「韓国併合」の版間の差分
歴史学の査読研究ではない典拠に基づく見解を除去。WP:RS タグ: 手動差し戻し |
ノート:韓国併合#先に韓国側が韓国併合を依頼した」件の記述についてにて提起済。出典番号2『日本之朝鮮』については有楽社という出版社から1911年1月に刊行され、国立国会図書館での[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995319 記録]も請求番号・DOIを踏まえた上で公式に公開されている(コマ番号60・朝鮮併合依頼書 合邦希望の電報)、また韓日合邦を要求する声明書にても立証されている。完全に「歴史学の査読研究」は満たしている内容であり、これをWP:RSというのは明らかに支離滅裂で、百科事典の品質を故意に低下させようとする、明らかな単なるWikipedia:荒らし行為(WP:-(・WP:VAN・WP:VAND・WP:VANDAL)だと判断します。 |
||
1行目: | 1行目: | ||
⚫ | |||
{{参照方法|date=2019-12}} |
|||
⚫ | '''韓国併合'''(かんこくへいごう、{{lang-en-short|Japanese annexation of Korea}})とは、[[朝鮮半島]]の権益を巡る[[日露戦争]]後の[[1910年]]([[明治]]43年)[[8月29日]]({{Years or months ago|1910|8}})に「[[韓国併合ニ関スル条約]]」を基に、韓国側の要請により<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=日本之朝鮮|publisher=[[有楽社]]|date=1911-1|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995319}}</ref><ref name=":4">[[韓日合邦を要求する声明書]]</ref>'''<ref name=":3">{{Cite web |title=日韓併合の真実 {{!}} 日本人が知ってはならない歴史 {{!}} Real Japan |url=https://web.archive.org/web/20210625021900/http://brute.sakura.ne.jp/wp/?page_id=1260 |website=web.archive.org |date=2021-06-25 |access-date=2022-07-31}}</ref>'''、[[大日本帝国]]が[[大韓帝国]]{{efn|今日の[[大韓民国]]と[[朝鮮民主主義人民共和国]]に相当する地域。旧韓国、朝鮮国([[李氏朝鮮]])領域。[[間島]]については一部に領有権について主張がある。}}を[[併合]]して統治下に置いた出来事。'''朝鮮併合'''、'''日韓併合'''、'''日韓合邦'''とも表記される<ref>『日韓合邦秘史』 黒竜会出版部</ref>。[[日本統治時代の朝鮮|日本による朝鮮半島の統治]]は大日本帝国が[[ポツダム宣言]]による無条件降伏後も続いており、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[9月9日]]({{Years or months ago|1945|9}})に[[朝鮮総督府]]が[[連合国軍]]への降伏文書に調印するまで実質的には約35年間続いた。 |
||
⚫ | |||
⚫ | '''韓国併合'''(かんこくへいごう、{{lang-en-short|Japanese annexation of Korea}})とは、[[朝鮮半島]]の権益を巡る[[日露戦争]]後の[[1910年]]([[明治]]43年)[[8月29日]]に「[[韓国併合ニ関スル条約]]」 |
||
<!-- この部分は表示されません。 --> |
|||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
[[1910年]](明治43年)[[8月22日]]に、韓国併合条約が[[漢城]](現在の[[ソウル特別市]])で[[寺内正毅]][[統監府|統監]]と[[李完用]]首相により調印され、[[8月29日|同月29日]]に裁可公布により発効された。大日本帝国は大韓帝国を併合し、朝鮮側の全借財を肩代わりしつつ、その[[領土]]であった[[朝鮮半島]]を[[領有]]した。 |
[[1910年]](明治43年)[[8月22日]]に、韓国併合条約が[[漢城]](現在の[[ソウル特別市]])で[[寺内正毅]][[統監府|統監]]と[[李完用]]首相により調印され、[[8月29日|同月29日]]に裁可公布により発効された。大日本帝国は大韓帝国を併合し、朝鮮側の全借財を肩代わりしつつ、その[[領土]]であった[[朝鮮半島]]を[[領有]]した。日韓両国は韓国側が韓国併合を先に望んだ旨を世界各国へ知らせ、多くの国がこれを承諾している<ref name=":1" /><ref name=":4" />'''<ref name=":3" />'''。 |
||
{{朝鮮の歴史}} |
|||
韓国併合を先に依頼したのは韓国側であり、当時の韓国は[[中国朝鮮関係史|中国支配]]により長く苦しめられており、中国からの脱却のために時勢に乗っていた日本に対し、韓国首相 [[李完用]]への大韓帝国第2代皇帝 [[純宗 (朝鮮)|純宗]]の署名付き全権委任状と『[[韓日合邦を要求する声明書]]』を基に韓国併合を希望しており、[[1911年]][[1月]]出版の『日本之朝鮮』にも記録されている<ref name=":1" /><ref name=":3" />。{{朝鮮の歴史}} |
|||
[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]、日本は[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]])における[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する[[日本の降伏|敗戦]]に伴って[[実効支配]]を喪失し、同年[[9月2日]]に[[ポツダム宣言]]の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、日本による朝鮮半島の領有は終了したが、大日本帝国が[[ポツダム宣言]]による無条件降伏後も続いており、正式には9月9日に朝鮮総督府が[[連合国軍]]への降伏文書に調印するまで続いていた。 |
[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]、日本は[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]])における[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する[[日本の降伏|敗戦]]に伴って[[実効支配]]を喪失し、同年[[9月2日]]に[[ポツダム宣言]]の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、日本による朝鮮半島の領有は終了したが、大日本帝国が[[ポツダム宣言]]による無条件降伏後も続いており、正式には9月9日に朝鮮総督府が[[連合国軍]]への降伏文書に調印するまで続いていた。 |
2022年8月1日 (月) 23:37時点における版
韓国併合(かんこくへいごう、英: Japanese annexation of Korea)とは、朝鮮半島の権益を巡る日露戦争後の1910年(明治43年)8月29日(114年前)に「韓国併合ニ関スル条約」を基に、韓国側の要請により[1][2][3]、大日本帝国が大韓帝国[注釈 1]を併合して統治下に置いた出来事。朝鮮併合、日韓併合、日韓合邦とも表記される[4]。日本による朝鮮半島の統治は大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も続いており、1945年(昭和20年)9月9日(79年前)に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで実質的には約35年間続いた。
概要
1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効された。大日本帝国は大韓帝国を併合し、朝鮮側の全借財を肩代わりしつつ、その領土であった朝鮮半島を領有した。日韓両国は韓国側が韓国併合を先に望んだ旨を世界各国へ知らせ、多くの国がこれを承諾している[1][2][3]。
韓国併合を先に依頼したのは韓国側であり、当時の韓国は中国支配により長く苦しめられており、中国からの脱却のために時勢に乗っていた日本に対し、韓国首相 李完用への大韓帝国第2代皇帝 純宗の署名付き全権委任状と『韓日合邦を要求する声明書』を基に韓国併合を希望しており、1911年1月出版の『日本之朝鮮』にも記録されている[1][3]。
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 朝鮮の旧石器時代 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 BC | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
古朝鮮 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 |
沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 |
百済 |
高句麗 | |||||||
新羅 | ||||||||||
南北国 | 唐熊津都督府・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 |
安東都護府 668-756 |
渤海 698-926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 |
後 百済 892 -936 |
後高句麗 901-918 |
遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 |
高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治時代の朝鮮 1910-1945 | |||||||||
現代 | 朝鮮人民共和国 1945 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
アメリカ占領区 | ソビエト占領区 | |||||||||
北朝鮮人民委員会 | ||||||||||
大韓民国 1948- |
朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
1945年(昭和20年)8月15日、日本は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日にポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、日本による朝鮮半島の領有は終了したが、大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も続いており、正式には9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで続いていた。
条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりとして在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が、朝鮮半島の統治を開始した。
その後、朝鮮半島は北緯38度線を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍という2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国された。同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
なお「韓国併合」や「日韓併合」という言葉は、条約締結という出来事だけではなく、日本が朝鮮半島を統治し続けた継続的事実そのものを指すこともある。
冊封体制下の秩序と開国
当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持していており、1869年に日本の明治政府が王政復古を朝鮮に通告したときも、中国の皇帝が朝鮮に下す「皇上」や「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に受け取りを拒否した。1876年の江華島事件を経て日朝修好条規が日朝間で締結されて国交は結ばれたが、日本は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させ、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた[5]。その後、李氏朝鮮は米国との条約提携を清朝に依頼し、天津で交渉にあたった李鴻章は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」という条文を盛り込むことを試みたが、アメリカ側が属国(属邦)と条約は結べないとして反対したため断念した。しかしながら、李氏朝鮮の高宗は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」とする照会を米国だけではなく、ドイツ・イギリスとの条約締結の交渉の際にも行った[6]。1882年10月4日に朝鮮は清国と中朝商民水陸貿易章程を締結し、清国の藩部であることを明言した。
開国後から日清戦争まで
開国後の李氏朝鮮では、衛正斥邪(欧米諸国を夷狄視して排斥し、鎖国を維持する)を是とする高宗の実父興宣大院君、朝鮮修信使として日本を訪問し、明治維新に感化された青年官僚(金玉均、洪英植、朴泳孝ら)(金玉均、洪英植、朴泳孝ら)たちの開化派、清国への臣属を主張する高宗の妃閔妃を擁する閔氏一族(閔泳翊ら)の事大党による政争が続いていた。
1881年、衛正斥邪派は興宣大院君の庶長子李載先を擁して高宗を廃して閔氏一族の追放を企むが失敗し、李載先を含む30名が処刑された。翌年、興宣大院君は政権奪取を目論みクーデターを起こすが、金允植、魚允中の要請を受けて清国から派遣された丁汝昌と馬建忠によって鎮圧された。大院君は中国の天津に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は凌遅刑に処されて壊滅した(壬午軍乱)。10月、清国は朝鮮と中朝商民水陸貿易章程を結び朝鮮の属国化を進めると、馬建常とメレンドルフを政治顧問として朝鮮政府に送り込んだ。1884年に開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した(甲申政変)。これらの政変により、清国は朝鮮への影響力を強め、閔氏一族の後見となって政権を掌握させた。清国は日本と天津条約を結び、朝鮮に出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。
1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する(露朝密約事件)と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の永宣君を王位に擁立して自らは摂政に収まることを画策し、全琫準を通じて東学党との関係を深めていった。1894年6月、東学党が蜂起して全羅道を占領して閔妃政権の退陣を求める(甲午農民戦争)と、閔氏政権は自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼する。李鴻章は2,000名規模の陸軍を派兵したが、日本も天津条約の取り決めに従って邦人保護のために8,000名規模の混成旅団を派兵した。
反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まり[7]、日本政府は興宣大院君を擁した新政府の樹立を目論むようになる[8]。
1894年7月23日、大鳥圭介駐朝鮮公使は大島義昌陸軍少将に師団を率いて漢城に入ることを指示[9]。大鳥も護衛兵を率いて朝鮮王宮の景福宮へ向かった。景福宮に到着すると朝鮮軍からの発砲を受けたが、日本軍の反撃を受けると朝鮮兵は相次いで逃走し、朝鮮軍は1時間ほどで霧散した[10]。
大鳥公使が本国に送った報告は次の通りである。
電信訳文 廿七年七月廿三日午前八時十分発午後三時七分着
東京 陸奥大臣 京城 大鳥公使
朝鮮政府は本使の電信に述べたる第二の要求に対し甚だ不満足なる回答を為せしを以て不得已(やむをえず)王宮を囲むの断然たる處置を執るに至り本使は七月廿三日早朝に此手段を施し朝鮮兵は日本兵に向て発砲し双方互に砲撃せり[11]
また、歩兵第32連隊第1大隊長名で1903年作成された「韓国京城駐剳隊歴史」には、この戦闘の様子が詳しく書かれている。
我兵は王城内に入らんとす。分ちて二隊と為し橋本少佐一隊を率ひて正門なる光化門に当り森少佐は後門なる彰化門に向ひたり。而して正門の一隊は先づ門前に構へたる親軍壮衛営に駐屯せし韓兵を吶喊の声の下に逐ひ散らし勢に乗じて門壁を摩し銃床を乱敲しつゝ連りに吶喊すれば後門の一隊も之に応じて鯨波を作り或は空砲を発して犇き渡れり。[12]
戦闘終了後、朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された[13][14]。大鳥は宮廷に参内して、高宗から「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任すること提案に同意した[15]。同日のうちに大院君は景福宮に入って復権を果たしたが、老齢の興宣大院君は時勢に疎く政務の渋滞が見られたため、杉村濬京城公使館書記官が新政権の首相たる領議政の役職に金弘集を推挙すると、大院君はこれに従った[16]。朝鮮政府は日本政府に対して牙山に駐屯する清軍を撤退させることを要請を行った[8]が、朝鮮王朝は清国の報復に怯えて清国との絶縁などの日本の要請を拒み続けており、大鳥圭介の強硬な態度に屈して日本の要請に応じたが、その内容は大鳥を落胆させるものであった[17]。しかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍が攻撃する名分を得ることができたため、日本は戦争の開戦準備を始める。
1894年7月25日、朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突(豊島沖海戦)を契機に日清戦争が勃発し、勝利した日本は清国と下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功した。
高宗の親露政策と大韓帝国の成立
日清戦争直後の朝鮮半島は、清国と結んでいた閔氏一族が失脚し、復権した開化派は金弘集を総理大臣として朝鮮史上最初の憲法である「洪範14条」を制定して甲午改革が推進したが、フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による下関条約に関する干渉に日本が屈すると、ロシア帝国と結んだ高宗の妃閔妃の影響力が強まり、金弘集内閣の兪吉濬や金嘉鎭などが相次いで追放された。失脚していた大院君は開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデター(乙未事変)を起こして閔妃を殺害して復権を果たすが、残された事大党(李範晋ら)は妻を殺害された高宗を味方につけて、1895年にクーデターに失敗(春生門事件)するも、1896年にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して実権を握り、高宗により金弘集らの開化派の閣僚は処刑され、親露派内閣による執政が行われた(露館播遷)[18]。ロシアの威光を背景に皇帝の専制を推進する高宗に対抗して、開化派は独立協会を設立して、朝鮮が清の冊封国として設けた慕華館、迎恩門を独立館、独立門と改め、開化思想と自主独立の啓蒙に努めた。
朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、高宗は1897年(明治30年)2月にロシア公使館から慶雲宮に帰還した[19]。1897年(明治 30年)10月12日、高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めた。高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル(en:Alexey Shpeyer)の要請を受け、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)へと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた[20]。また、1898年1月には対馬と近い釜山の絶影島にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地を租借を要求する事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)[21][22]。開化派は、中心人物の徐載弼が中枢院顧問から解任・国外追放され、1898年2月に、ロシア、日本などからの自立を求めた上疏が黙殺されるなど冷遇を受けた[23]。また、大院君も高宗に諫言を行ったが、「倭奴(日本)の何か事場を醸すの処あっての事なるや」「露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。」と一蹴された[24]。独立協会を引き継いだ尹致昊は市民の街頭集会(万民共同会)を通じて議会設立を求める運動を推進したが、高宗も褓負商 (行商人) を動員して皇国協会を設立して対抗した。1899年1月、高宗が独立協会に解散命令を下すと会長の尹致昊は米国公使館に逃げ込み、開化派は壊滅した。1898年4月に日露間で西・ローゼン協定が結ばれ、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控えることが定められた。高宗は皇帝の専制政治を目論んで光武改革と称する政治運動を進めようとするも、しかし、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による高宗・皇太子暗殺未遂事件(毒茶事件)が起こるなど臣下の離反が相次ぎ、王室の財源を確保するための経済政策も国民の支持を得ることができないまま、早々に破綻してしまった。
光武改革
1899年(明治 32)8 月、高宗は「大韓国国制」を発布し、皇帝は統帥権、法律の制定権、恩赦権、外交権など強大な権力を有することが定められ、皇帝専制による近代化政策(光武改革)が進められたが、韓国独自の貨幣発行は失敗して財政は悪化した(後述の「財政問題及び偽白銅貨の流通」を参照)。韓国政府により京城~木浦間に鉄道を敷設する計画も発表されたが、資金不足により実現に取り掛かることはできなかった。また、光武量田事業と呼ばれる土地調査を実施し、封建制度の基礎となる土地私有制を国家所有制に切り替え、近代的地税賦課による税収の増加を目論んだが、土地所有者たちへの説明が不明瞭なまま強引に推し進められたことや経費の不足から徹底することができないまま、日露戦争の勃発により事業は終了した[25]。
イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。—イザベラ・バード、『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、pp.343 f
財政問題及び偽白銅貨の流通
当時の白銅貨には、典圜局製造の「官鋳」、正式な特別許可による外製の「特鋳」、韓国皇室の内々の勅許 (啓字公蹟) による外製の「黙鋳」、密造による「私鋳」があると見られていた[26]。韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた[27]。また、大韓帝国においては偽造勅許証 (偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった[28]。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた[28]。
兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる[29]。金亨燮によれば、革命一心会に所属する兪吉濬が徐相潗や河相驥に白銅貨偽造を行わせたとされる[30][31]。その他にも啓字偽造により尹孝寬、丁徳天、李聖烈、洪淳学や、洪秉晋などが逮捕されている[32][33]。
また、当時は白銅貨や韓銭だけでなく、清の商人の発行する銭票や日本の商人の発行する韓銭預かり手形も韓国の市場に流通していた[34][35]。白銅貨低落の影響を受けた日本の在韓商人には、韓国の安定した貨幣制度の確立を望む者と、むしろ韓国通貨の低落を助長して日本貨幣の流通を拡張すべきだと主張する者が存在した[36]。1902年5月、日本の第一銀行は韓国において日本円との兌換が保証された第一銀行券を発行し[34]、韓国の親露派からの妨害があったにも関わらず、その信用は増していった[34][37]。
1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止され、1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[38]、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。
ロシアの南下と日露戦争
ロシア帝国は南下政策の一環として、東アジアの領土拡張を推進していた。日本が日清戦争で勝利し、下関条約で遼東半島を割譲されると、ロシアはフランス、ドイツと共同で干渉を行って、遼東半島を返還させた(三国干渉)。同時にロシアは清と露清密約を結び、東清鉄道の敷設など満州への権益を確保、1898年には遼東半島の旅順港と大連湾、威海衛を租借して植民地化を進めていった。また、露館播遷以降は朝鮮半島にも進出を始めていた。1900年には義和団の乱に乗じてロシアが満州を軍事占領し(満洲還付条約)、ロシアの南下政策に対して、日本は満州でのロシア帝国の優越権朝鮮半島での日本の優越権を相互に認めあう満韓交換論を主張する元老の伊藤博文と、ロシアを信用せずに欧米列強と協力して対抗するべきと主張する元老の山縣有朋が対立していた。1901年、第4次伊藤内閣を退けて、山縣の側近である桂太郎が第1次桂内閣を組閣すると、桂は内閣の目標の中に「日英同盟の締結」と「韓国の保護国化」を掲げ[39]、1902年に日英同盟が成立すると朝鮮半島を巡るロシアとの軍事的な緊張が高まった。
1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は局外中立を宣言して、日露間の軍事衝突に関わることを避けようとしたが、日本は大韓帝国の独立と領土保全および皇室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させた(日韓議定書)[注釈 3]。8月22日には第一次日韓協約を締結して、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問に日本の外務省に勤務していたアメリカ人のダーハム・W・スティーブンスを推薦して、韓国政府内への影響力を強めた。1904年(明治37年)9月5日、日露戦争が開戦すると、高宗はロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束したが、韓国国民はロシアの排除と日本の勝利を支持しており、政府と国民に大きな乖離が生まれた[40]。
日露戦争後の朝鮮半島を巡る国際情勢
英国のランズダウン外相はロシアの南下を阻止するため、韓国が自主独立の国家として存在することを望んでおり、ジョーダン(John N. Jordan)駐韓公使に対して韓国の支援を行うように指示を行った。ジョーダンは韓国の立場になって日露の干渉を排除するために尽力していたが、日露戦争の終結時になると、ジョーダンはマクドナルド(Claude M. MacDonald)駐日公使に対して「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、此処10年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示すようになる。マクドナルドもジョーダンに同意し、韓国は日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論をイギリス本国に報告した。ランズダウン、バルフォア首相は2人の見解を了承し、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることが承認された[41]。
米国は高宗の厚遇を得ていた駐韓公使ホレイス・ニュートン・アレンが日本の干渉に抵抗を続けていたが、セオドア・ルーズベルトによる日露戦争の仲介が始まると、1905年6月に駐韓公使を更迭された。1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[42]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。
- 大日本帝国は、アメリカ合衆国の植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
- 極東の平和は、大日本帝国、アメリカ合衆国、イギリス連合王国の3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
- アメリカ合衆国は、大日本帝国の韓国における指導的地位を認める。
会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。
ロシアは日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で韓国に対する日本の優越権を認め、1906年に駐日公使(1899年-1903年)を務めたアレクサンドル・イズヴォリスキーがロシア帝国の外務大臣に就任すると日露関係の緊張は解けていき、朝鮮半島への干渉から撤退していく、その後も、フランスが1907年の日仏協約で日本の韓国における優越的地位を認める[43]など、日本の朝鮮半島に関する支配権は欧米列強の協調外交に組み込まれていった。
第二次日韓協約とハーグ密使事件
1905年4月8日、第一次桂太郎内閣は「韓国保護権確立の件」を閣議決定した[44]。その内容は「韓国の対外関係は全然帝国に於て之を担任し」「韓国は直接に外国と条約を締結するを得ざること」などであり、つまり韓国の外交権を奪うという内容であった。また、ロシアの後ろ盾をなくした高宗も韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進しており[注釈 4]、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。
実権を失った高宗は、三国干渉で日本が遼東半島の主権を断念したように、欧米列強の干渉で第二次日韓協約を撤回させて、日本から外交権の回復することを画策し、1907年(明治40年)6月15日からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配を糾弾するため密使を派遣した。しかし、この会議は1889年に定められた国際紛争平和的処理条約の批准国による国際協調を調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国は参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国の外交権が失われていることを理由にいずれの国からも接触を拒否され、実質的な成果を挙げることなく失敗に終わった。(ハーグ密使事件)
密使たちは日本の大阪毎日新聞を含む各国の新聞で韓国の主張を訴える戦略に切り替えたため、高宗の秘密外交は国際的に露見することになり、日本でも知れ渡るようになった。日本の世論は高宗を優遇してきた韓国統監の伊藤を厳しく批判し[注釈 5][49]、伊藤も高宗を「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と叱責し、李完用らの閣僚も高宗の独断専行が大韓帝国の維持に有害であると退位を企てるようになる。孤立した高宗は日本に抗う術はなく、7月19日に高宗は退位して、純宗が即位した。7月24日、韓国は第三次日韓協約を結んで内政権を日本に譲り、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。
第二次日韓協約のころまでは韓国に同情的な意見もあった日本の世論も、政治能力のない大韓帝国の存在は韓国民衆にとって不幸であり、世界の平和と安寧のためにも朝鮮を日本に併合することが「世界に対する帝国の任務」であると併合の推進を進める論調が主流となり[注釈 5]、1909年3月30日、小村寿太郎外務大臣は韓国併合の「断行」を明記した意見書を倉知鉄吉外務省政務局長に起草させ、桂太郎首相に提出した[50]。桂は小村意見書に賛意を示し、小村・桂の二人は次に当時韓国統監の地位にあった伊藤博文を訪ねて併合に関する意見を求めたところ、伊藤も小村・桂に同意した[51]。
1909年(明治42年)7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。
伊藤博文の暗殺
1909年 (明治42年)10月26日、日本の枢密院議長伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと日露関係の調整をするために渡航し、ロシア帝国が清から租借地としていたハルビン駅で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺された。この事件の影響により、欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であるロシアは、ロシア領内で発生した暗殺事件に関与したとの疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して日本との協調路線に転じた[18][52]。日本国内においても、伊藤は征韓論政変以来の国際協調派の元老として、山県有朋らの軍閥による軍事拡張を抑えていた重鎮であり[53]、伊藤の死亡により軍閥の発言力は増した。特に朝鮮半島の統治では韓国統監を伊藤博文・曾禰荒助と文官が務めてたのが、寺内正毅以降は朝鮮総督も含めていずれも武官が就任しするように改められ、武断政治が行われるようになった。
併合
1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められ、8月22日の御前会議で李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上に、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、日本は大韓帝国を併合した。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで日本の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。明治天皇は「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為スノ詔書」を発して、韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じ、大韓帝国最後の皇太子李垠には梨本宮方子が降嫁された。また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
大韓帝国の統治時代
朝鮮総督府による政策
身分解放
統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた[54]。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった[54]。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[55]。
土地政策
朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた[注釈 6]。その他に隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地なども)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている[56]。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする[57]。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。
総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し[注釈 7]、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ[58]、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
教育文化政策
日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した[59]。
1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した[60]。
年表
年 | 出来事 | |
---|---|---|
韓国 | 北朝鮮 | |
1895年(明治28年) | 下関条約 閔妃暗殺(乙未事変) | |
1896年(明治29年) | 露館播遷 | |
1897年(明治30年) | 大韓帝国に国号変更 | |
1904年(明治37年) | 日露戦争開戦 日韓議定書 第一次日韓協約 | |
1905年(明治38年) | 日露戦争終結 第二次日韓協約 韓国統監府設置 | |
1907年(明治40年) | ハーグ密使事件 純宗即位 第三次日韓協約 | |
1909年(明治42年) | 適当の時期に韓国併合を断行する方針を閣議決定 伊藤博文暗殺 | |
1910年(明治43年) | 韓国併合 朝鮮総督府設置 | |
1911年(明治44年) | 朝鮮教育令発布 | |
1919年(大正8年) | 三・一運動 | |
1945年(昭和20年) | 分割占領、朝鮮総督府解体 | |
北緯38度線以南 アメリカ合衆国が占領 | 北緯38度線以北 ソビエト連邦が占領 | |
1948年(昭和23年) | 大韓民国建国 | 朝鮮民主主義人民共和国建国 |
1952年(昭和27年) | サンフランシスコ平和条約発効 日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄 |
|
1965年(昭和40年) | 日韓基本条約調印 発効 日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認 |
呼称について
日本国内における呼称
韓国併合と呼称されることが大半であるが、日韓併合や、日韓合邦、日韓合併などと呼ばれることもある。
韓国内における呼称
韓国側では、併合そのものについては韓日併合や庚戌国恥(庚戌は1910年を意味する)と呼び、日本による朝鮮半島統治時代については、日帝強占期[注釈 8]や日帝時代、または日政時代、対日抗争期などと呼んでいる。
「植民地」という呼称が使われることについて
植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、植民政策学等の社会科学における講学上の概念にすぎない[61]。
ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、内地側、外地側の双方において明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[62]ことが事実上の慣例となっていた。
(1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。—小熊英二、『〈日本人〉の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、1998年7月、第5章、pp.142 f ISBN 4-7885-0648-3
我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。
なお、実際にはいくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。
- 1898年(明治31年)勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている[63]。
- 1932年(昭和7年)9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている[64]。
- 1930年(昭和5年)条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている[65]。
また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば1923年(大正12年)刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。
帝国議会審議では、朝鮮は日本の植民地であったとする表現が使われている。1918年(大正7年)3月12日の帝国議会に於いて、牧山耕蔵衆院議員は「殖民地統治に関する質問主意書」を説明するなかで、朝鮮・台湾・樺太に言及し政府に質問を行った[66]。戦後の例としては1945年(昭和20年)勅令第五百四十二号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件)(承諾を求むる件)委員会に於いて、中谷武世理事はポツダム宣言の条件説明において、「第八條の「カイロ」宣言の實行、即ち朝鮮臺灣等の從來の日本の植民地を失ふこと、」と、「植民地」の用語を使用した[66]。
国会審議では、朝鮮はかつて日本の植民地であったとする表現が使われている。たとえば、1947年(昭和22年)11月20日参議院通信委員会で、委員長深水六郎は、「朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地」と、「旧植民地」の用語を使用した[67]。
2010年(平成22年)7月7日、仙谷由人官房長官は「個人補償問題で改めて決着が必要」「日本は併合によって朝鮮人民から言葉や文化を奪ったが、それは植民地支配だった」と述べ、韓国併合について「植民地支配」の用語を使用した。
実際の使用事例
前述の通り朝鮮を植民地と明示する日本の法令は存在しないが、その他の公文書においては朝鮮を植民地と称するものも見られる。一例として1923年(大正12年)、拓殖省事務局は『殖民地便欄』を刊行したが、このなかには「我ガ殖民地ト称セラルル朝鮮・台湾・樺太・関東州及ビ南洋群島」と記載されている[68]。
戦前から研究者や思想家の間では、朝鮮が植民地であるか否かについてはすでに議論があった。憲法学者の美濃部達吉など社会科学系の研究者はおおむね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や革命家の北一輝などは植民地ではないと主張していた。民本主義を最初に主張したとされるジャーナリストの茅原華山は、1913年の著書『新動中静観』の中で、台湾及び朝鮮を日本の「投資的植民地」であり「生産的植民地」であると述べたものの、その意味で朝鮮は大きな価値が無いとした[69]。経済学者の福田徳三は、朝鮮の人口が既に過密なことから、「民を植(う)える地」という「植民地」及び「民を殖(ふや)す地」という「殖民地」という単語は不適切だとした[70]。全国経済調査機関連合会は、朝鮮を「各般の事情が植民地乃至それに準ずべき立場に在る」としながらも、朝鮮の財政は地方財政(府県財政)と同様の地位にあるとした[71]。戦後においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、領域としての朝鮮地域において大日本帝国憲法の適用に保留があったこと[注釈 9]、日本内地とは異なる法体系(朝鮮総督府令等)が適用される点、また朝鮮籍(日本)臣民の権利に国籍条項など制限があった[注釈 10]ことをもって、植民地であったとされる主張がある。
小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられているが、日本国政府の見解は「植民地支配」の定義は様々な議論があるため困難であるというものである[72]。
評価と争点
日本側では、韓国併合を否定的に評価する見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。一方で韓国側では、併合を否定的に評価する見方が多数であり、肯定的な意見は容認されないケースが多い。
韓国における併合への肯定的な見方、及び争点と評価(歴史認識)の相違については下記節を参照。
大韓民国などにおける日本統治時代の評価
独立後の韓国の歴史学者は、日本による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった(下記節「歴史認識の比較表」を参照)。また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として糾弾され、社会的制裁を受ける事例もある[注釈 11]。そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」[73]として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した[74]。ただし、その発表は国境なき記者団が発表した世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)とは完全に相反し、公信力にかなりの疑問を買っている。この発表では、2002年の韓国の言論自由指数は世界39位(10.50点)であり、世界40位(11.0点)を占めたイタリアと似ている。また、2002年Freedom Houseが発表した言論自由指数で、韓国は30点でギリシャ、イスラエルのような「自由(Free)」国家に分類された。
一方で1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判するなど、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。
- 金完燮は、当時の朝鮮は腐敗した李朝により混乱の極みにあった非常に貧しい国であり、日本が野望を持って進出するような富も文化もなかった、とする。彼によれば近代日本の歩みは列強、特に当時極東へ進出しつつあったロシアとの長きにわたる戦いであり、日清戦争から日露戦争そして韓国併合に至る一連の出来事は全て日本の独立を守るための行為であった。当初日本は、福沢諭吉の門下生の金玉均を始めとする日本で文明に触れた朝鮮人を通して、朝鮮が清から独立し近代国家となって日本にとっての同盟国となることを望んだ。しかしながら朝鮮人自身の手で朝鮮を改革しようとする試みは頓挫し、福沢諭吉が脱亜論を著したように方針を転換。日本自らの元で清、そしてロシアから朝鮮半島を守り、朝鮮を近代化する道を選んだ。その後日本は朝鮮を「日本化」することによって教養ある日本人を増大させることによる国力の増加を目指し、積極的にインフラへ投資した。朝鮮が自分たちで独立を保ち、近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本によるこれらの植民地政策がなければ近代化することもなかったであろう、として韓国における歴史教育を批判している[75]。これらの言動・著作から彼は親日派として弾圧を受けている[注釈 12]。
- ソウル大学名誉教授の安秉直や成均館大学教授の李大根は、日本植民地統治下の朝鮮において、日本資本の主導下で資本主義化が展開し、朝鮮人も比較的積極的に適応していき、一定の成長が見られたとしている。
- ソウル大学教授の李栄薫は、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示する[76]が、韓国国内では少数派である。彼もまた親日派として糾弾されている。
- 崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている[77]。
- 元韓国空軍大佐の崔三然も、「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言し、肯定的に併合時代を評価した上で日本政府の行動を批判している[78]。
- 当時の併合時代に育ち、のちカナダに移住した朴贊雄(パク・チャンウン)は2010年に発表した著書で「前途に希望が持てる時代だった」「韓国史のなかで、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」として、統治時代の肯定的側面を公正に見ることが真の日韓親善に繋がると主張している[79]。
- 2004年に、東亜日報社長の権五琦(クォン・オギ)は新しい歴史教科書をつくる会による教科書について特に反発を感じないとしながら、「韓国でも併合に一部のものが賛成していた」という同教科書の記述については「『韓国人はみんな日本に抵抗した』と自慢したいのが韓国人の心情かもしれないが、本当はそうでないんだから、韓国人こそがこの教科書から学ぶべきだ」「どの程度の『一部』だったか知ることは、何もなかったと信じているより韓国人のためになる」と発言している[80]。
- 漢陽大学名誉教授で日露戦争や韓国併合についての著書もある歴史学者崔文衡(チェ・ムンヒョン)は、左派寄り教科書とされる金星出版社『高等学校韓国近現代史教科書』における「日帝が韓国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争のため」といった記述に関して、事実とは異なるとしたうえで、ロシアが米国と協力し満州から日本の勢力を追い出そうとする露米による対日牽制などの折衝を日本が克服するために併合に時間がかかったのだとした[81][82]。また、「代案教科書[注釈 13]」における安重根による伊藤博文狙撃が併合論を早めたとする記述についても、併合は1909年7月6日の閣議で確定しており、安の狙撃で併合論が左右されたのではないと指摘したうえで、双方の教科書に代表されるような、当時の世界情勢や国際関係を看過する史観について「自分たちの歴史の主体的力量を強調する余り、国際情勢を無視し、歴史的事実のつじつまを合わせようとしている」と批判し[81]、世界史において韓国史を理解しようとしない教育は「鎖国化教育」であるとした[注釈 14]。
- 高麗大学名誉教授(当時)の政治学者韓昇助は2005年に日本の雑誌『正論』に、日本による韓国併合はロシアによる支配に比べて「不幸中の幸い」であったとし、また日本による諸政策で朝鮮半島の近代化が進展したと肯定的に評価する論文を発表した[83]。この論文は韓国国内で問題視され、その結果、韓昇助は謝罪したうえで名誉教授職を辞任した[84]。
- 元韓国国土開発研究院長金儀遠は、戦前日本の国土計画では朝鮮人を満洲に追放して京城を日本の首都としようとしたと主張する一方で、日本が朝鮮で鉄道・道路・港湾・学校を建設したことについて「 日本人が私たちから搾取して建設したという主張があるが、事実と違う。朝鮮総督府の予算を分析すると、朝鮮で集めた税金は農地税程度であり、これでは当時の公務員の月給の10分の1にもならなかった。総督府の役人が本国に行ってロビー活動をし、予算を確保した。もちろん鉄道などは大陸進出のため」であった と語っている[85]。
- 第4代台湾総統の李登輝は2012年3月、日本の保守系団体のインタビューに答えた。これはBS11『INsideOUT』で4月に放送された。日本統治時代は韓国人より台湾人のほうが差別されていたのに不満はないのか、という問いに対し、韓国は併合と言われていたのに、そしてほとんど原野だった台湾と違って元々ちゃんとした国だったのに、植民地の様にあつかわわれ、国名も「日本」のままだったのだから、インフラをあの程度、整えたぐらいでは彼らは不満だ、と答えた[86]。
- 黄文雄は、「佐藤栄作元首相が述べていたように、日韓併合条約は『対等の立場で、また自由意思で締結された』とみるのが、当時の国際条約の歴史からして妥当だろう。戦後の韓国人は、日韓合邦によって国と主権が奪われ、受難の時代が始まったと思い込んでいる。だが十九世紀から二十世紀初頭までの李朝朝鮮が『主権国家』だったと考えるのは大きな間違いだ。その実体は中国の『千年属国』である。唐に従った従属した統一新羅以来、朝鮮半島はずっと中華帝国の一属藩、あるいは『藩屏』として中華帝国に所属してきたのである。今は近代国民国家が一般的な『国のかたち』(国家形態)として拡散しているが、そうなる前は、朝鮮は国際的に『主権国家』とみなされていなかった。それまでの東亜世界における世界秩序を主宰してきたのは中華である。中華の天朝朝貢・冊封秩序が、東亜世界の核であり、主権国家の概念は十九世紀の国際政治では普及していなかった。そのため、李朝朝鮮の主権はいかなる国からも認知されていなかったというのが、歴史の常識である」と述べている[87]。
- 韓国開発研究院とハーバード大学国際開発研究所の共同研究『韓国経済社会の近代化』(1980年)は、日本の統治は近代的経済発展の礎石を置いたもので、戦後の南北分断のような災厄と同列にはおけず、バランスのとれた工業化が進行し、道路、鉄道、電信、港湾のインフラが整備され、植民地型経済とは異質の経済が形成され、農業分野では、戦後多くの発展途上国が取り組んだ「緑の革命」はすでにこの時代に達成されていたと指摘しており、プリンストン大学教授のコーリは、かつて欧米の植民地だった国で、当時の朝鮮なみの水準に達した国は今なお存在しないのではないかと述べている[88]。
日本国内における研究・日本人研究者の評価
- 木村光彦は、統計資料等をもとに実証的な検証を行い、「総合的に見れば、日本は朝鮮を、比較的低コストで巧みに統治したといえよう。巧みに、というのは、治安の維持に成功するとともに経済成長(近代化と言い換えてもよい)を促進したからである。しかし、一九四〇年代に入ると、米国との戦争が状況を一変させた。日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込んだ[89]」として、現代につながる日韓の歴史問題は第二次世界大戦期に主に発生したと総括している。
- 姜尚中とダニ・オルバフ(ヘブライ大学)は、「同じ大日本帝国の植民地だったのに、台湾は親日的なのに、韓国が反日的なのはなぜか」という対談において、【ダニ・オルバフ】「『植民地』としての朝鮮半島は天皇直属です。同じ『植民地』でも台湾は内閣直属でした」【姜尚中】「そうですね。今、日本人はどうして台湾が親日的なのに韓国が反日的なんだろと考えますよね。でもそれは、台湾統治と朝鮮半島の統治の組織構造の違いを考えると分かります」【ダニ・オルバフ】「当時の大日本帝国憲法のわずかな権利すら民衆に与えず、総督が天皇の代理人として弾圧できたのが朝鮮でした。朝鮮では総督が代々陸海軍大将であったのに比べ、台湾では1919年から1936年まで貴族院議員の政治家が続きました」【姜尚中】「天皇直属となれば、時の政府は口出しはできません。台湾と朝鮮半島でどうしてこのような統治の違いになったのかが不思議なのですが、天皇統治とはある意味、統帥権が不可侵であるのと同じです。最終的に同化政策の時は、君たちは日本の本土にいる人たちと変わらない、ということになります。天皇の愛顧をみんなにあげるというのは大変な恩恵であるという発想です。それを天皇統治では一方的にどんどん進めていくことになり、朝鮮半島の日本に対する評価が変わってくるわけです」と述べている[90][91]。
- 台北駐日経済文化代表処代表を務めた羅福全は、平井敏晴(漢陽女子大学校)の取材に対して、「韓国が日本に反発してしまう理由はいろいろありますが、私がまず思うのは、王朝があったからですよ。台湾にはなかったでしょ」「(戦後、台湾に入城した中華民国軍の)大陸から台湾にやって来た人たちの格好を見て、台湾の人たちが愕然としたんですよ。身なりはひどいし、兵器は旧式で、日本のものと比べると雲泥の差がありましたから」「日本の台湾統治は黒字で、朝鮮統治は赤字だったんですよ。日本は成功した台湾をモデルケースにして朝鮮統治に臨んだけど、うまくいかなかった。その結果、日本人は台湾人に対するのと同じように朝鮮人に接することができなかった」と述べており、平井敏晴は、17世紀に清が明を滅ぼすと、長崎出身の鄭成功は清に抵抗する拠点を築くために1662年に台南に入り、その後の台湾は、清に対する抵抗の拠点であり続けたため、台湾からすると、日本に割譲されることは、抵抗を続けてきた清からの開放でもあり、「台湾はもともと清への対抗意識があり、日本統治はある意味、台湾にとって渡りに船でもあった。一方、韓国は王朝を断絶させられたことで、日本への反発が生じやすかった。そのうえ、朝鮮統治は日本にとって経済的にうまくいっていなかった」「朝鮮王朝を潰した日本への反発心が何らかの形で韓国社会に根を張っている」「1897年に朝鮮は国王を皇帝に代え、大韓帝国が成立し、日韓併合の1910年まで存在した。韓国は正式な国名が大韓民国であることからもわかるとおり、大韓帝国と無縁ではない」「現在の韓国には大韓帝国が重ね合わせられ、さらにそこから直接遡れる朝鮮王朝500年の歴史を自ずと回想することになる」「そんな思考体系によって、近代日本と朝鮮王朝は対立関係に置かれてしまう。当時の日本の仕業に反対・反発することは、現在の大韓民国においても正しく称賛されるべき行いであり、そうしなければ罰せられる対象になる。日本で冷淡とも言われる親日派への処遇である」「台湾には王朝がなかったので、そこを統治して開拓を進めた日本は、後に朝鮮で経験するような王政復古のイデオロギーによる軋轢を経験せずにすんだ」と結論付けている[92][93][94][95]。
- 中兼和津次は、韓国の歴史教科書は「日帝の侵略を糾弾し、条約の廃棄を求める運動が燎原の火のように広がり‥民衆の憤怒と抵抗を結集し、…民族の生存権を死守しようとする救国闘争が力強く展開されていった」「日帝は世界史で類例を見いだせないほど徹底した悪辣な方法で、わが民族を抑圧、収奪した」などと記述しているが、アメリカの研究者は「(韓国は)日本にはほとんど抵抗せず、戦争に協力した人が多数いたという事実は、日本植民地支配に対して全民族的抵抗を行ってきたという神話から、逸脱するものであり、今でも、特に韓国ではこうした歴史の現実を直視しようとする人はほとんどいない(マーク・ピーティー)」、「かつて欧米の植民地だった国で、当時の朝鮮なみの水準に達した国は今なお存在しないのではないか(プリンストン大学教授のコーリ)」と指摘しており、「日本の植民地時代、韓国経済が発展したというのは、ある程度事実。また、三・一事件をのぞくと、韓国人が組織的に日本当局に抵抗したということはなかったということも事実。だから『燎原の火』のように闘争が広がったというのは、どうも違うのではないか」「今書店にならんでいる『反日種族主義』には、『韓国の歴史教科書は全くでたらめ、歴史的事実を無視している』と書いている。よってピーティが『韓国では、歴史の現実を直視しようとする人はほとんどいない』と言っているように、歴史を直視しようとしない人がいるという点については、これを忘れてはならない」と述べている[96]。
- 松本厚治(在大韓民国日本国大使館参事官)は、「世界の各地で起きた激烈な民族闘争とは、この国(韓国)は終始無縁だった。『無慈悲な弾圧』『激烈な抵抗』を語る既述の背後に透けて見えるのは、韓国近代の、深部における日本との癒着である。史観を支える史実が貧弱なために、レトリックに頼るしかないのである」と指摘しており、これに対して中兼和津次は「要するに、韓国で教える歴史とは、『こうあって欲しい、欲しかった』というある種の期待を込めたストーリーではないのか。これも松本氏の本からの抜粋だが、『教科書問題を解決するには歴史の科学性に傾斜しすぎてはならず、事実にこだわる頑なな態度を捨てなければならい』(尹世哲ソウル大教授)ということまで言っている。日本の歴史家に言わせれば、『よく言うよ』ということになるだろう。韓国精神文化研究院の朴教授は、『愛国心を呼び起こすことのできる歴史だけが本当の歴史なのである』。私にはこのような主張は、とても理解できない」と述べている[96]。
- 松本厚治(在大韓民国日本国大使館参事官)は、日本は朝鮮を内地の延長とみなし、名実ともに自国に統合することを目標にして統治しており、朝鮮半島を収奪して低い水準にとどめおく政策は、九州を搾取して本州を富ませるのと同様、意味のないことであり、身分制の撤廃、殖産興業、教育の普及、土地調査など経済社会の改革に熱心に取り組んだのは、日本自身の観点からも必要なことであり、「人口は長い間停滞を続け、20世紀初頭には1000万人程度だったと推定されているが、併合後年率2%の増加に転じ、解放直前には2500万人に達した。これは人口爆発とも言えるもので、おもに食糧生産の増大と、衛生の改善による死亡率の低下が、一時に生じた結果である。人口は激増したが、経済規模はそれを上回る速度で拡大した。1910年から1940年まで、一人当たり実質所得は年平均2.4%の割合で増加したが、これは当時の世界では突出した実績と言える。生活水準の持続的向上は、栄養摂取、識字率、死亡率の変化の分析によっても裏づけられている。(中略)工業の発展はめざましく、1910年から1940年までの年平均生産増加率は10%に達した。日本時代晩期には工業生産は農業生産を上回り、しかもその半分を重化学工業が占めるという、モノカルチュア経済の対極ともいえる経済構造が形成されていた。1920年代後半からは、鴨緑江水域で大規模な水力発電所が次々と建設され、豊富な電力を基盤に化学工業を中心とする一大工場群が出現した。同時代の経済学者印貞植は、北鮮は全日本に誇る工業地帯に転化したとし、これを歴史的壮観と形容している。工業化のおもな担い手になったのは日本人だが、彼らは、熟練と勤労精神をたずさえてフランスから欧州各地に散らばったユグノーのような役割を果たした」「世界史的に見て、異民族支配が抑圧を伴わなかった例はまずないだろうし、戦前の朝鮮が例外だったはずもない。しかし日本の支配は、20世紀に出現した全体主義のような、過激なものではなかった。深夜私宅にやってきて拉致していく秘密警察や、強制収容所のようなものがあったわけではない。銃撃戦で死んだ義兵、裁判で死刑を宣告された殺人犯はいるが、独立運動をしたというだけで『消された』人の話は耳にしない。国家の政策としての殺人は、日本帝国が知らないものだった」「資源を略奪したともいえない。一部の鉱物を除けばもともと天然資源はあまりないし、1930年代以降は内地との移出入は工業国間の貿易に近いものとなっていた。労働力の徴用は、徴兵で労働力が不足するようになった戦争末期に行われたもので、それまで日本政府は、内地の高賃金を当て込む朝鮮人の移住に歯止めをかけようとやっきになっていた。当然のことながら、同じ国なのになぜ自由に内地に行けないのかという不満が生じ、総督府もそれには一定の理解を示していた。これが基本的な構図である。徴用は総力戦体制下で内地人をも対象として行われたことで、植民地的略奪の文脈でとりあげるのは適当とはいえない」と指摘している[88][97]。
資本主義萌芽論
日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、資本主義の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする資本主義萌芽論が、1950年代に北朝鮮で唱えられた。これはのち1960年代から1970年代に日本に紹介され、1980年代には韓国へ日本を経由して伝わった。しかし、その後の実証的研究の進展により、韓国においても、資本主義萌芽論について否定的な見解が優勢になっている[98]。
近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し、李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、資本主義萌芽論を強く否定しており、「幻想」と評している[99]。また、ハーバード大学のカーター・J・エッカートは、資本主義萌芽論を「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」「韓国人が彼らの歴史の中で、産業革命の種子(資本主義萌芽)を捜そうと努力することは、オレンジの木からリンゴを求めるようなものだ[99]」とし、韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、戦後の韓国の資本主義や工業化も、日本の近代化政策を模したものであるとした[100]。またエッカートは、日本による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などを挙げ、軍事政権の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている[100]。
これに対しカリフォルニア大学のステファン・ハガードは、エッカートの議論は具体例に欠しいと批判した[101]。しかしハガードの研究においても、戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性を弱めていると主張する韓国人もいる[102]。
日本内地への影響
日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点をおいた[103]ため、東北地方のインフラ整備に遅れが生じた[要出典]。さらに、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮することとなった。
訪れた外国人の評価
1912-1913年の駐日アメリカ大使アンダーソン(en: Larz Anderson)の妻で作家のイザベル(en: Isabel Weld Perkins)が、日本へ赴任の際に韓国に立ち寄った時の手記によると、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」[104]
歴史認識の比較表
この節の内容の信頼性について検証が求められています。 |
韓国併合について、以下のような歴史認識の相違、対立がある。
韓国併合を肯定的に捉える歴史認識 | 韓国併合を否定的に捉える歴史認識 | |
---|---|---|
日本による統治は朝鮮に近代化をもたらしたか | 李氏朝鮮末期の朝鮮には資本主義の萌芽は存在せず、日本による統治が朝鮮の近代化をもたらした(カーター・エッカート[105]、安秉直[106]、李大根[107]、李栄薫[108]、崔基鎬[109])。韓国における資本主義萌芽論は「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、李氏朝鮮において近代化の萌芽を発見することはできない(C・エッカート[105])。ステファン・ハガードはエッカートの議論は具体例に欠しいと批判した[101]。しかしハガードの研究においても戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性は弱められている[102]。日本による朝鮮の近代化によって食料生産も順調となり、人口は倍増し、日本資本による百貨店の隆盛など消費社会化ももたらした(林廣茂[110]) | 李氏朝鮮末期の朝鮮には近代化や資本主義の萌芽が存在していた(資本主義萌芽論という)(梶村秀樹[111]、姜在彦[112])。資本主義萌芽論では、李氏朝鮮後期には資本主義の萌芽が存在したが日本の植民地支配により芽が摘まれてしまったとされる。(この理論は1950年代後半に北朝鮮で唱えられ、日本には1960年代に紹介、1970年代に力を持った。韓国には1980年代に日本経由で広まった。しかし、その後の実証的研究の進展により否定されてきている[98]) |
併合の目的、意義 | 日本は自国の独立と安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った(金完燮[113])。朝鮮を近代化することにより日本の防波堤となるよう援助や支援を行ったが、朝鮮では改革派は失脚し反動勢力が政権を掌握して、朝鮮自身による近代化は絶望的となったので、日本が直接近代化を行うための併合。仮に日本が朝鮮を併合しなければ、帝政ロシアが併合していた(崔文衡[114]、韓昇助[115])。ソ連時代における少数民族の過酷な境遇を思えば、朝鮮が日本に統治されたことは肯定できる。当時改革派の朝鮮人にとって清とロシアは反動的で、米国は無関心であり、日本のみが自国の改革を推進していたため期待した(グレゴリー・ヘンダーソン[116])。朝鮮が自力で近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本による統治がなければ近代化もなかった(金完燮[113])。韓国併合は搾取・虐殺・略奪・収奪する支配としての植民地支配(Colonization)ではなく、イングランドがスコットランドを併合したように現地人の生活向上を目的とした併合・合邦(アネクゼーション annexation)であった(呉善花[117])
イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルは当時同盟国である日本が日露戦争で勝利したことに並び、韓国併合と中国や太平洋諸島に一定の権益を持ったことを歓迎し[118]、1932年にも韓国併合は「厳しいけれども良好」と評価している[119]。 |
朝鮮の富を収奪する為の併合である。ロシア併合は仮定の話でしかないので、この点はほとんど論じられない。日本が併合しなければ帝政ロシアに併合されると言う設定も、また日本の統治のほうが帝政ロシアやソ連による統治より善いとする論拠のいずれも日本側のみの言い分にすぎない[要出典]。 |
韓国併合の合法性 | 李朝末期では最大と日本がみなしていた政治団体・一進会も、併合に賛成していた。韓国併合は多くの朝鮮人に歓迎された。しかし、一進会などが主張する対等合併は両国の国力の差、大韓帝国の混乱した実情などから非現実的で、朝鮮が従属的な地位に置かれるのは必然的であった。地方の農民反乱についてはその多くが既得権益を失った両班によるものであり、何らかの手段を用いて貧農を反乱に駆り立てたのに違いない。国際法学者J・クロフォードは韓国併合は国際的に認められていたもので手続きに不備があったとしても無効とはならないと李泰鎮の不成立論を斥け[120]、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではない」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので当時としては問題になるものではない」としている[121]。伊藤博文は高宗に対して「承諾されるのもお拒みなさるのも皇帝のご勝手です。もしお拒みなさるならば、日本は決心するところがありますので、その結果は条約締結以上の困難をもたらすでしょうと述べており[122]、これは外交交渉でよく用いられるセリフであって、脅迫(強制)とはいえない、また軍や憲兵による脅迫は伝聞に依拠したもので確実な証拠はない(原田環[123])。第二次日韓協約の調印者朴斉純が外部大臣であり権限を有しており有効である、また条文に批准条項がないから批准書の交換が行われなかった、条約名のない条約のケースは広く見られるため、合法であった(海野福寿[124]、坂元茂樹[125][126])。条約は締結国間で決定するもので、条約形式が固定されているわけではない(原田環[127])。また高宗は第二次日韓協約締結に反対したと戦後主張されてきたが、実際には締結に積極的であった[128]。 | 日本キリスト教協議会と韓国キリスト教教会協議会の認識によれば、韓国では朝鮮の植民地化は武力による脅迫によって断行されたとする認識が多数を占める[129]。国家から国家への強制や脅迫があっても条約は無効にはならないが、国の代表者個人に対して加えられた強制や脅迫の結果として結ばれた条約が無効となるということは、第二次日韓協約締結当時の国際慣習法として成立していた[130]。国際法学者フランシス・レイは「第二次日韓協約締結時に国家代表たる高宗に強迫が使われた」ことと「日本の韓国に対する保証義務」をあげて第二次日韓協約が無効と主張している[131]。1935年のハーバード草案や1963年の国連ILCのウォルドック特別報告書は第二次日韓協約を国家代表個人の強制による絶対的無効の事例として例示した[132]。大元の第二次日韓協約が無効である以上は韓国併合に関する全ての条約は締結時から無効であり、国際法上も無効となるとの認識から締結前の日韓協定に遡及して日本側の責任を問う者もいる。李泰鎮は条約は全権委任状や皇帝の批准書がないことから不成立としている[133]。
また海野福寿[134]や小川原宏幸(同志社大学)の様に併合条約が「たとえ合法でも不当」という立場をとり植民地化の不正義を遡及して追及すべきとする者もいる。朝鮮の資本主義化を悲観していた一進会でさえ日本への吸収合併ではなく対等合併を主張していたために彼らの期待は裏切られた。併合への民間レベルでの抵抗は、各地で地方士大夫に率いられた農民反乱が起きたことが示している。 併合は日本軍の占領、王后の殺害、王への脅迫によって実現されたもので、力によって朝鮮民族の意志を踏みにじったもので、韓国皇帝が同意したのは神話であり、全文も本文も偽りであり、併合条約は不義不当である(署名270人[135])。なお、元々の原文の声明は2010年に韓国の研究者と共同で発表したものであるが、古田博司は、この声明を「韓国で日韓併合条約無効論が盛りあがりを見せ、日本の非良心的・反進歩的知識人が5月に、それに同調する声明を出した。」と評している[136]。 |
独立運動 | 朝鮮においては三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていたが、それらは本格的な武力衝突には至っておらず、独立運動としては小規模であり、多くの朝鮮民衆は独立に向けて熱烈に活動していたわけではない。当時の朝鮮人の知識層の47.2%が独立を諦め、28.1%がどちらでもよいと回答し、9.3%が独立すべし、15.4%が有利な時期に独立すべしと回答していた[137]。農民と労働者は68.3%がどちらでもよい、6.5%が独立すべしと回答していた[137]。別の調査では日本による統治に対して朝鮮の知識人は44.9%が満足、朝鮮全体の37.7%は満足し、朝鮮全体の36.1%は興味がない、朝鮮全体の14.9%は改革を要求、11.1%が反日的であった[137]。こうした調査を日本政府が実行し、またそのなかで「独立すべし」と回答しても危険ではなかったことに留意すべきである[137]。
国内の共産主義運動は地下に潜伏しており、大きな影響力を持たなかった。満州の共産主義運動は中国共産党の影響下で行われたもので朝鮮独立ではなく中国革命を目指すのが本義とされていた。しかし、その実態は無差別に民衆から略奪を行う匪賊と大差がない。匪賊とゲリラの違いについては論じないが、論じる必要がない。 |
日本の統治に対して朝鮮の民衆は併合前から激しく反発していた。朝鮮では100万人規模の三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていた。三・一独立運動が日本政府に与えた衝撃は大きく、運動が首都で弾圧された後も各地方に波及し、完全な制圧迄に数ヵ月を要している。その中では治安当局がキリスト教会に立てこもった独立派住民を教会ごと焼き払い皆殺しにして鎮圧する事件まで引き起こした(堤岩里事件)が、これは欧米諸国の非難を招き、以後キリスト教会を弾圧対象にできなかったため却って独立運動の拠点を作り出してしまう結果にもなった。独立運動に対する植民地下の法による処罰は全面的に「人道主義に反する植民地犯罪」であった[129]。また共産主義運動に対する弾圧への評価では日本統治に批判的な人々の間においても、日本革命または中国革命など単に他国の共産主義化運動に従事するべき存在として扱われていたという評価や、朝鮮民主主義人民共和国の建国の基礎になったとする評価、無差別な略奪・暴行を行う匪賊以上の打撃を日本へ与えられなかったという評価や、むしろゲリラであるかぎり匪賊と(犯罪行為はともかく)見分けがついてはならないのが当然とするものまで様々である。 |
大韓民国臨時政府 | 上海に成立した大韓民国臨時政府は派閥抗争が激しく、また無差別なテロリズムの性質が強く独立運動の実態に乏しい。臨時政府が第二次世界大戦中に行った宣戦布告は連合国からは承認されていない。また日本軍と直接対決に至る以前に日本の降伏によって大韓民国として独立を迎えており、大韓民国臨時政府が独立したわけではない。 | 上海では大韓民国臨時政府が成立し光復軍を組織して抗日運動を行っており、第二次世界大戦中には日本に対して宣戦布告を行い、連合軍と共同行動をとった。 |
植民地化による搾取の実態 | 日本はその開国直後から、帝政ロシアの南下への備えとして、朝鮮に対して自立を求め様々な支援をしたが、朝鮮独自の改革運動が失敗に終わると、併合に方針を転換した。そのため、当初から植民地化ではなく、日本の一部分として殖産と教育などの様々な投資を活発におこない、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようとした。したがって、植民地的搾取ではなく、投資に重点が置かれ、市場を開設し、インフラを整備した。特に、教育の普及による朝鮮半島の人的資源の開発は当初から重視され、学制がひかれるとともに、京城帝国大学が帝国大学としては6番目に京城府(ソウル)に設置された。朝鮮は天然資源も労働力も豊富ではなく、植民地としての価値はなく、逆に、日本からの財政支援が長期に渡っておこなわれた。ゆえに日本は併合によって利益を得たわけではなく、むしろ朝鮮に恩恵を及ぼした面が大きい。これらを「植民地支配」であるとして、西洋列強が行った残虐で搾取的な異民族支配と同じ言葉で括るのは、不当な印象操作であり、うけいれられない。朝鮮半島が、帝政ロシアや清国の侵略圧力にさらされていた当時、それらの国家に対して侵略をさせないだけの経済力と軍事力を独自でもつことができなかったという状況下での選択としては、韓国併合はもっとも妥当なものに近い。ジョージ・アキタとブランドン・パーマーによれば日本による統治は、欧米宗主国による強制労働や人種差別政策とは比べようのないほど緩やかなものであったし、オランダ領東インド、英仏ベルギー、ポルトガル領アフリカ植民地での強制労働に日本は頼らなかった、インフラ建設には他の植民地保有国よりもはるかに多くの努力を払ったとしている[138]。朝鮮民衆の最大組織であった一進会などの勢力も併合を推進した。ヒルディ・カンによるサンフランシスコ在住の韓国系住民51人への聴き取り調査では、「辛いことは何も体験していない」と前置きをして回想する場合は多く、「ほとんどのひとは日本の統治に順応していた」という発言の頻度が高かった[139]。元韓国空軍大佐の崔三然は諸外国の植民地支配が一方的に搾取するだけであったのに対して日本は国内の税金をインフラ整備に投入したと評価した[140]。朴贊雄は希望が持てる時代だったと回想している[141]。金儀遠は、日本の朝鮮での鉄道・港湾・学校などのインフラ建設について搾取によるという主張があるが、朝鮮で徴収した税金は農地税程度で、日本政府が予算を使って建設したのが事実としている[142]。 | 朝鮮は植民地化によってあらゆる搾取(七奪)に甘んじ絶対的に窮乏化した(すなわち相対的に窮乏化したのではない)。植民地政策、特に土地調査事業によって大量の農民が土地を離れざるを得なくなった。多くの人々やその子孫たちを、中国、ロシア、日本などに移住させるという苦痛を負わせた[129]。産米増殖計画においては、日本内地への輸出ばかりが増大し小作農は窮乏化した。また、工業化によって日本の資本家(企業)は安価な労働力を確保し、土地・資源のみならず膨大な労働力を搾取した。朝鮮人による商品消費も日本資本または日本資本傘下の朝鮮人系企業に依存したため、朝鮮人は二重三重に搾取された[要出典]。朝鮮の植民地化によって、日本は莫大な利益を蓄積し、欧米の植民地宗主国に列する強国に成長した。マーク・R・ピーティは初代総督寺内正毅による朝鮮統治は武断政治で過酷であったとする[143]一方で、日本による土地調査や登録は「徹底的に正直なものであった」としている[144]。アンドレ・シュミットは日本の朝鮮支配は過酷であったとする[145]。 |
差別 | 経済的平等については併合直後の、日本内地と朝鮮半島の経済的な開発状況にはかなりの差があり、当初から日本は朝鮮半島に多大な投資を行ってその改善に努めた。その格差が大きかったため改善には多大な時間を必要とし併合期間が終了するまでに達成され得なかったが、経済水準の均衡化はかなりの改善をみた。(この時期の朝鮮半島に対する投資が東北地方の過小資本をよび東北地方の経済の遅れの原因となったという指摘がある)[要出典]。政治的平等については、朝鮮人に対しても内地に居住してさえおれば参政権・被参政権とも認められており(→1925年普通選挙法)衆議院選挙に参加することは可能であった。朴春琴の様に朝鮮人として衆議院議員に選出された事例もある。かつ、選挙権と徴兵の有無が多くの国で併せて考えられていたのと趣旨を同じくし、朝鮮半島に対しては徴兵が実施されなかったように、徴兵義務などの負担と選挙権などの政治的な権利の付与は、朝鮮半島の地理的な隔絶による選挙の困難性と併せて、ある程度の合理性のある区別が行われていたと見ることが可能であり、これらの事態をさして単純な差別と見ることはできない[要出典]。なお、太平洋戦争中には朝鮮に徴兵制がひかれるのが決まったのと平行して朝鮮の住民にも投票権が認められた(ただし、あくまでも制限選挙ではあった)。日中戦争から太平洋戦争にかけては日本内の戦時体制の強まりの結果として同化圧力も高まった[要出典]。この時期に創氏改名が行われているが、これは朝鮮人側から改名についての要望が当初のきっかけで、日本側はその要望に応えたのだから朝鮮人に非難されるいわれはない。また創氏改名も日本人名にすることを強制されたわけではなく、後の韓国大統領の朴正煕をはじめ改名は任意だった。第二次世界大戦中に、抗日運動がほとんど起きていないのは、ほとんどの朝鮮人が日本人になる道を受け入れ始めていたからである。そのことは朝鮮人の志願兵の多さからも傍証されうる。官公庁や軍においても朝鮮人の高官が存在したことは、形式的には差別が存在しなかったことの証左となる。また共産主義者の弾圧にしても朝鮮人のみならず日本人に対しても行われており、これも差別はなかった[要出典]。 | 日本人が朝鮮人を蔑視する象徴が創氏改名であり、これに応じない朝鮮人は、郵便物が配達されないなどにとどまらず、職や仕事を得られず生活できない事態にまで追い込まれるといった不利益を受けた。いわば社会的強制であった。地方では強制のためにしばしば官憲による暴行が横行した。日本の官憲と行政官とによる創氏改名の強要は日増しに強まり、第二次大戦中には抗日運動の一つも起こせないほど、官憲による弾圧が激しくなっていた。民族主義者の抗日運動は1920年代のうちに壊滅し共産主義者による運動のみが細々と残った。朝鮮に徴兵制が施行されなかったのは多くの植民地と同じく朝鮮人の反乱を恐れた為である。政治的平等については外地には選挙区が設置されず朝鮮から本国への議員選出は不可能だった。内地の選挙区から出馬すれば国政に参加出来るがそれには内地の住人からの支持を受ける必要があったので、朝鮮人の代議士が存在したとしても本国の傀儡としてあらかじめ選出されている候補に過ぎず、朝鮮の民意を国政へ反映させる事は制度的に不可能だった。外地の朝鮮人は国政への参政権を持たない代わり兵役の義務を負わなかったが労役の義務は負っていた。国政に関与出来た内地の日本人にとって国民徴用令に基づく労役は正当な義務だったが、関与できない外地の朝鮮人には不当だった。1945年4月の改正選挙法で外地からも国政に出馬出来る様になったが、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名と大きく制限されていた。官公庁や軍に朝鮮人が採用されても多くは下級職であり昇進の道は日本人と比較にならないほど狭かった。これらは総動員体制下で唱えられた一視同仁や内鮮一体などの美麗字句が単なる建前だった証拠である。朝鮮人への蔑視は継続して様々なメディアに現れており激化する一方だった。庶民の間では“(天皇)陛下の赤子に鮮人がなるなど畏れ多い”という差別思想が根強くあり、特に朝鮮において根強かった。この差別思想は総督府の支配政策にとって障害になるほど強固であり、朝鮮憲兵隊は本国に対して朝鮮に植民した日本人(本国にとっては棄民に近い扱いだった事情も介在する)が朝鮮人に蔑意をあらわにする実例を具体的に報告することで、日本人の差別意識が朝鮮人の民族意識を涵養しているという警告を再三に渡って送っている。 |
解放後 | 1945年(昭和20年)7月26日にポツダム宣言、8月6日に米国が広島市への原子爆弾投下を行った。8月8日にヤルタ会談の取り決めに基づきソ連が日本に対して宣戦布告。8月9日にソ連が満州に侵攻、米国が長崎市への原子爆弾投下を行った。日本は8月14日にポツダム宣言を受諾し、朝鮮半島を失った(カイロ宣言)。9月2日に降伏文書に調印する。北緯38度線以南を米国に、38度線以北をソ連に占領され、両国の軍政支配を受けた。その後、米ソ両国が朝鮮の信託統治実現を巡って決裂し、それぞれの支配地域で政府を樹立する準備を開始した結果、1948年(昭和23年)8月15日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁軍政下地域単独で大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立した。1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの約7年間、日本は連合国軍の占領下に置かれ、指導者などが裁かれた(極東国際軍事裁判)。1951年(昭和26年)9月8日に連合国諸国と日本との間に締結されたサンフランシスコ平和条約によって戦争状態の終了と日本の主権回復、朝鮮の独立を承認した。
北部では、行政のプロを対日協力者として公職追放したために、行政のノウハウがない状態で建国しなければならず、朝鮮戦争後にも金日成による相次ぐ粛清によって人材を失い正常な統治が不可能になった[要出典]。南部では、朝鮮戦争前には権力をめぐる抗争や共産主義者のゲリラ活動が激しく、朝鮮戦争後には李承晩政権のもとで経済的に停滞していた[要出典]。行政機構の機能不全は朝鮮人の施策によって引き起こされ、朝鮮戦争は金日成が戦争を仕掛けたことによって起きた[要出典]。日本が韓国併合の間に朝鮮半島に残した資産は当時の価値で52億ドル(約6千億円)で、膨大な資産が韓国に引き継がれた[146]。 1965年(昭和40年)に大韓民国と締結した日韓基本条約には過去の賠償責任問題については「完全かつ最終的に解決した」とする条文があり、同条約によって日本は朝鮮に投資した資本及び個別財産の全て(GHQ調査で52.5億ドル)を放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助した。大韓民国政府はその資金をインフラの整備に充て、戦時徴兵補償金は死亡者一人あたり30万ウォン(約2.24万円)を支払った[147]。 →詳細は「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照
|
南部では占領軍が朝鮮総督府が残した行政機構・行政官・警察官を用いた統治を継続しようとした。朝鮮人にとっては、解放の喜びに浸る間もなく対日協力者による統治が続くと映り、大きな反発を招き、ときには反乱が起きた。これは大韓民国政権担当者の座を巡る争いと密接に関連した。北部では朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府が対日協力者を徹底的に除去したため貧農および知識人層の支持を集め多数の越北者が出現したが、のちに粛清される者が多数出るなど失望させられる結果となった。日本帝国による植民地支配の結果、朝鮮半島は1945年(昭和20年)の解放と同時に分断された。日本は敗戦国であることから植民地統治の後始末にあたる責任から逃れることに成功した。朝鮮は朝鮮戦争という東西の代理戦争に巻き込まれ莫大な人的物的資源を失った。日本は朝鮮半島分断の原因となると共に、朝鮮半島分断により恩恵を蒙った。それゆえ日本は朝鮮半島の分断と朝鮮戦争に歴史的な責任を負う[要出典]。日本の植民地支配が悲劇の原因であるという認識を示す日本人もいる。北朝鮮は戦後の日本国の行為について謝罪と償いを求めており、1990年(平成2年)には金丸信を代表とする自民党・旧社会党・朝鮮労働党の三党間で「南北朝鮮分断後45年間についての補償」が約束された」[注釈 15]。日本国内の革新派・韓国内の左派ともに、日本政府が植民地支配被害者・戦争被害者に対して何らの対策もとらず「日韓基本条約締結によって日韓問題は全て解決済み」として一方的に現状を正当化しつづけてきたことの道義的責任、それによって被害を拡大したことの不作為責任を追及している[要出典]。 |
日韓基本条約による諸問題の清算
1965年(昭和40年)、日韓両国にて交わされた日韓基本条約において、1910年(明治43年)8月22日以前に両国において交わされたすべての条約、協定はもはや無効であることが「確認」され、日韓併合は無効化された。また、同条約において日本は巨額の資金協力(無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル、いずれも1965年当時額)を韓国に対して行い、それと引き換えに下記の点が確約された。
- 両締約国は、両締約国及びその国民(法人含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたとなることを確認する(個別請求権の問題解決)。
- 一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もできないものとする(相手国家に対する個別請求権の放棄)。
しかし、事後も韓国からの「賠償要求」は発生しつづけている(以下の#近況を参照)。
近況
2009年(平成21年)、韓国政府(外交通商部)は、強制動員労務者と軍人・軍属の不払い賃金訴訟にさいし、「(不払い賃金)は、請求権協定を通じて日本から受けとった無償の3億ドルに含まれているとしているため、日本政府に請求権を行使しにくい」という立場を公式に提示した[148][149]。なお韓国政府は太平洋戦争強制動員犠牲者支援法制定後、2008年(平成20年)から「人道的次元で苦痛を慰める」として不払い賃金被害者たちに1円あたり2000ウォンで換算し、慰労金を給付している。
2010年(平成22年)、菅直人首相は日韓併合100周年を記念して韓国に詫びる談話を発表したが、「謝罪」ではなく「お詫び」という表現を用いたため韓国側からの反発を買った[150]。また、菅はこの談話について、安倍晋三以外の日本国首相経験者から同意を得た[151]。
2010年(平成22年)8月13日、日本キリスト教協議会は、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」を発表し、日韓併合条約は「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であること、また独立運動(抗日パルチザン)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、また日本の統治は朝鮮半島に窮乏化をもたらし、そのため多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させたこと、また日本による統治のため、朝鮮半島が分断し、朝鮮戦争が起こったことなどを主張した上、日韓併合条約の無効化と日本政府による賠償、朝鮮半島の平和統一に向けた努力等を訴えた[129][152]。この主張は、2015年に和田春樹、林博史、内海愛子らが発起人となり、姜尚中、李成市らの賛意を得た「2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する」の声明で繰り返し訴えている[153]。
併合条約の合法性
日韓両国の見解
- 第二次世界大戦後の日本側は、韓国併合に関しては「韓国併合ニ関スル条約」の締結自体合法であったと考えている。
- 第二次世界大戦後に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国として成立した両政府とも、「韓国併合ニ関スル条約は大日本帝国と大韓帝国の間で違法に結ばれた条約であるとして、同条約とそれに関連する条約すべてが当初から違法・無効であり、日本による朝鮮領有にさかのぼってその統治すべても違法・無効である」と主張している。
この点について、日本国と大韓民国の間で1965年(昭和40年)の国交回復時に結ばれた日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)では、その条文第二条において「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とすることで合意に達した。しかし、両国でこの条文に関する解釈が異なっているなど、見解の相違が解決したわけではない。日本国政府は、この条約についての「もはや無効である」という表現は日本側の立場をいささかも損なうものではないと表明している。他方、韓国側ではこの日韓基本条約さえも無効とする勢力もある。
国際法からの観点
ケンブリッジ大学の国際法学者であるジェームズ・クロフォードは、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降のもので、当時としては問題になるものではない」としている[121]。
脚注
注釈
- ^ 今日の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に相当する地域。旧韓国、朝鮮国(李氏朝鮮)領域。間島については一部に領有権について主張がある。
- ^ 全体の構図から「漁夫の利」などと称されて紹介されることも多い。
- ^ 日韓議定書 第四条「第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ。而シテ大韓帝 国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事」
- ^ 「日省録」や「承政院日記」などの分析から高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする研究結果も、2001年(平成13年)にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた国際学術会議で出されている[45][46][47]。
- ^ a b 「ハーグ密使事件は皇帝の責任に属す ことはもちろんだが、統監府が未然に防止できなかったことは統監の迂闊を世界に公表したものである。しかも、これは統監一人の身にとどまらず、日本の名誉毀損・威厳の侮辱・信用の抹殺である」(大阪毎日新聞 1907年7月16日の社説)[48]
- ^ 火田民も参照。
- ^ 李氏朝鮮時代も土地売買は可能であり経国大典(1460年)や続大典(1744年)で届出制を規定していたが、これら官許方式は衰退し民間同士での私的売買が横行しており公証機能が衰退していた。『最新韓国実業指針』岩永重華(宝文館明治37年)や雑誌『韓半島』第2年2号(明治35年)などは朝鮮末期の不動産売買や制度の混乱について記録している。
- ^ 近年韓国の公共放送・KBSはこの呼称に統一しようとしている。
- ^ 朝鮮総督府官制により、内閣総理大臣を経て天皇に直奏すれば良いとされていた。統治権は朝鮮総督府が総攬しており、「協力的朝鮮人」や朝鮮在住日本内地人においても朝鮮での参政権は付与されなかった(ただし1931年(昭和6年)から地方議会開設)。朝鮮総督府は独自の立法権(課税権を含む)と限定的な課罰権を付与されていたが(朝鮮総督府官制4条)、その他は内地の帝国議会による立法その他が適用された。内地の行政庁は朝鮮総督府への指揮権限を持たないとされていたが、実務においては拓務省や内務省、あるいは陸海軍省など内地行政機関の依命通牒(直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書)に従うことが多かった。
- ^ 参政権については内地に居住していれば内地戸籍者と同等であった。しかし徴兵に関する義務(徴兵に応ずる権利)や朝鮮籍女性が米国人や中国人など第三国国籍の男性と結婚して日本国籍を離脱する権利などが制限されていた(規定が存在しなかった)。
- ^ 後述。高麗大学名誉教授・政治学者韓昇助の事例など。
- ^ 名誉毀損及び外患煽動の容疑で逮捕されたり、国会傍聴中や裁判において暴行される(暴行犯の朴琦緖は英雄とされ逮捕もされていない)などの被害に遭っており、身の安全のため住所すら公表していない。
- ^ 金星出版社の教科書を批判して2008年に出版された教科書フォーラム編集の教科書。
- ^ 崔文衡は2010年夏に刊行した『韓国近代の世界史的理解』(知識産業社)でも、「世界史のなかの韓国史」を提唱している。
- ^ 3党共同宣言ともいわれるが、金丸訪朝団の議事録が公開されていないが故に内実はわからない。項目金丸信を参照。
出典
- ^ a b c 『日本之朝鮮』有楽社、1911年1月 。
- ^ a b 韓日合邦を要求する声明書
- ^ a b c “日韓併合の真実 | 日本人が知ってはならない歴史 | Real Japan”. web.archive.org (2021年6月25日). 2022年7月31日閲覧。
- ^ 『日韓合邦秘史』 黒竜会出版部
- ^ 岡本隆司『属国と自主のあいだ 近代清韓関係と東アジアの命運』名古屋大学出版会、2004年10月。ISBN 4-8158-0494-X。
- ^ 19世紀後半の東アジアにおける朝鮮と日本 東京大学大学院総合文化研究科教授 月脚達彦 (PDF)
- ^ アジア歴史資料センター 2. 開戦:日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告
- ^ a b “2. 開戦:日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告”. アジア歴史資料センター. 2021年10月24日閲覧。 “興宣大院君による新政府の成立を果たした日本政府は、牙山に駐屯する清国軍を朝鮮政府に代わって退去させてほしいとの要請を、間もなく興宣大院君から受けます(→関係公文書⑬)”
- ^ “描かれた日清戦争 ~錦絵・年画と公文書~”. アジア歴史資料センター. 2021年8月28日閲覧。 “7月23日未明、大鳥公使の指令を受け、漢城郊外の龍山にあった大島義昌陸軍少将率いる混成旅団が漢城に入りました……王宮は日本軍の占領下に置かれました。”
- ^ 塩島仁吉『日清戦史. 第1-4巻』経済雑誌社、1895年、31-32頁 。
- ^ “7月23日 大鳥公使発 陸奥大臣宛 朝鮮政府本使が通信に述べたる 第2の要求に不満足云々”. 明治27年7月~8月 「着電綴(三)」. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年10月24日閲覧。
- ^ “日本守備隊の駐剳〔37・38画像目〕”. 韓国京城駐剳隊歴史 明治15.8.30~36.2.12. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年10月24日閲覧。
- ^ “2. 開戦:日清の朝鮮への出兵と戦闘の始まり~宣戦布告”. アジア歴史資料センター. 2021年10月30日閲覧。 “王宮は日本軍の占領下に置かれました。国王高宗はこの戦闘中に身を隠していたところを日本兵に発見されてその身を確保され、また一方の興宣大院君は戦闘が終了した後に日本軍の護衛の下で王宮に入りました。”
- ^ 田保橋潔『近代日鮮関係の研究(下巻)』朝鮮総督府中枢院、1940年、443頁 。「七月二十三日午前政変後戚臣以下多く逃亡して、景福宮は国王及び少数の宗臣・近臣を残留して、殆ど空虚に帰したが……既に日本国公使が兵力によって戚族を廟堂より駆逐し、大院君を首脳とした新政権を樹立した以上、国王・王妃の好む好まぬに関せず、廟堂を改造し、内政改革に着手せざるを得ない。」
- ^ 塩島仁吉『日清戦史. 第1-4巻』経済雑誌社、1895年、33-34頁 。
- ^ 田保橋潔『近代日鮮関係の研究(下巻)』朝鮮総督府中枢院、1940年、445頁 。「杉村書記官は大院君が既に古稀の齢に達し、時勢に通ぜず、徒らに私見を主張して、政務を渋滞せしめるのを見て、早くも金弘集を以て之に代へようとし、其領議政任命を要した。大院君も之に従ひ、七月二十五日領議政金炳始の辞職を待ち、金弘集を後任とした。」
- ^ 田保橋潔『近代日鮮関係の研究(下巻)』朝鮮総督府中枢院、1940年、447-449頁。「大鳥公使は七月二十三日政変が一段落告げると共に、清韓宗属関係の廃棄に注意し、七月二十五日景福宮に於て、大院君及び督弁趙督弁趙秉稷に会見し、明治二十七年七月二十日最後通牒の趣旨に従ひ、中朝商民水陸貿易章程の廃棄を宣言し、並に朝鮮国駐留清国軍の駆逐を請求する件について協議した。然るに大院君、趙秉稷共に将来清より報復懲戒を加へられることを恐怖して、躊躇決することが出来ない。最後に大鳥公使の強硬な要求に屈して承諾し、同日清代理交渉通商事宜唐紹儀に清韓通商三章程破棄を通告したが、清兵駆逐に関する大鳥公使宛照会は頗る不満足のものであった……朝鮮国内駐留清国軍の駆逐については、統理衙門照会の内容が頗る不満足なため、大鳥公使より修正を要求したが、督弁は容易に同意を与へない。けれども形式的には朝鮮国政府が日本国公使に清兵駆逐を依頼したと見るも支障がないので、大鳥公使は七月二十六日混成旅団長大島陸軍少将に左の如く通告した。 在牙山清兵ヲ撤回セシムル儀に付キ、昨二十五日朝鮮政府ヨリ、外務督弁ノ記名調印ヲ以テ、右取計方代弁ノ依頼有之候間、御承知ノ上、可然御取計相成度此段申進候也。明治二十七年七月二十六日 特命全権公使大鳥圭介 大島陸軍少将は既に前日二十五日混成旅団の主力を率ゐて南下の途に就き、又仁川水道豊島沖に於ては、日清両国艦隊既に戦闘を開始したので、此照会の修正は問題外となったのである。」
- ^ a b 徐賢燮「ロシア資料から見た駐露公使李範晋の自決」『研究紀要』第9号、長崎県立大学、2008年、215-228頁、ISSN 1346-6372、NAID 120005474855。
- ^ アジア歴史資料センター 小村ウェーバー協定
- ^ 第一銀行五十年小史 P.79-80 長谷井千代松 1926年8月5日
- ^ (18) 露國의 絶影島 貯炭庫 設置問題 一件書類 韓国史データベース
- ^ 韓国サロン 近代篇 8. 民衆運動 >Ⅰ. 東學·獨立協會·其他 諸團 > 2 韓国史データベース
- ^ 近代朝鮮におけるナショナリズムと「シンボル」の機能に関する一考察 ― 独立協会の活動と独立門をめぐって(1896-1899)金容賛
- ^ アジア歴史資料センター 「標題:1 明治30年7月20日から明治30年9月21日」(レファレンスコード:B03050002800)P15
- ^ 京都大学 「<批評・紹介>宮嶋博史著 朝鮮土地調査事業史の研究」 吉野誠
- ^ 백동화의 종류(1902. 7.) 韓国史データベース
- ^ 韓国経営 P.62-63 加藤政之助 1905年
- ^ a b 機密第九一號 白銅貨鑄造特許證ノ眞僞ニ關スル件 韓国史データベース
- ^ 機密送第三七號 兪吉濬ノ陰謀ニ關スル件 韓国史データベース
- ^ 金亨燮大佐回顧録 金亨燮 1930年
- ^ 藤村道生, 「韓国侍従武官からみた日本の韓国併合 : 『魚潭少将回顧録』より「韓国末期の外交秘話」」『九州工業大学研究報告. 人文・社会科学』 21号 p.15-56 1973年, NAID 110000151831, ISSN 0453-0349
- ^ ‘啓’ 자를 위조하여 默鑄를 하려던 범인들의 체포(1901. 5. 9.) 韓国史データベース
- ^ ‘啓’ 자를 위조한 전 정위 홍병진이 체포되어 絞刑 선고를 받음(1902. 5. 8.) 韓国史データベース
- ^ a b c 第一銀行五十年小史 P.89-90 長谷井千代松 1926年
- ^ 最新韓国事情 : 一名・韓国経済指針 P.329-330 岡庸一 1903年
- ^ 백동화 가치 하락에 대한 일본 상인의 대응(1902.) 韓国史データベース
- ^ 最新韓国事情 : 一名・韓国経済指針 P.458-460 岡庸一 1903年
- ^ 韓国経営 P.64 加藤政之助 1905年
- ^ 徳富猪一郎 編『公爵桂太郎伝. 乾巻』故桂公爵記念事業会、1917年、995-996頁 。
- ^ 李泰鎮「韓国近現代史認識の歪曲と錯乱」 - 都留文科大学
- ^ 片山慶隆, 「韓国保護国化をめぐる国際関係史1902-05 : イギリスの対韓・対日政策を中心として」 ワーキングペーパー 21世紀COEプログラム 『CNER Discussion Paper ; No.008』 p.19, 2005年, Centre for New European Research, 21st Century COE Programme, Hitotsubashi University.
- ^ 外務省外交資料「桂・タフト覚書」Q&A
- ^ 「1907年(明治40年)に日本とフランスの間に締結された条約について教えてください。」(外務省外交史料館 ) - レファレンス協同データベース
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件附在韓各国公使館撤廃ノ件」519頁「ニ五〇 韓国保護権確立ノ件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月1日閲覧。
- ^ 原田環 著「「京城は差別語だ」と言われたら」、鄭大均、古田博司 編『韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30』文藝春秋〈文春新書〉、2006年8月、261-278頁。ISBN 4-16-660520-8。)
- ^ 邊英浩「翻訳 李泰鎮「1905年の『保護条約』に対する高宗皇帝の協商指示説批判」(上)」『都留文科大学研究紀要』第66巻、都留文科大学、2007年、153-169頁、ISSN 02863774、NAID 110007055978。
- ^ 原田環 第2次日韓協約をめぐる大韓帝国の動向 [1]
- ^ 片山慶隆、「ハーグ密使事件と日本の新聞報道 : 「事件」発生から第三次日韓協約締結まで」『マス・コミュニケーション研究』 2015年 86巻 p.161-180, doi:10.24460/mscom.86.0_161
- ^ 平田賢一、「<ノート>「朝鮮併合」と日本の世論」 『史林』 1974年 57巻 3号 p.453-473, doi:[https://doi.org/10.14989%2Fshirin_57_453 10.14989/shirin_57_453
- ^ “小村外交史(下巻)”. 日本外交文書デジタルコレクション. 外務省外交史料館 (1953年). 2021年8月28日閲覧。 “第十章第二節第四款 韓国併合の決行 ……曾禰の統監陞任の内議ありし頃、小村はもはや予め韓国問題に関する今後の大方針を確立し置くの要ありと認め、私に倉知政務局長に要旨を授けて意見書を起草せしめ、その成案に更に自ら加筆の上、対韓大方針及び施政大綱の二編として同四十二年三月三十日を以て之を首相桂に提出した。其の要旨は、先づ対韓方針に於て……第一 適当の時期に於て韓国の併合を断行すること”
- ^ “小村外交史(下巻)”. 日本外交文書デジタルコレクション. 外務省外交史料館. pp. 378‐379 (1953年). 2021年8月28日閲覧。 “小村の対韓案については、桂は公然同意を表したので、小村と桂は追ってこれを閣議に諮るに先だち、当時なお統監の職にあった伊藤と予め熟議を遂げ置かんと欲し、四十二年四月十日相携えて伊藤を訪い、交々意見を述べた。その際伊藤から多少異議が出るであろうと予想していた小村と桂は、伊藤が即座に同意を表したのにはやゝ意外の感に打たれた。勿論当日は極めて大体の意見交換に過ぎなかったが、伊藤が大体に於て併合の早晩已むべからざることを当日容認したのは事実である。”
- ^ 麻田雅文「日露関係から見た伊藤博文暗殺 : 両国関係の危機と克服」『東北アジア研究』第16号、東北大学東北アジア研究センター、2012年、1-25頁、ISSN 1343-9332、NAID 40019254966。
- ^ 海野福寿『伊藤博文と韓国併合』 青木書店
- ^ a b p95 大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
- ^ p95,96 李榮薫『大韓民国の物語 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
- ^ “ソウル大教授「日本による収奪論は作られた神話」” (日本語). Chosun Online (朝鮮日報). (2004年11月20日). オリジナルの2007年7月17日時点におけるアーカイブ。 2011年11月13日閲覧。
- ^ 山本(1992)、pp. 212-214
- ^ 朴(1993)、p. 24
- ^ 水間政憲『ひと目でわかる日韓併合時代の真実』 [要ページ番号]
- ^ 呉善花『日韓併合への道 完全版』 [要ページ番号]
- ^ 「植民地」なる用語への評価としてはたとえば(植民地の)此文字の我國で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、外國の政治、經濟や、植民に關した學説の輸入されて以來であらう。其れ故新しい教育を受けた青年は兎に角、明治以前の空氣に多く包まれた人の頭には、植民地と云ふ文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。隨て、植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた處で、
虻 が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは、二十七八年、三十七八年に於ける、二大戰役の賜物で、此戰役以前、新領土といふ文字は、あまり繰返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先づ植民的知識をいへば、其は北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本國民に、植民の意味を、朧氣ながらも、先づ教へた處の鐘の音であるのである。—全國新聞東京聯合社編、『日本植民地要覧』日本経済新誌社、1912年11月、p.2 - ^ a b 矢内原(1926)、pp. 17-25
- ^ アジア歴史資料センター レファレンスコード A03020333600
- ^ アジア歴史資料センター レファレンスコード A03021876600
- ^ アジア歴史資料センター レファレンスコード A03021789000
- ^ a b 『帝国議会会議録』[要ページ番号]
- ^ 『国会会議録』[要ページ番号]
- ^ アジア歴史資料センター リファレンスコードB03041709500
- ^ 新動中静観 P.190 茅原華山 1913年
- ^ 暗雲録 P.157-158 福田徳三 1920年
- ^ 昭和十六・七年版 朝鮮經濟年報 P.13-14 全国経済調査機関連合会朝鮮支部 1943年
- ^ “第189回国会 村山内閣総理大臣談話に関する質問主意書”. 参議院. 2021年11月6日閲覧。
- ^ 朝鮮日報 2004年3月11日『IPI「韓国は今も言論弾圧国」』記事
- ^ 朝鮮日報 2002年11月24日「IPI 韓国を引き続き言論監視対象国に」記事
- ^ 金完燮「親日派への弁明」 [要ページ番号]
- ^ 『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』(2009 永島広紀 訳 文藝春秋)ほか
- ^ 崔(2007)[要ページ番号]
- ^ 鍛冶俊樹 (2010年8月28日). “【日韓併合談話】日本の謝罪などいらない 韓国保守派の嘆きと憤慨”. MSN産経ニュース (産経新聞). オリジナルの2010年8月29日時点におけるアーカイブ。 2011年11月13日閲覧。
- ^ 朴贊雄『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』草思社、2010年9月。ISBN 978-4-7942-1775-2 。[要ページ番号]
- ^ 黒田勝弘 (2011年11月16日). “教科書は問題にならない?”. 産経新聞. オリジナルの2011年11月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 朝鮮日報2010年8月15日記事
- ^ 崔文衡『日露戦争の世界史 』藤原書店
- ^ 韓昇助「共産主義・左派思想に根差す親日派断罪の愚 韓日合併を再評価せよ」『正論』2005年4月号
- ^ 朝鮮日報2005年3月7日「韓昇助氏が高麗大学名誉教授職を辞任」
- ^ 「日本は朝鮮人を満州に追い出して韓半島に住もうとした」 中央日報 2009.06.10
- ^ “李登輝台湾元総統単独インタビュー(3)”. 時局信和會 (2012年4月26日). 2020年8月7日閲覧。
- ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、144頁。ISBN 978-4594042158。
- ^ a b 鄭大均 (2019年). “松本厚治 著『韓国「反日主義」の起源』”. 歴史認識問題研究 (モラロジー研究所歴史研究室): p. -144-147. オリジナルの2021年10月3日時点におけるアーカイブ。
- ^ 木村光彦 (2018-04-25). 日本統治下の朝鮮. 中央公論新社. p. 202
- ^ 姜尚中・ダニ・オルバフ (2019年9月27日). “台湾は親日的なのに、韓国が反日的なのはなぜか? 明治初期の「バグ」が一因に”. AERA. オリジナルの2019年9月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ 姜尚中・ダニ・オルバフ (2019年9月27日). “台湾は親日的なのに、韓国が反日的なのはなぜか? 明治初期の「バグ」が一因に”. AERA. オリジナルの2019年9月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ 平井敏晴 (2021年3月19日). “韓国が日本に反発するのは、王朝があったから?”. JBpress (日本ビジネスプレス). オリジナルの2021年3月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ 平井敏晴 (2021年3月19日). “韓国が日本に反発するのは、王朝があったから?”. JBpress (日本ビジネスプレス). オリジナルの2021年3月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ 平井敏晴 (2021年3月19日). “韓国が日本に反発するのは、王朝があったから?”. JBpress (日本ビジネスプレス). オリジナルの2021年3月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ 平井敏晴 (2021年3月19日). “韓国が日本に反発するのは、王朝があったから?”. JBpress (日本ビジネスプレス). オリジナルの2021年3月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 中兼和津次. “日中関係学会研究会(2019年11月28日)講演者:中兼和津次先生(東京大学名誉教授、東洋文庫研究員)” (PDF). 日中関係学会. p. 6-7. オリジナルの2021年9月24日時点におけるアーカイブ。
- ^ 松本厚治『韓国「反日主義」の起源』草思社、2019年2月27日、221-264頁。ISBN 4794223870。
- ^ a b 中川雅彦 (2007年2月). “386世代論” (PDF). 海外研究員レポート (アジア経済研究所): p. 5. オリジナルの2013年1月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “이영훈 서울대 명예교수, “자본주의 맹아론은 대한민국 부정으로 이어지는 주장””. 月刊朝鮮. (2017年3月31日). オリジナルの2017年4月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b エッカート(2004)[要ページ番号]
- ^ a b Haggard S.; Kang D.; Moon C.-I. (6 1997). “Japanese Colonialism and Korean Development: A Critique”. World Development (Elsevier): pp. 867-881. doi:10.1016/S0305-750X(97)00012-0.
- ^ a b 財団法人 日韓文化交流基金 日韓歴史共同研究委員会 第2期(2007-2010年) 報告書 教科書小グループ篇 木村幹. “日韓両国における歴史観と近代、そして近代的法秩序” (PDF). p. 306. 2011年11月13日閲覧。
- ^ “朝鮮人移住対策ノ件”. 内閣. 国立国会図書館 (1934年10月30日). 2020年10月11日閲覧。
- ^ Isabel Anderson, "The Spell of Japan", Boston, 1914.
- ^ a b カーター・エッカート 『日本帝国の申し子』草思社、2004年
- ^ 『近代朝鮮工業化の研究』(1993 中村哲・安秉直編 日本評論社)
- ^ 中村哲、安秉直、梶村秀樹共著『朝鮮近代の経済構造』日本評論社 1990年
- ^ 『大韓民国の物語』2009文藝春秋
- ^ 『日韓併合の真実 韓国史家の証言』 ビジネス社、2003、2014年『韓国がタブーにする日韓併合の真実』改題。
- ^ 「韓国北朝鮮の嘘を見破る」文春新書。p61-70.林廣茂「幻の三中井百貨店」晩聲社
- ^ 『朝鮮における資本主義の形成と展開』龍溪書舎、1977年
- ^ 姜在彦『朝鮮の開化思想』明石書店〈姜在彦著作選 第3巻〉、1996年5月。ISBN 4-7503-0816-1。[要ページ番号]
- ^ a b 金完燮「親日派への弁明」
- ^ 崔文衡『日露戦争の世界史 』藤原書店。
- ^ 『正論』2005年4月号
- ^ 『朝鮮の政治社会』サイマル出版会。呉善花「韓国併合への道」平成12年、p193
- ^ 産経新聞2015.11.20「日韓併合は日本の侵略・収奪ではない…韓国や左翼言論人の捏造に反論、呉善花教授の講演で“目からうろこ”」
- ^ 河合秀和『チャーチル 増補版』中公新書530、1998年、p318
- ^ 関榮次『チャーチルが愛した日本』PHP新書、2008年、p152、1932年12月17日の「コリアーズ」誌掲載の論文「太平洋における防衛」
- ^ 「韓国北朝鮮の嘘を見破る」文春新書。p90-91.
- ^ a b 黒田勝弘 (2001年11月27日). “英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず 韓国主張崩れる”. 産経新聞[リンク切れ]
- ^ 「「日本外交文書」38巻1冊、p502
- ^ 「韓国北朝鮮の嘘を見破る」文春新書。p87-88.
- ^ 海野福寿「韓国併合条約等旧条約無効=日本の「不法な」植民地支配論をめぐって」『駿台史学』第112号、明治大学史学地理学会、2001年、91-107頁、ISSN 05625955、NAID 120001438987。
- ^ 「日韓間の諸条約の問題―国際法学の観点から」2005、日韓歴史共同研究報告書
- ^ 海野、坂元の主張の要約は「韓国北朝鮮の嘘を見破る」文春新書。p91-92.
- ^ 「韓国北朝鮮の嘘を見破る」文春新書。p92.
- ^ 原田環「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」「青丘学術論集」24、2004.「韓国北朝鮮の嘘を見破る」文春新書。p93-94
- ^ a b c d “韓国強制併合100年日韓NCC共同声明書”. 日本キリスト教協議会(NCC). 2010年10月12日閲覧。
- ^ 日韓歴史共同研究報告書 日韓間の諸条約の問題―国際法学の観点から 坂元茂樹 著
- ^ Francis Ray, "La Situation Internationale de la Coree", Revue General de Droit International Public, Tome XIII, 1906, pp.40-58.
- ^ 国連 ILC1963年総会宛報告書:UN Document:-A/CN.4/163, Yearbook of the International LawCommission: 1963, vol.II, p. 139. UN Doc.
- ^ 「世界」1998年7月号、岩波書店、p305-308.「世界」1998年8月号、岩波書店、p187-189
- ^ 韓国併合 (岩波新書) [新書]海野 福寿 (著) 1995
- ^ 2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する
- ^ 【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 史実書きかえは韓国の方が困る. 産経新聞. (2010-08-16)
- ^ a b c d アキタ パーマー「日本の朝鮮統治を検証する」草思社p84-85.Wonmo Dong(童元摸),Japanese Colonial Policy and Practice in Korea.Table37,p341
- ^ ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー「日本の朝鮮統治を検証する」草思社p173
- ^ アキタ パーマー「日本の朝鮮統治を検証する」草思社p93.原書はヒルディ・カン、Under the Black Umbella.邦訳:「黒い傘の下で」ブルースインターアクションズ (2006)
- ^ 産経新聞2010年8月28日
- ^ 朴贊雄 『日本統治時代を肯定的に理解する』草思社、2010年
- ^ 中央日報 2009.06.10
- ^ The Japanese Colonial Empire,1984.Princeton University Press.アキタ・パーマー「日本の朝鮮統治を検証する」草思社p32.マーク・ピーティー「植民地―帝国50年の興亡 (20世紀の日本) 」読売新聞社 1996
- ^ アキタ・パーマー「日本の朝鮮統治を検証する」草思社p34
- ^ アキタ・パーマー「日本の朝鮮統治を検証する」草思社p35-6.Colonialization and the Korean Problem in the Historiography of Modern Japan,The Journal of Aisan Studies,vol59,No4,Nov.2000.アンドレ・シュミット『帝国のはざまで』は翻訳がある名古屋大学出版会 (2007)
- ^ るり子, 久保田 (2021年11月27日). “【久保田るり子の朝鮮半島ウオッチ】日本が残した資産「帰属財産研究」 韓国学者の執念、反日史観に挑む”. 産経ニュース. 2022年7月9日閲覧。
- ^ 文京洙『韓国現代史』岩波書店〈岩波新書〉、2005年12月、111頁。ISBN 4-00-430984-0。
- ^ “日帝徴用被害者不払い賃金、日本に請求権行使難しい” (日本語). 中央日報 (中央日報). (2009年8月15日) 2011年11月13日閲覧。
- ^ 黒田勝弘 (2009年8月16日). “対日補償要求は終了 韓国政府が公式見解”. MSN産経ニュース (産経新聞). オリジナルの2010年10月20日時点におけるアーカイブ。 2011年11月13日閲覧。
- ^ 支持率最悪の野田首相、外交で賭け…書簡返送と受け取り拒否 中央日報 2012年8月24日
- ^ 中央日報 2014年08月13日10時22分 【コラム】「複合骨折」の韓日関係(1)
- ^ “韓日キリスト教会が共同声明、歴史清算訴え” (日本語). 聯合ニュース (聯合ニュース). (2010年8月13日) 2010年8月13日閲覧。
- ^ 2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する
参考文献
- 浅野豊美『帝国日本の植民地法制―法域統合と帝国秩序』名古屋大学出版会、2008年2月。ISBN 4-815-80585-7。
- 伊藤之雄、李盛煥編著『伊藤博文と韓国統治 初代韓国統監をめぐる百年目の検証』ミネルヴァ書房〈人と文化の探究 6〉、2009年6月30日。ISBN 978-4-623-05439-8。
- 伊藤之雄『伊藤博文をめぐる日韓関係 韓国統治の夢と挫折、1905~1921』ミネルヴァ書房、2011年9月30日。ISBN 978-4-623-06120-4。
- 海野福寿『韓国併合』岩波書店〈岩波新書〉、1995年5月。ISBN 4-00-430388-5。
- 海野福寿 編『日韓協約と韓国併合――朝鮮植民地支配の合法性を問う』明石書店、1995年6月。ISBN 4-7503-0704-1。
- 海野福寿『韓国併合史の研究』岩波書店、2000年11月。ISBN 4-00-002846-4。
- 海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004年6月。ISBN 4-250-20414-6。
- カーター・エッカート『日本帝国の申し子――高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876-1945』小谷まさ代訳、草思社、2004年1月。ISBN 4-7942-1275-5。
- 呉善花『韓国併合への道』文藝春秋〈文春新書〉、2000年1月。ISBN 4-16-660086-9。
- 呉善花『韓国併合への道』(完全版)文藝春秋〈文春新書870〉、2012年7月20日。ISBN 978-4-16-660870-6。
- 小川原宏幸『伊藤博文の韓国併合構想と朝鮮社会 王権論の相克』岩波書店、2010年1月27日。ISBN 978-4-00-022179-5。
- 春畝公追頌会 編『伊藤博文伝』 上・中・下巻、春畝公追頌会、1940年。
- 杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究 日本支配36年 謝罪するいわれは何もない』展転社、2002年6月。ISBN 4-88656-214-0。
- 崔基鎬『日韓併合の真実――韓国史家の証言』ビジネス社、2003年9月。ISBN 4-8284-1068-6。
- 崔基鎬『日韓併合――韓民族を救った「日帝36年」の真実 歴史再検証』祥伝社、2004年9月。ISBN 4-396-61227-3。
- 崔基鎬『日韓併合――歴史再検証 韓民族を救った「日帝36年」の真実』祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2007年7月。ISBN 978-4-396-31435-4。
- 鄭大均、古田博司 編『韓国・北朝鮮の嘘を見破る――近現代史の争点30』文藝春秋〈文春新書〉、2006年8月。ISBN 4-16-660520-8。
- 釋尾春芿『朝鮮併合史 一名朝鮮最近史』宮本正明(復刻版)、オークラ情報サービス、2007年12月。ISBN 978-4-903824-67-3。 - 「朝鮮及満州社」版(1926年刊)の複製。
- 朴泰赫『醜い韓国人 われわれは「日帝支配」を叫びすぎる』光文社〈カッパ・ブックス〉、1993年3月。ISBN 4-334-00532-2。
- 藤井賢二「第1次日韓会談における「旧条約無効問題」について」『東洋史訪』第15号、史訪会、2009年3月、76-84頁、ISSN 1346-6917。
- 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年7月。ISBN 9784255004853。
- 水間政憲『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実――韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』徳間書店、2010年7月。ISBN 978-4-19-862990-8。
- 矢内原忠雄『植民及植民政策』有斐閣、1926年6月15日。NDLJP:982912。
- 山本有造『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会、1992年2月。ISBN 4-8158-0174-6。
- 吉田光男編著 編『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学教育振興会〈放送大学教材〉、2004年3月。ISBN 4-595-23759-6。
- アレン アイルランド 著、桜の花出版編集部編集 編『THE NEW KOREA―朝鮮(コリア)が劇的に豊かになった時代(とき)日英対訳』桜の花出版、2013年8月。ISBN 978-4434181818。
関連項目
- 韓国併合再検討国際会議
- 国家の独立における白紙の原則
- 条約に関する国家承継に関するウィーン条約
- 朝鮮の歴史観 - 歴史教科書問題
- 日本統治時代の朝鮮
- 日本の戦争賠償と戦後補償
- 韓日合邦を要求する声明書