次いで翌元応元年8月7日1319年9月21日)には中宮に冊立される[4](『女院小伝』)[3]

『増鏡』「秋のみ山」によれば、禧子の父の西園寺実兼は、老後に娘が中宮となったのでとても喜んだという[34]森茂暁の推測によれば、娘が連れ出された当初は面食らったであろう実兼も、娘が手厚く扱われているのを見て気持ちがほぐれていき、やがて後醍醐に目をかけるようになったのではないかという[11]西園寺家琵琶の帝師を家業の一つとしたので、後醍醐は禧子の父の実兼や同母兄の今出川兼季から琵琶を習った(『花園天皇宸記』元亨2年(1322年9月10日条等)[35]

また、このころ後宇多上皇(後醍醐父)の命で編纂された『続千載和歌集』(1318年 - 1320年)に禧子の和歌が入集し、勅撰歌人となった[36]。日本の歴史上、禧子の和歌は14首が勅撰集に入集したが(准勅撰を加えれば15首)[1]、存命中に後宇多・後醍醐のもと編まれた2つの勅撰和歌集(『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』)にある8首のうち、75パーセントに当たる6首が「恋歌」の部に収録され、後醍醐との恋愛を詠んでいる[36]

又いつと しらぬもかなし 今はとて おき別つる 名残のみかは[37](大意:あなたとの次の逢瀬がいつになるのか、わからないのが本当に切ないです。またねと言って、起きて離れ離れになった後の寂しさの名残は、沖へ潮が引いた後に残るなごり(水たまり)のよう。これで最後なのでしょうか。いいえ、いつか潮がまた満ちるように、あなたならきっとまた私の心を満たしてくれるはず)
中宮、『続後拾遺和歌集』「恋歌三」844

秋のみ山

中宮となった元応元年(1319年)の8月13日、禧子と後醍醐天皇は、西園寺家が領有する広大な邸宅である北山邸(後の京都市北区金閣寺)に行幸した[38]

歴史物語の17巻本『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」によれば、翌々日の15日夜には、中秋の名月を賞する盛大な宴が催された[38]。このとき、長姉の永福門院(西園寺鏱子)は妹の禧子が中宮に冊立されたことを喜び、禧子に宛てて、和歌を贈呈したという[38]

こよひしも 雲井の月も 光そふ 秋のみ山を 思ひこそやれ(大意:中秋の名月である今宵は、雲井(雲のたなびく大空)にある満月も、雲井(宮中、ここでは天皇・皇后の行幸)の満月のように晴れ晴れしい中宮陛下も、いっそう光輝いていらっしゃいます。秋の深山(北山邸)にいらっしゃる秋の宮(中宮陛下)のことを、とてもめでたいと思いやっております)[38][注釈 7]
永福門院、『増鏡』「秋のみ山」

すると、夫の後醍醐は「まろ聞えん」(「わたくしが(代わりに)申し上げましょう」)と言って、禧子の代わりに返歌を詠んだ[38]

昔見し 秋のみ山の 月影を 思ひいでてや 思ひやるらん(大意:永福門院様もまたその昔、(伏見天皇の)秋の宮(中宮)でいらっしゃいましたね。中宮時代に秋の深山(北山邸)から御覧になった美しい月の光と、月の光のように美しい禧子のまだ幼い頃を思い出して、そのように思いやっておいでになるのでしょう)[38][注釈 7]
後醍醐天皇、『増鏡』「秋のみ山」

このように、義姉への返答をしつつ、その中身は禧子の月影(月の光)のような美しさを称える歌で、機会さえあれば妻の自慢をするという後醍醐ののろけ話だった。この話は『増鏡』のハイライトの一つであり、「秋のみ山」という巻名自体が、上記の永福門院と後醍醐の和歌に登場する禧子を指す語から取られている[40]

これらの和歌と経緯は、勅撰和歌集である『続千載和歌集』の巻4「秋下」にも、第458歌と第459歌として見えている[41]

達智門院との親交

禧子は後醍醐天皇の同母姉の達智門院(奨子内親王、元・伊勢神宮斎宮)とも親交があった[42]。禧子の父の西園寺実兼元亨元年(1321年9月10日に薨去し、家宝であるの一つを達智門院に遺していた[42]。薨去後のいつか確実な時期は不明だが、そのときの禧子と達智門院の贈答の和歌が『新千載和歌集』に入集している[42]

    後西園寺入道前太政大臣申しおきて侍りける琴を、宣政門院いまだ一品の宮と申しける比たてまつらせ給ふべきよし達智門院へ申させ給ふとて
代々をへて すみにし山の 松の風 千とせの声や ゆづりおきけむ[42](大意:何代も住んできた山の松の風、その松風のような響きの箏の千年の音を、父はあなたへ譲りおいていたということです)
後京極院、『新千載和歌集』巻20「慶賀」
    御返し
行く末を ゆづりおきける 松の風 つたへむ千世の こゑぞしらるる[42](大意:行く末を譲りおいていたという、松風の箏を受け継ぎましょう。かの名高い千世の音が聞こえてきます)
達智門院、『新千載和歌集』巻20「慶賀」

御産祈祷

その後、『続群書類従』所収「御産御祈目録」によれば、嘉暦元年(1326年)6月から、禧子への安産祈祷が行われた[43]

増鏡』「むら時雨」によれば、当時、後醍醐天皇は禧子との間に懽子内親王しか子がいないのに満足していなかったが、ついに懐妊の兆しが見えたので、盛大な安産祈祷を始めたという[44]。禧子は出産のため甥である恒明親王の邸宅である常盤井殿に移った[44]。出産予定日が近づくと公卿殿上人や、大臣で禧子の同母兄の今出川兼季らがひっきりなしに押しかけた[44]。後醍醐側近の聖尋や、禧子の同母兄の道意を初め、多くの高僧も修法を行った[44]。世間は祝賀の雰囲気で一杯になった、という[44]

日本文学研究者の兵藤裕己は、夫婦の仲睦まじさは『増鏡』「秋のみ山」や『太平記』4巻など様々な書で讃えられており、盛大な祈祷も納得がゆくという[45]。 一方、このタイミングで行われたことについては、日本史研究者の河内祥輔によれば、政治的意図なのではないかという[46]。この3か月前の正中3年(1326年)3月、後醍醐にとって最大の政敵の一人ともいえる、大覚寺統正嫡で後醍醐の甥である皇太子邦良親王が薨去していた[46]。これによって邦良派は大きな打撃を受けたため、ここで禧子から高貴な生母を持つ皇子が誕生すれば、後醍醐派が後継者争いで勝利する可能性が高くなるのである[46]。いずれにせよ、前節(達智門院との親交)で述べたように、禧子にはもともと後醍醐派とは親交があって西園寺家の遺産によって後醍醐派の強化を図るなど、禧子個人でも能動的に動いており、政治目的であるとしても夫婦の共同作業だった。

ところが、引き続き『増鏡』「むら時雨」によれば、いつまで経っても禧子には子が生まれず、30か月以上経ってしまったので、常盤井殿から宮中へと帰った[44]。産屋や新生児の乳母・侍女なども選定済みだったのに、全て意味がなくなったので、世間はがっくりときたという[44]。祈祷の修法も大幅に削減された[44]。同書「久米のさら山」によれば、このとき世間の人々から心ない笑いを浴びせかけられて、禧子は大きな精神的打撃を受けたという[2]。後醍醐もまたそのことで心苦しくなったという[2]。なぜこの時お産がなされなかったかについては、諸説ある。日本史研究者の保立道久は、近衛天皇中宮の藤原呈子の例を引き、想像妊娠だったのではないか、と推測している[47]。一方、河内は、後醍醐が本来意図してたのは「安産祈祷」ではなく「懐妊祈祷」だったのが、周囲に誤解されてしまったのではないか、という推測をしている[46]

多くの僧が去っていった後でも、後醍醐天皇ただ一人は禧子のために帝自ら修法を続けていた[44]。鎌倉幕府の元・執権金沢貞顕が、おそらく元徳元年(1329年)10月中旬ごろに、息子の金沢貞将(六波羅南探題)に宛てて書いた書状には、以下のようにある[48]

一 中宮の御懐妊の事、実ならざる間、御り祈等止められ候へども、禁裏一所御坐の由、その聞こえ候ふ。実事に候ふか。承り存すべく候ふなり。
一 禁裏、聖天供とて□□[注釈 8]御祈り候ふの由承り候ふ、不審に候ふそう[48]

第1項は、「中宮懐妊が事実ではなかったので、祈祷は取りやめになったが、禁裏一所(天皇陛下お一人)がまだ祈祷をしている」という噂が鎌倉に届いており、これは本当なのか教えて欲しい、と依頼している[48]。第2項は、聖天供という修法を帝自ら行っているらしいが、これは不審である、と述べている[48]

仏教美術研究者の内田啓一の指摘を発展させた兵藤の説明では以下のようになる[51]。後醍醐父の後宇多天皇は密教の修法を極めており、後醍醐も父に倣って深く通じていたため、一人で修法を行うことができるだけの力量はあったし、それはまた誰もが知る周知の事実であった[51]。また、「聖天供」というのは、除災や招福、富貴や子宝(夫婦和合)を祈願して、当時の貴族社会で広く行われた普通の祈祷である[51]。したがって、ここに現れているのは、妻を心配に想って父祖伝来の手法で無事を願う、一人の夫として自然な光景である[51]。貞顕が不審とするのは、懐妊が事実でないならば、なぜ後醍醐一人が残っているのかという素朴な疑問であって、特に幕府調伏の祈祷などを疑っていた訳ではないと考えられる[51]

実際、同年12月の中旬もしくは下旬に書かれたと推測される書状では、貞顕の疑念は氷解しており、禧子と後醍醐を祝っている[52]

一 中宮又御懐妊候ふとて、十一月二十六日、京極殿へ行啓の由承り候ひ了んぬ。比興申すばかりも無き事に候ふか。御祈りの事、言語道断に候ふか[52]
一 禁裏御自ら護摩を御勤むるの由承り候ひ了んぬ[52]

貞顕は、禧子が今度こそ懐妊し、11月26日に京極殿(土御門殿)に移ったと聞いて、「比興申すばかりも無き」つまり「興あることこの上ない」と祝意を示し、祈祷は「言語道断」つまり古語で「言い尽くせないほど立派なものである」のだろうかと、素直に後醍醐・禧子夫妻の幸せを喜んでいる[52]

新拾遺和歌集』には、これより数か月遡る嘉暦4年(1329年)某日(嘉暦4年は改元で8月29日までしかないのでそれ以前)、着帯の儀(妊娠5か月目に行う朝廷儀式)の翌日、朝餉の間(あさがれいのま、天皇が略式の食事を取る部屋)の几帳(薄絹を下げた間仕切り)に、葵が掛かっていたのを見て禧子が詠んだ歌が入集している[53]

    嘉暦四年、御着帯の後祭の日、あさがれゐの御き帳に葵のかゝりたりけるを御覧じてよませ給ける
わが袖に 神はゆるさぬ あふひ草 心のほかに かけて見る哉[53](大意:私の袖にあふひ草(葵草)をなんとなく掛けて見て思うのは――そう、『源氏物語』で、あふひ草を詠んだ和歌に、神にも許されない不義の罪を犯して子ができたことを、悔やむ一首がありましたね[注釈 9]。私の場合は逆に、私に何か罪があって、それで、あの人との次の子にあふひ(会う日)を、神様がお許しにならないのだとばかり思っていました。でも、思いもよらず、今度こそ心にかけてあの人との次の子を育てられるのですね)
後京極院、『新拾遺和歌集』「夏歌」203

だが、この年も禧子のお産はうまくいかなかった[46]。新たな皇子・皇女が生まれたという記録は、ない[46]

なお、2000年代初頭までは、軍記物語太平記』の物語に基づき、御産祈祷は幕府調伏の儀式の偽装であり、「聖天供」はいかがわしい呪術でそれを行った後醍醐は異形の天皇である、といった言説が行われることが主流だった。しかしその後2000年代から2010年代にかけて行われた議論により、こうした見方は2010年代後半時点でほぼ否定されている。詳細は#『太平記』を参照。

瑜祇灌頂

文観房弘真開眼絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財清浄光寺蔵)。俗世の帝王の身のままにして真言宗の最高儀式「瑜祇灌頂」を受けた図。後醍醐は正妃の禧子にもお揃いで同じ儀式を受けさせた。

御産祈祷がうまくいかなかった後も、後醍醐から禧子への愛情は不動だった。

後醍醐天皇護持僧である文観房弘真の高弟の宝蓮が著した『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))によれば、元徳2年(1330年11月23日後醍醐天皇は霊夢のお告げがあったとして、文観に命じ、禧子に灌頂(かんじょう)と瑜祇灌頂(ゆぎかんじょう)という儀式を受けさせている[54]

厳密には、原文では禧子ではなく「皇太后」と書かれており、禧子が皇太后となるのはこれより後の元弘3年(1333年)のことなので時期が合わないが、仏教美術研究者の内田啓一は、著者は過去遡及的に禧子を皇太后と書いたのであろうと推測している[54]。霊夢を見たのが後醍醐なのか禧子なのかは、原文からは判別が付かない[54]

この瑜祇灌頂というのは、真言密教における究極最秘の神聖な儀式とされており、これを通過することは密教修行者にとっての事実上の最高到達点である[55]。これより上は即身成仏しかない[55]。この約1か月前の10月26日には、後醍醐自身が瑜祇灌頂を受けている[55]。後醍醐の肖像画として最も著名な『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財清浄光寺蔵)も、この瑜祇灌頂の時の様子を描いたものである[56]。著者の宝蓮によれば、高僧が帝王とその正妃の両方に瑜祇灌頂を授ける事例は、三国(インド中国日本)のいずれの国においてもこれまで先例がなかったという[54]

内田の主張によれば、後醍醐天皇自身の密教修行に特に変わった点はないが[55]、例外的に禧子へのこの寵遇は異例中の異例であるという[54]。瑜祇灌頂については、確かに天皇が受けた先例がないのは事実ではあるが、別に後醍醐自身に関しては唐突にこの儀式を受けた訳ではなく、それに足るだけの密教修行者としての経験と実績は、それまでに着々と積んできている[55]。しかし、禧子に関してはいきなり同日中に結縁灌頂伝法灌頂・瑜祇灌頂という一連の流れを受けており、相当な強行手段である[54]。ただ、当時の人間にとっては、「夢のお告げ」というのは現代人が思う以上に尊重されるものであり、ましてそれが天皇あるいは中宮の夢とあれば、文観も断ることが出来なかったのであろうと考えられる[54]

内田の推測によれば、夢のお告げという体裁にして、後醍醐はどうしても夫婦お揃いで同じ神聖儀式を受けたかったのだろうという[54]

元弘の乱勃発

元徳3年4月29日1331年6月5日)、吉田定房の密告により後醍醐天皇鎌倉幕府北条得宗家の戦いである元弘の乱が勃発。

幕府から後醍醐への取り調べ続く中、同年8月20日、後醍醐と禧子の娘で伊勢神宮斎宮懽子内親王が賀茂の河原で身を清め、野宮(ののみや)に入った(『増鏡』「久米のさら山」)[57]。野宮というのは嵯峨野にある施設で、伊勢神宮斎宮の儀式に使われる場である[58]。なお、懽子は前年の元徳2年(1330年12月19日に斎宮に卜定(選定)されていた[57]。この時期に野宮入りしたことについて、井上宗雄によれば、後醍醐としても挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという[57]

同じく『増鏡』「久米のさら山」によれば、8月24日、武力行使の計画を幕府に気付かれたことを知った後醍醐は、急を要する事態にもかかわらず、まずまっさきに禧子のもとに駆けつけて別れの挨拶を述べた[59]。それから急ぎ宮中と京を出て笠置山へ向かい、戦の準備をした[59]。後醍醐の宮中脱出の際には粗末な女房車が用いられたが(『増鏡』『太平記』)[59][60]、『太平記』は特に禧子の北山第(西園寺家別荘)へのお忍び行啓に見せかけて武士の検問を逃れたと描いている[60] 。その後、同日夜、幕将小田時知が内裏に入り捜索を開始したので、禧子は娘の懽子がいる野宮に逃れたという[58]

四つの緒

増鏡』「久米のさら山」によれば、元弘の乱笠置山の戦いに敗北し幕府に捕らえられた後醍醐天皇は、年が明けて元弘2年/正慶元年(1332年)2月頃になってもまだ、六波羅に囚われており、意気消沈する日々を送っていた[61]。このとき、禧子は夫の慰めにと、後醍醐がかつて愛用していた琵琶を宮中から届けると、紙片に歌を書いて琵琶に添えた[61]

思ひやれ 塵のみつもる 四つの緒に はらひもあへず かかる涙を[61](大意:思いやってください。塵ばかりが積もる四つの緒(四弦の琵琶)に、払いきることも出来ないほど、絶えず落ちかかる私の涙を。そのむかし隠岐に流された後鳥羽院のため、院の琵琶を塵一つなく手入れしていたら老いの涙がかかってしまった藤原孝道のように[注釈 10]、私もあなたの帰りを待っている間に、きっとしわくちゃのおばあちゃんになってしまうでしょう)
中宮、『増鏡』「久米のさら山」(『新葉和歌集』「雑下」にほぼ同一歌)

これに対し、後醍醐も雨垂れのようにはらはらと涙をこぼし、歌を詠んだという[61]

涙ゆゑ 半ばの月は くもるとも なれて見しよの 影は忘れじ[63](大意:涙のために、その半ばの月(琵琶)と、半ばの月(満月)のようなあなたが曇って見える。けれども、あなたと逢って共に何度も観た夜の美しい月影(月の光)と、そのときの月影のように永久に美しいあなたの面影のことは、決して忘れはしない)
後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』「雑下」(『太平記』流布本巻3「主上笠置を御没落の事」にほぼ同一歌[64]
かきたてし をたちはてて 君恋ふる 涙の玉の 緒とぞなりける[61][注釈 11](大意:確かにかつて私は琵琶をかき鳴らしたものだが、その音はもう絶ってしまった。私自身の音楽の楽しみよりも、あなたとの想いの方がずっと大切なのだから。その琵琶の緒(弦)は、あなたを恋しく想って流れるこの涙の玉を、首飾りとして連ねるための緒(紐)として使おう。『源氏物語』の大君は、自分の「玉の緒」(命)は涙の玉のように脆く儚いから緒を通せない、と言って、と永き契りを結ぶことを拒んだが[注釈 12]、私はたとえこれから幕府に処刑されるかもしれない脆く短い命であったとしても、あなたがくれた緒を通して、あなたとの契りは何度生まれ変わっても永遠だ。どうかあなたは、いつまでも、長く生きて欲しい)
後醍醐天皇、『増鏡』「久米のさら山」

後醍醐天皇は琵琶の名手として著名であり、禧子の父である西園寺実兼や同母兄の今出川兼季に学び、その腕前は『増鏡』や、の名人であった将軍足利尊氏による弔文で絶賛されている[35]。また、天皇家の神器である伝説の琵琶「玄象」(げんじょう)を初め、数多くの楽器の名物を所有していた[35]。そうした天才音楽家としての名声や皇家累代の神宝、そして一国の皇帝たる自分自身の命よりも、禧子の存在と、禧子との契りの方が、はるかに尊い、と謳う歌である。

病がちになる

元弘2年/正慶元年(1332年)3月には後醍醐天皇隠岐に流罪となった。

それに伴い、同年5月20日、禧子は新たに立てられた持明院統光厳天皇より女院号を宣下されて「礼成門院」と称し、追って同年8月30日には出家した(『女院小伝』)[3]

『増鏡』「久米のさら山」によれば、禧子は後醍醐と離れ離れになったことを深く思い嘆いたという[2]。礼成門院の院号宣下なども他人事のように聞き流して喜ばず、かつて作ったお産のための修法の壇なども壊してしまい、薬湯を呑むことさえ少なくなってしまった[2]。隠岐にいる後醍醐から文が届くこともあったようだが、直に会えないのが心苦しかったという[2]。こうして、心身ともに次第に体調を悪くしていったと描かれる[2]。『太平記』でも病気説は取られており(ただし月日に錯誤がある)[65]日本史研究者の森茂暁も病が禧子の死の原因になったことについて断定的に記している[1]

    おほんさまかへさせ給て後、人の琴を引ければよませ給ける(訳:御出家姿になられて後、側仕えの者がを弾いていたので、お詠みになった歌)
人しれず 心をとめし 松風の 声をきくにも ぬるゝ袖哉[66](大意:出家姿になったのだから、この世への未練は絶ち切らないといけないはずなのですが、人知れず心を込めてあの人を待つところに、松風のような箏の音を聴き――よく琵琶を奏でていたあの人の声が思い出されて、思わず涙で袖が濡れてしまいました)
後京極院、『新千載和歌集』「雑歌中」1895

崩御

元弘3年6月5日1333年7月17日)、元弘の乱に勝利した後醍醐天皇が京都に凱旋し、建武の新政を開始した。禧子の持明院統側から与えられた院号である「礼成門院」は廃止された(『女院小伝』)[3]。『増鏡』「月草の花」によれば、禧子は中宮に復帰し、6日夜に再び内裏へ入ったが、元弘の乱の時に患った病気はまだ癒えてなかったため、「五壇の修法」という息災の祈祷を始めたとされる[67]

同年7月11日(西暦8月21日)、皇太后宮宣下(『女院小伝』『皇代歴』)[3]。翌12日、権大納言の三条実忠が皇太后大夫に、権中納言の徳大寺公清が皇太后権大夫に補任された(『公卿補任』)[3]。「皇太后」というのは「皇后」よりさらに上位にある后位のことである[68]。本来の令制では后位経験者かつ現天皇の母が登るものだったが、平安時代以降はこの制限は特に守られず、母でないものが皇太后になることもしばしばあった[68]。このさらに上には「太皇太后」があるが、1202年に崩御した藤原多子を最後に太皇太后が宣下された例はないため、朝廷の女性にとって皇太后が事実上最高の地位だった[69]

同年9月13日夜、後醍醐は以下のような歌を詠んでいる。

    元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時月前擣衣といふ事を
聞わびぬ 八月長月 ながき夜の 月の夜さむに 衣うつ声[70](大意:白居易は言った[注釈 13]、八月九月の長い夜、寒々しい月夜に、で衣を打つ音を聞くのが心苦しい、と。なぜなら、どこかの家の妻が、戦に行って帰るかもわからない夫を待ちわび、すっかりやつれ果てた姿を思い起こさせるからだ、と。私は白居易よりも心苦しい。なぜならそれは、「どこかの家の妻」などではなく、まさに私の妻なのだから)
後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』「秋下」375(『新拾遺和歌集』「秋歌下」508[71]に同一歌)

同年10月12日(西暦11月19日)、後醍醐天皇皇太后禧子、崩御[65]。享年不明[1]。同日「後京極院」の女院号を追贈される(『后宮略伝』『女院記』等)[65]

女院とは、女性にとって男性の上皇に相当する地位であるが、没日宣下は、亀山天皇皇后の洞院佶子(京極院)の先例はあるものの、当時まだ相当に珍しかった[72][65]。後醍醐が、先例がほとんどないことをする危険を冒してまで、禧子に女院号を贈った理由は、「御存生之儀[72][65]、つまり「この世に生きていたから」という、きわめて単純明快かつ、どんな美辞麗句にも勝る想いがこもった理由だった。

『夢窓国師年譜』によれば、後醍醐は臨済宗の高僧である夢窓疎石を宮中に留め、二七日(ふたなぬか、死後数え14日目)の法要を行わせたと伝えられる[65]。後醍醐は禧子の供養のためしばらく政務を停止し、夢窓と仏法の問答を交わしたという[65]

禧子崩御後、同年12月7日には、後醍醐天皇の中宮として新たに、持明院統後伏見天皇の第一皇女であり、母方で禧子と同じ西園寺家の血を引く、珣子内親王が立てられた(『女員次第』)[73]三浦龍昭亀田俊和によれば、後醍醐は対立皇統である持明院統との友好関係構築を模索したのではないかという[74]。同12月中、禧子との娘の懽子内親王は持明院統の光厳上皇に嫁いだ[75]

『結縁灌頂記』によれば、建武2年(1335年1月12日、宣政門院(懽子)は母の三回忌として、三条実忠の邸宅で結縁灌頂(けちえんかんじょう、真言宗の一般信徒向けの儀式)を受けている[76]

その後の複雑な紆余曲折で建武政権は延元元年/建武3年(1336年)後半に崩壊し、南北朝時代が始まることになる。短命な政権ではあったが、思想的・文化的な面において、後醍醐天皇が傑出した才能を持ち、日本史上最大の転換点の一つだったことは疑いがない[77]。政治面についても、かつては理想主義の非現実的政策と言われていたが、2000年前後からは、室町幕府の政策の基礎となる現実的で優れたものだったという評価と研究がなされている[78]。また、その建武の新政も特異な政治を行った訳ではなく、鎌倉時代末期の鎌倉幕府の政策と父の後宇多天皇大覚寺統から続く朝廷政治を穏当に発展させたものであることが指摘されている[78][79]。その鎌倉時代末期の後醍醐の治世を、中宮として共に歩んだ禧子の歴史的意義は大きい。

南北朝時代、後醍醐天皇が最晩年の心境を詠んだものとして[注釈 14]

    題しらず
うづもるゝ 身をば歎かず なべて世の くもるぞつらき 今朝のはつ雪[84][注釈 15](大意:今朝、初雪が降る――歌に名高い、吉野の宮の初雪が。あれは寂蓮法師の歌だったか[注釈 16]、この身が雪の中にうずもれるように、私という存在もまた歴史の中にうずもれて、跡形もなく忘れ去られるのだろう。それは仕方がない。この曇り模様のように世界の全てが色褪せていく、ただそれこそがつらい)
後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』「雑上」1127
待なれし 跡はよそなる 山のおくに 身もうづもるゝ 庭の初雪[84](大意:「年月が経てば、このように憂いだけが多くなる。そのような世を気にもかけずに、荒れ果てた庭に降り積もる初雪よ」[注釈 17]と詠んだ紫式部は、何と幸せな人だったのだろう。この私は、自分の庭ではなく、契りを交わしたあの人を待ち慣れた跡から、遠く離れた山奥の庭で、一人悲しく雪に身もうずもれているというのに[注釈 18]
後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』「雑上」1128

哀傷歌として、

    よし野ゝ行宮にてよませ給うてける御歌中に
あだにちる 花を思の 種として この世にとめぬ 心なりけり[85](大意:あの西行法師の歌に言うように[注釈 19]、桜の花は観る人がどれだけ愛しく想っても、それを何とも思わず儚く散ってしまう、その心こそ桜が真に神々しい理由なのだろう。しかし一人残された私の心と言えば、儚く散ってしまった桜の花のようなあの人のことが思い悩みの種になって、ああ、この世が本当に物憂い)
後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』「哀傷」1332

生前、禧子が自身と後醍醐の来世のことを詠んだ和歌として、『続千載和歌集』「恋歌二」1231[86]がある。

まよふべき 後のうき身を 思にも つらき契は 此世のみかは[86](大意:迷うに違いない来世の悲しい身に思いを馳せてみると、あなたとのつらい契りは、この世だけのことではないのでしょうね。あの俊成の恋歌のように[注釈 20]、身を焦がして燃え上がるような恋は、たとえ二人が生まれ変わっても、ずっと、続くのですから)
中宮、『続千載和歌集』「恋歌二」1231

人物・逸話

勅撰歌人

歌人としては、4つの勅撰和歌集に計14首が入集し、そのほか准勅撰和歌集の『新葉和歌集』にも1首が撰ばれている[1]

入集の内訳は、『続千載和歌集』「春歌上」59・「恋歌二」1231・「恋歌三」1324・「恋歌四」1499・「恋歌四」1533、『続後拾遺和歌集』「夏歌」233・「恋歌一」653・「恋歌三」844、『新千載和歌集』「春歌下」117・「夏歌」195・「冬歌」632・「雑歌中」1895・「慶賀歌」2346、『新拾遺和歌集』「夏歌」203[36]。列挙してわかる通り、北朝持明院統)主導による京極派の『風雅和歌集』には全く撰ばれていないが、後醍醐を敬愛した足利尊氏の執奏による二条派の『新千載和歌集』には5首も撰ばれている。

礼儀作法よりも雁の肉を食べたい

禧子は、兼好法師随筆徒然草』(14世紀前半)の第118段にも言及される[87]

兼好の主張によれば、禧子が中宮だった頃、父の西園寺実兼が宮中に参内した時、御湯殿上(おゆどののうえ、お湯を沸かす場で、女官の詰め所でもある)の黒御棚(黒塗りの違い棚)の上に、調理の準備としての死体がそのままの姿で乗っているのを見たという[87]。ところが、有職故実(古い朝廷儀礼)では、が最も品位の高い鳥とされ、雉以外の鳥を黒御棚に置くのは厭わしいこととされていた[87]

びっくりした実兼は帰宅した後、いそいで娘の禧子へ手紙をしたため、こんな有様は見たことがありません、はしたないことです、しっかりした女官はいないのですか、と延々と禧子にお小言を食らわせたという[87]

この禧子の自由奔放な性格は、名著『建武年中行事』を著した有職故実学者で、理知的な性格[注釈 21]の夫とは好対照である。たとえば、『徒然草』には皇太子尊治親王時代の後醍醐にかかわる話もあるが(第238段)、当時、尊治は堀川具親ら側近を総出してこれこれの漢文は『論語』のどこそこにあるのか、というのを調べさせており、兼好が該当箇所を具親に教えてあげると、具親は喜んで尊治に報告しに行ったという[91]。後醍醐の和歌は、他人には思いやりをかける一方で[注釈 22]、自身の境遇については陰鬱で翳りのあるものが多いが[注釈 14]、禧子崩御後は一層その色彩が色濃くなり(崩御)、ふさぎ込みがちな後醍醐にとって、明るく可憐な禧子の存在がいかに大切なものだったかがわかる。

春の桜花と秋の宮人

あるとき、後醍醐天皇紫宸殿で桜を鑑賞していた[95]。ちょうどそのとき、殿上人で中宮職の職員である者が、禧子の命令で皇后宮からやってきて、桜の枝を一つ折るところを見てしまった[95]。不審に思った後醍醐は、禧子を召し出して直に理由を聞いた[95]

    南殿の花御覧せさせ給うける折しも、きさいの宮の御方より殿上さぶらふをのこどもの中に、宮つかさなるして一枝おらせられけるを、御前にめして仰事ありける
九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ[95](大意:九重(内裏)の雲井(宮中)で、九重の雲井(大きな雲の立つ大空)に向かって高く咲く春の桜花を、秋の宮人(皇后宮に仕える人)が、どうして折ったのだろうか)
後醍醐院御製、『新千載和歌集』「春歌下」116
    御返し
たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき[96](大意:手折らせたのは、秋の宮(皇后)である私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったからですよ[注釈 23]
後京極院、『新千載和歌集』「春歌下」117

『太平記』

上陽白髪人

南朝後村上天皇と対立する北朝で書かれた軍記物語太平記』(1370年頃完成)は、後村上の生母で後醍醐天皇の側室の一人であった阿野廉子を「傾城傾国」[97]の稀代の悪女として描いている。そして、廉子悪女化の影響として、禧子は廉子に寵を奪われた不遇の妃として描かれた[97]

  • 流布本巻1「立后の事三位殿御局の事」によれば、文保2年(1318年8月3日、禧子は齢二八(数え16歳)で皇后に立てられ、弘徽殿に入内した[97]。『太平記』作者は、西園寺家は鎌倉幕府との繋がりが深かったため、後醍醐天皇は幕府からの評判を高めようと、政治的意図のみで禧子を皇后に迎えたのだろうと推測している[97]。ところが、禧子は心情的には後醍醐から嫌われ、一度も床を共にすることはなかった(「一生空しく玉顔に近かせ給はず」)と描かれる[97]
    • しかし、実際には禧子は後醍醐との間に少なくとも懽子内親王という皇女をもうけており、「一生空しく玉顔に近かせ給はず」とするのは史実に反している[1]
  • 次に、後醍醐の寵愛は禧子に仕えていた阿野廉子という妖艶な女官に注がれた[97]。廉子は皇后に准ずる准三后の地位を与えられ、禧子を差し置いて正規の皇后であるかのように見なされた、という[97]
    • しかし、実際に阿野廉子が准三后となったのは、禧子が崩御して1年以上経った建武2年(1335年)4月である[90]
  • 流布本巻1「中宮御産御祈の事俊基偽籠居の事」では、後醍醐天皇は禧子の安産祈祷と称し、それに偽装して幕府調伏の儀式を行う冷酷な人間として描かれる[98]
    • これについての議論は次節。

なお、禧子の「不遇」を表現する「一生空しく玉顔に近かせ給はず(中略)蕭々たる暗雨の窓を打つ声」という文章は、の大詩人である白居易の漢詩「上陽白髪人」(『白氏文集』巻3所収)の文詞を使ったものである[99]

ところが、実は巻3および巻4では、禧子と後醍醐は仲睦まじい夫婦として描かれており、『太平記』内部ですら物語や人物設定に自己矛盾を起こしている[100]

  • 流布本巻3「主上笠置を御没落の事」では、元徳3年(1331年)10月8日の時点で、禧子が幕府に囚われた後醍醐に愛用の琵琶を届け、和歌を贈り合う場面が描かれる[64]四つの緒)。
  • 流布本巻4「中宮御歎の事」では、元弘2年/正慶元年(1332年)3月7日、後醍醐の隠岐国配流が決まったと聞くと、禧子は夜に紛れて牛車で六波羅の御所に駆けつけた[101]。二人は夜もすがら語り明かしたが、朝が来てしまったので、禧子は涙ながらに「このうへに 思ひはあらじ つれなさの 命よされば いつをかぎりぞ」の歌を詠んで去ったという[101]

このような矛盾が生じた理由として、『太平記』研究者の兵藤裕己は、1つ目には作者が白居易の「上陽白髪人」を使って文学的効果を高めようとしたこと、2つ目には巻1は全体的に室町幕府からの政治的改変があると推測されることを挙げる[102](詳細は後述)。そして、1巻より後の、後醍醐と禧子の夫婦仲は円満であるという描写の方が、歴史的事実に近いであろうとしている[45]

御産祈祷は幕府調伏の隠れ蓑か否か

内容

『太平記』流布本巻1「中宮御産御祈の事俊基偽籠居の事」によれば、元亨2年(1322年)春ごろ、後醍醐天皇は慧鎮房円観文観房弘真らの僧侶を集め、中宮禧子への安産の祈祷をさせた[98]。ところが、3年間、禧子に出産の気配はなかった[98]。これは、安産祈祷という口実で、実は関東調伏(鎌倉幕府打倒の呪詛)の儀式を行っていたのだという[98]。後醍醐は討幕計画が露見することを恐れ、日野資朝日野俊基四条隆資花山院師賢平成輔ら少数の気鋭の側近のみと謀議し、これに軍事力として武士の足助重成や南都北嶺(興福寺延暦寺)の僧兵らが加わった[98]。俊基は半年ばかりの間、籠居と称して出仕を止め、山伏の姿に身をやつして諸国を行脚し、当時の世相を実見し、さらに城郭として使えそうな要地を探した[98]。こうした延長で行われたのが、元亨4年9月19日1324年10月7日)の正中元年事件いわゆる正中の変である、と『太平記』は物語る(「頼員回忠の事」)[103]

その後、岡見正雄校注『太平記(1)』(角川文庫、1975年)と百瀬今朝雄の「元徳元年の「中宮御懐妊」」(1985年、『金沢文庫研究』第274号)[49]などによって、実際の御産御祈は、正中元年事件の「後」の、嘉暦元年(1326年)以後であることが判明した[104]。そのため、安産祈祷は少なくとも正中元年事件とは関わりがないことが実証された[104]

しかしその一方で、百瀬らは、安産祈祷が実は幕府調伏の隠れ蓑であるという『太平記』史観は踏襲した[104]

日本史での反論

安産祈祷が幕府調伏の隠れ蓑であるという『太平記』説に対し、2007年日本史研究者の河内祥輔は異議を唱えた[46]

皇位継承において、旧説では後醍醐天皇が「一代の主」(子孫が皇位につくことを許されない天皇)というきわめて弱い立場にあったとされるが、河内は「一代の主」説は政敵である持明院統由来の文書にしか見られないことを指摘した[22]。そして、後醍醐父の後宇多院による「徳治三年後宇多処分状」を素直に読む限り、後醍醐は実際には大覚寺統の「准直系」程度の待遇は許されていたのではないか、と主張している[19]。しかしそうはいっても、大覚寺統正嫡である甥の皇太子邦良親王の系統に比べれば、相対的に皇位継承で弱い立場だった[46]

正中3年(1326年)3月、後醍醐の最大の政敵の一人ともいえる皇太子の邦良が薨去し、7月には後任の皇太子として持明院統の量仁親王(のちの光厳天皇)が立てられた[46]。これによって邦良派は大きな打撃を受けたため、後醍醐の子孫から天皇を出すことができる目算が以前よりも大きくなってきた[46]

それまでの後醍醐の皇子たちは母方の血統的に、直系を担うには難しい者たちばかりであった[22]。しかし、ここにもし実力者である西園寺実兼の娘である禧子との間に皇子が誕生すれば、邦良派に替わることができる強力な皇嗣となるのではないか、と考えたのであろうという[46]。このようにして見れば、禧子の出産自体が強力な政治的カードなのだから、『太平記』説のような幕府調伏ではなく、本当に御産祈祷であると考える方が自然である[46]

事実、禧子への祈祷は邦良薨去の3か月後から始まっており、4年間も続いてる[46]。河内の推測によれば、これは「安産祈祷」というよりは「懐妊祈祷」なのではないかという[46]。しかし、結果から見れば祈祷は功を奏すことなく、しかも幕府から調伏の儀式の疑いを誤解でかけられてかえって首を絞めてしまったのではないか、という[46]

なお、河内はいわゆる「正中の変」で後醍醐は公式判決通り本当に冤罪であり、その時点で倒幕計画は立てていなかったという主張をしている[25]。これと御産祈祷が本当に御産祈祷だったという説を合わせ、後醍醐天皇は、元弘の乱の前年である元徳2年(1330年)ごろまで、倒幕は考えていなかったのではないか、としている[19]

以上の河内説は、2010年代後半に入り、亀田俊和が大枠で積極的に支持しており[105]呉座勇一も旧説よりも正しい可能性は相当に高いとしている[106]

仏教学での反論

河内祥輔とは独立に、2010年に、仏教学的知識から『太平記』説および日本史研究者の百瀬今朝雄の説へ反論を行ったのが仏教美術研究者の内田啓一である。

百瀬は、『金沢文庫文書』所収の金沢貞顕(元・鎌倉幕府執権)の書状(元徳元年(1329年)10月頃)(御産祈祷)に、後醍醐天皇聖天供という儀式を行っていると報告されていることを、『太平記』説の補強として用いた[107]。百瀬は、『金剛寺文書』所収の享禄5年(1532年)の願文を引き、「大聖歓喜天浴油供一七ヶ日 右、悪人悪行速疾退散し、障難をなすもの微塵に摧破し、寺院安穏、仏法隆盛せんがため」云々とあるのを根拠に、聖天供というのは幕府を調伏(呪って破壊する)ための儀式であると推測した[107]

しかし、仏教美術を専門とする内田によれば、聖天供は仏教的にはあくまで息災法の修法であるという[108]。「怨敵退散」云々というのは、仏教の息災法ではほぼ常套句であり、そこに戦闘的な意味を見出すことは難しい[108]。もちろん、聖天供と偽って後醍醐が別の儀式をした可能性も考えられないでもないが、少なくとも聖天供というのが正しいと仮定する限りにおいては、とても幕府調伏の儀式であるとは思いにくいという[108]

同じく12月頃の貞顕書状では、後醍醐が実際に自ら護摩(火を使う仏教儀式)をしていることを確認し、祈祷について「言語道断」であるとある[109]。百瀬はこれを、後醍醐が幕府調伏の修法を行っていたことについて、貞顕が激怒したのであろうと解釈した[109]。しかし、内田は原文には護摩が息災法なのか調伏法なのかは書かれていないことを指摘し、これが本当に調伏の儀式でそれが貞顕に露見したのだったのだとしたら、元弘の乱1331年 - 1333年)を鎌倉幕府が仕掛けるまで1年以上もかかっており、あまりに気長すぎるのではないか、と疑問を示した[109]。そもそも元弘の乱の直接契機になったのは、後醍醐の側近の吉田定房による密告であって、特にこの貞顕の書状とは関係がないことも、後醍醐の祈祷が幕府調伏の隠れ蓑だったとする説への疑問になる[109]

また、百瀬論文は、「冥道供」や「七仏薬師法」といった密教修法が幕府調伏に用いられたと主張している[110]。しかし、内田によれば、これらは密教は密教でも台密天台宗の密教)の修法であり、後醍醐の腹心の密教僧は真言宗文観房弘真なので、それらの儀式が用いられたとは考えにくいという[110]

日本文学での反論

2018年には、『太平記』研究者の兵藤裕己が、前節の内田啓一説を継承し、さらに古語の知識や『太平記』の成立過程を交えて、御産祈祷における『太平記』説を批判した。

これより前の1986年、日本史研究者の網野善彦は、後醍醐天皇は「異形の王権」を体現する「ヒットラーの如き」異常な独裁者であると見なした[111]。また、後醍醐が儀式に使ったという聖天供の像について、象頭人身の男女が抱き合っているという見た目から、これは「セックスそのものの力」を表していると結論づけ、後醍醐の「異形の天皇」ぶりを象徴する逸話であると主張した[112]。後醍醐側近の僧侶である文観房弘真についても、「異形の僧正」である妖僧と主張した[113]

しかし、兵藤は内田の研究成果を援用し、後醍醐天皇の密教への傾倒は父である後宇多天皇を引き継いでいることを指摘し(たとえば『後宇多天皇宸翰御手印遺告』)、「異形」どころかむしろ逆に、皇統の伝統を受け継いでいると主張した[114]。これは、金沢貞顕元徳元年(1329年)12月頃の書状で、後醍醐が一人で祈祷を行っていることが、祈祷の実行能力そのものについては特に驚かれていないことからも実証される、とした[114]

また「聖天供」が言及された貞顕の10月の書状については、内田の研究に則って聖天供は除災や招福、富貴や子宝(即物的なものではなく幅広く夫婦和合という意味での)といった息災法を祈願するものであるとして、百瀬今朝雄の幕府調伏説や、網野の性的儀礼説には根拠がないことを指摘した[115]。さらに、兵藤は仮にもし息災法ではなく調伏の祈祷が行われていたのだとしても、安産を阻害するもののけ(怨霊)の調伏を行うための祈祷は、『紫式部日記』『栄花物語』『源氏物語』『平家物語』など多くの作品に現れており、それを倒幕に結びつけることはできない、と非倒幕説を補強した[115]。文観妖僧説についても、敵対派閥からの中傷を起源として後世に広まった虚像でしかない、という[116]

また、百瀬論文の倒幕説では、二通の貞顕書状の文言のうち、1通目の「中宮御懐妊の事、実ならざる」が「中宮の妊娠は調伏に偽装した不実のことである」と、2通目の「御祈りの事、言語道断に候ふか」が「幕府調伏の祈祷はとんでもない不届きなことである」と解釈されている[116]。しかし、内田によれば、『太平記』を外して読めば、「実ならざる」は単に前回の懐妊の噂が真ではなかったという以上の深い意味はないし[117]、「言語道断」に至っては、現代語の言語道断の意味は当時では稀にしかない用法であり、この時代では「言いようもないほど立派である」という意味が主である[52]。したがって、百瀬説とは逆に、2通目の書状は、(今回の懐妊の噂は本当のようであるから)「さぞや盛大な祈祷が行われているのだろうなあ」という貞顕から後醍醐・禧子夫婦への祝意と解釈するのが自然である、という[117]

このような歴史的事実と反することが『太平記』で描かれた理由として、兵藤は、二つの理由を挙げる[45]

一つ目は、文学的効果を狙ったものであり、の大詩人である白居易の漢詩「上陽白髪人」を下敷きにして、廉子を唐の玄宗皇帝の寵姫で傾城の美女である楊貴妃に、禧子を楊貴妃の嫉妬から玄宗皇帝との関わりを邪魔された上陽白髪の人になぞらえて物語を作ったものであろうという[45]

二つ目は、『太平記』の成立過程と政治問題に関わることである[102]今川了俊の『難太平記』によれば、法勝寺円観が『太平記』の原型を、将軍足利尊氏の弟で当時の事実上の室町幕府最高権力者の足利直義に提出し、直義がそれを玄恵に見せたところ、不適切な箇所が多々あるとして、「書き入れ(加筆)」と「切り出し(削除)」が行われたという[102]。現存する『太平記』テキストのうち巻第1・第12・第13は、建武政権批判が色濃い上に、他の巻と人物像や設定が一致しないため、兵藤によれば、このとき足利政権周辺で意図的に加筆・改訂されたのではないかという[102]

脚注

注釈

  1. ^ a b 『太平記』原文を中宮冊立ではなく女御宣下時に数え16歳と解釈し、逆算して伝・生年を嘉元元年(1303年)とする場合もある。
  2. ^ 日本史研究者の森茂暁は「礼成」の訓みを「れいせい」とする[1]。一方、『増鏡』「宮内庁書陵部桂宮本」(江戸時代初期写)では「礼成」に「れいしやう」とふりがなが振られており(つまり訓みは「れいしょう」)、『増鏡通解』(和田英松石川佐久太郎校注、1928年)や『増鏡解釈』(塚本哲三校注、1932年)は「礼成」を「らいせい」としている[2]
  3. ^ 和泉式部和泉式部日記』「ほととぎす 世に隠れたる 忍び音を いつかは聞かむ 今日も過ぎなば」
  4. ^ 藤原定家『百番自歌合』「なきぬなり 木綿付け鳥の しだり尾の おのれにも似ぬ 夜半のみじかさ」(36)
    壬生忠岑「くるるかと みればあけぬる 夏の夜を あかずとや鳴く 山郭公」(『古今和歌集』夏歌157)
  5. ^ 小野小町「うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき」(『古今和歌集』553)
  6. ^ 正和3年(1314年)に出産予定だった子がどうなったかは不明。『増鏡』「むら時雨」では、嘉暦元年(1326年)6月時点で、懽子が禧子の唯一の子であるとしている[33]。遅くともそれまでに早逝したとも考えられる。
  7. ^ a b 『増鏡』「秋のみ山」の2歌の解釈について、基本的には井上宗雄[38]に基づく。また、『太平記』で新田義貞の和歌と描かれる「誰故に やどる袂の 涙とも 知らで雲井の 月やすむらん」の中の「雲井の月」が勾当内侍の比喩表現である(長谷川端説)[39]ことから、「雲井の月」は後宮の美しい女性(ここでは禧子)のことも指すという解釈を補った。
  8. ^ 百瀬今朝雄[49]の指摘によれば、この欠落二字には「御自」という語で補うのが適当であろうという[50]
  9. ^ 紫式部源氏物語』「くやしくぞ つみをかしける あふひ草 神の許せる かざしならぬに」(若菜・下)
  10. ^ 古今著聞集 』「和歌第六」:「後鳥羽院の御時、木工権頭孝道朝臣に、御琵琶をつくらせられけるを、世かはりにける時、やがてその御琵琶を、彼の朝臣にあづけられたりけるを、程経て御尋ありければ、御琵琶につけて奉りける。ちりをだに すゑじと思ひし 四の緒に 老のなみだを のごひつるかな」[62]
  11. ^ 「緒」と「絶つ」は、和歌における縁語である[61]。内容だけではなく、和歌の技巧的にも、禧子の歌の詞「四つの緒」に意識的に寄り添うものとなっている。
  12. ^ 紫式部源氏物語』「きもあへず もろき涙の 玉の緒に 長き契りを いかが結ばむ」(総角)
  13. ^ 白居易白氏文集』巻19「聞夜砧」「誰家思婦秋搗 月苦風淒砧杵悲 八月九月正長夜 千聲萬聲無了時 應到天明頭盡白 一聲添得一莖絲」
  14. ^ a b 後醍醐の「不撓不屈の精神」を持った武闘派の天皇、というのは『太平記』以降に作られた虚像であるという(呉座勇一説)[26][27]。政治・学問・芸術の天才として、後醍醐天皇の和歌は、沈思的でメランコリックなものが多い。例として、「まだなれぬ 板屋の軒の むら時雨 音を聞くにも ぬるる袖かな」(『増鏡』「むら時雨」・『新葉和歌集』「雑上」1116)[80]、「つひにかく 沈み果つべき 報いあらば 上なき身とは 何生まれけむ」(『増鏡』「久米のさら山」)[81]、「聞きおきし 久米のさら山 越えいかむ 道とはかねて 思ひやはせし」(『増鏡』「久米のさら山」)[82]、(吉田前内大臣右大弁清忠など打つゞき身まかりにける比、思召つゞけさせ給ふける)「ことゝはむ 人さへまれに 成にけり 我世のすゑの 程ぞ知らるゝ」(『新葉和歌集』「哀傷」1370)[83]など。多芸多才かつ絶大なカリスマを持ちながら本人の和歌が憂鬱という傾向は、尊治(後醍醐天皇)が偏諱を与えた尊氏にも見られる。
  15. ^ 末尾は「はつ霜」とする版もあるが、新葉和歌集:全(村上忠順校注), p. 258, - Google ブックスのイによって「はつ雪」とした。
  16. ^ 寂蓮法師集』「つまきこる あともむかしに なりぬとや よしののみやの けさのはつゆき」
  17. ^ 紫式部「おもふこと侍けるころはつ雪ふり侍ける日。ふればかく うさのみまさる 世をしらで あれたる庭に つもるはつ雪」(『新古今和歌集』「冬」661)
  18. ^ 後伏見天皇「待ちなれし 契はよその 夕暮に ひとりかなしき 入逢のかね」(『新後撰和歌集』「恋歌五」1127)
  19. ^ 西行法師山家集』「惜しめども 思ひげもなく あだに散る 花は心ぞ 畏かりける」(121)
  20. ^ 藤原俊成「あちきなや おもへはつらき ちきりかな こひはこのよに もゆるのみかは」(『久安百首』)
  21. ^ 後醍醐天皇は、軍記物語太平記』では、無礼講という淫靡な宴会を主催して倒幕の志士を集めた、武闘派で淫らな天皇と描かれているが、その歴史的証拠はない[88]。無礼講そのものは、後醍醐の腹心の日野資朝日野俊基が行っていたことが『花園院宸記』から歴史的に確かめられるが、風紀のみが問題とされており、倒幕計画については書かれていない[88]。また、後醍醐自身については、「高貴の人」が無礼講に出席した、という真偽不明の投書が六波羅探題に投げ込まれたらしい、という曖昧な記述であり、しかも記録しているのが対立皇統の花園上皇のため、その内容については偏向を疑う必要がある[88]。後醍醐は当時の天皇の常として側室と子女の数はかなり多かったが、色に溺れたというよりも、有力な側室の多くは実務能力に長けた才女だった。たとえば尊良親王宗良親王の生母の二条為子二条派の有力歌人[89]後村上天皇の生母の阿野廉子は、いわゆる悪女伝説は根拠がないが[45]、一定の国政運営能力を有したことは南北朝時代の発給文書(「新待賢門院令旨」)から確かめられる[90]
  22. ^ 例として、四つの緒、「しるべする 道こそあらず なりぬとも 淀のわたりは 忘れじもせじ」(佐々木導誉へ、『増鏡』「久米のさら山」)[92]、「あと見ゆる 道のしをりの 桜花 この山人の 情けをぞ知る」(『増鏡』「久米のさら山」)[93]、「あはれとは なれも見るらむ 我民と 思ふ心は 今もかはらず」(『増鏡』「久米のさら山」)[94]など。
  23. ^ 万葉集』「住吉の 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君に逢へるかも」(10-1886)
    同「冬こもり 春咲く花を 手折り持ち 千たびの限り 恋ひわたるかも」(10-1891)

出典

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参考文献

古典

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  • 増鏡
    • 井上宗雄『増鏡』 下、講談社〈講談社学術文庫〉、1983年。ISBN 978-4061584501 
  • 兼好法師徒然草
    • 永積安明 編「徒然草」『方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』小学館〈新編日本古典文学全集 44〉、1995年3月10日。ISBN 978-4096580448 
  • 太平記
  • 新葉和歌集

主要文献

関連文献

関連項目