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'''水田 三喜男'''(みずた みきお、[[1905年]][[4月13日]] - [[1976年]][[12月22日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[城西大学]]創立者。[[自由民主党政務調査会|自由民主党政務調査会長]](初代)。[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]を数度にわたり務めたほか、[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済審議庁長官]]や[[経済産業大臣|通商産業大臣]]など[[経済]][[国務大臣|閣僚]]を歴任した。[[戦後]]日本の代表的な[[財政家]]でもある。 |
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[[1953年]]、[[第4次吉田内閣]]で[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済審議庁長官]]として初入閣。[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]では何度も政調会長に選ばれ、義理人情の党人派が多い[[大野伴睦]]派にあって政策通として活躍。[[保守合同]]直後の[[1955年]]に[[自由民主党 (日本)|自民党]]の党三役の一つである初代[[自由民主党政務調査会長|政調会長]]に就任。[[1956年]]と[[1957年]]の[[石橋内閣]]で[[経済産業大臣|通商産業大臣]]、[[産業計画会議]]委員(議長・[[松永安左ヱ門]])に就任。[[1957年]]の[[第1次岸内閣]]でも通産相を務める。 |
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[[1960年]]、第1次[[池田勇人]]内閣で[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]に就任。[[積極財政]]論者として池田の[[所得倍増政策]]に共鳴し、推進役となる。 |
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第2次池田内閣で引き続き留任し、輸入増大に伴う[[国際収支]]の悪化を防ぐべく、財政・金融の引き締めを行った<ref>[https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/fim/19620119.SYJ.html 1962年1月19日の演説 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室]</ref>。 |
第2次池田内閣で引き続き留任し、輸入増大に伴う[[国際収支]]の悪化を防ぐべく、財政・金融の引き締めを行った<ref>[https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/fim/19620119.SYJ.html 1962年1月19日の演説 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室]</ref>。 |
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2023年1月7日 (土) 06:20時点における版
水田 三喜男 みずた みきお | |
---|---|
1962年頃に撮影 | |
生年月日 | 1905年4月13日 |
出生地 |
日本 千葉県安房郡曽呂村 (現千葉県鴨川市) |
没年月日 | 1976年12月22日(71歳没) |
死没地 | 日本 東京都文京区 |
出身校 |
京都帝国大学法学部 (現:京都大学法学部) |
前職 | 大同石油取締役 |
所属政党 |
(日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章 |
子女 | 次女・水田宗子 |
親族 | 父・水田信太郎(曽呂村長) |
第65-66・71-72・75代 大蔵大臣 | |
内閣 |
第1次池田内閣 第2次池田内閣 第2次池田第1次改造内閣 第1次佐藤第3次改造内閣 第2次佐藤内閣 第2次佐藤第1次改造内閣 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 |
1960年7月19日 - 1962年7月18日 1966年12月3日 - 1968年11月30日 1971年7月5日 - 1972年7月7日 |
第13-14代 通商産業大臣 | |
内閣 |
石橋内閣 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日 |
第5代 経済審議庁長官 | |
内閣 | 第4次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年3月3日 - 1953年5月21日 |
選挙区 |
(千葉県全県区→) 旧千葉3区 |
当選回数 | 13回 |
在任期間 | 1946年4月11日 - 1976年12月22日 |
その他の職歴 | |
第22代 自由民主党政務調査会長 (総裁: 田中角栄) (1973年 - 1974年) | |
第14代 自由民主党政務調査会長 (総裁: 佐藤栄作) (1966年 - 1966年) | |
初代 自由民主党政務調査会長 (総裁: 鳩山一郎) (1955年 - 1956年) |
水田 三喜男(みずた みきお、1905年4月13日 - 1976年12月22日)は、日本の政治家。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度にわたり務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家でもある。
来歴・人物
千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐(現在の香川県)の地から移住してきた家系とされる。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長を務めた。旧運輸事務次官と日本航空副社長を務めた町田直は妻の実弟である。実家は、旧水田家住宅として保存されている。
旧制安房中学校(現・千葉県立安房高等学校)、旧制水戸高等学校(茨城大学の前身校)を経て、京都帝国大学法学部に入学。瀧川幸辰(後、京大総長)の刑法や竹田省の手形法、宮本英脩の刑事訴訟法などを学ぶ[1]。学生時代はマルクスボーイで、柔道5段、剣道3段の腕前から当時京大教授の河上肇のボディーガードを買って出て、1度ならず検挙された。
1931年卒業後は、東京市職員を振り出しに、専修大学講師、北越石油監査役、日本鋼板常務、大同石油取締役を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に当選した[2]、以後13回連続当選を果たす。
1953年、第4次吉田内閣で経済審議庁長官として初入閣。自由党では何度も政調会長に選ばれ、義理人情の党人派が多い大野伴睦派にあって政策通として活躍。保守合同直後の1955年に自民党の党三役の一つである初代政調会長に就任。1956年と1957年の石橋内閣で通商産業大臣、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任。1957年の第1次岸内閣でも通産相を務める。
1960年、第1次池田勇人内閣で大蔵大臣に就任。積極財政論者として池田の所得倍増政策に共鳴し、推進役となる。
第2次池田内閣で引き続き留任し、輸入増大に伴う国際収支の悪化を防ぐべく、財政・金融の引き締めを行った[3]。 続く佐藤栄作政権では第1次~第3次内閣に渡って福田赳夫と交互に蔵相を務めた[4]。1967年8月には、ロンドンで開催された先進10か国蔵相会議に出席。帰国直後からは公定歩合の引き上げなど景気抑制策に乗り出した[5]。
福田と並んで言わば日本の高度経済成長期を象徴する財政家の一人であった。殊に佐藤栄作政権末期に起こった、いわゆるニクソン・ショックでは為替相場安定に腐心し、変動相場制へと動く過渡期の国際金融情勢下で日本の財政を舵取りした人物として知られる。
大野の死後、大野派(睦政会)が船田中派(一新会)と村上勇派(一陽会)に分裂した際には船田派に参加する。しかし1971年に村上が旧大野派の大同団結に動くと、これに呼応して船田派から離脱。更に藤山愛一郎派(愛正会)まで包含して水田派(巽会)を結成し、中間派の領袖として影響力を持った(江崎真澄ら藤山派の大部分は水田派に合流したが、藤山と竹内黎一は参加せず無派閥となった)。1975年11月、スペインのフランコ総統の国葬に特派大使として派遣された。
1976年の第34回衆議院議員総選挙で13回目の当選を果たした直後、穿孔性腹膜炎のため[6]急逝する。71歳没。財政実務経験豊富な水田の死去は「巨星堕つ」と形容された。佐藤栄作夫人の佐藤寛子は水田の追悼集で「大蔵大臣といえば、戦前は高橋是清、戦後は水田三喜男」と評している[7]。政治活動のかたわら教育にも強い関心を抱き続け、1965年に城西大学を創立した。
エピソード
- 池田内閣で入閣した頃から額に大仏の様な瘤が出来、一時は水田のトレードマークとして知られ長谷川町子の『いじわるばあさん』でネタにされ[8]たりもしている。ただ、1973年に手術で瘤を切除している。
- 東洲斎写楽をはじめとする浮世絵のコレクターとしても知られ、現在でも城西大学と城西国際大学にそれぞれ建てられた水田美術館でそのコレクションを見ることができる。
- 経団連会長の石坂泰三の「もう、きみには頼まない」という有名な言葉は、水田が蔵相在任中に、石坂の要望の解かり難さを言った際に、浴びせられたものである。
- 1971年8月20日の那須御用邸での昭和天皇への御進講において、水田大蔵大臣が「ニクソンショックに伴う円高によって日本が大変なことになっております」と申し上げたところ、昭和天皇から「円切り上げを国内では非常に暗いことのように言っているが、日本円の評価が国際的に高まり、いいことであると思う。そういう明るい面を国民に知らせる必要があるのではないか。円が高くなるということは日本人の価値が高くなるという意味ではないのか。」との御下問があった。1931年11月に1ドルが2円だったものが、1932年11月には1ドルが5円にまで急激に円安になり[9]、物価上昇で国民が苦しんだことを昭和天皇は経験していたからである。この御下問に水田は返答することができなかった[10][11][12][13]。
家族
文献
- 『蕗のとう 私の履歴書』日本経済新聞社、1971年
- 新版『蕗のとう 水田三喜男自伝』城西大学出版会、2000年
- 『おもひ出 水田三喜男追想集』同刊行委員会、1977年
- 『春光 水田三喜男写真譜』同刊行委員会、1988年
- 『水田三喜男とその時代』城西大学出版会、2015年
- 鈴木健二 『寒椿 水田三喜男伝』城西大学出版会、2015年。著者は元・毎日新聞政治部記者
- 斉藤剛 『大蔵大臣・水田三喜男 その生涯を時代と共に綴る』中央公論事業出版、2016年
脚注
- ^ 『おもひ出 水田三喜男追想集』1977年、767頁
- ^ 当選同期に、小坂善太郎・二階堂進・江崎真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・原健三郎・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など
- ^ 1962年1月19日の演説 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室
- ^ 「自分が引き締め策で国際収支を良くすると、その後で大盤振る舞いしていい子になれるのが福田君であり田中君だ」と語っていたという。水田宗子の人生ノート
- ^ 「水田蔵相が帰国」『朝日新聞』昭和42年(1967年)8月29日夕刊、3版、1面
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)27頁
- ^ 岸本正人「急募『平成の水田』」 『毎日新聞』、2009年12月10日、12版、9面。
- ^ ニクソン・ショックでの日米蔵相会談について会話していたのをふと物忘れし、焼いていた餅が膨らんで水田の瘤を連想して思い出したというもの。
- ^ 戦間期日本の為替レート変動と輸出―1930年代前半の為替レート急落の影響を中心に― 畑瀬真理子、金融研究、p.99, p.100図表2、日本銀行金融研究所、2002年6月
- ^ 知の巨人・渡部昇一に学ぶ「これだけは知っておきたいほんとうの昭和史」 致知出版社、2020年3月19日
- ^ 円安信仰はスペードのエース 国際協力銀行総裁 渡辺博史氏 日本経済研究センター、p.14、2014年4月号
- ^ ニクソン・ショック狂騒劇(第2章) 変動相場制へ移行 取材ノート、松尾好治、日本記者クラブ、2014年4月
- ^ ニクソン・ショック50年:円高恐怖症が招いた「安い日本」 nippon.com、土谷英夫、2021年8月10日
- ^ a b 水田宗子の人生ノート -『偽らず、欺かず、諂わず』「水田三喜男の次女として」 (PDF) 埼玉新聞 水田宗子の人生ノート 2010年1月18日付
外部リンク
- 創立者 水田三喜男(城西大学)
- 城西大学水田美術館・城西国際大学水田美術館 - 水田三喜男の浮世絵コレクションを所蔵する
公職 | ||
---|---|---|
先代 佐藤栄作 福田赳夫 福田赳夫 |
大蔵大臣 第65・66代:1960年 - 1962年 第71・72代:1966年 - 1968年 第75代:1971年 - 1972年 |
次代 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 |
先代 石橋湛山 (臨時代理) |
通商産業大臣 第15・16代:1956年 - 1957年 |
次代 前尾繁三郎 |
先代 小笠原三九郎 |
経済審議庁長官 第5代:1953年 |
次代 岡野清豪 |
議会 | ||
先代 新設 |
衆議院経済安定委員長 1948年 |
次代 小野瀬忠兵衛 |
先代 新設 |
衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員長 | 次代 小沢佐重喜 |
党職 | ||
先代 新設 赤城宗徳 根本龍太郎 倉石忠雄 |
自由民主党政務調査会長 初代:1955年 - 1956年 第14代:1966年 第18代:1970年 - 1971年 第22代:1973年 - 1974年 |
次代 塚田十一郎 西村直己 小坂善太郎 山中貞則 |